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僕の始まりから学生時代

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学生時代の出来事

僕の始まり
僕の名前は神崎空。
僕はクリスチャンだ。
クリスチャンとは一体なんなのか・・・・
それは僕も分からない。
ただキリストていう人を信じている人しかわからない。
でも、僕はキリストを信じているけど、信じる前の方が、正直楽だった気がする。
勿論、信じる前も虚しくて孤独で悲しい人生を送っていた。
でも、信じてからの方が、苦しかった。
僕の人生の歯車が音をたてて回り出した。
時にはその歯車が壊れかけたこともあった。
でも、一回信じたら、もう離れないんだな。
離れたい・・・離れた!そのような時でも、神様は見えないけど、いつでも僕の腕を掴んでいてくださる。
だから、離れることはできない。
なんで、僕はキリストを信じるようになったんだろう・・・時々このように感じる。
でも24になった今、僕はやっぱり神様は素晴らしいものなんだな、そのように思った。
僕から神様に離れてしまった時も、神様は僕のことを見捨てることなく、色々なチャンスを僕に与えてくれて、離れたたびに神様が、僕を神様の方に引き寄せてくれる。
そして、その度に神様から「戻ってきてくれたね。おかえり。ゆっくり休んでいいよ。」そのように言ってくださっている感じがした。
この事を知ったのは、最近のことだ。
前まで、離れたたびに、「僕は、もう神様から、見捨てられた。やっぱり僕の人生は虚しいものなんだ。」そのように僻んでた。
僕から、神様にはなれたのに、神様が僕を離れてしまったかのように思った。
でも、そうじゃない。僕が何度、離れたとしても、神様はその度に僕の腕を引っ張ってくださっている、この事を知った時に、僕は、安心して神様から離れることができるんだな、いや、本当は、離れたら行けないけど・・・人生は色々ある、例え離れてしまても神様は僕を見捨てないんだな、そのように感じた時から、心の底から神様は素晴らしいお方なんだな、そのように思った。
僕が生まれて神様を信じる前から信じてからの人生の物語へと案内しよう!
これは、その都度僕が感じ思ったことで、僕の視点から見た人生の物語。
 僕の誕生
僕はとある台湾の田舎町で生まれた。
この後に、何が起きるとも知らずに僕は誕生した。
「この世は素晴らしいものだよ、だから楽しんでおいで。」と誰かが僕に言っている声が聞こえた。そして、僕は生まれたんだ。生まれた時は、確かにこの世界は輝いて見えた。
でもその数日後に、僕は生まれたことを後悔した。僕は生まれて二週間ぐらいに、大きな感染症にかかって死にかけた。
今思えば、この時に死んでいたら、この後の人生で待っている苦しい事を体験しなくて済む。僕が死の境を彷徨った時にも、あの声は聞こえた「私は君に素晴らしい人生を計画している、だから今私のところに来ては行けない、さぁもう一度生きなさい」そのように言われた。そして大人たちが、僕のことを助け一命は取り留めた。
僕が、一命を取り留めた時、寝ている僕の上に天使がいたと聞いたことがある。それを聞いた時に(やっぱり僕の人生は計画されているんだな。)そのように感じた。
天使だけじゃない、外を見たら虹も出てたと言われた。僕はなんだか嬉しかった。でも僕は生き返った代わりに貰ったものは障害だった。(全然素晴らしくないじゃん)そのように感じた。僕は普通に生まれたのに、大きな感染症のせいで僕は障がい者になった。
この障害のせいで僕は今後の人生に迷い、みんなに迷惑をかけ、親にもすっごく迷惑をかけ、親は僕のことを監視するようになり、僕は親の圧力で、親のことが嫌いになり、僕のことを産んで育ててくれた親を恨んだ人生を送るようになる。

僕は一人子なのだ、僕に兄弟がいればこの家はどうなっていたのだろうか?今よりもっとひどいものだったのか?それとも良い風になっていたのだろうか?僕は一人で良かったと思う、今僕は死にたいぐらい大変な人生なのだ、だから僕に兄弟がいたら兄弟が傷つくからそれではかわいそう‥だから僕は一人の方が良いのだ。でも僕は、始め寂しい思いをした。
ほかの子は兄弟がいるのに僕にはいないのだと思った、みんなが羨ましい、そのようにも思った。でも今思えば今の方が良いと思った。
僕の家族は父、母、僕の三人。
僕の両親はキリストを信じているクリスチャン、だから僕はクリスチャンの家に生まれた。生まれた時から僕は、神様に触れていた。赤ちゃんの時のことは全く覚えていない。でも後々聞いた話では、赤ん坊の僕を抱いて、毎週日曜日に教会に行き神様のことを聞いていたと聞いたことがある。
でも、僕は何一つ覚えていないし思い出せない。
幼稚園時代
僕は二歳になった。外国に行ったりした、今の僕は残念ながらその時の事を覚えていない、写真でしか分からない。でも、写真を見ても全く思い出せないでいる事が苦に思う、台湾の保育園に行った出来事は少し覚えている、その時から僕は転けやすくなった。これも多分僕が持っている障害の影響だろう・・・・バランスがうまく取れずに沢山転けた。初めて転けたのは滑り台で遊んだ時だった。そこに、沢山の友達が出来た、人生で初めての友達だ、嬉しかった、どの人も初めての友達は幼稚園の時だと思う。赤ちゃんの時でも友達っていう人はいるかもしれないけど、喋れないしわかんないから、それはママ友のつながりから得た友達というやつだろう・・・
僕は友達と遊んですごく楽しかった思い出が今もある、もし過去に戻れるのだったら僕はこの時からすべてをやり直せたらなと思う。でも全てをやり直したら、未来の事はもう分かっている事だから、もうこの時に死にたいと思ってると思う、だってもう未来のことはわかるし、この先何が起きるのか分かってる、苦しい人生なこともわかってるから、この時に死にたいと思ったと思う、そして今の僕はもちろん存在しない、だから過去に戻れないようにされる 神様に感謝したい。
僕は、日本に来た。日本の幼稚園や保育園にも通った。
僕は、この時からの記憶がすごくある 悲しい事も苦しい事も、もちろん楽しかった事の記憶も残っている。
初め日本に来た時、僕は保育園に行った。
その保育園は、僕みたいにみんなとは・・・・一般人という人たちとは少し違った子供たちが通うような保育園だった。
その時の僕は友達もいたしすっごく楽しい保育園時代を送っていた。これが普通なんだと思っていた。でも今では普通の保育園じゃなかったんだなと思う。
僕は幼稚園にも行った。幼稚園は普通の子供達と一緒に遊べることができた。
保育園よりも幼稚園の方が楽しかったことを覚えている。
その幼稚園とはキリスト教関係の幼稚園だったから、その中で僕はクリスマス会のときは劇をしてお父さんに褒められた事を 今でも覚えている。又僕はお父さんの劇も見る事が好きだった、この時のお父さんはかっこよかったしすごく優しかった。
今でも、その時のお父さんが劇をしている写真を見れば心が和む。そして、戻れないと知りつつ、やっぱりこの時に戻れたらなって思って虚しくもなる。この時から、僕は劇をする事が大好きになった、特に、12月のクリスマスの劇をするのが一番好きだった。クリスマス会はプレゼントをもらう季節‥でもそれ以外でも喜ばしい事がある、それは私達の事を救ってくれる方がお生まれになった季節でもある、この方が私達の為にお生まれに成ったのだ、預言や 神様が計画されてある通りにキリストは 十字架で私達の身代わりに成られる為に来られた、このイエスの誕生の物語を劇でやった。まだ神様のことを知らない人たちに向けて、又幼稚園のお遊戯会でやった。キリストの誕生物語、そして誕生理由、今ではその事を信じている。でも当時の僕は劇をやらされているだけの感覚だった。
これはそこにいた幼稚園児全員そうだったと思う。
聖書には「今日ダビデの町であなた方の為に救い主がお生まれになりました。この方こそ主イエスキリストです」と書いているところがある。今でも暗唱出来る。その理由は、幼稚園の劇で毎年言っている聖書の御言葉だからなのだ。そして今もクリスマスの時期になれば必ずこの箇所が読まれる。だからこの箇所は、暗唱できる。
僕はみんなと一緒に幼稚園の行事にも参加した、その中で僕はお泊まり会の時に泣いた、その時に僕は先生の所に行った、そしてそこで落ち着く事が出来た。でも、その他はみんなと楽しくお泊まり会に参加した 僕は夜が怖かった、だから先生にアイスをもらった‥嬉しかった。
又、幼稚園でも運動会があった。幼稚園の運動会で、僕は泣いてみんなを困らせて好きだった先生が慰めてくれたことを今も覚えてる。
そして友達と砂場やトランポリンなど遊んだ、日本の幼稚園でも僕は友達が多かった
幼稚園の虎バスで幼稚園に行った。その時仲がいい子とも一緒だったから嬉しかった
幼稚園はすごく楽しかった。僕はこのとき楽しい今にしか目がなかった。このときのことを考えたら僕は後悔した。僕はこの時助けを、求めたら今こんなに苦しい人生を歩んでいなかったはずだ、今の僕はそう思っている。でもこの時の僕は、何にも知らずに、ただただ 楽しく楽に生きていた。
幼稚園を卒園して、小学校に行った。幼稚園の時は小学生が羨ましかった。赤や黒のランドセル、幼稚園みたいに劇をしたりトランポリンや友達と砂場で遊んだりするんだろうな、早く小学校に行きたいな、当時の僕はそのように思った。でも今思えば、なんで僕はあんな小学校に行ってしまったんだ!又なんでこんなに厳しい所があるのかとそのときの僕は思った。そして何であんなに怖い所があるのだろうかと思った。ここから僕の第二の人生が幕を開けた。
僕はこの時初めて僕は女性だった事に気づいた、でももう僕と言うのが癖になった、だからここでは僕の事を僕と呼ぶ事は変わらない。

小学校時代
 
 小学校一年生
僕は幼稚園の時の友達と同じクラスになった。すごくうれしかった。学校では朝の会の時に今月の歌を歌ったり先生の話や今日の給食の発表を聞いたりしたのが一番良い記憶として残っている。後、初めての学校では色々な行事に参加した。僕が思い出に残っている学校の行事は、給食に出てくるミルクの蓋を集めてそれをお金の代わりにして 全学年で郵便をする事だった。どの学年に送っても良い‥僕はそれをする事が大好きだった。沢山‥手紙を書いて送った‥後は、この時にやった運動会の思い出は、暑すぎて倒れそうになった事しか思い出にない‥(笑)←「笑っている場合じゃない‥」
また一年生のとき僕には、ヘルパーが教室についた。始め僕はすごく嬉しかった。でも後々になって、このヘルパーは僕にとって邪魔な存在になってしまった、僕の為に来てくれたのに、当時の僕は周りの目を気にしてしまったのだ。周りを見ると、みんなにはヘルパーがついていなくてなんで僕だけなの?、そのように思ってしまったのだ。でも今思えばその人に申し訳なく思っている。そのヘルパーがいたからこそ今の僕がいるんだな、そのように思えた。
この小学校一年生の2学期までは、学校は楽しい所なのかなと気を抜かしてしまった。気を抜かし始めてから僕の落胆的人生が始まった。始めはクラス内でいじめが始まり、苦手な子の隣に二回もなった、何で二回も席が隣になるのかなと思った。少ししてから次に上級生からいじめられ‥年齢が上がるにつれていじめもどんどんひどくなった。まして、年下の子つまり下級生からのいじめもおき始めていた。僕のいじめは、冗談みたいな本当の事を言われたり、菌扱いをされたり‥しんどかった‥でも誰にも心配させたくなかった、だから僕は誰にも相談ができずに3年生まで我慢して先生や親にばれないように学校に行ったでもその時、本当は学校に行きたくなくなった、いじめられ、授業にも集中が出来なくなり、周りの子の目が気になり始めた。僕はしんどかった、もう限界がすぐに来てしまって僕はがんばって勇気を振り絞って親に学校へ行きたくない事を伝えた、でも親はなかなか理解してくれずに話も聞いてくれなかった。この時きちんとしなければ後々後悔する事を知らずに、僕はその時の苦しいにしか目を向けていなかった、僕は今になって後悔している。もっとここで、いじめられている事に気にしないで勉強に集中すれば良かったんだと‥今になって痛感させられた。
親に僕の気持ちを話しても理解してくれない、なんで理解してくれないのだろう?もう親のいる家は、僕の居場所ではない。そのように思い僕の中で家は怖い場所、仲間がいない場所だと思い家は居場所ではないと思った。
僕は一年生の二学期から学度保育に行き始めた。
学童保育で僕は一人で塗り絵などをした、塗り絵が好きだった僕は塗り絵の本を何冊も持っている、晴れの日には運動場でも遊んだ、雨の日はみんなでDVDを見たりした、その中で面白かったのはトム&ジェリーだった、そのアニメが僕のお気に入りになった。
 雨の日が楽しみで仕方がなかった。僕は年に一回台湾に帰る事になっている。お母さんの方は台北でお父さんの方が高雄なのだ。僕のおじいちゃんとおばあちゃんは台湾の高雄で魚屋さんをしていた。だから毎年の12月台湾に帰った時僕の楽しみだった。一番の楽しみがおじいちゃんとおばあちゃんの間に座ってご飯を食べる事だった。料理はおばあちゃんが作ってくれて僕はそんなおばあちゃんの料理が一番好きだったしその時が幸せだった…僕が魚を食べるとおじいちゃんは魚の骨を抜いてくれた…すごく優しかったし嬉しかった、そんなおじいちゃんとおばあちゃんが大好きだ だから僕は毎年台湾に帰る事が楽しみなのだ、12月にはおじいちゃんとおばあちゃんに会えるのだ!
でも日本に戻って、学校に行くといじめられる、そんな生活を小学生時代に過ごしていた。
この時の僕はあることにハマり出した。クラスメイトの物を盗むことだ。クラスメイトのものを盗めばクラスメイトが困ってる、クラスメイトが困っている顔を見るとなんか快感を覚えるようになった。そして僕は毎日のようにクラスメイトのものを盗むようになった、僕は盗む事が好きになった。
クラスメイトのものを盗むことがなんだか面白くないと思ったある日に事件は起きた。僕と親は近所のスーパーに行った。色々見て回りながら鍵が目に止まってしまった。別に欲しいとは思わなかったけどちょうどズボンのポケットに入るサイズだった。僕はその鍵を手に取って自分のズボンのポケットに入れた。
そして親は買い物が終わり店を出た。
そして家に帰った、僕はもう鍵のことなんか忘れていた。僕は家に帰って、ズボンを洗濯カゴに入れお風呂に入った。そしてパジャマに着替え、僕は寝ようと思った。寝ようとしたその時、親に呼び出された。親に鍵が見つかってしまったのだった。怒られた。そして親は警察までも連絡した。僕はびっくりした、そして必死になって止めた。親は許してくれた。翌日僕は親と一緒にスーパーに行き店長さんに謝った。許してくれた。僕はこの時のことを思い出すとよくこの時に止めなければ、僕はきっと僕は警察に捕まり少年院に入れられるんだな、そうしたらもうあんな学校に行かずに済んでいたのかもしれない、もういじめられずに、周りを気にせずに勉強ができたのかもしれない、そのように思った。
 
小学校二年生
この時から学童保育で外出行事がある度にしんどくなって吐いて、先生とバスの中で休憩する事が多くなった、ある時なんか僕は遊んでいて突然僕はそ意識を失って倒れてしまった。それでも先生は僕をおぶってバスの所まで連れて行ってくれた。そして先生と二人でみんなが帰ってくるのを待った。僕はあんまり覚えていないけど、遠足がある度に僕は倒れて起きたらバスの中と言う事は覚えている、起きたらバスの中‥と言う事は多かったのだ。
学童では小学校三年生までの子が行ける所だ。 僕がその中で一番楽しかったのは自
分より一つ下の学年の子と遊ぶ事だった、2年生になって一年生の友達ができたのだ。おままごとで遊んだり病院ごっこをして遊んだりした、このときにやった病院ごっこが楽しすぎて、僕はこの時から病院ごっこをするのが好きになった、でもまだ小学校の低学年、病院ごっこって言ってもジャンルは限られていた、でもこの時から病院ごっこにハマっていった僕は、年齢が上がるにつれてジャンルが広がることになった。学童保育はすっごく楽しかった、友達と遊ぶことがすごく楽しかった、でもその一方で学童保育の中でも僕に対してのいじめがなくなった訳ではなかった、ある日、マーカーペンを使って服に落書きされたり、一方的に無視してきたり‥マーカーで背中に書かれたとき書いた子は僕に「インクが出てない」と言ってホワイトボードで書いて見せた、でも家に帰ってその所を見るとインクが付いていた。一番好きな服だったのにでもそれでも僕は友達と遊ぶ喜びを手に入れていた、だから少しショックだったけど苦に思わなかった。友達が来ていない日は外で遊んだり、塗り絵をしたりした。ある日外で遊んだ時僕は朝礼台にのぼって、頭から落ちた。たんこぶも出来た。痛かった。僕はバランス感覚がすっごく悪い。
僕はそこで三年生まで通った、その学童保育があって僕の人生の第一ステップとなりまた、四年生になってから僕の人生の幕‥大きな人生の幕が開こうとしていた。この時僕は一年生からの授業の時いじめに気にしないで、きちんと勉強すべきだったと後悔した出来事があった。でももう僕の知識は低かった、みんなとは離れてしまっていた。勿論、この時も僕はいじめられた。

小学三年生
僕は3年生になった。1・2年生の時と変わらずに過ごした。いじめは続き勉強には集中できずに、それでも学校には行かなければならない、そんな生活を送った。
でも唯一違ったのは、朝の会の時僕は別学級に行ってそこで朝の会をやったという事、そして算数の時には別教室に行って、そこでゆっくり算数をしたという事だった。
別教室に行くことはその時の僕にとってはすっごくいいところに見えた。でもそのせいで、余計にみんなとの知力の差ができてしまった。
 
 小学四年生
僕の人生が大きく左右される出来事が起った。この後の僕の人生に深く関係したり、いや…その事が僕の生き方を根から変え、親は僕に対する態度を変えていき、おかしくなり段々と過保護になっていき、またその出来事があるせいで今後大きな事件が起きたりするようなことが出来事が起きた。ある日僕は学校の先生に呼び出された それも放課後の時に!少しびっくりし戸惑いながら、先生の後について行き、案内されたのが、まさかの職員室、その後に校長室、隣から声が聞こえてくる‥「もうあそこに入られたらこれからはその道になってしまいます」と言う校長先生の声が聞こえた。僕は訳が分からなかった。でもひとまず僕の事ではないとその時は思った、でも後になって僕は気づいてしまった。
その時、僕は何だろうと思いながら、しばらく待っていたら僕のお父さんが出てきた その後にお母さんも出てきた。お父さんの顔を見たら何だか深刻な顔をしていたのを僕は忘れる事が出来ない、そのとき両親は僕の事で先生と話をしていたのだ、そして校長先生の話を思い出した、これから僕は何処に連れて行かれるのだろう‥少し不安に思いながらも僕自身では何も出来なかった。
次の日から、クラスには行かなくても良くなった。始めはすごくうれしくて 始めは喜んで仲良し学級に行った。
その学級は、普通と呼ばれている子ではない子供たちがいる学級…つまり、変わった子供たちが行くような学級だった。それでも、僕はもういじめられなくなる。そのように感じて僕は嬉しくなった。でも、始めは何も分かっていなくて、ここの学級が僕の居場所なんだと思っていたが、段々とここは僕の居場所又は僕が居るべき場所ではないと感じ始めた、でももう後戻りはできない。前を向いて過ごすことしかできなかった。
そんな時、僕はびっくりした、日本に来て初めに入った保育園の時の友達がその学級にいたのだ、僕は又友達を得ることが出来た、その友達と沢山遊んだり話したりした。すっごく楽しかった。でも、僕はその子達とどこか違うことに心の底から思っていた。でもそれを口に出すことは出来なかった。親や大人が決定した事‥こんな僕の為に時間をかけて決めてくれた事なのに、僕がここで口を出したら失礼だろうと思った。
僕は皿回しをするのが得意だ、僕はこの時学校の行事で福祉施設に行った、そこでの行事は皿回しだった、僕は初め失敗したけど、この後から僕は上手に皿を回す事ができ皿回しが好きになった。クラスメイトの誰よりも早くに皿を回せて僕は少し誇りを持った。
僕は通常学級で友達が何人かできた、すっごく嬉しかった。こんな僕でも、普通の友達を作ることはできるんだな、そのように思って嬉しかった。
その子に放課後遊びに誘われた、それを親に言ったらダメって言われた。「あんたはバランスが悪いからすぐ転けてしまう」「危険だからやめておきなさい」「友達?あんたはこんな感じなのに友達なんてできない、ただ利用されているだけなんだからやめておきなさい。」こんなことを言われた。僕は傷ついた、それでも、その友達は僕の家の近所で遊ぶからと言てくれて僕はその友達と、家の前にある公園で遊ぶことができた。そしてその日から僕とその子と放課後遊んだ、そして遊ぶ範囲も広がった、初めは家の前の公園だったのに、だんだん広がっていき最終的にはその子の家で遊べるようになっていった。すっごく楽しかった。
今僕は思う、小学校時代の友達作りと友達と遊ぶことは、今後の人間関係形成の土台になっているんだなと…もしこの時僕に友達がいなかったら、もしこの時外に遊ぶことがなかったら…僕はどうなっていたのだろう…考えただけでも怖くなる。

 小学5年生
ある日事件は起きてしまった。仲良し学級に入ったせいで起きたことが仲良し学級で事件が起きてしまった、僕は今もその事件について心が苦しくなる時がある。でも今の僕はその事と何だか切り離せる気がするのだ。僕にはその事に縛られない!‥今僕は全てを思い出し何も言えなくなってしまった‥やっぱりこの事に対する僕のトラウマからは切り離せない、もう切り離すことはできないのだ。この時からお母さんはさらにおかしくなったと思う。その事件とは自然学校で起った。でも、この自然学校の班は僕にとって最高だった、通常友達と一緒なのだ 少し安心した。僕は沢山沢山しゃべったり話したりした。楽しかった 三人いればもう無敵と思った。自然学校でほぼ行動するときは三人一緒だった、バームクーヘンを作ったり飯盒炊飯したりした、又魚を手で取ってそのまま焼いて食べたりした、おいしかったし楽しかったし何より最高な時間だった。
山にも登った、でも山登りの時だけ僕は仲良し学級のグループに連れて行かれた。
僕は訳がわからなかった、でもついて行くことしかできなかった。仲良し学級にいる僕の同級生は僕も入れて三人だった。その中の一人とのことで問題があった。
自然学校が終わり、僕は翌日仲良し学級に行った。そこにはその子のお母さんがいた。そしてそのお母さんに呼び出されて、怒られた、言っている言葉の意味が理解できなかった。でも怒られ続けて僕の頭は理解に追いつけなかった。その日から僕は仲良し学級でその子と会うことはなかった。仲良し学級にいても通常学級にいても周りを見たらみんなあの子だけを庇っていた、あの子だけが被害者とでもいうかのように、その子だけを見たり僕もいるのに全然気がついてくれずその子に優しくしたりしていて僕はしんどくなった。
 ある日のこと、僕は頭に来てしまって、仲良し学級の靴箱にあるその子の体育シューズを取って図書室の傘だてに隠した。その子が次の授業に使う体育シューズを持って行くために一瞬帰ってきた。勿論僕が隠したから靴箱にはない。困ったその子のあわてている様子を見て僕は嬉しくなった。やり返せた、そのように思った。
でも、仲良し学級の先生は僕が隠していることに気がついたらしくて、僕に問い詰めてきた。やっと僕にも目が向けられたと思い、少し嬉しかった。買うしたのに怒られはしなかった。その子に靴を返して、体育シューズの件はこれで終わった。でも僕とその子の関係は終わっていなかった。
仲良し学級での子の事件があってもクラスでのいじめが終わった訳ではなかった、だから僕の居場所はだんだんと消えてしまった。通常学級に行けばいじめられ居場所がないし仲良し学級に行けばなんか苦しくなって、仲良し学級も僕の居場所じゃない、もう僕の居場所はどこにあるのかわからずに悩んでいた。
五年生の時でも、僕は親と一緒に教会に行った。それ僕の助けとなった、だが僕は相変わらず牧師が何を話しているのか分からなかった、だからこの時教会が僕の本当の居場所だと気づきもしなかった。そしてこの時の僕は教会も僕の居場所ではなかった。
僕は家にも外にも学校にもまして教会にも居場所がないと悩んでいた時に、僕をこの環境から逃がしてくれるような出来事があった、学校から逃げることはできたけど、今考えれば、この時からもっとお母さんはヒステリックになっていき、少しおかしくなっていったのがこの時だったからなのかもしれない、そして、このことは学校から一時はなれる事が出来る出来事だけど、別にこんな形で僕を学校から離さなくても‥と思い少し自分を責めた。
 
 小学六年生(第一)
僕は6年生になることをすごく楽しみにしていた だがスキーキャンプを除いてだ! 六年生は小学校で言う最上学年にあたる、僕はそんな実感があんまりなかった。そして6年生の時に大きな事件が起きた、その出来事とはある日、通常学級から仲良し学級に行った時、その扉の前にお母さんが悲しい顔をして立っていた。僕を迎えにきた、すごく嬉しかった。僕は初めてお母さんと一緒に下校した、でもこの下校は何かがおかしかった、僕は家に着くと、何だか違和感を感じた。お母さんの寂しそうな顔‥僕が帰って早々誰かに電話をするお母さん‥誰かと話しているお母さんの声に耳を傾けて聞いていると、何だか僕は状況が分かった気がして僕も悲しくなった。もしかして僕のせいで‥と思い自分を責めた、僕はいじめられている時や問題が起きたとき心から、僕を学校に行かせないでと心の中で叫んでいたのだ、まさかこの叫びが誰かに聞かれていたとは知らなかった。人の心は誰にも見えなと思っていた。でも人ではない方で全ての人の心を知っておられる方がいる事をこの時は分からなかった、お母さんが悲しい顔をし、お母さんが誰かと話していた理由は台北にいるおばあちゃんが倒れたのだ、倒れただけだったらそんなに心配はいらないと思う‥でも僕のおばあちゃんは違っていた。僕のおばあちゃんは今病院にいるのだ。お母さんが学校に迎えにきて、その翌日僕とお母さんは日本を出発した。お父さんは来ていなかった、この時お父さんも一緒についてきていたら、今の家族関係はもっといいものになっていたのかもしれない、でも仕方がない…急なことだったし、お父さんは日本で仕事をしなきゃ行けない。それぐらい急な出来事が起きていたのだった。翌日台湾に行った、台湾に行く前に日本の空港で、お母さんから猿のぬいぐるみを買ってもらった。嬉しかった、そして飛行機に乗った、数時間後台湾に着いた、台湾に着いたら、僕とお母さんはおばあちゃんが入院している病院に行った。おばあちゃんと会うのは何年ぶりだろう?あんまり会っていなかった‥おばあちゃんと会えたのはすごく嬉しかったけどこんな形で、病院ではなるべく会いたくなかった。でも僕はこの時、学校から少し離れて自分の心を休める時間が神様から与えられたんだなと思った、でもまだ僕は神様を信じてはいない、お母さんのその他の家族にも会えて良かった。台湾に行ってから二週間ぐらい居てから又日本にお母さんと戻ってきた、その理由は おばあちゃんの様態が 問題なかったからである、最後僕はおばあちゃんの病室を離れる時、この姿、生きたおばあちゃんの姿を見るのが最後だとどこか心の底で思っていた。おばあちゃんは病室を離れる僕に力強く手を振ってくれた、僕はそんなおばあちゃんをすごく覚えている。もう忘れることはないだろう、いや…最後力強く僕を見て、僕に手を振ってくれたことを忘れたくない。病室から出て行く僕の背中を見ているおばあちゃん、それがおばあちゃんとの最後となった、おばあちゃんが手を振ってくれた時おばあちゃんの手を握ってあげれば良かったと今僕は後悔している。死を前にしているおばあちゃんはすごく不安だったと思う。ずっとおばあちゃんのそばに居たかった。でもそれはできなかった、日本に戻ってなんと翌日に台湾の家族から悲しい連絡があった。おばあちゃんは天国に行ったのだ、僕とお母さんが日本に戻ってくるまでおばあちゃんは必死に命をつなぎ止めてれていた、僕は最後の最後まで、悲しい顔を見せていないおばあちゃんに感謝したい、でも今の僕はおばあちゃんに言いたい事がある(しんどいときはみんなにし
んどいといっても大丈夫だよ、みんなは決して怒らない、しんどい時や辛い時は無理に笑顔を作らなくても大丈夫なんだよ、でも僕が日本に戻ってきてしまうまで生きていてくれてありがとう)と…僕とお母さんはすぐに日本を出た。この時もお父さんはついてきていなかった。お母さんはこの時どれぐらい心細かったのだろうか…多分、お母さんは自分のお母さんが亡くなった時ぐらい仕事を優先するんじゃなくて、家族のことを優先してほしかったと思う。そして支えてほしかったんだと思う、たとえ僕がそばにいても、一番支えて欲しい相手は夫であるお父さんのはずだ、だってこの時の僕はまだ小学生…何にもわかっていないガキ、だからお母さんを支えれない、でもそうは行かなかった。僕はこの時、お父さんがとった行動に怒った、この時から家族崩壊が少しずつ始まろうとしていた。
台湾に着いたとき、病院ではなくて式場に行った。おばあちゃんが居なくなったのは残念だけど、その時僕はなぜかもう少しでおばあちゃんに会えると思い僕は悲しい感情がなかった、初めて体験した、親族の死、そして葬式、何をすればいいのかわからなかった僕はただ周りを観察し周りに合わせることしかできなかった。葬式が終わり、おばあちゃんのことが少し落ち着いてから僕とお母さんは日本に戻った。日本に帰ってきた時、僕は全てが分かった、全て分かってすごく悲しかった。もうこの世におばあちゃんはいないのだ、でも僕は気持ちを変えておばあちゃんの分まで生きようと思った。
でも学校と言う現実に戻ると、僕にはやっぱり何もなかった、この時から自分が存在する意味がなんだろうか?と考え始めていた。学校に行くと、いつもの学校…仲良し学級に行けば、常に気まずい空気が流れてる、そして通常学級に行けばいじめられて、僕は周りの視線を気にしてしまって、なかなか授業には参加できなくなる、もうそんな学校にはいきたくない、でも台湾から帰ってきたとき、学校に何だか変化が起きていた。まず初めに、いつもは給食の時間は通常学級のみんなと一緒に食べるのだった、でもクラスに行くのがしんどくなっていたことを、仲良し学級の先生がわかってくれ、僕と仲良し学級の先生と一緒に仲良し学級で給食を食べれた、二つ目に通常学級から私の所に一人の子が来てくれたのだ、すごく嬉しかった、通常学級の中でも僕のそばにいてくれている子はいたんだな、そのように思った。その子と音楽をきいた、すごく、すごく楽しかった。僕はいろいろな悲しみを胸に6年生に上がった。この時に 僕は助けを ほかの大人達に求めれば良かったと今の僕はすごく後悔し実感している
 小学六年生 (第二)
三学期になった、この時僕は学校にあんまり行けなくなっていた、でも僕はスキーにはクラスメイトと一緒に行けた、でも、部屋のメンバーがすごくヤバかった。僕の苦手なメンバーだった、今でいうギャルたちと一緒のメンバーになってしまったのだ。僕はスキーキャンプに行く前から、嫌な予感しかしなかった。その嫌な予感は当たってしまった。一日目、みんなと一緒にスキーの講習を受けた、すごく分かりやすくかつ面白く話していたから心の中にとどめる事が出来た。講習会が終わってからごく普通にスキーを楽しんだ、始めはなかなかスキーが出来なかったけど、コーチと一緒だったから良かった、スキーの時僕は通常学級のみんなといた、仲良し学級のグループに行けば、あの子がいたから、僕は仲良し学級のグループに行くことはできなかった。今更通常学級のみんなと行動しても、もうこの時の僕は友達がいないから意味がない、通常学級にいても僕は孤独感を感じていた、そして大人を憎んだ。
二日目、この日に事件は起きた。僕は一日目と同じ感じになるのかな、僕の嫌な予感が的中しなくて良かった‥とこの時は思った。朝一日目と同じ平凡に過ごし又楽しくスキーが出来た。この時もコーチが僕と一緒だった、一日目よりもスキーは上達していた。林間スキーにも挑戦した、僕はできたことの達成感がすごかった、嬉しかった、スキーって楽しいと思った、でも問題はここからだった。二日目の夜、みんなとお風呂に入った、部屋のメンバーとお風呂に入った。何だか隣の方で聞こえる‥よく耳を澄まして聞いてみると、僕の悪口をいていた、「あそこの席はあの子が座ったところだから、使わないほうがいいよ」そのような囁き声が聞こえてきた。僕は辛くなった、もうそこにいたくない、そのように思い僕は早くその場を離れたかった、だから早く浴槽には入らずに浴室から早く出て、服に着替えて風呂場を出て部屋には戻らずに 保健室である保健部屋に行った、僕が行くと保健の先生にビックリされた 僕は保健室から出たくなかった。この時に気持ちがしんどくなっている時は保健室に行ってもいいんだと思った。でもこのように思ったことは、すぐに忘れてしまった、次のプログラムが始まってしまう前もう一人の子も保健部屋に来た、その子も僕と同じようにみんなと一緒に居たくないらしい‥だから僕と一緒に居た、話をしたりした、一番良かった話がその子はコナンが好きっと言っていたからコナンのアニメの中でのクイズをしてくれたり初めてその子と一緒にしゃべれたから楽しかったし嬉しかった。僕の記憶の中に深く彫り込まれた。みんなが帰ってきた、僕はまだ自分の部屋に戻りたくなかった、だからみんなに迷惑をかけてしまった、僕はわがままを言ったんだ、先生には僕の事を言っていた子達に注意する声が隣から聞こえてきた、僕はこの時、何でも先生に頼っても良いと思えた。
やっと地獄に思えたスキーキャンプが終わった、僕はこのスキーキャンプの事がきっかけで修学旅行がすごく不安になった。でも僕の心配をよそに先生が考えてくれた、僕と先生二人で行動した。僕の事を助けてくれたりいろいろな面で僕を支えてくれた。嬉しかったし楽しかった、僕が気にいったのは遊園地のブランコだった、すごく楽しかったから、それしか乗っていない‥何回も何回もブランコに乗った、そのブランコに乗った時、何だか空に行けるような感じがした、だからそのブランコに乗るのが好きだった。
その他のメンバーの子からはゼットコースターに乗ろうと誘ってくれたけど僕はゼットコースターが怖くてなかなか乗れないでいた、でも誘ってくれてすごく嬉しかった。修学旅行で行った広島には鹿が放し飼いされていた。何より先生が僕を支えてくれたのもあるし、この時の部屋のメンバーが最高だった、僕は落ち着いてみんなと楽しむ事が出来た。修学旅行では原爆ドームがおおきく印象に残っている、原爆ドームの物語は広島に行く前に学校の授業で学んだからだいたいは分かっていたしこれは人事ではないなと思った‥身近な物だと思った、理由は‥原爆ドームが守られたのは白血病の女の子が書いた文書によって守られた事を学んだ、白血病‥僕のおばあちゃんも白血病で亡くなったのだ、この時期に僕のおばあちゃんは白血病でなくなるし白血病に関わっている原爆ドームには修学旅行で行くし‥僕はこの時複雑な気持ちになった。
僕は修学旅行の車の中寝ていた、僕は夢を見た、でもこの時僕が見た夢は忘れてしまった、でも起きた時となりに座っていた子から「泣いていたよ」と言われて 僕は恥ずかしかったし僕は何がしたいんだろうと心で思った、この時から僕は寝ている時に泣き時にはうめくようになった、理由はわからない、見た夢は覚えていない、でも辛い夢や悲しい夢ではないとは思う、僕は自分が寝ている時になんでうめくのか気になった。でも周りの大人に相談することはできなかった。修学旅行で船に乗った、僕についていてくれた先生とこの時も一緒だった、この時僕は四人でのグループで行動していたけど僕は先生にくっついていた、またいじめられるのが怖かったから先生にくっついた、でも四人が写真撮る時その先生は僕が戸惑っているのを見て入るように諭してくれた、でも僕は戸惑っていた‥もし僕がその写真に入ったら、なんだか行けない気がした。そしたら 先生が僕の背中を力強く押した、こけそうになった、でもみんなとの写真撮影に間に合った、僕は背中を押してくれた先生に心から感謝した、僕はこの時に撮った写真を見る度にこの出来事の事を思い出す‥そしてこの写真は僕の大切な宝物の一部になった
船以外の写真も先生がその度に僕の背中を押して写真に入れようとしてくれた事もある、でもこの時は嫌がった。そして先生とならみんなの所に入れる事を先生が分かっていてくれて先生とみんなと一緒に写真を撮った。この時の写真も僕の思いで又はお宝の一部となった。そして修学旅行はいじめもなく楽しい修学旅行で終わることができた。
小学校最後の運動会、僕は組体操をした、下になったり上になったりで、忙しくて、下にいた時は痛くなって、上にいるときは怖くてバタバタだったけど、無事にかっこ良く決まった。すごく良かった、何より僕は運動会の最後の言葉を人前で発表したことだった、準備する時は大変だったけど、本番の時人前でしゃべった!まだそこに知らない人もいたのに僕はしゃべったんだ、この時から僕は人前でしゃべる事が好きになった。そして、このことは後々の僕の人生に大きく関係した、このときにみんなの前で発表ができてよかった、だってすっごく大きな自信がついたんだから、こんな僕でもみんなの前で、はっきりと僕は発表できた。でも、この時は今後も人前でしゃべる事になるとは思っても見なかった。
色々あった小学校ともお別れする時期が近づいた、僕は中学校に行くのはなんだか少し不安だった。全然楽しみではなかった、だって今行っている小学校のメンバーもほとんど変わらないと思うし、またいじめられるかもしれないし、そのように思うと、なんだか中学生にはなりたくなかった。
このとき周りをよく観察し、僕だけじゃなくみんなも色々なことに対して不安やしんどさを感じていることを分かっていたら、もっと違う視点で中学校生活を送っていたんだろうな、そのように今は思う。
そして、僕は小学校を卒業した。


中学校時代

 中学1年
僕は中一になった、小学校まで教会では、教会学校というところに行っていた、そこでは小学校6年生までの子がいけるところで、讃美歌を歌ったり、レクイエーションをしたりして、過ごす場所だ。でも中学生になったら学生会という場所に行く、僕はそこに行っている人たちが小学校の時羨ましく思った、そしてやっと僕も学生会に行くことができるようになった。
ある時、その学生会でユースキャンプがあった、そのキャンプに行くのは初めてだ、キャンプに行った、そこでは全国の何箇所かの教会が集まっていた、中学生や高校生が多かった、そのキャンプでメッセージを聞いたり讃美歌を歌ったりした、この時賛美をしているとき僕はびっくりした、讃美歌を歌いながら、ダンスをしたりコンサートみたいにはしゃぎながら讃美歌をうたってもいいんだ、讃美歌っていうのも体全身で表現できるんだと思い、僕も全身を持ってはしゃいだりした、すっごく楽しかった。でも僕にはお母さんもついてきた、周りを見たら、みんなにはお母さんとか、親が来ていないのに、これも僕が仲良し学級に入ったせいなのだ、みんなと違うから、知能力が違うから、親がいないといけないと思われている、僕は親が来ているせいで僕はみんなとはあんまり行動ができなかった。でもそれでも僕ははしゃぐことを止めたわけではなかった、全身で僕を表現した。そのキャンプにはゲストさんが来ていた。そのゲストが集会の時このように言った「岩の上に家を建てる者でありなさい 砂の上に家を建ててはいけない」と言う事に胸を打たれ、僕は神様の福音と言う岩の上に自分の家を建てたいと思った、又その人は、砂の上に家をたてる者は日曜日教会に行くべきなのに友達に遊びに誘われたら教会には行かずに友達の方に行ってしまう者の事で岩の上に家をたてる者は友達に誘われても、友達の所には行かずに友達を教会に誘う者である事を言われていて、僕は岩の上に家を建てる、このような者でありたいと思った。そして神様を信じる事を決心できた、でも怖くて誰にも決心したことを誰にも言えずにいた。でも一人だけ言えた人がいた。その人は僕の為に祈ってくれた、僕の為に祈ってくれた人がここにいた!僕はこの事を常に心に覚えていて僕も困っている人の為に祈ろうと思った。僕は勇気を出して親に決心した事を伝えた、一発で反対され僕も少し望みが薄くなった、でも諦めかけようとした。僕を支えたのがあの時のゲストさんの言葉と聖書の御言葉だった。僕は、ユースキャンプで決心した事を思い出し又そこで祈ってくれている人の事を思い出し自分の事はどうして簡単にしかも大切な事を諦めようとしているのかなと思いもう一回、何回も親に決心した事を伝えた。初めは「こんなあんたが信じても無駄だと思う」「まだ信じるな」「神様のことをもっと知ったら、もっと勉強してから決めなさい」こんな感じで行ってきたけど、僕はしつこく何回も「信じた、洗礼を受けたい。」そのように言った、そしたら親が納得してくれた、そして僕はバプテスマ(洗礼)を受ける事になった。この時から僕と神様の人生が始まった、もう僕は神様を信じたんだ、もう辛いことなんてないし苦しい事もないだ、そしてこの事がきっかけに僕の大きな希望の幕が開いた。もう僕は自由になったんだ、これからは薔薇色の人生が僕を待っている!その時そのように思っていた、でも神様を信じていてもその後の僕の人生は全てバラ色の人生だった訳ではなく信じる前よりもひどくなったような気がした。
中学の時も、僕は仲良し学級に入ることが決まった、もう僕の人生からは逃れないんだ。そのように思って、少し辛かった。小学校の時の仲良し学級は好きな先生がいたけど、中学はいなさそうだった、全ての先生の顔が暗く怖かった。仲良し学級で勉強したり、通常学級で勉強したりした、その中で、僕は苦手な先生を仲良し学級で作ってしまった。でも、その一方で僕は全先生の中で好きな先生も何人か見つけることができた、でも僕の好きな先生は皆体育系の先生だった、それ以外の先生は苦手、または嫌いな先生になった。ある日、初めての家庭科の授業の時、面白い先生に出会った、僕はその先生の虜になってしまった。そしてその先生も好きな先生になった、唯一体育系ではない好きな先生だった。
二学期の時、部活見学というのがあった、一人三つの候補を決めて見学した。僕が決めて見学した部活の一つ目にバスケ部にした、テレビで見てかっこいいと思い僕はバスケ部に入りたかった、でも小学校の時の自然学校でのメンバーがそこにいたし僕の体力が追いついていけないだから出来なかった、そして二つ目に僕は放送部を見学した、6年生の時みんなの前で発表した時の開放感をもう一回体験したくて、放送部に入りたかった、でもそこは僕が苦手な先生がいた、だから行くことはできなかった。三つ目に僕はパソコンがやりたかったから 生活部に入った、なんとその生活部は家庭科の先生が顧問だった、僕はすっごく嬉しかった。部活の時だけ自分の世界に入って黙々と自分の作品作りに集中した、楽しかったし何より家庭科の時だけじゃなく部活の時も先生は面白かった。勿論、生活部はパソコンだけじゃなくて料理もした、おいしかった。
僕はこのとき放課後に居場所になるところ(デイサービス)に行った。そこに行くのは、始めすごく楽しかった、仲間も与えられ又そこの先生がすごく優しくしてくれた 一番の思い出はクリスマス会や夏祭りで行った所がすごく良かった、話してくれる人がいたしみんな優しくしてくれた。でもしんどかった行事があった、月何回か行われる音楽だ、僕はこの音楽がうるさくて、うるさくてすごく嫌だったのだ。でもある日、僕はこの音楽である女の子がみんなの前で歌っていた、下手な歌だったけどすごく力強く歌っていた、僕は何だかその子に励まされた。しんどかった時に又色々悩んでいた時にこの子が歌っている歌を聴けて良かったと思った、たとえ歌うのが下手でも、僕は不思議とその子の歌は聴き続けることができた。この時から僕も自分でその歌を口ずさむようになった。
僕は新しいクラスに慣れないでいた、小学校で一緒だった子もいたけど、初めましての子もいた、慣れない中でも僕は初め楽しかった。僕はほかの子から冗談などを言われたりされた、小学校の時は冗談みたいな本当のことを悪く言われた時はすっごく傷ついていたけど、この時の僕は(また言ってる、そんなに僕と絡みたいと思ってくれているんだな。)そのようになって、少し楽しかった、僕もみんなと遊びたい、そのように思ったけど、みんなと離れていた期間が長すぎた、僕は普通のみんなとの接し方がわからなくなっていた、これも僕が仲良し学級に入った影響なんだな、そう思って悲しくなった。みんなと遊びたいそのように思っても、言葉や態度でどのように表現したらいいのかわからなくて、苦笑いするしかそのばを乗り切る術はなかった、乗り切る…とはなんだか言い方が違うかもしれない、本当はみんなと話したり仲良くしたり、僕もみんなと遊びたいんだ!
2学期から僕はスクールカウンセリングというものに通った。カウンセリングの先生は女の先生だった、僕はこの時もっといろんなことを話していればよかったし自分のしんどいことも辛いことも話しておけばよかったなっと思った。でも当時の僕は、何にも話せずにいた。
中学一年生は、友達関係やクラスメイト関係のこととは関係なしに周りに会わせる事が出来たし何より家よりも学校が楽しい存在に変わっていった、その時は友達も仲良し学級にはいた、保育園や小学校の仲良し学級からずっと一緒だった友達もいたし、小学校の時にたまに遊んでいた友達もいたし、新しい友達も仲良し学級でできた、小学校時代の仲良し学級はどこにも仲間はいない、孤独だ、そのように思っていたけど、中学校の仲良し学級は仲間が居たし、ここが僕の居場所なんださえ思えることができた。だから学校に行く事はすごく嬉しかった。でももう1つの幕が僕の前を開けた。その先に見えるのは、少しの光だけだった、こんな苦難、全ての事を含めて、僕には耐えられなかった、でもこの時僕はまだ苦難の最初の入り口にいてこれからが大変だとは思わなかった。一年生は友達も多くいて楽しかった。
僕は家でも学校でもない、ディサービスでもない居場所を見つける事が出来た。
僕は教会の何人かで一緒になって台湾に行った、楽しかった。何もかも忘れて主を讃美する事が出来た。母国で主を讃美出来ているんだ、僕の夢が一つかなった。これを通して一人でも神様を信じる人が出てくれればと思いながら僕は主を讃美する事又台湾に帰ってみんなと一緒に色々楽しんだ。
僕はユースキャンプの時に賛美する楽しさをみつけたしその時、自分自身を表現する力を身につけていた。だからこの時も僕は自分自身を全身で表現できた。
僕はふと自分の生きる意味について考えた、この時から、僕は自分の生きる意味について考え始めた。
 
中学2年
僕は二年生になった。僕は一人の仲良し学級にいる三年生の友達と別れてしまった。
でもまだ耐える事が出来た。僕には少しつらく寂しかったけどこの事を通してほかの子ともっと深く遊べる事が出来た。新一年生は仲良し学級には入ってはこなかった。
2年生の時、僕は学校で他に好きな先生を見つけた、それは生徒指導の先生だった、野球部の顧問でもあるその先生は、なんだかいかつくて、でも生徒思いということが伝わってきたしその先生は、他の先生とは違う何かを持っている湯に感じたから、僕はその先生のことが好きになった。
僕は歴史の授業がどんな物なのか気になった、不思議と歴史の授業内容だけが気になったのだ、僕は親に「歴史の授業は普通学級のみんなとやりたい」と言った。お母さんもそれには答えてくれて、先生に掛け合ってくれた。でも先生が出した答えは「あの子が社会の授業に来ると、他の子の成績にも関係してくるので、すみません」という返事だったみたいだ、僕はそれを聞いた時先生を信じられなくなった。
学校は楽しかった、でも家に帰れば何かが起った、この事は小学校二年生の時から続いている事だけど小学校の時はされるがまま何も分からなかった。でもこの時の僕は徐々にいろいろな事が見えてきて色々わかるようになっていった。この時から僕は家出をしたいと思った、家に帰っても家は僕の居場所じゃなくて怖い場所だと思っていたから、もうあの家には帰りたくない、そのように思ったのだ。でも学校に行けば友達がいたから家出は出来なかった。友達がいた事は僕の救いだった、このとき僕は教会の学生会に行けなくなった‥心の底で教会から離れていたこの時、僕の先にあったはずの光が消え始めた、こんなに辛い思いになっている、神様を信じたら、辛い思いは消えるんでしょ?なのに今僕はこんなに苦しんでいる、神様は本当はいないんじゃないの?そのように思っていた、このように思いながら大人の礼拝には親と参加していた。でも牧師の話は聞いていなかった。
僕は生きる希望を失いかけていた、家にも学校にも居場所がなかった、そして驚異界にも居場所はないけど、親に連れられるからしんどくても、教会には行く、でももうかんな苦しいのに神様は全然助けてくれない、神様はいないのだから、教会に行って礼拝しても意味がない、次第に僕は教会に行くことが苦になっていってしまった。そして自分の生きる意味や、目的を見失った。そんなある日僕は親に「死にたい」そのように呟いたことがある、すると親は僕に[いなくなりたいんだったら、聖書を全部読み終わってから]と言われた、その時の僕は気持ちがもうキリストから離れていたから、聖書なんて読む気がなかった、どのようにして自分で自分の命を断とうか、どのようにしたらいいのかわからなかったから、僕は死にたい気持ちを抱えたまま死ぬことはなかった。
でも僕はこのお母さんの言葉を胸にとどめておく事にした、万が一の時にはお母さんの言われた言葉通りにしようと決めた、僕はこう考えて少ししんどくなった、でも心が少し楽になった、でも疑問が一つ残る、なんでお母さんは僕になんで死にたいのか聞かなかったんだろう、そしてなんで僕が死にたいと言った時に、止めもせずに「聖書を全部読んだらいいよ」と言ってくれたのだろう、僕は不思議に思った、多分親も早く僕がいなくなればいい、そのように思っているのに違いない、そのように感じた。
二年生の時の僕の精神面は徐々に崩れ始めていた、中学の時に僕は声を張り上げていれば、この時から、精神科に通っていれば…そこで僕の気持ちを話しさえしていれば、この後の人生はどうなっていたのだろう‥でもその時は何も考ええられなかった、僕を助けてくれるのは一人もいないと思った、でもただ一人この時の僕を笑いで助けてくれた、その子がいたから僕は学校にも行けた。勿論他の子も仲良し学級にいたし他のことも仲良くした、でもその中にいても僕は恐怖で又自分の心の底で何かが叫ぶ気持ちと葛藤していた、その他の子の中には僕の苦手な子ももちろんいたけど好きな子もいた‥僕の親友がそこにいたのにも関わらず僕は自分のしんどさにしか目がなかった。でも三年に上がる時に僕は更に孤独を感じる事をこの時は分からなかった。
 
中学3年
僕のすべてが一気に崩れた、始めに崩れたのは友達との別れ、すごくしんどく悲しくて寂しかった、僕が2年生の時の三年生の友達は卒業していった、でもそのおかげで新しい友達が1人増えた、僕はその時この子を守ろうと思った。でも何かがあるたびに僕はその子と喧嘩やその子を泣かせてしまった事もあった、その度に僕は自分を攻めた 僕はあの子を守ろうと思ったのに‥僕は家で何かがあるたびに、その子に当たってしまっていた。その子には分かって欲しかった、でも分かってくれなかった、それも仕方がなかった。でもその子は僕と喧嘩した後も普通に接してくれた、笑顔で接してくれているあの子を見ると僕のしんどさが少し無くなったように思った、なんでこの子はこんなに優しく僕とに接してくれるんだろう、僕のしんどさがあたかも分かっているかのようだった、何にも話さなくても、分かり合えるんだな、そのことに気がついた。その子は中学校生活でいちばんの友達だと思えた、でも僕は心の底から遊ぶ事が出来ないのだ!心の底から遊びたかった。
あの子が僕にしてくれたことはたくさんあった、僕もその子に何かしてあげたいと思い色々僕なりに考えた、でも考えた結果が何があっても昼ご飯のときその子を迎えに教室までいく事が、僕に出来る償い方法又は恩返しだと思った。だから僕はあの子の教室に毎回向かった。僕を見る後輩達‥でも僕はそんな事は気にしなくなった‥僕は友達を待っているんだ!そう思い僕の心の持ちようが強くなった気がした、前の僕ならきっとしんどくなっていたと思う、そしてこのとき僕は友達が大切だと、改めて実感した 友達が居れば僕は無敵だった。でも僕は学校以外にいろいろな事がありすぎて学校からも逃げたかったと思った、でも僕には守りたい、一緒にいたい友達がいる、だからそんな事は出来ないと始めは思った、でも僕はいろいろな事に絶えきれなくなりあんまり学校に行かなくなった、その子にも深い傷を与えてしまった、
僕があんまり学校に行かなくなったある日、学校の先生から手紙が来た「朝から昼まで、昼からでもいいので学校に来てみてください」と、そのように書いてあった。初めは全然乗り気ではなかった、でも学校に行かなくなって二週間が過ぎていった日、僕は仲良し学級にいる友達に会いたいと思い、朝から行くことにした、久しぶりの学校だった、普通クラスにもいった、久しぶりに来た僕をみて「〇〇が来たー」と言ってきた子もいた、なんかみんなに心配させてしまったなと思って、少し申し訳なくなった、でもあんまり学校に行けなくなっても、クラスの数人は僕のことを覚えてくれていたんだな、ってことが分かって少し嬉しかった。仲良し学級にいる僕の友達は相変わらず、普通に、僕と接してくれた、この時、やっぱり普通はいいよね、そのように思った。その日の午後僕は急にしんどくなった、そしてこの前先生に渡された手紙を思い出して、僕は先生に帰りたい、と言った。そしたら「しんどくもないのに早退はだめ」って言われた、僕は更に先生に対して信用をなくした。僕は苦しかった、もうここにも居場所はないんだなそのように思った、もう僕はこのとに、仲良し学級にいる、僕の友達のことをすっかり忘れていた、次僕がその子とお別れするときが近づいた、もっとその子との思い出をつくれば良かったと思った。
二学期のある日、学校にゲストが来た、芸能人ですっごくおもしろいパフォーマンスをした、その人が「僕に相談がある人は、このボックスの中に入れてね」と言った。僕はふと、中学一年生の時に感じていた生きる意味はなんなのかについて、改めて考えた、生きる意味がなんなのか、僕が存在してもしなくても別にいいのではないのだろうか、そのように思い僕は「生きる意味はなんですか?僕は死にたいです」そんなことを書いた紙をボックスの中に入れた。
翌日僕はスクールカウンセリングの先生に呼ばれた、なんであんなことを書いたのか聞かれた。僕は答えれなかった、どのように答えていいのかわからなかったから、僕は黙っていた。
数日後、僕はクラスのみんなと修学旅行に行った、僕が行きたかった沖縄に行けた。初めは、修学旅行には行きたくないと思った、でも不意に修学旅行の行事だけは行けた。僕は沖縄に行ったことがなかったけど、沖縄が大好きなのだ、本州とは違う食べ物や気候‥まさに外国に行った感じがするのは沖縄だった。特に台湾に帰ったようだったそして行動班で僕の事を助け支えてくれたクラスメイトが1人いた、僕はその子と一緒になれて嬉しかった、勿論中には苦手な子もいたけど、その事は気にしなかった、僕はこの修学旅行を楽しんだ、良い思い出がつくれた。バナナボートに乗った事が最高に怖かった思い出だった、僕はゼットコースターが嫌いなのだ、でもこのバナナボートはそれよりもすっごく怖かった。水上にエンジンがついているボート‥そのボートに取り付けられたバナナボート‥それに乗ってと言われて乗った、始めは優しい物だったから楽しかった‥でも後々勢いがましてすごく怖かった、まさに水上ゼットコースター!始めは怖かったけど、後から慣れてきてすごく楽しかった。旅館に戻ると沖縄の文化であるエイサーの出演を見た、すごかったし カッコいい僕もこんな感じで踊りたいと思った僕はその数年後にエイサーをやれる事はまだ分からなかった‥修学旅行を通して感じる事は卒業の日が近づいた事だった、僕は高校には普通の高校に入れるのかなとの期待があった、でも僕自身でも既に自分は出来ないと実感していたから、一応の覚悟はしているつもりでいた、でも覚悟をしているだけだった、心からの覚悟はまだこの時の僕は出来なかった。
僕は小学校であった一番つらかった事を思い出した。僕はその子と又同じ学校になるのが嫌だった、でももう、あれから四年も経っているからさすがに忘れているのだろうか
と思った。でもやっぱり不安だった、変な親子‥もう会いたくないと思ったのだ、でももし僕は普通の学校に行けなかったら、その子と同じ高校に入学する事になる事は目に見えていた‥僕は頑張ろうとした、でも出来なかった、もう僕のこの時の知能数は、小学3年生で止まっていたのだ、3年生からの知能は全く持ってない、そんな僕が今頑張ったところで、到底みんなに追いつけるわけがない、これも三年生の時に別学級で勉強し4年生には、仲良し学級に入った影響が出たんだと思った。僕は全てを諦めかけた。でも神様は僕の事を全て見ていて下さった。ある日親の方から引っ越すと言う提案が出された。今住んでいる地域から離れればその子と一緒の学校に行かなくてもいいのだ
でも僕の為に引っ越しなんか‥本当に感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいになった。親もその親子に対してうんざりしていたのだろう。僕と親は僕が高校に入学する前に引っ越しをする事になった。僕は引っ越す事に対して嬉しかった、又新たな所で新たな人生をスタートさせるんだとの勢いを持っていた、将来に対して期待する事が出来た。でも次、入る高校にどんな先生や人がいるんだろうと僕の心は不安になった。小学校の時のように、いじめられないのだろうか、中学校の時のように、ほとんどの先生に対して苦手や嫌いにはならないのだろうか?僕はすっごく不安になった。でもこの今の環境や過去を引きずっているこの家から出れる事にすごく嬉しかった。僕はまだこの時次行く学校は短い期間で転校させられる事になるとはこの時気づいていなかった、でも薄々なんかすぐに離れる事は心のどこかに思っていた。
卒業を控えた半年前のこと、僕は問題を起こしてしまった、内容はあんまり覚えていないが、警察に連れて行かれて、親と生徒指導の先生が迎えにきてくれたことは覚えている。そして改めて僕の生きる意味を考えた、もう生きている意味はないのでは、こんなに才能も、知能もない僕なんて、生きる意味なんてない、この時から毎日のように考え悩んでいた。
そして、高校に対する不安を抱えたまま、僕は中学校を卒業した。

高校時代

 高校一年
僕は引っ越して、そこから高校に通った。
そこでは全てが初めましてだった、そこの高校は普通の高校ではなかった。小学校の時や中学校の時の仲良し学級にいた子供たちが通う学校に僕も行った。僕はこれからも何かあるんだろうな、そのよう思った。でも友達は早く作る事が出来たし好きな先生も作ることができた、しかも好きな先生は人一人だけじゃなかった、同学年にいる先生が全員好きだった、でもその中でも一人の先生はまた別だった、苦手だったのだ、でもこの学校の先生も優しかったしクラスメイトも優しく、僕が困っていたら僕の事を助け励ましてくれた。担任の先生と給食終わりに一緒に図書室に行ってくれた、すっごく嬉しかった。この時、前に見えていた光が輝きを取り戻した、でもその光も一瞬にして消えてしまう事になった。僕は、沢山友達が出来た、でも僕の居場所は学校ではないと日に日に強く思うようになった。でも学校に行かなかったらずっと家にいる事になってしまう、僕は家も嫌だったのだ、家に帰れば常に親がいる、家に親がいると、僕が帰った時には毎回怒られたり、いろいろ注意されたりされる、そんな家には帰りたくないしいたくない、でも帰らなきゃいけない、そんな同じ事の繰り返しの人生‥この人生は面白くないと僕は思い始めた。
ある日の深夜、急に火災警報機が自分の部屋で鳴った、その音に起きた僕は、僕の寝ていたすぐそばと後ろに火が燃えていた事に気がついた。僕はビックリした、ヒーターをつけながら寝ていたのだ、そのせいで布団がヒーターに当たり火が燃え移ったのだ。僕は急いでお母さんとお父さんが寝ているところにいき、二人を呼んだ。僕はビックリしてその後の出来事はあんまり覚えていない、ただ一つ今でも覚えているのは。親は僕の事をかばってくれず攻められた事だった、僕は火が乗り移ったと言っても信じてもらえず、お前が火を付けたと言われた。僕は火なんか付けていない、寝ている僕が火をつけれるわけない、しかもすぐそばと僕の後ろの二箇所に火をつけれるわけないと心の中で毎日、毎日叫んだ、心の中の声は誰にも聞こえないのに‥この時から僕の先に見えていた光り輝く光も一瞬にして消えてしまった。そしてここから、僕の冷えきった三年間が幕を開けた(いや‥三年間ではない‥初めは三年間で‥少しして又冷えきった人生が幕を開ける事になった。この事がきっかけで僕の心は憎しみと怒りが常に存在することになった、なんでみんなは僕の事を信じてくれなかったんだ!)そしてこの時から親が僕のことを信じてくれず僕を攻めたことに対する、悲しみと怒りで大人全員を信じれなくなった。僕はこの時大人を敵に回したいとすら思ってしまった、余計に僕は家が居場所じゃないと思った、学校も家も居場所ではない、どこにも僕の居場所ではない感じていた僕は外に居場所を探し求めていた。でも、探せば探すほど心の空しさが深くなった。この時にもう一回神様の事を信じた時の喜びや平安を思い出せば良かった、思い出せていたら、今後の最悪の人生への歯止めになっていたのかもしれない、でもこの時の僕は神様の事も忘れてしまっていた。
ある日 僕は学校の先生に呼ばれて職員室に行った、そこには生徒指導の先生と親がいた、そして先生の車に乗り、親と学校の先生と一緒に警察署へ行った。そこで僕は、この先に何が起るのか何も知らずに今だけを見ていた。僕は大人を信じてはいなかった、だから何にも話したくない、そのように思ったがダメもとで僕は警察官の人にいなくなりたい家に帰りたくない事を伝えると、その警察官はまた変な事をしたら親とあえなく
なるようにするよと言われて僕は冗談を言われている事に気づかず全てを鵜吞みにしてしまった。警察署に行った日の真夜中僕は変な(変な事=したら行けない)事をした
それは家出をする事だった、中学校の時にやってみたい、やりたいと思ったけど学校には友達がいたから、できなかった、でも今は友達はいる、でも友達よりも、今のこの辛さから逃げたいんだ、そのように思って僕は家を出た、家を出た瞬間自由になった気がした、もうあんな家になんか、もう学校になんか行くもんか、そのように思った、でもみんなに迷惑をかけた、でもこの家出を通して今の僕は存在していると思う‥この時僕は家を出なかったら、どうなっていたのだろう、この家出のおかげで僕は人生を大きく変えることができたのだ。朝‥誰にも気づかれない、昼‥誰にも気づかれない、でもそろそろ誰かに気づかれてほしい、夜‥(始め)誰も気づかれない、そろそろ僕も大人に対する期待が無くなっていく‥もう僕を探してくれないんだ、こんな僕初めから、いなかった方がいい存在なんなんだ、僕がいなくなって良かったと大人たちは絶対に思っているそう思って、期待が消えかかっていた時教育委員会の人が僕を見つけてくれた、すごく嬉しかった この時に教育委員会の存在を知った、そして前日行った警察署に行った、僕はこの時大人に勝利したとおかしな考え方をした。その警察官は親に「ゆっくりさせてあげてください」そんなことを言っていたのが聞こえた、僕はこの時初めて、警察官が味方になってくれたんだと思った。
そして、警察署に行った翌日、僕は児童相談所に親といき、その日に親と離れることはできた。警察の人が最初に児童相談所の人に言ってくれたんだと、そのように思った。
おやっと離れれることを知って僕は前からずっと思っていた、願っていた願いが叶った
そのように思った。この時の僕の願いはすごく愚かな願いだったと思う 。
僕はしばらくの間、親と別れて別の場所に行った。そこには僕と同じ家出をした子供達など、さまざまな事情を持った子供たちがいた。そこでは勉強もきちんと勉強を教えてえてくれる、そして何よりここが僕の居場所‥友達は相変わらずいなかったしそこのルールはたくさんあって厳しかったけどここが他の場所とは少しどこかが違った、それでもここが僕の居場所、だと思える場所に僕は来たと思った。でもそこでも子供同士の差別があった、でもそこでは沢山の友達や遊んでくれる職員がいたから良かった。そこでの遊びで一番楽しかったのは先生(職員)とやるキャッチボールとオセロだった。そこにいる一人の職員さんが好きだった、体格はいいし、少し怖かったけどその先生が夜勤のときは、僕を呼んでくれて、一緒にオセロをしてくれたり、僕がその先生に声をかけてキャッチボールしようって言った時もその先生と一緒にキャッチボールをしてくれた、しかも保護所のレクリエーションの時みんなで映画見ることになった時、近所にある映画館に行った、その時僕の隣にその先生が座ってくれた、すっごく嬉しかった。そんな日々を送っている中、僕はそこに来ている子と友達になった、僕より後に来た子で、小学生だった、僕はその子と喋り一緒に遊んだりもした、そしてもう一人、僕には友達ができた、その子は中学生で耳が聞こえなかった、笑うとすっごく可愛くて僕はそのこといることが嬉しく楽しくなった、
そしてまた、僕に友達ができた、その子は高校生でよく僕に声をかけてくれた、僕がいるところに来てくれて、話をしてくれた、こんな僕に対しても優しくしてくれrつひとはいるんだな、そのように思った、そして、幼稚園や小学校の時に感じた、友達の大切さをこの時思い出した、友達といるのは幸せだ。でも小学校の子は僕より先にその所を出て、中学生の子もそこを出て、たまたま僕はその子がその所から出る所を見て、少し切なくなった、その時僕はここからは出たくないけど、ここから出てみたい、そのように思った、そして僕の友達は高校生の子だけになった、友達が一人でもいてくれたら嬉しかった、僕はそこで三ヶ月間、過ごしていたら僕の心に平安が戻ってきた。でも、もう少しで家に帰らなくてはいけないと分かって嫌な気持ちになった、僕は家に帰りたくないと思いそこの先生に言った。そしたら色々考えてくれてもう親の所に帰らなくても良くなった、その時の僕には光しか見えなかった(この後に真っ暗闇が訪れる事も知らないで‥)僕は自分の家と離れて暮らす事となった。そして僕はその所を出た。でも高校生のあの友達はまだそこにいた、バイバイぐらい言いたいそのように思った、でも言えなかった、そしてそこを後にした、その高校生とまたいつか会えることを夢見て…

 高校2年
保護所を出る前、僕は高校2年生に進級していた。それから数日後に僕は保護所から出た。親と離れてから別の所に移ると決まった時、僕の人生の黒幕が開いてしまった、でもこれは光が照らされる人生へと導いてくれる黒幕だったのかもしれないと僕はそう思うこの幕がなかったら、今の僕は存在しなかったしこの幕がなかったら僕は今この世にいなかったのかもしれない、この幕は僕の人生の大きな幕となった。僕は親と離れて別の所に行った二ヶ月後にその所が嫌になった、僕は逃げた。僕にとって最初は家よりも自由が与えてくれる場所で保護所にいた時とおんなじように、勉強もきちんと教えてくれて、先生も優しくて一緒に遊んでくれて、友達も増えていくんだろうと僕は思ってた。でもそれは誤解だった。その施設は変な子もいてそして面白い個性がある子が沢山いる所だった。僕はこんな子達とは違う、僕とこんな子達と一緒にされてほしくなかった、でもこの事を相談出来る人なんて僕にはいないと思ったしもちろんこんなところに友達なんていなかったし先生も保護所にいた時とおんなじような優しい先生ではなくて、疲れ切った、少し病んでいるかのような先生ばっかりだった、そんな病んでいる先生が多い施設だったけど、僕は好きな先生を見つけることができた、僕を見る目が面白くて、話し方もわかりやすくて、僕はその先生のことがすきになった。一方僕はその施設のことをお化け屋敷だと思った、周りにいる子は、急に叫ぶ子もいれば、暴れる子もいるし喧嘩を打ってくる子もいれば、僕が話しかけてもなかなか理解してくれない子もいる、そんなたくさんの化け物の子たちがいる、そして職員さんは保護所みたいな生き生きとした明るい職員さんではなく疲れ切ってやつれて、子供達に自分のイライラをぶつけているのか先生たちは怒ったりしているゾンビみたいな先生多いな、そのような施設に僕は入れられた。この施設に入ったのも、僕が小学校4年生の時に入った仲良し学級のことがここでも影響した。僕はその施設の中で孤独を感じ、勝手に出てしまった、僕はそこの近くにある教会を目指して進んだ、でもこの施設に来てまだ二ヶ月‥僕は全然知らない地に一人で向かった。でも教会がどこにあるのかも分からなかった。逃げてから二日目その日は雨が降っていた。僕は雨宿りをするためスーパーに入った、そこでいろいろ考えたそして僕は家に戻ろうと思った、家に帰る道は、この前職員さんと車で児童相談所に行ったから、児童相談所までの道はわかる、そこさえ分かれば、そこから家に帰る道もわかる、僕は帰りたくないと思っている家に帰ることにした、雨の中僕は歩いた、でも僕は途中帰る道がわからなくなってしまった、そして自分から施設に戻ろうとした でも変な所に来てしまったことに気がついた、施設に帰る道も分からない‥僕は一人で初めて警察に電話をした。パトカーに乗って警察署に行った、そこでは事情聴取され名前と住んでいる所を聞かれた、僕はこの時家の住所を言っていたらどうなっていたんだろう…でも僕は施設の名前を行った、そしてその数分後園長先生と僕の一番好きな先生が迎えにきた。そしてその翌日、僕は児童相談所の人と話をした、児童相談所の人が「保護所に戻れるように聞いてみる」と言ってくれた、僕は戻りたかった、でもその翌日戻れないことがわかった、この時僕はもうみんなに迷惑はかけないと自分の心に誓った‥誓ったはずだったけどその二ヶ月後又同じ事を繰り返してしまった。今度は行く場所がわからずに、ただただおんなじ生活は辛い、そのように思った。
でも次の理由は施設ではなくて学校だった、この学校は最悪だった。この学校に来て 一週間後すぐにヤバイ所に来てしまったと思った、始めにやばいと思ったのがスクールバス、毎日のように暴れる子が私の隣に!しかもおんなじ施設にいる子だった、耐えられない、でも僕より年下の子だったから必死にこらえる事が出来た。でも僕は耐えられない事がそれ以外に2つある。一つ目は勉強面に関する事だ、この学校に来て後悔した、僕初め、保護所と同じようにきちんとわかりやすく勉強を教えってくれるものだと、そうじゃなくても、前の学校と似たような感じだと思っていた、でもそうではなかった、きちんと勉強を教えていなかったのだ、公に表される所はきちんとしているけど、それ以外はどす黒く適当だった。まさにお前達なんか勉強しても意味がないとでも言うような勉強や授業だった。前の学校と比べて前の学校の方がきちんと面倒も見てくれてきちんと分からない所があったらきちんと教えてくれるし何より先生が優しかったそれとこの時の学校は真逆だった。先生の態度にイライラしてしまって、僕は仮病を使って学校を早退する日が続いた、第二に耐えられなかったのがクラスだ、前の学校には友達が沢山いた、同じクラスにもほかのクラスにもいた、でもこの学校は、クラスメイトやおんなじ学年の子どもたちも先生も僕の事を認めてくれる人なんていなかった、まして僕のクラスに手を出す子がいた、僕は耐えられなかった。同じクラスに叩く子‥僕はたたかれる事にトラウマを抱えていたから余計にしんどかった。学校に行くためにのる、スクールバスでは、行く時にはたまに、僕の隣の子は暴れる、そして学校に行けばまともに授業や勉強を教えてくれない、無駄な時間を過ごし、たまにはクラスの子が情緒不安定になり暴れ、余計に授業に集中できなくなって、僕までもイライラしてきて、でも、我慢しなきゃ行けないと思い、我慢し学校が終わりスクールバスに乗り施設に帰る、その途中僕の隣の子は暴れる日は多い、その子が暴れたrちしたら、僕は別の席に移動させられる、移動させるぐらいなら、僕とその子の席は別にしてくれ!そのように思いながら、僕は別の席に行き、バスの中はその子の叫び声でいっぱい、簿記うのほかにうるさいのが苦手な子もそのバスに乗っていて、その子は我慢できずにその子も暴れる、バスの中は二人の叫び声で大賑わい、僕は必死に自分を押さえる、そんな日々を送っていた、でももうこんな日々から逃げたかった。
僕は学校からも施設からも又自分自身からも逃げた、でもこの時の脱走はすぐに見つかってしまった。何とこの時の脱走は3時間半で幕を閉じた。この脱走で、施設のみんなを敵に回すことになった、女子部屋の子にはかまってちゃんやなって言われ、多分職員さんからも、僕はかまってちゃんだと思われていたんだと思う、僕は余計に施設に出楽なった、でもこの脱走で僕の人生が変わり又この学校に入った事で僕は未来を見る事になる。僕はこの脱走を通して施設の先生と教会に行くようになった。しかも僕の一番好きな先生と行った、楽しかったしここから僕の心に平安が戻ってきた。でも、このことは月一回だけだったし、僕が好きな先生といることに嫉妬していた子もいた、でもそれでも僕はたくさんのものを得ることができた、その先生と教会に行くことを通してあんまり回りに流されずに自分でしたい事をした。僕には又目標を思い出す事が出来た。そしてその目標に向かう事が出来た。でもどうがんばればこの目標をこの施設で達成出来るのか分からなかったけどこの教会に行ったおかげで僕は夢を見つける事が出来る出来事が起きた。
ある日僕はその職員さんと教会に行く途中僕はその職員さんに、もう脱走はしないと誓いの意味も込めて言った、でもその二ヶ月後又脱走したいと言う思いが僕を襲った。僕は自分で色々思い出しながら考えた、どうすれば人に脱走の事で迷惑をかけなくてすむのだろうか‥と脱走したい気持ちがある中考えた。そして僕は一つ、自分の脱走についての共通点を見つけてしまった‥それは家出の時も含めて僕は夜に行動を実行している事に気づいたのだ。僕はもう夜に勝手に脱走や家出をしないように何が出来るんだろう‥と考えて僕は自分で自分の事をコントロールする事を選んだ、でもそれは僕にとってとても難しい事だった初めは色々試した、まず初めに何かに熱中すれば、周りのしんどさをみなくて済むかもしれないそのように思いその施設で僕はゲームに熱中しようとした、始めはうまくいった。でもゲームから離れると僕は又脱走したい気持ちに襲われしんどかった。そして僕はゲームするという考えは失敗だと思った、次に僕が試したのが勉強に熱中する事だ。これだったらなんとか楽しく出来た、聖書の勉強に集中することができた、この調子だったら続けられると思いすごく嬉しかった。でも周りの音や人からの目線が気になった、そしてあまり集中出来なかった、ある時なんか[キリストはいないだから勉強する意味がないし聖書を読んでも意味がない]とまで言って来た人がいた、しかもこのことを言ってきたのが職員さんだった。僕はイライラした、でも聖書を読んでいくうちに僕の心は人の目を気にしなくなった。この時の僕の壁と言うのは音だけになった。他の子が見ているテレビの音、話し声‥僕の勉強の妨げになった、僕はその度に勉強を中断するはめになった。そしてその度に又脱走したい!と言う思いが僕を襲ってきた。僕は又考え始めた‥そして僕は最終の答えに辿り着く事が出来た。僕が脱走などをしてしまうのは夜ご飯の後‥夜はあんまり動かないから元気が残っていて僕のお腹の中にもまだ物が残っている、これが嫌い、外に行きたい、外に行こう!と思ってしていた行動なのかもしれないと言う自分の思いに気づく事ができた。それだったら僕は自分を苦しめようと思った。僕はこの時からよるご飯を抜き始めた。何にも食べていないのだ。もうみんなに迷惑はかけたくないと思い苦しくてお腹がすいても我慢する事が出来た、そんな僕の思いも知らずに、そんな僕の行動を見て職員さんに呆れられた、そして女子寮では僕を馬鹿にしてくる子もいた。でも僕はもうみんなに迷惑はかけたくないんだ、だから僕は自分の考えを信じ棒の考えを貫くんだ!そのように思った。
そして僕は自分の部屋でよく立ちくらみを起こすようになった‥でもこの事は勿論誰にも言っていないからみんなは知らない。知ったらご飯を食べてって言われるに違いない、それだったら意味がない、僕は隠すことにした。夜ご飯を食べなくなってから、僕は一人時間が増えた。
家から離れてから約一年後のこの時、僕は児童相談所で親と面会ができるようになった、施設に入ればもう親に会わなくて済む、そのように思っていたが、そうではなかった、面会が始まる前も、施設に入ってからも僕は児童相談所に行っ低田、そこで話したり相談したりした、でもこのときからは親との面会という形で、児童相談所に行くようになった。僕は親との面会との度に気持ちがしんどくなっていった。
学校では毎週火曜日に野外に行った。野外は学校の近くの山をチームで登ったりした。僕はこの登山がすごく嫌いだった。僕がいるそのチームの中には僕が嫌っている先生が担当だったしそのチーム全員はすっごく行動力があって、歩きうスピードも早かった、僕は追いつけなかった、必死になってようやく追いついた、それがとてもしんどかった、だからさぼった。でもこの二年後には僕は登山が好きになっている。この時の僕には予想もつかない‥でも、この時は登山が大嫌いだった。チームの仲間や先生も含めて登山が嫌いだった。みんなのペースに合わせる事がその時の僕にとってしんどかったそれでも僕は1年間そのチームで頑張った。
この1年間は、本当にいろんなことがあった。でもそれでも乗り越えることができた。

高校三年生
僕は初め三年生も二年生と同じだとがっかりした。でもそうではなくて三年生の時の方がもっとしんどかった、クラスメイトは全員で7人いた、その中の一人は小学生に見えた、その子はおしゃべりだった、先生はその子につきっきりだった、そして二人目は学校恋愛で悩んだり落ち込んだりしていた、それがなかったら、その子は多分この学校に来なくてもいい生徒なのかもしれない、普通の学校に行って勉強もでいたんだと思う、三人目は泣くと厄介だし、かまってちゃんな女の子、もう一人の先生はその子にもつきっきりだった、この三人メンバー以外のメンバーは別に気にも留めなかった。担任は四人いた、二人は最悪だった、給食の時、生徒よりも先に自分の分をタッパーにとって家に持って帰っていたのだった、だから僕がおかわりしたくてももうなかった、おかずはもちろん牛乳も持ち帰っていた。僕は給食の時間のたんびにしんどくなった、しんどすぎて、少なくとって、誰よりも早く食べて終わって僕は教室を出た、本当は給食の時間が終わるまでは教室から出たら行けない、でもその先生のしていることを見たり、給食の時間に、その先生のことを見たらイライラが止まらなくなる、だたら僕は自分が食べ終わったら教室を出た。そして給食の時間が終わると、自分の教室には戻らずに、隣のクラスに行き、そこで余った牛乳をもらい、そのクラスの人たちと話した。もう一人の先生はおばちゃん先生で、時たま僕のことを揶揄って、笑ってきたからうざくて嫌いだった。でももう僕は自分に負けてはいられなかった僕には大きな夢がある、ここで変な事をしたらまた全てが1からになると思い、我慢した、でも我慢が限界に来てしまった。
三年生で我慢出来なかったのは、一番は給食‥給食のたびに僕をイライラさせる人物が初め一人後になって二・三人しんどかった、始めは何も分からなかったから、しんどくなくてスルーしていった、でも後々スルーできなくなった、毎日、毎日同じ事が繰り返された、あんまりそこにいたくなかった、だから僕は、ご飯を一口だけ食べて、トイレに逃げてトイレで泣いた、毎日泣いた。なんでこの学校の先生は変な事やしたらだめな事をするのだろう‥もしかしてこれは僕の勘違いで、したらだめな事ではないのか、しても良い事だからこの先生はしている事なのだろうかと思うようになった。僕の感覚が給食の度に麻痺していった。でもなんかやっぱりおかしいと思い僕は隣のクラスの先生に相談した、その先生は僕の意見に賛成してくれた、すごく嬉しくまたやっぱり僕は間違っていなかったと思って安心した。でも僕の心はしたらいけない事をしているその先生に対する怒りが込み上げてきた、僕は押さえたかった。自分の感情をコントロールしたかった、でも僕には出来なかった。給食があるたびに、何故この先生はこんな事をするのかな、もしかしておばさんやおじさん先生だから、食べ物がないのかなと相手の悪口を心の中で思うようになった。僕は給食のたびにトイレに逃げ込むのもしんどくなった‥このクラスはおかしい‥でも僕をトイレ避難から助けてくれたのが同じクラスの子だった、僕は初めその子がすごく苦手だった僕はその子を避けていた、でも僕をトイレ避難していた僕を助けてくれた、嬉しかった、そして授業はいつもあの子と同じだった。
ある日僕はスクールバスを卒業し自力で学校に行った、僕はやっとスクールバスの地獄から抜け出せることができた、そう思って僕は気持ちが楽になった、この事がきっかけに僕を助けてくれた子と仲良くなった、僕は少し心に余裕が出来、給食の時も耐える事が出来た、でも何より僕の心を支えてくれたのがこの時も土曜日に行っている教会だった。三年生の後半からは一人で教会に行けるようになった、その事がきっかけで僕はもっと深く聖書を学び、神様の事を知らない人に向かって神様の事を伝えていきたいと特にこの施設で働いている死にかけているように見えるゾンビみたいな職員さんにキリストのことを伝えたい、そのように心の底から思うようになり学校のパソコンで聖書勉強に関する事を調べ始めた。この事で僕の決心がより固くなった、僕はさらに夢を見る事が出来た。パソコンに出たのは聖書を深く勉強ができる学校だった。
しかもその学校は僕がやってみたいと思っていた日課が礼拝と言う形でしかも毎日あるこのことがのっていって僕の心はその学校に入りたいと毎日、日が重なるにつれて思うようになった、でも僕はその学校に入る事に不安もあった。今の僕の地力でみんなとの勉強についていけるのか、聖書をあんまり読んでいない僕…聖書はとっても難しいことが書いている、果たしてそれを理解できるのか?その事の前に僕は今施設にいる、施設からその学校に通う事は出来るのか、僕は色々思って不安になった。でもそれでも行きたいと思った、だから僕は、親に相談する前に、施設の職員に相談した。それも好きな職員ではなくて、生活担当にその事をはなしたそしたら。考えるって言ってくれたど 僕は信用出来なかった、だってその職員は僕の苦手で嫌っている職員だったし、何しろ僕は大人を信用していない、果たして本当に言ってくれるのだろうか‥僕は先生を疑ってしまった、お母さんにもその学校の事を話した。お母さんはなんとすぐに動いてくれた、僕を学校の体験見学に連れて行ってくれた、僕はその学校を見た、やっぱり勉強は難しそうだった、教室の雰囲気も暗かった、でもきちんとしっかりと聖書のことを勉強しているんだな、今までは施設で一人で独学していたけど、しっかりと勉強したい、人から聖書のことを教えてもらいたい、しかもこんな感じの授業を受けたいと思っていたけど、僕の高校の授業はこんな感じではない、ここにいるみんなと聖書の勉強をしたい、そのように思うことができ僕の心の炎に油が注がれ心の炎は燃えたのがわかった、想像していた以上に良い学校で学校の先生も優しそうだったので少し安心した。まだ 入ると決まった訳ではないのに僕の心はもう入学した思いだった、僕はその日から、学校のパソコンでその学校の事を深く調べるようになった。そしてついに施設の先生も動いてくれた、入学に必要な書類や僕がやらなければいけないことを少し手伝ってくれた
りした、すごく嬉しかった、その時僕はその先生の事が好きになったような気がした、こう思う僕はやっぱり愚かな人間、自分に良い事をしてくれる人の事を良い人と思うなんて‥全ての人は同じ神様から作られているのに‥でもまだこの時の僕はこう思う余裕がなかった、僕はその時先生と入学の準備で少しぴりぴりしていたのだ。でも一つの目標を見つける事が出来、目標に進んでいく決心をしたから、僕は今の学校を最後まで乗り越える事が出来た。もしこの学校が見つけられなかったら、僕はまだ暗闇の中にいたのだろう、僕はこの時から給食の時も又授業の時もきちんとみんなに合わせようと思い行動した、でも僕は自分自身に嘘はつけなく体が悲鳴を上げ始め又僕の精神面でも限界が来ていた。この時に初めて体、考えていること、気持ちは分裂するんだな、そのことに気がついた。その時僕が起こした行動で友達が増えた。僕はほかのクラスの好きな先生の所に行った、それから僕のクラスに進路指導の先生が給食の時に来た。僕はすごく嬉しかったし何より給食後のミュージックがすごく楽しみだった。そのときから僕は学校に行く事が楽しくなった。でも、僕が歌うのを聞いたほかのクラスの子にひどいことを言われ僕は傷ついた‥その時からしばらくの間その先生とも又その先生の音楽とも距離を置くようになった。でもやっぱり僕には音楽がなかったらいけない、そのことがわかった、そして僕は自分からその先生に声をかけて、また音楽に戻ることができた。この先生と音楽をし僕は自分の夢を強くしさらに目指す事も出来た、僕の夢は神様の事を知らない人に向けて神様の福音を伝える人になりたいと思う、そしてその人たちも神様の事を知って信じて救われてほしいと思う。教会に行けば、礼拝が出来友達も増え優しい人や相談にも乗ってくれる何より牧師先生を通して神様が私達に語って下さる、メッセージっと言う時間が僕にとってすごく恵みの時間だと思う、そして礼拝の中で好きな時間はもちろん説教(メッセージ)も好きだけどそれと賛美をする時間がが大好き、自分で歌うのも、賛美歌を聴くのも大好きなのだ!だからこのとき学校でこの先生と歌う歌はたとえ賛美歌ではなくても、今後に生かされるであろう讃美歌の練習にもなると思いその先生との歌を楽しんだ。でも学校に目を当て直すと、やっぱりしんどかった、でも僕はがんばった。しんどい時にクラスの二人は信用出来、その友達にも相談し、僕が好きな先生にも相談した、そして色々聞いてくれた、すごく嬉しかった。
このとき僕の一番の不安は学校でも施設の事ではなく、次果たして聖書を勉強出来る学校に入学出来るのか‥と悩んで不安が大きかった。そしてもっと不安が大きくなってしまったのは施設の担当の先生から言われた言葉だった。すごく不安な気持ちを抱えたまま一人で学校に行きこの気持ちのままでクラスに入りたくなかった、クラスに入ればもっと自分がだめになると思いでも朝は誰も教室にはいないと分かっていたから荷物を教室に置いてから上のクラスに行った、そしてそれで気持ちが変わるのかなと思ったでもそのクラスから出ると、しんどさが襲ってきた、だから僕は物置部屋に自分から行った
そこで気持ちを落ち着かせた、でもまともに勉強なども集中して出来ない‥だから授業をさぼった、そしたら先生達が探してくれた、すごく嬉しかった。でもしんどい気持ちが勝ってしまった、でも少し心に余裕ができ授業に戻る事が出来た。僕はこの時何が自分に起きたとしても、神様の事を信頼していこう神様が友にいて下さるんだと思い僕は落ち着く事が出来た。
そして、その何日後に僕の心に又希望が戻る出来事があったのだ。聖書の学校に入学する事が決まったのだ、僕はこのとき人から言われた言葉を信じるののではなくて僕は神様の声のみを信じて生きていこうと思った。前から僕は施設でも聖書の勉強をしていた、でももっと前よりも勉強を自分でしたり、土曜日には教会に行ったりした、でもたまには日曜日も教会に行くようになった。入学が決まった時、僕は前より熱心に教会にも行き、独学でも熱心に聖書の勉強に取り組むことができた。
そして僕は変な学校から卒業した。でも 施設は卒業が出来なかった、だから僕は施設から、聖書学院に行くことも決まった。聖書学院に入ったことがきっかけで、親が宗教のことで、聖書のことで今後僕におかしく、厳しく当たってくるとは知らずに、僕は聖書学院に早く入学し、早くみんなと一緒に聖書の勉強をしたいと思い胸を高鳴らせていた。
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