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9巻
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しおりを挟むプロローグ 妖精探索
蟲たちが新しい命を育むための声を響かせ、日中は捕食者から身を隠していた小動物が、糧を得ようと動き出す夜の森――その中を、音もなく駆け抜ける一つの影。
影の動きを感じ取って、逢瀬の声を止める蟲や草木の陰へ逃れようとする小動物はいない。この事実が、影の主が卓越した穏形の業を駆使していることを証明していた。
もし仮に、ここに影の主の姿を認識できる者がいたら、驚嘆の声を上げていただろう。
そんな影が不意に動きを止め、周囲の気配を探るように、頭の上に存在する三角耳をピクピクと動かした次の瞬間、近くの灌木の中に飛び込み、身を隠した。両の腰に吊るされている武具に手を伸ばした様子から、ただごとではない事態がこの人物に降りかかっているようだが……
「くっ! まさか先回りされていたなんて……。この先に待ち構えている者が三人、それから私を追っている者が、一、二……五人ほどか。このまま強硬突破を図ったとしてもそう易々とは……それに、天樹国にまさかあんな『化物』がいたなんて……万事休す、かな……」
私――ヴェティス・ソーニャは、自嘲するように薄笑いを浮かべました。漏れてくる『気』からすると、前方に潜む者は私よりも格上のようです。
私はつい先程まで、配下の者を捨て石にして豊樹の郷から逃げ出したヴァルトエルフ氏族の族長カイーブを追って、天樹国の中心地である輝樹の郷へ潜入していました――
本来、天樹国の輪状山脈の内側に入るには、出入りを監視するスプリガン氏族の結界を突破しなければいけません。ですが今回は、国に戻るカイーブのためになのか、結界がなくなっていました。
あっさりと天樹国へ潜入した私は、そのままカイーブを追跡し、彼を裏から動かす今回の事件の黒幕を確認するため、輝樹の郷に辿り着いたのです。……そこで、私はとんでもないものを目撃してしまいました。
郷に入ると、郷の辻々で戦支度を整えた戦士らしき様々な妖精族たちが、殺気と憤怒を孕んだ気勢を上げているという異様な光景が目に飛び込んできました。
そんな鬼気迫る輝樹の郷の中を、カイーブはまるで身を隠すように体を小さく丸めながら、ハイエルフ氏族の邸宅の奥へと進んでいきます。
私は、輝樹の郷の全域に広がり、ハイエルフ氏族が住居として利用している天樹の板根(本来地下に伸びる根が地上に露出し、上部が平板状に肥大した根のこと)の陰に隠れ、遠眼鏡を取り出すと、カイーブが向かった天樹の幹の洞とその周辺を観察することにしました。
しばらくの間、周囲の喧噪を耳にしつつ観察していると、カイーブが入った洞のやや上方の樹幹にある手すり付きの露台に、一人の美しい女性が姿を現しました。
そのあまりに整った容姿に、私は思わず見蕩れてしまいましたが、すぐに彼女の背後にカイーブが傅いていることに気付きます。
「そうですか。犬神の呪法は、穢呪の病までは起こしたものの、『発動』させられませんでしたか……残念です。成功していれば、甲竜街侵攻への大きな一助となったものを。仕方ありませんね、ご苦労さまでしたカイーブ。甲竜街への侵攻はセンティリオ様のお力にて成就されることでしょう。既にヴァルトエルフ氏族の郷からも戦士たちが到着し、あなたの息子さんが陣頭指揮にあたっておられます。翼竜街で受けた傷もまだ癒えぬというのに、これまでよくやってくれました。ここからは息子さんに後を任せ、郷に帰ってゆっくりと傷を癒しなさい」
可憐な花びらを連想させる女性の美しい唇から紡ぎ出された言葉は、美しい容姿とはかけ離れた、私の心を凍えさせる凍風のごとき声色でした。
彼女から言葉を掛けられた当のカイーブも、傅いたまま表情を凍りつかせ、顔には大量の汗を流し、何度も生唾を呑み込むと、震えながら言葉を発しました。
「ラ、ラクリア様……分かりました。それでは後のことは我が息子に託しましょう。今後も我らヴァルトエルフ氏族は、ラクリア様とセンティリオ様に絶対の忠誠をお誓い申し上げます。それではこれにて失礼をさせていただきます……」
彼は、深々と頭を下げてから立ち上がり、顔を伏せたまま後ろ歩きで露台の反対側にある扉へと移動して、後ろ手で扉の取っ手に触れます。ハイエルフ氏族の女性――ラクリアには決して背中や尻を向けることがないように配慮したのでしょう。そんな彼が再度深々とお辞儀をして、一歩扉の外に足を出したときでした。
「――ああ、そうでした。少しお待ちなさい、そなたにこれを授けます。呑んでからお行きなさい」
そう言ってラクリアが懐から取り出したのは、豊樹の郷でカイーブの配下が魔獣『邪妖精』へと変貌する前に呑んだ黒い丸薬によく似た白い丸薬でした。
白い丸薬をカイーブは震える手で受け取り、焦燥感漂う表情でラクリアを見上げると、彼女は凍てつく氷の微笑を浮かべていました。
「これはハイエルフ氏族に伝わる霊薬です。そなたの傷を癒す一助となるでしょう。今まで天樹国のためとはいえ、そなたたちヴァルトエルフ氏族に辛い仕事を押しつけてしまったことお詫びいたします。ですが、そなたたちの尊い犠牲のおかげで、憎き甲竜街の者たちへ、怒りの鉄槌を下すことができます。カイーブ、ハイエルフ氏族の族后として感謝申し上げます」
そう告げ、彼女はカイーブの前まで歩み寄り、丸薬を持つカイーブの手を包み込むように自らの手を重ねて一筋の涙をこぼしながら、頭まで下げてみせたのです。
その姿に驚いたカイーブは、慌てて跪き、
「ラクリア様! あなた様から『感謝』のお言葉をいただき、望外の喜び。ですが、我らヴァルトエルフ氏族は天樹国の一員たる妖精族として当たり前のことをしたまでにございます。お役に立てたのならば光栄の至り!」
と、声を上げると、丸薬を掲げて床に頭をこすりつけます。
そんなカイーブを見たラクリアが一瞬だけ浮かべた笑みは、得体の知れない禍々しいモノに見えました。思わず悲鳴を上げそうになったほどです。
恭しく丸薬を両の手に押し戴きながらカイーブが退出し、部屋にはラクリア一人が残りました。
先程の二人の会話から、カイーブの後ろにいた黒幕は、ラクリアと呼ばれるこの得体のしれない女性に間違いないと判断し、そのまましばらく彼女の観察を続けることにしました。すると――
「『色欲』、どうやら上手くはいかなかったようだな。だから俺に任せればいいと言ったのだ、少しは俺を頼ってくれればいいものを……で、どうするつもりだ? このことが知れると、この前失敗をしでかした『怠惰』がお前の失敗を声高に申し立てるぞ。そうなれば『傲慢』のお前への評価が下がることだろう。それでいいのか?」
突然、地の底から這い出た亡者のような声が聞こえてきた次の瞬間、ラクリアの足元に伸びる影が盛り上がり、徐々に人の形へと変わっていったのです。そんな驚愕の現象が目の前で起こっているというのに、ラクリアは特に驚いた様子もなく、あろうことか笑みさえ浮かべ、
「それは困るわあ。『怠惰』の坊やがなにを騒ごうと大したことではないけれど、『傲慢』様からの評価が下がるのは面白くないわね。『嫉妬』、力を貸してくれるかしら?」
と、影に向かって平然と返したのです。
そして、これまでは笑顔を作っても開かなかった口を横に大きく開け、嗜虐的な表情で笑いはじめると、清楚で輝くような美しい容姿が陽炎のごとく揺らめきました。しかも、数回瞬きをする間に見る見る肥え太り、首、腰、腹といった部位を分かつくびれが消失し、イボガエルのような体躯の醜女になってしまったのです。
それを遠眼鏡で凝視してしまった私は、再び漏れ出そうになった悲鳴を必死に呑み込みました。
「『色欲』の頼みとあればなんなりと請け負うが、俺になにをお望みかな?」
「そうねえ……今出ていった、あの役立たずの郷の者たち全てを、あの役立たずの目の前でゆっくりと縊り殺し、あの役立たずが失敗した『犬神の呪法』を代わりに行うのはどうかしら? そうすれば、今までの失態の憂さも晴らせるし、『傲慢』様の評価を落とすこともなくなるのではなくて」
このときの私は、驚愕の事態に遭遇し、状況判断能力が著しく低下していたのだと思います。なぜなら、二人の会話に聴き入ってしまっていたのですから。すると――
「ほ~、それはなかなか良い考えだ。では早速あの者の郷へ向かうとしよう。と、言いたいところだが……どうやらネズミが一匹うろついているようだな」
『嫉妬』と呼ばれた影人が、私の隠れている方へ顔を向けると、ニタ~と笑います。
その目は確実に私を捉え、遠眼鏡越しではありますが一瞬、影人と視線が合った気がしました。いえ、確実に合ったのだと思います。それでようやく自らの危機に気付いた私は、急いで遠眼鏡を懐に入れ、隠れていた板根の陰から脱兎のごとく飛び出し、一目散に駈け出しました。
「っ! なにを落ち着いて眺めているのよ、もう! 誰かいませんか! 曲者が輝樹の郷に潜入しています! ただちに捕えてください!!」
イボガエルのような醜女の姿から一瞬にして元の美しいハイエルフ氏族の姿に転じたラクリアが、かな切り声を上げました。
私は雑多な妖精族の間を掻い潜って逃げ出したのですが、そんな私の動きは影人の興味を引いてしまったようで、こんな声が聞こえてきました――
「ほほう……。これはなかなか面白そうなことになった。俺は少し遊んでくるとしよう。それでは先程の話は遊びから帰ってからということで。では後ほど『色欲』♪」
その後、私は群衆を隠れ蓑にして郷を脱し、天樹国から脱出すべく一路輪状山脈山頂に向かったものの、山頂にある結界に引っかかり、スプリガン氏族に発見されてしまいました。
どうやら、カイーブと私が通過した後に、すぐに結界は張り直されたようですが、不覚にも私はスプリガン氏族の追手がかかったことでようやくそれに気付くという失態を犯してしまったのです。
もちろん、発見されたとはいえ、そう易々と捕まる私ではありません!
冒険者として数々の修羅場を潜ってきた経験を元に、時には山間の木々や岩石の陰に潜んでは追手の目をやり過ごし、たとえ襲撃を受けても、ジャマダハルを駆使して襲撃者を退けます。
そのように、どうにかスプリガン氏族が追跡を諦めるようにと頑張ったのですが……彼らは輪状山脈の裾野に広がる森に達してもまだ追ってきました。
追跡の手が緩まないことに焦りながらも、私は驍廣さんたちに今回知ったことと、天樹国の不穏な動きを知らせるために、彼らが向かう甲竜街へ駆け続けたのです。
――ですが、そんな私の思惑を知ってか知らずか、あと少しで天竜賜国の勢力圏に入ろうとしたとき、前方で待ち伏せをする三つの影に気が付き、灌木へと身を隠したのです。
背後からはヒタヒタと追い迫るスプリガン氏族。
前方には、私よりも格上とおぼしき三つの影が、私が来るのを今か今かと待ち構えています。
まさに『前門の虎、後門の狼』といった状況に陥ってしまったのです。
「……私もここまでなのかな? もう少し生きたかったけど、冥界にはリデルさんや死んでいった『森の陽光』の仲間もいることだし、そんなに寂しいこともないよね……」
そう苦笑気味に愚痴っていると、両腰に吊るしたジャマダハルから精獣の草原山猫が姿を現し、私を少し怒ったように睨みつけました。
「ヴェティス様、なにを弱気なことを言っておられるのですか! 私の主ともあろう者がそのようなことを口にするとは、まだまだ修行が足りませんね。そんなことでは冥界におられるリデル様が嘆かれますよ。もう少ししっかりなさってください!!」
鞘から抜いていないにもかかわらず姿を現した草原山猫の猟彪に、私は目を白黒させてしまいます。
「なに、猟彪!? いきなり姿を現したと思ったら説教? こんな危機的状況だっていうのに、あなたはいつも尻を叩くのね。……でも、確かに弱気が過ぎたかな。リデルさんとも『文殊界が今以上に穏やかで良い世界になるように頑張る。そして、私自身も幸せになる!』って約束したんだった。その約束を守るためにも、こんなところで死んでなんかいられないか。抵抗して、抵抗して、絶対に活路を切り開いてやる!! 行くよ、猟彪!! オン・イダテイタ・モコテイタ・ソワカ!!」
私は、鞘からジャマダハルを抜き放ち、驍廣さんから「いざと言うときには唱えろ」と教えられていた韋駄天真言を獣気を放出しながら唱えました。
すると、猟彪がブルブルッと体を震わせるのに合わせて韋駄天の力が私の体を覆い、脚力など、高速で動くことを可能にする身体能力の強化がなされたのです。
身の内に漲る力を自覚し、『これならば……』と一筋の光明を見出した私は、隠れていた灌木の隙間から、待ち構えている三人のスプリガン氏族に対して強襲を仕掛けました。
――当初、この目論見は成功しました。
ジャマダハルに刻まれた梵字から韋駄天の力を引き出した私は、速力にものを言わせて彼らを文字通り鎧袖一触。相手に剣を抜く暇も与えず四肢を斬りつけて行動不能にし(さすがに命を奪うことは躊躇いました)、そのまま後続の追手を振り切ってしまおうと森の中を駆け抜けたのです。
しかし、神将たる韋駄天の力を用いた後にどのようなことが起きるのかを、私は失念していました。
当然ですが、神将の力が永続的に使えるわけはなく、森の中を駆けていると、ほどなくして韋駄天の力は私の体から急速に消失していったのです。
しかも、代わりに強烈な倦怠感と痛みが私を襲いました。そのときになってようやく、私は麗華様が教えてくれた、命宿る武具に宿る力を使った後に起きる代償を思い出しました。
麗華様は「強力な『力』を発揮することはできたが、体から大量の『気』が奪われたことで倦怠感に襲われ、身動きが取れなくなった」と語っていましたが、それを実感することになったのです。
そして今回、このことが最悪の結果を招くことになりました。
引き離した追手が、諦めることなく私を追跡し続けていて、私が倦怠感と痛みに苛まれている間に、追いつかれてしまったのです。
待ち伏せをしていたスプリガン氏族に比べて力量は劣るものの、一度捕捉した獲物は決して諦めない姿勢には脱帽します。ですが、その獲物が私自身であることに焦りを禁じ得ませんでした。
満足に動けない体で逃走を図ったとしても、苦もなく追いつかれてしまうことは火を見るよりも明らか。仕方なく私は、木々の陰に隠れることでしのごうとしました。
しかし、この試みは失敗に終わりました。なぜなら、追手の中にスプリガン氏族だけでなく、遠眼鏡越しに見た、あの影人までいたからです。
追手がスプリガン氏族だけならば、私は逃げられたでしょう。実際、スプリガン氏族たちは灌木や樹木の洞などに隠れた私を発見できずに何度も通り過ぎていきましたから。ですがその度に、影人が「なにをしている、愚か者が!」と叱責の言葉を飛ばし、通りすぎたスプリガン氏族を呼び戻したのです。
だから私は、都度痛む体を無理やり動かして、別の場所に移って身を隠したものの……そんなことがいつまでも通じるわけもなく、ついに発見されてしまいました。
私を発見したスプリガン氏族は慎重でした。そのまま襲いかかってきてくれれば、私は彼の口を封じることで、逃走を続けられたかもしれません。でも、彼は私を発見するなり、指笛を鳴らし、仲間を呼んだのです。
仲間は即座に反応し、私の隠れている灌木を取り囲みました。
万全の状態でも五人のスプリガン氏族を相手にするなんて、一か八かの賭けだというのに、倦怠感と痛みに苛まれる今の私ではどう考えても逃げるのは不可能だと、頭では分かっていました。それでも、私は諦められませんでした。リデルさんとの約束があったから……
たとえ満身創痍になろうとも、この場から逃げ延びる!
私が覚悟を決めてジャマダハルを構えたとき、またも影人の声が周囲に響いたのです。
「ほほう。まだ諦めぬか……面白い♪ 実に面白いぞ、猫娘! 天樹国に来てからというもの、退屈な日々にうんざりしていたが、貴様のような良質な獲物に出会えるとはな。褒美として俺のペットにしてやろう。スプリガン氏族の者どもよ! その猫娘の命を奪うことは許さん。ただし、命さえ保っていれば、四肢を斬り飛ばそうと構わぬ。生きたまま捕えるのだ!!」
スプリガン氏族は命令に従い、ゆっくりと囲みを狭めてきました。
このとき私は、影人の発した言葉で、彼とラクリアの正体に気が付きました。
私のような獣人族を『ペット』にするなんて、いくら妖精至上主義が蔓延している天樹国であってもありえません。ただ、好んで口にする者たちがいます。――『人間』です。
人間の中には、昔から容姿の異なる私たち獣人族や竜人族、妖獣人族や妖人族を『人』として認めず、蔑み、欲望の捌け口にする者がいました。
近年ではアンスポロス帝國などで、そのような考えを改めようとする風潮が生まれつつあると聞きます。しかし、魔術を使うことのできる人間を生きとし生けるものの頂点にあると考えている聖職者の国の者は、いまだに人間以外の人族を蔑んでいます。
影人は間違いなく聖国の者です。ラクリアもまた、天樹国を内部から蝕む刺客でしょう。が、それが分かったところで事態は好転するわけもありません。スプリガン氏族がジリジリと囲みを小さくしてくる中、私は覚悟を決め、隠れていた灌木から躍り出ると、彼らと対峙したのです。
そんな私が面白いのか、姿は見えないのですが、影人が私を嘲笑します。
「くっくっくっく♪ 小鹿のようにブルブルと震えながらも刃向おうとするとは、実に健気。そうでなくては『色欲』からの頼まれごとを後回しにしてまで、このような獣臭い森の中に足を運んだ甲斐がないというもの。最後まで抗い、俺を楽しませてみせろ!」
この言葉を聞き、私の中から恐怖や焦りは消え失せました。代わりに、強い怒りが湧き、『絶対に声の主の思う通りになってたまるか!』という気持ちが生まれました。だから私は、ジャマダハルをより強く握ります。
スプリガン氏族は、私の気迫に押されたように一瞬体を硬直させました。ですが私を観察しながら、先程よりも慎重に五人全員で囲みを狭めます。その動きには、人数が多いからという驕りなど一切ありません。そんな絶体絶命の中――
「死力を尽くして戦う者を嘲笑し、しかも『楽しませろ』とはなんたる醜悪! 許せん!!」
森の奥から、怒りの声が響き、続いて矢が飛んできて、私の背中側にいたスプリガン氏族の足を射貫きました。
それを合図に、森の奥から人影が躍り出て、私を囲んでいたスプリガン氏族と戦いはじめました。
「そぉら! 周囲の警戒が疎かすぎるぜえ!!」
二振りの細剣で襲いかかったのは、兎人族のラルゴ・スフォルツくんでした。
「天樹国のスプリガン氏族か……ここは既に天竜賜国の領域に入っている。他国の領域で一人に五人がかりとは恥を知れ!」
翼竜人族の張洪さんも姿を現し、槍を振るいます。そして、先程スプリガン氏族の足を正確に射貫いたダークエルフ氏族のモニカ・ビンスクさんを引き連れて、大きな鉞を肩に担いだ妖熊人族の土門蔵人さんがやってきました。
翼竜街のギルドで何度も顔を合わせたことのある面々の出現に私は安堵し、力の入らなくなりつつあった膝から崩れ落ちそうになりました。しかし、今ここでそのような醜態を晒しては『森の陽光』の仲間たちに笑われてしまうと、震える足を叱咤し、なんとか踏みとどまりました。
「ええ!? 誰かと思ったらヴェティスだったのかよ!」
なんとか体裁を保っている私を見たラルゴくんが、スプリガン氏族と剣を斬り結びながら声を上げます。そこで土門さんたちも、ようやくスプリガン氏族と争っていたのが私だと気が付いたようで、驚きで目を見開いていました。ですがすぐに私からスプリガン氏族を引き離そうと、各々一人ずつ彼らと戦いはじめ――私の前にいるのは、足に矢を受けて満足に動けない者だけになりました。
当のスプリガン氏族は、それでも私に殺意のこもった目を向け、短剣を片手に、足を引き摺りつつも、ジリジリと迫ってきます。
いくら務めとはいえ、足に矢を受けてもなお、私を害そうとするなんて、何が彼をそこまで駆り立てているのか……
魔獣騒動の際、私は満身創痍になりながら魔獣『不死ノ王』の出現を知らせに翼竜街へ向かいました。そのときの私と同じく、目の前にいるスプリガン氏族にもこの役目を果たさなければならない理由があるのでしょうか?
そんなことを考えている間に、スプリガン氏族と私は一足一刀の間合いに入ろうとしていました。
が、このときまたしてもあの声が――
「とんだ乱入者に興醒めだ。もういい……退けえ!」
スプリガン氏族は当惑の表情を浮かべたものの、すぐに戦いをやめて天樹国のある輪状山脈へと去っていきました。
足に矢を受けた者も、仲間の後を追おうとしたのですが、射貫かれた足では速く動くことはできず――
「がっぁ!!」
彼の影から短剣を持った腕が伸びると、彼の背後から心臓を一突きにしたのです。その光景に、私も土門さんたちも驚きのあまり動きを止めてしまいました。
すると、それを狙っていたかのように、スプリガン氏族を刺したのと同じような腕が、私たちの影から伸びてきます。
もちろん、土門さんたちは不意を突かれたとはいえ、既に一度目にしている攻撃だったため、難なく躱しました。でも、情けないことに私は体力と気力の限界に達していて、身を捩って急所を避けるので精一杯でした。
「うっ……」
脇腹を貫かれた痛みに思わず漏れ出る声。
「疲弊した体で、心臓への一撃をよく避けたと褒めておこう。もっとも、ここで心臓を貫かれておれば、長い苦しみの果てに息絶えることもなかったであろうがな」
そう言い残すと、生き残ったスプリガン氏族とともに影人の気配も完全に消えました。
ですが、私は彼らの動向に意識を向ける余裕はありません。なぜなら、影人が残した言葉の意味を身をもって味わっていたためです。
短剣が刺さった脇腹からは少なくない出血があり、しかも本来ならば出血すると寒気を感じるはずが、脇腹から全身に広がろうとする熱気に苛まれていました。そんな私の様子にいち早く気が付いて駆け寄ってくれたのはモニカさんでした。
「ヴェティスさん、大丈夫ですか!? 土門さん大変です、ヴェティスさんが!!」
モニカさんの声に、土門さんだけでなく、ラルゴくんや張さんも慌てて駆け寄ってきてくれました。
私は皆さんの存在を感じながら、意識を失ってしまったのです――
◇
わたしたちが、ヴェティスさんをスプリガン氏族から助けたところまではよかったのだけど、そのヴェティスさんは影から伸びた手によって脇腹を刺されてしまったの。
でも、短剣自体はそれほど大きなものではなく、急所を正確に刺されなければ致命傷にはならないと思っていたわ。
だけど、血を流すヴェティスさんが大量の汗を掻き、ブルブルと震えながらその場に倒れてしまったことに気付いて、わたしは慌てて駆け寄った。そして彼女を抱き起こそうとしたら、体は燃えるように熱くなっていたわ。
急いで土門さんを呼ぶと、彼もヴェティスさんの尋常ではない様子に慌てて駆け寄り、
「どうしたモニカ? ヴェティス、しっかりせぬかヴェティス!」
と、声をかけたんだけど、もうこのときには彼女の意識はなかったの。
「これは……」
張さんが何かに気付いたのか、そう呟いたわ。すると土門さんが、
「張! 何か分かったのか!?」
と、張さんの両肩を掴み、凄い勢いで問い質したの。
「……土門さん、これはまずいことになった。ヴェティスは毒に侵されている」
「毒だと!? ……あの短剣に毒が仕込まれていたのか、クソっ! おい! 誰か毒消しを持っていないか? 持っていたら早くヴェティスに飲ませるのだ!」
「土門さん、毒消しなんて今は持っていないぜ。今回の依頼には毒消しは必要ないって、翼竜街ギルドに預けてきてしまったじゃないか!」
ラルゴの言葉に、土門さんはギリギリと奥歯を噛み締め、苦い顔になったの。
「土門さん、かなりの強行軍になるが、ヴェティスを抱えて翼竜街に戻り、ギルドで治療してもらうしかない。交代でヴェティスを運んで……」
「それじゃ間に合わない!」
わたしは張さんに待ったをかけた。この場所からなら、翼竜街に向かうよりも……
「ここからだと、ダークエルフ氏族の豊樹の郷に向かった方が早い。ヴェティスさんを運ぶなら、豊樹の郷に向かうべきなの! それに、豊樹の郷なら森で取れる薬草も多いし、ヴェティスさんを苦しめる毒に対抗できる毒消しを用意してくれる!」
わたしが訴えるように声を上げると、土門さんは大きく頷いてヴェティスさんを抱え上げた。
「モニカ、豊樹の郷への案内頼むぞ! それもできるだけ早くだ!!」
わたしも大きく頷き、一目散に豊樹の郷への道を駆け出したわ。
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