茶色い悪魔

めれこ

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茶色い悪魔

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 息が切れる。こんなに走ったのはいつぶりだろうか。
 髪を振り乱し、エコバックも振り回す。中に入っているグラタンは、見るも無残なことになっているだろう。走って、走って、それでも羽音が追ってくるような幻聴が聞こえる。服が風に引っ張られる感覚すら、あの忌々しき茶色い悪魔が、そこにいるのではないかと考えてしまう。
 こんなことになるのならば、夜食なんて買いに行くんじゃなかった。
 私はそんな後悔を胸に抱きながら、蛍光灯が照らす夜の住宅街を走った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 腹が減ったのなら、コンビニで何かを買えば良いじゃない。
 デブ道を究める私は、そんなどこぞの王妃が言ったことにされちゃった台詞をもじりながら、財布を片手にコンビニへと向かった。
 値引きされた弁当に誘惑されながら、私が選んだのは海老グラタンだった。決して夜食向きではないだろうが、今食べたいものを私は食べるのだ。
 会計を済ませ、そう遠くない住んでいるマンションまで歩いた。
 開けっ放しの玄関から、小さな屋内駐輪場に入り、さらにマンション内に入るための共用ドアにカギを差し込んだ。その時だった。

「バサバサバサッ!」

 私の頭の左側に、ありえないほどダイレクトに生命の躍動を感じた。命。そう正しく命。その小さな体からは考えられないほどに強い振動。私の忌まわしき記憶が蘇った。

「ぎぃっ! やぁっ!」

 虫! 虫! 虫!
 半狂乱になった私は頭を振り回し、エコバックで虚空と闘いながら外へと避難した。
 ついてる!? 髪についてる!? それとも服!?
 怖くて触れないため、ヘドバンとジャンプをしまくった。不審者の誕生である。
 次第に冷静さを取り戻し、人目を気にする余裕が出てきた私は、恐る恐る髪や服をはらい、虫が付いていないことを確認した。

「うわ、いや、ひどい目にあったわ~」

 恐怖心と羞恥心からぼそぼそと独り言を溢しながら、再び屋内駐輪場に戻る。
 少し離れた場所からドアの付近を見てみると、細長い虫が一匹いた。
 正直飛びそうもない虫に見えたが、頭上に張り付いていて、不幸にも私の頭に落ちてきてしまったのだろうか。
 少しの安堵を覚える私の視界の上からドアに向けて、バサバサとその羽音を響かせながら滑空する茶色い悪魔が映った。
 ドアに激突したそいつは、カサカサとドアの周りを這いずっている。

「…………」

 なんか、アレっぽいね。気のせいだろうけど。いや、結構でかいね。でかくって滑空するように飛ぶ茶色い虫って、私アレしか知らないんだけど、気のせいだよね。もしそうなら、私の頭の左側はアレに汚されちゃったってことになるもんね。気のせいだよ。
 現実逃避する私を追い込むように、茶色い悪魔はまた適度な高さから滑空しドアにぶつかっていった。何がしたいんだお前は。透明な部分の多いドアであるため、その向こうに行けると思っているのだろうか。ふざけんな、そのドアの先からは私の部屋が一番近いんだよ。やめて。

 虫が出たなら、殺虫剤を買えば良いじゃない。

 私は再びコンビニへと向かった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ない。ない。しまってる。しまってる。
 二件コンビニを回ったが、そのどちらにも殺虫剤はなかった。頼みの綱のドラッグストアも二軒回ったが、そのどちらも営業時間外だった。
 せめてリーチの長い武器をと、傘を物色してみたが、意外に値段が高く諦めた。もし茶色い悪魔がくっついてきたら、私はもうその傘は一生使えない。そんなことのために、800円は高すぎる。
 案外、こんだけ歩き回った訳だし、その間にどこかに行ってくれているかも知れない。
 そんな淡い期待を胸に、再び屋内駐輪場の様子を見た。

「バサバサバサッ!」

 何故、貴殿はそこまでの熱量をもってドアに激突なされるのですか。そのドアの先に何を見出しているのですか。そのドアの先にはなにもございません。どうか、どうか、あるべき場所へとお帰り下さい。
 ほんとに、頼むから帰って。
 茶色い悪魔は依然としてドアにぶつかることを繰り返していた。その姿を観察しているうちに、こいつは外に出れなくて困っているのではないかと考えた。
 屋内駐輪場は開けっ放しの玄関からいつでも出入りできるようになっている。
 しかし、人間からすると、簡単に出入りできるが、虫からするとそうではないのだろう。
 中学生の時に、教室に入り込んだ蜂がひたすら窓に体当たりしていたのを思い出した。
 この茶色い悪魔も、屋内駐輪場から抜け出そうと、透明なドアにぶち当たっているのだろうか。その先は、マンションの内部に入ってしまうだけなのに。むしろ、出口は私がいる方向なのに。
 でも、ゴキ〇リってそんなに視力良くないよな。
 そんなことを考えていると、茶色い悪魔はいつの間にかこちら側に向かって飛んできていた。しかし、その先は玄関の上の小さな閉じたままの窓で、外に出られそうもない。
 咄嗟に私は叫んだ。

「うぉっ!(こっちだ!)」

 なんでそんな奇声を発したのかは分からない。しかし、茶色い悪魔は私の意図を組んでか、その滑空する角度を変え、確かに私に向かって飛んできた。茶色い悪魔と私の心が通じた瞬間だった。
 そして、玄関を、
 そう、ようやく外に出れたのだ。
 まるでお礼を言うかのように、茶色い悪魔は私に向かって……。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 息が切れる。こんなに走ったのはいつぶりだろうか。
 髪を振り乱し、エコバックも振り回す。中に入っているグラタンは、見るも無残なことになっているだろう。走って、走って、それでも羽音が追ってくるような幻聴が聞こえる。服が風に引っ張られる感覚すら、あの忌々しき茶色い悪魔が、そこにいるのではないかと考えてしまう。
 こんなことになるのならば、夜食なんて買いに行くんじゃなかった。
 私はそんな後悔を胸に抱きながら、蛍光灯が照らす夜の住宅街を走った。
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