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1巻
1-2
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「あいわかった! 驍廣殿の身の回りを世話する役を那吒に申しつける。『司命』として与えた名『那吒』を召し上げ、この後は本来の『紫慧紗』に戻し、己の務めを果たすがよい!」
閻魔が告げた。
すると、難陀龍王は、
「では、十日後異世界に発つ際にはまた参ろうかのう、これでも一応八大龍王の筆頭として何かと忙しい身なのでな」
と言い残して、笑顔のまま颯爽と部屋を出ていった。
忙しいのなら、人間一人に構わなくてもよかったんじゃないか?
まぁ、一族の者の不手際から起こったことだから、長としてケジメをつけておきたかったのかもしれないが……
その後、用意された部屋に案内されたのだが、その部屋がまるでホテルのスイートルームのような豪華さ(テレビで見たことしかないけれど、でもそんな感じ)だった。す、すげぇ……
「休む前にお腹へってない?」
部屋に入った途端、――那吒じゃなくて紫慧紗が聞いてくる。
そう言えば、死んでからこっち何も食べてなかったなぁ……でも死者にご飯って? と思いつつも、腹に手を当ててみたら急に腹の虫が鳴りだした。
「死んでも腹はへるんだぁ……」
俺の呟きに、紫慧紗がちょっと呆れ顔になって、
「当たり前じゃない。だから、棺に供物を入れるんだよ。冥府に着くまで空腹にならないようにってね。それに、冥府では現世と同じように、暑ければ汗を掻き、寒ければ凍える。食事もすれば排泄もするし、殴られれば痛いと感じる。現世での五感はちゃんと存在するんだ。五感がないと、現世で犯した行いを悔い改めるために科される『地獄の責め苦』もつらくないから、自分の犯した罪を本当の意味で反省し、来世をよりよい魂で臨むことができなくなってしまうじゃない!」
そのちょっと偉そうな物の言い方に、思わず紫慧紗の頬をつねってしまった。
同時に、なるほど人間死んでも学ぶことは多いなぁ、と感心する。
俺は、涙目になっていた紫慧紗に食事を用意してもらう。一緒に食事をした後、風呂に入って寝ようと思ったのだが、彼女がまだ部屋の中にいる。
「紫慧紗。俺、もう寝たいんだけど……」
「うん? どうぞ、ボクのことは気にしないで寝ていいよ」
いつの間にか『私』が『ボク』になっているけど、これが地か?
「いや、気になるだろう。お前も自分の部屋に戻って休んだらどうだ?」
俺がそう言うと、紫慧紗は申し訳なさそうにモジモジしはじめた。
「ボク、さっき『司命』の職を辞してしまったから、今まで使っていた部屋を使うってわけにはいかないんだ。だからと言って、今から新しくボクのために部屋を用意してもらうのも女給さんたちに悪いし……。悪いけど、今日は部屋の端の方でいいから休ませてもらえない?」
爆弾発言!
いきなり女の子と同衾……いやいや、俺は獣じゃない! ただ単に同じ部屋にいるだけ!! いるだけ……
そう思いつつも、顔が熱くなっているのを感じた。
「は、端って言ってもなぁ……寝具も一つしかないし……」
俺が、そう言い淀むと、
「もちろん贅沢は言わないよ、かける物を持ってくるから、床で寝かせてもらえれば十分だよ」
紫慧紗は、当たり前のように言う。
「ちょ、ちょっと待て! 女の子を床に寝かせるなんて、そんな真似できるかよ! ……分かった。俺がそこのソファーで寝るから、お前は寝具を使え、それから風呂もちゃんと入れよ!」
「えっ! そんなぁ、なんでボクが寝具を使っていいの? おかしいよ!!」
紫慧紗は、驚きの声を上げる。しかし、俺も彼女の言うことを聞くわけにはいかない。
「そんなもこんなもあるか! いいから言う通りにしとけ。閻魔には黙っといてやるから。いいな!」
俺はまだ何か言いたそうにしている紫慧紗を放置し、さっさと寝具から毛布を一枚取ってソファーへと移動し、横になる。
部屋に備えつけられていたソファーは、現世で俺が使っていたせんべい布団より断然フカフカで、あっという間に意識がなくなった。死んでから色々あったせいで、意外と精神的にも肉体(?)的にも疲れていたのかもしれな……Zz。
◇
ボクの確認のミスで、一人の青年を死者にしてしまった。
間違いで死んでしまったので、成仏するために死者を冥界へと導く阿弥陀光が射さず、現世にとどまっている、という報告が冥府にもたらされたから分かったことだ。
慌てた閻魔王様のお言い付けで青年を迎えに行くと、その人『津田驍廣』は死者とは思えないほど強い『気』に溢れていた。
ボクは、初対面の死者に対して少しでも威厳を持って接しなければと思っていた。でも、ボクの態度は礼を欠いていたようで怒られて――驍廣は怒ってないと言ってたけど――いつもの弱虫なボクが出ちゃった。……やっぱりボクって駄目だぁ……
それにしても、驍廣ってすごい!
普通の死者なら、七日はかけないと辿りつけない冥府までの行程を、たった一日で。
しかも、途中の三途の川を、脱衣婆や懸衣翁と喧嘩したからって、渡し船に乗らずに泳いで渡るなんて……
ボクは馬に乗っていたから大丈夫だったけど、その馬はヘトヘトになってたし、驍廣って本当に死者?
閻魔王様に会ったときだってそうだ。死者は、本来なら閻魔王様の冥気で平伏してしまうはずなのに、平然としていた。
しかも、一緒に難陀龍王様もいたから、龍王様の龍気にもさらされていたのに平気みたい。
こんな人間に会ったことがない。
でも、難陀龍王様はなぜいらしてたの? もしかして、ボクの失態を知って……
閻魔王の話を聞いて、ボクのせいで自分が死んだと知った驍廣……恐かったぁ。
ランランと光る赤い目、その背には炎の後光が見えて……あの後光は不動明王様の伽楼羅焔みたいだった。でも、人間の驍廣の背になんで伽楼羅焔が?
結局、驍廣は異世界に行くんだ……せめて、それまでのお世話くらいはしないと!
そう言えば、どうして難陀龍王様はボクが驍廣のお世話をすると申し出たら嬉しそうにしてたんだろう?
まぁいいか、これからしっかりお世話しなくちゃ!
お部屋にお連れして休むってときに、驍廣から寝具を譲られて……男の人にこんなことしてもらったの初めて……何だか嬉しいな。
でも、これに甘えちゃダメだ! 明日からきちんとお世話しなくちゃ……
◇
「う゛~よく寝たぁ」
昨日は色々あったから、すぐにぐっすりと寝てしまったようで、清々しい目覚めを迎えた。大きく伸びをしながら真上を見ると、いつもの天井と違うことに気付く。
ここが俺の部屋じゃなくて、昨日から厄介になっている冥府の一室だということを改めて思い出した。
「やっぱり死んだんだぁ、俺……」
つい、心の内が口をついて出る。
まぁ仕方ないなぁ。寝て起きたら夢でしたってわけでもないから……
何となく気分が下がり気味になりそうだったので、俺は気合を入れるために頬を両手で強く叩いた。
しんみりしていても始まらない! 昨日の閻魔の話だと、あと九日間はここに滞在することになる。
滅多にない機会に恵まれたんだと思って、冥界探検とでも洒落こもうか!
そう思い、ソファーから上半身を起こすと、寝具の上にはまだ寝ているヤツがいた。
「『お世話します!』って啖呵を切った割にはお寝坊さんだな、コイツ……」
俺は独り言を呟きつつ、近付くと悪戯をしてしまいそうだったので、そのまま見なかったことにして部屋を出た。
現世では毎朝の稽古として、ランニングに素振りやシャドーボクシングなんかをやっていたから、起きると体を動かしたくなる。
紫慧紗が起きてこないことには朝飯にもありつけそうにないので、向こうが俺を探しに来るまでは冥府内の探訪と行きますか!
一人テクテク歩いていると、遠くから気合の入った掛け声や、木と木が打ち合うような懐かしい音が聞こえてきた。
その音は、昨日の裁きの間よりも広そうな部屋からのものだった。扉が開いていたので、ヒョイっと覗くと、赤や青に黄色や黒といった、色とりどりの鬼たちが大きな声を出して稽古をしている。
空手か相撲のような徒手空拳術で立ち合う者や、杖術か棒術なのか木の棒で打ち合う者。それぞれが思い思いに汗を流していた。
「驍廣殿、おはよう。朝早くから、鬼たちの稽古の見学かね?」
いきなり背後から声をかけられ振り向くと、部屋の中で汗を流している鬼たちと同じような胴着を着た閻魔が立っていた。
「閻魔か! おはよう。驚かさないでくれよ、ところでこれは何の稽古なんだ?」
「おぉ、すまなんだ。驚かすつもりはなかったんだが、夢中になって見ておったようだな。これは捕縛術、護身術の稽古だよ。最近は、地獄の亡者どもが昔とは比べものにならぬほど欲望が強くなっておってな、何か気に入らないことがあると平気で逆らって、暴力に訴えてくる輩が増えておるのだ。本来、鬼と亡者では基礎体力や膂力が違うから滅多なことは起きないのだが、亡者といえど、徒党を組んで暴れるとなると、なかなかに厄介でな。鬼たちは、何が起きても対処できるようにと日頃から稽古をし、体を鍛えておるのだよ。まぁ、何にせよ朝飯の前の一汗というのは、なかなか気持ちがいいものだぞ。お主もやってみるか?」
閻魔の誘いに、俺は気持ちが弾む。
「おっ、いいの! 俺も現世じゃ毎朝、朝飯前に必ず武術の稽古をしていたから、鬼たちの稽古風景を見ていたら、体を動かしたくなってウズウズしていたところだ!」
俺の言葉に、閻魔は嬉しそうに頷く。
「ほぉ、そうか。ではともに参ろう!」
閻魔はそう言って俺の背中を押すように、鬼たちが稽古をしている部屋の中に入っていった。
俺たちが部屋に入ると、稽古をしていた鬼たちは動きを止め、閻魔に向かって一礼する。だが同時に、一緒にいる俺を見て怪訝な表情をうかべていた。
まぁ無理もないだろう。俺は死者なんだから。
部屋の一番奥に来たとき、閻魔は俺のことを見て動きの止まっている鬼たちに気付き、怒鳴りつけた。
「これ! 何を見ておる、稽古を続けんか!」
鬼たちは、閻魔の声で再び稽古に戻るのだが、どうにも俺のことが気になって仕方がないのか、なかなか稽古に身が入らないようだ。
そこへ、俺よりも頭一つ分以上背が高く、胸回りも倍近くありそうな、筋骨隆々とした赤鬼が閻魔の前に進み出た。
「閻魔王様、その隣にお連れになっている者は一体……死者ではないのですか?」
鬼たちを代表して声を上げたのだろう。その問いに対して閻魔は、どう説明すればいいのか困ったようで、
「う~ん、死者と言えば死者なのだが……死者ではないとも言えるしのぉ……」
なんとも歯切れが悪い。すると、赤鬼が、
「死者ならば、早々に地獄なり極楽なりへ送りませんと。何でしたら私が連れていきますが?」
そう言うと、閻魔の許可が出たら即座に俺を捕らえられるよう身構える。その姿を見た閻魔は、首を横に振った。
「いやいや、その必要はない。この者は言わば儂の客だ。仔細は言えぬが、今日から九日間冥府に滞在する。皆も見知り置け、いいな。儂の客人だ、くれぐれもことを荒立てるような真似はせぬようにな!」
赤鬼だけでなく、稽古をしている鬼たち全員に聞かせるかのごとく告げる。
「そうですか……わかりました……」
赤鬼はしぶしぶ引き下がり、それを合図に、鬼たちの稽古は再開されたが、まだチラチラと俺のことを見ている。
閻魔が言ったから引き下がったが、釈然としないのだろう。『閻魔! 教育がなってないぞ!!』と思いつつも、もめそうなので、この場では何も言わないでおく。
見ているだけではしょうがないので、俺も稽古を始めることにした。
閻魔に稽古着(袖のない空手着のような服)を借り、現世でしていた朝稽古と同じようにストレッチをしてから、部屋の外周を走る。
走りながら稽古をする鬼たちの動きを見ていて分かったのだが、俺は鬼たちと比べて決して弱くはないだろう。たとえ戦っても、そう簡単に負けはしないのではないだろうか。
薄らと汗を掻いて体がほぐれると、シャドーボクシングを行う。黙々と、部屋の隅でステップを踏みながらジャブ、ストレートをくりかえす。
「おい! そんな端にいないで、こっちへ来てやったらどうだ!」
でっぷりと太った黒鬼と、それとは対照的な痩せノッポの青鬼が、嫌らしいにやけた顔で近寄ってきた。
どこにもいるんだな、こんなお約束なヤツら。こういうのは、相手にしないに限る。
だが、相手はそれが気にくわなかったらしく、
「無視すんじゃねぇよ、閻魔王様が『客』だと仰るから親切で声かけてやってんだからよぉ」
黒鬼がそう言いながら、俺の肩を掴もうと腕を伸ばしてきた。俺はその腕をかわし、
「すみません、気付きませんでした。俺は部外者ですから、皆さんのお邪魔にならないように、端の方を使わせてもらえれば十分ですので、お気になさらずに」
とりあえず波風立たないような対応を取る。しかし、それが自分たちに恐れを抱いていると勘違いさせたらしく、より一層高圧的になり、
「いいから、真ん中の方でやろうや。俺たちがお相手してあげるからよぉ」
ニタニタしつつ、なおも絡んでくる黒鬼。イラっとするけどここは我慢、我慢……
「そうだぜ。そんな隅っこで盆踊りみたいなことしてないで、俺たちが稽古つけてやるからよ」
黒鬼と一緒になって青鬼まで絡んでくる……まだ我慢だぞ。
「いえ、そんな、悪いですから、自分にお気使いなく。どうぞご自身の稽古にお戻りください」
平身低頭で何とかやり過ごそうとする俺。だが――
「ゴチャゴチャ言ってねぇで、こっちに来りゃいいんだよ」
黒鬼と青鬼二人がかりで、無理やり部屋の中央へ引きずり出そうとする。
うん! もう我慢しなくてもいいよな!
慌てて二人を止めようとする閻魔を、俺は睨んで制止し、さも怯えて困っているかのような顔で連れていかれるのに任せる。
その様子を周りの鬼たちは、ちょっと面白い余興が始まった、という顔で眺めていた。
唯一、閻魔に俺のことを聞いてきた赤鬼だけが、剣呑な顔付きで俺を見ていた。
「さぁて、そんなに怯えなくてもいいぞ。最初はオレは手を出さないから、ほら一発この腹に拳を入れてみろ!」
俺を部屋の中央に連れ出した黒鬼は、その太鼓腹を撫でながら俺を促す。
「そんなぁ……申し訳ないですよ」
とりあえず下手に出ておく。
「いいから早くかかって来い」
「本当にいいんですかぁ?」
「さっさとしろ!」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
得意げな顔の黒鬼にしっかり確認した後、その場で軽くステップを踏んで、一気に懐へ。
黒鬼の右斜め前に飛び込み、斜め下から、左フックを右腹側の肝臓めがけ放つ。
俺の左拳は、黒鬼の腹部を抉るように的確に肝臓をとらえた。
打ち終わりに追撃を受けないよう、素早くバックステップで後方に下がり、残心。その後ゆっくりと構えを解き、黒鬼に背を向けて元の場所へ戻る。後ろで「ゴハッ!」と何かを吐き出すような声と、黒鬼が床に膝をついたであろう音がした。
俺はそれを聞いてから振り向き、おもむろに一礼する。
茫然とする鬼たちと「やらかしおった……」と困ったような顔で俺を見つめる閻魔。
数瞬後、面白い見せ物を見ているつもりでいた鬼たちは、慌てて黒鬼のもとに駆け寄り、気絶しているのを確認すると、複雑な表情を浮かべた。そんな中、黒鬼と一緒に絡んできた痩せ青鬼が、俺に向き直り、
「てめぇ、何しやがったぁ!」
と、怒声を上げる。
「いやぁ、かかって来いって言うから、言われた通りに腹へ一発入れただけですが……いけませんでしたぁ?」
「なっ、この野郎!」
俺の白々しい態度に、痩せ青鬼が棒を両手で持って、打ち込んできた。
俺は、慌てず今度は古武術の足捌きで青鬼の打ち込みをかわす。
十数回の打ち込みをかわし、青鬼の動きが鈍くなったところを見計らって、ヤツの手と手の間から棒を右手で掴み、左手で痩せ青鬼の手に手刀を入れ、その棒を奪取。すかさず青鬼の喉元に棒の先端を突きつけ、
「で、まだ続ける?」
そう言いながら睨む俺に、青鬼も最初は睨みかえしていたが、徐々に瞳が揺れ、やがてガックリと膝を落とした。
「お見事! いやーいいものを見させてもらった。某、赤鬼の宇羅と申し、この修練場を牛頭様からお預かりしている者だ。そなたの名をお聞かせいただいてもいいかな?」
その場から離れようとする俺に、先程の赤鬼が声をかけて来た。
「俺は、津田驍廣。一応死者ってことになるのかな。昨日こちらに到着して、数日の間、冥府に逗留することになっている」
「うむ! 先程、閻魔王様も数日間冥府に逗留すると仰られたな……なるほど。津田殿、今の立ち合いは素晴らしいものだった。呑鬼、蚤鬼にもいい勉強になっただろう。それでだ、ついでと言っては何だが、某とも手合わせを願えぬか?」
「いや、さっきは相手が俺のことを見くびってくれてたから、その意表を突かせてもらっただけなんだが……もっとも、アンタにははなから通用しないだろうな。アンタ相当強いだろ?」
渋る俺に、宇羅と名乗った赤鬼は不敵な笑みを浮かべた。
「そうか……しかし、某の申し出を断っても、次から次へと他の者からの誘いがあると思うが……。それでよければ仕方ない、諦めるとしよう。これでも某は、今この修練場にいる者の中では一目置かれている。某と立ち合ってもらえれば、他の者たちも納得し、新たに挑戦する者は随分減ると思うのだがな」
周りに視線を振ると、俺と宇羅を取り囲むように鬼たちがいた。彼らは何がそんなに嬉しいのか、ちょっと笑みを浮かべ、目をランランと輝かせながら今にも挑戦を申し出ようとしている。
その鬼たちの後ろで、俺だけに分かる形で閻魔が謝罪のつもりなのか、顔の前で手を合わせていた。
「は~ぁ、鬼って好戦的というか、力のありそうな者に挑むことが好きなのか……。分かったよ、アンタと手合わせをすればいいんだな」
諦めの境地で肩を落とし、渋々了承の言葉を俺が告げると、
「おぉ! そうか!! 受けてくれるか! では早速始めるとしよう。津田殿の得物は何がいいかな? なんなら、その腰の得物を使ってもらっても某は一向に構わん。もっとも某は『無手』にてお相手いたすが……」
「無手? 徒手空拳ってことか。無手の相手に、脇差を使うわけにもいかないだろ。それに、武具を使うより危なくないし。じゃあお互い無手で」
そう言いながら、俺は腰に差していた脇差を閻魔へと放り投げる。閻魔はその脇差をお手玉しつつも、懐に抱え込んだ。
「そうか……。では!」
宇羅のかけ声で、部屋の中が一気に緊張感に包まれる。
この宇羅って鬼、さっきの二人とは違う。
体から発せられる気迫が全く異なっている。ついでに、なんかユラユラと湯気のようなものも溢れているし……あれって『気』かな?
これは、俺も注意してかからないと大怪我するかも。気合を入れ直し、丹田に力を込めて、呼吸とともに力を練る。
ゆっくり構えをとりながら、練った力を全身に行き渡らせる。五感を研ぎ澄まし、力が偏らないようにリラックスをする。自然体というやつだ。
体を速く動かしたければ、四肢に力を入れるのではなく、行き渡らせるだけにとどめるが上策、とは武術の師匠の口癖だった。
「お互い用意は整ったようだな。参る!」
開始の言葉をその場に残し、宇羅が空気を切り裂き、突きを放ってくる。
俺は、宇羅が繰り出して来た突きを、右腕を手から肘にかけて螺旋を描くように捻りながら払いのけ、そのまま裏拳へと繋げる。
俺の裏拳を、宇羅は左腕で受け止める。
宇羅に阻まれた裏拳を戻すために右腕を引く。同時にその回転運動を利用し、続けざまに左ストレートを放つ――が、宇羅は拳が当たる寸前で距離を取り、回避した。
「やっぱ、アンタかなりの使い手だねぇ。普通なら裏拳の時点で終わるのに、次の左突きまで難なくかわすなんて」
俺が、一呼吸入れながら宇羅の動きを褒めると、
「いやぁ~津田殿こそ、某の突きを払いのけるとは、なかなかどうして侮れぬ。しかも、あの動きは初めて見る払いの動きだが?」
興味津々といった口調で尋ねてくる宇羅。
「あぁ、あれは非力な人間が、武器を持った者に対応するために編み出したものでね。俺の習った武術じゃ、払い技の基本であり真髄なんだと、師匠がよく口にしていたよ」
「そうであったか、人間たちの武術にも学ぶ点が多いようだな。さて、それでは続きはどのような武を見せてくれるか楽しみだ!」
宇羅が、不敵な笑みのお手本のような表情を浮かべる。
「ご期待に添えますかどうか」
俺も傲岸不遜に見えるであろう笑みを返す。
次の瞬間、示し合わせたように、お互いの懐へと飛び込んだ。宇羅は上段蹴りを放つ。俺はダッキング(膝を使って体勢を低くし、頭部への打撃をかわす、ボクシングのテクニック)をした後、体を戻しながら、左ボディアッパーを放つ。
宇羅は上段蹴りを放った動きをそのまま利用し、回転しながら後方に半歩下がる。そして、俺のアッパーの打ち終わりを狙って、今度は膝蹴りを打つ。
俺は、膝蹴りを手で受け止め、その勢いを使って後方に飛び、距離を取った。
俺が距離を取ったことで間が生まれる。周りで見ていた鬼たちから溜息が漏れた。どうも、この攻防に息つく暇がなかったようだが、既に俺と宇羅は、次の行動を取るべく予備動作に入っている。
宇羅は、また間合いを詰めるため、その場を蹴った。俺は今まで漫画で見て練習していた技を試すべく、より一層丹田に力を蓄える。突きを放とうとする宇羅に対し、足から腰、胸、肩、腕と螺旋を描くように動かしつつ、その力とともに、丹田に蓄えた力をも腕に集め、掌底から解放する。
俺の掌底と宇羅の拳が接触する瞬間、空気の破裂するような音が響き、俺たちはお互いに部屋の端まで吹っ飛んだ。
俺は空中で一回転して無事に着地できたが、一気に力を解放した余波で指先などが震えていた。
この技は、やっぱり漫画だから成立するのかも。使いこなすにはまだまだ鍛練が足りないと反省した。そして、反対側に飛んでいった宇羅へと視線を向ける。
宇羅は大きな音を立てて倒れたが、何でもないというようにまたスクッと立ちあがり、嬉しそうに笑っていた。多分、俺も同じような顔をしていると思う。
再び部屋の中央に走り寄り、お互い突きを繰り出す俺と宇羅だが――
閻魔が告げた。
すると、難陀龍王は、
「では、十日後異世界に発つ際にはまた参ろうかのう、これでも一応八大龍王の筆頭として何かと忙しい身なのでな」
と言い残して、笑顔のまま颯爽と部屋を出ていった。
忙しいのなら、人間一人に構わなくてもよかったんじゃないか?
まぁ、一族の者の不手際から起こったことだから、長としてケジメをつけておきたかったのかもしれないが……
その後、用意された部屋に案内されたのだが、その部屋がまるでホテルのスイートルームのような豪華さ(テレビで見たことしかないけれど、でもそんな感じ)だった。す、すげぇ……
「休む前にお腹へってない?」
部屋に入った途端、――那吒じゃなくて紫慧紗が聞いてくる。
そう言えば、死んでからこっち何も食べてなかったなぁ……でも死者にご飯って? と思いつつも、腹に手を当ててみたら急に腹の虫が鳴りだした。
「死んでも腹はへるんだぁ……」
俺の呟きに、紫慧紗がちょっと呆れ顔になって、
「当たり前じゃない。だから、棺に供物を入れるんだよ。冥府に着くまで空腹にならないようにってね。それに、冥府では現世と同じように、暑ければ汗を掻き、寒ければ凍える。食事もすれば排泄もするし、殴られれば痛いと感じる。現世での五感はちゃんと存在するんだ。五感がないと、現世で犯した行いを悔い改めるために科される『地獄の責め苦』もつらくないから、自分の犯した罪を本当の意味で反省し、来世をよりよい魂で臨むことができなくなってしまうじゃない!」
そのちょっと偉そうな物の言い方に、思わず紫慧紗の頬をつねってしまった。
同時に、なるほど人間死んでも学ぶことは多いなぁ、と感心する。
俺は、涙目になっていた紫慧紗に食事を用意してもらう。一緒に食事をした後、風呂に入って寝ようと思ったのだが、彼女がまだ部屋の中にいる。
「紫慧紗。俺、もう寝たいんだけど……」
「うん? どうぞ、ボクのことは気にしないで寝ていいよ」
いつの間にか『私』が『ボク』になっているけど、これが地か?
「いや、気になるだろう。お前も自分の部屋に戻って休んだらどうだ?」
俺がそう言うと、紫慧紗は申し訳なさそうにモジモジしはじめた。
「ボク、さっき『司命』の職を辞してしまったから、今まで使っていた部屋を使うってわけにはいかないんだ。だからと言って、今から新しくボクのために部屋を用意してもらうのも女給さんたちに悪いし……。悪いけど、今日は部屋の端の方でいいから休ませてもらえない?」
爆弾発言!
いきなり女の子と同衾……いやいや、俺は獣じゃない! ただ単に同じ部屋にいるだけ!! いるだけ……
そう思いつつも、顔が熱くなっているのを感じた。
「は、端って言ってもなぁ……寝具も一つしかないし……」
俺が、そう言い淀むと、
「もちろん贅沢は言わないよ、かける物を持ってくるから、床で寝かせてもらえれば十分だよ」
紫慧紗は、当たり前のように言う。
「ちょ、ちょっと待て! 女の子を床に寝かせるなんて、そんな真似できるかよ! ……分かった。俺がそこのソファーで寝るから、お前は寝具を使え、それから風呂もちゃんと入れよ!」
「えっ! そんなぁ、なんでボクが寝具を使っていいの? おかしいよ!!」
紫慧紗は、驚きの声を上げる。しかし、俺も彼女の言うことを聞くわけにはいかない。
「そんなもこんなもあるか! いいから言う通りにしとけ。閻魔には黙っといてやるから。いいな!」
俺はまだ何か言いたそうにしている紫慧紗を放置し、さっさと寝具から毛布を一枚取ってソファーへと移動し、横になる。
部屋に備えつけられていたソファーは、現世で俺が使っていたせんべい布団より断然フカフカで、あっという間に意識がなくなった。死んでから色々あったせいで、意外と精神的にも肉体(?)的にも疲れていたのかもしれな……Zz。
◇
ボクの確認のミスで、一人の青年を死者にしてしまった。
間違いで死んでしまったので、成仏するために死者を冥界へと導く阿弥陀光が射さず、現世にとどまっている、という報告が冥府にもたらされたから分かったことだ。
慌てた閻魔王様のお言い付けで青年を迎えに行くと、その人『津田驍廣』は死者とは思えないほど強い『気』に溢れていた。
ボクは、初対面の死者に対して少しでも威厳を持って接しなければと思っていた。でも、ボクの態度は礼を欠いていたようで怒られて――驍廣は怒ってないと言ってたけど――いつもの弱虫なボクが出ちゃった。……やっぱりボクって駄目だぁ……
それにしても、驍廣ってすごい!
普通の死者なら、七日はかけないと辿りつけない冥府までの行程を、たった一日で。
しかも、途中の三途の川を、脱衣婆や懸衣翁と喧嘩したからって、渡し船に乗らずに泳いで渡るなんて……
ボクは馬に乗っていたから大丈夫だったけど、その馬はヘトヘトになってたし、驍廣って本当に死者?
閻魔王様に会ったときだってそうだ。死者は、本来なら閻魔王様の冥気で平伏してしまうはずなのに、平然としていた。
しかも、一緒に難陀龍王様もいたから、龍王様の龍気にもさらされていたのに平気みたい。
こんな人間に会ったことがない。
でも、難陀龍王様はなぜいらしてたの? もしかして、ボクの失態を知って……
閻魔王の話を聞いて、ボクのせいで自分が死んだと知った驍廣……恐かったぁ。
ランランと光る赤い目、その背には炎の後光が見えて……あの後光は不動明王様の伽楼羅焔みたいだった。でも、人間の驍廣の背になんで伽楼羅焔が?
結局、驍廣は異世界に行くんだ……せめて、それまでのお世話くらいはしないと!
そう言えば、どうして難陀龍王様はボクが驍廣のお世話をすると申し出たら嬉しそうにしてたんだろう?
まぁいいか、これからしっかりお世話しなくちゃ!
お部屋にお連れして休むってときに、驍廣から寝具を譲られて……男の人にこんなことしてもらったの初めて……何だか嬉しいな。
でも、これに甘えちゃダメだ! 明日からきちんとお世話しなくちゃ……
◇
「う゛~よく寝たぁ」
昨日は色々あったから、すぐにぐっすりと寝てしまったようで、清々しい目覚めを迎えた。大きく伸びをしながら真上を見ると、いつもの天井と違うことに気付く。
ここが俺の部屋じゃなくて、昨日から厄介になっている冥府の一室だということを改めて思い出した。
「やっぱり死んだんだぁ、俺……」
つい、心の内が口をついて出る。
まぁ仕方ないなぁ。寝て起きたら夢でしたってわけでもないから……
何となく気分が下がり気味になりそうだったので、俺は気合を入れるために頬を両手で強く叩いた。
しんみりしていても始まらない! 昨日の閻魔の話だと、あと九日間はここに滞在することになる。
滅多にない機会に恵まれたんだと思って、冥界探検とでも洒落こもうか!
そう思い、ソファーから上半身を起こすと、寝具の上にはまだ寝ているヤツがいた。
「『お世話します!』って啖呵を切った割にはお寝坊さんだな、コイツ……」
俺は独り言を呟きつつ、近付くと悪戯をしてしまいそうだったので、そのまま見なかったことにして部屋を出た。
現世では毎朝の稽古として、ランニングに素振りやシャドーボクシングなんかをやっていたから、起きると体を動かしたくなる。
紫慧紗が起きてこないことには朝飯にもありつけそうにないので、向こうが俺を探しに来るまでは冥府内の探訪と行きますか!
一人テクテク歩いていると、遠くから気合の入った掛け声や、木と木が打ち合うような懐かしい音が聞こえてきた。
その音は、昨日の裁きの間よりも広そうな部屋からのものだった。扉が開いていたので、ヒョイっと覗くと、赤や青に黄色や黒といった、色とりどりの鬼たちが大きな声を出して稽古をしている。
空手か相撲のような徒手空拳術で立ち合う者や、杖術か棒術なのか木の棒で打ち合う者。それぞれが思い思いに汗を流していた。
「驍廣殿、おはよう。朝早くから、鬼たちの稽古の見学かね?」
いきなり背後から声をかけられ振り向くと、部屋の中で汗を流している鬼たちと同じような胴着を着た閻魔が立っていた。
「閻魔か! おはよう。驚かさないでくれよ、ところでこれは何の稽古なんだ?」
「おぉ、すまなんだ。驚かすつもりはなかったんだが、夢中になって見ておったようだな。これは捕縛術、護身術の稽古だよ。最近は、地獄の亡者どもが昔とは比べものにならぬほど欲望が強くなっておってな、何か気に入らないことがあると平気で逆らって、暴力に訴えてくる輩が増えておるのだ。本来、鬼と亡者では基礎体力や膂力が違うから滅多なことは起きないのだが、亡者といえど、徒党を組んで暴れるとなると、なかなかに厄介でな。鬼たちは、何が起きても対処できるようにと日頃から稽古をし、体を鍛えておるのだよ。まぁ、何にせよ朝飯の前の一汗というのは、なかなか気持ちがいいものだぞ。お主もやってみるか?」
閻魔の誘いに、俺は気持ちが弾む。
「おっ、いいの! 俺も現世じゃ毎朝、朝飯前に必ず武術の稽古をしていたから、鬼たちの稽古風景を見ていたら、体を動かしたくなってウズウズしていたところだ!」
俺の言葉に、閻魔は嬉しそうに頷く。
「ほぉ、そうか。ではともに参ろう!」
閻魔はそう言って俺の背中を押すように、鬼たちが稽古をしている部屋の中に入っていった。
俺たちが部屋に入ると、稽古をしていた鬼たちは動きを止め、閻魔に向かって一礼する。だが同時に、一緒にいる俺を見て怪訝な表情をうかべていた。
まぁ無理もないだろう。俺は死者なんだから。
部屋の一番奥に来たとき、閻魔は俺のことを見て動きの止まっている鬼たちに気付き、怒鳴りつけた。
「これ! 何を見ておる、稽古を続けんか!」
鬼たちは、閻魔の声で再び稽古に戻るのだが、どうにも俺のことが気になって仕方がないのか、なかなか稽古に身が入らないようだ。
そこへ、俺よりも頭一つ分以上背が高く、胸回りも倍近くありそうな、筋骨隆々とした赤鬼が閻魔の前に進み出た。
「閻魔王様、その隣にお連れになっている者は一体……死者ではないのですか?」
鬼たちを代表して声を上げたのだろう。その問いに対して閻魔は、どう説明すればいいのか困ったようで、
「う~ん、死者と言えば死者なのだが……死者ではないとも言えるしのぉ……」
なんとも歯切れが悪い。すると、赤鬼が、
「死者ならば、早々に地獄なり極楽なりへ送りませんと。何でしたら私が連れていきますが?」
そう言うと、閻魔の許可が出たら即座に俺を捕らえられるよう身構える。その姿を見た閻魔は、首を横に振った。
「いやいや、その必要はない。この者は言わば儂の客だ。仔細は言えぬが、今日から九日間冥府に滞在する。皆も見知り置け、いいな。儂の客人だ、くれぐれもことを荒立てるような真似はせぬようにな!」
赤鬼だけでなく、稽古をしている鬼たち全員に聞かせるかのごとく告げる。
「そうですか……わかりました……」
赤鬼はしぶしぶ引き下がり、それを合図に、鬼たちの稽古は再開されたが、まだチラチラと俺のことを見ている。
閻魔が言ったから引き下がったが、釈然としないのだろう。『閻魔! 教育がなってないぞ!!』と思いつつも、もめそうなので、この場では何も言わないでおく。
見ているだけではしょうがないので、俺も稽古を始めることにした。
閻魔に稽古着(袖のない空手着のような服)を借り、現世でしていた朝稽古と同じようにストレッチをしてから、部屋の外周を走る。
走りながら稽古をする鬼たちの動きを見ていて分かったのだが、俺は鬼たちと比べて決して弱くはないだろう。たとえ戦っても、そう簡単に負けはしないのではないだろうか。
薄らと汗を掻いて体がほぐれると、シャドーボクシングを行う。黙々と、部屋の隅でステップを踏みながらジャブ、ストレートをくりかえす。
「おい! そんな端にいないで、こっちへ来てやったらどうだ!」
でっぷりと太った黒鬼と、それとは対照的な痩せノッポの青鬼が、嫌らしいにやけた顔で近寄ってきた。
どこにもいるんだな、こんなお約束なヤツら。こういうのは、相手にしないに限る。
だが、相手はそれが気にくわなかったらしく、
「無視すんじゃねぇよ、閻魔王様が『客』だと仰るから親切で声かけてやってんだからよぉ」
黒鬼がそう言いながら、俺の肩を掴もうと腕を伸ばしてきた。俺はその腕をかわし、
「すみません、気付きませんでした。俺は部外者ですから、皆さんのお邪魔にならないように、端の方を使わせてもらえれば十分ですので、お気になさらずに」
とりあえず波風立たないような対応を取る。しかし、それが自分たちに恐れを抱いていると勘違いさせたらしく、より一層高圧的になり、
「いいから、真ん中の方でやろうや。俺たちがお相手してあげるからよぉ」
ニタニタしつつ、なおも絡んでくる黒鬼。イラっとするけどここは我慢、我慢……
「そうだぜ。そんな隅っこで盆踊りみたいなことしてないで、俺たちが稽古つけてやるからよ」
黒鬼と一緒になって青鬼まで絡んでくる……まだ我慢だぞ。
「いえ、そんな、悪いですから、自分にお気使いなく。どうぞご自身の稽古にお戻りください」
平身低頭で何とかやり過ごそうとする俺。だが――
「ゴチャゴチャ言ってねぇで、こっちに来りゃいいんだよ」
黒鬼と青鬼二人がかりで、無理やり部屋の中央へ引きずり出そうとする。
うん! もう我慢しなくてもいいよな!
慌てて二人を止めようとする閻魔を、俺は睨んで制止し、さも怯えて困っているかのような顔で連れていかれるのに任せる。
その様子を周りの鬼たちは、ちょっと面白い余興が始まった、という顔で眺めていた。
唯一、閻魔に俺のことを聞いてきた赤鬼だけが、剣呑な顔付きで俺を見ていた。
「さぁて、そんなに怯えなくてもいいぞ。最初はオレは手を出さないから、ほら一発この腹に拳を入れてみろ!」
俺を部屋の中央に連れ出した黒鬼は、その太鼓腹を撫でながら俺を促す。
「そんなぁ……申し訳ないですよ」
とりあえず下手に出ておく。
「いいから早くかかって来い」
「本当にいいんですかぁ?」
「さっさとしろ!」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
得意げな顔の黒鬼にしっかり確認した後、その場で軽くステップを踏んで、一気に懐へ。
黒鬼の右斜め前に飛び込み、斜め下から、左フックを右腹側の肝臓めがけ放つ。
俺の左拳は、黒鬼の腹部を抉るように的確に肝臓をとらえた。
打ち終わりに追撃を受けないよう、素早くバックステップで後方に下がり、残心。その後ゆっくりと構えを解き、黒鬼に背を向けて元の場所へ戻る。後ろで「ゴハッ!」と何かを吐き出すような声と、黒鬼が床に膝をついたであろう音がした。
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数瞬後、面白い見せ物を見ているつもりでいた鬼たちは、慌てて黒鬼のもとに駆け寄り、気絶しているのを確認すると、複雑な表情を浮かべた。そんな中、黒鬼と一緒に絡んできた痩せ青鬼が、俺に向き直り、
「てめぇ、何しやがったぁ!」
と、怒声を上げる。
「いやぁ、かかって来いって言うから、言われた通りに腹へ一発入れただけですが……いけませんでしたぁ?」
「なっ、この野郎!」
俺の白々しい態度に、痩せ青鬼が棒を両手で持って、打ち込んできた。
俺は、慌てず今度は古武術の足捌きで青鬼の打ち込みをかわす。
十数回の打ち込みをかわし、青鬼の動きが鈍くなったところを見計らって、ヤツの手と手の間から棒を右手で掴み、左手で痩せ青鬼の手に手刀を入れ、その棒を奪取。すかさず青鬼の喉元に棒の先端を突きつけ、
「で、まだ続ける?」
そう言いながら睨む俺に、青鬼も最初は睨みかえしていたが、徐々に瞳が揺れ、やがてガックリと膝を落とした。
「お見事! いやーいいものを見させてもらった。某、赤鬼の宇羅と申し、この修練場を牛頭様からお預かりしている者だ。そなたの名をお聞かせいただいてもいいかな?」
その場から離れようとする俺に、先程の赤鬼が声をかけて来た。
「俺は、津田驍廣。一応死者ってことになるのかな。昨日こちらに到着して、数日の間、冥府に逗留することになっている」
「うむ! 先程、閻魔王様も数日間冥府に逗留すると仰られたな……なるほど。津田殿、今の立ち合いは素晴らしいものだった。呑鬼、蚤鬼にもいい勉強になっただろう。それでだ、ついでと言っては何だが、某とも手合わせを願えぬか?」
「いや、さっきは相手が俺のことを見くびってくれてたから、その意表を突かせてもらっただけなんだが……もっとも、アンタにははなから通用しないだろうな。アンタ相当強いだろ?」
渋る俺に、宇羅と名乗った赤鬼は不敵な笑みを浮かべた。
「そうか……しかし、某の申し出を断っても、次から次へと他の者からの誘いがあると思うが……。それでよければ仕方ない、諦めるとしよう。これでも某は、今この修練場にいる者の中では一目置かれている。某と立ち合ってもらえれば、他の者たちも納得し、新たに挑戦する者は随分減ると思うのだがな」
周りに視線を振ると、俺と宇羅を取り囲むように鬼たちがいた。彼らは何がそんなに嬉しいのか、ちょっと笑みを浮かべ、目をランランと輝かせながら今にも挑戦を申し出ようとしている。
その鬼たちの後ろで、俺だけに分かる形で閻魔が謝罪のつもりなのか、顔の前で手を合わせていた。
「は~ぁ、鬼って好戦的というか、力のありそうな者に挑むことが好きなのか……。分かったよ、アンタと手合わせをすればいいんだな」
諦めの境地で肩を落とし、渋々了承の言葉を俺が告げると、
「おぉ! そうか!! 受けてくれるか! では早速始めるとしよう。津田殿の得物は何がいいかな? なんなら、その腰の得物を使ってもらっても某は一向に構わん。もっとも某は『無手』にてお相手いたすが……」
「無手? 徒手空拳ってことか。無手の相手に、脇差を使うわけにもいかないだろ。それに、武具を使うより危なくないし。じゃあお互い無手で」
そう言いながら、俺は腰に差していた脇差を閻魔へと放り投げる。閻魔はその脇差をお手玉しつつも、懐に抱え込んだ。
「そうか……。では!」
宇羅のかけ声で、部屋の中が一気に緊張感に包まれる。
この宇羅って鬼、さっきの二人とは違う。
体から発せられる気迫が全く異なっている。ついでに、なんかユラユラと湯気のようなものも溢れているし……あれって『気』かな?
これは、俺も注意してかからないと大怪我するかも。気合を入れ直し、丹田に力を込めて、呼吸とともに力を練る。
ゆっくり構えをとりながら、練った力を全身に行き渡らせる。五感を研ぎ澄まし、力が偏らないようにリラックスをする。自然体というやつだ。
体を速く動かしたければ、四肢に力を入れるのではなく、行き渡らせるだけにとどめるが上策、とは武術の師匠の口癖だった。
「お互い用意は整ったようだな。参る!」
開始の言葉をその場に残し、宇羅が空気を切り裂き、突きを放ってくる。
俺は、宇羅が繰り出して来た突きを、右腕を手から肘にかけて螺旋を描くように捻りながら払いのけ、そのまま裏拳へと繋げる。
俺の裏拳を、宇羅は左腕で受け止める。
宇羅に阻まれた裏拳を戻すために右腕を引く。同時にその回転運動を利用し、続けざまに左ストレートを放つ――が、宇羅は拳が当たる寸前で距離を取り、回避した。
「やっぱ、アンタかなりの使い手だねぇ。普通なら裏拳の時点で終わるのに、次の左突きまで難なくかわすなんて」
俺が、一呼吸入れながら宇羅の動きを褒めると、
「いやぁ~津田殿こそ、某の突きを払いのけるとは、なかなかどうして侮れぬ。しかも、あの動きは初めて見る払いの動きだが?」
興味津々といった口調で尋ねてくる宇羅。
「あぁ、あれは非力な人間が、武器を持った者に対応するために編み出したものでね。俺の習った武術じゃ、払い技の基本であり真髄なんだと、師匠がよく口にしていたよ」
「そうであったか、人間たちの武術にも学ぶ点が多いようだな。さて、それでは続きはどのような武を見せてくれるか楽しみだ!」
宇羅が、不敵な笑みのお手本のような表情を浮かべる。
「ご期待に添えますかどうか」
俺も傲岸不遜に見えるであろう笑みを返す。
次の瞬間、示し合わせたように、お互いの懐へと飛び込んだ。宇羅は上段蹴りを放つ。俺はダッキング(膝を使って体勢を低くし、頭部への打撃をかわす、ボクシングのテクニック)をした後、体を戻しながら、左ボディアッパーを放つ。
宇羅は上段蹴りを放った動きをそのまま利用し、回転しながら後方に半歩下がる。そして、俺のアッパーの打ち終わりを狙って、今度は膝蹴りを打つ。
俺は、膝蹴りを手で受け止め、その勢いを使って後方に飛び、距離を取った。
俺が距離を取ったことで間が生まれる。周りで見ていた鬼たちから溜息が漏れた。どうも、この攻防に息つく暇がなかったようだが、既に俺と宇羅は、次の行動を取るべく予備動作に入っている。
宇羅は、また間合いを詰めるため、その場を蹴った。俺は今まで漫画で見て練習していた技を試すべく、より一層丹田に力を蓄える。突きを放とうとする宇羅に対し、足から腰、胸、肩、腕と螺旋を描くように動かしつつ、その力とともに、丹田に蓄えた力をも腕に集め、掌底から解放する。
俺の掌底と宇羅の拳が接触する瞬間、空気の破裂するような音が響き、俺たちはお互いに部屋の端まで吹っ飛んだ。
俺は空中で一回転して無事に着地できたが、一気に力を解放した余波で指先などが震えていた。
この技は、やっぱり漫画だから成立するのかも。使いこなすにはまだまだ鍛練が足りないと反省した。そして、反対側に飛んでいった宇羅へと視線を向ける。
宇羅は大きな音を立てて倒れたが、何でもないというようにまたスクッと立ちあがり、嬉しそうに笑っていた。多分、俺も同じような顔をしていると思う。
再び部屋の中央に走り寄り、お互い突きを繰り出す俺と宇羅だが――
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