明星の蝶に告ぐ

楠丸

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32章

~誰よりも~

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  クリームシチューとクロワッサン、プチサラダの朝食がテーブルに並び、めいめいに食前挨拶をし、食べ始めた時、ぴりりと鳴った恵みの家の業務用携帯を、大鍋を洗う手を止めた紅美子がさっと手を拭き、取った。テレビには天気予報が映り、九州地方で大雨の恐れ、と出ていた。
 「おはようございます、グループホーム恵みの家、佐々木です‥はい、お世話になってます」
はい、うん、と相槌を打つ紅美子の顔色が、次第にシビアなものになり、相槌が消えた。受話器向こうからの説明を、ただじっと聞いている様子だが、それに右手にスプーン、左手にクロワッサンを持った菜実が反応した。
「ほうでっか。じゃ、まだ保護者さん方の間で混乱が収まってない、いうことでよろしいんで‥」応えて、携帯を耳に当てた体を廊下へ引っ込めた。
「池ちゃんの通所、今日からしばらく休みやて」廊下から出てきた紅美子は、パンを食べかけていた菜実に、からりとした声をかけた。
「今、だいぶややこしいことが起こっとってな、業務がでけんようなっとるみたいなん。それが落ち着き次第、向こうから連絡あるみたいやさかい、それまで池ちゃんは、休んで、ホームでゆっくりするんがええよ。ちょうどこれから年末年始やしな」言い終えた紅美子の頬に涼然とした笑みが浮かんだ。テンポをいくらか遅らせて、菜実は「はい」と返事をした。

実籾の線路沿いに建つ喫茶店だった。村瀬が子供だった頃から軒を構え、間違いのない堅い味の軽食を売りに地域で常連客を掴み、今も客足の絶えない店で、数人掛けのカウンター席があり、十二畳ほどの空間にテーブル席が三つある。今日の客入りも良く、カウンター席で一人食後のコーヒーを飲む壮年の男がいて、テーブル席には中年の夫婦と十代の息子二人が座り、カウンター脇に置かれたテレビはボリュームを小さく絞り、昼のニュースを映している。木目の壁には小さな額縁に入った絵画が飾られ、カウンター端には、洋服を着て、ハットを斜めに被ってステッキを持ったデザインの小さな招き猫がちょんと置いてある。そのカウンターの前にエプロン姿をした中年の女が立ち、追加の注文と、新しい来客を待っている。
白いレースのカーテンが束ねられた窓際のテーブル席で、村瀬と博人はミートソースとカツサンドを囲んでいた。村瀬の顔は長男をまっすぐに見つめ、博人は手元のミートソース大盛に目線を落としている。
「ずっといていいって言ってくれる気持ちは嬉しいよ。でも、それだと、お父さんが俺に気を遣わなくちゃいけなくなると思ったんだ。それに、お父さんだって齢とってくし、俺のこと見るの、だんだん大変になってくじゃん。それをまどかさんに話して、グループホームを‥」「そうか」村瀬が博人に送った相槌は優しかった。
「入居はいつの予定なんだ」「来年の、三月には、もう。世話人さんも、入居者の人達も、みんないい人ばっかりだから」
博人がまどか付き添いの下、八千代の精神科病院で何種類かの検査を受け、ADHDを持つ知的ボーダーという診断を得たことは知っているが、村瀬は、これは家族の問題であることにすでに理解を及ばせている。博人はこれから、療育手帳交付、自立支援医療券の申請に入るという。
今、母親、姉がいなくなった公団の部屋は、今月で契約が切れる。そのため、大型電化製品類は市に依頼して処理してもらい、博人の身柄は父親の家にある。
美咲は、自分が作った因果の結果とはいえ、その分だけ充分に苦しんだ。その実情を知っているが故、これ以上の苦しみを与えることは、自分が一応、元は夫だった人間であることを鑑みると忍びない。出所後は、こちらも福祉的な世話に繋げてやろうと考えている。ただし、それでも、よほどのことがない限り、子供とは離していかなくてはいけないという考えは、村瀬の中では変わらない。
「ねえ、よかったら教えて‥」「何だ?」村瀬は凝った肩を揺すってほぐしながら問い返した。
「お父さんのいい人って、どんな人なの?」「そんなこと、誰から聞いたんだ」村瀬は笑った。
「叔父さんからだよ」「お父さんにそんな人がいるって、義毅が言ってたのか」「うん」村瀬ははにかむしかなかった。はにかみながらテレビに目を遣ると、「NPO法人福祉施設討論会で虐待とわいせつの映像」という見出し文字がでかでかと踊っており、思わず目が吸いつけられた。
ボリュームが抑えられていて、キャスターの言葉は聴こえずらいが、字幕によると、船橋市のNPO法人知的障害者支援施設で関係者、父兄を招いて開催された討論会で、スクリーンに、四十代の施設長が実弟であるサービス管理責任者とともに、利用者を脅し、叩く、蹴るなどの虐待を加える映像の他、その施設長と、施設長の実弟であるサービス管理責任者が映っているわいせつな映像が流れた問題で、県の監査課は、説明義務に基づいて、施設長らに保護者への内容の説明を求めると同時に、警察は、この映像をスマートフォンに仕込み、スクリーンに映し出した三十二歳の元職員の女を、わいせつ物陳列の容疑で取り調べる方針、とのことだった。
テレビから顔を向き直すと、博人が微弱な興味の浮かんだ顔で村瀬を見ていた。先しがた入ってきた男一人の客が、カウンターの空いている席に座りばな、ぼそっと生ビールを注文した。
「この世界の、どこのどんな女性よりも、誰よりも綺麗な人だよ」村瀬が言うと、博人は笑みの浮いた顔で俯いた。村瀬がその息子を情愛たっぷりに見、博人が照れるように俯いた時間が、一分ほど過ぎた。
「俺、食う」博人は視線を下に落としたまま言って、パスタをフォークに巻き、食べ始めた。村瀬はその息子を面映ゆく見ながら、カツサンドを片手に持ち、口に運んだ。
テレビ画面は、菜実の愛好するmaybeが北米ツアーで新曲を披露したという芸能ニュースに変わっていた。

ディスプレイに「かわい」という名前が表示されたライン通話の着信が来たのは、朝食を終えて居室に戻ってすぐだった。
「もう年末休みに入ってる?」受話器向こうの河合が、沈んだ声で菜実に訊いてきた。「明日からだったんだけど、しばらくお休みになったの」「そうなんだ。じゃあ、今日、ちょっと、上野でも行かないかな。動物、観にさ。俺も今日、派遣、休みだから」
ピンクのロングコートに、髪をスカーレット色をしたサテン地の蝶リボンでポニーテール風にまとめた姿で階下に降りてきた菜実に、紅美子が「どこ行くん?」と声をかけた。
「友達と、上野行くの」「夕飯はとっとく?」「とっといて‥」「分かった、夕夏ちゃんに言っとく。今日は鮭のムニエルの予定やからな。でも、遅くなりそうやったら、ちゃんと連絡ちょうだいな。心配なるさかい」「うん‥」
テーブルでは、すでに着替え、足許にリュックや水筒を置いた佳代子、千尋、小百合が座り、テレビの画面に目を向けている。彼女達の通所も、今日で年内は終わりなのだ。
「気ぃつけてな」紅美子の声に、うん、と返し、菜実はホームを出た。
河合は、JR柏駅西口改札前に、黒のジャケットにデニム、運動靴という恰好で待っていた。それから常磐線の快速に二人で乗り、上野に向かった。車内では、河合は暗く口をつぐんでいた。
年末の上野公園は人が多かった。桜や銀杏の木が、葉を冬枯れさせていた。西郷隆盛像の前でスナップ写真を撮っている、外国人のグループがいた。
上野動物園は、河合は六百円を払い、菜実は療育手帳を見せ、無料の入場となった。
正門から園に入ると、河合は無言で菜実の肩を抱いて、その体を自分の体に寄せた。
東園で、徘徊するホッキョクグマ、「団子」のように体を寄せ合うニホンザル、姿勢よく鎮座するゴリラ、翼を広げるコンドル、水路を擁し、草の植えられた飼育舎内をしなやかな動きで歩くアムールトラ、五重塔脇のシカ、バイソンと、しぐさの愛らしいプレーリードッグを見た。同覧の家族連れやアジア人のカップルが、中国語に聞こえる言葉で話し、柵の向こうの動物達にカメラやスマホを向けていたが、河合は沈痛な顔でゴリラやコンドルに目を投げ遣っているだけで、菜実との間に会話はなかった。
河合のスマホが着信音を鳴らしたのは、西園の、いそっぷ橋を渡った所にある、パンダ舎脇のベンチで休憩している時だった。ディスプレイを見た河合はベンチから立ち、菜実と距離を取り、落とした瞼を瞬かせた。時間は短かったが、通話口に向けて、何度か「はい」という返事を送り、通話終了したスマホを腰に下ろした。
「奥さんから。口座に四万円振り込んでくれって‥」河合はその時になって、閉じていた口をようやく開いた。
「派遣の仕事も減らされてるっていうのに、こっちに無尽蔵に金があるとでも思ってるのかって言いたいよ。今の株式相場は不況に向かってるって囁かれてるのにさ」河合はこぼした。
今、河合がこぼした言葉は、日頃、菜実の興味の中にはない内容であり、その知識もないことだったが、河合の人生、日本のことを想う時に、明るいイメージを想起させるものではないことは分かる。
「俺達人間様を含む、生き物が生きてる意味って、何なんだろうな‥」河合が漏らすように言い、菜実がパンダ舎のほうを見ると、友達同士で来ているらしい、小学校高学年か中学一年生くらいに見える少女達が、歓声を上げ、笑い合いながら、パンダにスマホを向けている。
「子供の頃、無機物を見ていて、怖い思いになったんだよ」「むきぶつ?」「そう、俺達と、ここにいる動物達は、みんな有機体、命があるから感情のあるものだよ。だけど、たとえば、学校の机や椅子、教室の棚は、視ることも聞くことも、感じることも出来ないわけで、それを見てて、自分の命がいつか尽きる時のことを思ったんだ。だけど、俺達には、視て聴いて、感じることが出来る命があるから、苦しみと悲しみがある。それを思うと、そんなものを抱えて生きる俺達は、そもそもどうして原始の地球環境の自然がお創りになったんだろうって思う。こんな理不尽なことづくしの人生まで‥」河合は横顔に憤りを満ちさせた。
「そこから抜け出すにはどうすればいいかって自分なりに考えて、ここ二年ぐらい、いろいろな宗教回ってるんだ。キリスト教系とか、仏教系とかね。だけど、その中のどの団体の行事や集まりに出ても、答えが出ないんだよ。池内さんも聞いたことあるかもしれないけど、あの恩正啓生会にも行ったよ。そうしたら、そこで支部長みたいな人に言われたことは、お仏壇のお祀り込みをして、奥さんと子供達に対して自分の至らなさを反省しなさい、あなたが寂しい思いをさせてるから、それが奥さん、子供の暴力っていう現症になって出ているのよ、あなたが変われば、奥さんも子供達も変わるんだから、とからしいんだ。奥さんは、子供の頃から恵まれなかった親子関係の代償をあなたに求めてるんだってね。それで、毎月、パチンコに負けたと思って五千円から一万円の喜捨をすれば、執着が取れて、未来の幸せが約束されるとからしいんだ。だけど、そんなことを言われてもね‥」
周りには、パンダ舎前で湧く少女達の他、悩みというものが外観からは覗えない冬のお洒落を決めたカップルや、充実の滲み出た顔と居ずまいをした父親が妻と子供達を引率している光景がある。
「自分が苦しんで考えてきたことに、どうすれば答えが出るのかが、あれだけ宗教を回っても、今も見つけ出せそうもないんだよ。これからどうすればいいのかも、全然見えないんだ」河合の口から溜めた吐息が漏れ、肩が落ちた。
その時、菜実は、二ヶ月前の船橋のラブホテルで村瀬の言ったことを思い出していた。彼の言ったことの要は、神仏とは、実質的に人や世を救うものではなく、人間をその崇拝対象だけが絶対という観念を与え、それによって悲惨な争いや自死をもたらすトーテムであるということだが、その辺りを歩いている人達と比べて薄いと分かっている自分の知能でも、村瀬が伝えようとしたことが、上書きされるように理解出来る思いになった。
純法の支部で二人の男を倒し、自分の手を引いて脱出した際、峰山に刺し放った彼の言葉も、自分が理解するにはだいぶ難しかったが、気持ち、思いは心に伝わった。それは自分では認めなかったことを、自分のために起こしたその行動が、認めさせたからだ。
信教は自由だ。だが、それでも最後は自分しかいない。菜実は語彙を成さない思いが胸に浮かぶのを感じていた。
「今の俺にはこれぐらいしか自分の人生を救う手段が思い浮かばないけど、君がいるだけで、それでも全然違うんだ」河合は言うと、菜実の肩をまた抱いた。
河合を憐れむ菜実の気持ちは、先日アパートの部屋で彼と関係を持った時から変わってはいないが、それがのっぴきならない道へ自分を引く予感を覚えている。なお、彼が抱えているものを吸い取り、軽減してやるため、自分の出来ることは、菜実には一つしか分からない。それは彼が自分を妊娠させ、逃げたあの時と同じ寄り添い方だけだった。
「君がそばにいてくれるだけでも‥」河合が菜実の肩を強く抱き寄せて言った時、一瞬、世間でよく使われながら意味を完全に把握しきれていない、身勝手、という言葉が浮かんだ。しかしそれも、彼への憐憫が優勢を取って、思考の奥深くへ流れ去っていった。
二人でベンチを立ったあとは、笹を食べるパンダを見、ペンギン、カンガルー、キリンやサイ、カバなどのアフリカ動物を見て、不忍池に掛かる橋を渡って、長い尾を持つアイアイを見た。池には、ペリカンやコウノトリもいた。闇を呑み込んだ河合の眼鏡の奥の目と、暗く強張った表情は変わることはなかった。
昼前の時間に上野動物園を旧正門から出た。その時、河合の腕は、菜実の肩から離れていた。
来た道をそのまま引き返すようにして、上野公園を階段へ向かって下った。外国人のストリート・ミュージシャンが奏でるクラシックギターのスパニッシュな旋律が響き渡っていた。
階段を降り、信号を渡り、上野中央通りに出た。アメ横が動けないほど混雑していることは想像出来る。菜実は、前後、横の通行人に配慮、注意を払うことなく、どけ、と言いたげに、脚を棒のように振って通りを進む河合を追って歩いた。
河合が足を止めたのは、アメ横へ続く坂に沿って軒を構えるパチンコ、スロットのアミューズメントホールの店前だった。パチンコ、パチスロは、彼の人生を救いはしなかった。それに加えて、テレクラがまさにその人生の足を掬った。「アイドル」に勤務していた時より、菜実から傍目に見ても、パチンコが彼の心を救済などはしていないことは分かっていた。
自分への無視を非難する心も特に起こらないまま、やめたほうが、というワードを胸が言いかけた。その間もなく、河合は自動ドアのボタンを指で押し、店に体を潜らせた。菜実への声かけ、断りはなかった。菜実はそれに従うようにして、河合を追って入った。
電子的なプレイ音とBGMの重低音が音の洪水となって店内の空間を叩き鞣す中、河合は手前の空いているパチンコ台の椅子に座った。台には仰々としたロゴで、菜実が生まれた頃よりだいぶ昔に人気を博していたらしいロボットアニメの題名と、そのロボットのイラストがでかでかと描かれている。菜実に横顔を向けた河合は、その台の紙幣挿入口に、千円らしい札を吸い込ませた。
縁の射出口から玉が沸いて高く跳ね上げられ、そのロボット物の主題歌らしいインストの音楽が流れ、赤や青のランプが点灯、点滅を始めた。これは菜実も一時馴染んだ眺めだ。河合の横顔には、鬱憤を叩きつけるような興奮が見える。
それから三十分ほど経ち、河合のドル箱は四箱ばかり埋まった。現金交換の玉数をオートでカウントするジェットカウンターの音が、菜実には虚しく、悲しく聞こえた。菜実もよく知っている、銀箔の貼られた延べ棒状のものを受け取った河合は、興奮の消えた無表情な顔つきで、菜実の存在がまるで頭に入っていないかのように、中央通りの往来に出た。アメ横のアーケード下に小さく息づく交換所で、宝石の指輪を嵌めた老いた女の手から三千円程度の現金を受け取った河合の顔には、埋めようにも埋まらない虚しさがくっきりと浮かんで出ていた。菜実には、それを自分が埋めてやる方法は、今、そばに寄り添うことの他は分かりようがなかった。
師走時の人垣を割るようにしてアメ横を横に抜け、来た坂を上がり、アミューズメントホールの前を横切って中央通りに戻ると、河合は松坂屋の方面へ、でくりでくりと歩み進んだ。
河合の後ろ姿は、アメ横が終わる辺りの路地を左へ折れ、御徒町の方面へ進んだ。菜実は軽く駆けて、彼と肩を並べて歩いた。合わせる早歩きになった。河合の足は、小さな会社や貴金属店の入る、階数の低い雑居ビルが立ち並ぶ通りに踏み入れられた。何軒かのビル前を過ぎた右手に建つ、ステイ¥6000~、レスト¥4000~、カラオケ設備ありと緑色の壁面看板にある「ニューブーケ」という五階建てのラブホテルの前で、彼の足が停まった。足を停め、何かを考えこむ顔をしばらく俯けた河合は、菜実の手首を力荒く掴み、引いて、自動ドアのボタンを指で叩いて押した。菜実の同意が取りつけられることはなかった。
これがもしも害意のある相手なら、脚を踏みしばり、掴まれているほうの手を引く、菜実なら、それでその相手を路面に崩すことが出来る。あるいは、自分の圏内に引き入れる力を利用して、引き込みと同時に鳩尾に膝、あるいは金的。それから、倒れ伏した相手の後頭部に踵を打ち下ろす。
菜実には出来る。だが、それをやるには、今の相手は弱く、それ故に哀れすぎる。菜実の肉体に仕込まれているこのスキルのことは、長く繋がってきた肉親の他は、誰一人知りはしない。村瀬は勿論、恵みの家の世話人も、通所先のスタッフも。
入ると、左手に小さな黒いカーテンの掛かった料金支払いカウンター、その奥に、料金が表示された部屋の内照パネルが二段、並んでいた。河合は、どれでもいい、とばかりに、白壁造りの部屋のパネルをタッチした。受け取り口に落ちてきたキーをひったくるように取ると、菜実の手首を引いて、エレベーターの昇降ボタンを押した。エレベーターの中で、河合は口を堅く結んだまま、菜実の手首を離さず掴んでいた。
503 エーゲ、とある部屋に、河合は菜実を引っ張り込んだ。パネルで確認したように、壁、装飾がギリシャ風の部屋だった。バスルームの脇には玩具の自販機、その隣にはカラオケセットがある。
部屋に入るなり、河合は菜実のコートのボタンを必死の手つきで外し始め、その全部を外し終えると、襟に親指を挿し入れ、剥くように脱がせたそれを、カーペットの上に投げた。乱雑な形で落ちているコートを脇にして、菜実の腰を抱き、二人で頽れた。頽れると、菜実のタック付きスカートのホックを外し、右手で毟るように剥ぎ取り、コートとは反対側へ投げ捨てた。ワインレッドのセーターを上体から抜き取り、パンティとストッキングを一緒に剥き、菜実を陰毛を露わにしたブラジャーと靴下のみの姿にした。膨らんだ鼻孔から放たれる荒息が、菜実の耳を打った。その顔は、哀れさを一層誘うまでに一極集中したものだった。菜実の中に、抗いの気持ちは起きなかった。
「怖いんだ‥」菜実の頬の脇に両手を着いて言った河合の顔には、憔悴が深く刻まれていた。
「子供の頃、感情も意思もない物体を見てて、時間が経って、自分もこれと同じものになると思うと、いっそのこと、そんなことさえ感じない世界へ逃げてやれば楽になるんじゃないかって思ったよ。だけど、俺にははなから、自分の命を自分で断って、その世界へ行くような勇気も持てなかったんだ。だけど、生きてる限り、退屈を割って、怖いこと、苦しいことばかりが俺の所にやってくる。こんな人生がこれからあと四十年あまりも続いて、しまいに視えない、聴こえない、感じない世界、その世界っていうものすら分からない世界へ行くと思うと、耐えられないんだ」河合は言って、ジャケットとトレーナーを上体から抜き取るようにして脱いで放り、デニムとパンツを一緒に脱ぎ捨てた。痩せた体から上を向く、勃起しきった陰茎が、菜実には悲しく映った。
「だから、君がいないことなんて、俺は我慢できない。君は俺には、なくてはならない人なんだ。あの時、アイドルで君と出逢ってから、俺は‥」泣くように言った河合の腿に菜実の片足が抱えられ、陰部に手が挿し入れられた。少しの時間ののち、粘膜の音が立ち始めた。
河合は菜実の体を返し、膝を着いた後ろ向きの体勢にした。菜実は、肛門と、心ならず潤んで口を開かせた女陰を河合の目の下に露わに晒し、赤いカーペットに肘を落とし、額から鼻筋を当てて顔を伏せながら、虚無の中に疚しさが入り混じる感情に苛まれていた。やがてブラジャーが取り払われ、乳房に両掌を掛けた河合が、後ろから体を沈めてきた。河合の動きに合わせて、俯いた顔が涙に濡れはじめた。

博人と二人で津田沼に繰り出し、カラオケボックスに入り、二時間コースを選んだ。ポップコーンとたこ焼きをつまんで飲み放題のソフトドリンクを飲み、世代違いの歌を二人で交代に唄った。
博人が入れた曲の前奏が流れた時、村瀬の携帯が鳴った。ディスプレイには、「恵梨香」と表示されている。
驚いた村瀬は、唄う博人に挙手し、「唄ってていいぞ」と耳に声をかけ、ルームを出た。
廊下を行き交う若者達を肩でよけながら、通話ボタンを押した。応答の声を送ると、小さな溜息のような声が漏れてきた。
「恵梨香か。応えなさい。お父さんだ」「お父さん‥」平然と親をお前、てめえという呼ばわりをしていた娘が、実に十数年ぶりに自分をお父さんと呼んでくれたことに、村瀬はじわりと来るものを感じた。
「置いてった手紙は読んだぞ。今、お前、どこにいるんだ」「市川だよ。ヘルパーやってる、早瀬さんっていうおばさんのとこで、家と風呂と飯、お世話んなってんだ」言った恵梨香の声は、どことなく遠くへ宛てたもののような抑揚だった。
声と言葉に、相変わらず愛想の調子はないが、近況をさらりと聞くことが出来たことは嬉しい気持ちになった。
「そうなのか‥」村瀬の声が霞んだ。「お前は今、無事なんだな。無事で良かった。本当に良かった‥」村瀬がかすかに震える声を送った時、ふん、と笑う声が返ってきた。
「仕事とかは、今、してるのか。お世話になってるんだったら、家賃とか、食費の足しを入れなくちゃいけないだろう?」「これから入れるよ」「仕事はしてるのか」「障害者の支援施設で、今月の半ばから働いてるよ」「本当か。何っていう名前の施設だ」「市川の鬼越にある、鬼越ライラック園っていう所‥」「そうか‥」
村瀬は目を涙に霞ませながら、背筋を伸ばした。ルームからは、博人が唄うロマンフルドキュンの「ヤンキー哀歌」が盛大に流れている。
「この先、そっちに連絡するとかは、分からないよ。そっちの電話にも出ないかもしれない」「いや、今は、お前が無事ならいいんだ。だけど、お前には、そういうお世話の縁がある気がしてたんだ。分かってくれる人は、ちゃんと分かって、理解してくれるものだからな。待ってろ、博人に代わる‥」「いいよ。こっちはこっちで何とかやってることだけ伝えてくれればさ」「分かった。伝えておく」村瀬は力強く答えた。「それと、これから連絡することが、あるかないか分からない以上、言っとくよ」「何だ」「私は、ずっと、あんたを求めてたんだ。誰よりもね。早瀬さんといろいろ話して、最近やっと整理がついたんだ」「恵梨香!」「じゃあね‥」電話が切れた。
村瀬は握りしめたスマホを腰の位置に下ろした。自分の酷い境遇への恨みを弱い者に当てる心と、美咲から刷り込まれた差別心で、盛んに社会的に不利な立場にある人を侮辱する言動を取り、己の行いを屁理屈で正当化し、母親に暴力を振るい、金をあるだけ毟っていた娘が、社会人としての道を歩み始めている。それを後押しした人は‥村瀬は、いつか、その早瀬という女性に必ず礼を言おうと決めた。
涙を拭きながらしばらく立ち尽くし、博人の曲が終わる頃を待って、ルームに入った。
「博人、聞きなさい」曲が終わってから声かけすると、博人はぽかんとして、赤い目をしている父親を見た。そこで、八十年代に「若者の教祖」と呼ばれていたが、二十代の若さで事件性が囁かれる死を遂げて久しい歌手の、夜の校舎に忍び込んで窓ガラスを破損する犯罪行為が歌詞のフレーズにフィーチャーされている、若い憤りに満ちた卒業ソングのイントロが流れ、題名が大きく表示されたところで、村瀬は自分の入れたその曲を、リモコンの停止ボタンを押して、切った。なお、その歌手は別のナンバーでは、バイク窃盗を開き直っている。現在、長男がそのあとを継ぐようにしてシンガーをしているが、その歌詞には、父親のような毒気、耽美的な破滅崇拝の暗みはない。
「今の電話は、恵梨香からだ」「え、お姉ちゃん?」博人は体を乗り出した。
「今、市川にいるそうなんだ。心ある人がホストマザーになってくれて、家の部屋を下宿みたいな感じで借りて、福祉の仕事をしてるらしい」「本当?」
博人はしばらく項を垂れてから、両目から涙を流し、鼻を抑えて、洟を啜り上げ、体を震わせた。
 「良かったよ‥」高くビブラートする声で博人が言い、村瀬はその息子の肩を叩いた。
 「あいつ自身が、あいつなりに気持ちを立ち上げて、それが縁に結びついたんだと思うんだ。しばらくの間は、こっちには連絡しないそうだ。だけど、いろいろとうまく軌道に乗った時に、また会えるって、お父さんは信じてるよ。だから、陰から応援してやろう‥」「うん」
  博人は泣き続けた。隣のルームからは、酔った男ががなる、酷い音痴の軍歌らしい曲が流れていた。
 
身繕いを終えた菜実は、カーペットの上に座り込み、瞼を落とした目の視線を落としていた。 
  「悪かったよ」トランクス一枚の姿でベッドの縁に座る河合が、煙草の煙を吐きながらこぼした。
  「こんなに荒く君を抱くつもりはなかったんだ。だけど、抑えられなかったんだ。さっきのパチンコも、欲望が波みたいに押し寄せちゃって。それでも、愛っていうものを寄せる人は、君しかいないんだ。どこのどんな人間よりも。誰よりも」浮いた言葉を、河合はぼそぼそと述べ、菜実は小首を返して彼を見た。河合は細面の顔に暗い翳りを貼りつけ、下を向いている。
  二時間の間に、河合は三度、射精した。菜実の乳房と膣、肛門を、舌と指、陰茎で、存分に貪る抱き方だった。その河合の勃起した陰茎に、彼に強いられるままに口腔の愛撫を奉仕したわけは、彼が突き出す欲望への反射だった。
  菜実は力の抜けた体の尻と脚をカーペットに着け、答えの出ない気持ちの巡りを胸に抱いていた。座り込んだ自分の姿が、背景のない空間に佇み、それが遠ざかっていくビジョンを、頭の中に見ていた。
 「正月も、二日を除いてアマゾニックスの倉庫の仕事があるんだ。だから、三が日が明けた頃に、また電話するから」柏駅の西口改札前で、河合は言い、菜実はそれには何も答えず、瞼の落ちた顔を俯かせた。
 「奥さんとは、離婚の話し合いに入るかもしれないよ。そしたら、その時には、君と‥」河合の言葉は、構内アナウンスと、ホームを離発着する電車の車輪が立てる響きの中、空虚に消えた。
 「じゃあ、また‥」答えない菜実に背中を見せ、カードをタッチして、改札向こうに消えた。
  菜実は、自分の体重があってないもののような心地を、良心を司る胸の一部に覚えながら、その場に立ち果てていた。自分を一心に思う村瀬の微笑した顔が浮かんでは、それが背後の薄闇へと後退し、消えていく。繋いだ手と手がほどけ、その手も、いずこへと消えるという印象像が浮かび、駅のアナウンス他の雑多な音が、その寂寥をさらに盛り立てた。コートの裾をひらめかせながら東武野田線乗り場へ踵を向けた時、また、自分の頬が熱く濡れ始めたことが分かったが、人目は気にならなかった。
  まだ三十代かそれくらいに見える、容姿のいい両親の真中を歩き、浦安の「夢の国」のおみあげらしい青いビニールバッグを持った幼い女の子が、はしゃいだ声で「綺麗なお姉さんが泣いてるよ」と言うのを聞いたが、菜実は振り返ることなく、船橋行のプラットホームへ早歩きした。今日、自分を振り回す行動を取った上、欲望の赴くままに自分を貪り抱いた男の、誰よりも、という言葉が、苛むように繰り返し思い出され、それがさらに憐みの念を強めていた。
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