手繋ぎ蝶

楠丸

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因縁を切るということ

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~因縁を切るということ~
八十坪の敷地、二階建てで、広いリビングと居間、計三つの十二畳の部屋がある家だった。屋根にはソーラーパネルが載り、外壁は白の窯業系サイディング、二台の車が入る駐車スペースを擁している。場所は新京成線二和向台を最寄りとする咲が丘で、二千万円の現金払いで買い叩いた。それまで住んでいたワンルームマンションは引き払った。
全裸の右半身は、肩から乳房、大腿まで、赤紫の熱傷跡に覆われている。髪を後ろでまとめているため、瞳のない眼球、焼け落ちた頬の額骨も露わになっている。
義毅の膝にまどかが乗り、両乳房に掌をかけられながら、尻を縦にいざる動きを繰り返し、粘膜が鳴る。
妊娠中の安全な体位である、座位だった。
義毅の手の包帯は取れているが、爪はまだ生え揃ってはいない。痛みと引き換えに手にした、世間一般の所帯。
目星をつけている仕事は、これまでの表のものと同じく自営。鎌ヶ谷に物件を一軒購入してあるが、浄水器のテレワーク販売とはまた別のものだ。柄に合わないか、はたまた意外に合っているかは、自分ではよく分からない。だが、いい。
思った時、母体と胎児に影響する感染の予防と、子宮の収縮を防ぐために着けているコンドームの中に精が迸り出た。色鮮やかな倶利伽羅が肘まで彫られた腕がケロイドの体を抱き、背中の加藤清正をカーペットに着けるようにして、後ろへゆっくりと倒れた。まどかの乳房が揺れた。まどかとはまだ体と体が繋がったままだった。
「今、動いてる、あなたの子‥」まどかは、小刻みな呼吸に混ぜて言い、義毅はその下腹に手を移した。
「そうか。俺にはちょっと分かりづれえけどな」「来週は超音波検査だから、男の子か女の子かが‥」「俺はどっちかっつうと‥」「野郎?」まどかが事後の呼吸に混ぜて問うた時、義毅が、まどろむ目を鋭くし、ドアを見た。
結びついていた体をまどかから外し、まだ勃起している陰茎からコンドームを抜き、下着と室内用の軽い服をさっと着け、ドアへ向かった。向こうに人間が立った小さな音を耳が拾い、それが慶ぶような来訪に非ずということを、頭脳と胸が察知したためだった。
「何だ」ドアの前に立つ松前に、義毅は用件を問う言葉を短く投げた。調べることも仕事の重要な一部。ほんの二ヶ月前の自分もそれを生業としていた。だから、東京グループの者がここにやってきても、驚くということはない。
「応援の要請ですよ‥」松前の顔と声には、それとない惜しみが滲み出ている。
「ふた月前に俺らが叩きをかけた奴らですよ」「あの我孫子のか」「インサイダー買い叩いて、福祉施設を何軒も買い取って、組織がだいぶ太ったんですが、潜ったのが工作仕掛けて、今、割れが進んでるんすよ。だから要はそのどさくさに乗っかるって話なんすけど、荒さんの力が要るって、元締が‥」松前は、ある種の無念を刻んだ顔を、義毅の視線域から軽く反らした。
「今残ってる面子だけ使ってやってくれって、木島の元締に言え。俺はけじめもつけたし、納めるもんもきっちり納めた。だから、今は関係ねえ」「そうですか‥」まどかと二人で植えた山茶花とチューリップが色を咲かせる庭に目線を馳せ見る松前の顔色には、したくはないがしなくてはならない警告をぶつ用意した心境が表れている。
ヘルメットを被り、補助輪付きの幼児用自転車に乗った女児を若い母親が押す光景が、家の門前を通り過ぎた。空は曇っているが、雨の気配はない。
「じゃ、一応、俺のほうから元締には伝えときます。荒さんの事情はみんな知るところっすけど、念のため三ヶ月から半年の間は、身の周り、用心して下さい。俺も止められるとこは止めてみますけどね」松前は言って、門へ体を返した。
「俺はもう恐喝屋(カツヤ)の荒川じゃねえ。来年の夏から、未来の納税者を育てる立場になる、村瀬って人間だ」義毅は門を出ようと後ろ姿を向けた松前に投げかけた。松前は俯き加減の横顔を見せて立ち止まり、やがて門を出て、消えた。
裸の体をカーペットに横たえたまどかは、今しがたの来訪が誰なのかを問わなかった。曲げた膝が伸び、大腿に隠れていた陰毛が覗いた。彼女の下腹は丸味を帯び、命を宿した膨らみを見せている。
「いい晦日だよ。来年の今頃は、もう三人になってっけどな‥」義毅は呟いて、仰向けに寝たまどかの腿を広げ、包皮から露頭したクリトリスに軽く接吻した。まどかは潤んだ目で天井を見ながら、行為のあとの呼吸を整えていた。
「なあ、元旦には言いたくねえから、今のうちに訊いとくぜ」義毅は、パンティとブラジャーを着け、冷蔵庫の茶をコップに注いで飲んでいるまどかに問いかけた。
「もしも、生まれる前に俺が何かで死んじまったら‥」まどかがコップを顔前に振り返り、微笑した。
「何でわざわざ訊くのよ。分かりきってることを」まどかは笑ったが、顔半分がケロイドで損壊しているその笑顔は、義毅でなければ普通に怖いだろう。
義毅は苦笑し、照れを誤魔化すようにそっぽを向いた。
「そうだ。昼にお前が戻る前に、兄貴から電話があってな、あの恵梨香、今、市川のほうで誰かの世話んなってて、知恵遅れの奴ら預かる施設で働き出してるらしいぜ」「そうなの?」まどかがハンデのないほうの目を丸くした。「良かった‥」まどかはしばらく顔を俯けてから、顔の下半分をケロイドの手で覆い、鼻をすん、と鳴らした。
「愛想のほうは、婆さんになる頃にはいくらか良くなっと思うぜ」「そんなことはいいの。無事だったことが良かった‥」言ったまどかの目から涙が噴き出した。右は涙腺が死廃しているため、左からのみだった。
「問屋は信用するもんだ。気持ちってもんがある奴には、いい神様、仏が味方すんだよ。いや、たとえだ。あんなもんがいるかいねえかは分かりはしねえよ。もっとも、俺にはどっちでもいいこったけどな。今だに俺んとこには来ねえし、因果応報とか、仏罰とかがさ」
義毅は泣くまどかの腰を背中から抱き、彼女の震える肩に顎を載せながら、何となく、これからは自分達夫婦にとって完璧に理想的な行く末は期待するべきではない予感を覚えていた。それは松前が去り際に置いていった、三ヶ月から半年、という警告言が強烈に気になっているからこそだった。木島が自分に対する関心を一度捨てたところで、また引かれる気がしている。
どこからか、「歳末助け合い運動に協力しましょう‥」という宣伝車の声が流れていた。
入職から十日ほど経っていた。恵梨香は自分から希望を出し、初日から宿直勤務に入っていた。普通に考えて無理が強いられる入職の形だった。
朝はまず職員が、詰め込まれるようにして寝るスタッフルームで六時に起床し、それから利用者の居室ユニットを周り、おむつや、バソレーターテープの交換を行い、別の班は朝食を作る。
その時から、両方のセクションに、暗くぴりぴり、かりかりした雰囲気が立ち込める。
「これ置いたの誰だよ! 吉田さんはとろみだよ!」食事介助で利用者の隣に座った女の職員が、目一杯苛立った罵声を上げたのは、男女一緒の朝食が始まった七時過ぎのことだった。
「薬も出てねえじゃん!」吉田という利用者は七十代の高齢で、嚥下障害があり、血糖値をコントロールするものと、せん妄を抑えるものの二種類の薬を、朝と昼に飲んでもらわなくてはいけない。
「すみません」別の女性利用者の食介をするために斜め前に座っていた恵梨香は詫びて、椅子を立ち、吉田(よしだ)弘子(ひろこ)という利用者と、志賀摩耶(しがまや)というその職員の所へ回り込んだ。志賀は、眉に皺を寄せた目で、じっと恵梨香を睨んでいた。顰蹙の顔だった。周りで食介をしている職員は、表情のない顔で、自分の業務を行っていて、その様子に目を向ける者はいない。
「すぐに薬を出して、とろみに変えます」「いいよ、どうせ遅えんだから!」志賀という女は吉田弘子の食事が乗ったプラスチックのトレーを持ち、ばんと立ち上がって厨房へ歩き去った。
「何やってんの」呆然と志賀を目で追う恵梨香の前から、今風の威圧、侮蔑の意味を込めた平坦発音の言葉が投げられた。別の女の職員だった。
「三十五分までに終わらせないと、午前の作業に間に合わないんだよ。早く食介やってよ」「はい」露骨に嫌な顔をして詰る職員に恵梨香は答えて、席に戻り、車椅子に乗った利用者の専用加工スプーンを取った。
「梓さん、ご飯から食べましょうね」声かけし、プラスチック茶碗の混ぜご飯を掬い、河西(かさい)梓(あずさ)という二十代の利用者の口に寄せた。恵梨香は、梓の口から伸びた舌の上に混ぜご飯を載せてやり、蓋付き紙カップのストローを口に持っていき、茶を飲ませた。梓は喉を鳴らして、その茶を飲んだ。それから半分に切ったウインナーソーセージをフォークに刺し、彼女の口に運ぶと、前歯で噛んだ。斜め前では、志賀が、不機嫌を隠そうともしない顔つきで、巾着袋から出した二種類の薬を置き、吉田弘子の口にとろみの食事を運んでいた。
利用者の食事が終わってから、それを終えた職員が掻き込む食べ方の朝食になる。その間、利用者は待機になる。味わう余裕はない。
目玉焼きとウインナー、サラダ、味噌汁、混ぜご飯という利用者と同じメニューの朝食を急ぎがちに摂っている恵梨香に、左斜め前に座る女が失笑の笑いを吹かせた。川名(かわな)という四十代の女の職員だった。
「ねえ、うちのご飯は美味しい?」「まあ、はい。ちゃんとカロリーが計算されてて、いいと思います」取ってつけたように優しい薄笑いの川名の問いに、恵梨香は箸を止めて答えを返した。
「初日から見てると、あなた、よくご飯食べるよね」川名の言わんとしていることは分かる。恵梨香は次に言われることを充分に予期し、軽く肚を据えた。
「いつも食べるご飯の分だけ、ちゃんと仕事しなさいよ。あなたの遅い仕事が、周りの皺寄せになってるんだよ。うちはただ食べて出すだけの動物はいらないの。食べた分だけ、きっちり仕事する人間が要るんだよ。分かってる?」恵梨香の止まった箸が固まった。
「それだけじゃないよ。自分のご飯が遅いことも気づいてる? ここは先輩よりも遅く食べてちゃいけないんだよ」「すみません。これからは気をつけます」「せいぜい頑張ってね。もう、あなたに、みんなのこれが始まりかけてるからさ‥」川名は、これ、の箇所で、顔をぷいと横に向けた。
恵梨香は一礼するように頭を下げ、箸を動かす手を急がせた。
その後、午前は財布を検品して箱詰めするもの、介助のある昼食を挟んで、午後から木工の班に入り、糸鋸を使って木材を切断、ボンドの接着、ニス塗り、塗装の作業を行って、十七時退勤となった。シフトは、二日連続で泊まり、二日休みだが、宿直とは別の夜勤もある。その他、短時間勤務のパートタイム職員もいる。恵梨香は大晦日、元旦休みで、二日、三日と泊り込むことになる。連休は、申請すれば、三日間だけ盆休を取ることが出来る。有給休暇は、勤続一年目にもらえるようになるが、極めて申請しづらい雰囲気がある。
陽の落ちた鬼越の通りを、恵梨香はJR本八幡駅へ向かって歩いていた。そこへ後ろからじゃりじゃりと不穏な足音がし、名前を呼ばれた。振り向いて足を止めると、みんな一様に髪を男のように短くし、軽い外出着の上に鉤十字やヒトラーの肖像のワッペンを着けた女が三人、立っていた。齢の頃は、恵梨香と同じ二十歳前後だった。
「どこ行くの?」「仕事終わって帰るとこだよ」ニットの女に訊かれた恵梨香は、顔を伏せて答えた。「何の仕事?」「コンビニ‥」恵梨香は偽った。
「集会は月に二回出んのがメンバーの義務じゃん。お前、最近集会にも、SSにも来ねえし、どうなってんだって、みんなで話してんだけどさ。エリアリーダー、怒ってるみたいだよ。このまま連絡も顔出しもしねえんじゃ、お前、やばくなるよ」中央の、金髪のスポーツ刈りのような髪型をした女が言い、右端の、スキンヘッドにニットの、恵梨香と同じセンスの女が、そうだよ、お前何やってんだよ、と加えた。
JRのほうへ顔と体向きを戻し、歩き始めた恵梨香の前を、周り込んだ女達が塞いだ。
「何? シカト? お前、うちらの番号着拒にして、ラインもブロックしてんだよね。何のわけがあんのか教えてくんねえ?」金髪スポーツ刈りの女が、声言葉を凄むものに変えた。
「そこに車停めてっからさ、江戸川で話しねえ? 抜けるなら抜けるで、リーダーが言う額、積まなきゃいけねえんだからさ」
「どけよ」言って、引戸を開けるジェスチャーに似たしぐさで手を払った恵梨香と女達の間に、怒りの気が帯電し始めた。
「私はもう、お前らとはつるまねえし、SSにも行かないから。私は正会員じゃねえから、金なんか払う言われもねえし」
左へ回り、女達の通せんぼを避けて歩き出した恵梨香の地味なパーカーのフードが後ろから掴まれて、体を引かれた。
「てめえ、それで済むと思ってんのかよ。うちらの連絡ブロックしたわけ、こっちはまだ聞いてねえんだよ。だから人気のないとこで話そうっつってんだよ」
「離せよ」恵梨香は自分のフードを掴んでいる金髪スポーツ刈りの女の腕を、ばしんと払った。「お前らみたいな自覚のない薄らには、一生かかっても分かんねえこと教えてやんよ‥」恵梨香は二歩、女達に進んで、鼻先を詰めた。小林(こばやし)美(み)亜(あ)という名を知る金髪スポーツ刈りの女が笑った。それに合わせるように、ニットの臼木紗(うすきさや)香(か)と、坊主刈りに紅いキャップを後ろに被った高橋幸奈(たかはしゆきな)も、嬲るような笑いを浮かべた。
「何だか知んねえけど、江戸川で話そうよ。こんなとこじゃ、落ち着いて話せねえしさ、そっちのが早く済むんじゃね? 来いよ。すぐそこに停めてっからさ。でも、お前の態度によっては、いつまでも帰れねえよ」「いいよ」恵梨香は答え、四人の女は、来た道を戻る方向へ歩き出した。三人が、恵梨香の前後を囲んでいた。それに関しない人間達が、駅のほう、またはその反対方向へと通り過ぎては消えた。プラットホームから人を詰めた三鷹発の総武線が、夜の灯りに銀色の車体を光らせ、千葉方面へ走り去った。
恵梨香が乗せられたワンボックスカーの暗い車内で、低い吐息とともに籠っていた怒りは、江戸川畔の、総武本線の鉄橋下に彼女の身が引きずり入れられた時、一挙に爆ぜた。
「脱げよ」美亜が命じ、恵梨香はヤナギ系の雑草が生い茂る斜面に顔を俯かせながら、パーカー、トレーナー、デニム、靴を脱いで、スリップとパンティの姿になった。
下着の姿になった恵梨香の左頬に、美亜のパンチが入り、よろめいたところ、後ろから尻を蹴られ、雑草群の上に体が薙ぎ倒された。倒れた体に何発ものキックが叩き込まれ、背中を踏みつけられた。恵梨香は息を詰めて、それに耐えた。
首を前腕で極められて体を引き起こされ、スリップとブラジャーが毟られ、抉るようなパンチを乳房に入れられた。それから鳩尾にキックが打ち込まれた。背中から引き倒された体の鼠径部に、靴の踵が落ち、下着越しに陰部を踏みにじられた。顔の上にも踵が載っていた。
 「てめえ、ユニオンに戻れよ‥」言ったのは、恵梨香の顔に踵を落としている紗香だった。
 「やだよ」恵梨香は苦痛の呼吸に答えの言葉を混ぜた。
  見下ろす幸奈の手には、折り畳み式のボウイナイフが、刃を起こされて光っている。その刃先が、恵梨香の顔の上に突き出されていた。陰部から踵を離した美亜の口が開いた。
 「じゃあ、けじめ、取りなよ。利き手じゃないほうで勘弁してやっからさ、これ、手で握れよ。リーダーはそれでいいっつうかどうか分かんねえけどさ、一応、お前はこういうけじめつけたってことだけ、うちらのほうから話しといてやっからさ」
  恵梨香は、半身を起こすと、ためらうことなくボウイナイフのブレードに左掌を巻きつけた。
 「やれよ」渾身の力でブレードを握りしめた恵梨香が言うと、その手の甲が紗香、幸奈に二人がかりで押さえられた。
 ゆっくりとブレードが引かれた。恵梨香は歯を噛んで締めた。指の間に、溢れた血がなみなみと満ちた。熱を含んだ痺れる苦痛が、目を剥いた恵梨香の全身を震わせた。
 恵梨香は左手を右手で押さえ、喉を潰す声を撒き散らし、雑草の上で、右へ、左へとその体を転がし、背中をのたうたせた。顔と声には、必死で堪える涙のものが出ている。
 恵梨香がのたうち回り、それを三人の女が見下ろす時間が、二分ほど過ぎた。
 「行くべ」つまらないものを見飽きた声を美亜が振り出し、三人が一人づつ背中を向けた。
 「‥待てよ‥話が聞きたかったんだろ‥聞いてけよ‥」斜面に体を横たえて、体を畳んで呻きながら、恵梨香は言葉を搾って呼びかけた。三人ははたりと止まり、恵梨香を振り返った。
 「‥バランスってもんがない、極端な政治思想ってもんはね、そん時の政権とか、歴史の不都合なことを誤魔化して、隠すためにあるもんなんだよ。そういう思想に、勢力の頭数として取り込まれて使われるのは、ごろつきどもなんだよ。戦争とか、他の考え方を暴力で抑え込む時の、節句働きにするためのさ‥」腹から搾り出すひしゃげた声が、薄闇の中を低く這った。
 警笛とともに鉄橋が振動し、総武線の列車が三鷹方面へ走り抜け、明かりが撒かれた。
 「‥勉強するわけでも働くでもなしに、ほとんど親金暮らしで何も考えないで生きてるお前らなんかには理解しようにも出来ないだろうけどさ、ナチスのT4作戦ってやつじゃさ、知的と精神と、お前らみたいな知的ボーダーラインとか、私みたいな発達が疑われる人間が、たくさんガス室で殺されたんだよ。人並みに労働出来ないからって理由、つけられて、優秀な子孫を残して国を繁栄させるっていう目的でね。‥断種手術とかで子供を作れない体にされた人は七十万人で、T4で殺された人の数は七万人なんだよ。物が言えない、でなきゃ上手く伝えられない奴らが、これだけの数‥アウシュビッツのユダヤ人、七百万だけじゃないんだよ‥同じドイツ人までさ‥これに‥影響されたのが‥世界大戦の‥同盟国だった日本の‥優生保護法‥」恵梨香は真っ赤に染まった左手を押さえたまま、大きく呻いた。
 美亜を筆頭とする三人の体の恰好は、その話を流して聞くものだった。
 「‥私はもう嫌になったんだ。知りもしないことをさも知ってるふりしてさ、弱い奴ら嚇かして‥周りにごろ巻いて‥自分の本当の心と違うことやって、トラウマを言い訳にして、嫌なことから逃げ回る生き方、ずるずる続けんのがさ。‥だから、ちゃんと自分を見つめ直して‥汗水垂らして働く道、選んだんだ‥」恵梨香は体をよじり、膝を胸に着けたが、涙と鼻血の顔は三人のほうを向いている。
 「‥悪いことは言わねえよ。十年後、二十年後を想像しないでさ、そんないかにも私は何も知りませんっていう馬鹿面下げて‥ふらふら、ふらふらほっつくような生き方さ‥お前らもこの辺でやめたらどうかと思うんだよ。‥ヒトラーが優れた政治家で、ナチスのガス室はなかったとか、ホロコーストはなかったとか、今、そんなもんは何の説得力もないんだから‥だから‥あの磯子の施設の事件やった男のことを、英雄だとか格好いいとか、主張に賛同出来るとか、絵と文章の才能がある天才だとかって掲示板に書き込んでる奴らだって‥いつかは気づくはずだよ。自分がどんだけ寂しい、物知らずの人間かってことにね‥そういうものなんだよ‥」
 三人が、恵梨香の述べに少しだけ耳を傾けているように見えた。双方の間に、恵梨香の呻きを交えた沈黙が少々の間立った時、美亜が鼻で嗤い、体の向きを恵梨香に戻した。あとの二人は横顔のままだった。
 「お前が言うこと、うちら、よく分かんねえわ。でも、お前、いつからそんな風に気持ちが変わったんだよ」「‥まだ十日も経ってねえよ。‥それでも、確かな気持ちなんだよ‥」「誰かから影響でも受けたのかよ」「‥私と同じ傷跡持ってて、昔に道踏み外して‥そこから生まれ変わった経験がある人が、今、本当のお母さんみたいに、私についてくれてんだよ。‥それに‥今、私が仕事で見てる子達が‥私に懐いてくれることも‥」「へえ‥」
 大刻みに震える体を丸める恵梨香を、美亜は、どことなく分かるようで分からない、分からないようで分かる、という風の目を刺し、肩と顔を返し、雑草を踏んで下流のほうへ歩き出した。紗香、幸奈がそれに続いた。
 土手の上からエンジン音が響いた。
 恵梨香の唸り声が、次第に泣き声に変わった。苦痛を堪えられなくなったためだった。師走の北おろしが、近くの柳の枝と、土手の草むらをそよがせた。
 恵梨香は泣き声を激しくした。その泣き声の中には、お父さん、という言葉が混じっていた。
~抜かれた脊椎~
 こめかみから太い線の汗が流れ、顎から滴り落ちている。目は固く閉じられ、唇がめくれて露出した歯は、強く噛みしばられていた。自分の心は「痛い!」と叫んでいるが、それを言葉として口に出さないのは、物心らしいものが芽生えた頃からの因習だった。
 後ろから乳房を、指を立てるようにして強く掴まれた体が、縦、前後に揺れ、ベッドが軋みの音を立てている。
 「今日も寄り添ってほしい」と言われて呼び出された、河合のアパートの部屋だった。
 点け放しのテレビからは大晦日の生放送お笑い特集が流れ、折り畳み机の上には、飲みかけの発泡酒の缶、食べかけの弁当と散らばった割り箸が載っている。
 シーツに立てる指に力が籠った。苦痛の声は、丹田の奥に押し込み、詰めている。
 息を詰めながら、自分の肛門に河合の陰茎が出入りする淫鬱な音を数えていた。
 糸が切れた操演人形のようになった河合の上体が、自分の背中に崩れ、それを体で受けた。痛みに果てなく白んだ思考の中に、村瀬の笑顔、彼の腕と胸の温かみが思い出されては消え、消えてはまた思い出された。
 今の自分が何故ここにいて、河合のこの行為を受け入れているのか、今、自分がどんな顔に姿をしているのが分かっているが、心のあらぬ部分がそれを無視している感覚を菜実は覚えていた。
 琴のBGMが流れる店内で、村瀬は小谷真由美とレジを交代し、二十分の休憩に入った。バックヤードの自販機で缶コーヒーを買い、プルタブを引いて半分ほど減らしてから、段ボールを積んだ台車の脇で、菜実の電話番号を出し、通話ボタンを押した。
 コールが十四回鳴り、はい、という消え入るような声で、菜実が応答した。
 「もしもし、村瀬だけど‥」村瀬は声を送った。「村瀬さん?」返ってきた声は、暗さまでは感じられないが、何かを含んだように元気が覗えない。後ろからは雑多な音や声が聞こえ、アナウンスの声が入っているところから、どこかの駅にいるらしい。
 「息子のことを見なくちゃいけなかったりして、なかなか電話出来なくて、ごめんね。明日、年が明けるね。通所は何日まで休みなのかな」「まだ分からないの。四日の日に、スタッフさんの佐藤さんのお話があるから、お昼の前、ちょっと行かなくちゃいけないんだ」
 菜実が答えたことに、村瀬はつい昨日、博人と一緒の食堂で見たテレビの「福祉施設討論会で、わいせつ、虐待映像」というニュースを思い出した。菜実に確認したいところだが、報道では施設名は伏せられていた。
 「そうなんだ。何があったのかな」「分からないけど、何だか大変みたいなの‥」「早く落ち着くといいね。そうだ、もし日にちと時間が合ったら、初詣、一緒に行かないかっていうお話なんだ。俺、今日と明日の元旦が出勤で、二日から四日まで三連休もらってるんだ。だから三日あたり、早めに出て待ち合わせして、成田山でも行かないかな」「三日だったら大丈夫‥」菜実は答えて、すん、と鼻を啜った。
 「どうしたの? 風邪でもひいたの? それとも、今、泣いてるの?」「ううん‥」菜実は声でかぶりを振った。
 「じゃあ、とりあえず、三日の日、八時半くらいに、大久保で待ち合わせにしようか。もし都合が悪くなったら、また連絡をくれるかな」「うん‥三日?」「そう、三が日最後の‥」「分かった」「じゃあ、ひとまずは三日っていうことでいいかな。その時、うちの息子も紹介するよ」
 JR柏駅「みどりの窓口」前で村瀬との通話を終了させた菜実に、渋然とし、悲しげな表相を浮かべた河合が足と顔を詰めた。
 「むらせ、って、誰なの?」「友達‥」「誰の電話にも出ないでほしいんだよ。俺と一緒の時は」河合はかすかな怒りを宿した目で菜実を見た。菜実は、はい、と答えて下を向いた。
 「現在、京浜東北線は、南浦和駅で発生した人身事故の影響で、大宮、田端間で運転を見合わせております」というアナウンスが、構内に流れていた。   
「男なんだろ?」河合は詰り口調を強くした。菜実の言語中枢に、それを釈明する語彙は思い浮かばなかった。
自分は河合の境遇に深く同情し、背負う悲しみと苦しみ、不安から分別の感覚を喪失したこの男への拒み方を識らないために、彼に自分の体を許すことになった。それから今日を含めて三回、二人だけの部屋をともにし、自分の体をいじり、貪り回す彼の欲望に、女として応えた。それでも、頭にも心にも村瀬がいる。だが、この関係が自分の拒みによって断たれたら、河合の命までが断たれてしまうかもしれない。それを防ぐ方法の思いつきが、自分の頭には、ない。
 無い。
「答えないっていうことは、そうだよね。どうして、俺がいるのに、そいつの電話に出たの? こんな傷つくことって、ないよ」河合は声を高くして、俯いたままの菜実を詰った。
 「いいや‥」河合は顔を歪めて、構内を出入りする人の列にそっぽ向きの顔を向けた。
 「俺がどうなってもいいと思ってるんだったら、三日にそいつと初詣行きなよ。俺のことが心配だったら、今日、また村瀬に電話して、もう嫌いだからもう会えないって言ってよ。でなきゃ、死んでやるから」
 午後からアマゾニックの倉庫で勤務があるという河合は、菜実の顔も見ずに、改札へ向かって姿を遠ざけた。菜実はその肩に手を置こうと何歩か追ったが、挙手の恰好にまま、その場に残された。
 十七時に年内最後の仕事を終え、同僚達に「よいお年を‥」と挨拶して退勤した村瀬は、前原の駅までの道中、菜実からの着信とメッセージが入っていることを確認した。
 券売機の前の、邪魔にならない位置に立ち、菜実のメッセージを再生すると、洟を啜り、すん、すん、と泣く声だけが入っていた。録音時刻は十四時過ぎだった。
 村瀬は潰さんばかりの力でスマホを握り、脇の小路へその身を移し、菜実の番号の通話ボタンを押した。
 ‥おかけになった電話をお呼びしましたが、というメッセージが流れてすぐに電話を切ると、村瀬はその足で恵みの家へ行くことを決めた。
 大久保で降り、日大の脇を通り、三山へ入った。恵みの家のチャイムを押すと、インターホンから若い女子の声が応答し、先日の中年の女とは違うらしいことが分かった村瀬は、名前を名乗り、利用者である菜実との関係性を短く説明した。
 「菜実さんは、今、いらっしゃいますでしょうか」「お待ち下さい‥」村瀬のことを、年長の同僚からいくらか聞いて、ある程度の事情が分かっていると見える、鼻翼の玉ピアスが似合う金髪に黒く焼いた肌をした女子スタッフは、特に警戒する風でもなく、奥へ引っ込んだ。
 菜実が玄関口に現れるまで、待った時間は二分ほどだった。トレーナーにジャージのズボン、栗色の髪を後ろで束ねた姿で村瀬の前に立った菜実の顔は、瞼が落ち、ほうれい線が浮いた、悲しみの色が出ていた。
 「ごめんね。心配になったから来たんだ。何かあったのかなと思って。泣いたりしてたから‥」村瀬が言うと、菜実の唇がぽつりと開いた。心底言いたくないことを言わなくてはいけないという、重い口の開閉だった。
 「もう会えらんないの‥」
  村瀬は意味を疑う耳を、菜実の口に寄せた。菜実の背後、リビングからは、食器の合わさる音とボリュームの低いテレビの音声が漏れて流れている。
 「私、もう、村瀬さんと付き合えらんなくなったんだ」下に伏せられた目から、涙が滴って、粒小さく落ちた。
 「どうして?」村瀬は心中を出すまいと努めて、冷静な態度、声で訊いた。後ろを小型バイクが通り過ぎた。
 「どうして⁈」村瀬の語気が強まった。
 「それだったら、理由を聞かせて。どうしてなの?」「別の付き合いほしいっていう人、出来たから‥」菜実は言い、啜り上げた。
 「その人、すごい可哀想の人なの。私がいないと、死んじゃうかもしれないんだ‥」菜実は残し、村瀬に背を向け、奥のリビングへと姿を消した。
 リビングの灯りを見つめ、聴こえてくる小さな音とテレビの音楽、声を耳で受けながら、村瀬は前の道路に体を向けた。
 世界観、人生観、常識観、哲学と、全ての思考が頭から落ち、臓腑を丸ごと抜き去られた感覚を覚えながら、笑う膝を操作して、ホーム前の路にそぞろ歩きで、出た。失礼します、と言って、ドアを閉めることは忘れていた。
 ホームから数歩、駅方面へ進んだ時、小走りの足音が追ってきた。肩を落として振り向くと、応対したスタッフの女子が立っていた。
 「ご事情は、別の職員の者から伺っております。お付き合いなさっていたということで‥」女子スタッフは涙の気を湛えた顔と声で述べた。
 「お気持ちが、変わってしまわれたのだと思います」女子スタッフは声を高く震わせて、顔の下半分を掌で押さえた。
 スタッフは咽んだ。村瀬は、思考と腑を抜かれた心地のまま、その姿を見つめた。
 「私は、知的と身体と、内部の障害を持つ弟を亡くしたことをきっかけに、短大を卒業してすぐに、決まっていた会社の内定を断って、四年前にこの道に入ったんです。その中では、死に別れもありました。村瀬さんのお名前は、何回か、菜実さんからお聞きして知っています。深いお付き合いをされていたようで‥」村瀬の心には、女子スタッフのプロフィールなどは何かの関心を呼び起こすことはなかった。
 「言葉が限られてるんです。だからどんなに何かを訴えようとしても、健常とされる人に届く思いは、言いたいことの、ほんの何割かでしかないんです。知識と啓蒙がだいぶ行き渡った、今でも。だから、さっき菜実さんの言ったことには、本当に伝えたいことは含まれていないはずなんです。そこが、私達が支援してる人達の本当に辛くて苦しくて、悲しい所なんですよ」
 本当に伝えたいこととは‥村瀬は手繰ろうとしたが、今は思考が思うように作動しない。今日の何時間か前までに、自分のそばにあったものが、もうない。それだけの現実が重く座り込み、退く気配がない。
 「だから、今はそっとしてあげてくれませんか。本人が、今日は話せなかった事情を話せるだけの整理がついたと、こちらが見た時に、電話を一本かけるように促しますから」女子スタッフはひとしきり言うと、両掌で顔を覆い、洟を啜った。指の間から涙が落ちた。
 村瀬は何も答えず、顔向きを駅のほうへ直した。
 主に飲食店が灯りをともす大久保商店街の路面を踏む足には、まるで浮いているかのように力がなかった。自分の内部に在ったものの一切を抜かれ、自分の存在そのものが、頼りなく漂う無脊椎動物になったと感じられていた。
 明日から始まる、令和の新年度を含む、世界や自分の未来も見えない。それを思った時、絶望の色をまとった悲しみが沸き起こってきた。博人、恵梨香を案じる親の心も、今はない。自分が失ったのだという、利己の悲憤慷慨だけが心に染みわたっていた。
 村瀬は、俯いた顔を濡らし始めた涙を、行き交う通行人に見られないよう、拳で強く拭いながら、力を失った緩慢な足取りで大久保駅へ向かった。
 ~道なき道~
 頭に被せられた白い布袋が、籠った粉砕音とともに赤く濡れる時、その場に立つ者達の顔色にはみな一様に、何かの感傷のものらしい色が挿すことはなかった。
 一撃で体から力の失せた者は一発で終わり、体がまだ動いている者には、三発から四発、鏡餅を割るように、金槌が頭部に打ち込まれた。全ては、李の手によって行われたことだった。
 直径十メートルのアカマツ林の上には、雲が垂れて曇った空が広がり、キジバトとアオゲラの合唱が交差している。 
 「お前らが探ったのは、こいつらだけか」李は焦りの出た指使いで煙草を燻らせながら、五メートルに掘られた死体埋蔵の穴に、二人から三人の人数を要して投げ込まれる骸に目を落とし、右隣の平に尋ねた。
 左隣の行川は、穴の底に重なっていく死体を目で射りながら、ぴたりと土の上に脚を吸いつかせている。表情はいつもと同じで、かすかな動きもない。
 「その辺りはまだ、完全に掴めてないもんで、これからも、神辺の下だった奴らに探りをかけるとこなんですが‥」「ちゃっちゃと進めろ」平の答えに、李は剃刀の声の語気を低くした。
 「年が明けた日にてめえの手を汚すこんな骨は、出来りゃ折りたくなかったんだよ。早えとこ収益を盤石にして、高枕で眠りてえのは、お前も同じだろうが」スコップによって骸に土砂がかけられる作業音に、近くでアオゲラの啼く声が重なった。アカマツの木群は、今、その下で行われていることに関知しないように、曇った空に向けてその姿を立てているだけだった。
 「篠原の婆あは、今はもう飾りみてえなもんだ。もっとも、そうしたのは俺らだがな。もう、間違っても俺らの指揮系統のトップじゃねえ。あいつは、一定の上がりを運んで、適当におだてこいてりゃいい。それでうるさくぎゃあつくようだったら、親子もろとも、古瀬の親爺んとこの竈へ行ってもらうことになるんだ」その時、行川が、視線を埋まっていく七体の死体から、李へ移した。行川の、その意味ありげな反応に、李が気づいた様子はなかった。
 薄い雪化粧に飾られた、標高三千メートル超の連山を前にした緩やかな坂を、黒のリンカーンコンチネンタルが法定速度を守って、滑るように走った。
 「張れんぞ‥」誰もが口をつぐむルーフの下で、ひらめいたような李の呟きがリアシートに落ちた。
 「ダウンとコルネリア・デ・ランゲの相場が百の五つから八つ、あれはそれよりも、もっと釣り上げられる。向こうは田畠だけじゃねえ、山持ちだからな」隣の平は、李の話していることの内訳がすでに分かっている顔で、彼を見た。
 行川はただ静かに、目前の助手席シートの背を射っているだけだった。
 「先にどっちやるおつもりで‥」平が尋ねると、李は小さく笑った。
 「近日中に、あいつの口説きをかけるよ」「先にそっちを取って大丈夫なんですか」「大丈夫さ。利益ってもんは、優秀な兵隊の確保を基本として運ばれてくるものなんだ。新宿でぐれてた頃に学んだことだ」「そうですか‥」「俺の言うことには黙って従え。この組織じゃ、今、俺の言葉が綱領だ」李は爬虫の両眼を底光りさせ、肚からの声を低く潰した。平は何も言わず、目線を運転席のシートに戻した。行川はシートの背を射り続けていた。
 昼過ぎに長野を発ったリンカーンコンチネンタルは、上信越自動車道、関東自動車道を経由し、夕方に、港区に到着した。
 白金の二十五階建てマンション前に停車した車から、李、平、行川が降りた。 平と行川に両脇から護衛された李は、十四階の部屋の前で「明日は八時に来てくれ」と言い、ドアの向こうへ消えた。
 それから高輪で平が降り、行川は、小松川線を通り、松戸へ送られた。このリンカーンコンチネンタルは、言わば社用車で、李はこれとは別にマイカーのベントレーを所有しているのだ。
 JR松戸の駅前で降りた行川は、本町裏手の「ふらの亭」という屋号の本場北海道ラーメン店の暖簾を潜ると、券売機で旭川醬油バターとカニチャーハンのチケットを買い、六角形の赤漆塗りのカウンター席に腰を降ろし、「の」の字の目を小刻みに動かして、周囲の若者のグループや若い女達、正月休暇中の中年の男達に目を配った。その目からは、射るような鋭さは影を潜め、何かを深く思策する、普通の青年のそれになっていた。
 五分以上、八分未満の時間で、行川の前に旭川醬油バターラーメンとカニチャーハンが置かれた。
 彼は静かな手つきで蓮華を取ってスープを飲み、蓮華に載せた麺を啜り込み、チャーハンをゆっくりと口に運んだ。食っている間、それとない視線が、自分の背後を意識するように左右へ移動した。
 二品の注文品を十分前後の時間で食べ終えた行川は、店員の接客礼を背中に受けながら、革ジャンパーのポケットに手を差し入れて、上体をわずかに丸めた恰好で、ふらの亭を出た。
 店をあとにした行川は、天神通りに面した、仮の住処である三階建てワンルームマンションへ向かった。
 二階の部屋に帰りついた彼は、ジャンパーと薄手のトレーナーを脱いでインナー姿になり、細い骨格の上に薄くしなやかな筋肉の載った腕を露わにし、裾をたくし上げて、臍の脇に透明テープで貼りつけていた、直径2センチのチップを外した。
 この中には、今日の数時間あまりに山中の現場の音声、車中で交わされたやり取りの全てが録音されている。
 その盗聴チップの音声がPCに送られ、データ保存されていることを確認し、それが漏れなく録れているかを再生して確かめ、Eメールの連絡先リストにある「ナカヤマ」というアドレスにカーソルを合わせ、「202x 元旦 長野県 北緯―度」とメール文を添えて、送信ボタンをクリックした。
 送信完了の文字が表示され、それを糸を針の穴に通す時のような目で押した行川は、スティールデスクの椅子をスプリングを鳴らして腰を上げ、天井から下がるサンドバッグを小突いて揺らし、窓際に立った。天神通りを走行する車両のライトを見、二十時前の星のない夜空を仰ぎながら、彼はまた、目に入るもの全てを射り立てる冷酷な貌に戻っていた。西側の小さな箪笥の上には、額縁に入った写真が置かれている。その額縁の中では、レストランのテーブル席から、コーヒーとフルーツパフェを前に、三十代の女と幼い女児が二人、微笑みかけていた。
 視界に入る全てのものが、色彩を失って、不愛想な暗い創造物に視える。耳に入る音楽、人の話し声、足音、車両の走行音、全てがうるさく、苛立ちだけをそそる。家に帰ると、怒涛をなした悲しみが襲ってくる。大声を張り上げて泣きたい。泣き喚きながら、鏡を叩き割り、ガラスを割り、正拳で壁を穴だらけにし、円卓をひっくり返したい。心ゆくまで泣き暮らしたいが、息子がいる手前、それは出来ない。
 顔も見たこともない、どこの何者かも分からない男が、愛する女を、その存在もろとも、自分からもぎ取っていった。その絶対的現実が、村瀬の視る世界の色を変えていた。
 それでも、元旦の業務は、私的感情は抑えきり、手を抜くことなくこなした。だが、香川、真由美を始めとする同僚達が村瀬の顔の色、表情の動きがこれまでと違うことを察しているらしいことが見て取れた。
 「博人、飲みに行くか?」居間に座って、民放の新春お笑いスペシャルを観ている息子に、村瀬が声をかけたのは、二日の、夕方近くの時間だった。
 振り向き、きょとんとした顔を父親に向けた博人は、その誘いの唐突さに疑念のようなものを覚えている様子が見える。
 「飲むって、酒?」博人がきょとんとなったままの顔で問うた。
 「そうだよ。お前ももう大人だし、ちょっと、大久保か津田沼にでも繰り出して、一杯引っかけようぜ。俺とお前が、また親子に戻れた記念と、俺が三月から副店長に昇進するお祝いも兼ねてさ」村瀬は言い、無理な笑いを顔に作り、キッチン棚の上に置いた煙草を取り、一本を抜いて咥えた。
 「煙草、吸わないんじゃなかったの?」声をうわずらせて訊いた博人の目が丸くなった。
 「始めたんだよ。長く生きてりゃ、嗜好なんてもんは変わることがあるんだよ。そうだよ、女は男の、男も、女の趣味ってものがさ‥」村瀬が言った時、博人の顔向きがテレビ画面に戻された。
 「どうする? お前が行かなきゃ、お父さん、一人で行くぞ」「俺、いいよ。今日これから“うたのわ五時間スペシャル”、観るから。それにお酒とかって、俺、慣れてないし」「分かったよ。晩飯はこれで適当に買って食え」煙草片手の村瀬が円卓に千円を置くと、博人がまた振り返り、父親の顔と金を交互に見た。
 青いパッケージに品名が白文字で描かれた、古くからあり、今も年配者に好まれている銘柄の煙草を吸いきった村瀬は、長男の頭をぽんと撫で、腕時計を嵌め、ジャケットを突っかけて、マフラーを首に巻いて家を出た。
 車道沿いの公園のベンチに浅く座った村瀬は、懐からスマホを出した。誰かと繋がりたい。これが今の村瀬の心だった。
 今日、登録した早由美の電話番号を、「連絡先」ページから出した村瀬は、迷うことなく通話ボタンを押した。
 「はい、小柴です」「あ、早由美ちゃん。新年明けましておめでとう。俺、豊文だけど‥」「あ、豊文君。こないだはどうもね。登録してくれたんだね。嬉しい‥」コール二回で通話口に出た早由美は、声を弾ませた。
 「今、電話とか大丈夫?」「大丈夫。私、今日も仕事でね、売りの取引が終わって、今、西船橋なの」「そうなんだ。俺、今日はちょっと飲みたくて、息子を誘ったんだけどさ、いいって言うから‥」「じゃあ、豊文君がよかったら、津田沼辺りで合流する?」「いいよ。西船橋まで行くよ」「分かった。じゃあ、JR西船橋の改札前にいるから」「ありがとう。まだ実籾だから、申し訳ない、少し待たせちゃうけど、行くよ」「うん、待ってる‥」
 通話を終了させた村瀬は、スマホを懐に収め、ベンチを立った。代替には変わりない。それでも、今の自分と繋がってくれる人がいたことがありがたく、心が落ち着いていく感じを得た。
 早由美は、約束通り、JR西船橋駅の改札前で待っていた。一目で素材が高級と分かる黒の襟無しロングコートにキルトのマフラー、黒のロングブーツ、ブランド品のバッグを手から提げた姿だった。
 やってくる村瀬の姿を捉えた早由美は、レザー手袋の手を小さく振って微笑した。
 「待った?」「ううん」二人の幼馴染み同士は、今から三十年以上前によく交わされていた、若い男女の短いやり取りを交換した。
 「どこがいい? 早由美ちゃんの食べたいものでいいよ」「お好み焼きでいい? 贔屓にしてる、気の置けないお店があるの。個人経営なんだけど、珍しく節句もやってるのよ」「じゃあ、そこでいいよ」
 駅のエスカレーターを降り、並んで歩き出した村瀬の腕に、早由美の腕が絡んだ。村瀬の隣から、底の厚いブーツの籠った足音が立った。早由美のコロンが村瀬の鼻腔を刺した。それが、晦日の夜に自分が落とされた、恐怖を帯びた寂寥と悲しみの昏い沼から、自分が引き上げられる可能性の期待を胸に起こしていた。
 「娘さんは、大丈夫なの?」京成西船方面へ伸びる、両脇に飲みの店が並ぶ通りで、村瀬は早由美に訊いた。
 「大丈夫。先にお代を払って、出前を頼んでるから。知恵は少し遅いけど、留守番は普通に出来る子だから」「そうか。早由美ちゃんがそう言うんだったら」乾いた口ぶりで言い放った早由美に、村瀬は腑の抜けたような相槌を返した。
 それから、どちらからともなく、どこか狂気を含んだ淫猥なムードに口をつぐんだまま、市川側の通りを歩き、十字路手前の小路に折れた。その突き当りに軒を下ろす、木看板がライトに照らされる「鉄板 みゆき家」という店の前で足を止めた。
 静物や裸婦の絵画が紺色の壁に飾られた店内は六十坪ほどの広さで、テレビはあるが点いていなく、クラシックが有線で流れていた。客入りはそこそこで、中年の女達や、年齢の高い男達がおり、奥のテーブルには小学生の兄妹二人とその両親、祖母がいる。
 出入口前の四人掛けに向かい合って座ると、村瀬と同年代の女将が接客挨拶を言い、おしぼりとお通しを運んできて、グリルに点火した。飲み物は、村瀬は生ビール、早由美は玉露ハイを注文、それと牛玉とシーフード皿を二人前づつ頼んだ。
 「いい店よ。マスターも面白くて、奥さんもいい人だし‥」早由美は言いながら、ロングのメンソールを一本抜いて、細いメタルメッキの高級ライターで火を点けた。
 「早由美ちゃん、仕事は、今‥」「貴金属商。富山の頃は主人の歯科医院で技工士やってたんだけど、離婚でこっち戻ってから、乳ガンで亡くなった友達がやってた卸売店、彼女の遺言で継いだのよ。上野に本店構えてて、新宿と吉祥寺に支店があるの。全部、私のお店。金、銀の延棒とか、純金のネックレスとか時計、プラチナも扱ってて、イタリアとかベルギーに買い付けに行くこともあるのよ。私のお店、芸能人も御用達なの」「そうなんだ‥」
 村瀬は違和感を覚えた。早由美の話にリアリティが伴う時代があるとすれば、それは今から三十幾年前、日経平均株価が終値約四万円台を記録した頃で、先には不況が訪れると投資アナリストが警告している慢性的乱高下の今、元は金を扱う銀行員だった村瀬には現実味を持って届かない。
 「蝶々夫人」をバックに早由美が述べた時、生ビールと玉露ハイが運ばれてきた。
 「改めて、再会を祝して、乾杯‥」早由美が言って、二人でジョッキを合わせた。生ビールを三口啜ると、血管が温かく緩む感覚を覚えた。
 「今頃どうしてるのかなって、ずっと気になってたんだよ」村瀬がジョッキを置いて言うと、早由美は色香を込めた目で彼を見た。
 「話したけど、俺の身の上にも離婚とか転職を含むいろいろなことがあって、世相も様変わりして、佐由美ちゃんはどうなってるかなってさ」「娘と、もう一人、男の子がいたの。だけど、乳幼児突然死症候群。まだ二歳だった‥」早由美は目線を伏せ、過去に過ぎないことを話す口調で呟きを落とした。
 「大変だったね」村瀬は胸にピンが刺さったような衝撃を感じ、改まって労った。死因は違うにせよ、それは菜実も同じだ。
 「悪いこと、話させちゃって、申し訳ない‥」村瀬は詫びながら、両手を膝に置き、背筋を質した。
 「いいの。もう終わったことだからね」早由美は静かに言って、メンソールの煙草を吸い込んだ。村瀬は質した姿勢のまま、視線を落として頷いた。
  早由美の離婚理由は明らかだが、村瀬が自分のそれを話すことはためらわれた。その理由の曰くを持つ相手に返礼したことも、ここでは話すまでのことではないと思った。
 娘の万引きに居直る派手な女となった、かつての妹分的存在の女に対し、今の村瀬は、気弱だが、ひたすら優しく人が良く、真面目さを取り柄とする昔の自分に戻っており、普通の納税者なら一生のうちにまず経験することのない出来事を経、未発覚の人道上の罪まで作った自分は封印されていた。
 理由はあったにせよ、自分は罪人でもあるのだ。だが、その理由を作るだけのことをした女は、心変わりをしてしまった。
 今の村瀬にとり、目の前の派手な女は、藁だった。だが、すがるものとして、軽く脆い藁、ということだけしか、今の自分には分からない。
 そんなことを頭に巡らせながら俯いて、ふっと顔を上げると、早由美がデジカメを構えていた。あっと声を上げそうになったところでシャッターの音が響き、フラッシュが焚かれた。
 わけを問い質す気持ちが起こったが、すぐに消えた。
 「いきなりごめんね」早由美が何かを誤魔化すような笑いを浮かべて言ったが、その顔に悪びれはなかった。
 「きっかけはひょんなことだったけど、再会した記念に一枚撮っときたかったの」言いながら、バッグにカメラをしまった。村瀬は、突如のことによる驚きを刻んだ顔で頷くことしか出来なかった。
 「うちの弟、覚えてるかな」村瀬が振った。「勿論。義毅君でしょ。うちの姉と四人で、お小遣い持って、ラーメン食べに行ったよね」「行ったね。だけどそこが頑固親爺がやってる店で、騒いで怒られたんだったよね」「そうそう‥」村瀬と早由美は笑顔を交わした。
 「彼は今、元気?」「元気だよ。あのはっちゃけた性格、早由美ちゃんも覚えてるでしょ。冒険野郎でさ、あっちこっち転々としてたんだけど、最近やっと新京成沿いのほうでで所帯持ってね」「そうなの?」「うん。実はあいつから、一緒になる相手として、早由美ちゃんのこと、勧められてたんだ。でも、早由美ちゃんは、俺なんかには、あまりに壊れ物に見えちゃって‥万年筆もくれたのに‥」
 バックの曲は、ドボルザークの「遠き山に日は落ちて」に変わっていた。
「私は、豊文君のことは‥」早由美が目を伏せて言った時、二人前の牛玉とシーフードが席に運ばれた。
 「あけおめです‥」女将が新年の挨拶をし、早由美が「今年もよろしくです」と頭を下げ返した。
  女将は短い新年挨拶を終えると、忙しそうに調理場へ引っ込んだ。
 「焼こう‥」早由美の声かけに頷いた村瀬は、お玉で牛玉を掬い、鉄板の上に二人分を丸く撒いた。それから早由美が菜箸で烏賊の切身、海老を鉄板に載せた。
 それからはどちらも寡黙になり、あとの楽しみを胸に抱くようにして、酒を何杯とオーダーしながらシーフード、青海苔と鰹節を振り、マヨネーズをつけた牛玉を食べた。
 割り勘の会計を済ませて店を出た時刻は、十九時前だった。
 早由美は行きの道と同じく村瀬の腕に自分の肘を絡め、彼を引くようにしてJRの方面へ足を進めた。二人の帰る方角とは逆の方向へ行くことの意味は、村瀬には分かっていた。分かっていてそれを望み、受け入れていた。
 JR沿いに建つ、「スクエア」というホテルの前で二人の足は止まり、早由美に引かれて自動ドアを潜った。
 休憩を選んで入った三階の客室は、白い天井からシャンデリアが下がり、壁は四面マリンブルーで、窓側にツインベッドがある広い部屋だった。
 村瀬はホテルまでの道中で、すでに勃起していた。早由美の、バッグを置いてコートを脱いだスカートの腰と、崩れを見せていない胸元などに完全に煽情されていた。
 「今、来てもいいよ‥」村瀬と体の距離を詰めた早由美は、彼の肘に掌をそっと添えて言った時、村瀬は彼女の肩を腕で抱き、顔を寄せ、朱色のルージュを挽いた唇に自分の唇を重ねた。熱い舌を繋ぎながら、背を反り返す早由美のニットセーターの下から右手を入れ、ブラジャーの下の乳房を揉み上げて、左手がスカートをたくし上げ、パンティの中へ潜った。厚く、しっかりとした生え具合の陰毛の感触が、村瀬の掌に捉えられた。
 今日は昼過ぎから、二回射精を受けている。電話で呼ばれ、船橋から東武野田線に乗って行ったアパートの部屋で、自分の心ならない欲求に応え続けている。
 今の自分は靴下だけを着けた全裸の姿で、カーペットに肘と膝を置き、後ろからの恥部の眺めを、男の目下に晒している。
 「歯が痛くて、二日も眠れない時の苦しさって、分かる?」四つ這いの姿勢を取らされている菜実に問う河合の親指は肛門に、中指は膣に潜っていた。もう片手は、菜実の脇の下から、左の乳房をこね上げている。
 「中二の時だったよ。歯痛の応急処置、してもらうために歯医者に急いでたんだ。その途中で、俺をいつもいじめてた不良グループにばったり運悪く会っちゃって。そいつらに威されて通せんぼされて、気が狂いそうなほど歯が痛いのに、歯医者に行けなかったんだよ。歯医者行きたかったら、たけしの物真似しろとかって言われてさ」無念を込めた河合の声が落ちた。
 「それからまる二日間、昼も夜も、痛みにうずくまって、勉強にも集中出来なかったし、飯も食べられなくて、夜も眠れなかったんだ。予約の取り直しに行った時には、医療事務さんには怒られてさ。だけど俺は、そいつらにそれだけのことをやられて、今も一発もぶち返せてない。出来ないんだ。どんなにやりたくても、やりたくても。怒りたくても怒れないのが俺なんだ。怒れば、潰されるから‥」河合は呻くような言葉を降らせながら、菜実の肛門に親指を深く挿入した。
 「俺は君と出逢うまで、誰にも理解してもらったことがないし、誰にも助けてもらったことがないんだ。俺達に視える世界は一つしかない。これは野党の党員だった養父が言ってたことで、死んだら何も視えないし、聴こえないし、感じないんだ。人間を助ける、見えない存在なんてないんだ。そんな世界で、どうして俺がこんな立場に追いやられて、こんな気持ちを噛んで、明日も見えない毎日を送って、来年も見えない年明けを迎えなくちゃいけないんだって、ずっとそんな思いばかりだったよ。物を言わない壁や椅子や棚に問いかけても、何の埒も明かない。だけど、今は幸せだよ。君が戻ってきてくれたから。だから、これからも吸い取ってよ。俺が背負った不幸を。苦しみを! 憎しみまでも!」河合が叫ぶように言った時、後ろから彼の挿入を受けた菜実の体が、肘と膝を起点にして、前後に揺れ始めた。
粘膜の音とともに体を揺らす菜実の頬に、ぬるい涙がかかり始めた。それは、今、後ろから自分を貫いている男が叫んだことの内容が、村瀬の心にもある思いらしいことを察し取ったからだった。自分を包み込む優しさに満ちた顔と、腕、胸のぬくみから、確かな苦悩が伝わってきたことを思い出した時、自分が声を上げて泣いていることに気づいた。先日と同じように、脇の下から回された河合の掌が、菜実の乳房を搾り、痛みを感じる強さで揉み立てていた。菜実が泣いていることに気づかないはずもない河合は、行為をやめなかった。
トランクスが下げられ、それを足踏みして足首から抜くや、全裸の早由美は水面を泳ぐ小魚を嘴で捕らえる鵜のような勢いで、勃起した村瀬の陰茎を、ぺっとんと頬張って、咽喉深くに呑んだ。ベッドの上だった。喉から小刻みな高い声を漏らしながら自分の陰茎を貪る女の項に、村瀬は貼りつかせるような視射点を落としていた。
村瀬がベッドに背中を落とし、早由美が上になり、二人で6と9の体勢になった。早由美の唇が村瀬の陰茎、村瀬の舌が早由美の膣孔という形で体が繋がった。
村瀬の舌が、目の前に迫った早由美の赤い膣の縁をなぞり、膣をほじくり立て、肛門にもその舌が這った。早由美は村瀬の口による愛撫を受けながら、彼の分身を根本まで唇と舌で愛で、塞がれた喉から声を上げた。
村瀬の陰茎から口を離した早由美は、彼の顔上から下半身を降ろし、村瀬は上体を起こして座った。どの体位で一体になるかが伝心したように、早由美が村瀬の首に腕を巻きつけ、彼の腿の上に乗ってきた。乗ると、手で持った陰茎を膣にあてがい、位置を合わせ、腰を落として、体を反らせてベッドに掌を着いた。
村瀬は早由美の首を抱き、腰を上下に突き上げ、揺すり始めた。ベッドの面が波打ち、弾んだ。
暗く、黒く、荒んだ欲情が、過去には心の上での妹であり、それ故に壊れ物として遇していた女の体を貫通するひずんだ快楽を覚える村瀬の頭には、今日からのちの日の、「野、山」のことはなかった。
互いの腰を落とし、せり上げ、下から突く時間が分を刻む頃、その動きのリズムに合わせ、オーシャンブルーの壁を打ち、跳ね返されて響くような声が号室に撒かれた。それは慟哭のようにも聞こえた。
果てた村瀬の腰に早由美がすがりつき、しばらくそのままの体勢に居ついてから、体重が預けられた。
早由美の腰を下から抱いて、背中をベッドに落とした村瀬は、呼吸を整えながら、天井のシャンデリアをただ虚ろに見上げた。今、谷津だという家で、見てくれる人もなく、一人の食事を終え、一人でテレビを観ているであろう早由美の娘、悠梨のことを案じる心も失せていた。晦日の午後、マスオマートのスタッフルームで裸寸前になった、親譲りの世間並みに可愛い見た目をしながら、何かのハンディキャップを持っていると見て間違いのない少女だった。
「赦して。悪かった‥」全裸の姿のまま、項を垂れて座る菜実に、同じく全裸の河合が、部屋の隅で煙草を吸いながら詫びた。菜実の顔には、まだ涙の跡がある。睫毛は濡れ、鼻は赤らんでいる。
「俺のこんな話を聞いてくれるのは、君しかいないんだ。それに君は否定しないで、じっと聞いてくれる。それが俺には何よりもありがたいんだよ‥」
瞼を上げて見た河合の目は、赤く潤んでいた。
「いくらパチンコを打っても、酒を飲んでも、追ってくるんだ。感情を持たない物の中にある、無が‥」河合はこぼして、煙草をにじり消した。
「近いうちに、離婚の話をしに行こうと思ってるんだ」河合は言いながら、青のカラーブリーフを足首に通し、腰まで引き上げた。
「向こうに問題があっての離婚だから、金は発生しない。それで、俺は、君と‥」
何度も繰り返されている河合の薄っぺらい約束を背中で聞きながら、菜実は泣いた顔のまま立ち上がり、落ちているブラジャーを拾い、ホックを留めて着けた。
村瀬は今、どういう気持ちで過ごし、何をしているのだろうという思いが胸をよぎったが、それは胸の中でも言葉として形成されなかった。
 濃いピンクを湛えた肛門と、内へ、外へとめくれ上がる赤い陰唇の縁の眺めは、村瀬の欲望に消えない火を点けていた。二度目の交わりに挑んでいる今、早由美は獣の体勢を取り、その体を村瀬が後ろから貫いている。
欲望に乗じて、怒りが胸に噴き上げていた。その怒りの向く方向は、一つだった。
菜実がその体を、その腕の中に収めていると思われる、自分の知らない男。その人間はどこにいて、何をし、どんな顔をした男なのか。
その男の体に、菜実は自分に施したものと同じものを施し、同じ表情でその男を受けているのか。考えまいとしても、浮かんで消え、また浮かぶ。
今、自分が彼女とは別の女にしていることは、そんな現実にいくらぶち当てても、跳ねて戻ってくる駄々だ。そう、子供じみた駄々というちゃちなものでしかない。だから、憤り、憎むべき現実の壁を倒すことは出来ない。
それを思った時、早由美の両乳房を後ろから掴む掌に、荒い力が籠った。早由美は、その痛みさえ快いものとしているかのように、ある種の非号めいた叫びを撒き続けている。それに粘膜の鳴く音が重なり、鬱蒼とした淫らさが部屋と、村瀬の心に満ちていた。
あとの野と山など、俺には‥頭蓋の内側にはっきりと語彙化した思いが反響した時、子宮を射抜かん勢いで射精した。
村瀬は汗の浮いた早由美の背中に崩れ臥した。両手は乳房を掴んだままだった。村瀬は意識が遠のく感覚を覚えながら、頭を伏して声を撒き続ける早由美の肩を甘く噛んだ。
この女が、疑似の妹から、自分の欲望も受ける自分の女になった以上、この先に見る世界がどういう景観で拡がっていようと、俺はそこに、ただ入るだけ。晦日の日、この女の娘に賢しげに説いた、道なき道。娘に対し、人格者気取りの綺麗言を垂れた自分は、その母親の体を貪り、しゃぶる中醜の男であり、最低の人間。だからこの夜をもって、菜実にはふさわしくない人間となったのだ。
村瀬の胸を、暗い絶望と鬱絶とした気持ちがまた浸し始めていたが、これからの自分はこの女を離せなくなる。
よって、菜実はもう戻らない。一生涯に渡って、二度と。
二度と。永遠に。
マリンブルーの四面が、自分の哀憤を嘲笑っているように思えた。
河合は菜実を送らなかった。部屋の前で彼と別れた菜実がパンプスの足を進めた柏西口の街は、今日も常夜の灯りがともっていた。
河合の吐く言葉が、世間では情けないとされるのか、それとも彼のような男なりの正当性を持つものなのかは、菜実には分からない。それでもいくらか分かることがあるとすれば、彼は誰かが何かを教え、その上で、今現在その身のある世界から掬い上げる必要のある人間であるということだった。
だが、自分がやっと思いつくことは、その彼のそばにいてやることだけだ。
それが、自分の能力の限りで誰かにしてやれることであり、天分であると思える。それが村瀬を生き生きとさせたことからも言える。
それでも、孝子に用あって柏に来たばかりに、本来なら憎まれるらしい経緯のある再会をし、その本来の感情が自分にはないために再び紡ぎ始めた関係のため、自分は泣いている。それは詫びと、憐憫という二つの要素があって流す涙だ。
どうするべきかと考えを搾っても、今も、思いつくことは唯一つ。
西口入口で酒を飲んで騒いでいる若者の集団から、お姉さん、お姉さん、という下卑た声がかかった。菜実は、それに振り向くことなくパンプスの足を送って、改札へ進んだ。二人の人数の足音が後ろから来ていることが分かった。
入口の集団から、「ホテル行ってから明治神宮のオールナイトだ」という酒焼けの声が上がり、好色な趣きの笑いが起こった。
菜実の前に、若者が二人、進路を塞ぐように立った。サイドをフェードした細巻パーマの髪をし、スネイク柄の上下を着た大柄な男と、黒革ジャンパーの首元から彫物を覗かせ、耳と眉と鼻翼にピアスをした男だった。
「お姉さん、どこ行くんすか?」スネイク上下の男が菜実に訊いた。菜実が脇をすり抜けようとしたところ、五分刈りの男が横にずれて、道を塞いだ。
「これから、飲まない奴の車で明治神宮行くとこなんすけど、女の子のメンバーが足りないんすよ。よかったら、一緒に行かない?」菜実は答えず、その脇をまたすり抜けようとしたが、また進路を塞がれた。
「行こうよ。この街で俺らのことシカトすっと、いいことないよ。ねえ‥」スネイク上下の男が声に凄む調子を込めて、菜実の肩に手を伸ばしてきた。
入口の男達から、あっ、という声が沸いた。菜実の右手がスネイク上下の男の脇に向かって、残像も残らない速さで吸い込まれ、彼女の片足が引かれたと見えた次の瞬きの間に、男の体が半円の線を引いて、路面に倒れたからだった。
次に、路面に伏し、肩を極められた男の顔面の脇に、かん、とパンプスの踵が踏み下ろされた。
菜実が男を極めていた手を離し、曲げた膝と顔前の両拳で構えると、五分刈りの男が恐れを刻んだ顔で、二歩、後ずさった。入口の男達も、誰もが体を固くし、唖然と菜実を見ているだけだった。周囲の驚きもよく伝わった。
「痛いのしちゃって、ごめんなさい‥」菜実は詫び、ちょんと頭を下げると、二人の男をよけて、券売機に向かった。男達が追ってくる気配はなかったが、不可解なものを見た驚愕の視線が四方から刺さるのを、菜実は感じた。
西船から各停に乗り、シートに座った二人の腕は、軽く組まれていた。早由美は情事後の虚脱に身を任せるようにして、村瀬の肩に頬を乗せ、まどろむ目で、窓外を通り過ぎる灯りを追っていた。村瀬の目は、人の座っていない向かいの席に寄っていた。
彼の頭には、現実を拒むことで生まれた虚無が落ちている。二人の間に、言葉は交わされなかった。
電車が谷津に停まった時、席を立った早由美は名残を惜しむ、寂しく力のない笑顔を見せた。
「じゃあ、また‥」手を振ってドアの向こうへ消える早由美に、村瀬は頷いて挙手した。その時、スマホがバイブしていることに気づいた。
画面には、「恵梨香」と出ていた。
「私、正職員なんだ。仕事もきつくて、人間関係も大変だけど、月に結構稼げっからさ、これから毎月、そっちに金、送るよ」実籾駅前からかけ直し、出た恵梨香は、ぶっきらぼうに言った。
「いや、ありがたいけど、お前は大丈夫なのか‥」村瀬は問い返した。
「これから、あいつ、博人のグループホームの入居の前金とか、かかんだろ? そういうのの足しにしろよ」「でも、お前‥」「送るかんな」村瀬がもう一言加える間もなしに、電話はがちゃりと切れた。
普通の感情で、嬉しいという気持ちを抱いた。そののち、また、菜実を喪失した孤独の寂然とした思いが心を覆い始めた。
村瀬は、込み上げる涙を指で拭いながら家路をたどった。成長していた娘の不愛想な温情への嬉しさも確かに覚えながら、菜実への寂寥がそれを圧倒していた。
博人はまだ起きていて、うたのわを観ていることだろう。彼に対しては、純然と飲みを楽しんできたということにするしかない。
曇り続きの夜の空を仰いだ時、涙が顎から滴って落ちた。歩きながら泣いている中年の男に、まばらな通行人は誰も気づいていないようだった。涙の理由は、自分が菜実に適さない男になり果ててしまったということが多くの割合を占めていた。
民家のまばらな区域にひっそりとある、六十㎡にも満たない面積の小さな神社だった。しめ縄が巻かれ、白い紙垂の下がる鳥居を、行川は、一人潜った。小さな社の前には、光の弱い外灯に浮き上がる男の影が一つあった。その影輪郭から、行川よりも世代的に上の齢恰好の男であることが分かる。
「新年の挨拶は省略だ。これから喪中が出ることも考えられるからな。組織の全権を事実上掌握した、スコーパスアルファは今‥」トレンチコートの肩を寒そうに畳んだ、六十年配のスキンヘッドの男が社の前で行川に尋ねた。スコーパスとは、ラテン語で「標的」という意味だ。
「今日から十日間、日本にはいません。色の女と一緒にサイパンです」行川が、高く掠れた地声で答えた。
「昨日は音声データの採取と、送信、ご苦労だった。この半年の間、君が提供してくれたデータの功績で、方々の拠点も特定出来たし、金の流れ、人脈的な繋がりなどもだいぶ掴めた。かなりの割数が半島に送金されてることもな。君も知っての通り、我々は今張ってるものは、法に則ったものでない地下の捜査線であって非常線であって、組織的な後ろ盾も、事のあとの救済もない。よって、これから可能な限りのショートスパンで終了に持っていかなければならないんだ。その上、全概要を闇の底に、跡形もなく綺麗に葬らなくてはいけない」薄闇の落ちた狭く小さな境内に、官の然を持つ男の声が低く響きならされた。
「二年前に県警を退官するまで、君は術科の腕も立つ上、優れた捜査手腕を持つ巡査部長だった。それが警察の職を辞した理由は、ある障害者の母娘の訴えを警察が退けて、その親子が自殺したことだった。娘が、イベントで知り合った男の睦言で、惨い内容のポルノ映像を撮られて、それで脅されて、呼び出されては言いなりにされている。つど、複数の男からな。その訴えを、警察は取り合わなかった。それが組織的に行われてるものだと呼びかけて、君は捜査班の編成を訴えかけた。だが、それも聞き入れられることはなかった。何故なら、その時すでに上部からの圧力が来ていたからだ。それは、霞が関絡みのものだった。県に地盤を持って、参議院議員を七期務めた旭日の賞を持つ人間からのな。要は、その孫が、ちょうどその頃に奴らが斡旋を始めていた女の顧客で、君が救えなかった娘さんの輪姦ビデオにも映っていたからということだ。しかしその孫の男というのが、警察の心情では裁きづらいものがある人間なんだ。分かるかね」
男の声揚には、心からの憐みが籠っている。それは話中の母娘のみではなく、行川にも向けられている旨がある。
「離婚の処理をした元、の奥さん、子供は元気そうかね」「佐賀で問題なく暮らしてます。幼稚園の編入手続きも終わったそうです」「そうか」
男はトレンチコートの裾ポケットから、白い小箱を出し、ゆっくりとした動作でそれを行川に差し出した。
「念のため、中を確認してくれ」男が言い、受け取った箱の蓋を行川がそっと開けた。
行川は、白綿のクッションに包まれた9ミリ口径の回転式を取り、77ミリの銃身に視線を蒸着させるようにして、隅々を見た。
「言わば斬首。そのための必要分は装填されている。今日、ここで私がこれを君に渡した意味は、極力早い処断が求められるということになる。ましてアルファが今、疑心暗鬼を募らせてるなら一層だ。あの母娘をきっちり弔うためにもな」男が言うと、行川は覚悟を呑んだ目で銃身に射りの目を這わせ、拳銃をそっと小箱に収め、蓋を閉めた。
「これから我々が行おうとしてる、事後保証も何もないこれは、どんな形容が当てはまるんだろうな」二人並んで鳥居門を出た男が、寒さにかじかんだ声で言い、行川は、男の顔を振り返り見た。
「道なき道、でいいと自分は思います」行川は残し、男が行くものとは方向の違う、金ケ作の住宅街へその姿を溶け込ませ、消えた。その身を神社の鳥居前に残した男は、後ろ姿が見えなくなるまで、行川を見送った。
正月二日の、二十一時過ぎだった。
~クリームソーダ~
七草粥の頃が過ぎた土曜の午後だった。銀色の壁面看板に緑の文字で「合同会社ラブリン デイサロン グっちゃんのお庭」とポップな字体で描かれた事業所は、鎌ヶ谷市道野辺の幼稚園近くに軒を構えている。社屋は、高齢の店主が死去したことで畳んだ生花店を改装したものだった。広さは八十坪で、中はフローリング床になっている。入口両脇には、それぞれ二十足ほどの靴が収まる靴棚がある。
「施工料金はもう振り込んであるんで、ありがとさんです」ジャージの上にジャンパー、サンダルという軽装の義毅は、ルーフに脚立を括りつけたライトバンの前に立つ内装職人に頭を下げた。
ちなみにグっちゃんという屋号は、義毅が中学時代に級友達から呼ばれていた「グズゴン」という渾名に由来しているが、当時、彼はその渾名に腹を立てることはなかった。ちゃんづけは、自分で考えた。
「この辺りでいいか。見晴らしがいいかんな。可愛子ちゃん‥」義毅は唄うようなひとり言を呟き、キャンパス袋から一枚の絵を出し、銀の額縁にセットし、西側の壁に掛けた。絵のサイズは10号だった。
ブラウンのブラウス姿でカチューシャをした可愛い顔立ちの少女の肩にモンシロチョウと思われる蝶が止まり、少女がくすぐったそうに首を傾げているという内容の油絵で、提供者は船橋市内に住む女性だが、絵のモデルは十七歳の自身の一人娘だという。
その絵師を知ったつては、生花店の屋を不動産屋を通さずに、亡くなった店主の娘と交渉し、買い取る時にこれから始める事業の話をした際、絵を飾りたいと言った義毅に、予備校の美術講師をしながら娘さんを養育し、自分の作品を百貨店や駅のブースで展示している人がいるという話を聞き、まず、その娘から連絡を取ってもらい、許可を得た上で登録した番号に連絡し、絵を譲り受けた。
スーパーのレストコーナーで会い、タブレットに保存されているデータの数枚を見せてもらい、「これがいい」と決めたのだが、モデルに描いた長女は広汎性発達障害で境界線程度の知的ハンデを持っているとのことだった。それでも、破線を巧く使い描かれた写実的画風の絵の中にいる少女は、見る分には普通に愛らしく、見た目には障害は分からない。
義毅が名乗った苗字に、どことなく同じ姓を持つ知る人がいる風な反応が覗えたが、言及はしなかった。その時義毅は、元旦に新年挨拶の電話をして近況報告をした際の兄が、著しく元気を欠いていたことが気になり、とりあえず励ましておいたが、ことに男女のことになると人の世の常と考える、何かの否応ない変節にバットしているのではという勘が騒いだ。その勘が、面白いように的中していたことを明かす、光沢紙の紙っぺらが一枚、今、業務用デスクの引き出しにしまわれている。
玄関前で一服つけていると、小学一年生くらいと、未就学児と思われる二人の女の子が手を繋いでやってきて、立ち止まって、年長の少女が、社屋と壁面看板を交互に見た。小さいほうの女児は、表情に子供らしい華やぎがない。その顔には、言葉にしようにも、幼いためにそれが出来ないような悲しみの色がある。義毅はその女児が気になった。なお、年長の女児は、黄帯の道着の上にジャンパーを着た姿だった。
「合同会社ラブリン、グっちゃんの庭‥」義毅は空いているほうの手で看板を指し、おどけた調子で事業所名を読み上げた。
「何の会社さんなの?」道着姿の年長の女児が、目を丸くして訊いた。
「君らみたいなお子ちゃま達と、障害持った大人の人達が、お話したり、一緒に遊んだりして、楽しむ所だよ。来週、オープンするんだ」義毅は説明した。
「お名前、中村(なかむら)新菜(にいな)ちゃんって言うの?」義毅は屈み、道着の帯をつまんで、刺繍された名前を確認し、訊いた。
「うん‥」「いくつ?」「今年、二年になるの‥」新菜という女児は答えた。「二年生か。空手やってるんだ。すごいね。どこの道場行ってんの?」「玄(げん)道(どう)塾(じゅく)船橋本町教室‥」「玄道塾か。聞いたことあるな」「今、七級で、来月、帯の色が変わる試験受けるの」「へえ‥」義毅は頷いて、新菜に手を継がれている、悲しみを顔一杯に刻んでいる女児に顔向きを移した。
「君は、お名前、何ちゃんかな?」女児は瞼を伏せたきり答えなかった。
「この子、樹里亜ちゃん。去年まで、お父さん、お母さんと一緒に住めない子がいっぱいいる、じどう何とかっていう所にいたんだけど、今年になって、うちに来て、一緒に住んでるの。うちのお父さんが手続きして、もうすぐ私と同じ中村っていう苗字になるんだ」新菜の説明語彙は拙いが、義毅には、そのじゅりあという子の顔が、言葉の代わりに表しているものが分かった。
「時間あんなら、おじちゃん特製のクリームソーダ、飲んでくか?」義毅が言うと、新菜が頷いた。義毅はじゅりあという女児の肩に優しく手を添え、二人を中へ入れた。
二人の女児は、義毅が勧めた座布団の上に座った。義毅は冷蔵庫から2ℓのメロンソーダを出して、用意したコップに注ぎ、冷凍庫のバニラアイスをディッシャーでよそり、ストローとヒメスプーンを差し、盆に載せて運んだ。
「ありがとうございます‥」新菜は丁寧な礼を言い、義毅が作ったクリームソーダのコップを取り、ストローに口をつけた。
新菜がヒメスプーンでバニラアイスを食べている横で、じゅりあは悲しげに俯いたままだった。
「遠慮しないで。おじちゃんのクリソ、美味しいぞ」「クリソ?」義毅のじゅりあへの声かけに、新菜が言葉の意味を訊き返した。
「いや、クリームソーダを縮めてクリソってんだ。昔、ちょっと喫茶店で働いてた頃があってさ、店員は略すんだよ、忙しいかんな。アイスコーヒーがアイコ、アイスココアがアイココ、アイスミルクティーがアイミティー、海老ドリアがエビド、デラックスピラフがデラピラ。クリームソーダは、クソっつうわけにはいかなかったな。飲食店だから‥」新菜が笑った。じゅりあは顔を上げなかった。
「小せえのに、かなり辛え目見てきたんだな。これ、多分、地獄ん中の地獄にいたはずだよ。まだ怯えてんだな‥」義毅は独り言のように言って、ほうれい線を浮き出させた顔で俯いたきりのじゅりあの頭に手を置いた。
「新菜ちゃんの父ちゃんと母ちゃんは優しいのか?」じゅりあの頭を撫で撫で、義毅が訊くと、新菜はこっくりと頷いた。
「パパは大きい流通センターっていう所で、フォークリフトの運転やってる。ママは老人ホームで、パートのお仕事してるんだよ。お爺ちゃんとお婆ちゃんの、ご飯作るお仕事なんだって。パパ、お休みの時、いろんな所連れてってくれたり、遊んだりしてくれる。ママ、私がお熱出すと、夜寝ないで見てくれる。でも、子供が悪いことして、怒ると、すごい怖い‥」「そうか。でも、それでいいよな」義毅が言うと、新菜は何かを考え込む顔になり、ストローを咥えた。
「バニラ、食べな。溶けちゃうぞ」義毅はじゅりあに声かけし、コップを手に取り、ヒメスプーンでソーダの上に載るバニラアイスを掬い、言葉にならないものが浮き出た口許に運んだ。じゅりあは口を開け、舌を出した。その舌の上に、義毅は数mgのアイスクリームを載せ、ストローを差し出した。じゅりあは口をすぼめ、小さく喉を鳴らして、ソーダを飲んだ。
「おじちゃんのこと、怖いか?」ストローを離しざま、義毅が訊くと、じゅりあはようやく顔を上げ、下から彼の目を見上げた。その時、義毅は、彼女が未来に美人になる下地のある顔立ちをしていることに気づいた。
一寸の間ののち、じゅりあがゆっくりとかぶりを振った。義毅の目を見つめる、瞳の大きな目に、彼への不信や警戒の色はなかった。
「これまで、心がねえ親んとこで、散々酷え目に遭わされてきたんだよな。今はまだ、大人が信用出来ねえかもしれねえよな。だけど、これから素晴らしい大人達にたくさん出逢うことになんぞ」語りかけられながらソーダを飲むじゅりあの頭を、義毅はまた撫でた。
「前の樹里亜ちゃんのお家、義理のお父さんとお兄ちゃんがいて、お父さんもお母さんもお仕事とか全然しないで、いっつもお酒飲んで、ゲームで遊んでたんだって。それでいつも、じゅりあちゃん、義理のお父さんとお兄ちゃんにぶたれたり蹴っ飛ばされたりしてたんだけど、お母さんが助けないんだって。それで、お病気になっても、お医者さん、連れてってもらえなかったって、うちのパパとママがお話してるの聞いたんだ‥」新菜がストローから口を話して述べた。
「そうか」義毅は体を左右に傾がせて、膝上の手を組んだ。
「その親父が今どうなってるかなんて、新菜ちゃんは知らねえよな」「スーパーで、お金、脅して取ろうとして、その時、他のお客さんの女の人にエッチなことやって、お巡りさんに捕まったんだって。ニュースになって、新聞にも載ったんだよ。その女の人助けたの、そのスーパーの店員さんなんだよ」
義毅は、おそらくそれであろうニュースをちらりと見たことを思い出した。印象から薄れていたのは、ごろつき風情の生活保護受給者による、反社会勢力の名前を出しての恐喝事件というところで、特に物珍しさを感じなかったからだ。
その時、義毅は変化を見た。じゅりあが、自分からコップを取り、ヒメスプーンでアイスを食べ、ソーダを飲み始めた。
最も誰かに聞いてもらいたかったことを、義姉の口を介して聞いてもらえたためだと思われた。
「さっきも言ったけど、来週の木曜に、ここ、開くんだ」義毅が告げると、新菜とじゅりあが二人一緒に見上げた。
「障害持つ人達には日中一時支援っていう事業所で、子供には、閉まるまでずっといてもいい遊び場でもあって、ぶらっと寄って、お話して、おやつ食ってく居場所でもいいんだ。だから、よかったら、二人で来な。利用者はもう何人か決まってんだけど、みんな、優しくて子供が好きな、いい奴らだぜ」義毅は言いながら、まさかな、という思いを巡らせていた。
恐喝と強制猥褻があり、容疑者がほぼ現行犯で逮捕されたというスーパーは、店名は伏せられていたが、千葉県船橋市内と報道されていたことは覚えている。
容疑者をその場で制圧したという店員は、四十七歳と出ていた。もしもそのまさかがまさかだとすれば、ちゃんと仕事を遂行したトヨニイを、弟として心から尊敬するしかない。今は、愛した女の心変わりにより、自分にも誰であるかが臭う女に足をかっさらわれているにせよ。その女とは、まだ子供だった自分が、結婚相手として兄に勧めた女だ。
今のじゅりあが、まともな養父母と縁組する運びになったことは、その店員がきちんと業務をこなした縁による。
「じゃあ、パパとママ、心配するから、今日は行くね」空になった二つのコップを前に新菜が言い、じゅりあに、帰ろう、と声をかけ、座布団を立った。
「ごちそうさまでした‥」「どういたしまして。絶対来いよ」「うん‥」頷く新菜に手を繋がれたじゅりあは、不思議なものを見る目で義毅を見上げていた。
手を取って辻の先へ消えていく、二つの小さな姿を見送った義毅は、屋に体を滑り込ませて入り、盆に載ったコップをシンクに片し、事務用デスクの引き出しから、例の紙を出し、若干の呆れを滲ませた顔で眺めた。その紙面には、どこかの飲食系の店で撮影されたらしい一枚が載っており、その中には、隙だらけの、間抜けな表情を晒した兄が写っていた。その顔は、曲がりなりにも空手初段を持つ格闘家のものでは到底なかった。
~四ツ足の論理~
木造モルタルの、築年度の旧いアパートの一室で、部屋の広さは八畳ほどだった。一階のその部屋に、四人の男が寝起きして暮らしている。男達は全員、生活保護を受給しているが、アパートの造りのわりに妙に高い家賃と、光熱費、食費、支援料なる名目の金を徴収され、手元に残る金は毎月五千円程度だった。この部屋と、その男達の身柄を管理している者達は「トゥゲザーハピネス」という法人名を名乗っているが、運営趣旨は分からない。
黄ばんだ壁の窓際に置かれたテレビの音声に、「やめて、やめて!」という女の、好きのうちのような懇願の声が交わっていた。
玄関の上がり待ち脇に置かれた椅子に、ジャージ姿の太った男が反り返って座り、煙草を吸いながら、スマホで、レイプ物のアダルト動画を観ている。この男の立場は「支援員」ということになっている。
「テレビ、でけえよ」テレビの前に座る入居者に、スマホ画面から目を離した男が罵る声を投げた。罵られた入居者がリモコンを取り、いかにも抗えない風にボリュームを下げた。
テレビの音量が落ちた八畳間に、女の喘ぎ声が響き渡った。今、二人の入居者がテレビの前に肩をすぼめて座り、一人が東側の壁に背を預け、一人が床に胡坐で座り、一枚の写真を見ている。彼以外の男達はみんな、顔つき、体形、動作などに、持つハンディキャップが濃く出ている。
昔に内縁妻ともども置いてきた、当時三歳の娘を膝に乗せた一葉を見つめる大塚洋一の今の思考は、「どうするべきだろうか」ということに集約されていた。
今から二十三年前、三十一歳という年齢だった彼は内縁の女とその母親、女との間に出来た娘を置いて、柏の公団を出て、北関東の県へ逃れた。心的理由は、寂しさから距離を詰めた馴れ初めはあるにせよ、生活力、会話、やることの次元が子供じみたものに留まり、少しの成長の兆しもない女達の住む世界に呑まれていくことを心が拒んだからだった。それが自分の発達の遅滞が招いたものらしいこと、そして、内縁妻もその母親も福祉と繋がっていない知的障害者で、そのはっきりとした自覚がないことも分かっていた。発語が遅く、反応が遅い幼い娘も同じものを引き継いでいることも。
申し訳なさは、充分に感じていた。だが、それでも敢えて自分の人生を取ったつもりだった。
自分にとって生きやすい職場というものは、彼にはよく分からなかった。配送業者の助手は、気遣わしい所は少しあっても、何とかはなっていた。それまでは、無偏差値の高等専修学校をいじめに遭って中退してから、アルバイトばかりを転々としていた。トラック運転手だった父親は小学校低学年の時に事故で死に、母親は自分が二十代の頃ガンで死去していた。兄弟は、兄が一人いるが、母親が亡くなる少し前に家を出、今も行方が分からない。
事前に面接を受けていた寮付き派遣会社は、他に二社の系列会社を持ち、北関東から甲信越に業務展開していた。寮は個室だが、三畳程度の拘置所を思わせる部屋で、二階建ての寮舎は女性の出入りは厳禁だった。
知る人ぞ知る飲料メーカーの生産工場に派遣されて働いた。従業員は、洋一にみんな冷たかった。業務を習得出来ずに失敗、ミスを繰り返し、冷たい視線と、寮を同じくする四歳年長の強面の男からの叱責にさらされた。三カ月ほど経った時、脱走を決意した。行き先の当ては決めていなかったが、同じような寮付きを見つけて、どこか別の場所へ行こう、程度の漠然とした思いを持っていた。
寮室に「合わないから辞めます」という旨のメモを置いて、必要な物を詰め込んだリュックを背負って、寮の玄関を出たところ、自分をいつも怒る年長の同僚に呼び止められた。
お前、人間的にはいいと思うんだよ。だけど、仕事がな、と、引き戻された寮の自室で、先輩は微笑しながら切り出した。
 その先輩が元配管工だったらしいことは話に聞いて知っていたが、少し前、寮を同じくしていた人間と夜の飲食店街を歩いている時、浮浪者の男がパブスナックのゴミ箱を漁り、それを見つけた黒服に威されて張り倒されている現場に遭遇し、その男の顔を見たところ、仕事が使えないために潰された、配管工時代の同僚だったという話を聞かされ、先輩が言うには、それがお前の将来の姿だ、ということだった。また、お前と同じタイプの人間だった、とも言った。
 今の仕事について、こうすれば良くなる、というアドバイスらしきものはなく、お前が使えないのは苦労を知らず、甘やかしを受けたことと甘えが原因、と強調され、昼食休憩の際に従業員達が弁当のケースを運んだり、他の人のお茶を汲んだりしている間、お前は自分の弁当を持って突っ立ってるだけだ、お前は課長や主任の話を右から入れて左から流している、これは他人を馬鹿にしているということだ、と叱責され、これまでどれだけ楽して生きてきたんだ、と言われ、自分が片親の境遇から非行に走り、喧嘩三昧で傷害の前科を作り、やくざの世界に一時身を置いたという話を、陶酔混じりに聞かされた。これまで子供の頃から、人間関係が上手く行かず、仕事も思うように覚えられないことから自分は何かのハンデを持っているのかもしれない、という旨の打ち明けをしたところ、それは自分を悲劇の主人公にして酔い痴れた甘え、と一蹴された。さらに、上の人達の話がいろいろ入ってくるんだけど、お前のことをみんな、むしゃこらむしゃこらよく飯食うから、うちに飯食いに来てんじゃねえかって言ってんだぞ、恥ずかしいと思わねえのか、仕事も出来ねえのにむしゃむしゃ飯を食うだけ食うなんて、そんなもんは人間じゃなくて、犬や猫と一緒だろうが、とのことだった。
 先輩は、お前みたいな奴を俺は見ていられないんだ、早く一人前になれ、困ったことがあったら相談に乗るから、と残して遅くに部屋を去ったが、納得の行かないものがありながら、最後の言葉は正直にありがたいと思った。
 それから、自分なりにどこが足りなかったかを考え、先輩の叱咤を受け入れながら、仕事に励んだ。そのうち、先輩とは外や寮室で酒を飲んだり、食事に行ったり、休日に行動をともにする間柄になった。
 その中では、それなりに楽しい思い出も作り、この人はいい人だ、と思えた。実際に乗りがよく、ギャグのセンスもあることもあり、風俗ネタなどピンキーな内容の体験談も洋一には開放的に聞こえた。
 だが、ある休日の午後、部屋に来た先輩が、「今日、機嫌悪いんだ。大塚君が一発殴らせてくれたら収まるから、殴らせてよ」などどにやつきながら言い寄り、怯え戸惑っているところ、「殴らせろよ。今日殴らせてくれりゃ、これから殴られなくて済むよ」と言い、洋一の鳩尾に本気のボディブローを打ち込み、股間を蹴り上げ、動けなくしたのだ。
 それから、酒や食事はみんな洋一の奢りになった。それだけではなく、漫画本やCDも買わされるようになった。
 仕事が終わると、洋一が疲れていようが何だろうが関係なく部屋に来て、人の腕を折った時の音、粉砕された頭部から眼球はどうぶら下がる、睾丸を潰された男の悲鳴がどんなものか、などという虚実不明の過去の暴力自慢、または自分がいかに裏社会と深く繋がっているかを、遅くまで部屋に居座り、一方的に話し続けた。そうでない時は、パチンコ店や居酒屋などに、疲れている洋一を遅くまで連れ回し、オープンから閉店まで日がな一日、同じパチンコ屋に洋一を付き合わせた日曜日もあった。飲食のたかりだけでなく、「お金ちょうだいよ」などと言って金も巻き上げられた。洋一の貸した物品はみんな借りパクされた。
 洋一は一切抗えなかった。先輩から暴力を受けることも、背後にいると称される暴力団も怖かったからだった。
 そんな時、その先輩が、寮で暴行沙汰を起こした。派遣会社の担当者から、浪費しては前借りを繰り返す生活態度のことを注意され、その社員を突き飛ばして、脱臼させたのだった。
 それで「寮を退去するなら警察沙汰にはしない」という条件で辞めることになった。
 じゃあな、と言って、大荷物を背負って去る先輩を見送ってから何ヶ月かは、平穏な日々が続いた。
 それが数ヶ月後、部外者出入り禁止の寮に先輩が訪ねてきた時に打ち破られることになった。
 先輩は、仕事を辞めて自分の所に来い、と強要した。その先輩が、その時点でどこで何をしているかは、語られない以上は分からなかったが、凄味の効いたその要請に、洋一は、何故、と訊き質すことも出来ず、従うことになった。
 先輩に命じられるままにその派遣会社を退職し、その日に連れて行かれたのは、雑居ビルに入っている暴力団の事務所だった。普通の人間とは顔つきが違い、彫物をシャツから露わにしているような男達に退路を塞がれ、囲まれて、簡単な盃を交わすことを強いられ、その日からその組の準構成員にされた。
 隣県の中小都市の狭い区域に縄張を持つ、一本独鈷の小さなやくざ組織で、みかじめ徴収、不良債権回収、ポルノビデオの卸しなどを収入源とし、一方で似非右翼活動も行っていた。
 その日から洋一は先輩と一緒に、街宣に駆り出されたり、覚醒剤の錠剤をスプーンで潰して粉末にし、パケ分けする作業を手伝わされたり、取り立ての類いに同行させられるようになった。
 あとから分かったことで、先輩は別派遣会社で働く傍ら、その組の構成員の男とスナックやパチスロ、風俗などで遊び回るうちに組の金を預かることになったが、その金を丸ごとガールズバーの女に貢いでしまい、その分を体を使って返せと詰められ、その際に、手勢として使える人間を連れてこい、さもないと殺して埋めると、組から脅され、強要されていたのだった。
 寮の部屋で、素直に話を聞くだけの洋一に身の毛がよだつような暴力遍歴自慢をし、自分がいかに悪かったかを豪語していた先輩は、組の中で、まるで別人のようにおどおどし、組員達にいいように使われていた。
 毎日のように些細なことで殴られ、具合が悪くても病院にも行けない生き地獄のような日々が始まって続き、二年後、洋一は逮捕された。保護種鳥獣密猟の鎬に加担させられ、罪を全て押しつけられた形だった。
 その密猟には先輩も加わっていたが、洋一のことを、違法に獲った鳥類の肉を料理店に卸す際に中心的に動いていた人間であると、その男が取り調べで供述したためだった。
 それから二年半で仮出所を得、刑務所を出る時、出迎える者はいなかった。そのまま東京へ流れ、日雇い派遣で食い繋ぎながら、いわゆるネットカフェ難民になった。ネットカフェに泊まれない時は、夜の街中を歩き回って過ごし、朝から昼にかけ、アーケード下や公園の片隅に寝た。
 そこへ、「住所不定者の社会復帰支援を行っている」と称するトゥゲザーハピネスが声をかけてきて、傍目から見てもどこかがおかしいと思える男達何人かと一緒にライトバンに乗せられ、現在住んでいるアパートに連れてこられた。それから、支援員だという人相の悪い男から金を渡され、病院で知能検査を受けてこいと命じられた。
 IQ77の知的障害ボーダーラインでADDという検査結果を突きつけられ、支援員という男に引かれて、結果表を持って市の障害者支援課へ行き、障害者手帳の交付を申請させられた。それから生活支援課へ引いて連れて行かれ、生活保護受給の手続きをさせられた。
 その後、最軽度区分の療育手帳が届き、十何年のちの今に至り、自分の齢も五十を越した。判断力を欠いていながら福祉との繋がりのない人間達の保護費を搾取する、悪辣な貧困ビジネスに囲われながら。
 部屋には、スマホからの女の喘ぎ声、男優が発する淫語が叩き鳴らすように響き、囲われの身である入居者達は肩を落としてテレビを眺めている。
 あの組が今もあるのかは分からないし、あの先輩が、今、どうなっているのかも庸として分からない。
 ただ自堕落で下品なだけの自分を棚上げして、自分よりも駄目と見なした者に格好つけた武勇伝をしたり顔で語りながら優越説教という分かりやすい半端者だったあの男は、洋一を指して動物だという呼ばわりをした。
 昔、今を考えると、「普通」という基準を当てはめる時、自分が潜り、現在身の在る場所に、人間という言葉はラップしない。それは自分を今の境遇へ流した自分の知能と、自閉によって巡り合わせを拒んだことによるものだった。
 支援員だという人間達は、その支援と言い張る業務に汗水を垂らしている様子はない。誰もがだらりとした物腰で、不遜な態度に言葉、今、部屋にいる男も、公私の分別が、大人であるにも関わらず、ない。それでアパートの部屋を飼育檻にし、餌を突き出し、自分達は私的な欲望を晒している。
 これは、四ツ足の世界だ。ただ、食い、その辺に糞をひり、やりたくなった時に交わるだけの生の在りよう。
 手に持つ写真の中から見つめる娘とは、クリスマス時の柏の街中で偶然再会することになったが、予想に反して可愛く綺麗な女になっており、自分を遠きに別れた父だと判別したことに驚いた。
 間違いなく親から継いだハンデを背負いながら、誰の目から見ても美しい大人の女になった菜実は、あれからどういう経緯をたどって、あの美しさをまとうようになったのか。
 四ツ足の世界を経てはいないか。
 思って顔を写真から上げた時、ドアが開いた。
 会長と称している四十代の男が、女を同伴して入ってきて、太ったジャージの男がスマホを切って「お疲れ様です」と挨拶した。
 自称会長の男は刈り込みを入れたパーマの髪、高級ブランド物のブルゾンにダメージデニムという姿で、手に革製のバッグを下げた姿だった。腕や胸はジムで鍛えたらしい筋肉が盛り上がっているが、腹ばかりがたるんで突き出た体系をしている。
 女は二十代で茶色の髪をし、下がキュロットスカートのピンク上下の上にコートを突っかけ、襟を手で持っていた。顔立ちは整っているほうだが、目つきと口許に生活の崩れが出ている。
 「おらあ、出ろ」ジャージの男が入居者達に威す声を投げ通らせた。みんな、これからここで何が行われるかが分かっている。一人、また一人と、重く腰を上げた。
 「お前もだよ」男は、座っている洋一に、手を掬い上げて、立てというジェスチャーをした。
 立ち上がった洋一を含む軽度の知的障害者達に、男は威しつけるように言い、入居者達は一人づつ、抗う気力などない、抗うべくもない、という風の、全てを諦め悟った顔を床に落とし、靴を履いて出た。
 これから、アパートの別室に移動させられ、会長が女との行為が終わるまで待たされるのだ。
 洋一は、幼い菜実と若い自分が収まっている写真を持って、玄関前に出た。
 一月半ばの寒風が、白みを増した前髪をそよがせた。
 菜実と自分、お互いにいる場所が分かれば。そして、あの時置いて行った責任を取るという意味でも、また一緒に暮らせたら、と、洋一は儚く切望した。
なお、自分の元内縁妻で、菜実の母親であった女が、霊感師の脳天をかち割った強盗殺人事件の主犯になったことは、刑務所内で新聞を閲覧して知っていた。
 そこは上部が白モルタル、下部が板張りの壁に囲まれた、十二畳の部屋だった。壁からは、寒椿の写真が載る新年度のカレンダーが下がっている。シンクの縁には洗剤類が並んで載り、西側には50インチのテレビがボードの上に置かれ、民放のイブニングニュースを流している。テレビ脇のキャスターには、安い造りの部屋には似つかわしくないブランド物のバッグが何点も載っている。
 畳張りの部屋の中央には布団が敷かれ、黒のスリップ一枚の姿をしたうら若い女が正座で座っている。項を落としたその顔は、抑え難い抑鬱の感情が浮き出していた。小柴悠梨だった。
 母親の早由美は、そんな娘の姿に目も留めることなく、スマホを片手にテーブルの角に腰を預け、メールを打っている。
 チャイムが鳴り、早由美はスマホ画面から顔を上げ、ドアへ歩いた。
 ドアが開けられ、男が二人入ってきた。二人の男は三十代に見えた。
 一人が洒落っ気のない地味な髪型をし、銀縁眼鏡をかけた上背のある男で、教育機関勤務風の見た目をしている。
 もう一人が、身長は中背だががっちりした体つきの、体育会系風の中に文系も薫る感じのする男だった。
 マスクで顔半分を隠したどちらの男も、眼の底から、人となりの陰険さを鈍い光に替えて発している。
 二人の男が、顔を俯かせて正座している悠梨の前に、畳を踏みしめるようにして立った。眼鏡の男は暗い欲望を鼻息に混ぜて漏らし、中背の男はどろりとした眼差しを、黒のスリップ一枚の悠梨の肢体にねめ這わせ、マスクの頬に薄笑いを浮かべていた。
 中背の男が悠梨のスリップの肩紐に指をかけ、片方を外した。
 「前金です」早由美が煙草に火を点けざま気だるげに言い、男は手を止めた。
 「お金払って、終わったらさっさと帰って」早由美の落とした言葉に、男達は不満そうな目を向けた。
 畳の上に、二人の男の手で、二十枚余りの一万円札が置かれるなり、長身の眼鏡の男が、悠梨の手首を掴んで、体を布団の上に引き倒した。力任せだった。
 早由美が片手に煙草、片手に指でつまめるタイプのミニビデオカメラを持ち、ファインダーを男達と娘に向けた。
 中背の男がスリップの紐に手をかけ、顔を背けた悠梨が手で抵抗した。眼鏡の男が彼女の乳房に、上から下に拳を下ろし、抉り打ち込んだ。悠梨は顔をしかめ、体を丸めた。眼鏡の男は、その体から、一挙にスリップを剥いて投げ捨て、背中から前に回した手を、露わになった両方の乳房を鷲掴みにした。
 「抗う権利なんかねえんだよ、お前には‥」男は言って、苦痛と恐怖に言葉なく顔を歪める悠梨の乳房に指を立て、握り潰しかねない力で揉んだ。手の中で、乳房が上向き、横向きに形を変えた。
 「今時分のガキは、幼稚園やそこらでもう理屈こねやがるから、大人はたじたじで、その保護者の対応に追われて、こっちはへとへとなんだよ。権利ってものは、責任と一体化して成り立つもんだろ。お前はまだ、大人の庇護を受けてるガキだ。つまり、自分一人で責任を遂行出来ねえお前なんかに、人権なんてもんはな、はなからねえんだよ。俺達に物が言いたけりゃ、芸能の売れっ子の子役みたいに納税の一つでもしてみろよ。大変なんだよ、学習塾の非常勤講師っていう仕事は‥」眼鏡の男が悠梨の背中に体重をかけてもたれ、中背の男が笑いを漏らした。
 「早いとこ終わらせてよ」早由美の言葉に急かれるようにして、中背がベルトを外し、チノパンとトランクスを脱ぎ捨てた。
 「撮ったやつって、いくらで売れるの?」悠梨の乳房から手を離し、髪を掴んで四つ這いにさせた眼鏡の男の問いに、早由美は答えなかった。
 中背の男が後ろから悠梨に覆い被さり、固く閉じた彼女の口に、学習塾講師だという男が陰茎を捻じ入れる様を、早由美の手にするビデオカメラは、血も通わぬように沈着に撮影している。
 口に男根を突き込まれた悠梨の頬には涙が伝い、その目は、言葉として顕すことの出来ない抗議の問いかけが表れていた。
 ノーネクタイのスーツを着崩した、薄いサングラスをかけた男が一人、部屋を訪ねてきたのは、十六時を過ぎた頃だった。
 早由美は悠梨を子供部屋へやり、撮影した映像をハードディスクで再生した。男が二人がかりで娘をおもちゃにする様子を至近距離から捉えられている映像を見た男は、ふん、と鼻で嗤った。
「この絵じゃ、どんだけ値切っても五万とかが相場ですね」男は冷たく言い捨てた。
 「そんな、もうちょっと色、つけてもらえないんですか?」身を乗り出した早由美に、男はまた笑いを返した。
 「画面のパンが多くて、いろいろと分かりづらいっていうのが正直な印象です。貴重なとこがもっと長い時間ばっちり映ってりゃ、考えようもあるんですけれどもね」「お願いします。せめて、あと三万だけでも」「困りますね、そういう駄々こねは」男は言って、冷たく威す目で早由美を見た。
 この男は元々、早由美がSNSで募り、自宅やホテルで自分の体で引いていた客の一人だった。自宅であるこの部屋で行為が終わり、布団の中で、もっと稼ぎたい、とこぼすように言った早由美に、“私の仕事はポルノですけど、チャイルドだったらソフトで二つから三つ、ハードなら、出来具合によっちゃ一本二十とかで買い取れます。娘さんでどうですか”と持ちかけた。
 「だったら、そちらがお金払う有料引き取りでいいですか? こっちは別に買い取らなくたっていいんですよ」「そんなことは出来ません」「それなら、ご理解のほどをお願いしますよ。今、提示した額は、こちらの努力額です。これから売るということを前提にしているんですよ。お互いの立場をちゃんと理解した上で、買取を成立させませんか。じゃあ、六万としましょうか。今回だけ、特別ですよ。栄ちゃんがたったの一人だって、こっちにはでかいんですから」早由美は数秒、口ごもってから、弱い頷きを返した。
 ディスクをバッグに入れた男が去ってから、早由美は男達が置き去った計二十六万円の札を手に取り、憑かれたように見た。悠梨が子供部屋で殺す息の気配が、静まり果てた十二畳に立ち込めていた。
 それから一時間ほど経って、オンラインデリバリーサービスの上寿司が一人分届けられた。発注元は、この近くにある和食レストランだった。小さなパフェも付いていた。
 「これで文句ないでしょ。お母さんは、ちょっと人と会いに行くから、食べたらお風呂入って、適当な時間に寝なさい」コートルックに着替え、金のチェーンの鰐革バッグを肩から提げた早由美と、テーブルを挟んで向かい合う悠梨は、口の端が垂れ下がった顔を深く俯けていた。
 「何、泣いてるの?」顔に怒りの挿した早由美は、娘に詰りを投げつけた。
  蚊の鳴く声の、もうやだ‥という語彙が、俯いた娘の口からこぼれた。
 「そんなこと、私達が言ってられると思ってるの?」言った早由美の口調は、詰りの抑揚が強まっていた。
 「言ってられないんだよ、そんなこと、私達は!」早由美は高い怒声を張り、テーブルを右手で叩いた。
 「こんなものが食べられるのは、あれをやるからなんだよ。やらなきゃ、毎月のように赤字暮らしで、それこそ鳥の餌みたいなものしか食べられなくなるんだから。それで、親子で栄養失調だよ。それほど惨めなことはないんだよ。お前、それでいいの? いいはずないでしょ!」
 母親の語気が強くなり、娘の目から涙が落ち始めた。
 「あれのお陰で、お前だって上物が着られてるんだから。あれがないと、物乞いみたいなものしか着られなくなるんだからね。だから、お母さんの言うようにやりなさい。そうすれば間違いないんだから。慣れるものなんだよ。初めにどれだけ嫌だ、嫌だって言ってても‥」早由美は作ったように優しく言い、椅子を立った。
 「十一時ぐらいには帰るから‥」言って振り返った早由美の後ろに座る娘が、寿司に箸をつけようとする様子はなかった。号室のドアは素っ気ない音を立てて閉まった。
 六時にJR船橋のコンコース、さっちゃん前で待ち合わせた早由美と村瀬は、駅前の中華料理店でラーメンと餃子の食事を摂りながら、ビールを酌み交わした。
 あれから村瀬は三回、早由美と逢瀬していた。入ったホテルでまぐわうごとに、早由美の体勢、欲求、出す声は憚りのないものになっている。村瀬は、言うなれば、寄る港が他にない船のようなものだった。菜実を喪失した悲しみ、憤りを、早由美と肉体を重ねることで晴らそうとした。いたいけな娘を家に一人残し、弁当をあてがって、自分と交わるために出てくる彼女を、村瀬はいつしか酷い母親だとも思わなくなっていた。
 欲望に任せて、互いに舌と手、指と性器で体を貪り立てる早由美とのまぐわいで、己の精神に大きく開いた破壊孔を塗り込めることは出来なかった。それでも自分は、かつて万年筆をプレゼントしてくれた、壊れ物のような妹分から単なる雌に変貌した早由美から離れられない。飲めば飲むほど不安になる、毒の酒を、美咲がやめられなかったように。一晩中やっていても、自分の抱えるものを埋められない、かつての博人が溺れていたゲームのように。
 店を出て、腕を絡めて交番前を歩いている時、旧西武デパート側から、一組の男女が歩いてやってきた。
 男が、傍からみても強引に女の肩を抱いており、女が男に押されているように見えた。
 女は、髪を編み、ピンクのチェスターコートにローヒールパンプスの姿だった。
 女は、菜実だった。
 足を止めた村瀬は、それを何とたとえていいのか、自分でも分からない声を、腹の奥深くに呑み込んだ。憤慨か。それとも悲しみの号か。
 村瀬の知らない、覇気のない表情をした、痩せた眼鏡の、自分よりも少し若いと見える男に肩を抱かれた菜実は、十数メートルの距離からすれ違い、コンコースへ消えていった。追いたい気持ちが起こった。だが、今は自分も、別の女と腕を組んでいる。
 「どうしたの?」早由美が村瀬の耳朶に囁くように訊いた。アンニュイな口調だった。村瀬は答えに詰まり、下を向いた。
 「ボラーレ、行こう‥」早由美は、旧西武の裏手に古くからある、今だ「モーテル」という看板を出している小さなホテルの名前を口にした。押される菜実に反して、自分は早由美に引かれ、百貨店跡に建ったマンションのほうへ歩き出した。
 斜め前に、絵を収納するキャンパスバッグを載せたカートを引いた小柄な身の丈をした女が、足を止め、自分をじっと見ている様子が視界の隅に入ったが、憤なのか、悲か、悔ともつかない感情に思考を浸され、目先の欲望がちらついている村瀬の気に留まることはなかった。
 その女、愛美は、勤務先の予備校で開催された模写会の帰りだった。今日は、インドの民族衣装であるサリーを着た女子生徒をモデルに、二枚の絵を描いた。娘の賜希は、放課後等デイサービスに預けている。
 相手の都合を慮ることと、自分自身の身辺整理を計りながら、連絡を取るタイミングを煮詰めていた男は今、本意ではない逢引をしている。三ヶ月前の手繋ぎ式で出逢い、話して、人間性向きを掴んだ男には似つかわしくない派手な女と腕を絡めて歩いている。その目には、どこへ向けようにも向けるあてが見つからないような哀憤が光り、口は今にも、込み上げる怨みを吐き出す形に開こうとしている。
 愛美は、今も胸に留める男が姿を遠ざけていくのを、見守りながら見送った。今、一緒にいる女と彼の関係が長く続くものではないことを確信しながら。
 菜実を付き合わせたパチスロで一万円余りの金を呑まれた河合は、彼女を背後に置くようにして店を出た。出て、市場通り沿いに建つラブホテルへ向かう途中、後ろで立ち止まった菜実に、怒りの顔を向けた。菜実が歩き出して肩が並ぶと、がしっと肩を拘束し、自分の歩幅に彼女を合わさせた。
二人が入った部屋は、ピンクの照明が古風な卑猥さを醸し出す和風仕様だった。低いベッドに、枕二つの和布団が敷いてある。
浴室でシャワーを浴びる菜実を、河合はマジックミラー越しに執視していたが、やがて服を脱ぎ払って、室に入ってきた。
河合は菜実に、浴槽のへりに腰を預けて脚を開くように欲求し、前から貫いてきた。静まり返った浴室に、粘膜の音と、暗澹とした河合の吐息が響いた。
 菜実は、この男と村瀬の決定的な違いに、また一つ気づいていた。
 私は、彼の前で笑顔になったことがない。辛く泣いたことはあっても。それだけではない。彼も、私の前で笑ったことがない‥
 河合の欲望を真前から受けながら、菜実は、浅く顕在化しないなりに、今の状況を変える知恵を手繰っていた。
 射精が近づいた際、河合は紅色の挿した顔の鼻孔を膨らませ、口許を歪め、しゅう、しゅう、と聞こえる声を喉から発した。口許からは唾液が滴っていた。鼻水も光っていた。
 悪意、蔑意というものがこの世にあり、社会の中に溢れていることは識っている。だが、自分の中に、そういった感情が存在していないことは自分で分かっている。
 それでも、目の前に揺れる顔、姿への物の言いようは、醜い、以外に充てる言葉はなかった。
 ボラーレは、号室のドアが木製で、ピンクのルームカーテンが掛かった、簡素なレイアウトの洋室を擁する老舗だった。壁が薄いため、隣の部屋からの行為の声が筒抜けに聞こえていた。
 村瀬の体の下に敷かれた早由美は、体を弓なりに反り返らせ、シーツを両手に握りしめ、掠れた声を撒き散らし、肉体の内容物がどこかへ飛んで遺失したような姿を晒している。
 大きく膨らんだ鼻孔からは鼻水、がま口のように開いた口からは泡が噴き出している。
 醜い‥自分の下にある体、顔から受けた印象語彙は、その一言に尽きるものでしかなかった。
 それは自分も同じだ。この女は、障害を持つ娘を家に置き去って、男を貪り狂っている。自分も、だいぶしっかりしたほうではあるが、軽度のハンデを持つ息子をテレビの前に置いて、セックスに溺れている。
 儚く、愛らしい、昔の妹分は、もうどこにもいない。今、体の下で老婆のような声を撒いている女は、虚栄と虚飾、華蝕の、四ツ足だ。
 それは、この女だけでなく、この自分も‥
 思った時、ひずんだ快感を自分の中心部に覚え、村瀬は射精した。二度と帰らない憧憬を求めるが、求めれば求めるほどに募る虚しさを伴う虚脱が、村瀬の全身から力を抜いた。
 娘の万引き、娘が裸手前になったことに微動だにしない女は、村瀬と体が括られたまま、彼の下で醜く喘ぎ続けていた。
 浴室で前位で菜実と繋がった河合は、無言の時間を経たのち、次はベッドで、後ろから彼女に折り重なった。菜実は口を結び、奥歯を噛みしめながら、河合を受けた。
  自分の粘膜が立てる音と河合の呼吸を後ろに聞き、体が揺れる中、村瀬を思い出していた。 
  村瀬の陰茎を呑み込んだ、赤紫色をした肛門の縁が、内外へめくれ上がり、その伏目を縫って、枯れた声が断続的に振り撒かれる。
  自分が何故ここにいて、何を求めてこの行為をしているのかは、村瀬には白日の告白のように分かっていた。これが遺失の代替であるということを。そして、自分の体と心をどれだけこの行為に沈めても、蝶が懐いてまとわりついたハロウィン時の公園、十一月のあの夜も、一緒に食べた甘味も、観に入ったアニメ映画も、互いのまだ小さな手を繋いで歩いた実籾の街も、あのブルーのリボンが結ばれた万年筆の小箱も、そのお返しで、誕生日、若く可愛い手にそっと渡したヘアリボンも、もう二度と帰りはしない。
  求めれば求めるほど悲しみが増幅する、美しく彩られた過去の動像。
  出ては入る陰茎には、糞の糟が付着している。早由美の下半身からは、糞臭が立ち昇っていた。陰茎が、見る見るうちに茶に塗られた。
  もう、自分は四ツ足でいい。無力感とともに心に昇る思い。諦め。それを心に覚えた時、今日の夜、二回目の射精の快楽が、下半身に来た。
  三度、菜実を抱いた河合は、トランクス一枚の姿で煙草を吸っている。菜実はベッドから上体を起こして、裸の体にブラジャーを着けた。
  「一緒に逃げないか、池内さん‥」菜実に背を向け、煙を吐き吐き言った河合に、菜実は小首を傾けた。
  「行先は、千葉県の南のほうか、北関東か、甲信越がいいと思うんだ。あの奥さんも、子供も、俺に不幸を与えるだけなんだ。もし一緒に来てくれるんだったら、明日にでも、柏で落ち合って、行こう。君の通ってたダブルシービーって、今、運営中止なんだろ? 新しい通所先とかグループホームだったら、俺が一緒に探してあげても‥」
  菜実は答えず、ブラジャーの次にパンティを着け、ストッキングを履いて、赤いロングスリーブのワンピースを着た。乱れた髪はブラシで整え直した。
  菜実が着衣してもまだパンツ一枚の河合は、ぽかんとした目を彼女に向けた。
 「まだ、時間があるよ」河合の声には不審の色があった。菜実がバッグを取った時、河合はあんぐりと口を開けて立ち上がった。
 「河合さん、私のお話、よく聞いて‥」菜実は言葉の段落を区切るようにして、河合に語りかけた。顔には、誰かに何かを諭す時の微笑が浮いていた。
 「私が間違ってたの。河合さんのこと、可哀想だと思って、私、お部屋でまたエッチ許しちゃったんだけど、私、甘かったんだ。河合さん、アイドルの時、私のこと、好きだとか、幸せにするとかって、たくさん言ったよね。私、信じてたの。でも、私に赤ちゃん出来たって分かったら、すぐにいなくなっちゃった。そのあと、子供死んじゃって、私悲しくて、いっぱい泣いたの。そのこと、私、ちゃんと河合さんにお話ししたのに、河合さん、私の体ばっかり欲しがって、会うといつも、私に入っていいって聞かないで、私のこと知らんぷりしてパチンコ屋さん入って、勝手にパチンコやる。全然優しくない。でも、そのあとで、エッチばっかりする」
 菜実の言葉、話し方は、極めて優しかった。
 「ちょっと待ってよ」パンツしか身にまとっていない河合は、両手を掲げて菜実に寄った。
 「パチンコは、俺の‥」「心の支え? 生き甲斐?」菜実が知り得ないとばかり思っていた語彙が彼女の口から出たことに驚いたようで、河合は体を固めた。
 「パチンコとセックスだけがあれば、河合さん、心、奥さんと息子さんと、前の大変だったことから逃げられるの?」菜実の言葉、声の張りが、あたかも健常の女子を思わせるものを帯びた。河合が半歩退いたように見えた。
 「奥さんと息子さんのこと、大変だったら、相談、乗ってくれる所、いっぱいあるよ。でも、河合さん、自分で何もしないよね。今、河合さんが苦しいのは、河合さんが甘かったことが理由だよ。私も、前、すみののりっていう所のお参りやって、すみののりさんと、男の人達からお金もらってたの。でも、今の私が本当に好きな人が、それ悪いって教えてくれて、すみののりから私のこと助けてくれて、縁切らせてくれたんだ。私が甘かったから、その人、お怪我したりして、大変になっちゃって、すごい迷惑、私、かけちゃったんだ。河合さん、どんなに苦しくたって、寂しくたって、テレクラ行っちゃ駄目だったんだよ。今からでも間に合うよ。悪い奥さんだったら、弁護士さんとか通して、お別れする話し合い、出来るよ」「池内さん!」
  ドアに向かって歩き出した菜実に、河合がすがりついた。
  「考え直してくれないか。今の俺は、君と一緒にいる時だけに、恐怖と不安を忘れられるんだ。君がいないと、もう将来のことも見えないんだ。パチンコのことは反省するよ。だから、行かないで。金を毎月渡してもいいから! この通りだ!」
  河合は涙声と涙の目になって、膝を着き、額を畳に擦りつけ始めた。
  「お金で一緒にいるって、前、私がやってたお参りと同じ‥いいくないことなの」菜実の声はしんと通る優しさが籠っていたが、言葉はぴしゃりとしている。
  「怖かったら、心、診てくれるお医者さんあるから、行って、直さなくちゃ駄目だよ。これまで私と河合さんがしてたセックス、悲しいだけ。私としてる河合さん、嬉しそうじゃなかったし、楽しそうじゃなかったし、悲しそうで苦しそうだったもん。ちゃんと自分で考えないで、嫌なことから逃げてばっかりで、本当は楽しくないことやって、あとはセックスだけなんて、脚が四本の動物みたいだよ。私、障害あるけど、犬さんとか猫さんじゃない人間だもん。河合さんも、人間だよね。私、ずっと人でいたいんだもん」
  「頼む! 頼む!」繰り返す河合は頭を上げなかった。
  「今、河合さんが、ちゃんと私のお話聞いてくれないのも、私、悲しいの。自分だけじゃなくて、他の人のこと、考えられる人にならないと、駄目だよ。さようなら。赤ちゃんのこと、私、全然怒ってないよ。元気でね」菜実は河合に背を向け、外開きのドアのノブを回し、廊下へ出た。
 「待って!」エレベーター前に止まった菜実に、ズボンとインナーを着けた河合が追ってきた。
  「君と離れるなんて、嫌だ!」叫んだ河合の顔は濡れていた。
  「今日、君に指摘されたことは直すから! だから、考え直して! お願いだ! あのパチンコ屋で、どんなに失敗して、店長とか客に怒られても、誰に対しても優しい心を捨てようとしなかった君が好きなんだ! だから、これからも俺を支えてほしいんだ! 知的障害があったって関係ないんだよ‥」
   河合の泣き呻く叫びが、人のいない廊下に反響する中、エレベーターが四階に止まり、扉が開いた。
  扉の後ろには、熟年になりながらも自由に恋愛を楽しんでいるという風の、五十代に見える男女が立っていた。
  その男女と入れ違いに、菜実はエレベーターに乗った。エレベーターの前に、河合がへなりと座り込んだ。濡れた目には、恨みの光があった。
  菜実一人のエレベーター機内に、壕とした河合の咽び泣きが階上から降った。
  市場通りを歩き、信号を渡って天沼公園の方角へ一人向かう菜実の心には、静かな自信が張っていた。大人の女として、自分事を自分で処理する。それを、孝子の件と、柏駅前の男達から自分の身を守ったこと、今日、人間として、本能だけの関係に自分で幕を引いたこと。自己を肯定する気持ちが、また持てた。
  船橋本町の灯に、村瀬の温かな眼差しが重なった。それが菜実の目に涙を汲ませた。自分が元旦に言い放った一方的な別れが、どれだけ彼を傷つけ、その彼が今、どんな気持ちで暮らしているかを思わずにはいられなくなったからだった。その負いの思いから、まだ連絡はし難い。
  谷津で早由美と別れた村瀬は、津田沼に降りた。駅前から見た土曜の二十時過ぎの街は、メートルの上がった声が方々に上がり、酔ってよろめき歩く人の影が目立った。
  明日は十時からの遅番だと思うと、酒が欲しくなった。今、胸につかえているものの全てを、アルコールに溶かし、吐き出したい思いだった。
  菜実や、自分の子供達のような若年者が多数を占める、坪数のあるチェーンは避けたかった。それは、今の自分は若者達に引け目を感じているからということもある。
  メインストリートを歩き、ペデストリアンデッキの近影を見ると、あの三ヶ月前の手繋ぎ式の日が、ストップモーションのコマになって思い出された。あのイベントの本質、本性を鋭く見抜き、「これは人を陥れることの幇助だ。みんな、自分の身は自分で守れ」と警告して去った絹子、明らかな広汎性発達障害で、知的なハンデも持つ、わたなべゆき、出逢えたことが嬉しかったが、菜実に抱いた愛しさの陰に存在が薄れていった愛美、それに、菜実。
 女達の顔、手を取った時に掌から感じた、個性、人。あの日を起点に、自分の身に降りかかった、命をすり減らす出来事、その中で、その手で犯した罪。
  車道を挟んでパルコ裏の、飲み系飲食店が立ち並ぶ通りに入った。あの「特攻拉麺」のシャッターは降り、「テナント募集」の看板が貼ってあった。
  あの日、あの時、吉富から「身体障害者野郎」という蔑みの罵倒を受けた時に、障害というものとの縁が繋がり、特攻拉麵の若者達に発達の不全を見、出来すぎたルックスをした男から手繋ぎ式のティッシュを受け取り、後日に菜実と出逢うという流れになったのだ。
  あのハロウィン時からの三ヶ月が、三十年もの時間を経ているように重く感じる。
  買ってやったばかりの博人の携帯に電話をかけると、わりと元気のいい応対が返ってきた。
  「ステーキ弁当、食ったか?」「うん。今、女の人と一緒?」「違うよ」「そうなんだ‥」
  本当の賢さは、紙切れに印字された数値データには表れない。心の感度という聡明さもある。博人は、父親の自分が背負う大人の事情を察しきっている。
  「十時過ぎには帰ると思うから、適当に寝な。火曜は、お父さん休み採って、グループホームと就労継続支援A型の本契約、一緒に行くんだもんな」「分かった。飲みすぎないでね」「ああ。会うのは明日の朝か」「そうだね。気をつけて帰ってきてね」「分かってるよ‥」
  通話を終了し、「特攻拉麵」の寂しい残骸にまた目を留めた時、村瀬の胸に、二時間ほど前の、早由美の醜い姿、声が再生し、それがむかつきを誘発した。この店の若者達が、軽度知的障害の男を、今、自分が立っている位置ちょうどの路面にドロップした時、男の後頭部と背中が立てた音と、自分の陰茎に付着していた早由美の糞糟の色がかぶって、頭に再生された。その遠くに、朧な菜実の姿があった。
  自分を含めた四人の男が、小さな折り畳み机を囲んで座り、もさり、もさりという咀嚼音を立てている。食べているものは、揃って半額引きの海苔弁当だった。
  「食ったら、適当に寝ろよ」言ったのは、今日の昼から詰めている、太ったジャージの男だった。
  「朝は、これ食っとけ」男は白いビニールの買い物袋を、畳の上にどさりと投げた。その中には、消費期限を過ぎた菓子パン、総菜パンが入っていることは分かっている。
  「明日は七時に高田(たかだ)が来るから、それまで揉めとかしねえで、大人しくしてんだぞ。いいか、俺らに面倒臭え仕事、振んじゃねえぞ。分かったな」男は言い、ボディバッグを着けた姿を返し、ドアの向こうへ去った。
   食べ終えた、三十代から六十代の男達は、それぞれ歯を磨き、敷き放しの薄い布団に揉体を潜らせ、漫画を読んだり、DSゲームをやったりして、まどろむ前の時間に入った。
   洋一は、たった一枚しかない娘との写真を見ていた。
   クリスマス時に会った、大人の女になった娘と写真やプリクラを撮ることは、自分には望む権利はないのか。
   無期を打たれた、自分の障害を娘に遺した元の内縁妻には、さほどの思いはない。お互いの障害の在りようが、縁を分けてしまったと、洋一は考える。
   今の菜実が、どこでどういう暮らしをしているかは分からない。だが、菜実と一緒に、人間らしい暮らしをしたい。親に戻りたい。
   隣の布団に座る三十代の男がプレイするゲームのBGMと効果音が、虚しく、物悲しく響いていた。
   自分でも思いつく限りの知恵を搾って、菜実を探そう。胸に意思を決め、洋一は写真を枕元に置いて、天井を見つめてから、ゆっくりと目を閉じた。
   大瓶のビール三本で、肩がぐらつき、舌と脚がもつれるような酔いが村瀬の体に来た。つまみは、お通しの他、刺身盛り合わせと焼き鳥の皮塩を二本頼んでいる。刺身は、褄の上に、帆立が一切れ、鰯が三切れ載っており、鶏皮は一本が残って、その隣には串が載っている。
   「税制改革が何だっつうんだよ。難民法が何だってんだよ。何をやろうが、日本なんて、今から二十年後には、もうねえんだよ。第三次世界大戦と、大災害で終わりだ‥」八十坪のフロアの中心に陣取る四角いカウンターの周りを、片手に瓶、片手にグラスの村瀬が、底が抜けてしまったような哄笑を撒いて散らしながら、のろのろとうろつき回っている。
   東船橋方面へ向かう坂の上に建つ、「チャコ」という、喫茶店のような外装、内装を持つ、老舗風の店だった。
   まばらな常連風の、主に壮年域の客達の迷惑は、背中と横顔に露骨に出ている。カウンターの中で店の仕事をこなす老いた経営者夫妻は、頃合を見計らう視線をちらちらと村瀬に向けている。
   それは三十分ほど前から村瀬が吐き散らしている言葉の中に、人を著しく不安にする、楽しい場所ではNGのものがいくつも混じっていることもさることながら、彼の酔態が、落ち着いて酒と家庭的な料理、会話を楽しむという店の赴きにはふさわしくないものであることがある。
   村瀬は、歩きながら自分のコップにビールを注ぎ、呷りきると、右奥で肩を寄せ合っている男女ににじって進んだ。村瀬のその口からは、狂躁に陥った人間の笑いが発せられていた。
   男女はまだ二十代に見えた。女は地味だが、地味なルックスによく載った髪、服装をし、男は、ひたすら真面目で優しい感じがした。女は、揃った前髪と白い肌、睫毛の長い目が印象的だった。無遠慮な言葉を言いたいだけ吐いて、千鳥足で寄ってくる村瀬に、男が警戒の目で見上げた。女を守ろうとする目だった。
   女の前には、蓋をオープンした指輪のソフトケースがあった。ケースの中にはプラチナが光っていた。置かれている飲み物は、ソフトドリンクのようだった。それを目先に留めた村瀬は、コップにビールを溢れさせながら、くぐもった笑いを漏らした。
   「結婚なんかしたってな、思うようにはならねえもんなんだよ。お前の年収がいくらか知らねえけどな、たいがい、女の心なんてもんは、男から離れてってな、しまいに家庭内離婚で、ぽこぽこ出来たガキは、いずれ好き勝手やるようになるもんなんだ。どこもかしこもそうだ。こんな指輪なんて、そんな生き墓場の通行証に過ぎねえんだ。年収なんて、それがそのまま男の甲斐性になりはしねえんだよ。お前、分かってんのかよ、おい‥」
   男が立つ気配を見せ、村瀬はフロアに胡坐で座り込み、ビールを注ぎ足し、呷った。煽りながら、また、高笑いを仰ぎ撒いた。顔と手が、赤鬼のように染まっていた。
   男が立ち上がり、女が「やめて‥」という風に肩を押さえた。
  「僕のお話、聞いてくれないですか」男が、眼鏡の奥から訴えかける光を宿しながら、座り込んだ村瀬に語りかけた。
  「僕はボーダーで、彼女は軽度の知的です。元々、船橋のグループホームの男性棟と、女の子の棟に住んでて、通ってる昼間の施設が一緒だったことから、お話をするようになって、恋愛の関係になりました」男は、低く、抑揚のない口調で言い、ウエストポーチをまさぐって、緑色の障害者手帳を出し、開いて、顔写真の入った頁をかざした。
  「僕が支援区分2で、彼女も同じ2です。お話は普通に出来ますけれど、役所の手続きとか、難しいことには、補助が要るんです」言って、手帳をポーチにしまった。
   村瀬はぽけっとした顔で男を見上げていた。
「お互いに、大人になってから手帳を申請したので、その前は、一般枠で働いてました。その時は、二人とも大変だったんです。そういう大変な思いを知ってる同士で、お互いを必要としてるから、支え合って、稼ぐお金を合わせて、これから籍入れて、団地を借りて一緒に住むところなんです。反対は、されました。お互いがお互いに負担をかけるし、子供が出来ても育てられないからって言われて。だけど、僕の彼女を守りたいっていう気持ちと、彼女には手を取ってくれる人が必要だっていうことを、社会福祉法人の理事長に訴えて、時間はかかりましたけど、やっと認めてもらえたんです。だから、墓場だとか、離婚だとかっていう言葉は、言わないでほしいんです。僕達は、これから周りの人達に助けてもらいながら、頑張ってやっていこうとしてるんだから‥」男の目には涙が見えた。女は、言葉がないためにかける言葉がない、というように俯いている。
「分かってくれないんですか、僕のお話‥」男の声に悲しみが籠った。
  「分かる、分からない以前の問題だよ‥」村瀬は立ち上がり、コップのビールを呷り立て、また注いだ。
  「無駄だぜ、そんなことは。お前らの持ち物は、何代にも渡って遺伝すんだよ。周りに負担かけて、迷惑撒き散らす血筋がよ。俺は、知的障害の女に惚れたばかりに、三途の川の渡し守と対面するような目に遭ってな、その挙句に、その女は俺を捨てて他の男に走っちまったんだよ。お前が連れてるその女だってな、間違いなく恐ろしい心変わりすんぜ。お前の心だって変わっちまってな、お前が望むような幸せなんてもんは、いくら欲しがっても手に入りはしねえもんなんだよ。お前らが何頑張ろうが、何努力しようが、その受け皿は、笊なんだよ。水を汲めば、ざーっと抜けてくな。俺でさえもそうなんだから、お前らなんかなおさらだよ。いいか、デブが1キロのダイエットに成功したところでデブには変わりねえし、池沼のIQが一や二、アップしたって、池沼は池沼なんだよ。受け止めろよ、世の中の真実を‥」言った村瀬は、また、ひしゃげたような高笑いを撒いた。
 コップのビールを口から垂らして鯨飲しながら笑い、カウンター席の客達の顔を覗いて回り、一人で飲んでいる壮年の男の脇に足を止めて、自分の瓶とコップを置き、その男のコップにビールを注いだ。喪服姿のその男は、心底迷惑げな顔で村瀬を見上げた。
 コップのビールが溢れて滴り、ひと文句言いたげに男の口が開いた。カウンターに置いた手がずれ、それに触れた村瀬のコップがフロアに落ち、破片を散らして割れた。その時、高齢の店主がカウンターの中から出て、村瀬の前に進み出た。
「帰って下さいよ」店主は手を払うしぐさをし、村瀬に退店を要請した。
 「うちは確かにたいした店じゃありませんよ。だけど、こんな店なりに、来てくれる人達には、楽しんで飲んでもらうように心掛けてやってるんだよ。それが、楽しいはずの飲みをこんな風に勝手な価値観振りかざして、迷惑かける人は、いくら金を落とされても来てもらいたくないんだよ。お代はいいから、帰ってくれ」長身で銀の髪に洒落た技巧をこなした店主は、もう一度手を払った。
 店主の2メーターほど後ろには、別の男が影のように立っている。白いものの混じったスポーツ刈りの髪をし、エンブレム入りの青のジャケットにチャコールのネクタイ、黒のスラックスという姿で、齢の頃は五十を少し越えているといったところか。奥の小さなテーブル席で、一人で吞んでいた男だった。
 「帰ってくれ」店主が語気を強めて同じ言葉を繰り返し言い、村瀬は嘲笑めいた笑いを発した。
 「金だったら払ってやるよ。これだけ飲み食いしたんだからな」村瀬はボディバッグから財布を出し、一万円札を一枚抜き、店主の顔に目がけるようにして投げた。札はひらひらと舞い、村瀬と店主の間に落ちて貼った。
 「何なら、栄ちゃん、もう一人いるか?」村瀬はからかう声を発して、財布の万札をもう一枚、これ見よがしにつまんだ。
 「金を払えば、絶対的、相対的に、俺は神様になるんだよ。俺が今ここから出て行きゃ、そっちがこっちに頭下げる立場になるんだ。違えのかよ」村瀬は舌をもつれさせて身勝手な商売論をぶった。客達は、知的ボーダーと軽度知的だという男女を始めとして、そのやり取りを注視している。
 顰蹙と怯えを入り交ぜた客達の中、ボーダーだという男は、悲しげだが、情のある目で見ている。今の村瀬が抱えている問題を理解している目だった。
 「帰ってくれ。帰らないと、警察を呼ばなきゃいけなくなる‥」「そんなもん、呼ぶなら呼べよ。機動隊が何人来ようが、片っ端からぶん殴ってやるよ。これでも俺はな、総合の日本ランカーの奴ぶちのめしたし、ストロー級のボクサーともやったんだぜ」村瀬は顔を突き出して凄んだ。カウンターの中にいる店主の妻が、携帯を取っていた。
 その時、店主の後ろに控えていた男が、すっと村瀬の前に歩み出た。男の表情は涼怜で、体にも力みらしいものはなかった。
 「トイレの廊下に姿見の鏡があります。それでご自分がどんな顔をして、どんな姿をしてるのか、じっくり見てみるのがいいですよ。そのついでに、さっきまで自分が吐いていた恥ずかしい言葉、恥ずかしい行いを、よく反省した上で、落ちてる金を拾って帰りましょうか。ここの親爺さんのご好意に、今日は甘えてね」「何だ、てめえ」涼しく言った男に、村瀬は鼻先を詰めた。「帰らないと、帰っていただくようにするしかなくなります」「お前、ここの用心棒か?」「違いますよ。ここの親爺さんに、昔から世話になってる関係の人間なものでね。親爺さんが困ってるとなると、間に入らないわけにはいかないんですよ」男の口調は、酒荒れの男を前にしても、いささかの動揺もなかった。
「表、出ろよ。勝負つけてやるから」「嫌ですよ。決闘罪で起訴されたら、二年以上、五年以下ですから。これでも生徒さんを預かってる立場なものでね」「来ねえんだったらこっちから行くぜ」「勘弁して下さいよ。あなた、もう接触してますよ」「ごちゃごちゃ、理屈、うるせえな!」
村瀬は瞬時に猫足を調え、男に向けて運足した。客達が体をすくませた。左を携えた村瀬の右正拳が顔面を狙いすまして唸った先から、男の体が消えていた。そう思った時、男はすでにその上段をかわし、村瀬の体の下を潜っていた。手首を捉られ、項を掴まれて、上体を前にひしがれた形になった。村瀬の腕は、男の顔の高さまで上がった。村瀬の口から、たまらない苦痛の号が上がった。
「どうしますか? このまま警察に連れて行くことも出来ますよ。証人に囲まれて脅迫と暴行やってますから、それなりのペナルティが課せられるはずですが、どうしますか。大人しく出ていくほうが絶対にためになると思いますけど。あなたのお仕事とご家庭を守るためにも」男が言って、腕の極めを解き、項から手を離した。村瀬はくたりとフロアに転がった。
「親爺さんからの要請です。お代はいいってことなので、さ、これをお受け取りになって‥」男は投げられた一万円を、這いつくばった村瀬に差し出した。村瀬は顔を歪めて、それを受け取った。
「大丈夫ですか」男が村瀬の肩に手を添え、手を持って介助して立たせた。村瀬の口からは、唾液が糸を引いて滴っていた。
「あ、ちょっと」背中を丸め、足を引きながら出入口の扉へ向かう村瀬を、男が呼び止めた。
「かなり様になったアタックでしたね。おっしゃるように実戦の経験もありそうな打ち筋だと思いました。何年くらいやってましたか?」男の問いに、敗北の屈辱と苦痛の余韻を顔と体に浮かせた村瀬は答えなかった。
「もし、よろしければ」男は手に持つA5サイズの光沢紙を村瀬に差し出した。村瀬は光沢紙に目を落とした。
空手、という大文字を、村瀬の落ちた視線が撫でるように見た。
「船橋の本町文化会館で、私が師範でやってますから、もっと磨きをかけたいと思ったら。これ、載ってるの、私の番号ですから」男が言い、村瀬は体向きを前へ直し、ドアを引いて、店を出た。出ていく村瀬を、ボーダーと打ち明けた男が立って見送った。
村瀬の姿は、296を田喜野井の方向へ下って、とぼとぼと遠ざかっていった。落ちた背中と肩に、焦燥の上に背負った敗北が滲んでいた。一時は、復讐心と怒りから道を踏み違えた。だが、それでも人間の域にはいた。それは守るものがあったからだった。それを失い、人間から、欲望まみれの四ツ足になり、見るに不様な中年の悪態つきになり果てた、後悔の悲しみも、その後ろ姿は立ち昇らせていた。着地点の見えない転落への焦燥も、その姿に浮いていた。
打ちひしがれて296を下る村瀬の頭に、四ツ足という言葉が繰り返し浮かんだ。
本能だけの畜生道。有尾の世界。そこに生きる者達が、知恵を持つ人間に勝つ術はないのだ。手には、男から渡された光沢紙の広告が持たれていた。
~訣別と再生~
二月になっていた。義毅の経営する「グっちゃんの庭」は、彼を含む三人のスタッフ、五人の利用者からなる日中一時支援としてスタートしていた。平日は放課後、土日は休みの、地元の子供達が来て、おやつを食べ、知的、身体の利用者達とお話をし、簡単なゲームなどを愉しんで帰っていく。子供達の保護者も来る。親子で、障害への理解を深める場所として機能している。
名前の漢字表記が判明した樹里亜は、新菜に連れられて足しげく来ているが、初めの頃には固かった面持ちに、柔和さが出はじめている。クリームソーダをふるまった日に深く顔に刻まれていた、怯えと不安の色も、もうない。彼女は今、地元の保育園に通っているのだ。
今日は、利用者達と、やってきた四人の子供達とで、かるた大会を行っている。そのかるたは、子供に分かりやすい現代語訳の百人一首だった。
両手にピースサインをして、腰をくねらせてツイストを踊る小野小町のイラストが描かれた札を取った樹里亜の顔に、笑みが満ちた。
それを見た義毅は、自分の兄がいかにちゃんと人間としての仕事を執り行ったかを改めて思い返した。
ダブルシービーには、ほんの五組ほどの利用者と保護者の親子が来ていた。菜実は、紅美子と一緒だった。
生活介護部室にはパイプ椅子が二列並べられ、菜実達が座っている。志田(しだ)という男のスタッフは、話しあぐねの思いを呑んだ面持ちで、主に保護者に説明するようにして切り出した。
先々月の討論会の席で、不適切なものがスクリーンに映し出され、その反省から、当法人は活動自粛、一時閉所となりましたが、現在、施設長と副施設長の行方が分からず、連絡も通じなくなっている。そのため、期限を設けない休所となる見通しです。籍を残し、再開を待つことも、別の所へお移りになることも自由です。念のため、挨拶をさせていただきます。十年の間、ダブルシービーを利用いただき、ありがとうございました。
志田は言い、頭を下げたが、他の職員の方々はどうされたのでしょうか、という保護者からの質問に、大多数が、今回の件で離職いたしました、と答えた。それにより、文岡達が、部下、父兄の信頼を一挙に失ったらしいことが菜実にも分かった。
その思いを胸に締めて、菜実は手を挙げた。
池内さん、どうぞ、と言った志田に、菜実はぽっかりと口を開いた。
「吉内さんは?」「吉内は、お辞めになりました。皆さんに、元気でね、と伝えて下さいと言っていましたよ。挨拶らしい挨拶を出来ないで皆さんとお別れしなくちゃいけなくなったことを、とても残念がっていました‥」菜実の問いに答えた志田の述べは、語尾が消えるように言い括られた。
菜実は察した。叶恵の、いついかなる時もけっしてぶれない、信念の浮き出た凛の顔、態度。それはまさにこの終着点を目指したものであったことを。
ダブルシービーが、おおかたの確率で廃所となる運びを利用者目にも見せているこの一件には、叶恵が大きく関わっている。
就労継続支援部門を利用されていた方各位には、少し額は下回りますが、休業手当が振り込まれます、と閉められ、午後の時間を割いた三十分程度の説明会は終わった。
「池ちゃん、別んとこ、探そうな」宮本から三山へ向かう社用車の軽自動車の中で、助手席の菜実に、ハンドルを取る紅美子が呼びかけた。
「あんなまどろっこしい説明せんでも、保護者は分かっとるがな。テレビでも報道されとるさかい。な、池ちゃん」紅美子が吐き捨て、菜実は膝に手を重ね、フロントガラスの向こうに広がる御成街道の景色を寂しげに見ていた。
「元々、人を馬鹿にするたちの人間がやっとった所やで。あいつらに裏があることは、私には分かっとったわ。ああなったんも、当然の成り行きやで。な、池ちゃん。増渕さんに話して、明日からでも、他、探そうな」運転に支障がない程度に助手席に顔を向けて入った紅美子の促しに、菜実は「はい‥」と答えた。
「あの年上の彼氏とは、上手く行っとんか?」紅美子の問いかけは、不意だった。菜実にとっては、疚しさを突かれる問いだった。
河合と会うために出る時には嘘をついていたこともある。だが、その河合との関係は、すでに自分から幕を引いている。
村瀬に対しては、恋しい思いを、後ろめたさが圧している。それでも、彼なら自分を赦してくれるかもしれないという思いもある。河合との関係を自力で解いた今、どうするべきかと、自分なりに考えている。
「恋路の馬やないけどな、私な、ちょっと思うことがあるねん」諭すように言った紅美子の横顔を、菜実は疑問の浮いた顔で見た。
「誠に申し訳ございませんでした」村瀬は、成田街道入口近くの「チャコ」の店主と夫人に深く頭を下げて、詫びた。開店に向けての仕込みを行っている最中の、店の中だった。カウンターには、持参した菓子折りの箱が置いてある。
「仕事を持っていて、子供もある身でありながら、大人として恥ずかしく、一時の感情を抑えられないで、お店と、お客様方に多大な迷惑をおかけしたことを、深くお詫び申し上げます。本当にすみませんでした」村瀬は、自分の額が膝に着くまでに腰を折っていた。
「まあ、頭をお上げになって下さいよ」店主が優しく言い、村瀬は顔を上げ、ゆっくりとお辞儀を解いた。
こんなことは、菜実は元より、博人にも恵梨香にも知られるわけにはいかないが、あの櫂端(かいはし)という聞き覚え確かな氏名の空手師範がいなければ、かけがえのない子供達や、職まで失いかねない社会的危機であり、吉富と同類になる一歩手前だった。
「元々洋食のコックだった私が家内と一緒にここを始めたのは、もう五十年も前です。その間に、息子達も独立して、私らにはもう孫もいて、何だかこの半世紀が一瞬の花火みたいな感じがしてるんですよ。それはもう、いろいろなことがあって、いろいろなお客が出入りしたもんです。それこそ、こっちの人達が‥」店主は頬に指を当て、一本の線をびっと引いた。
「店に来て、観葉植物の高額レンタルと、おしぼりの卸を迫られて、断って、もの凄い嫌がらせを受けたり、そういうのもかい潜ってるもんですからね。本当、いろいろな人を相手にしました。その中には、飲んで荒れるお客さんも、たくさんいました。大トラのお客さん同士の喧嘩を収めたりね。今回のことなんて比じゃないことも、たくさんありましたから」「お察しいたします‥」「今回は、そちら様も、背負ってるものを背負いきれないで、あらぬ恰好で弾けちゃったっていうことですよね。そういう時に酒が入るとなおさらですよ。その辺りの理解は、私らは持ってますんで、どうぞご安心下さい」「ありがとうございます。改めて、本当にすみませんでした」村瀬はもう一度腰を折り、「あの婚約者同士で来ていた人達にも、お詫びを伝えていただけると幸です」と加えた。顔を上げると、店主は微笑しながら、小さく頷いていた。
「もしよろしければ、今度、息子さん辺りでもお連れになって、来て下さいよ。サービスしますから」店主の温かい言葉と声にまた頭を下げ、村瀬は「チャコ」を出た。
296沿いを歩いている間中、メール受信のバイブレーションが幾度となく鳴った。それがここのところ、多い時で一日百件超来るスパムであることは分かっている。
内容は、働かないで一日に十万円を稼げるメソッド、またはパチンコ、スロットの必勝スキルを知りたい方はここをクリック! あるいは文面を見る限りでは、明らかな闇バイトのようなもの、意味不明な漢字や記号が長々と打たれたものなどだった。発信元のアドレスをブロックしても別のアドレスから送られてくるといういたちごっこが、ここ二日ほどの間、繰り返されている。
早由美からの連絡は、最後に会った二十日前から全くない。村瀬は、あの時西船橋の鉄板焼き屋で、承諾もなく写真を撮られたことを思い出していた。
JR津田沼駅のコンコースでスマホを開いた。写真の添付された数通のメールが送られてきていたが、それは違法のチャイルドポルノだった。村瀬は人目につかない場所へ移動した。
中学生くらいに見える少女が男にフェラチオをしているもの、胸も陰毛もない少女がベッドに寝て、全裸の姿を晒しているもの、また、これも中学生程度に見える女の子が、全裸で畳の上に座り、指で性器を広げているものもあった。
その少女の顔に、村瀬は見覚えを感じた。それは早由美を少女にした顔だった。可愛いが、表情に暗い翳りが落ちていて、眼が泣いている女の子。
幼い膣孔を自分の指で開き、変態達の欲望にアピールする被写体になっているこの少女は、あの晦日の日にスタッフルームで裸寸前になった、早由美の娘、悠梨だ。
全てが分かった。この二日の間に起こっていることと、この写真を見たことで。
村瀬の肚が、静かに決まり始めた。
肚を決めた心境のまま、翌日が来た。その日はレジの人手が足りないため、村瀬はレジに貼りつく勤務になった。
午後、自分が担当するレジの列の最後尾に、義毅が並んでいるのが目に留まった。買い物籠を提げていないので、煙草だと分かる。勤務先は、すでに教えているために、義毅は知っている。
「ハッピーテイクス、二つ」義毅はむっとしたような顔と声で注文した。革ジャンの脇には、光沢紙らしい、B5に見えるサイズの厚紙が挟まれている。
村瀬がケースからハッピーテイクスを二箱出して置き、義毅はカード決済で支払いを済ませた。
「脇、甘えぞ」二箱の煙草を取った義毅は、言いばな、レジカウンターにその厚紙を置いた。
村瀬が呼び止める間もなく、義毅は自動ドアの向こうへ去った。
忙しさからそれを確認もせず、後ろの台に置いた村瀬は、接客の声かけをしながら業務を始めた。
休憩の声がかかり、村瀬は義毅から受け取った厚紙を持って、レジを離れた。バックヤードで確認したそれは、低俗な雑誌の裏表紙を切り取ったものだった。
間抜けな表情をした村瀬の顔が、大写しに載っていた。それは間違いなく、正月二日の夜に西船橋の鉄板焼き屋で、早由美が承諾なしに撮影した写真だった。
こんなキモいオヤジだけど、という黒文字の大見出しが躍り、かくしかじかという文が掲載されている。霊能者が入魂したという触れ込みの、「不幸を及ぼす悪霊を退散させ、幸運を呼び込む、人生を変えるブレスレット」の宣伝広告で、数珠のような形状をした商品の写真が載っていた。
貧乏な家に育ったために高校へ進学出来ず、中学を卒業してからずっと、清掃員の仕事をし、ゴキブリだらけの木造アパートに一人で住む孤独な人生が、藁にもすがる気持ちでこのブレスレットを買ったところ、180度変わりました! 何と、アメリカ大統領が定めたという「政府指定の終身的経済優遇者」なるものに予告もなく選ばれ、働くことなく毎月百万円ものお金が入ってくるようになったんです。それで今は、きつくて時給単価も安い清掃業も辞め、現在、都内の超高級ホテルの一室を買い取って住み、美人JDのセクフレを大人数ゲット、部屋の前に百人あまりのきれいどころが列をなして並び、私とのSEXに待ちぼうけしているありさまです。食事も、お茶漬けやインスタントラーメンばかりだったものが、今では朝からセクフレ同伴でホテルの高級モーニング、昼は赤坂の高級割烹で高級懐石に金粉を振りかけた寿司、夜は極上ワインにステーキを楽しんでいます。そして毎晩のように夢みたいな3P、5Pです。このブレスレットには心から感謝しております! あなたも私と一緒に不労長者を目指しませんか⁈ と打たれ、名前は「東京都・亀山和男(仮名)・50歳」となっていた。
その下には、見るにうだつの上がらない顔をした男の写真が二つ並び、同様のことが書き連ねられていた。
若くて可愛い女の子と、あんなこと、こんなこととかだったら、つい去年まで間に合ってたよ。村瀬は心で暗く失笑した。
一夜、自分を最低の酒カスへ堕とした、メリットが何もない関係。その関係を綺麗に解いて、自分は、自分の行くべき道へ行こう。喪失の悲しみを越えて。
早由美本人も、娘も、何とかのしようを見つけなければならない。市民の義務に基づいて。
村瀬の肚は、一層決まったが、その時、これまで自分はという人間は、何人の人を助けたのだろうかという思いがよぎった。
金曜から日曜が過ぎ、月曜は、早朝の開店準備から昼までの半日休日出勤だった。退勤し、前原から新京成に乗り、昼食を摂るために京成津田沼で降り、タクシーロータリー前の交番前に出た時、駅から袖ヶ浦方面へ一人歩いていく女を目に留めた。緩いパーマのかかった背中までの髪を後ろで一本にまとめ、ディスカウント調達のような黒いヤッケ、同じく黒の綿のズボンに運動靴という恰好をし、サングラスをかけ、百均で売られているようなトートバッグを提げた女だった。
特徴的な輪郭、鼻、口、髪の感じ、身の丈、歩き方で、その女が早由美であることが分かった。
早由美は銀行とバス停の方向へ向かって歩いていく。彼女との距離が五十メーターほど離れてから、村瀬は、白々しく演出するかのような貧乏を身にまとった早由美を追い始めた。
早由美は銀行脇を左へ折れた。左に折れて、その先に何の省庁があるかは、無論、村瀬も知っている。和菓子店、信用金庫を過ぎ、信号を渡った早由美が、木枠の階段を昇っていく様子を、メーター越しに村瀬は捉えた。
勘が確信に変わった。
中二階の「生活支援課」のプレート札が下がるエリアに、村瀬は来た。奥のブースに座っている早由美の後ろ姿を見つけた。ケースワーカーの男が「医療券をお出しいたします」と言っているのが聞こえた。
ケースワーカーと話していた早由美は、十分ほどののち、頭を下げて席を立った。村瀬は後ろのソファに座り、それを見ていたが、早由美の立席と同時に腰を上げた。
「お待ちでしたらどうぞ」と、ネームプレートを提げた中年女の職員が声をかけてきたが、村瀬は「いえ、私は」と挙手して、早由美の背を追った。
名を呼んで早由美を呼び止めたのは、外の階段の前だった。
振り向いた早由美は、はっと息を呑み込んで、体を緊縮させた。
「こないだは、どうもね」平静を取り繕う声で言った早由美は、作為の笑みを浮かべた。
「入院してる友達の代理人になって、生活保護の医療券、取りに来たの」早由美は引き攣り露わな笑顔で言い、村瀬は、ただ真顔でじっと彼女の顔を見た。それから十五秒ほど経ったが、その間、村瀬は表情を動かさず、言葉も発しなかった。
「ごめんね。これからちょっと人と会わなきゃいけないから。また連絡するから、待っててね。じゃあ‥」早由美は手を振り、来た道をたどろうとした。
「待って」村瀬は早由美の背中に呼びかけた。
「これは悠梨ちゃんじゃないのか」村瀬がかざしたスマホのポルノ画像に、早由美の顔が恐れの色を帯びた。
「娘がこういうことをやってることを、君は知ってるのか。それとも、君がやらせてるのか」村瀬の問い質しに、早由美は恐れの顔のまま、足をバックステップさせた。
「ごめん、急ぐから」早由美は疚しげに言って、スマホから目を背け、階段を降り始めた。
「それだけじゃない。他にも話が‥」村瀬の声を無視した早由美の背中が遠ざかっていった。
村瀬は黒ヤッケの背中を、その姿が見えなくなるまで目で追った。その時、サイレンを鳴らしたパトカーが、千葉方面へと走り去っていった。それがこれからのことを象徴しているように村瀬には思えた。
村瀬の気持ちは、冷静に引き締まっていた。
弁当の昼食を終え、居室でmaybeを聴いていた菜実の所へ、エプロン姿の紅美子がとんとんとやってきた。
「池ちゃん、話、しよ」正座した紅美子が切り出し、菜実は小さく頷いた。
「あの村瀬さんっていう彼氏のことなんやけどな、これからっちゅうもんのこと、池ちゃんは、どんだけ真面目に考えとんかな、思うてな‥」
決して詰問のものではないが、これだけは言わなくてはいけないという芯の通った言葉の気に、菜実は少し押されたようになった。
「怒っとんとちゃうから、そない固うならんで。ただな、私な、心配なんよ」「しんぱい?」「うん‥」
夜が明ける頃に帰りたい あなたの腕に‥ maybeが堪能な日本語で唄い上げる「ミルキーウェイ」が、CDラジカセから流れていた。
「池ちゃんは、あの人と、結婚してもいい、思とるん?」「はい‥」「それ、真面目な気持ちなん?」
紅美子に問われた菜実は、先日まで、誰にも打ち明けるべくもない男との関係を続けていたことの疚しさが疼く思いになった。
今、紅美子に問われていることについては、問いの中身はそのものだった。情けから河合と体の繋がりを持ってしまったが、その関係を自発的に終わらせたのは、自分のために命までも危険に晒し、自分を守ってくれた村瀬への思いからに他ならなかった。
それでもまだ、後ろめたい思いは抜けてはいない。顔に出たその思いを、紅美子は察知しているようだった。
「村瀬さんは、私が前、お参りやってた時、そのお参り、いいくないって言って、やめさせてくれた人なんだ」「お参りて、何か、宗教か?」菜実はテンポ遅れて頷いた。
「男の人と会うと、お金もらえるの。いっぱい会えば、会った分だけ、いっぱいくれるの。すみののりさんっていうんだ。それで私、村瀬さんと知り合ったんだ。村瀬さん、私にそれやめさせるのに、お怪我したの。私が叔母さんにお金送ってたのもやめるように言ってくれたから、私、勇気出して、叔母さんに自分で、お金、もう駄目って言ってきたの。叔母さん、怒ったけど、それからもう私に電話してこなくなったんだ。村瀬さん、私のすごい大切な人なんだ」「そうか。それは、そやろな」自分がまだ知らなかった話を聞いた紅美子は、事情の全てに理解を及ばせた表情になった。それは彼女自身も、幾多の過ちを喫しながら、道を探って生きてきた人生経験を持つからこそのはずだった。
「池ちゃんの気持ちは、私にはよう分かるで。でもな、真面目に考えんとあかんもんは、結果ちゅうもんやで。池ちゃんはまだ若いやないか。せやけど、あん人は、もう五十に手が届いてまう年齢やんか。六十なんて、瞬きするよりも早う来てまうもんなんよ。六十なったら、七十なんてあっちゅう間やて。池ちゃんが私ぐらいんなる頃、あん人は、もうお爺ちゃんになっとんよ。そんでな、介護が必要になっとんかもしれんのやで‥」紅美子の表情が真剣味を増した。
「私、お爺ちゃんになった村瀬さん、面倒見る‥」「それは口で言うほど生易しいもんやあらへんで、池ちゃん‥」菜実は返答に困った顔で俯いた。
「今の村瀬さんもそやけど、そん頃の池ちゃんは、まだ体の自由が利く年齢やないか。まだ、社会ん中で働いて稼いどると思うんよ。せやけどな、一緒の人に介護が必要になったら、どれだけのお金がかかる思う? 施設でお世話してもらうとしても、介護保険の何割自己負担とかも、安くはないねん。池ちゃん、将来、あん人んために、時間もお金もないよな、余裕のあらへん暮らし、送ることになるねんて。私は、これからの池ちゃんの人生が、そないなってほしゅうないんよ。確かに今の日本は、アメリカ、ヨーロッパ並みに保険が発達しとんよね。そん中には勿論、老後に備えるもんもあるよ。せやけど、施設に入るんに必要になる分までカバーでけてへんいうんが現状やで。まだまだ、厳しい高齢化社会ちゅうもんは、続くんやて‥」
菜実は俯いたまま、赤くなった鼻を鳴らし、涙をこぼし始めた。
「今は村瀬さんも池ちゃんに夢中で、自分自身が将来どうなってくちゅうことが、考えられへんようになっとんと思うんよ。自分がこれから相手にかけることになる負担も、見えなくなっとんのや」
酷なことを言った後悔を若干滲ませた紅美子は、ふっと短い息を吐いて、正座を解いて立ち、小箪笥の上に、可愛いコスメ類や、母親が菜実のために買って娑婆に唯一残した魔法少女バトンと並んで、大切そうに額縁に入って置かれている、幼い菜実が父親に抱かれている写真をそっと手に取った。
「お父ちゃんと柏で会ったって、言うとったね。居場所は、まだはっきりとはしてへんのやろ?」紅美子の問いかけに、菜実が、くすん、くすんと泣きながら、スローな頷きを返した。
「探すこと、出来るかもしれんよ‥」紅美子は、泣く菜実に優しい声を降らせた。菜実は泣く声を抑えて、紅美子を見上げた。発赤した顔は涙で濡れているが、その中に驚きと、小さな希望に期待する表情が浮かんでいた。
「多分、柏か、その近くにある法人やね。ちょっと、私のほうで調べてみるさかい、そこから始まるね。お父ちゃんも、きっと池ちゃんと暮らしたい思とるよ」紅美子が言うと、菜実の濡れた顔に明るみが挿した。
「池ちゃんのこと、幸せにしてくれる男の人の縁も、たくさんあるさかいな。それで村瀬さんが不幸になることなんか、あらへんよ」そこへチャイムが鳴り、紅美子が振り返った。
「業者さんが来はったみたいや。じゃ、ゆっくり休んどってな‥」紅美子は残して部屋を出た。
階下から、お世話になっております、という高く愛想の良い男の声が響き、応対する紅美子の声が重なった。
CDラジカセから流れるmaybeの歌声は、遠いdistance、でも心はonlyfit‥という歌詞を泣くように唄っていた。
菜実は、掌で涙を拭い、ずっと洟を啜り込んだ。拙い思考の中に、紅美子によって提唱された未来が、わずかに像を結んだような気がしたが、村瀬とは、このまま別れてしまうのではなく、自分に出来るけじめをつけようと決めた。
求めるものの合致が、年齢、利害を越えて、駆け引きなしの愛を燃え上がらせた関係。それが、未語彙化の、菜実の中にある思いだった。
村瀬の元に早由美からの連絡が入ったのは、その日の十五時過ぎだった。ショートメールで、「谷津まで出てこれる?」とあり、村瀬は行けるという旨と、待ち合わせは改札でいいかと送ると、十六時半でお願いします、と返ってきた。
コーラを飲みながら漫画を読んでいる博人に「早くに帰れるから」と声をかけ、冷蔵庫の中のちらし寿司、それと鍋の味噌汁、先に食ってていいぞ、と言って、家を出たのが十五時半だった。印鑑など、明日の就労継続支援とグループホームの本契約に必要なものの準備は済んでいた。
灰色のビニール袋には、雨の予報が出ているため、折り畳み傘と、あの裏表紙の切り抜きを入れた。
谷津駅の改札で待っていた早由美は、今日は白のセーターにマフラー、サテン地のタック付きスカート、リセ風の靴という姿で、髪を後ろでまとめていた。今日の昼ほど貧乏たらしくはないが、いつもの華美さは抑えたセンスだった。早由美が「見て」と言って見せた、髪をまとめるスカーレットのリボンに、村瀬は見覚えがあった。それは、村瀬が万年筆のお返しにプレゼントしたリボンだった。
「まだ持ってたんだ」「うん。ずっと大切にしてたよ」早由美は答えて笑んだ。その顔は、昔の妹分に帰ったものだった。村瀬の心にも、甘くて酸い、幼く若い昔が蘇ってきた思いが、涌いた。この一ヶ月の間に欲望だけを互いの肉体に抉り込んだこと、今日の昼、薄々とは分かる気がしていた実情をはっきりと見たこと、それにこれから自分が行おうとしていることが、甘美な昔の風に吹かれ、ぱらぱらと散っていくように感じた。
「私の家、来て」早由美は言うと、村瀬の腕を自分の腕に取り、彼を北口へと誘導した。今日の早由美からはコロンの香りはせず、ナチュラルな髪と肌が薫っており、それが昔をより思い出させた。
296号沿いの住宅地に「県営 青木荘」はあった。クリーム色の外壁をした、平屋根の二階建てで、部屋数は八戸だった。二階、階段側から三番目が、早由美の部屋で、「こしば」とピンクのカラーモルタルで借主名が形取られた木製の札が掛かっていた。
「どうぞ」と促されて上がった部屋は、隅々まで整頓された八畳と、奥にもう一つ部屋があり、閉まった扉の向こうから、男性アイドルグループの曲がボリュームを落として流れていた。悠梨がいるようだ。村瀬は眉をしかめた顔で、その部屋のほうを見た。
キャスターの上に置かれている何点かのブランド物のバッグが、部屋に似合っていない。
「ちょっと飲んでから、いつもみたいに楽しもうよ」早由美は小さなリビングで三十年前の顔と声で言い、冷蔵庫から、発泡酒の350㎖缶を二つ、ゲームセンターのキャッチャーのような手つきで掴んで出し、テーブルに置いた。
部屋に閉じ込めた娘を無視して情交を結ぼうということだが、早由美がその娘に何を強いているかが分かっている今は、娘がいるのにか、という問いを投げることは意味をなさない。
村瀬は無言でビニール袋から雑誌の裏表紙をそろりと出し、テーブルに載せた。早由美はプルタブを開け、発泡酒を飲み始めていた。
「これを見てくれ。君に覚えがないはずのないものだ」村瀬が言うと、早由美は缶を片手に椅子にもたれた体を反転させて、村瀬が「東京都の亀山」なる人間として大写しの顔写真で紹介されている裏表紙に目をやり、開き直った顔で、また酒を呷った。
その顔に、悪びれの色は全くなかった。
「それは二日の夜に、君が俺に許可なく勝手に撮った写真だよな」村瀬の問い質しを無視するように、早由美はテーブル上のメンソールを取り、火を点けた。
「これだけじゃない。俺と君が会うようになってしばらくしてから、わけの分からないスパムメールが、多い時で一日二百通余りも送られてくるようになったんだ。それで今日、子どもポルノの写真が何通も来て、その中に、まぎれもない悠梨ちゃんのものがあった。昨日、見せたやつだ」
早由美は、ふん、と笑った。
「君が貴金属商の仕事をしてるなんてことも、真っ赤な嘘だ。海外まで飛び回る仕事をしてる人間が、どうしてこんな月四万程度の家賃で住める県営住宅に住んでるんだ。市役所の生活支援課へ友人の代理とかで行くのに、どうしてわざわざあんな安物を着て行く必要があるんだ。つまり君は、他人の個人情報や、障害児である娘に売春させて、そのポルノ映像や画像を違法業者に売って、生活保護を不正受給して派手な生活をしてるんだ。認めるよな」村瀬は早由美の態度によって心に起こった怒りの感情を抑えながら、問い詰めた。その時、早由美の口が、いかにも擦れた女のそれのような形に開いた。
「勝手だよ‥」「勝手? 自分の勝手?」村瀬の目が呆れて見開かれた。
 「そうだったら、それが何だって言うの? 毎月決まったサラリーと、賞与までもらってるあんたに、私達の立場が見透かすように分かるっていうの?」早由美は手に缶を提げて、村瀬に顔を詰めた。反駁の目と声だった。目には怒りと、自分を囲んできたものへの憎しみの炎が燃えていた。村瀬は、つい三ヶ月前の恵梨香の目を思い出した。
 「杓子定規に無違反の暮らしをしてたって、間尺に合わないことだってあるのよ」「それが俺の個人情報を売って、娘の体を汚い奴らに売り渡して、汚い金を受け取ってることの弁解のつもりか」村瀬は一歩も退かずに言葉を刺した。
 村瀬から圧視される早由美の目から徐々に怒りが引き、代わって悲しみの光がその目に宿り始めた。
 早由美は煙草と缶を持ったまま、項を落としていたが、やがて、娘の部屋のほうへ顔を向けた。
 娘の名前が、間をおいて二回呼ばれた。高圧的な語勢だった。数秒して、襖が開き、煽情的な黒のスリップ一枚の姿をした悠梨が出てきて、とことこと歩いてやってきた。その顔は、晦日に初めて会った時、また、ポルノ画像の一枚と同じように、泣いているものだった。彼女の心が叫んでいることを、村瀬は痛いほど察し取った。
 「お願い。見逃して。これ、抱かせてあげるから」早由美はしれっとした口調で言い、煙草を持つ手で、隣で顔と両手を悲しげに垂らして立っているだけの悠梨を指し、彼女の肩紐を一本づつ外した。
 スリップが足許に落ち、悠梨が乳房と陰毛を露わにした全裸になった。その姿と早由美の顔を交互に見た村瀬は、また怒りを覚えた。
 それはこの女が、娘を買春してその体を玩弄する者達、また、そのポルノ画像、映像を観て、利き手の行為に耽る者達と同列の人間と見なしていると分かったことによる怒りだった。
 村瀬の頭に、自分の右掌が早由美の頬に打ち下ろされる場面がよぎった。想像の中で、村瀬は早由美をすでに殴っていた。だが、それはしまいと決めた。
「いつからこうなっちゃったんだろうな」アイドルグループのダンスチューンが音量小さく流れる、モルタルと板の壁に囲まれた八畳に、村瀬の絶息するような声が悲しく響いた。
「俺の知ってる早由美ちゃんは、頭が良くて、清潔感があって、お母さん思いの心の優しい女の子だった。あの万年筆も、アルバイト代から出して、俺にプレゼントしてくれたんだよね。それで俺も、誕生日に、君が今着けてるリボンをプレゼントした。本当に可愛かったよ、あの頃の君は。それがいつから、こんなことを平然と出来るような人間になっちゃったんだ。いつから、昔に親しくしてた相手まで裏切るような人になったんだ。俺には理解出来ないんだ。子供を亡くしたことは確かに悲しいはずだ。だけど、それでどうして、同じ自分の子供に親の心をなくして、人としてここまで惨いことを強いることが出来るようになったのかが、結びつかないんだ」村瀬は早由美の心に訴えかけるように、優しい口調を崩すことなく、自分の偽らざる気持ちを述べた。
 「もしも私がやってることが惨いことだって言うんだったら、私の身に起こった惨い出来事のことも分かってほしいの」早由美の声が、重く、暗く沈んだ。その声には、迫力が湛えられていた。
 「あの時の万年筆のプレゼントは、私の思いだったんだ。そのお返しに豊文君も、私にこのリボン、くれたよね。だけどそれからも、あなたは私にあれ以上の距離を詰めようとしなかった。私は、距離を置かれてるって感じてた。それが悔しくて、歯痒かった。私は小さい時から豊文君に決めてたのも同じだったんだ。だから、中学から高校にかけて、男子から告白されても、みんな断ってたの。そういう人達に対するけじめをつけるためにも、あなたに告白しようって思い立ったんだ。何度もプレゼンを繰り返して、これで行こうって決めてた矢先だった。私がレイプされたのは‥」村瀬は身を乗り出した。二人の女と一人の男が向かい合う八畳が、ぴしっと音を立てて緊張が張ったように思えた。
  「話して知ってるかもしれないけど、私が通ってた塾は、新京成沿いの鬱蒼とした地域にあったの。授業が終わって、駅まで歩いてる途中、後ろから暴走族っぽい排気音の車が来て、降りてきたチンピラに口、押さえられて、体を担がれて、車に押し込まれたの。それで、畑の丘の上にある、廃屋の家に連れ込まれて輪姦されたの。ペンライトで体を照らされながら」
  村瀬の咽喉が笛のような音を立て、腹膜が蠕動を始めた。お互いの結婚などの事情で遠く離れ、時折思い出していた相手の、自分が知り得なかった話を聞かされた、絶望の色を帯びた衝撃に打ちのめされる思いがしていた。
  「私が家族に話したことで警察が動いてくれて、そいつらは逮捕されたの。被害者は私だけじゃなかったのよ。そいつらは、茨木から千葉で、一人歩きの女の子を狙ってレイプと強盗を繰り返してた、無職の男達だったんだ。その男達は捕まった私も病院で洗浄の手当てを受けた。だけど、私の心の傷は、高校を休学しなくちゃならなくなるまでに深いものだったんだ。私はお母さんに、私がレイプされたことを言わないように口止めしたの。体を汚されて腐った私に、豊文君が興味を失くすことが怖かったのよ。それでも私はあなたのことを思って、慕い続けてたのよ。あなたと結ばれることで、汚れた体が綺麗に洗われて、心に負った傷も自然に消えていくものって、私は考えてたからね。だけど、あなたは、あの外見だけが綺麗な人を選んで、結婚した。私を置き去りにして‥」
  悠梨が座り込み、黒スリップで体の全面を隠し、深く俯いた。
  村瀬は思いを堂々巡りさせずにはいられなかった。その時、それを早由美からそれを告げられたところで、自分に何が出来ただろうか。早由美への憐みから、その男達に怒りと憤りを感じても、あの頃の自分が、喧嘩慣れしたチンピラ達相手に敵討ちが出来たとは思えない。
  あの頃、周りの友達などとのやり取りの中で感じた無力感、街中で不良やチンピラを見かけるたびに首をすくめていた時の気持ちを、つぶさに思い出していた。もっとも、あのハロウィン前からの四ヶ月で、「やらなくてはいけない」「守らなくてはいけない」場面に否応なしに立たされたことで、男としての自信を獲得していったことだけは言える。そうでなければ、居直る早由美を質すことすらも出来なかったことだろう。カフェレストランでの美咲の恫喝にさえすくみ上り、あの知的障害者の女性を助けることも出来なかったわけだから。
  そんな自分のどこに、幼い、若い早由美は惹かれていたのだろうと考えると、それは自分が彼女にとり、優しい兄としての立ち位置だったからだろうと思われる。それが恋心の慕いに変わっていったのだ。この人と歩んでいくなら間違いない、と、早由美は思っていた。だが、村瀬にとっては、早由美はあまりに壊れやすく、かげろうのように儚い存在だった。その思いが、あれ以上、ディスタンスを詰めることをためらわせていたのだ。
  「それから私は、私なりに捕まえる男を練った。それで、東京で開かれたミートパーティに参加して、富山の開業医の歯科医に当たりをつけて、結婚したのよ。それであっちへ渡って、歯科技工士の資格取って、その主人の歯科医院で働いて、その間に、子供が二人出来たの」村瀬の目が、黒スリップで体を隠してうずくまっている悠梨に向いた。
  「だけど、下の子は死んだ。二歳、話したけど、乳幼児突然死症候群。夜中に呼吸が止まって、死んでるのが朝に分かったの。私は夫の親、兄弟から、責任を問われて責められて、それで離婚になったの。千葉では、母がもう末期で、父は病院に泊まり込んでた。それから母が死んで、父も肺をこじらせて亡くなった。離婚の慰謝料は取れなかった。夫の兄が弁護士だったから。両親の死亡保険金は、親類筋にみんな持ってかれて、わずかな額しか私達の元に残らなかったの。それから、私は働く意欲を失った。それで精神科で、心的外傷後ストレス障害と鬱の診断書を書いてもらったら、あっさりと生活保護が下りた‥」早由美は顔を落とした。
  「それがどうして、こんな親としても、人としても外れたことをやって、不正受給までしなくちゃならなくなったんだ」「私には、もう何もないの!」村瀬に問われた早由美は、両手に握った拳を振り上げて叫んだ。目からは涙が溢れ出している。
  「私は、一心にあなたのことを思って、慕ってた! レイプされた苦しみも、あなたがいれば乗り越えられると思ってた! それが糠に刺す釘になった時の私の気持ちが、あなたに想像出来る⁉ その上、子供も亡くして、頼れる人も周りにいない! 障害のある娘を抱えて、毎日が苦労ばかり、それが自分が死ぬ時まで続くんだよ! やってられないよ、お酒と男でもなきゃ!」早由美は涙を振り撒きながら、両拳を振り回し、やがて、テーブルに上体を臥した。
  「俺の知ってる人で、一歳半の女の子を事故で亡くした人がいる。その人は今、悲しみを乗り越えて、立派にやってるよ」背中を震わせ、泣き呻く早由美に、村瀬は言った。
  「早由美ちゃん‥」村瀬は波打つ早由美の背中に手を添えた。
  「ここまでのことを聞いた以上は、俺は君の立場を察するしかない。だけど君は、悲しみとトラウマに負けちゃったんだ。悲しみが大きすぎて、それに人間不信が加わって、心が折れてしまったんだ。確かに、今の君は、親としても人間としても最低だ。だから、今、ここで必要なことは、引き返しだ」村瀬の言葉に、早由美が涙にまみれた顔を上げた。
  「これは、君が愛してくれた俺からのお願いだ。悠梨ちゃんは、こんな酷い親になってしまった君のことを、恨みもしないで親として慕ってるはずだ。その悠梨ちゃんのために、もう一度、親をやり直せ。今、それをやって、ぎりぎり間に合うか間に合わないかの所に、今の君はいるんだ。悠梨ちゃんの画像は、もう拡散されてる。足がついて、親の君に逮捕の手が及ぶかもしれない。娘に体を売らせること、それによる不正受給をすぐにやめれば、君達母娘は、こんな世界から早くに引き返すことが出来るかもしれない。罪を償うことにはなるにせよ‥」
  村瀬はテーブルの裏表紙を、持参の袋に収めた。
  早由美はテーブルに伏して泣き続けている。悠梨はスリップで体を隠して座り込んだままだった。
  彼女は、知的ハンデも持つ自閉系の発達障害で間違いないだろう。だが、忌むべきことに、母親によって福祉的支援から遠ざけられている。その目から視えているものは、以前の菜実同様、暗く凍てついた、悲しみと苦しみだけがある世界だろう。
  「今日、ここに来るまで、俺は通報しようと考えてた。だけど、今回はしない。それは、まだ親としての良心が君に残ってることを信じたいからだ」村瀬はドアのほうへ踵を返した。
  「さようなら。君とはもう二度と会わない」言った村瀬は、ドアへ向かった。早由美が追ってすがってくることはなかった。ドア前でもう一度振り向くと、テーブルに肘を着き、体を震わせて啼泣する早由美と、裸の肩と腰を出して座ったままの悠梨が、悲しい絵になって村瀬の網膜に映った。テーブルの二本の酒缶も、悲しくその残った姿を部屋の風景に溶け込ませていた。
  谷津五丁目の路地に出た時、これから強くなる勢いの雨が粒大きく、路面に染みを作り始めていた。
  思い出が終焉したことの寂しさは、さほどは感じていなかった。それは今回の幕引きが、諸行の無常、または無情に基づいた能捨に過ぎないと、今の村瀬は認識していた。
  強まった雨足が、村瀬の髪と肩を濡らし始めた。村瀬は袋から折り畳み傘を出し、袖を濡らされながら差した。
  雨はたちまち、習志野の路面に、所々、小さな川を形取らせた。
  流れることなく溜まった水は腐敗する。思い出の憧憬ばかりを追い、過去に住む者は、過去に居つきながら老いていく。
  その心に思い出を残した二人の女との関係は、もう、過ぎた時空間の中にしかない。
 傘を差しながら谷津駅近くのコンビニ前まで来た村瀬は、ボディバッグから煙草を出した。買ってからまだ何本かしか吸っていないため、だいぶ中身の残るそれを、ダストボックスに投げ入れた。昨日までの意味のない甘えを捨てたつもりだった。
  汗を流そう。鍛え直そう。雨粒が降る空を仰いで見上げながら、村瀬は決心した。
  「ここに来るようになってから、家でも笑うことが多くなって‥」利用者と、子供達が引き上げた「グっちゃんの庭」で、樹里亜の養母はしみじみと述べた。
  「それでもまだ、本当の親を恋しいって思う気持ちは、心の中にはあるんじゃないかと思うと、児相の判断は本当に正しかったのかな、って思っちゃうこともあって、それで私も引け目を感じてる部分はあるんですよ」「中村さん‥」義毅は、養母に呼びかけた。
  「中村さんと樹里亜ちゃんを繋いだ縁は、あの子の本当の親が、親の機能ってもんを当たり前に持ってなかったってことにあるじゃないすか。生みの親、育ての親、出会った順番は関係ねえ、自分をたまたまこの世に出した人間だって、その人間から思ってもらってなきゃ何の意味もないんす。けど、自分を産んだわけじゃない人間だって、その人間から思ってもらえりゃ、それが本当の親と同意義の存在になるわけっすよ。中村さんは、ご主人ともども、自分達はこの子を育てられるんだ、と思ったから、樹里亜ちゃんを引き取って縁組みしたわけじゃないすか。もっともっと、自信をお持ちになっていいはずっすよ」「そうですかね」「そうすよ」義毅が言うと、四十代の養母は遠くを見つめる目をした。
  「たまたま生まれたことには、さほどの意味はないんす。大切なことは、いかにして育って、人間として成っていくかってことなんで」社屋の前で傘を差した養母に、義毅は述べたが、その顔には自嘲のような笑いが浮いている。いかにも、柄違いの言葉が出てしまったという感じの失笑に見えた。
  「村瀬さんは、以前はどんなお仕事を‥」養母は訊いた。
  「これの前にやってたのは自営です。それより前は、落着性がねえから、いろいろと。サ店の厨房兼ホールだったり、板前の見習いだったり、香具師まがいのこともやりましたよ」「この事業所を、ご自分で興した動機は」「時代に即した事業だからっすよ」「時代‥」養母が考え込む顔をした。
  頭を下げて帰っていく新菜の母であり樹里亜の養母である女を見送った義毅は、オフィスデスクの携帯が鳴っているのを見、取った。兄からだった。
  「昔と今に線を引いたよ。金曜の件だ」「そうか。詳しくは訊かねえよ。堅物のトヨニイなら、おおかた、昔の女絡みってとこか」通話口越しに、兄が頷いた気配が伝わってきた。
  「その前の女はどうしたんだ」「別れを告げられた。でも、まだ思うというか、案じる気持ちはある」兄の口調はしっかりとしていた。
  「良くも悪くも、変わっちまうもんだからな、人は。男も女もさ。それで、これからはどうすんだ。他に再婚でもするような相手のあてはあんのか」「なくはない‥」「そうか。次はしっかりやれや」
 通話を終了した義毅は、出入口のほうを見た。
 「何時間突っ立ってても、同じだ。俺の気持ちは、先月話したのと変わりやしねえよ」義毅が出入口に言葉を投げると、フードを被った松前がよろりと現れた。外の雨足は強みを増している。
 「戻れっつう話以外だったら聞いてやる。来いよ」義毅に言葉をかけられた松前は、踏みしめるような足取りで、デスクの前に歩み出た。
 「荒さんじゃない、もう村瀬さんでしたね。念のため、話しときたいことがあって、今日は来ました」「お前らの話には乗らねえよ」「あいつらが、人身転がしのゴト、始めたんすよ」松前の報告を受けた義毅の目の色が、微妙に変わった。
「表向きは、ウエディングの仲介サービスって体です。けど、実態は、結婚の願望が強い囲い込んでる女達を、地方で第一、第二産業を営んでる家の、嫁の来手がない息子たちに、その親から金を取って嫁にするってゴトです。双方の親が合意すりゃ、法律上まっとうな結婚になりますからね。でも、娘に願望が強いことをよく分かってて、嫁に行かせたい女達の親からすりゃ、協力料って金も発生するし、文句を言う余地もないわけです。買う側は、払ったところで痛みはねえ金で、出しゃばらない従順な嫁を買えるわけだから、奴らには一石二鳥の儲け口ですよ。それでいて、システム自体には違法性がないから、まっとうな収入源になる‥」
 松前の言わんとしていることは、説明なしでも分かる。つまり、売られた女達の身柄を強奪し、救出したという名目で、女の親からいくかばくかの金を取る仕事だ。
 「手伝ってくれないすかね」「断る。俺は来年の六月に生まれてくるてめえのガキを、親父の顔も知らねえ子供にするわけにはいかねえもんでな」「そうですか‥」義毅の拒絶に、松前は体を反転させた。
 「慈善の要素含んでっから、今の荒さんにもそんなにハードルないと思ったんですけど、駄目すか。それに今、組織も内紛で割れてて、もう一丸じゃねえから、だいぶやりやすいと思ったんすけど」「駄目だ」「そうですか。分かりました。でも、一応教えときますよ」松前の顔が改まった。義毅が身構える顔と体恰好になった。
「これは俺の勘も入ってることすから、はっきりとした確証は持てないんすけど、三山の女ってのが、これから利益をもたらすって話をしてるそうです。ただ、今日明日って話じゃないらしいすけどね。けど、何だか俺の頭ん中で、前に荒さんと情報共有した女と被っちまって」「もっと詳しい話は入ってきてねえのか」「今んところは、それぐらいしか」外の空間に光が瞬き、落雷の音が空気を震わせた。
  「まあ、今日は元締の命令とか関係なく、個人的に来たもんで、要請っていうよりは声かけです。こういう動きが向こうの組織ん中で起こってるってことを知らせておきたかったんです。そのついでに、よけりゃって話をしただけなんで、気にしないで下さい。じゃ、俺はこれでお暇します。後片付けとかあると思いますから‥」松前は軽く頭を下げ、出入口へ歩き出した。
  「日中は来んな。利用者はともかく、子供の保護者の目には触れてほしくねえから」義毅は松前の背中に言葉を送った。松前は頷いて、雨の降りしきる屋外へ姿を消した。
  義毅は、「二井原さん」が寄贈した、10号サイズの蝶と少女の絵を睨みながら、煙草を一本抜いて点火し、腹腔に溜めた息に交えて煙を吐いた。
  どうにも落着させ難い思いが、胸に渦巻いていた。今となっては関係ねえ、という思いが沸いては、良心とも何ともつかない気持ちにそれがさらわれる。
  あの時期、俺があの女と会っていたのは、あの女が利用する施設を強請り、あの地下宗教団体に叩きをかけるための情報取りだ。池内菜実は、ネタを取るための生きた情報源、それだけの女に過ぎなかった。
  だが、菜実が兄の無垢なる恋人である、あるいはあったことを裏から掴んで知っている以上は、兄が悲しみに沈むようなことはあってはいけない。
  義毅は、椅子を立ち、蝶々と少女の絵画に歩んで詰めた。絵の中の少女を見つめているうちに、気持ちに傾きが出た思いになった。
  ~新芽~
   中学生以上の一般部は、月曜の十七時半から十九時、土曜日の午前十時から十一時半、未就園児から小学生の少年部が日曜の十時から十一時半、とある。
  「よくぞいらっしゃいました‥」海老川近くに建つ船橋本町文化会館の講堂で、「玄道塾船橋支部」師範代の櫂端は、村瀬に腰を折った。
  今日の村瀬は、ジャージ上下に、タオル、ドリンクの入った袋を持ち、ボディバッグという姿をしている。体験という形で稽古に参加するためだった。
  「いい打ち筋をされていることは拝見して存じていますが、ブランクがかなりおありだと思いますので、今日は、健康体操程度に汗を流してお帰りになるのがいいと思います。まあ、稽古前は、いつもこんな感じでやってます‥」櫂端が手で指す講堂の空間では、下は十代から上は五十代の道場生達が、談笑する者の他、一人で移動稽古をしていたり、型を切っていたり、組んで約束組手の練習をしたりしている。
  「ところで、村瀬さんが昔におやりになっていた会派の教室というのは、船橋とお聞きしていますが」「本当の昔なので、忘れてしまってることも多いんですけど、場所が、南口の、呉服屋などが入っているビルの一階を借りきってやってた、ちば生きがいづくりサークルというカルチャーセンターの、ふなばしファミリー空手教室という所で、練習は楽でした」「そこ、私の親父がやってたとこです」櫂端の表情が神妙なものになった。
  「そうだったんですか。大変お世話になったのですが、就活などが忙しくなって、退会したもので。道理でお名前に聞き覚えがあると思ったのですが。先日、津田沼の飲み屋さんで縁を持たせていただいた時も、何と言いますか、先生のお顔に既視感のようなものを感じたもので」村瀬が言うと、櫂端は遠い目をして、講堂の天井近くを見た。
  「私がこの教室を立ち上げたのは十一年前なんですが、それが親父の最晩年でした。逝く一週間前まで、練習を監督してましたよ。末期のガンだったんですけどね‥」櫂端が遠い目のまま述べ、村瀬が頷いた。
  稽古は予定通り、十七時半きっかりに始まった。ストレッチから始まり、中若の男女十五人あまりが三列に並んで、正拳、裏拳、手刀打ち、内と外の受け、払い受け、前蹴り、回し蹴り、後ろ蹴りを十分ほど行い、それから移動に入った。
  「正拳突きは、針の穴に糸を通すイメージで。蹴りは、大地からの力を体に通すように」櫂端の、厳しくも包容力ある声の指導が飛んだ。
  「受けは崩し! 腰の力を伝えなきゃ、相手を崩せません!」櫂端が指導員格の道場生に右正拳を顔面に打ってもらい、体重を移動させながら、体を沈めて、後頭部に手刀を打ち込むようにして、相手の水月に膝を入れ、腕で制する動きを再現した。
  「崩しながら、打ちます。打ってから崩すという考え方は、当教室にはありません」道場生は、先日の村瀬のように、木目床にずるりと崩れた。
  櫂端は、手首を掴んだ道場生の肘に掌を添えた。「このまま、こうして腕を折るのもあり、こうして‥」言って、なす術なく体を極められている道場生の後頭部に、踵を下ろして寸止めした。「後頭部もありです。ちなみにこれは余談だと思って下さい。ただ、これが実戦というものですので」櫂端が微笑して言うと、道場生の列からも笑いが沸いた。
  移動ののちは、型稽古になった。
  ―玄道塾では、松濤館流をベースに、他三つの伝統流派の長所を取り入れている。型稽古は松濤館系のものを中心に行うが、沖縄古流のものも併せて練習するー 
  当教室では、基本を重んじて、これを中心に練習します、と櫂端が説明し、村瀬が昔に親しんだ平安の初段から四段までが、集中的に稽古された。
  櫂端の父親が師範代を務めていたファミリー空手教室では、言ってみれば漫然と型を舞うだけで、分解などは特に行わなかったが、この教室では、二人一組になって、約束組手のように、師範の指導の下、挙動の一つ一つにどんな意味があるか、これはこういう反撃の動作であるかが教えられる。
  平安の第一挙動である山突きのような構えは、敵を自分の攻撃圏内へ誘い込むためのもの。敵の中段を受け、首元へ手刀。相手の前蹴りを十字受けし、中段を外受けし、敵の手を落としながら、裏拳で反撃。 
  顔面への敵のパンチは、関節を取って前蹴り、そのまま腕をひしぎ、折ることも出来る。
  敵の中段を外受け、首根に手を差し込み、首を持って水月、または金的に膝。
  昔は意味不明と思えた動作の一つづつに深い意味があることを改めて知り、目から鱗の思いになった。
  だが、思えば、一見意味不明に見える動作を、昔にみっちりと修練し、体がそれを覚えていたからこそ、文字通り生命のかかった修羅の場を生存し、今、命があることははっきりと言える。あの、殺気のようなものがまるでない、看板が示す家族的雰囲気の中で行っていたスローな練習にも、きちんと意味があったのだ。
  菜実は今、どうしていることだろう。平安三段を切りながら、村瀬は恋人だった女を思った。
  自分が命をかけて守り、助けた女だが、今、物理的距離はさほどではないものの、心は離れてしまった。その裏には、彼女が痛く同情し、支えなければという義務感を抱いた男がいる。その男は、ここ船橋で一度見ている。確かに、何かの支えがなければ死へとそのまま流れていきそうな男だった。
  ―どうなるかは成り行き次第だが、自分は菜実を忘れるために、この道場の門を叩いたまで―
  村瀬は胸に決め、平安を切った。それから二人一組になっての約束組手、そのあとで時間制の自由組手になった。こちらは今日の村瀬は見学に回ったが、道場生達の動き、技の応酬をよく見て、今後に生かそうと思った。
  最後は、正拳と前蹴りを十発づつ打って、正座で「ありがとうございました」と礼をし、終わりになった。
  「入門を、前向きに検討します。息子も誘ってみるかもしれないです」「そうですか。それは嬉しいことです」村瀬が言うと、櫂端は笑顔を返し、答えた。
  「当塾では、八級からのスタートで、半年毎に昇級審査があります。大人の部は、一回につき、二級飛び越しですので、初段取得まで、平均してだいたい三年ほどです」櫂端は言いながら、移動式デスクに置いた紙にボールペンを走らせた。
  「費用は、だいたいこんな感じです。当塾では、入会金はいただきませんので」渡された紙には、月謝が二千円、年会費が四千円、道着が帯代含めて八千円、スポーツ傷害保険が月百円、とあった。
  「ありがとうございました‥」村瀬が櫂端に頭を下げると、道場生達が一斉に「お疲れ様でした」と返してきた。村瀬は一人一人に向き直って、礼をし、文化会館を出た。
  「博人、お父さんと一緒に空手、やらないか?」円卓で鯖の塩焼きの夕食を親子二人で囲んだ村瀬は、向かい合う息子に訊いた。
  「何? 今日出かけてったの、そういう用事だったの?」「そうだよ。お父さんが、お前と同じくらいの頃に習ってた先生の息子さんがやってる教室に、今日は見学に行ってきたんだ。お前がよかったら、月曜の夕方から一緒に汗流すのはどうかな」村瀬は言って、手元の焼酎ハイボールを啜り、鯖をつまんだ。
  「俺、いいよ」茶碗を手にした博人はかぶりを振った。
  「何でだ。安全性がちゃんと考えられた練習をしてて、先生もそんなにおっかなくないぞ。月謝だって安いから、お前のと二人分、払えるぞ」「格闘とかって、俺、興味ないんだ」答えた博人は、碗の飯を掻き込んだ。
  「お前、冷めてるな。やっぱり今時の若者だよね」苦笑して言った村瀬がハイボールを呷りばな、碗と箸を置いた博人が真面目な目を向けてきた。
  「お父さん、分かってよ」博人の声色には、かすかな抗議の調子が含まれている。
  「俺も周りと同じように、野球だとかサッカーだとか、フットサルとかやりたかったんだ。でも、出来なかったんだから‥」博人の視線が円卓の上に落ちた。村瀬は、今しがた自分の言ったことに心がなかったように思え、詫びの気持ちを覚えた。
  「もしも今から何かやるんだったら、あの頃、出来なかったこと、やりたいんだよ。やっぱり、サッカーか、サルか、そうでなきゃバドミントンがやりたい‥」博人は吐き出すように述べると、またおかずと飯に箸を伸ばした。
  村瀬は反省した。自分が昔に頓挫したことや、自分のよしと思うものを子供に継がせたがる親は少なくないものだが、博人の述べには、彼が幼くして背負ったものが出ていた。
  「分かったよ」村瀬は優しい言葉をかけた。これから自分が邁進すること、息子の希望がはっきりしたことが、心地の良い満ち足りをもたらしていた。「じゃあ、グループホームに入ってから、ゆっくり探すのがいいだろうな」「うん‥」
  一組の父子は、円卓を挟んで優しい思いを交換した。
  食事を終えた村瀬は、寝室として使う部屋へ行き、登録を残していた「二井原愛美さん」の番号へ電話をかけた。愛美は2コールで出るなり、村瀬の名前を呼んで、ああ‥という声を上げた。
  「二井原さん、お久しぶりです。あの時以来ですね」「覚えててくれたのね」「はい」それから通話口からは、言葉になっていない愛美の感嘆が漏れ続けた。
  「あれからどうされてるかな、と思って‥」「私はあのあと、離婚が成立したんです。予備校の講師の仕事も変わらずやってます。それと、自作の絵も、少しづつ売れるようになって、それで娘を養育してます。村瀬さんは、どうお過ごしですか?」「私も変わらずスーパーです。今はレジもやってまして、来月から副店長をやらせていただくことになってます。あの手繋ぎ絡みのことで、これまでいろいろあったんですけど、切り抜けて、元気にやってます」「そうですか」「はい。ところで、あのイベントのあとで、二井原さんの所には、あれの主催者からの連絡などはありましたか」「いろいろあったことをお察しします‥」
  村瀬は気まずく口をつぐんだ。あれから村瀬の身に起こったことの中には、今はまだとても話すことが出来ない内容もある。いや、愛美の無事と平穏を喜びつつ、これまでのことは伏せるべきだろうと村瀬は思った。
  「村瀬さんは私を気遣ってくれてるのよね。だけど、私は、あのフリートークタイムの時に退場したおばさんが言ったことがそのまんまだと思ってるの。その辺りで、村瀬さんと同じ気持ちを共有してるから、大丈夫よ」「二井原さん‥」愛美は優しく笑った。
  「実は私もそろそろ村瀬さんに連絡をする頃合いだと思ってたんです。私の描く絵のモデルになってくれたら嬉しいなと思ってて‥」「そうですか。それは全然お安い御用ですよ」村瀬の顔が心からの笑顔にほころんだ。
  「私は月曜と木曜が休みですが、二井原さんのお休みの土日に有休を申請することも出来ます」「村瀬さんに合わせます。私が月曜か木曜に休みを採るから」「ありがとう。でも、それもご無理をさせるようで申し訳ないから、また電話かメールで相談して決めましょうか」「そうしましょうか。私は全然負担はないから、大丈夫ですよ」愛美が言った時、後ろから反響した、母を呼ぶ娘の声が聞こえた。
  「すみません、ちょっと待ってて。娘がお風呂から上がったので‥」「そうですか。お忙しい時にすみませんでした。じゃあ、また日を改めて連絡します」「分かりました、いつでも待ってます。私は、心から‥」「おやすみなさい」通話を終了させた村瀬は、胡坐の脚にスマホを載せ、ゆっくりと大きく息を吐いた。幸福感が染みてきた。
  日曜の午後は、空は晴朗だが、早くに来た一番のような風が吹き荒れ、南船橋の路面に枯葉が舞い転がっていた。背中を丸めて足早に進行方向へ歩み去っていく通行人の肩と顔には、人生と生活の悩みが満ち刻まれている。
 広大なショッピングモールと敷地を同じくするグランドホテル一階のカフェの窓際席に、紅美子、その向かいに菜実が座り、人を待っている様子を見せている。やがて自動ドアを潜って、小さな白い箱を手に提げた青年が、壮年の男と一緒に入ってきた。
 青年と、体格が良く厳めしい顔をし、少し威圧感のある壮年男は、奥の四人掛け席に座る菜実と紅美子に腰を折り、菜実も紅美子に促されて席を立ち、紅美子のお辞儀に合わせて、ぴょんと頭を下げた。
 「こちらが、かねてよりお話させていただいておりました英才(ひでとし)です‥」壮年男の隣から、英才と紹介された青年が改めて菜実に頭を下げた。そこで紅美子が「池内菜実です‥」と紹介した。
 清潔に刈ったツーブロックの髪をし、彫深の顔にかけた眼鏡が真面目そうな印象を強くしている、クリーム色の肌をした二十代後半の若者だった。服装は、黒のハーフコートに白のマフラー、同じく黒の、幅広のスラックスタイプのズボン、黒の革靴というセンスだった。彼は黒縁眼鏡の奥の目を、信じられないほど美しいものを見ているという風に丸く見開いていた。それでいて、真摯な眼差しだった。一方、菜実の表情、姿勢には憚りと遠慮が見える。
 紅美子に促された菜実が彼女の隣席に移り、壮年男と英才が二人の向かいに座った時、男のホール係が来て、コーヒーが二つとレモンティー、レモンスカッシュがオーダーされた。
 壮年男は名前を島崎(しまざき)と言い、東船橋でNC旋盤の工場を経営している。元々は島崎の妻が、紅美子が大阪から千葉へ出てきた時にいろいろと助けてくれた恩人の関係で、英才は、夫妻の養子だ。 
 「菜実です‥」「僕、英才です」憚りながら名乗った菜実に、英才は明るくはきはきとした名乗りを返した。
 「何歳ですか?」「僕、二十九歳です。これ、よかったら‥」青年は箱をテーブルに置いた。
 「僕が焼いたマドレーヌケーキです。僕、仕事がベーカリーだから」「べーかり?」「パンとかケーキ、生地から作って焼いて、売るお店で働いてるんです」「私、前、船橋のダブルシービーさん。今、こっちの佐々木さんと一緒に、別なのお仕事、探してるの」「就労継続支援ですか? 僕もB2の手帳持ってて、障害の枠で働いてるから、同じだね」英才が言った時、互いが理解された雰囲気の沈黙が席に落ちた。
 英才の手で、薄紙に載ったマドレーヌケーキが配られ、四人の前に置かれた。
 「どうぞ、食べてみて下さい。駿河台のアルカナっていうベーカリーなんですが、糖分をカットして、甘さを抑えたスイーツも大きな売りにしてる店なんですよ。こいつはそこで、特別支援学校を出て、十年ずっと働いてるんです。もう、ベテランの域ですよ」
 島崎がケーキを掌で指して言い、ありがとう、いただきます、という声とともに、四人がマドレーヌを食べ始めた。そこへオーダーした四つのドリンクが来た。
 「こいつは苦労してましてね。小学校の時に、私の親友だった父親を自殺で亡くして、それで母親は心のほうを病んじゃって、今も精神科病棟にいるんです。それで親戚中を盥回しにされて、厄介者扱いされてるところを、うちで預かって養子縁組して、ずっとうちの子として育ててきたもんで。そろそろグループホームへっていうのも頃合だったんですが、真面目さから、ただ働き詰めって人生になっちまうのも寂しい話じゃないか、当たり前の人並みってものの縁はないものかって思ってたところだったものでね」島崎はコーヒーをブラックで啜りながらぽつぽつと述べ、紅美子が相槌を打って菜実を見、手で指した。
 「この子は、深い事情あって、親、両方とも離れてはりまして、うちのグループホームに来たのんは、四年前なんですけど、それまで何の支援も受けんで、一般の枠で働いとったそうなんです。その間に、いろいろ、えらい悲しい思いもしてはったみたいですねん。せやから、年齢的にもちょうどよくて、その悲しみ、汲んでくれはって、お互いを幸せにするような相手の縁があったら思とったんですけどね。それに‥」紅美子の述べに、島崎が軽く身を乗り出した。
 「この子にはあらへんのですよ。他の人に対するマイナス感情いうもんが。自分にどんな酷い仕打ちをした相手も、恨むどころか、同情して、共感して包み込む心を持ってるんです」「なるほど、この雰囲気を見る限りでは頷けますね」島崎は感慨を返した。
 島崎と紅美子が交わす脇で、英才から優しい眼を注がれた菜実が、促されて、リスのように両手で持ったマドレーヌを食べている。菜実が食べ始めたのに続き、英才も自分の焼いたマドレーヌをつまんで食べていた。
 「合うと思いますよ。若い苦労人同士ですからね」島崎の言葉が、紅美子とともにコーヒーを啜る音と、カップがソーサーに触れ合う音に重なった。
 「今日に始まったことじゃないですけど、減らないですね、ネットサイトの情けない書き込みが‥」島崎はコーヒーカップを置いて、心からの嘆きを込めた言葉をぼやいた。
 「匿名で面と名前を知られなきゃいいって思って、こういう考えを持ってるってことを晒しものにしてるんだ、大の大人達が。いろいろ溜まってるのと、よほど無知な奴ら、それと、自分よりも劣ってる相手を探してるような連中ですね。池沼がどうだとか、磯子事件の松下が恰好いいとか、仏教の言葉で言う無明でしかないですよ。恥ってものが分からない。だから、人間性ってものも能力の一つだってことも分からない。人の立場、背負っているものを想像出来ないハンデを持ってながら、それを放置されてる人間が、今になってもたくさんいるってことですよ。そして、そういう人間は、自分の抱える生きづらさを一切認めないんです。それで孤立へ向かっていくんです」テーブルに落ちた島崎の目には、悲しみが見えた。
 「でも、いくら嘆いたところで、私などにはどうにもならないことなんです。聖書の言葉にもあるじゃないですか。愚かな者は、知恵を求めても得られないって。そういう奴らが、この子らよりも自分が優れた人間だって思い込もうとしていることこそ、惨めなことですよ、本当に‥」「そういうんも、変わっていきはると思いますよ」紅美子がコーヒーに砂糖とミルクを入れながら言うと、島崎は目を大きくした。
 「たとえば、発達障害いう概念がようやく世の中に根付き始めたのは、今から二十年とちょっと前ですねんけど、それまでは、そういう子らは、変人ってことにされとったんです。それがたったの二十年で、ここまで啓蒙が進んで、その子らを一人にはさせへんいう考えが浸透しとりますから、十年後にはまただいぶ変わってはるはずですよ。それを願いながら、私達、カンファレンス、アセスメントをやってるものですから‥」
 ドリンクを飲みながら話を交わしたところ、英才は合気道を習っており、来月に初段の試験を受けるということだった。
 四十分ほど話し、席を立つ頃、英才と菜実は、英才が教えながら、ラインを交換した。それを紅美子と島崎が目を細めて見守った。
 「池ちゃんの心次第やで。初めは友達みたいな感じで、それを温めて、池ちゃんの幸せに持ってくんや」紅美子がハンドルを切りながら言った時、菜実は戸惑い半分、嬉しさ半分という顔をしていた。
 「紅美子さん‥」菜実の口が開いた。
 「私、お嫁さん行く前に、村瀬さんにご挨拶がしたいの。お礼も言いたいの‥」紅美子は助手席の菜実にちらりと視線を送ってから、やがて、うん、と低く言って頷いた。
 鬼越ライラック園では、空気の乾燥する冬らしく、火災を想定した避難訓練が行われていた。「調理場から火災が発生しました。ただちに作業をやめ、園庭に避難して下さい」という緊迫した声の放送が流れ、利用者達は職員の促しで口にタオルをあてがい、グループごとに避難行動を行う。放送とともに木工作業の手を止めた恵梨香は、自分がついていた女子に「避難するよ」と声かけし、何人かの女性利用者を引率し、廊下を走り、裏の非常口から園庭に出た。
 園庭には百人あまりの利用者が座り、または職員がグリップを取る車椅子が止まった。恵梨香は作業班の点呼係を任命されていた。園内では、数人の職員が模擬の消火活動を行っている。
 利用者は全員揃っていたが、訓練終了の放送が流れ、避難した職員、利用者が園舎に戻っていく際、今日、恵梨香が担当する一人の女性が、座り込んだきり動かなかった。
 座り込んだままのその利用者の口から、泣き声が漏れている。
 その利用者は名前を加藤(かとう)早苗(さなえ)と言い、年齢は五十手前だが、精神発達年齢は五歳程度で、支援区分は5だ。彼女には、火災のトラウマがある。幼い頃に、大好きだった祖母を火事で亡くしているのだ。
 恵梨香は、まどかを思い出していた。
 「加藤さん、大丈夫だよ。もう終わったからね」髪が普通の男子程度に伸び、ニットを外している恵梨香は、早苗の背中に手を添えた。
 「お祖母ちゃん‥」早苗は座り込んだまま、空を仰いで泣き声を激しくした。泣きながら、何度も祖母の名を呼んだ。子供の頃の出来事だが、彼女には忘れようにも忘れることが出来ないことなのだ。
 恵梨香はしゃがんで早苗を抱きしめ、背中をさすり続けた。
 「何やってんだよ!」列の尾で立ち止まり、振り返った志賀摩耶が怒鳴った。
 「早く園舎に戻せよ。作業時間に間に合わねえじゃん。仲良しごっこやってんじゃねえんだからさ」「すみません‥」恵梨香は詫びると、早苗の両手を取り、「もう終わったからね」と繰り返し、ゆっくりと立たせ、泣き続ける彼女の片手を握り、背中に手を当てて、遅れて列を追った。背中を優しく叩きながら、「怖くないよ」と繰り返した。
 「無欠で、もう二週間だよ」木工作業で、恵梨香と向かい合って座る女の職員二人の話が、耳に入っていた。
 「戻ってきはしないよ。年数重ねてたって、潰れる人は潰れるものなんだからさ。でも、こんなんじゃ、何のために七万もかけて知専の資格まで取ったんだか分かりはしないよね」一人が言うと、片方が頷いた。
 この二人が話しているのは、当然恵梨香も知る四十代の女の職員に関することだった。この職員は勤続十四年で、介護福祉士、知的障害者専門援助員の資格も取得していた。それが半月前から出勤しなくなり、電話、メールにも応答しないということだった。
 この業界では珍しくないことらしいことを、恵梨香はこの二ヶ月で学んでいる。慢性的に人手が足りず、しばしば苛烈なことにバットする上、人間関係も難しく、それが長年勤務した人の自信を挫くことがある。今は自分の心は前を向いているが、いつかは何かで、自分も挫かれる時が来るかもしれない。
 だが、今はひたすら汗を流すしかない。仮に未来の時間がどうであっても。
 休憩の声がかかり、恵梨香は園内の自販機でスポーツドリンクを買い、中庭に出た。いつも恵梨香に嫌味を言う川名が電子タバコを吸いながら、恵梨香をじろりと見た。
 「お疲れ様です」恵梨香は言って頭を下げた。川名は関心なさげに吸口を唇に挟んで、園庭後ろの森林に目を向けた。
 ベンチに座った恵梨香に、電子タバコ片手の川名が歩を詰めてきた。「ねえ」川名の口が開いた。
 「あなた、だいたいどれぐらいの期間、ここにいようって考えてるの?」「自分が学びたいことを、完全に学びきるまでは‥」恵梨香は答えた。
 「その志みたいなものが、せいぜいこの先も続けばいいけどね。あなた、周りの陰口、すごいよ。表立って言われてる以上のこと、裏で言われてるよ。つまり、あなたは施設長からも先輩からも、これから伸びる人材とは見なされていないの。そのわけは、遅いのもそうだけど、利用者との関係構築が、情ばかりに偏ってるから。それが周りの皺寄せになってることは、自分で気がついてる?」「私の仕事が遅いことは、自分でも分かってます。それはこれから気をつけて向上していこうと思います」「そんな向上なんて、あなたにも無駄だし、私達の迷惑なんだよ」川名は抑揚に嘲りを込め、恵梨香は口を結んで、俯いて芝生を見た。
 そこへ施設長の関本が、煙草の箱を片手に来た。彼は横顔に疲労を滲ませて、咥えた煙草に火を点けて吸い始めた。恵梨香がお疲れ様です、と声をかけると、彼女の顔をちらりと見て、愛想なく小さく頷いた。
 「あなたは倉庫で、日がな一日ラベルを貼ってるとか、値札を付けてるとか、食品製造のラインでトッピングしてるとかが合ってると思うよ。そっちのほうが、断然楽なはずじゃないの。もっと自分が楽に生きられる方法を探る気はないの?」川名の声に合わせて、早い一番の風の音が鳴った。
 「それは全然罪じゃないよ。ここは人が入っては辞め、入っては辞めが繰り返される所だけど、その人達だって、やってみて難しいからって判断して次へ身を振ってったわけだから、あなたにもそれはありだと思うのよ。あなたみたいな人がここにいたって、これからも地獄だよ。誰にも相手にされないから、自己判断で仕事を進めちゃ周りを怒らせて、無視されての繰り返しじゃないの。まだ二十歳そこそこなんだから、自分が生きやすい道を見つけることなんて、いくらでも出来るはずじゃないの。それに何? 噂で聞いたけど、あなた、中卒で、五年もの間、無職だったんだって?」
 恵梨香は口をつぐんだ。
 「そんなことが許されちゃうような甘い家に育ってるなら、こんな仕事ぶりでも無理ないね。私は大学が二部だったから、ふらふらしてる怠け者の言い分に耳を貸す気がないのよ。あなただって、さも一生懸命やってるふりをする類いの、怠け者の素養がある人でしょう? だから、怠け者に勤まる仕事を探すのがいいんじゃないの?」「川名さん」恵梨香は言って、芝生から視線を上げて川名の顔を見た。
 「私の仕事は確かに遅いです。まだまだ足を引っ張ってる所も多いと自分でも思います。だけど、私はこの職場に拾ってもらった身なんです。だから、ここで私に出来ることは、拾ってもらった以上、一生懸命やるっていうことだけなんです。ここに来るまで、理由があって、私は荒れてました。だけど、荒れた暮らしに意味を見つけ出せなくなったことと、他人の優しさと、本当の愛を知ったから、汗をかいてお金を稼いで、迷惑をかけて心配させた親にも孝行したくて、ここで置いてもらって、自分に出来る限りの仕事をやらせてもらってるんです。酷いことばかりをやってた私を、ここの利用者さん達は認めてくれて、慕ってくれてます。だから、前に犯した罪の分だけ、情を注ぎたいんです。私がもらった情を、その情をかけてくれた人達にも、ここの人達にも返したい。私がここにいる意味は、そこにあるんです」恵梨香の言葉に、川名は鼻から嘲笑を漏らした。
 「何言ってるの? 定期清掃の段取りもろくに出来ないくせに。利用者が慕ってくれてるなんて、あなたの独りよがりの自己評価でしょう? そんなものは、私達には何の根拠も見えない、あなたの主観だよ。利用者だって、あなたのことを疎ましく思ってるんだよ。あなたはいつも、はい、はいって反射的な返事をして、馬鹿の一つ覚えみたいな、すみませんを繰り返して、他の職員の余計な仕事を増やしてるのよ。それも毎日、毎日。あなたの過去なんかに私は関心ないけど、親云々よりも、一つは自分の仕事ぶりを反省しなさいよ。それが出来なきゃ‥」その時、川名のまくしたてを遮るように、関本が彼女と恵梨香の間に進み出た。
 「川名さん、あなた、今日で解雇だ」疲労による不機嫌を顔にありありと浮かせたままの関本が突きつけた宣告に、川名は蒼白の表情になった。
 「それは何ですか?」「言った通りの意味ですよ。今すぐ帰っていいです」舌をもつれさせて問い返した川名に、関本は付け足した。
 「うちに県からの監査が入って、改善を求められたことは、あなたも知ってるはずだよね。それでもう資金難を言い訳にして、現状だけを維持することは出来なくなったんだ」関本は短くなった煙草を携帯灰皿になすりつけて消した。
 「これから会議を重ねて、職員の待遇や、利用者の生活環境の改善を図ると同時に、これまでもっともらしく外向けに放ってたスローガンを、中身の伴うものにしなきゃいけないものでね。俺の任期は、来年で終わりだ。それまでに、やっておきたいことがたくさんあるんだ。その中の一つに、否定する心、というものの排除があるんだよ‥」川名は驚きに白んだ顔のまま、関本を見ていた。
 「確かにあなたは努力したほうの人かもしれない。それでも、その積み重ねた努力が、誰かを見下す道具になった時、その努力人の実績は、三流のものに成り下がるんだよ。さっき、あなたが村瀬さんに言ったことは、差別の心から出てるモラハラだ。村瀬さんは、俺も事務仕事の傍ら、仕事ぶりを見させてもらってるけどね、スピードはないにせよ、心のある、確実な仕事をしているよ。だけど、川名さん、あなたの仕事は、利用者に対する優しさが感じられない。それを自分では能率重視の合理だと思ってるんだろうけどね」
 恵梨香ははらはらと、関本と川名を交互に見た。
 「これからは、雇用条件も大幅に改めて、人を増やそうとしてるところだ。うちが生まれ変わることが出来るかを賭けることになる新体制の構築に、相手が利用者だろうが職員だろうが、蔑み、差別の心というものは一切持ち込みたくないんだ。だから、あなたは、うちにはもう要らない。今日限り、いや、今、辞めてもらう。休憩終わったら、帰って。ちなみ言っとくと、あなたのほうこそ、食品製造のラインとか、倉庫が似合ってるよ。人間性の汚い中年達が、絶望の未来を背負ったやけくそで、派閥作って、弱い者いじめと弱い者潰しに明け暮れてる世界だからね」
 関本の顔と、最後の言葉には温かみが挿していた。
 川名は眉尻を下げた顔で唇をわなつかせ、関本を見ていたが、やがて顔と肩を落とし、フェンスの囲まれた園舎への道へ踵を向け、丸めた背中の後ろ姿を小さく遠のかせていった。
 「施設長‥」言った恵梨香を制するように、関本は軽く挙手した。
 「村瀬さん、将来的なことの話になるけど、うちの法人で、グループホームを立ち上げる予定もある」少しの間のあとで、関本は言って恵梨香の目を見た。
 「グループホームは、日中部門とはまた違った大変さがあるけど、俺はあなたなら出来ると見込んでるよ。細かい所の目利きが求められるから、あなたにどうかと思ってるんだけどね。もしよければ、考えの中に入れておいてくれたら、と思ってるんだ」「あの、私‥」「もうあなたの中には、自分で気づかない自信が根付いてるはずだよ」関本の声に、吹き下ろされる風の音が重なった。
恵梨香は、風に打たれて揺れそよぐ花壇の越冬ライラックを点視していた。
西習志野の金杉台寄り、斜傾地にある、広さ二百㎡ほどの児童公園だった。左手にはアパート、右手には住宅が並んでいる。遊具設備はブランコが二台、鉄棒があり、衝立の向こうには杉の木の人工林がある。
公園内の杉を背にした白いセーター姿の村瀬が、両拳を胸前に構えた軽いファイティングポーズを取っている。それをスタンドにパレットとキャンパスを固定した愛美が、絵具とテレピンを使い、下描きである「おつゆ描き」を行っている。
「終わった。見て‥」三十分ほどして描き上がった「おつゆ」は、背後の杉と住宅街を含めて、見事に明暗が描き分けられ、締まった表情の村瀬を写実描写していた。
一級と言っていい仕上がりだった。
 「まだ話してなかったね。俺、空手、また始めることになったんだよ」「そうなの?」二人並んでベンチに腰掛け、缶コーヒー片手の村瀬が言うと、愛美は口角の上がった顔で頷いた。
 「そこに至るまで、いろいろと考えざるを得なくなるようなことが、あの時から最近まで、たくさん俺の身に起こってきたんだ。すぐに口にするのも憚られるようなことが含まれてるから、ゆくゆくに話すよ。それこそ、命が的にかけられて、自分の手も罪に濡れるような出来事がね。あの手繋ぎ式は、堅気じゃない世界が絡んでるものだったっていうことなんだ。それで俺は、一人の女の子を守るために‥」「お察ししてます」愛美の掌が、村瀬の手の甲に優しく載った。
「私もあれが、危険な罠が仕掛けられた催しだってことは、会場に入ってしばらくしてから分かったの。だから、連絡先交換の相手を村瀬さん一人に絞ることで身を守ったのよ。あの時、あそこに来てた人の中で、信用して大丈夫な人は、村瀬さんだけだってことが、はっきりと分かってたから。だけど、村瀬さんがあのあとで守った、あの女の子は、とても純粋な子だったと思うよ。私の娘と同じ匂いがしたのよね、あのなみさんっていう名前の子。一生懸命お洒落して、自分を可愛く飾ってたけれど、それにはすごく悲しい事情がありそうな気がしてたのよ」
コーヒーの缶を握る村瀬の力が強くなり、彼は枯れた芝を見つめるように上体をうなだれさせた。
そこへ母親に連れられた幼い女児が来て、立ってブランコを漕ぎ始めた。
「だけど、非力なものだったよ。俺はあの子を、本人の障害がもたらす悲しみからは、結局救えなかったんだ。彼女は、重たい荷物を背負う別の人間を助けるために、俺に別れを告げて去ってったんだ。そこにも悲しみがあったはずなんだ。俺は自分の生活を第一にしなきゃいけない、しがない市民だ。だから、最後まで救うことは出来なかった」
「でも、その子も幸せだったはずよ」愛美は、村瀬の手を握る力を強くした。
「だって、悲しいことばかりの人生の中で、一時にせよ、本気で愛してもらって、命懸けで守ってもらえる経験をして、自分を独りにはしないっていう気持ちを持つ人がいることが分かったんだもの。いいことをしたのよ、村瀬さんは。それはそれで、一つの素晴らしい恋だったはずなんだから‥」「二井原さん‥」村瀬の声に、愛美は小さな頷きを返した。
「あの時、あなたは、仕事の次にこれが好きだって語る俺が見たいって言ったけど、次というか、仕事以上に大切だと思えることが見つかったよ。それは、人を恋して、愛することだよ。俺はあの菜実さんとの関わりで、それが人生の中でかけがえのないものだっていうことを、この齢になって学び直したんだ」「良かった。こういう村瀬さんの言葉を聞きたかったのよ」愛美は言って、ころころと笑った。
二月の風は、先と比べていくらか吹き加減が優しくなり、黄色く枯れた銀杏の葉が、土の上にふわふわと舞っていた。
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