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苦味
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布団の上でぼぅっとしながら、俺は考えた。……あの時に俺が千代を振っていなければ、今ごろはどうなっていただろう。もっとたくさんの楽しい時間を、青春を過ごせていただろうか。
いや、そんなことは考えなくてもいい。今が幸せだからそれでいい。お互い、様々に形を変える環境に揉まれ、削られて大人になった。そんな今だから自分が必要としていること、大切にするものがわかる。きっとそうに違いない。俺たちはここで再会すべくして、万全を期して一緒にいるのだ。……惜しんだり悔やんだりすることはない。重たい頭を枕に沈めていると、いつしか空っぽで心地のよい眠りに吸い込まれてしまっていた。
次に起きたときには、よく寝たからか頭痛がましだった。さぁ、千代を迎えに行こう。俺は身なりを整え、バス停へ向かった。
ホテルの近くのコンビニで時間を潰していると、彼女がやってきた。今日も細くて柔らかい髪を後ろでひとつ結びにしている。俺を見つけるとぱっと笑顔になってこちらへ歩いてくる。
あぁ、申し訳ないがこの惚気だけは許してほしい。千代の笑顔は本当に素敵だ。俺の心を温かく豊かにするのだ。彼女が笑いかけてくれると
俺はなんでもできる気がする。勘違いをしないでいただきたいが、俺は甘酸っぱい話は苦手だ。自分でも硬派中の硬派だと思っていた。しかし、千代の前でだけはただの普通の彼氏なのだ。世の中に数多ある恋愛中の人々のその一人になってしまうのだ。
さて、コンビニで飲み物を買い、俺たちは外へ出た。今日は冬の日でも多少暖かいらしい。陽射しがふわりとしていて空気がほころんでいる。少し離れた公園まで歩くと厚着の下で汗が出た。今日はどうだったか、なにか楽しいことはあったか、など話しつつ公園のベンチに腰を下ろした。俺はマフラーを取りつつ千代に飲み物を渡す。
「ありがとう。」
千代は嬉しそうに受け取った。彼女に渡したのはコーヒーだ。コーヒーに関しては甘くないものが好みらしい。パティシエになったくらいだからコーヒーも甘いのが好きだろうと思っていたら、「それとこれとは別だよぉ。」と笑われたことがある。
俺もコーヒーは甘くないのが良い。コーヒーに限らず、甘くないものが好きだ。ただ、千代と付き合ってから甘いものの美味しさもわかり始めてきた。
この広い公園では小さな子どもと親、ジョギングや散歩をする人々、部活帰りらしき学生などそれぞれがそれぞれのことをしている。俺たちのことを気にする人はいない。
「迎え、来てくれてありがとね。えらい!」
ふいに千代が俺の頭を撫でた。俺は千代の手を避けようと体をそらした。こんなところで撫でられては恥ずかしすぎてたまったものではない。千代は面白そうに俺を見て笑った。
「家では素直に撫でられるのにね。」
撫でられるのは嫌いじゃない。でも、公の場で撫でられては、さすがに格好がつかないだろう……?俺は何度も千代に言っているが、千代はそんなことはお構い無しのようだ。
「千代も、仕事よく頑張ったな。」
せめてもの仕返しで撫で返した。が、千代はふふと笑って素直に撫でられている。全く、マイペースな女性だ。
俺たちはこうやってよくお互いを褒め合っている。たくさんありがとうと言って、たくさん楽しい嬉しいと言う。だが付き合う前、そして付き合ったばかりの頃はこうではなかった。
千代は今とは別人だった。たくさんの錘が彼女に巻き付いて彼女を闇の底へ、底へと引きずり込んでいた。彼女はたくさん「自分は悪い人間だ、要らない人間だ」と言い、たくさん「ごめんなさい」と言った。いくら褒めても頷こうとしなかった。
千代はそんな人だったのだ。自己嫌悪と自責の念が強く、常に不安定。何度も自ら命を絶とうとしたほど、ひどく鬱々としていた。
代わって俺は自分に根拠なき自信を持ち、常にポジティブ思考であったから、千代とは正反対だった。何度「あなたには私の苦しみは一生わからない。」と吐き捨てられたことか。
千代は生半可なことで死にたく思っているのではなかった。生きることに人一倍執着する―この理由についてはまた機会があればお話ししたい―俺が、千代の境遇に「それは死にたくなっても仕方ない」と思ってしまうようなものだったのだ。俺はできれば今すぐ千代をその苦しみから救いだしてやりたかった。それでも千代が「もういいよね?十分頑張ったもの。」という毎に「いや、それはだめだ」と強情に言い張った。俺自身も苦しかったが、それ以上にやはり彼女が一番苦しかったに違いない。俺は、千代という心優しく美しい女性を……、素晴らしい人間を失いたくなかった。彼女は彼女の特技と能力があり、それがなくなるのは世間の損失だと思った。何より、千代は俺の唯一心から頼れる人間だった。
元来根明の千代がそこまで追い込まれたのには訳があった。俺が知らない彼女の家庭……。そして俺と中学で知り合い、連絡が途絶えたあとの三年間。それらが彼女をじっくり蝕んだのだった。
いや、そんなことは考えなくてもいい。今が幸せだからそれでいい。お互い、様々に形を変える環境に揉まれ、削られて大人になった。そんな今だから自分が必要としていること、大切にするものがわかる。きっとそうに違いない。俺たちはここで再会すべくして、万全を期して一緒にいるのだ。……惜しんだり悔やんだりすることはない。重たい頭を枕に沈めていると、いつしか空っぽで心地のよい眠りに吸い込まれてしまっていた。
次に起きたときには、よく寝たからか頭痛がましだった。さぁ、千代を迎えに行こう。俺は身なりを整え、バス停へ向かった。
ホテルの近くのコンビニで時間を潰していると、彼女がやってきた。今日も細くて柔らかい髪を後ろでひとつ結びにしている。俺を見つけるとぱっと笑顔になってこちらへ歩いてくる。
あぁ、申し訳ないがこの惚気だけは許してほしい。千代の笑顔は本当に素敵だ。俺の心を温かく豊かにするのだ。彼女が笑いかけてくれると
俺はなんでもできる気がする。勘違いをしないでいただきたいが、俺は甘酸っぱい話は苦手だ。自分でも硬派中の硬派だと思っていた。しかし、千代の前でだけはただの普通の彼氏なのだ。世の中に数多ある恋愛中の人々のその一人になってしまうのだ。
さて、コンビニで飲み物を買い、俺たちは外へ出た。今日は冬の日でも多少暖かいらしい。陽射しがふわりとしていて空気がほころんでいる。少し離れた公園まで歩くと厚着の下で汗が出た。今日はどうだったか、なにか楽しいことはあったか、など話しつつ公園のベンチに腰を下ろした。俺はマフラーを取りつつ千代に飲み物を渡す。
「ありがとう。」
千代は嬉しそうに受け取った。彼女に渡したのはコーヒーだ。コーヒーに関しては甘くないものが好みらしい。パティシエになったくらいだからコーヒーも甘いのが好きだろうと思っていたら、「それとこれとは別だよぉ。」と笑われたことがある。
俺もコーヒーは甘くないのが良い。コーヒーに限らず、甘くないものが好きだ。ただ、千代と付き合ってから甘いものの美味しさもわかり始めてきた。
この広い公園では小さな子どもと親、ジョギングや散歩をする人々、部活帰りらしき学生などそれぞれがそれぞれのことをしている。俺たちのことを気にする人はいない。
「迎え、来てくれてありがとね。えらい!」
ふいに千代が俺の頭を撫でた。俺は千代の手を避けようと体をそらした。こんなところで撫でられては恥ずかしすぎてたまったものではない。千代は面白そうに俺を見て笑った。
「家では素直に撫でられるのにね。」
撫でられるのは嫌いじゃない。でも、公の場で撫でられては、さすがに格好がつかないだろう……?俺は何度も千代に言っているが、千代はそんなことはお構い無しのようだ。
「千代も、仕事よく頑張ったな。」
せめてもの仕返しで撫で返した。が、千代はふふと笑って素直に撫でられている。全く、マイペースな女性だ。
俺たちはこうやってよくお互いを褒め合っている。たくさんありがとうと言って、たくさん楽しい嬉しいと言う。だが付き合う前、そして付き合ったばかりの頃はこうではなかった。
千代は今とは別人だった。たくさんの錘が彼女に巻き付いて彼女を闇の底へ、底へと引きずり込んでいた。彼女はたくさん「自分は悪い人間だ、要らない人間だ」と言い、たくさん「ごめんなさい」と言った。いくら褒めても頷こうとしなかった。
千代はそんな人だったのだ。自己嫌悪と自責の念が強く、常に不安定。何度も自ら命を絶とうとしたほど、ひどく鬱々としていた。
代わって俺は自分に根拠なき自信を持ち、常にポジティブ思考であったから、千代とは正反対だった。何度「あなたには私の苦しみは一生わからない。」と吐き捨てられたことか。
千代は生半可なことで死にたく思っているのではなかった。生きることに人一倍執着する―この理由についてはまた機会があればお話ししたい―俺が、千代の境遇に「それは死にたくなっても仕方ない」と思ってしまうようなものだったのだ。俺はできれば今すぐ千代をその苦しみから救いだしてやりたかった。それでも千代が「もういいよね?十分頑張ったもの。」という毎に「いや、それはだめだ」と強情に言い張った。俺自身も苦しかったが、それ以上にやはり彼女が一番苦しかったに違いない。俺は、千代という心優しく美しい女性を……、素晴らしい人間を失いたくなかった。彼女は彼女の特技と能力があり、それがなくなるのは世間の損失だと思った。何より、千代は俺の唯一心から頼れる人間だった。
元来根明の千代がそこまで追い込まれたのには訳があった。俺が知らない彼女の家庭……。そして俺と中学で知り合い、連絡が途絶えたあとの三年間。それらが彼女をじっくり蝕んだのだった。
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