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6巻
6-3
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製作開始から三日目。アルディリアは昨夜、俺たちが寝る前には帰ってこられなかった。なんでもギルド職員の不手際で深夜まで駆けずり回っていたそうで、その鬱憤を晴らすようにギルド職員に対する愚痴を鍛冶小屋に向かう道中、ずっと聞かされた。
鍛冶小屋には、笑顔のヴェティスがやはり待っていた。
俺と紫慧は軽く挨拶をしてすぐに鍛冶仕事の準備に取りかかり、見学のために壁際に退いたヴェティスはアルディリアに捕まり、先ほどの俺たちと同じように、昨日の愚痴を聞かされるはめに。炉に火を入れ、準備を整えても、まだヴェティスを離さないアルディリアに、俺は、
「おい! ヴェティスはアリアの愚痴を聞くために来てるんじゃないぞ!!」
と、文句を言う。すると、アルディリアは羞恥で顔を赤くし、自分の口に手を当てて、俺とヴェティスに頭を下げる。そんなアルディリアからヴェティスへと視線を振ると、少しホッとした表情を浮かべ、アルディリアには分からないように、軽く頭を下げていた。
俺は苦笑とともに返礼し、改めて気合を入れるために自分の頬を二回張って、仕事に取りかかる。
成形を終えたジャマダハルに焼き入れ前の整形を施し、刀身全体に厚く焼刃土を盛り、刃先の部分だけ薄くなるように掻き取る。
焼刃土を乾かしたあと、炉でゆっくりと、焼き入れに適した温度までジャマダハルを熱し、使用した各金属鋼と付与した鉱石に宿る精霊たちが形成した繭が光り輝くそのときを待つ。
鞴を動かして風とともに『気』を送り込み、炉内の温度を上げて熱する。次第に精霊の繭は脈動するかのように徐々に明滅を繰り返し、そして――見つめる真眼を眩ませるほど光り輝いた瞬間、一気に水槽の中へ!
濛々と立ち込める水蒸気の中、大きな耳と細長い脚が特徴的な山猫――サーバルがその姿を現した。
優れた聴覚と驚異的な脚力から生み出される跳躍を駆使する名うての狩猟者。そんなサーバルが宿ったことに、俺はニンマリとしつつ整形と砥ぎを施し、最後に仕上げとして握りに韋駄天の梵字を刻み込んだ。
「さて、あとは傑利のところで、砥ぎをかけて拵えを整えてもらえば完成だが、どうだヴェティス、こんなところで……っておいおい、いつまで壁際で固まってるんだ?」
鍛冶小屋の壁際で見学しているヴェティスに声をかける。アルディリアは俺たちの方へ近づいてきていたが、当のヴェティスは、俺の手元にあるジャマダハルを見つめたまま固まっていた。そんなヴェティスに、俺と紫慧は苦笑する。
「ヴェティス!」
「は、はい! なんでしょうか、紫慧さん?」
紫慧の強めの呼びかけに、ビクリと体を震わせて、ジャマダハルから視線を外したヴェティスは、まるで妖刀に魅入られたような表情をしていた。
「ヴェティス、驍廣の鍛えた武具に見惚れるのはいいけれど、気持ちを奪われちゃダメだよ。武具の主はヴェティスの方なんだからね。武具にとっても、魅入られるような弱い主なんて望んでいないんだからね」
「は、はい!」
紫慧の活を入れるような一言に、ヴェティスはジャマダハルに魅入られかけていた自分に気づいたのか、表情を引き締めて深く頷いた。
その反応に、俺も内心ホッと胸を撫でおろし、続けて紫慧の口から発せられる言葉に耳を傾けた。
「『武具は使用者に仕えるもの。武具が使用者の主になってはならない!』――ボクに武具の扱いを教えてくれた師の言葉だよ。武具は、たとえそれがどんなに力を持っているものであっても、単体では何の意味もない。重要なのは、力を持った武具の『主』がどのような心構えでその武具を手にするのかだと、ボクは思うんだ」
この言葉を聞き、俺は刀鍛冶を目指すと宣言した日に、師匠である親父から告げられた、
『刀が「人」を操るようなことがあってはならないし、そのような刀を打ってはならない! そのために刀鍛冶は何十何百と金鎚を振るい、玉鋼(鉄)を鍛えるのだ。「刀を打つ」とは、ただ玉鋼を鍛えて刀の形に成形することではない。作刀を通し、玉鋼に含まれる不純物を打ち除くと同時に、自らの中にある虚栄、虚飾、欺瞞などといった悪しき思いもともに打ち除き、刀が持ち主の助けになることだけを思い、打ち鍛えること。そうすることで初めて、我ら津田の刀鍛冶が目指す刀を打つことができるのだ! そのことを肝に銘じ、津田の名に恥じぬ刀鍛冶になれ!!』
という言葉を、思い出した。俺は親父の訓えを改めて気づかせてくれた紫慧の頭を、感謝の意を込めてグリグリと撫でまわした。
「紫慧、何を偉そうなことを言ってんだ? まあ、紫慧の言う通りなんだがな……。ヴェティス! 紫慧の言った通り、その武具の『主』はお前だ。お前次第でその武具は、単なる『兇器』にも、人々を護る『武具』にもなる。だが俺は、お前が信念を違えることなく、人々を護る武具にしてくれると信じている。だからこそ俺も、そして紫慧も、全身全霊を込めてその武具を鍛えたんだ。堂々と胸を張って、俺たちの鍛えた武具の主になってくれ!」
励ましの意を込め告げると、ヴェティスは、姿勢を正した。
「はい! 驍廣さん、紫慧さん。私、お二人の期待を裏切らないように、この武具の『主』になります。そして、死んでいった仲間たちの分まで、人々を護る立派な冒険者になるように頑張ります!」
この誓いを聞き、俺も紫慧も満足そうに頷いたのだが――
「それだけでは足らんな」
「「「えっ!?」」」
それまで成り行きを見守っていたアルディリアが、少し怒ったような顔でポツリと告げた。その言葉に、ヴェティスだけでなく、俺と紫慧も困惑の声を上げてしまった。
「人々を守る冒険者になるだけでは足らん! ヴェティス、お前は『森の陽光』の長・リデルと約束しただろう。自分自身も幸せにすると。立派な冒険者になるのは結構だが、それより前に、ヴェティスは自分自身を幸せにすることができる大人の女性になれるよう努力せねば。そんなヴェティス自身を守るための武具ではないのか? 違うか、驍!!」
少しドヤ顔で放たれたアルディリアの言葉に、俺は苦笑しつつ肯定のために首を縦に振った。そして、アルディリアと俺の姿にヴェティスは感極まったのか、修練場に続き笑みを浮かべながら涙を流していた……
打ち上げたジャマダハルを大事そうに胸に抱えたヴェティスを伴って、アルディリアは拵えを施してもらうために傑利の工房へ行った。
一方、残された俺と紫慧は、鍛冶小屋の片付けを終えると、その足でスミス爺さんのいる鍛冶場へ向かった。
鍛冶場に続く角を曲がる直前まで、金床に載せた金属鋼を打つ鎚の音が響いていたが、俺と紫慧の視界に鍛冶場が入る距離まで近づいたときには消えていた。
「お疲れ~! 爺さんたちも今日の仕事は終わりか? って、臭っさ!!」
開け放った扉の先に見えたのは、酒気の混じった汗を大量に流し、一仕事やり終えたのか満足げな表情のスミス爺さん。それとは対照的に、金床の前で大金鎚を支えに、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えている赤ら顔のテルミーズだった。
踏み込んだ瞬間に鼻を突いた臭いは、スミス爺さんの体から汗とともに抜け出た四日酔いの酒気だったようだ。
俺と紫慧は、頭に巻いていた布を外して急いで鼻と口を覆い、俺は臭いの元凶である爺さんに、近くの井戸で汗を洗い流してくるように言いつけると、窓から何から全て開け放って、鍛冶場に充満した酒気混じりの空気を追い出す。紫慧はテルミーズに駆け寄ると、肩を貸し、いつも爺さんが腰かけている椅子に座らせた。
「それで! 爺さんは体から出た酒気が鍛冶場内に充満していることにも、テルミーズがその酒気で足元が怪しくなっていることにも気がつかなかったってのか。……そんな状態でよく金属鋼の鍛錬ができたものだ。テルの根性にはある意味感心するよ」
「そうだねえ、よくこんな状態で重い大金鎚を使って相鎚ができたもんだ。でもテル君、キミ、酒気で酔いが回ってきていたことに気がつかなかったの?」
俺たちは、テルミーズの火照った体を冷ますために濡れた布で首筋などを冷やしつつ水を飲ませ、同時に、水浴びをして体から酒気を洗い流してきたスミス爺さんを鍛冶場の土間に正座させ、詰問した。
今までも、アルディリアに付き合って酒を飲みすぎ、二日酔いで鍛冶仕事ができなかったことは何度もあった。だが、さすがに二日酔いならぬ四日酔いになり、体に残った酒気が汗とともに出て炉の熱で蒸発し、鍛冶場内に充満してテルミーズを酔わすなんて事態はなかった。一体どれだけの酒を体内に取り込んだらこんなことになるのか、皆目見当もつかない。
スミス爺さんも完全に酔いから覚めたことで、鍛冶場の状況がどれほど常軌を逸したものだったのかやっと理解したようだ。大きな体を小さく縮こまらせて、申し訳なさそうに俺と紫慧のお小言に耳を傾けていた。
「は~、アルディリアにつられたとはいえ、今回ばかりは爺さんも少々度がすぎたようだな。この際だ、爺さんもアルディリアと同じように闇の節の前日以外は禁酒するか?」
「た、驍廣、後生じゃから、それだけは勘弁してくれ!」
俺が反省させるために口にした言葉に、爺さんは血相を変えた。
「儂にとって鍛冶仕事の後の酒は何よりの楽しみなのじゃ。その楽しみを、老い先短い年寄りから奪わんでくれ。これからは節度を持って酒と付き合うから、頼む、この通りじゃ~」
そう言いながら、土下座までしてしまい……。それ以上爺さんを責めることもできず、俺たち三人は顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
爺さんにテルミーズへ謝罪をさせてから、二人の体調を気遣い帰ろうとしたら――
「おい待て! 驍廣、お主何か話があったのではないのか。お主たちも仕事を終えて顔を出しに来たのじゃろう?」
爺さんが俺たちを呼び止めた。
「う~ん……ちょっと相談をしたいと思ったんだが、爺さんも疲れているだろうし、テルも大変そうだから、明日の朝にでもと……」
「いやいや、聞こうではないか。儂もテルもこれから夕食を取るのじゃ、どうせならばその席でどうじゃ♪」
少し嬉しそうな爺さん。俺が紫慧とテルミーズを見ると、二人とも笑顔で頷いた。
俺たちは鍛冶場を片付け、その足で月乃輪亭の食堂へ向かった。いつもは先に共同浴場で仕事の汗を流してから夕食を取るのだが、まだ酔いの残るテルミーズを共同浴場に連れていくわけにはいかなかった。
食堂に入り、各自好きなものをルナール姐さんに注文する。さすがに爺さんも、今日は酒を頼まなかった。
「実は、明日鍛える武具についてなんだが、ちょっとこれを見てくれないか」
料理が出される前に話を終わらせようと、俺は懐から紙を取り出し、爺さんに手渡した。そこには、優が以前使っていたという武具を、優の話と、とある漫画からインスピレーションを受けて、俺が想像してみたものが描かれていた。爺さんとテルミーズはぐっと顔を近づけて、この絵を見る。
「驍廣さん、これって鉄甲や鉄貫と呼ばれる武具ですか?」
まず声を上げたのはテルミーズだった。鉄甲や鉄貫とは、暗器に分類される武具だ。しかし、『峨嵋刺』や『分銅鎖』のように隠し持っておくものではない。拳に握り込むように持ち、拳打の力をそのまま武具の攻撃力へと転化させて使う。体術が得意な者が剣などと対峙したときに有用な武具の一つだ。
確かに、紙には長さや大きさなどは書かれていないから、パッと見ではそう見えなくもないか……
「テル、これは拳に握り込めるほど小さい武具じゃないぞ。大きさで言ったら、大剣と遜色ないものだ。それで爺さん、こんな形状の武具を知らないか? 知っていたら参考にさせてもらいたいんだが」
絵の武具の大きさを知ったテルミーズは、目を剥いて再び絵を見つめた。一方爺さんは、俺の質問にもう一度絵を見つつ、顎に手をやった。
「そうじゃのお。大体の大きさや形状で言えば、『龍頭大鍘刀』や『龍頭船兵』が思い浮かぶが……この武具の使い方はどう聞いておるのだ?」
「武具の使い方か……それなんだが、優曰く肉厚の剣腹を使って敵の攻撃を防いでおいて、大剣のように一撃で相手を両断するらしい。だからなのか、彼女と立ち合ったとき、俺が彼女の鋭い一撃を躱した途端『自分の負けだ』って言ったよ。それで、爺さんの言う『龍頭大鍘刀』や『龍頭船兵』って武具は、どんなものなんだ?」
優と立ち合ったという俺の言葉に、爺さんは困った顔をした。
「なんじゃ、またやったのか……はあ。まあ、怪我などしていないようじゃからよいわ。それで『龍頭大鍘刀』なんかの使い方じゃが、儂もこの目で見たことはない。じゃが聞いた話によると、朴刀と同じような使い方をするらしい。優とやらが言う、剣腹で相手の斬撃や刺突を防ぐという使い方は難しいかもしれんのお。……待てよ。驍廣! 先ほどテルが絵を見て『鉄貫か?』と言うたが、あながち間違いではないかもしれんぞ!!」
「えっ? 鉄貫が間違いじゃない?」
「そうじゃ! もちろん、大きさなどから言えば全くの別物じゃが、相手の攻撃を防いで反撃するための構造から考えれば、鉄貫とよく似ておる。じゃから、全体的な形状や用途から、超弩級の鉄貫だと考えた方がよいかもしれんぞ!!」
爺さんの言葉に驚いて一瞬思考が止まったが、すぐに鉄貫と絵を比べてみる。掌に握り込むように持つ鉄貫は、斧や鉞から柄を取り外したような形をしている。だが、肉厚の剣身とその側面に付いた持ち手など、構造だけで考えれば、確かに爺さんの言う通りだった。
「爺さん、テル、ありがとう助かったよ♪ 一応、頭の中では色々な構想を膨らませていたんだけど、二人の話を聞いて考えがまとまったよ。実は今日まで、ヴェティスが見守る中で彼女の武具を鍛えていたんだけど、やっぱり使用者の目の前で鍛えるって結構緊張してね。それで明日、この武具を鍛えるときも優が見に来るらしくて、そんな中でこの絵だけを頼りに武具を作るのは、正直自信がなかったんだ。でも、優の前でそんな素振りを見せるわけにはいかないしな。これで、彼女の前で堂々と武具が鍛えられるよ」
笑顔で感謝を伝えると、テルミーズは恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべ、爺さんはドヤ顔ながらも嬉しそうに笑っていた。
「はいはい、話はまとまったかい? それじゃ、ウチの旦那が作った料理を腹いっぱい食べて英気を養っておくれ!」
俺たちの話が一区切りついたのを見計ったように、女将のウルスさんがルナール姐さんとともに料理を運んできてくれた。
「おお! これは美味そうじゃのお。ウルス、気を遣わせたようですまなんだ」
料理を前にして、爺さんはドヤ顔から一変、今にもよだれを垂らしそうになっている。ウルスさんはそんな爺さんにも笑みを返す。
「気にしないでおくれ。スミスの爺様やテル坊にはいつも贔屓にしてもらってるし、驍廣と紫慧はウチの子たちだからね♪」
「そう言ってもらえるのはありがたいのじゃが、ときどき酒宴を開いて大騒ぎもしておるしのお……何か儂らにできることがあったら遠慮せずに言ってくれると嬉しいかのお」
口によだれを溜めながらも、頭を掻きつつそう告げる爺さんに、今度はウルスさんが苦笑を浮かべる。
「そんな風に言われちまうとこっちが恐縮しちまうよ。でも、そうだねえ……そこまで言ってもらえるのなら、ウチの旦那のために包丁を鍛えてもらえないかねえ。今使っている包丁は、毎日砥いでいるもんだから、随分と短くなってきちまっててねえ。そろそろ新しいものに替えたらと言ってるんだが、旦那の包丁は修業時代に羅漢獣王国で手に入れたもので、同じ質のものは天竜賜国じゃなかなか見かけないって言うんだよ。どうも羅漢獣王国には包丁を専門に鍛える『包丁鍛冶』って職人がいて、鍛造で包丁を鍛えてるらしいんだ。武具鍛冶師のスミスの爺様方にお願いするなんてお門違いかもしれないけど、もしよかったら……」
申し訳なさそうなウルスさんに対し、テルミーズが目を剥き、今にも文句を言い出しそうだったが、その口を爺さんは大きな手で塞いだ。
「包丁か……儂は鍛えたことがないのお。そんな儂に、果たしてオルソが納得するものを鍛えられるかどうか……驍廣、お主はどうじゃ?」
「包丁なら何回か鍛えたことがあるよ。もちろん、名人の作に比べたらまだまだだったけど、それなりに使い勝手がいいって言ってもらえたかな」
現世で津田家の家計を支えていた頃のことを思い出しながら答えた。
俺の住んでいた村の隣の県には、刀鍛冶とともに包丁などの打ち刃物を打つ鍛冶師が住んでいた。俺はそんな打ち刃物の鍛冶師のもとを訪ねて教えを乞い、打ち刃物の鍛冶方法を学び、家計の足しにとナイフやら包丁などの製作をしていた。それがいつの間にか、津田家の家計の柱になるまでに盛況となってしまったのは誤算だったが……
爺さんは俺の返答にパシリと膝を叩いた。
「よし、驍廣、では頼んだぞ! オルソと相談して、希望する包丁を鍛えるのじゃ。費用は儂がみるから、気にせずいいものを鍛えるのじゃぞ!!」
と、勝手に話をまとめてしまった爺さんに、俺と紫慧は苦笑する。
「驍廣、いいのかい? 悪いねえ、よろしくお願いするよ♪」
ウルスさんも申し訳なさそうにしつつも、顔は嬉しそうだった。厨房の方に視線を振れば、オルソさんが顔だけ出し、話を聞いていたのか俺に頭を下げ、瞳に喜色を浮かべていた。
その夜、月乃輪亭に戻ってきたアルディリアに、爺さんの言いつけでオルソさんのために包丁を鍛えることになったと告げると、
「それはありがたい! 以前から生産者窓口の方に話は来ていたのだが、なかなかオルソさんのお眼鏡に適う包丁が用意できず、申し訳ないと思っていたのだ。驍が鍛えてくれるのなら、懸案となっていた問題が一つ解決する!」
と、喜んでくれたのだが、すぐに――
「ちょっと待ってくれ。そうなると、明日から始める優に、あと賦楠の武具を鍛え……甲竜街に旅立つ前に驍自身の武具を整えるとして……。う~む、なるべく早く甲竜街に向かってほしいと安劉様からは言われているが……。甲竜街へ旅立つことになれば、翼竜街に戻ってくるのはいつになるか確約ができぬ以上、オルソさんの包丁も鍛えてからでなければ、出立するわけにはいかないか……。仕方ない、安劉様にはワタシが話を通しておく。驍はなるべく早く出立できるよう仕事に精を出してくれ!」
と、発破をかけられてしまった。
その後、翌日使うことになる金属鋼の手配を頼み、いつものように就寝となるはずだった。だがこの日は、仕事を早く切り上げたせいで疲れがなく、なかなか寝付くことができなかった。
布団をかぶり、なんとかして睡魔がやってこないものかと、目を閉じて布団の中でモゾモゾしていると、衝立の向こう側から紫慧とアルディリアのヒソヒソ声が耳に飛び込んできた。
「アリア、お疲れ様。ギルド職員の仕事が遅くまであって大変だね」
「ああ、驍と紫慧の専属職員なったのだから、生産者窓口の仕事は引き継いだ職員に任せてしまってもいいんだが、あとは任せたからワタシは知らないと放っておくのもな……。フェレースには『苦労性だ』などと笑われてしまっているが、これがワタシの性分なのだからしかたない。紫慧こそ、毎日驍の相鎚を打ち続けて、疲れが溜まりはじめているのではないか? 以前に比べると仕事に慣れて力の加減ができるようなってきたとはいえ、気を込めてあの大金鎚を振り下ろしているのだ。適度に休みを取らぬと、また足腰立たぬほど疲れ切ってしまうぞ。疲労の蓄積とは厄介なもので、気づかぬうちに徐々に積み重なり、本人が気づいたときには、少し休んだ程度ではどうにもならない状態にまで悪化していることがあるのだからなあ」
「うん……そうなんだけど、鍛冶仕事を嬉しそうにしている驍廣の表情を見てしまうと、なかなか休みが欲しいなんて言い出せなくて……」
思わず、俺の体はピクリと反応してしまった。
俺は、アルディリアが昼間鍛冶小屋に来ているから、金属鋼や鉱石の調達、鍛えた武具の登録以外の仕事をしていないと思っていたが、それは俺の思い違いだった。アルディリアは俺たちが鍛冶小屋に向かう前にギルドへ行き、生産者窓口の職員としての業務を片付け、俺たちが鍛冶仕事を終わらせた後には再びギルドに戻り、昼間、片付かなかった業務を手伝っていたのだ。
紫慧は紫慧で、毎日の鍛冶仕事で疲労が蓄積しているのに、俺のために言い出せずにいたことを初めて知った。
考えてみれば、アルディリアは俺たちが起きる前にはすでにギルドに向かっており、鍛冶小屋に顔を出すのは俺たちが鍛冶仕事の準備を整えた頃だ。それに、夜は俺が帰ってきたことを知らないほど遅くまでギルドにいるのだから、彼女が仕事をしていることなどすぐに気がつくはずだった。
紫慧にしても、俺の戦鎚に合わせて大金鎚を振るい、金属鋼を打つ相鎚をしてくれているのだ、疲れていないわけがない。
それなのに、今まで気づかないでいたなんて……。俺は自分の不甲斐なさに怒りがこみ上げてきた。
二人のヒソヒソ話をこっそり聞いてしまったことに若干の後ろめたさを感じつつも、このまま布団に潜り込んで聞かなかったことには、どうしてもできなかった。
「ゴホン! あ、あの~紫慧、アリア。二人の話が、耳に飛び込んできてしまったのだが……そのなんというか……すまなかった。俺は仕事のことにばかり目が向いていて、二人のことをちゃんと見ていなかったようだ。俺のわがままに疲れを押して付き合ってくれていたなんて……本当に申し訳ない!」
本来なら、二人の目の前で頭を下げるのが筋なのだが、すでに寝間着に着替えた女性の前に出るのは憚られたので、俺は衝立越しに土下座をした。二人は衝立越しからも分かるほど狼狽え――
「ちょ、ちょっと、アリア、どうしよう、驍廣に話を聞かれちゃったみたいだよ」
「お、落ち着け、紫慧。確かに驍に聞かせたくない話ではあったが、聞かれてしまったのなら仕方がない。それよりも、驍はワタシたちの話を聞いて負い目を感じてるようだ。であれば、この機会を活用しない手はないのではないか?」
「え? 活用?」
「そうだ、よく考えてもみろ。驍は、ワタシと紫慧、それぞれと揃いの腕輪を付けている上に閨をともにしている。それなのに、一向に進展する気配が見られぬではないか!」
「た、確かに……でもそれはボクたち二人と閨をともにしているからじゃ……」
「なるほど。その言にも一理ある……。だが、だからといって今のままでいいわけがなかろう。驍が手を出しづらいというのなら、ワタシたちの方からその一歩を踏み出させるように仕向ければいいのではないか」
「そ、そんな恥ずかしいことを……」
「では紫慧は、驍と友人、もしくは仕事仲間という関係のままでいいというのだな?」
「そんなの嫌だよお……」
「だったら、こちらから動くほかあるまい! 昔からそうなのだ、あの朴念仁は。自分は異性に好かれるはずがないと勝手に思い込み、『私』がいくら気を引こうとしても気づかないふりをして……本当に意気地がないんだから……もお!」
何やらよからぬ相談を始めている……だが、まだ二人から許してもらってない以上、俺から何か言うわけにも行かず、ジッとしていたら、しばらくしてようやくアルディリアが俺に声をかけてくれた。
「驍! 確かに貴男が鍛冶仕事に集中するあまり、ワタシたちのことが見えていなかったのは事実。だが、ワタシたちも貴男が気づくまではと口にしなかったのもまた事実。よって、ワタシたちが貴男を一方的に責めるのも間違いであると思う。そこで提案があるのですが、聞いてもらえるだろうか?」
そう言うとアルディリアは、俺と彼女たちの寝台の間に置かれた衝立に手をかけて、横に動かした。俺は、衝立の向こう側から現れた二人の寝間着姿に目が奪われて……
「ま、まんざら興味がないというわけでもないようだ。ホッとした」
ガン見する俺の視線の先には、寝間着代わりのタンクトップのようなシャツ姿で頬を赤く染めているアルディリアと、俺と同じような修練着を着ているだけの紫慧がいた。
突然、衝立を取り払われたことに紫慧も驚いたらしく、その身を硬直させていたが、俺の視線に気づくと「キャ」っと小さな悲鳴を漏らして、胸元まで布団を掻き上げた。
「な、何するの、アリア!」
「な、何をそんなに恥ずかしがっている。そ、そもそもワタシたちは、驍と閨をともにしているのだ。紫慧だって今のままでは嫌だと言っていたではないか! その手始めに、ふ、不要な衝立を退かしたのだ!!」
アルディリアは平静を装っているつもりのようだが、言葉の端々から動揺する心の動きが表れていた。
「驍! これより衝立は寝台の間ではなく部屋の隅に置き、着替えの際に使いたい者だけ使うことにしたい!!」
「お、おう分かった……」
『分かった』と返したものの、俺は正直よく分かっていなかった。しかし、アルディリアの意を決した表情を目にしてしまうと、他の答えが思いつかなかった。俺の返事に気をよくしたのか、微笑みを浮かべるアルディリアに、ホッと胸を撫でおろした。だが、すぐに次の爆弾が投下される。
「そ、それから、ワタシたちの頑張りを認めたときには、労いの言葉とともに、せ、接吻をすること!」
「ち、ちょっと待て! 労いの言葉は分かるが、接吻もとはなんだ。接吻はそんな軽くするものではないだろう!!」
「そうだよ、アリア! 頑張ったご褒美に接吻だなんて! ……嬉しくないって言ったら嘘になるけど……そこは頭を撫でるとかでいいんじゃない?」
俺と紫慧から否定の言葉が飛ぶと、アルディリアは俺たちをジロリと睨みつけた。
「……さすがに接吻はいきなりすぎたか。……分かった。紫慧の案を採用しよう。驍はワタシたちが頑張ったときには頭を撫でるなど、態度でも示すこと。では、早速実行してもらおう!」
言うが早いか、俺の寝台に跳び移り、胸元に抱きついてくるアルディリア。
「アリア! 抜け駆けは許さないぞ!!」
すぐに紫慧までやって来て俺の両脇に……
美女と呼んで差しつかえない二人に挟まれた俺は、完全に硬直してしまう。緊張で固まった首を無理やり動かし、両脇にピタリとくっついている二人に目を向ける。すると、二人は頭から湯気が出そうなほど真っ赤になった顔で、俺を心配そうに見つめていた。
――これはいかん。対応を間違えたらとんでもないことになるヤツだ……
俺の中にいるもう一人の俺が警鐘を鳴らしていた。もしここで拒否反応を見せようものなら、二人は羞恥にまみれて立ち直れなくなるかもしれない。そこまで行かなくとも、間違いなくこれまでの関係は崩れてしまうだろう。
『毒を食らわば皿までだ!』と覚悟を決め、震える手を二人の頭の上に置いた。その途端、掌にしっとりとした潤いのある滑らかな濡羽色の髪の感触と、フワリとしていながらも張りのある羽毛のような髪の心地よい感触が脳髄に伝わり、ゾクリと身じろぎしてしまった。
俺の反応を、紫慧とアルディリアも敏感に感じ取り、ビクリと体を震わせる。緊張しているのがよく分かった。
俺はこの甘美な感触に惑わされぬように、心の中で般若心経を唱えて己の煩悩を静めながら、ゆっくり撫ではじめると、硬かった二人の体がゆっくりほぐれていった。
再び二人に視線を向ければ、顔を赤くした状態で蕩けたような表情に変わっていた。
そのまましばらく撫でていると、呼吸も落ち着き、穏やかな雰囲気になった。そして、気がついたときには、二人は俺の両脇にくっついたまま満足そうな顔で小さな寝息を立てていた。
これでやっとこの羞恥行為を終わりにできると安堵したのだが、本当の苦行はここから始まった。なぜなら、少しでも二人から離れようと体を動かすと、それを嫌がって一層ピッタリくっついてくるからだ。スヤスヤと気持ちよさそうに寝ている二人を起こすわけにも行かず、かといってピタリとくっつかれては、女性特有の柔らかさと甘い匂いが俺の煩悩を刺激し、いけないところが反応しそうになり……
結局この夜、俺は明け方近く、辺りが微かに白んでくる頃に寝落ちするまで、己の煩悩との長い長い戦いを強いられることとなったのだった。
鍛冶小屋には、笑顔のヴェティスがやはり待っていた。
俺と紫慧は軽く挨拶をしてすぐに鍛冶仕事の準備に取りかかり、見学のために壁際に退いたヴェティスはアルディリアに捕まり、先ほどの俺たちと同じように、昨日の愚痴を聞かされるはめに。炉に火を入れ、準備を整えても、まだヴェティスを離さないアルディリアに、俺は、
「おい! ヴェティスはアリアの愚痴を聞くために来てるんじゃないぞ!!」
と、文句を言う。すると、アルディリアは羞恥で顔を赤くし、自分の口に手を当てて、俺とヴェティスに頭を下げる。そんなアルディリアからヴェティスへと視線を振ると、少しホッとした表情を浮かべ、アルディリアには分からないように、軽く頭を下げていた。
俺は苦笑とともに返礼し、改めて気合を入れるために自分の頬を二回張って、仕事に取りかかる。
成形を終えたジャマダハルに焼き入れ前の整形を施し、刀身全体に厚く焼刃土を盛り、刃先の部分だけ薄くなるように掻き取る。
焼刃土を乾かしたあと、炉でゆっくりと、焼き入れに適した温度までジャマダハルを熱し、使用した各金属鋼と付与した鉱石に宿る精霊たちが形成した繭が光り輝くそのときを待つ。
鞴を動かして風とともに『気』を送り込み、炉内の温度を上げて熱する。次第に精霊の繭は脈動するかのように徐々に明滅を繰り返し、そして――見つめる真眼を眩ませるほど光り輝いた瞬間、一気に水槽の中へ!
濛々と立ち込める水蒸気の中、大きな耳と細長い脚が特徴的な山猫――サーバルがその姿を現した。
優れた聴覚と驚異的な脚力から生み出される跳躍を駆使する名うての狩猟者。そんなサーバルが宿ったことに、俺はニンマリとしつつ整形と砥ぎを施し、最後に仕上げとして握りに韋駄天の梵字を刻み込んだ。
「さて、あとは傑利のところで、砥ぎをかけて拵えを整えてもらえば完成だが、どうだヴェティス、こんなところで……っておいおい、いつまで壁際で固まってるんだ?」
鍛冶小屋の壁際で見学しているヴェティスに声をかける。アルディリアは俺たちの方へ近づいてきていたが、当のヴェティスは、俺の手元にあるジャマダハルを見つめたまま固まっていた。そんなヴェティスに、俺と紫慧は苦笑する。
「ヴェティス!」
「は、はい! なんでしょうか、紫慧さん?」
紫慧の強めの呼びかけに、ビクリと体を震わせて、ジャマダハルから視線を外したヴェティスは、まるで妖刀に魅入られたような表情をしていた。
「ヴェティス、驍廣の鍛えた武具に見惚れるのはいいけれど、気持ちを奪われちゃダメだよ。武具の主はヴェティスの方なんだからね。武具にとっても、魅入られるような弱い主なんて望んでいないんだからね」
「は、はい!」
紫慧の活を入れるような一言に、ヴェティスはジャマダハルに魅入られかけていた自分に気づいたのか、表情を引き締めて深く頷いた。
その反応に、俺も内心ホッと胸を撫でおろし、続けて紫慧の口から発せられる言葉に耳を傾けた。
「『武具は使用者に仕えるもの。武具が使用者の主になってはならない!』――ボクに武具の扱いを教えてくれた師の言葉だよ。武具は、たとえそれがどんなに力を持っているものであっても、単体では何の意味もない。重要なのは、力を持った武具の『主』がどのような心構えでその武具を手にするのかだと、ボクは思うんだ」
この言葉を聞き、俺は刀鍛冶を目指すと宣言した日に、師匠である親父から告げられた、
『刀が「人」を操るようなことがあってはならないし、そのような刀を打ってはならない! そのために刀鍛冶は何十何百と金鎚を振るい、玉鋼(鉄)を鍛えるのだ。「刀を打つ」とは、ただ玉鋼を鍛えて刀の形に成形することではない。作刀を通し、玉鋼に含まれる不純物を打ち除くと同時に、自らの中にある虚栄、虚飾、欺瞞などといった悪しき思いもともに打ち除き、刀が持ち主の助けになることだけを思い、打ち鍛えること。そうすることで初めて、我ら津田の刀鍛冶が目指す刀を打つことができるのだ! そのことを肝に銘じ、津田の名に恥じぬ刀鍛冶になれ!!』
という言葉を、思い出した。俺は親父の訓えを改めて気づかせてくれた紫慧の頭を、感謝の意を込めてグリグリと撫でまわした。
「紫慧、何を偉そうなことを言ってんだ? まあ、紫慧の言う通りなんだがな……。ヴェティス! 紫慧の言った通り、その武具の『主』はお前だ。お前次第でその武具は、単なる『兇器』にも、人々を護る『武具』にもなる。だが俺は、お前が信念を違えることなく、人々を護る武具にしてくれると信じている。だからこそ俺も、そして紫慧も、全身全霊を込めてその武具を鍛えたんだ。堂々と胸を張って、俺たちの鍛えた武具の主になってくれ!」
励ましの意を込め告げると、ヴェティスは、姿勢を正した。
「はい! 驍廣さん、紫慧さん。私、お二人の期待を裏切らないように、この武具の『主』になります。そして、死んでいった仲間たちの分まで、人々を護る立派な冒険者になるように頑張ります!」
この誓いを聞き、俺も紫慧も満足そうに頷いたのだが――
「それだけでは足らんな」
「「「えっ!?」」」
それまで成り行きを見守っていたアルディリアが、少し怒ったような顔でポツリと告げた。その言葉に、ヴェティスだけでなく、俺と紫慧も困惑の声を上げてしまった。
「人々を守る冒険者になるだけでは足らん! ヴェティス、お前は『森の陽光』の長・リデルと約束しただろう。自分自身も幸せにすると。立派な冒険者になるのは結構だが、それより前に、ヴェティスは自分自身を幸せにすることができる大人の女性になれるよう努力せねば。そんなヴェティス自身を守るための武具ではないのか? 違うか、驍!!」
少しドヤ顔で放たれたアルディリアの言葉に、俺は苦笑しつつ肯定のために首を縦に振った。そして、アルディリアと俺の姿にヴェティスは感極まったのか、修練場に続き笑みを浮かべながら涙を流していた……
打ち上げたジャマダハルを大事そうに胸に抱えたヴェティスを伴って、アルディリアは拵えを施してもらうために傑利の工房へ行った。
一方、残された俺と紫慧は、鍛冶小屋の片付けを終えると、その足でスミス爺さんのいる鍛冶場へ向かった。
鍛冶場に続く角を曲がる直前まで、金床に載せた金属鋼を打つ鎚の音が響いていたが、俺と紫慧の視界に鍛冶場が入る距離まで近づいたときには消えていた。
「お疲れ~! 爺さんたちも今日の仕事は終わりか? って、臭っさ!!」
開け放った扉の先に見えたのは、酒気の混じった汗を大量に流し、一仕事やり終えたのか満足げな表情のスミス爺さん。それとは対照的に、金床の前で大金鎚を支えに、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えている赤ら顔のテルミーズだった。
踏み込んだ瞬間に鼻を突いた臭いは、スミス爺さんの体から汗とともに抜け出た四日酔いの酒気だったようだ。
俺と紫慧は、頭に巻いていた布を外して急いで鼻と口を覆い、俺は臭いの元凶である爺さんに、近くの井戸で汗を洗い流してくるように言いつけると、窓から何から全て開け放って、鍛冶場に充満した酒気混じりの空気を追い出す。紫慧はテルミーズに駆け寄ると、肩を貸し、いつも爺さんが腰かけている椅子に座らせた。
「それで! 爺さんは体から出た酒気が鍛冶場内に充満していることにも、テルミーズがその酒気で足元が怪しくなっていることにも気がつかなかったってのか。……そんな状態でよく金属鋼の鍛錬ができたものだ。テルの根性にはある意味感心するよ」
「そうだねえ、よくこんな状態で重い大金鎚を使って相鎚ができたもんだ。でもテル君、キミ、酒気で酔いが回ってきていたことに気がつかなかったの?」
俺たちは、テルミーズの火照った体を冷ますために濡れた布で首筋などを冷やしつつ水を飲ませ、同時に、水浴びをして体から酒気を洗い流してきたスミス爺さんを鍛冶場の土間に正座させ、詰問した。
今までも、アルディリアに付き合って酒を飲みすぎ、二日酔いで鍛冶仕事ができなかったことは何度もあった。だが、さすがに二日酔いならぬ四日酔いになり、体に残った酒気が汗とともに出て炉の熱で蒸発し、鍛冶場内に充満してテルミーズを酔わすなんて事態はなかった。一体どれだけの酒を体内に取り込んだらこんなことになるのか、皆目見当もつかない。
スミス爺さんも完全に酔いから覚めたことで、鍛冶場の状況がどれほど常軌を逸したものだったのかやっと理解したようだ。大きな体を小さく縮こまらせて、申し訳なさそうに俺と紫慧のお小言に耳を傾けていた。
「は~、アルディリアにつられたとはいえ、今回ばかりは爺さんも少々度がすぎたようだな。この際だ、爺さんもアルディリアと同じように闇の節の前日以外は禁酒するか?」
「た、驍廣、後生じゃから、それだけは勘弁してくれ!」
俺が反省させるために口にした言葉に、爺さんは血相を変えた。
「儂にとって鍛冶仕事の後の酒は何よりの楽しみなのじゃ。その楽しみを、老い先短い年寄りから奪わんでくれ。これからは節度を持って酒と付き合うから、頼む、この通りじゃ~」
そう言いながら、土下座までしてしまい……。それ以上爺さんを責めることもできず、俺たち三人は顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
爺さんにテルミーズへ謝罪をさせてから、二人の体調を気遣い帰ろうとしたら――
「おい待て! 驍廣、お主何か話があったのではないのか。お主たちも仕事を終えて顔を出しに来たのじゃろう?」
爺さんが俺たちを呼び止めた。
「う~ん……ちょっと相談をしたいと思ったんだが、爺さんも疲れているだろうし、テルも大変そうだから、明日の朝にでもと……」
「いやいや、聞こうではないか。儂もテルもこれから夕食を取るのじゃ、どうせならばその席でどうじゃ♪」
少し嬉しそうな爺さん。俺が紫慧とテルミーズを見ると、二人とも笑顔で頷いた。
俺たちは鍛冶場を片付け、その足で月乃輪亭の食堂へ向かった。いつもは先に共同浴場で仕事の汗を流してから夕食を取るのだが、まだ酔いの残るテルミーズを共同浴場に連れていくわけにはいかなかった。
食堂に入り、各自好きなものをルナール姐さんに注文する。さすがに爺さんも、今日は酒を頼まなかった。
「実は、明日鍛える武具についてなんだが、ちょっとこれを見てくれないか」
料理が出される前に話を終わらせようと、俺は懐から紙を取り出し、爺さんに手渡した。そこには、優が以前使っていたという武具を、優の話と、とある漫画からインスピレーションを受けて、俺が想像してみたものが描かれていた。爺さんとテルミーズはぐっと顔を近づけて、この絵を見る。
「驍廣さん、これって鉄甲や鉄貫と呼ばれる武具ですか?」
まず声を上げたのはテルミーズだった。鉄甲や鉄貫とは、暗器に分類される武具だ。しかし、『峨嵋刺』や『分銅鎖』のように隠し持っておくものではない。拳に握り込むように持ち、拳打の力をそのまま武具の攻撃力へと転化させて使う。体術が得意な者が剣などと対峙したときに有用な武具の一つだ。
確かに、紙には長さや大きさなどは書かれていないから、パッと見ではそう見えなくもないか……
「テル、これは拳に握り込めるほど小さい武具じゃないぞ。大きさで言ったら、大剣と遜色ないものだ。それで爺さん、こんな形状の武具を知らないか? 知っていたら参考にさせてもらいたいんだが」
絵の武具の大きさを知ったテルミーズは、目を剥いて再び絵を見つめた。一方爺さんは、俺の質問にもう一度絵を見つつ、顎に手をやった。
「そうじゃのお。大体の大きさや形状で言えば、『龍頭大鍘刀』や『龍頭船兵』が思い浮かぶが……この武具の使い方はどう聞いておるのだ?」
「武具の使い方か……それなんだが、優曰く肉厚の剣腹を使って敵の攻撃を防いでおいて、大剣のように一撃で相手を両断するらしい。だからなのか、彼女と立ち合ったとき、俺が彼女の鋭い一撃を躱した途端『自分の負けだ』って言ったよ。それで、爺さんの言う『龍頭大鍘刀』や『龍頭船兵』って武具は、どんなものなんだ?」
優と立ち合ったという俺の言葉に、爺さんは困った顔をした。
「なんじゃ、またやったのか……はあ。まあ、怪我などしていないようじゃからよいわ。それで『龍頭大鍘刀』なんかの使い方じゃが、儂もこの目で見たことはない。じゃが聞いた話によると、朴刀と同じような使い方をするらしい。優とやらが言う、剣腹で相手の斬撃や刺突を防ぐという使い方は難しいかもしれんのお。……待てよ。驍廣! 先ほどテルが絵を見て『鉄貫か?』と言うたが、あながち間違いではないかもしれんぞ!!」
「えっ? 鉄貫が間違いじゃない?」
「そうじゃ! もちろん、大きさなどから言えば全くの別物じゃが、相手の攻撃を防いで反撃するための構造から考えれば、鉄貫とよく似ておる。じゃから、全体的な形状や用途から、超弩級の鉄貫だと考えた方がよいかもしれんぞ!!」
爺さんの言葉に驚いて一瞬思考が止まったが、すぐに鉄貫と絵を比べてみる。掌に握り込むように持つ鉄貫は、斧や鉞から柄を取り外したような形をしている。だが、肉厚の剣身とその側面に付いた持ち手など、構造だけで考えれば、確かに爺さんの言う通りだった。
「爺さん、テル、ありがとう助かったよ♪ 一応、頭の中では色々な構想を膨らませていたんだけど、二人の話を聞いて考えがまとまったよ。実は今日まで、ヴェティスが見守る中で彼女の武具を鍛えていたんだけど、やっぱり使用者の目の前で鍛えるって結構緊張してね。それで明日、この武具を鍛えるときも優が見に来るらしくて、そんな中でこの絵だけを頼りに武具を作るのは、正直自信がなかったんだ。でも、優の前でそんな素振りを見せるわけにはいかないしな。これで、彼女の前で堂々と武具が鍛えられるよ」
笑顔で感謝を伝えると、テルミーズは恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべ、爺さんはドヤ顔ながらも嬉しそうに笑っていた。
「はいはい、話はまとまったかい? それじゃ、ウチの旦那が作った料理を腹いっぱい食べて英気を養っておくれ!」
俺たちの話が一区切りついたのを見計ったように、女将のウルスさんがルナール姐さんとともに料理を運んできてくれた。
「おお! これは美味そうじゃのお。ウルス、気を遣わせたようですまなんだ」
料理を前にして、爺さんはドヤ顔から一変、今にもよだれを垂らしそうになっている。ウルスさんはそんな爺さんにも笑みを返す。
「気にしないでおくれ。スミスの爺様やテル坊にはいつも贔屓にしてもらってるし、驍廣と紫慧はウチの子たちだからね♪」
「そう言ってもらえるのはありがたいのじゃが、ときどき酒宴を開いて大騒ぎもしておるしのお……何か儂らにできることがあったら遠慮せずに言ってくれると嬉しいかのお」
口によだれを溜めながらも、頭を掻きつつそう告げる爺さんに、今度はウルスさんが苦笑を浮かべる。
「そんな風に言われちまうとこっちが恐縮しちまうよ。でも、そうだねえ……そこまで言ってもらえるのなら、ウチの旦那のために包丁を鍛えてもらえないかねえ。今使っている包丁は、毎日砥いでいるもんだから、随分と短くなってきちまっててねえ。そろそろ新しいものに替えたらと言ってるんだが、旦那の包丁は修業時代に羅漢獣王国で手に入れたもので、同じ質のものは天竜賜国じゃなかなか見かけないって言うんだよ。どうも羅漢獣王国には包丁を専門に鍛える『包丁鍛冶』って職人がいて、鍛造で包丁を鍛えてるらしいんだ。武具鍛冶師のスミスの爺様方にお願いするなんてお門違いかもしれないけど、もしよかったら……」
申し訳なさそうなウルスさんに対し、テルミーズが目を剥き、今にも文句を言い出しそうだったが、その口を爺さんは大きな手で塞いだ。
「包丁か……儂は鍛えたことがないのお。そんな儂に、果たしてオルソが納得するものを鍛えられるかどうか……驍廣、お主はどうじゃ?」
「包丁なら何回か鍛えたことがあるよ。もちろん、名人の作に比べたらまだまだだったけど、それなりに使い勝手がいいって言ってもらえたかな」
現世で津田家の家計を支えていた頃のことを思い出しながら答えた。
俺の住んでいた村の隣の県には、刀鍛冶とともに包丁などの打ち刃物を打つ鍛冶師が住んでいた。俺はそんな打ち刃物の鍛冶師のもとを訪ねて教えを乞い、打ち刃物の鍛冶方法を学び、家計の足しにとナイフやら包丁などの製作をしていた。それがいつの間にか、津田家の家計の柱になるまでに盛況となってしまったのは誤算だったが……
爺さんは俺の返答にパシリと膝を叩いた。
「よし、驍廣、では頼んだぞ! オルソと相談して、希望する包丁を鍛えるのじゃ。費用は儂がみるから、気にせずいいものを鍛えるのじゃぞ!!」
と、勝手に話をまとめてしまった爺さんに、俺と紫慧は苦笑する。
「驍廣、いいのかい? 悪いねえ、よろしくお願いするよ♪」
ウルスさんも申し訳なさそうにしつつも、顔は嬉しそうだった。厨房の方に視線を振れば、オルソさんが顔だけ出し、話を聞いていたのか俺に頭を下げ、瞳に喜色を浮かべていた。
その夜、月乃輪亭に戻ってきたアルディリアに、爺さんの言いつけでオルソさんのために包丁を鍛えることになったと告げると、
「それはありがたい! 以前から生産者窓口の方に話は来ていたのだが、なかなかオルソさんのお眼鏡に適う包丁が用意できず、申し訳ないと思っていたのだ。驍が鍛えてくれるのなら、懸案となっていた問題が一つ解決する!」
と、喜んでくれたのだが、すぐに――
「ちょっと待ってくれ。そうなると、明日から始める優に、あと賦楠の武具を鍛え……甲竜街に旅立つ前に驍自身の武具を整えるとして……。う~む、なるべく早く甲竜街に向かってほしいと安劉様からは言われているが……。甲竜街へ旅立つことになれば、翼竜街に戻ってくるのはいつになるか確約ができぬ以上、オルソさんの包丁も鍛えてからでなければ、出立するわけにはいかないか……。仕方ない、安劉様にはワタシが話を通しておく。驍はなるべく早く出立できるよう仕事に精を出してくれ!」
と、発破をかけられてしまった。
その後、翌日使うことになる金属鋼の手配を頼み、いつものように就寝となるはずだった。だがこの日は、仕事を早く切り上げたせいで疲れがなく、なかなか寝付くことができなかった。
布団をかぶり、なんとかして睡魔がやってこないものかと、目を閉じて布団の中でモゾモゾしていると、衝立の向こう側から紫慧とアルディリアのヒソヒソ声が耳に飛び込んできた。
「アリア、お疲れ様。ギルド職員の仕事が遅くまであって大変だね」
「ああ、驍と紫慧の専属職員なったのだから、生産者窓口の仕事は引き継いだ職員に任せてしまってもいいんだが、あとは任せたからワタシは知らないと放っておくのもな……。フェレースには『苦労性だ』などと笑われてしまっているが、これがワタシの性分なのだからしかたない。紫慧こそ、毎日驍の相鎚を打ち続けて、疲れが溜まりはじめているのではないか? 以前に比べると仕事に慣れて力の加減ができるようなってきたとはいえ、気を込めてあの大金鎚を振り下ろしているのだ。適度に休みを取らぬと、また足腰立たぬほど疲れ切ってしまうぞ。疲労の蓄積とは厄介なもので、気づかぬうちに徐々に積み重なり、本人が気づいたときには、少し休んだ程度ではどうにもならない状態にまで悪化していることがあるのだからなあ」
「うん……そうなんだけど、鍛冶仕事を嬉しそうにしている驍廣の表情を見てしまうと、なかなか休みが欲しいなんて言い出せなくて……」
思わず、俺の体はピクリと反応してしまった。
俺は、アルディリアが昼間鍛冶小屋に来ているから、金属鋼や鉱石の調達、鍛えた武具の登録以外の仕事をしていないと思っていたが、それは俺の思い違いだった。アルディリアは俺たちが鍛冶小屋に向かう前にギルドへ行き、生産者窓口の職員としての業務を片付け、俺たちが鍛冶仕事を終わらせた後には再びギルドに戻り、昼間、片付かなかった業務を手伝っていたのだ。
紫慧は紫慧で、毎日の鍛冶仕事で疲労が蓄積しているのに、俺のために言い出せずにいたことを初めて知った。
考えてみれば、アルディリアは俺たちが起きる前にはすでにギルドに向かっており、鍛冶小屋に顔を出すのは俺たちが鍛冶仕事の準備を整えた頃だ。それに、夜は俺が帰ってきたことを知らないほど遅くまでギルドにいるのだから、彼女が仕事をしていることなどすぐに気がつくはずだった。
紫慧にしても、俺の戦鎚に合わせて大金鎚を振るい、金属鋼を打つ相鎚をしてくれているのだ、疲れていないわけがない。
それなのに、今まで気づかないでいたなんて……。俺は自分の不甲斐なさに怒りがこみ上げてきた。
二人のヒソヒソ話をこっそり聞いてしまったことに若干の後ろめたさを感じつつも、このまま布団に潜り込んで聞かなかったことには、どうしてもできなかった。
「ゴホン! あ、あの~紫慧、アリア。二人の話が、耳に飛び込んできてしまったのだが……そのなんというか……すまなかった。俺は仕事のことにばかり目が向いていて、二人のことをちゃんと見ていなかったようだ。俺のわがままに疲れを押して付き合ってくれていたなんて……本当に申し訳ない!」
本来なら、二人の目の前で頭を下げるのが筋なのだが、すでに寝間着に着替えた女性の前に出るのは憚られたので、俺は衝立越しに土下座をした。二人は衝立越しからも分かるほど狼狽え――
「ちょ、ちょっと、アリア、どうしよう、驍廣に話を聞かれちゃったみたいだよ」
「お、落ち着け、紫慧。確かに驍に聞かせたくない話ではあったが、聞かれてしまったのなら仕方がない。それよりも、驍はワタシたちの話を聞いて負い目を感じてるようだ。であれば、この機会を活用しない手はないのではないか?」
「え? 活用?」
「そうだ、よく考えてもみろ。驍は、ワタシと紫慧、それぞれと揃いの腕輪を付けている上に閨をともにしている。それなのに、一向に進展する気配が見られぬではないか!」
「た、確かに……でもそれはボクたち二人と閨をともにしているからじゃ……」
「なるほど。その言にも一理ある……。だが、だからといって今のままでいいわけがなかろう。驍が手を出しづらいというのなら、ワタシたちの方からその一歩を踏み出させるように仕向ければいいのではないか」
「そ、そんな恥ずかしいことを……」
「では紫慧は、驍と友人、もしくは仕事仲間という関係のままでいいというのだな?」
「そんなの嫌だよお……」
「だったら、こちらから動くほかあるまい! 昔からそうなのだ、あの朴念仁は。自分は異性に好かれるはずがないと勝手に思い込み、『私』がいくら気を引こうとしても気づかないふりをして……本当に意気地がないんだから……もお!」
何やらよからぬ相談を始めている……だが、まだ二人から許してもらってない以上、俺から何か言うわけにも行かず、ジッとしていたら、しばらくしてようやくアルディリアが俺に声をかけてくれた。
「驍! 確かに貴男が鍛冶仕事に集中するあまり、ワタシたちのことが見えていなかったのは事実。だが、ワタシたちも貴男が気づくまではと口にしなかったのもまた事実。よって、ワタシたちが貴男を一方的に責めるのも間違いであると思う。そこで提案があるのですが、聞いてもらえるだろうか?」
そう言うとアルディリアは、俺と彼女たちの寝台の間に置かれた衝立に手をかけて、横に動かした。俺は、衝立の向こう側から現れた二人の寝間着姿に目が奪われて……
「ま、まんざら興味がないというわけでもないようだ。ホッとした」
ガン見する俺の視線の先には、寝間着代わりのタンクトップのようなシャツ姿で頬を赤く染めているアルディリアと、俺と同じような修練着を着ているだけの紫慧がいた。
突然、衝立を取り払われたことに紫慧も驚いたらしく、その身を硬直させていたが、俺の視線に気づくと「キャ」っと小さな悲鳴を漏らして、胸元まで布団を掻き上げた。
「な、何するの、アリア!」
「な、何をそんなに恥ずかしがっている。そ、そもそもワタシたちは、驍と閨をともにしているのだ。紫慧だって今のままでは嫌だと言っていたではないか! その手始めに、ふ、不要な衝立を退かしたのだ!!」
アルディリアは平静を装っているつもりのようだが、言葉の端々から動揺する心の動きが表れていた。
「驍! これより衝立は寝台の間ではなく部屋の隅に置き、着替えの際に使いたい者だけ使うことにしたい!!」
「お、おう分かった……」
『分かった』と返したものの、俺は正直よく分かっていなかった。しかし、アルディリアの意を決した表情を目にしてしまうと、他の答えが思いつかなかった。俺の返事に気をよくしたのか、微笑みを浮かべるアルディリアに、ホッと胸を撫でおろした。だが、すぐに次の爆弾が投下される。
「そ、それから、ワタシたちの頑張りを認めたときには、労いの言葉とともに、せ、接吻をすること!」
「ち、ちょっと待て! 労いの言葉は分かるが、接吻もとはなんだ。接吻はそんな軽くするものではないだろう!!」
「そうだよ、アリア! 頑張ったご褒美に接吻だなんて! ……嬉しくないって言ったら嘘になるけど……そこは頭を撫でるとかでいいんじゃない?」
俺と紫慧から否定の言葉が飛ぶと、アルディリアは俺たちをジロリと睨みつけた。
「……さすがに接吻はいきなりすぎたか。……分かった。紫慧の案を採用しよう。驍はワタシたちが頑張ったときには頭を撫でるなど、態度でも示すこと。では、早速実行してもらおう!」
言うが早いか、俺の寝台に跳び移り、胸元に抱きついてくるアルディリア。
「アリア! 抜け駆けは許さないぞ!!」
すぐに紫慧までやって来て俺の両脇に……
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『毒を食らわば皿までだ!』と覚悟を決め、震える手を二人の頭の上に置いた。その途端、掌にしっとりとした潤いのある滑らかな濡羽色の髪の感触と、フワリとしていながらも張りのある羽毛のような髪の心地よい感触が脳髄に伝わり、ゾクリと身じろぎしてしまった。
俺の反応を、紫慧とアルディリアも敏感に感じ取り、ビクリと体を震わせる。緊張しているのがよく分かった。
俺はこの甘美な感触に惑わされぬように、心の中で般若心経を唱えて己の煩悩を静めながら、ゆっくり撫ではじめると、硬かった二人の体がゆっくりほぐれていった。
再び二人に視線を向ければ、顔を赤くした状態で蕩けたような表情に変わっていた。
そのまましばらく撫でていると、呼吸も落ち着き、穏やかな雰囲気になった。そして、気がついたときには、二人は俺の両脇にくっついたまま満足そうな顔で小さな寝息を立てていた。
これでやっとこの羞恥行為を終わりにできると安堵したのだが、本当の苦行はここから始まった。なぜなら、少しでも二人から離れようと体を動かすと、それを嫌がって一層ピッタリくっついてくるからだ。スヤスヤと気持ちよさそうに寝ている二人を起こすわけにも行かず、かといってピタリとくっつかれては、女性特有の柔らかさと甘い匂いが俺の煩悩を刺激し、いけないところが反応しそうになり……
結局この夜、俺は明け方近く、辺りが微かに白んでくる頃に寝落ちするまで、己の煩悩との長い長い戦いを強いられることとなったのだった。
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