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3巻
3-1
しおりを挟むプロローグ 白靄の夢
なぜか、靄のかかったような真っ白い中を、俺は歩いていた。
どこに向かっているんだろう? この真っ白いものは一体何なのだろう?
そんなことを考えながらも、俺の足は止まることなく歩を進めてゆく――突然、靄が晴れ、目の前に広がる景色に、俺は自分の目を疑う。
「ここは……そんな……」
口をついて出た驚きの声。
そこは、俺が生まれ育った南信州の片田舎の寂れた町だった。
急峻な山が両側から迫り、その間にあるわずかな空間に、ひしめき合うように住居が建ち並ぶ、いわゆる『山里』と呼ばれる町。近年では若いものはどんどん都会に流出し、過疎が進んでいたが、それでも俺はこの町が好きだった。
たとえ、『忌児』として冷ややかな視線に晒されていても、俺の周りには、優しい家族と厳しい師匠、そして笑い合える友がいた。
そんな人たちがいるこの町が好きだった。
そう、好きだった……これは過去の話だ。俺は自分の思いを叶えるために、異世界へと渡ったのだ。好きだったこの町を捨てて、好きだった人たちのもとから……
それなのに、俺はこの町を再び歩いている。
これは『夢』だと、すぐに分かった。仕方のないことだったとはいえ、俺の中に残っている『故郷を捨てた』という罪悪感が見せる夢なんだと……
そんな思いを抱いて町中を歩いていると、見慣れた後姿を見つけた。
武道の鍛錬で鍛えられた、余分な脂肪のない、背筋がピンと伸びた背中。後ろで一つに纏められたおさげ髪。
姐鬼こと、津武雅美の後姿だった。
しかし、常ならば歩を進めるたびにおさげ髪が左右へと、軽やかにリズムよく撥ねているのだが、そんないつもの元気な様子は影をひそめている。酷く落ち込みトボトボと歩く姿が、俺は妙に気になった。
その後姿を追いかけるが、いくらも歩かないうちに再び靄に包まれ、雅美の姿を見失ってしまう。
彼女を探して靄の中を進んでいくと、今度は津武道場の離れにある客間の庭に出ていた。
さっきまで町中を歩いていたのに? と不思議に思っていると、急に離れの障子が開け放たれた。そこには、やや白髪の交じった津武の師匠と、振り袖を着た、少し大人になったように見える雅美が並んで座っている。そして向かいには、眼鏡をかけた、いかにも優しそうな風貌の青年が同じく座っていた。
師匠は一言二言喋ると退席した……見合いの席のようだ。
だが雅美は、緊張しているのとは違う、若干影のある表情で下を向いたまま、ずっと押し黙っており、青年は困ったような表情を浮かべていた。
「何をやってるんだ!」と俺が声を上げようとすると、再び靄に包まれてしまう。
これは一体何なのだろう?
いや、夢だとは思うが、こんな沈んだ様子の雅美を一度として見たことがない。雅美に何があったのだろうか……?
三度目の靄が晴れ、次に目に飛び込んできたのは、多くの子供たちに囲まれている雅美だった。
場所は津武道場。道着姿で竹刀を持ち、玉のような汗を流す子供たちの生き生きした姿が、眩しかった。
そんな子供たちに囲まれる雅美は、随分と年を重ね、髪には少し白いものが交じりはじめていた。
子供たちを見つめる瞳はとても優しく温かみがあるが、どこか寂しさも見え隠れする。そう言えば、雅美は高校の頃から、道場に通う子供たちによく稽古をつけていたが、それをずっと続けているのだろう。
稽古が終わり、子供たちは元気に挨拶をして道場を後にする。その姿を見送る雅美は、何だかひどく寂しげで痛々しかった。
俺は思わず、雅美の背中に手を伸ばす。しかし、雅美の姿はまた白い靄にかき消され、見えなくなってしまった。
そして、最後に靄を抜けた先に見えたのは、髪がすっかり白くなり、床に臥している雅美の姿だった。
俺の妹が付添いをしているようだったが、見舞いに来るのは俺の弟と奥さんらしき女性。それに、妹の旦那――ムカつくことに俺の悪友の加瀬だった……お前ら十才以上年齢が離れてるだろう! っていうか加瀬お前、なに俺の妹と結婚してるんだよ! 意外すぎるわ!――と、道場の教え子であろう子供たちくらいだった。
雅美を訪ねてくる家族のような人はいなかった。結局、雅美は生涯一人身を通したのだろうか?
もっとも、俺の家と雅美の家は遠い親戚にあたり、普段の付き合いは家族同様だったから、今の雅美にとって、俺の家族が雅美の家族でもあるのだろう。
年老いた雅美は顔に皺を刻んでいるものの、凛とした雰囲気はいささかも衰えず、表情に美しささえ感じさせた。そして、なぜかとても穏やかな顔をしていた。
夜、周りに人気がなくなると、雅美はまるで俺の姿が見えているかのように、瞳を向け、
「もうそろそろいいかしら……。驍が逝ってからも、私は懸命に生きたわ。お見合いも何回もしたけど、いい人は現れなかった。
……いいえ違うわね。いい人が現れても、私が目を向けなかったのね。だって私、ついつい驍と比べてしまったんだもの。そんなことをしても、何一ついいことなんてないのにね。それで、結局一人を通しちゃった。『俺のせいにするな!』って驍に怒られちゃうかな? でも、私を残して逝っちゃった驍が悪いんだからね。けれど、それももう終わりにしていいかしら。
私、十分生きたと思うの。驍がいない世界をよく頑張って我慢してきたと思う。だから許してね。最後に一つだけ、もし願いが叶うなら、今度はずっと驍と一緒にいられたらいいな……」
そうつぶやくと、静かに呼吸を止め、雅美の姿は靄の彼方へと消えていった……
雅美の独白に呆然とする俺の目の前に、次に現れた光景は陰惨なものだった。
血だらけになって倒れた、背中に二対の翼――コウモリのような皮膜の翼と羽毛に包まれた翼を一対ずつ――を生やした妖人族の夫婦と、傍らに佇む二人の娘らしき少女。
そこへ、魔法使い然とした何人もの人間たちが、被っていたフードを外し、どこか狂ったような表情で迫ってくる。彼らは倒れた二人の妖人族に近付くと、腰からナイフを取り出し、妖人族を『解体』し、ケダモノのように血を浴び、飲みはじめた……
こんなおぞましい光景に、俺は目を逸らしたいのに逸らせない。
両親が狂宴の生贄となっていく光景を目の当たりにしながら、精神が焼き切れてしまったか、ただただその場で佇む少女……。そんな少女にも、狂人たちの手は伸びていく。
彼女の背中にある羽毛に包まれた翼と皮膜の羽、全てを付け根から切り裂き、翼から流れる少女の血液を美味そうに口へと運ぶ狂人たち。
大の大人でも泣き叫ぶであろう行為を受けていながら、少女は何の感情も浮かべず、生き物の残骸と化した両親から目を離さなかった。
ついに、狂人の血まみれの手が少女の喉元に迫り――ナイフが振り上げられた。
俺は思わず、
「やめろー!」
と叫ぶが、夢の中の傍観者にすぎない俺にはどうすることもできない……
そこへ、一陣の風が吹いた。
砂が風に舞い、風が収まると、暴虐の限りを尽くしていた人間たちは全ての動きを止める。そして虚空を見つめる彼らの首が、次々と体から落ち、赤い水を噴き上げた。
そんな中、少女は獅子の頭に人の体を持ったもの(妖獅子人族?)に抱きかかえられていた。
「すまぬ、アルディリア。儂がもっと早く着いていれば、こんなことにはならなかったものを……」
彼のつぶやきとともに抱きしめられた少女は、ようやく感情を取り戻したのか、大声を上げて泣き出した。
獅子頭の人物は、少女を包み込むように抱きしめていたが、不意に俺の方を見て、
「今は儂が責任を持って預かり、信頼できるもののもとへ届けておこう。しかし、時が来たら、そのときは……頼むぞ、この少女と縁深きものよ!」
と、告げたのだった……
◇
「驍廣……」
「驍廣、起きて、朝だよ!」
「驍廣! 起きろ~ぉ!!」
耳元に響く絶叫に、俺は寝床から飛び起きると、声のした方を睨みつける。
すると、紫慧が驚いたような顔をして、俺の顔を覗き込んでいた。
「驍廣が泣いてる……。どうしたの?」
その言葉に、俺は自分の頬に手をやれば、確かに手は濡れていた。
第一章 防具屋巡りをしますが何か!
「痛つつつつぅ~」
紫慧の大声に叩き起こされた俺は、額を押さえながら月乃輪亭の食堂に入る。どうやら昨夜の酒が残っているようで、これが世に言う二日酔いかと、愚にもつかないことを考える。なぜにそんなことを考えているのかと言うと、黙ったまま心配そうな表情を浮かべて俺の後ろをついてくる紫慧が、原因と言えば原因だろう。
まあ、叩き起こした相手が涙で枕を濡らしていたという状況に遭遇すれば、誰だってそんな顔になるはずだ。それでも、何も言わずにいてくれるのは助かる。夢を見て泣いたなんて、ちょっと恥ずかしくて……
だから、俺は二日酔いのことなんかを考えていたのだ。
「ルナールお姐さん、おはようございます。すみません、今日は朝食セット軽めでお願いします」
食堂に着くなり、俺は給仕のルナールお姐さんにお願いする。すると紫慧も、
「ボクは普通盛りの朝食セットをお願いします」
と頼んで俺の向かい側に座るが、
「で!?」
そう何の前振りもなしに問いかけてきたので、面食らってしまった。
「……で!? ってなんだよ?」
「だから、今日の予定だよ。明日か、遅くとも明後日には麗華たちと出かけるんでしょ。だったら用意をしなきゃ。その準備計画は頭にあるんだよねぇ」
一瞬、枕を濡らしていた件についてか? と思ってドキリとしていたから、今日の行動予定を聞いてきたのだと分かり、ホッとした。
「ああ、今日の予定か。そうだなあ、やっぱり野宿の用意もしといた方がいいんだろうな。それと、防具くらいは買っておくべきだろう」
「そうだね、防具は着けていった方がいいよね。魔獣の討伐に同行するんだから、何も防具を着けないってわけにはいかないもんね。あと野宿の道具は、昔旅をしていたって言うスミスお爺さんなら持っているかもしれないから、まずスミスお爺さんに聞いてみようよ。防具屋についても、お爺さんに聞いた方が、やみくもに探すよりいいんじゃない」
紫慧が俺の答えに同意した上で、的確な提案を返してくれたことに感謝しつつ、
「そうだな。じゃ、そんな方向で!」
と、相槌を打ったとき、ルナールお姐さんが朝食を持ってきてくれた。
「はい! 朝食セット軽めと普通盛りね。だけど、昨夜の騒ぎは尋常じゃなかったわね。あんなドンチャン騒ぎは、長年この食堂に勤めているけど初めてよ。途中で泥酔する人は複数出るし、会の主賓は参加者を次から次へと酔い潰すし……貴方、一体何がしたかったの?」
ルナールお姐さんが、ジト目で聞いてくる。俺は若干冷や汗を掻きながら、
「いや、何をと聞かれても……俺、琥珀色した酒を一杯呷ったことは覚えているんだけど、そのあとの記憶が……」
と答えたら、ルナールお姐さんは、
「何!? 貴方、昨夜のことを覚えてないの!? しかも、琥珀色したお酒って、『特級・竜ごろし』じゃない! それを飲んであんな惨状を生み出したの? 呆れたわね……」
と、食堂に響き渡るような声で叫んだ。
そこまで言われると気になるので、俺は昨日のことを振り返ることにした――
――そうか、じゃ出掛けるときには一声かけてくれ、俺も同道するからな。
ドワーフたちとの武具比べに勝利した俺が修練場で麗華に向かってそう言うと、なぜか微妙な雰囲気になった。その場に居合わせたみんなから困ったものを見るような痛い視線を向けられる中、武具比べはお開きに。
『響鎚の郷』の武具鑑定士取締エレナ・モアッレは、翼竜街の領主耀安劉と話があるとかで耀家邸の方へ向かい、翼竜街ギルド職員のアルディリアと麗華と麗華付き侍従として耀家に仕えるレアンは武具登録のためにギルドを目指し、俺はスミス爺さん、紫慧、賢虎のフウ、拵え細工師の曽呂利傑利とともに修練場を後にした。
修練場を出て鍛冶場へと帰る道中、紫慧からは禍々しいオーラが漂っていた。
俺も含め、男ども三人は彼女を遠巻きに黙って眺めることしかできなかった。だが、ついに傑利がその雰囲気に耐えられなくなったのか、
「そ、それでは、この辺で失礼するニャ。また、新たに武具を鍛えたら、いつでも声をかけて欲しいのニャ~」
と、まだ彼の自宅と鍛冶場との分かれ道に差しかかっていないのに、まるで逃げるような速度で去っていった。
その後、スミス爺さんと俺はお互いの腕を小突きながら、どちらがこの状況を改善するのか、燃え盛る炎の中に手を伸ばすのか、牽制しあっていた。
すると、紫慧が不意に立ち止まって振り返り、
「驍廣! さっきの話なんだけど!」
彼女の怒気を孕んだ声に、名前を呼ばれた俺だけでなく、爺さんまでもが背筋をピンと伸ばし、直立不動の姿勢を取ってしまう。
「はっはい! 何でしょうか、さっきの話とは?」
間の抜けた俺の返答に、紫慧は眉間に寄せた皺を一層深くし、苛立ちを隠すことなく、
「さっき麗華に言ってたよねえ。アフターケアだか何だか知らないけど、魔獣の討伐に同行するって話だよ!」
「あ、ああ、魔獣討伐同行の話か? それが何か……」
「ボクも一緒に行くから!」
「へ!?」
「へ、じゃないよ。ボクも一緒に魔獣討伐に同行するって言ってるの!」
紫慧の唐突な発言にアタフタしながら俺は、
「何を言っているのかな紫慧さんは? 別に紫慧さんが一緒に行くことなんてないのではないかと思うのだけれども……大体、俺が一人ついて行って様子を見てくればいいだけのことなんだし……」
慌てて紫慧の申し出を翻意させようとしたが、睨んでくる彼女の瞳に、怒りの炎が立ち上っているのを見て、途中で言葉が止まってしまった。
「何言ってるの! 驍廣がただ見てくるだけで帰ってくるわけがないでしょ。もし突角や風鼬に不具合があれば、そこからは麗華たちには武具を振らせないように、自分が魔獣の相手をしてでも街まで戻ってくるつもりでしょ! そのくらいのことがボクに分からないと思ってるの!!」
と、俺の思惑は全て看破されていた。
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