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16章
~綺麗だから~
しおりを挟む柏の街は、二十幾年前と比べて基本色が明るく、きらびやかになったと感じた。学生時分の村瀬が交通量調査のアルバイトで来た時は、もっと鬱蒼と、ごみごみとしていたように思える。だが、東の渋谷と呼ばれるだけあって、若い世代の人間達の姿がよく留まり、少子、高齢というアジア社会の実際的実情はあまり感じられない。
村瀬は柏駅南口から伸びるハウディモールを、千代田という区域の方面を目指して歩いている。たかこ、という氏名の菜実の叔母が住むという「アップルハイツ」は市の水道局近くにあることは、マップ検索で掴んでいる。アパートの検索で出てきた写真によると、外壁が緑色に塗装された木造二階建てで、部屋はワンルームとのことだった。家賃は共益費を含めて月三万八千円とあった。
駅から二十五分の長きを歩き、千代田地区に入った。アップルハイツは、新旧の住宅家屋が並ぶ、カーブした広い車道沿いにあった。外観は写真で見たままだった。名戸ヶ谷のほうには二号館があるという。前にはゴミ出しのスペースが設けられており、「当アパート住人以外の方は捨てないで下さい」という警告の看板が貼られ、中年の男が勝手にゴミを捨てている監視カメラ映像の写真が載っている。村瀬は曇った空を仰いで見てから、アーチ状の外門を潜った。二段に分かれて横並びになった、錆びたスチールの集合ポスト下段に、「池内」の名前を確認した。一階突き当りの5号室だった。
各階に五つの部屋を配した造りで、廊下の角には一回二百円とあるコイン式の洗濯機が置かれ、「故障中 洗えないものは入れないで下さい 家主」とマジックで書かれた紙が貼ってある。
村瀬は洗濯機の前で立ち止まり、ボディバッグから一枚のメモ用紙を出した。
池内様 姪の菜実さんとお付き合いさせていただいている者です。突然の名乗り出で戸惑わせてしまうことをお詫び申し上げます。ご都合のよろしい日取りでよろしいので、菜実さんとの将来的なことなどについて話し合いたいので、お手すきの時に、下記のアドレスまで連絡をいただけると幸です。電話番号 090‥ メールアドレス‥ 村瀬豊文 よろしくお願い致します。
メモを投函してのちの時間を設ける方法を選んだのは、相手の都合を慮ってのことだった。相手にも、気持ちの準備というものがある。
メモの内容を今一度確認して奥に進みかけた時、突き当り手前の部屋のドアが開き、人相の悪い男が出てきて、村瀬をじろりと一瞥して外へ去っていった。村瀬はその男を気にせず、奥の部屋へ進んだ。
ネームプレートには、上手いとは言えない字で「池内孝子」とマジック書きされた厚紙が挿してある。
「誰?」廊下入口から不機嫌そうな女の声が飛んできたのは、村瀬がドアポストにメモ用紙を入れかけた時だった。
振り返ると、手に煙草を二箱持った、オレンジ色のダウンジャケットを着て灰色のスパッツとサンダルを履いた小肥満の女が、にじり寄るようにしてやってくる。四十代だった。
「こんにちは‥」若干の詫びを込めた同時礼で腰を折った村瀬の声は、高く上ずっていた。
「何も買わないよ」村瀬の前に立った女は、村瀬を何かの販売員と見なしたか、冷たい口調で言ったが、目の奥にはどこか興味染みた光があった。肉づきのいい頬とがっしりした顎、丸い目と丸い鼻をしており、沖縄のシーサーを思わせる。緩いパーマをかけた肩までの髪は軽い茶色にカラーリングし、薄くファンデーションとルージュを挽いている。左手首には、透明の玉を繋ぎ合わせたブレスレットを巻いていた。
「池内孝子さんで間違いないでしょうか」「そうだけど、あんた誰?」女の顔にますます不思議の色が浮いた。
「私は村瀬豊文と申します。習志野から来ました。ご不在でしたらメモを投函させていただこうと思ったのですが、こうしてお会い出来たので、どういう立場でこちらに覗ったのかを簡単に説明させていただきたいのですが‥」「立場って何なの?」女の目がより丸くなった。
「池内菜実さんは、そちら様の姪御さんで間違いありませんでしょうか」「そうだけど、あんた、あれの何なの?」女は口をちょぼりと尖らせて問うてきた。
「お付き合い、させていただいております」村瀬が恐々と言うと、菜実の叔母である池内孝子は視線を廊下の柵へ遣って、何かを考えるような顔つきになったが、すぐに目を村瀬に戻した。
「あれ、グループ何とかに入って生活してる精薄だよ。あんた、あれと話してて苛々しないの?」孝子は語尾に失笑を混ぜた。
今の世の中で一般に広まっている程度の知識もなく、障害に理解も示さない人であることは予想のうちだった。語気からも、菜実の話に聞いた通りの、男はだしの血の気の多さが伝わってくる。村瀬は汗が滴る緊張を覚えていた。だからこそ、しっかりはっきりと話すべきことを話さなくてはいけない。
「まあ、いいよ」孝子はポケットから出した鍵を差し込んで回し、ドアを開けた。「入んなよ。話だけだったら聞くからさ」言った孝子に、村瀬は頭を下げて、彼女のあとに続いて玄関を潜った。
部屋は六畳ほどの広さで、玄関脇にユニット式のトイレバスがある。住人の柄には合わず部屋は片づいており、モルタルの壁には男性アイドルユニットのポスターと、その中の推しらしいメンバーの生写真が貼られ、カーテンレールから四角い洗濯ハンガーが掛かって下がり、フリルつきのブラジャーとショッキングピンクのスキャンティが干してある。男物の上着も掛かっている。菜実は、男と住んでいる、というようなことを言っていた。
村瀬は孝子の促しで、炬燵の玄関側座布団に座った。向かいに座った孝子は、買ってきたばかりの煙草を開封し、一本を引き出して点火して煙を吹き上げた。
赤いカーテンが留められた、狭いベランダ側の壁際には、白装束に白鉢巻をまとった中年の女が、滝の前に立ち、手に印を作り、凄まじい形相で経文らしいものを叫び唱えているB5サイズの写真が銀の額縁に入って掛けられていた。その下には注連縄の巻かれた、檜の小さな祭壇のようなものが置かれ、端に二つの榊立て、その内側には御神酒の小瓶と小皿の塩、中央には真っ赤なフレームの鏡が立てられていた。
「要はくれって承諾だよね、あいつをさ」孝子は煙を部屋に撒きながら言ったが、その口調にも顔にも、一応、一時は菜実を見ていたという人間らしい気揉みが感じられない。
「あいつともう寝たんだろ? 好きにすりゃいいじゃんか。あいつだってもうガキじゃねえし、あんたがいることであいつがそこそこ幸せだったら、別にこっちが関与するこっちゃないよ」
孝子の口ぶりには、障害を抱える姪を微塵も心配する様子が見えない。だが、菜実が得た金は間違いなく、この叔母の元へ行っている。
「私が今日覗ったのは、まず、そのことです。菜実さんのお母様にも、なるべく早くに挨拶させていただくことが筋でしょうけれど‥」「ああ、私の姉貴だろ? あれは二十年近く前から栃木にぶち込まれてんだよ。強殺で無期。もう出て来れはしねえんだよ。迷惑そのものだったよ。そもそも無駄な弁護士費用の支払いなんかこっちに残しやがってさ」
語彙表現を欠く菜実の話に聞いたことが、今、確認が取れた。薄らと分かっていたことをはっきりと知ったことで、村瀬は納得を得た気持ちになった。
「強盗殺人‥でしょうか?」村瀬が息を呑み込んで問うと、孝子は煙草をルージュの口の端に緩く咥えながら、鷹揚に頷いた。
「あの姉貴、一応、高校卒業してんだよ。つっても、試験無しの家政科の高等専修とかの、時計が読めなかったり、自分の名前も漢字で書けないようなのが普通にいるような学校でさ、体のいい特殊だね。そこ出て、総菜作ってる小さい工場に就職して、安賃金で七年ぐらい働いてたんだ。その間に、その工場に出入りする業者の助手とかをやってるっていう男と付き合い出してね。私も知ってんだけど、何だかぼさっとした、馬鹿面下げた奴だったよ。けど、あれが普通の男なんかにまともに相手されるはずがねえからさ、似合ってたよ。馬鹿同士って感じで」
孝子がそこまで語った時、村瀬は自分の喉がなるのが分かった。
「そいつとの間に生まれたのが、あいつ、菜実だよ」孝子は目を天井に泳がせ、煙草を吸い込んだ。
「籍も何も入れねえで、実家だった豊四季の公団に一緒に住んでね、腹ぼての姉貴を見て、姉貴は十余二のほうにある小っちゃい産婦人科で菜実、産んだんだよね。それがさ、あいつが三つの時、どっかへ逃げちまったんだよ。女房子供、放り出してさ。ついで言うと、名前は大塚‥」
孝子の口調は、他人事を語るように淡々としている。大塚というらしい菜実の父親への怒りらしいもの、捨てられた姉とその娘への憐憫も感じられない。
やはり、利己。この女も、これまで菜実を囲んできた多くの人間達の一部に過ぎない。それが性格、で片づけるべきか別のもののせいかは、今の村瀬には分からない。
部屋の隅の写真が霊能者か教祖かも、まだ村瀬にも分からない。だが、おそらくこれには金がつぎ込まれている。今日まで菜実は、この叔母に「弁護士を雇うため」という言わんで金を送り、預けてきた。
本人にどう伝えるかも分かるべくもない、むごく、忌まわしい事実を、村瀬は肚の中に押し込んだ。胸の中に、憤りの思いが静かに立ち昇ってきた。それは嫌悪感も含んでいた。
「それから実家はじり貧になってさ、私はその頃、水の仕事やってたんだけど、借金とか未払いの市県民税や何かがいろいろあったし、元から母親が嫌いだったこともあって、実家を扶ける余裕もその気もなかったわけだよね。あっちも、菜実の保育園の利用料の支払いもあって大変だったみたいだけど。でも、しょうがねえんだよ。あの婆あと娘で、揃って精薄だったんだから」孝子は煙草を揉み消し、頬杖を着いて、小さな舌打ちをした。
「その二年ぐらいあとだよ。あの馬鹿が、中学ん頃から遊んでたお友達の、無職の精薄女と一緒に霊感師の婆さん、ハンマーで殺っちまったのは。テレビでも新聞でも報道されたよ。あんた、覚えてないかな」
村瀬は上体を引いた。自分の目の色に恐怖が出ていることが自分で分かった。その事件のものらしいテレビ報道の記憶が、おぼろげながら甦ってきたと思えた。「紐で首を締められた上、金槌を執拗に頭部に」「遺体の損傷は激しく」という現場リポーターの語気と、度の薄いサングラスをかけた被害者の生前のスナップと、化粧気のない顔に、それぞれ開き直りと憔悴の表情を浮かべた加害者二人の逮捕写真がテレビに大きく写っていたこと。だが、被害金額が妙に少ないということが少々関心を引いただけで、日本の社会ではありふれた報道のために瞬く間に忘れられた事件だったこともあって、すぐに村瀬の記憶からも薄れていった。
それが菜実の母親が起こした事件だったという事実の衝撃に、村瀬は打ち据えられていた。
「裁判は一般に公開されないで進められて、一審ですぐ実刑だよ。たかがあんなおもちゃのために、あんなことしでかしてさ」「おもちゃ?」「日曜の朝にやってた、あとからヘアヌードでケツの穴までさらした、落ち目のアイドル主演の、魔法少女かりぷそ、とかってやつ、知らない? あれの変身バトンだよ。婆さん殺して盗んだ金で、あれ買ったんだよ。動機はそれ。菜実のためだか、自分が遊ぶためだったかは知らねえけどさ」
「あの‥」正座を崩さず、肩を固く畳んでいた村瀬が、孝子の目を見て声を送ったのはその時だった。
「あの写真と、祭壇みたいなものは何でしょうか」村瀬はベランダ側の壁に掛けてある、経文か呪詛を叫び倒している白装束の女の写真と、その下の祭壇を手で差して、孝子に問うた。
「ああ、これね」孝子は言って、這って祭壇まで体を伸ばし、祭壇の脇に置いてある一冊の冊子を手に取った。
「まあ、ちょっと目ぇ通してみなよ」孝子は冊子を村瀬の前に置いた。
正法啓発、というタイトルが描かれ、和服を着た壁の写真と同じ女とその夫らしい男が、子供二人を含む男女に囲まれている写真が表紙を飾っている。
村瀬が表紙をめくると、ファインダーを睨む目つきをした代表の女の写真が出てきて、丹羽啓子というらしいその女の講話のページが三、四枚続いていた。「悪霊調伏」「神の浄め」などというという言葉が強調して語られる講話のページが終わると、女二人の一組が正座して向き合い、互いの額に人差し指を当てている写真を掲載したページになった。
「これは何ですか?」村瀬がそのページをかざして訊くと、浄神の業(わざ)、と孝子が答えた。
「これをやることで、何つうか、霊的な免疫がついて、人に不幸をもたらす悪霊とか悪神、寄せつけなくなんだよ」「これ、受けてるんですか?」「私? 受けてるよ」「受けて、何かいいことがありましたか?」「結構あったよ。あんたも受けてみりゃいいじゃん。あんた、習志野だっつったよね。隣の船橋にも支部あっから、よかったら私が紹介するよ。そら、これが神様の力、仲介すんだよ」孝子は左手首のブレスレットを村瀬に見せた。
村瀬が冊子をめくり進めると、「邪霊がそそのかす払い惜しみを厳しく正してくれた素晴らしい教え」という見出しの下に、息子で間違いないと思われる男の肩を抱いた壮年の男の写真を載せたページに来た。壮年男は、引き攣った作りではなく心からの喜びの笑みを浮かべているが、息子は目つき、顔つきが、健常の人間のものではない。焦点の合わないどろりとした両目からは考えていることが窺い知れず、口はぽかんと開いている。
村瀬は次項を親指でめくって開き、打たれている文を目で追った。それによると写真の男は、昔に大腸ガンで妻に先立たれ、立ち食い蕎麦屋の店員をしながら無職の息子二人を養ってきたが、長男の精神障害発症、非行に走った次男の暴力に悩まされていたところ、同僚が支部長に引き会わせてくれ、孝子がしているものと同じブレスレットを買って入会、浄めの業を受け、そのお陰で心の禅定を得ることが出来た。それに感謝し、要は未来の幸せへのかけがえのない保険である「神様へのお礼」を納め続けているという話だった。浄めの業を受けて、具体的に何がどうなった、変わったという話は語られていない、尻切れとんぼの内容だった。ただひとつはっきりと言えることは、長男の精神障害は治らず、次男の暴力も今だに続いている中、この男は精神保健や警察に助けを求めることもなく、この団体に一切の信を預けて一人で喜んでいるということだ。
「あの‥」村瀬は冊子を炬燵に置き、問いかけを試みた。
「そのブレスレットの代金を含めて、いくらかかるものなんでしょうか。この機関紙の購読料、月に納める会費のようなものなどは」「ああ、これね」孝子はブレスレットを指で叩いた。
「これ、六十万。二十万づつ分割の三回払い。あと一回払ったら、こっちは終わりだよ。月会費とそれの購読が兼ねてて、月に三万だよ」生活を脅かす経済的略取の話をあたかも普通のことのように話す孝子に、村瀬は身を乗り出していた。
「大丈夫。今日も四時から善哉フーズの夕勤だけど、それの他にも当てはあるんだよ」「当て?」村瀬の問い返しに、孝子の唇がかすかににやっと歪んだように思えた。
「それは、菜実さんがこちらに送ってるお金じゃないんですか」村瀬の問いかけに対し、孝子は目を据わらせた笑いを刻んでいるだけだった。
「何? それ、あいつが言ったの?」「はい。叔母さんにお金を送って預かってもらっていると言っていました」「あの馬鹿‥」小声で呟いた孝子の顔に怒りが表れた。
「どう思いますか?」問う村瀬に、孝子はただ、玄関のほうを見つめるだけの反応を返していた。
「どう思ってるんですか?」同じ意味の言葉を、村瀬はもう一度投げかけた。孝子の顔色に怒りが膨張している。飲み屋で人をぶったとは、すなわちぶん殴ったと解釈するべきだろう。男顔負けに血の気が荒いことは菜実の話を聞き、また最初に会った時に物腰の感じですぐに分かったが、相当のものらしい。だが、村瀬は肚を据えようとしていた。吉富同様、自分にとり天敵のような相手だが、菜実を守る以上、引くわけにはいかない。
「関係ねえだろ!」炬燵を叩き、怒号して立ち上がった孝子の目は血走り、口の端は吊り上がっていた。
「てめえなんか他人じゃねえのかよ! これはうちのことなんだよ! 他人のくせしやがって、わざわざこんなこと言うために柏くんだりまで来たのかよ!」声高く張った啖呵を投げつけられた村瀬は、腸がどっと冷える思いになっていた。それは一見の訪問をして家に上がらせてもらった身で、この叔母とその姪の生活に踏み入ったことを言わなくてはならなかったことに、負い目も感じているせいでもあった。
村瀬は立った。もう一度、頭を下げようと思ったからだった。
「てめえ、何とか言えよ!」どかどかと走り寄った孝子の拳が、空気を切って村瀬の鼻に伸びてきた。脚、腰から伝わった体重がよく乗っている。慣れている、と感じた。村瀬の体が屈んだ。その右パンチを左内受けで流すと同時に、気持ち下段気味の右の掌底が孝子の腹部にめり込んだ。孝子の口から空気が吐き出される音がした。
孝子の体が折れた。村瀬が半身をよけると、孝子は体を丸めてカーペットの上にごろりと突っ伏した。
一瞬の判断で急所は外した。反射の動きだった。胸の中に小さな驚きを覚えていた。相手は女だが、ちゃんと護身が出来たのだ。もっとも、その辺を歩いているようなただの女ではなく、昔の荒みが杵柄になっているような女だ。それでも、曲がりなりにも女である人間に、男の身で攻撃を当ててしまったことに罪の意識があった。
「大丈夫ですか」我に返った村瀬は、しゃがんで孝子の耳元に声を送った。「すみません‥」詫びる村瀬を、孝子は怒りの勢いが衰えない目で睨んだ。
「糞‥」痛みに顔をしかめて舌打ちした孝子の肩を持ち、体を起こした。孝子は座り直した恰好になった。
「告発の意味も込めて教えます」深呼吸して言った村瀬を、孝子は睨み上げている。外では、複数羽の鴉が鳴き声と羽音を響かせ、排気量の軽いバイクが走り去る音も聞こえた。
「菜実さんがここに送っていたお金が、彼女がどういう手段で得たものかはご存じですか?」「知らねえよ。あいつだって働いてんだろ? あれはあいつの好意だからこっちには、受け取る権利はあるはずだろ。それをどう使おうが私の自由じゃねえのかよ。これは法律的な保証もあることなんだよ」孝子は呻きの混じった呼吸に、悪びれのない言葉を乗せた。
「菜実さんは、純法と書いて、すみののり、という名前の、ホームページも掲載していない無認可の宗教団体に入信して、そこで売春まがいのことをやらされていたんです。これまであなたに送っていた金は、それで得たものなんです」村瀬の説明に、孝子の顔がわずかにぽかんとした色を帯びた。
「その宗教は、異性に縁のない男女に色仕掛けの罠を仕掛けて集金システムに組み入れて金蔓にしている悪辣な団体で、菜実さんに障害があると分かっていて、教団を回している連中に金を運ぶ道具として利用していました。その報酬や、教団の命で引いた男達が落とす金を受け取って、それをあなたに送って預けていた理由が、終身刑を打たれているお母さんの仮釈放のための弁護士費用のつもりだったことが、あなたの話で裏付けが取れました。その団体の教祖は、過去に刑事事件を起こして服役歴のある知的障害者です。何故そんな人間が、とお思いでしょうが、その男も利用されて、教祖をやらされているんですよ。私は自分の不覚で教団に個人情報を知らせることをしてしまって、主催するイベントに参加してしまいました。菜実さんとはそこで出会いましたが、彼女の他にも、障害をお持ちの女の子がいました。齢の行った独身者の中には、放置されてきた障害者の人がたくさんいます。つまり寂しい高齢者は勿論、障害者を食い物にしている連中なんです。これは本当のことなんです」村瀬の口調には熱が滲んでいた。彼はそれを少し反省した。
「あいつ、やっぱり別のやつやってたんだ」孝子は言い、鼻から小さな笑いを吹いた。「お参りがどうとかって言ってっから、あれほどこっちにしろっつったのに、あの馬鹿‥」
「孝子さん」村瀬は呼びかけた。
「確かに信教の自由は保証されなくてはいけません。これは日本では勿論のことです。ただし、その根底には優しさと安らぎがなくてはいけないはずなんです。敬うべき神様、仏様や先祖、霊魂が強迫めいた観念にされて、ぴりぴり、かりかりしながら、または祟りや裁きに怯えながら行うような信仰は、宗教の本来あるべき姿ではないと、宗教に詳しくないなりに思うんです。お金は、この世だけで使える通貨です。それは、尊い世界のことを話す時、間に入ってはいけないもののはずなんですよ」
孝子はカーペットに手を着いて、視線を左右に送りながら、村瀬の言葉を聞いていた。自分の言ったことがどこまで本心に則ったものかが、村瀬は疑わしかった。どうにもならないことを自分自身が見聞し、かつその身を潜らせてきた。今もその渦中にいると言っていい。この世に神仏がいるならば、それは人間を守るためにいるものではない。そうでなければ、毎日のようにメディアが報道する悲憤の事柄などがこの世にあるはずがない。善人を泣かせる悪人が富や権力、名声をほしいままにするはずもない。
神が富と貧困、権勢、腕力などの強弱を二極分化して創ったのは、何を意図してのことか。仏が沈黙しているのは何故か。それを思う時、村瀬の中に行き着く答えは、人間の都合に合わせて考え出されたものなどは、その実体がないということだった。目に見え、聞こえ、触覚、味覚、嗅覚のあるこの世のことは、人間自身の手で解決しなくてはいけない。それこそ俺が第一としてきたことではなかったか。
「それで、どうすんの? お前、その団体、告訴とかする気でいんの?」孝子が村瀬に横目の睨みを送りながら問うてきた。
「そんなものはもう間尺に合わない所に片足を突っ込んでしまっています」村瀬の答えに、孝子の目が丸く見開かれた。
「だけど、どんな手を使っても必ず縁を切らせます。そのあとで、菜実さんを下さい。障害は関係ありません。私はこれまでもそうですが、今後も彼女の心しか見ません」村瀬は手を着いて頭を下げた。
「構わねえよ。くれてやるよ。元々私の物でも何でもねえんだから」孝子は吐き捨てて、炬燵の縁に手を掛けて立ち上がった。
「私が言ったことの意味は、もうここに菜実さんからのお金は来ないということになります」村瀬が言うと、孝子はまた鼻で嗤った。
「‥あんたももう薄々は分かってっと思うけどさ」孝子の目は玄関に向いている。
「あいつはね、母親と同じなんだ。顔から中身から、全部何もかもさ」孝子の言いたいことはよく分かる。だが、その先に、これからも菜実と関わっていく上で最も重要なことが語られると予感した。
「誰にどんな目に遭わされても、自分がどんなに酷い状態に置かれても、それをただ受けるだけなんだ。概念的に持ってないんだよ。怒りとか憎しみとか、恨みっていう感情をさ」
村瀬は絶句した。その絶句は、自分以上に菜実を知る人間から、的を得る表現を聞いたことによるものだった。傘の一撃であの喧嘩屋を倒して、彼女の腕を取って支部のマンションを脱出、船橋で自分達に悪質な絡み方をしてきた低能大学生達を締めて詫びを入れさせた、過去にはかなりえげつなく暴れていたと思われる壮年の男に、いじめるのは可哀想だと赦しを嘆願して、中心になって絡んできた若者の頭を優しく撫でた。そのあと、緊張を鎮めるために入ったラブホテルでその口から語られた、その光景を見でもすれば目を覆うような話を、過ぎ去った過去の一遍に過ぎないことと言う風に語り、表情、口ぶりに恨みや憎しみ、怒りのようなものは全く覗えなかった。
「だけどね」孝子は天井を見上げ、低く這う声を絞り出した。
「あいつら母娘(おやこ)が同じ人間だってことが、何を意味するか分かるだろ‥」村瀬は正座で座ったまま、唾を呑み込んだ。
「姉貴も、他の人間に持ってる感情は菜実と同じだったよ。それが生きた人間の脳天に、何度も何度もハンマー叩きつけて、そいつの脳味噌ぶち撒いたんだかんな」村瀬は孝子を見上げた。
「お前、これからもあいつと関わる気でいんなら、これだけはよく覚えとけよ。何かの場合によっちゃ、あれもあの母親と同じか、それ以上のことするかもしれないってことなんだよ。それでしまいに、お前があの霊感師みたいなことにならなきゃいいけどな」
村瀬は思い出していた。菜実の体を抱いた時に、脂肪層の下に張る強靭な筋肉の息づきと、手を繋いだ時に感じる、あの握力を。あれは何を目的に、彼女の肉体に存在しているものなのか。だが、母親は母親、その子供は子供だと思う。孝子はそう言っても、菜実の心は人間離れしていると言っていいまでに、清廉で優しい。それは性格、ではなく、障害特性だろう。だが、それでもいい。それでも。それでも。それでも。
「分かりました」村瀬は正座を解いて立ち上がった。
「このメモを置いていきます。今のところ、普通に連絡を取り合えるお身内の方は、孝子さんしかいませんので‥」村瀬は当初ドアポストに投函しかけた連絡先の記されたメモを、炬燵の上に置いた。孝子の目が、一瞬そのメモに置かれた。
「突然の訪問、すみませんでした。失礼します」村瀬は分離礼で深く腰を折った。
「行けよ。特に見送らないから」孝子は呟いて、二本目の煙草を咥えた。
「一つ訊くけど、お前さ、あれのどこに惚れて一緒になりたいなんて思ってんの?」村瀬の項を孝子の声が打った。村瀬は革靴を履きながら、孝子を振り返った。
「誰よりも、綺麗だからです」答えて、ドアを開けて外廊下に出た。手摺に一羽の鴉が止まり、唸る鳴き声を発している。市の要所に設置された無線のスピーカーから聞き慣れたチャイム、それから高齢者の行方不明を知らせるゆっくりとした調子の放送が流れた。
外廊下を渡りながら振り向いたが、突き当たり部屋のドアは閉じたままだった。
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