手繋ぎ蝶

楠丸

文字の大きさ
上 下
8 / 13

柏にて

しおりを挟む
~柏にて~
 「串スタンド」という看板を出したその立ち飲み屋は、柏駅西口から徒歩二分の所にあった。隣にはラーメン店や、同じく飲みの店が並んで軒を立てている一角だった。
 菜実が赤の暖簾を潜ると、いらっしゃい、という店主の声が迎えたが、彼女は自分が酒を飲むために入ったわけではなかった。
 土曜の日中だが、この店は昼から開いている。内壁がシックな黒に統一塗装された二十坪ほどの店内には、会話や雰囲気からパチ類でのひと勝負を終えたか、あるいはこれから勝負に臨む者達が串物や刺身、揚げ物、煮込みをつまみ、酒をあおりながら、攻略談義に華を咲かせている。会話によると、北松戸の競馬場帰りらしい者達もいる。置かれた液晶テレビは競馬中継を映し出している。
 フェイクのミンクコートを着た叔母の孝子は、厨房寄りのカウンター席に頬杖をついて、荒んだ横顔を見せて、半分程に減ったサワーのジョッキを前に煙草を燻らせていた。前には食べかけの刺身があった。
 孝子は入ってきた菜実に気づくと、吸口に紅くルージュの付着した煙草を小さな灰皿になすって消して、睨むようにその姿を見た。
 「まだ話してなかったね。ひと月ぐらい前、お前の男、うちに挨拶に来たんだ。お前のこと、くれっつってさ。齢はお前よりだいぶ行ってるけど、なかなかいい男じゃん、あの村瀬とかって‥」瞼を伏せて立つだけの菜実に述べ、孝子はサワーを口に運んだ。
 「喧嘩も強えしな」孝子はつけ加えた。
 「今日、お前呼んだのはさ、弁護士費用とは別の金の話がしたかったからなんだよ。あれはお前が送ってくれた分がもう貯まったからいいんだけど、三つぐらい都合つかないかな」孝子の顔に狡い翳が落ちた。
 「ちょっとパチに入れ込みすぎちゃって、金がねえんだわ。返すからさ、三万貸してよ」孝子はジョッキの取っ手を握りながら言い、赤い色をしたサワーを飲み干した。氷がジョッキの底で鳴った。
 「これ、アセロラハイ、もう一つ‥」孝子は底に氷だけが残った空のジョッキを掲げて、女子の店員を呼び寄せてオーダーした。
 「お金、もう駄目なの。私、あと九年待つ。九年したら、お母さんとまた暮らせるようになるって、村瀬さん、言ってる‥」「何? 私が言ってること、お前疑ってんの?」目を剥いた孝子に、菜実はローヒールの靴底を後ずさりさせた。
 孝子は姪である菜実を、いくらでも騙すことの出来る相手だという前提でものを話している。だが、今の菜実は、村瀬や佐々木紅美子、夕夏と出逢ったことで、わずかながら知恵の光が灯り始めている。菜実と同じく私生児の子供を産み、シングルで養育してきた紅美子とは、菜実は語彙こそ拙いながら、いろいろと深い話をしている。
「何も踏み倒すっつってんじゃねえんだよ。返すから貸せっつってんだよ。三つ、頼むよ」孝子は畳み込むように言い、さっと出てきたアセロラハイをあおり、刺身を口に入れてくちゃくちゃと噛んだ。
「あのお袋が霊感師の脳味噌ぶちまける事件起こして、無期打たれて栃木にぶち込まれてから、鼻水垂らしてるお前の家に泊り込んで、お前の飯とか、便所と風呂の世話してやったの、誰だよ。あいつを栃木から出すために、お前の稼いだ分、プールしてやってたのは誰だよ。お前、分かってんのかよ」孝子は続け、菜実は伏せた瞼を時折上げて、その顔を見た。
 孝子の毒づきには力がなかった。金があれば使うだけ使い、腹が立てば人を殴るという、衝動と感情の赴きだけに任せて紡ぐ生を四十代半ばまでの長きに渡って送り、自身が困っていながら反省の一つもすることなく、障害者の姪にたかってきたつけが、今、回ってきている。
「叔母さんに、もうお金渡せない‥」「何でだよ」「叔母さんが言ってる弁護士のお金って、嘘つきだから」
 孝子の顔に強張りが見えた。これまで自分に従順だとばかり思ってきた知的障害の姪から、事実をストレートに突きつけられた動揺だった。
孝子は強張った顔に、何かの誤魔化しをかける笑いを刻んだ。
「あのさ、悪かったな。あれは方便だったんだよ」言って、ロングのメンソールをもう一本抜き、せわしない手つきでライターを取り、高く伸びる火を先端につけた。
「弁護士費用ってのは、もののたとえ。私がやってる、“銀照の道”の導師がさ、御守護神様に浄財積めば、お前の母ちゃんが出てこられる充てが栃木ん中に出来るって予言と導き、くれたからさ」「それで私のお金、そういうことに使ってたの?」「悪いかよ。うちらの幸せを呼び込むためだよ」孝子は左手首のガラス玉のブレスレットを指で叩いて、凄み返す発声で言い、居直った。
「メジロオースティン、抜きました! 独走です、独走です! しかしハッピーヒカリ、負けじと追随しております! 猛追です!」中央競馬中継のアナウンスは白熱していた。
「三万、貸せよ」孝子は言い、目に威しを込めた。
「お金、叔母さんにもう渡せない‥」「どこまでも恩知らずな奴だな、お前は!」孝子は声を荒らげ、ジョッキを叩きつけるように置いた。孝子の大声に周りの男の客達が振り返り、厨房とフロアの店員達もびくりとなって目を向けた。
「お仕事してお金もらうのって、ご飯食べるためでしょ?」時限爆弾の性格を持つ叔母の目を直に見据えて言った菜実の口調は、刹那、健常の女性が行う問い質しのような、しっかりとした発音に聞こえた。
「私の年金と、私がダブルシービーさんでお仕事してもらったお金、私のお金なの。だから、誰かにあげちゃうの、いけないことなの。叔母さんがこれ以上、私にお金って言うんだったら、私、もう叔母さんと会えらんなくなる」「そうかよ」孝子は歪めたルージュの唇から煙を吐いて、吸いかけの煙草を揉み消した。煙草は中央で折れて、黒いプラスチックの灰皿の中に、くたりと這った。
「行けよ」孝子は菜実を見ず、サワーをあおり飲んだ。菜実は荒みきったその姿を、変えようもないものを見る、諦めの目で見た。
「叔母さんは、お母さんに会いたくないの?」「あんな恥ずかしい女が栃木でくたばろうが出てこようが、私の知ったこっちゃねえんだよ! あいつのために、妹の私がガキの頃からどんだけ恥かいてきたかなんて、分かるはずがねえだろ、お前なんかに! その挙句に、糞とションベンと、生理の始末も自分で出来ないお前の世話まで押しつけて、国に保証されて、ただの服着て、ただ飯食って、ただ風呂入ってやがってよ!」
孝子の吐き捨てに、周りの客達の視線が集中し、出入口近くの一脚テーブルの席で生ビールを傾けていたノーネクタイのスーツを着た二人の男が、「あんな可愛い娘が?」と訝しむ言葉を交わしていた。
「いや、昔は服とか靴で分かったものだけど、今の軽い人は見ただけじゃ分からないよ。美人とかイケメンの上にお洒落な恰好してたりすれば、会話するまでは‥」「いや、行動が不審だったりすることがあるから‥」
半日土曜出勤上がりの会社員風の男達による、どこか興味本位の気が混じる会話を小耳に聞きながら、菜実は赤暖簾のかかる出入口へ足を向けた。暖簾の手前で振り返り見た孝子の後ろ姿は、凶暴性を宿したその性格に反して、小さく萎縮して見えた。
柏駅西口の立ち飲み屋を出た菜実の心に、惜別の思いは特になかった。村瀬から促されていた、一つの自分事を自分で処理した。叔母の命がある限り続くであろう金銭的略取に、自分で幕を引いたのだ。それは稲毛の浜で村瀬から促されたことを受け入れたからだ。彼を介することなく、自分の言葉で縁切りを遂行した。それがどっしりとしたものを気持ちの中に据わらせていた。
自分の尊厳、権利を自分で守った。菜実はようやく、自分を肯定する心を自分で持つことが出来た思いだった。
銀のハミルトンを見て時間を確認すると、十四時を過ぎていた。このハミルトンは、村瀬と出逢う少し前、着ている服は高級だが、横顔にどうにもしようのない寂しさを漂わせた五十代の男から買ってもらったものだった。
菜実が誘導するようにして入ったラブホテルで、男のブリーフを下ろしたところ、彼には陰茎がなかった。二十代で陰茎ガンに罹り、手術で切除したと男は言った。家は中古車の販売業を営んでおり、その上一人っ子であったことから、金に困ったことだけはなかったと言っていた。現在は親の遺した社屋で、従業員も雇わず、一人で業務を行っているとのことだった。
“話をしてくれるだけでいい。せめてハグをしてくれるだけで‥”男のせめてもの要求に、菜実は応じた。男の背中を抱きながら、さすった。
それからほどなくして、高瀬と名乗っていたその男は、県内の河川敷地で頸動脈を切り、自殺した。菜実はそれをダブルシービーの休憩室のテレビのニュースで知ったが、それまで理解出来なかったことが、その時になって瞭然と分かった。
貧しいことは菜実には苦ではなかった。だが、己の心を暖めるものを喪失していながら、ただ、脇に存在するだけという在り様をする金の虚しさを知ったのだ。それでも菜実には、純法の鴨である信者取り込みに己の体を使って身を挺し、そこから出る金、落ちる金にしか希望を繋げなかった。
たどってきた道のひとコマを思い出しながら、まだ昼食を摂っていないことに気がついた。
どこで摂るかあてを定めず、西口のダブルデッキに出た。コンタクトショップのサンプラーがチラシを配り、若い男女が華やいだ笑顔、人によってはクールな引き締めた表情で縦横無尽に、歩き交い、百貨店の電光掲示板スクリーンは、ロングラン公開中のハリウッド映画のPRを流している。手摺の前では、アコースティックギター二本と、手で打ち鳴らす打楽器を擁する三人編成の若者達のバンドが演奏準備に取りかかっており、メンバーの一人が、興味を持ったらしい女子の二人組と話をしている。変わらない、休日の柏だった。
何ということなくその景色を見ていると、若い男が一人、菜実の前に歩み出た。
後ろと揉み上げをさっと刈り、長めの前髪が眉の位置に揃ったマッシュヘアをし、黄土色のチェスターコートに白のマフラーを巻き、黒の幅広のコットンを履いた、だいたい菜実と同年齢くらいの中背の男で、顔は十人並みだが、不細工ではない。
男は、言葉にして言い表せない美しいものを見たと言わんばかりの、息を呑み込んだ表情をしていた。
「あの‥」若者は二重の瞼をした切れ長の目を大きく見開いて、唇を開けて立つ菜実に声かけを切り出した。
「さっき、西口で見て、その、びっくりしたんですけど、あの、いいな‥って思って。すごくいいなって‥」
その一目惚れの告白とも言える若者の言葉かけは、菜実には若干の抽象性を含んで聞こえ、意味を拾えなかったが、若者の目は、明らかに素敵な異性に心を奪われた者のそれだった。
「あの、柏の人でしょうか‥」若者は瞳孔に光を瞬かせつつ、歯切れ悪く、菜実に居住地を訊いた。
「私、お家は前は柏だったんだけど、今、船橋の三山っていう所に住んでるの」答えた菜実の、拙い言葉つきで舌が足りていない返答に、若者はますます萌えた顔をした。
「僕、根(ね)島(しま)健(けん)です。齢は先月、二十六になったばかりです。仕事は文房具メーカーの営業で、我孫子のワンルームマンションで一人暮らしをしてます。突然で本当にすみません、差し支えなければ、お名前を‥」「私の?」問い返して微笑した菜実に、根島健と名乗った若者は、我を失った顔になった。
「私、池内菜実‥」「なみさんですか。漢字はどう書きますか?」「菜っ葉の菜に、木の実の実です」「そうですか。なん‥何だか、美味しいサラダみたいなお名前ですね。ゆ、茹で卵乗っけて、フレンチドレッシングかけて、その、頬張りたくなる‥」
健は顔を濃い朱色に染めて、所々噛みながら、名前から受けるイメージをレビューした。
「もし差し支えなければ、ラインの交換でも‥」「私、ラインとかって‥」はにかみ笑いの菜実が答えかけた時、二人の脇に総勢六人程度の人間達がずらずらと通りかかった。
先頭には普通に冷たい顔をした女、最後尾には、傲然とした表情に態度の、目つきの悪い痩せ型の男がつき、その男女は首からネームプレートを提げていた。
それ以外の四人は、明白なダウン症の青年と、一見すると特に変わった所のない、そろそろ壮年になる年齢の男、整容の行き届いていない髪に、老いと幼さが交わったようなセンスの服装をし、うち一人がよたよたと前のめりになって歩く、だいたい中年域の女性の、男女二人づつだった。
支援員に引率される知的障害者達であり、街中の一風景としては特に珍しいものではないが、菜実の目がその動く絵に引かれた理由に、遠い昔の記憶を引き上げるものがあったからだった。
沈んだ、寂しい横顔を見せて歩く、黒のつばつき帽子を被り、安物の紺のヤッケを着た、利用者とおぼしい五十代の男は、幼い記憶の中にある父親と、顔、表情、歩き方、佇まいと、どこも違う所がなかった。
菜実は追い、何歩か並んで歩いた。間抜けな顔をした健が後ろに取り残された。
 併歩し、自分を見つめる若い女に気づいた男が、反応鈍く顔を向けた。目が合いばな、男はそれが誰なのか、また、女が自分を見つめている理由が分かりかねている顔をしていた。
やがて、その顔に衝撃的な驚きが刻まれた。目が見開かれ、口が、わな、と開いた。
立ち止まった男を置くようにして、二人の支援員、男の他三人の利用者はエスカレーター方向へ進んだ。骨と皮ばかりの非力そうな体をしているが、人間性の不遜さが目つきに出ている支援員の男が振り向き、苛立った目で男を見た。
五十代の男の口は、「な」と発音する形に開かれていた。
「おい、大塚! 何やってんだよ!」支援員が駆け寄り、戻ってきた。何かの不意打ちのような、十数年越しの再会を果たした菜実の父親、大塚(おおつか)洋一(よういち)はこの男よりもだいぶ年長だが、男の態度、言葉つきに敬意はない。
「時間がねえんだよ! あんまし怒らせんじゃねえよ! 行くぞ、おら!」支援員の男は洋一のナイロンヤッケの裾を掴み、家畜を引くように彼の体を引いた。その際、男のネームプレートをちらりと見ると、菜実には読めない漢字と、トゥゲザーハピネス、という片仮名の事業所名が太文字で印字されていた。そちらに目が行き、男の名前は印象づかなかった。
見違えるほど可愛く、美しい大人の女に成長した、ただ一人の子供である長女と、複雑な思いが混じる再会をした洋一は、男に引かれながら、その姿を遠ざけていった。
「お父さん!」菜実は走り、父の名を呼んだ。胸に込み上げているものは、もう生涯に渡って会う縁を失っているとばかり思っていた肉親と、全く思いがけず会うことが出来たという、懐古の感情と、愛しさだった。それが菜実の目に涙を溢れさせていた。
支援員の男が洋一の裾から手を離し、その背中を突くように押した。洋一はたたらを踏み、前へ押しやられた。振り向き、もう一度娘の顔を見た洋一の顔には、見られたくない姿を見られたという羞恥と悲しみが滲んでいた。
やがて彼は力なく俯き、二人の支援員と利用者達とともに、エスカレーター昇降口へ姿を消した。
それ以上父を追わなかった理由は、父の抱えた事情を、言葉には出来ないなりに察したからに他ならなかった。
父が自分と同じ立場にいる人間であることが分かったことは、菜実の心に締めつけるような痛みをもたらしていた。その思いが、無事に命があったことを確認する再会を喜ぶ気持ちを陰に隠れさせていた。
ただ、菜実自身にもわりとはっきりと分かっている事象ではある。自分の母親は、知っている他の子供の母親達とは、着るもの、髪、言葉が違っていた。恵みの家、ダブルシービーの利用者達の家族にも、その人達の子供と同じだと分かる人がいる。これを菜実には難しく、概要を覚え難い言葉で、「いでん」というらしい。
“装いばかりが新しい街 かじかんだ手たちが空へ伸びている 素足に食い込む冷たい残り雪 それでも懸命に空を夢見てる そこへやってくるすました紳士に淑女 嫌味を浴びせて追い立てる”スリーピースのアコースティックバンドが歌と演奏を始めた。
遠慮半分、戸惑い半分の足取りで菜実を数歩追ってきた根島健は、見てはいけないものを見てしまった後悔を顔に刻んでいたが、ものの何分か前に定めた菜実への思いは微塵も変えてはいないと見えた。ただ、反応のしようにはかなり迷っていることが分かる。
「すみませんでした‥」頬に涙を伝わせている菜実に、健は心底気まずそうに詫び、コートのポケットから一枚の付箋を出した。
涙の顔のまま受け取った菜実が見ると、雲をデザインしたブラウン色のその付箋には、090で始まる電話番号と、健のフルネームがボールペンで丁寧に書かれている。
「あの、いろいろと難しい事情がありそうなので、今日はこれを渡していきます。あの、もしよろしかったら、この番号でライン登録でもしていただけたら。直接電話をくれてもいいです。すみません‥」健は言って同時礼で頭を下げ、体を駅のほうへ反転させた。
「逢えて、本当に良かったです‥これが縁になれば、こんなに幸せなことは‥」残し置いて去っていく健の背中を、菜実はまだ実父とまみえ、その状況、近況の一端を知った衝撃が収まらない思いのまま見送った。
頭の中を白濁とさせたまま、エスカレーターを下り、横断歩道を渡り、ハウディモールへ出た。頬に滴り落ちた涙を指で拭いながら、全蓋型のアーケード街である二番街に、さまようように入った。空腹は気にならなくなっていた。
券売制の蕎麦店、ハンバーガーチェーンの支店、大手量販店の「ロビンフッド」などが立ち並ぶ通りを抜け、主に飲食系、マニアックなCDや塩化ビニール盤を扱う「タワード・レコード柏店」などの軒がある角まで歩いたところで、ある光景が目に留まった。
サンタクロースの絵が描かれ、「ナイトパック¥1000」とあるコミック・ネットカフェの看板を持った男と、まだ少年と言っていい年齢の若者が話しているが、その少年の話す言葉には、けばが立っている。看板を持っている男は齢の頃四十前半で、細面の顔に黒縁の眼鏡をかけ、細身の体つきをしている。
その顔を見た菜実は、恐るべき偶然が重なったことにまた驚いた。
看板の男は、五年前、菜実が働いていたパチンコ・スロット店の客で、菜実を妊娠させて逃亡した河合(かわい)浩一(こういち)だった。
生き別れと言っていい父親とまみえ、本来の女なら恨むべき男とまみえた。どちらも、自分を事実上捨てていった男だ。菜実は皆目整理がつかなかった。整理をつけられないまま、絡まれている風の河合を見て、棒のように立っていた。
 河合はコミックカフェの看板を壁に立てかけるように置き、財布を出すと、金髪のフェードヘアをし、耳にはピアス、豹柄のパーカーを着た、推定年齢十六歳といった少年に、抜いた紙幣を一枚渡した。
少年は、聞き取れない声で何かを短く言うなり、脚をしなわせ、河合の腿にローキックを入れた。肉の打たれる音が鳴り、河合の上体が激しくぶれた。河合はただ全てを諦めた表情で、壁に手をついて、眼鏡の奥の目を路面に這わせていた。それを二列互い違いの方向を通行する若者達が、ぽかんとなった目で見遣り、関わろうとする様子もなく、視線を連れの顔や前方に戻して歩き去っていく。
菜実は静かに歩み寄った。河合が菜実の顔を見ることはなく、少年が振り向き、胡散臭げにねめつけてきた。どろりとした目に荒れた肌、常時のものと思われるぽっかりと開いた口には痩せた歯が並び、その顔は愛らしい少年のものではなかった。菜実にも漠然と分かる気がする、中毒者の顔だった。
「人、ぶったり蹴っ飛ばすは、駄目のです‥」菜実の言葉かけに、少年は顔一面に訝しみを刻み、彼女の顔を見ていたが、やがて、ハウディモールの方向へ踵を返し、背中を丸め不逞ながに股の歩き方で後ろ姿を遠ざけていった。
そこで河合が緩慢な動作で顔を上げ、ようやく菜実の顔を見た。その顔に、徐々に驚きが刻まれ、やがて、恐れの色が満ちていった。
「河合さん、菜実です。あの、パチンコ屋さんの‥」「池内さん‥」菜実がまだ涙の気が残る顔で名乗ると、河合は名前を反芻した。
「今、派遣で働いてるんだ。君には本当に酷いことをした。謝ろうにも謝りきれないよ。今日はあと二時間で仕事が終わるから、事情を説明させてほしいんだ」顔を伏せたまま言った河合に、菜実は頷いた。
「池内さんは、今は仕事は何してるの?」「私、今、就労継続支援さんでお仕事してるんだ」「そうなんだ‥」「さっきの男の子は?」「上の息子だよ。今、高一なんだ。いつもああして、俺に金をたかってくる‥」河合の吐き出しは、雑踏の音楽と喧騒に中に溶けて、消えた。
それからコンビニの総菜パンをかじって昼食代わりにし、高島屋やイトーヨーカ堂などをぶらついて、河合と合流した。
派遣元のオフィスが二丁目にあるとのことで、菜実はそのオフィスのあるというビルまでついていった。二階窓に「ハーティ」という写出看板文字が貼られている。
その五階建てビルの前で十分ほど待ち、黒のジャケットにマフラーの私服で出てきた河合は、他の人の耳には入れたくないから、アパートに来て、と菜実に耳打ちした。菜実はそれに違和感は覚えなかったが、少し、負い目の疼きを感じた。その程度の感情しか覚えなかった。負い目とは、無論、村瀬を対象にしている。この辺りで、自分から連絡することもありだと思っていた矢先だったからだ。
河合が現在住むワンルームマンションは、西口を出て二十分ほど歩く明原の水戸街道寄りの場所にあった。借りている部屋は二階の、階段側から二番目だった。
「どうぞ」と促され、パンプスを脱いで上がった部屋は、青のカーペットが敷かれ、隅にシングルのベッド、窓際に小さなテレビが置かれている。西側には低い箪笥と、CD、DⅤDの並ぶラックがあった。猫の額のようなキッチンは光沢が出ていて、衛生管理がきちんとされているようだ。
食卓を兼ねているらしい小さなテーブル前に、河合が隅から取った座布団を置き、座って、と声をかけた。菜実が座ると、河合は冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを出し、コップを一つ用意して注ぎ、まず菜実の前にそれを置き、それから自分の前には缶ビールの500㎖を置いて、菜実と向き合って座った。
「子供は‥産んだの?」互いに一分ほど沈黙してから、河合は目を伏せたまま、菜実に訊いた。
「産んだよ」「今、一緒なの?」「お家で育ててたんだけど、一歳の時、死んじゃったんだ。でも、いつもお写真持ってるから、私、寂しくない‥」菜実は言ってバッグからエルメスの財布を出し、中の写真を抜いて、河合の前に置いた。それは河合との間に出来た夏(なつ)美(み)を、菜実が抱いて、幸せの笑みを浮かべている一葉だった。
それに視線を落とした河合の眉が力無く垂れ下がり、口の端も下がった。河合はしばらくその顔のまま、写真を見つめ続けた。そののち、深く頭を垂れ、菜実から顔を伏せた。
「くだらない身の上話だと思っていいよ。聞いてくれるかな‥」河合は顔を垂れたまま言い、缶ビールのプルタブを引き、喉を鳴らして三、四口、飲んだ。口の端に垂れたビールを手で拭い、そっと缶を置いた。
「いくらかは、話したから知ってるよね。これは俺があの時、君を求めた動機でもあるんだけど‥」河合の声が小さく沈んだ。
「池内さんの障害のことは、あの時もう分かってたよ。だから、少しでも分かりやすいように話すよ」河合は小さな声の中に、自分の罪を贖うような優しさを込めた。
「俺は物心ついた時は、兄貴と二人で親戚中を盥回しにされてたんだ。その中に、お金持ちの家はなかった。だから、穀潰しの厄介者っていう扱いを受けて、その預けられた先の家では散々いじめられた。盥回しの理由は、あとから知ったことだけど、親父が月に十万程度しか稼ぎ出せない人間だっていうことと、お袋が精神障害者だっていうことだったんだ。その噂は学校にも広まって、俺は学校でもいじめられたよ。預かり先の家にも、学校にも居場所がなかったんだ」
河合のその境遇は、菜実はある程度話を聞いて知っている。自分はそこに、自分と相通じるものを感じ取ったのだろう。だから、彼を自分の体に受け入れた。だが、その時の菜実の頭には、その先、というものは概念づかなかった。身籠り、産んだ子供を不慮の事故で失う未来も。その失われた小さな命の代償に、二十万円程度の金が支払われ、道路交通法上のことで法的な咎を問われなかった相手方のいいように示談が締結されることも。
「そこでぐれて不良の道へ行ったところで、気が弱くて腕っ節もない俺なんか、いいとこパシリになれるかなれないかだし、これといった物事の才能もないから、何で発散していいのか分からなかったよ。何度、自分の生い立ちを呪ったか分からない。だけど、努力はしてみたよ。そこで、定時制高校で学びながら、新聞屋で働いたんだ。学費を自分の稼ぎから捻出してね。定時制を出たあとは、公団を借りて、兄貴と二人で住み始めた。だけど、兄貴が、勤めてた食品工場の仕事を辞めて、働かなくなって、俺の稼ぎだけを当てにするようになったんだ」本格的な地獄の始まりを語り始める河合の口調は、昔のことを話すだけというように淡々としていた。
「兄貴はその頃から、日がな一日中煙草を吸って、ゲームと漫画にかじりつく暮らしを送るようになったんだ。就職を探してくれと何度もお願いしたけど、そのつど、不景気だからどうだとか、世間が俺を認めないとか何だとかって理屈を言って、腰を上げる様子がなかったよ。だから、俺が兄貴を養う形になったんだよ。新聞屋の稼ぎで大の男二人分の生活費なんて賄えないよ。まして兄貴の煙草代とか漫画代までさ」
河合の話は、菜実には所々難しく、所々が呑み込めたが、難しいなりに伝達してくる重さと影のような暗みに引き込まれる感じがし、手元のジュースに手がつかない。
「それで街金から金を借りたんだよ。二十万程度借りるつもりだったのが、百万、押し貸しされたんだ。新聞屋じゃ配達も集金も、拡張もみんなやってたけど、怖い筋の人の相手もしなくちゃいけなかったりして、すごいストレスだったよ。血便も、血尿も出てたんだ。血の混ざったうんこと、血のおしっこだよ。その上、借金と、働かない兄貴まで抱えてね。その先行きが見えない不安とストレスが、俺をテレクラ遊びに走らせたんだ。そのテレクラが、本当の地獄の始まりだったんだよ‥」河合は目を固くつむり、唇を噛んだ。
「てれくれ?」「そう、テレフォンクラブ。男が個室に入って、置いてある電話機に、女が電話をかけてくるのを待つっていうシステムのお店で、携帯やパソコンが普及する前は、全国にたくさん店があったんだ。あとから出てきた出会い系とかに押されて、だんだん数が減って、今はもうほとんどないはずだけどね」「お電話、するだけのお店なの?」「男は寂しさを紛らわすことで、女は男をからかうことが目的で利用することがほとんどだったと思う。待ち合わせ先に来た男を遠くから見て、その男の見た目を馬鹿にして笑いものにしたりとかね。だけど、その時の俺は、自分の相手をしてくれる女さえ選べなくなってる状態だったんだ。それで、同じ歳の、働いてない女に引っかかったんだけど、その女は‥」河合は缶ビールを取り、数口ほどあおった。
「その頃、ちょうどよくって言っていいのかは分からないけど、兄貴が死んだんだ。多分、糖尿病だったんだと思うんだけど、肥満が進んでて、心臓が肥大してたんだ。それで朝、寝た状態で死んでてね。その日のうちに斎場を手配して、火葬して、お骨は無縁墓地で預かってもらったのね。遺骨を部屋に置いとくのも嫌だったからさ。それから、俺はそのテレクラの女と、借金を抱えたまま籍を入れたんだ。奥さんは働こうとしなかったよ。俺がいくらお願いしてもさ。そればかりか、俺の要請には切れを返してくる有様だった。家事もほとんどと言っていいほどやらなかった。それで俺が必死で働いて借金を返してる二十八の時に最初の子供が出来て、三十の時に二番目が生まれたんだけど‥」
 声を抑えた一身話と、小さな吐息、合いの手、短い質問だけが交わされる静寂の中で、河合が座布団から腰を上げ、菜実の隣に移動し、座った。
 「女から暴力振るわれる男の気持ちって、池内さんには分かるかな‥」河合は語尾に溜息を交えた。菜実は隣の河合の顔を見た。
 「これは本当に屈辱で、悔しくて、悲しいものなんだ。男のプライドとか誇りを、ぼろ雑巾みたいにされるんだよ。俺は結婚したすぐあとから、奥さんから汚い言葉で罵られて、いいように用に使われてて、その頃から軽く蹴られたりしてたんだけど、二人目が生まれてから、まるで容赦のないパンチ、キックを、俺の顔面とか腹に食らわしてくるようになったんだ。それで、成長した子供も奥さんの言葉、行動を真似し始めて、俺を馬鹿だとか爺いだとかって罵って、俺を殴る蹴るするようになったんだ。それでも俺は、その奥さんと子供二人を養った。料理も、普通レベルの掃除も出来ない奥さんの代わりに朝食や夕食を作って、子供を公立の小学校にも通わせてね。子供は外でも暴力や窃盗をやって補導されて、何度俺が被害者側の保護者や警察に頭を下げて謝ったか分からない。本当に、生き地獄だった‥」河合はひとしきり吐き出すと、天井を仰いだ。その目には、涙の光が見えた。それが菜実の胸にも裂くような痛みをもたらした。菜実には分からない語彙もふんだんに混じっているが、耐え難いものを背負った河合の不幸な出自、境遇はよく理解出来た。それが菜実の涙も誘った。
 「俺には、趣味と呼べるものがこれと言ってない。子供のころからずっと追い立てられてて、そんなものを作る余裕はなかった。それで、世間一般の楽しみとは何だろうって自分なりに考えて、とりあえずパチンコとスロットを始めてみた。そういう時だったね、新柏の“アイドル”で、従業員だった池内さんと会って、デートするようになったのは‥」河合が菜実の顔を見、手の甲に自分の掌を重ねた。
 「何度も言うけど、君には罪深いことをしたよ。謝って済むことじゃないよ。実は君から赤ちゃんが出来たことを打ち明けられた時、駆け落ちも考えたんだ。だけど、その時になって、臆病風に吹かれたんだ。これが奥さんや、背中に竜を彫った恐ろしい義理のお兄さんに知られたらと思うと、恐ろしさで頭の中が一杯になってしまったんだよ。それで気がついた時は、君の番号を着信拒否設定にしてたんだ」河合は大きな溜息を吐くと、瞬かせた目から涙の筋を落とした。
 「河合さん、まだ奥さんと、結婚してるの?」目に涙を滲ませて尋ねた菜実にも、語彙的に他の言葉があることが全く分からないでもない。「別居」は分かるようで分からない、または分からないようで分かる気もする。だが、訊く言葉は、表現としては大袈裟なものになった。
 「別居してるんだ」河合はまさにその時菜実の頭に思い浮かんだ言葉を、呟くようにぽそっと答えた。
 「親戚だとかって向こうが言い張る男が、去年から上がり込んでる。それで家を出て、今、こうして一人で暮らしてる。それを機に、新聞屋も辞めて、今、派遣で働いてる。さっき見て分かっただろうけど、息子達がああして金をたかりに来るんだ。もうどうにもならない。俺の人生がどうしてこんなに苦しいのか分からない。多分、正式に離婚する勇気も持てないまま、息子達のたかりもこれからも続くんだと思う」「河合さんのお父さんとお母さんは?」「親父は生きてるかも死んでるかも分からない。お袋は、県外の精神障害者の入所施設にいるみたいだよ」言った河合は、菜実の肩を力に任せて抱き寄せた。菜実はその行い自体には戸惑いは感じなかったが、それを許している自分に罪の意識を覚えた。
 菜実の体が押し倒され、深く思いつめた河合の顔が真上に来た。白く部屋を照らす天井のシーリングライトが、菜実の目にはどこか悲しげに見えた。
 「俺には分からなかったんだ。人並みっていうものの、当たり前の温かさが。あの時、君と出逢ったことで、やっとそれに触れることが叶ったんだ」河合はビブラートのように声を震わせながら、菜実のセーターをたくし上げ、ブラジャーを外してそばに投げ置き、露わになった乳房を両掌に掴み、胸に顔を寄せて乳首を吸い始めた。河合の手に掴まれて揉まれ、口吻部に押された両方の乳房が歪み、形を変えた。
 「お願いだ。君に出来る限りでいいから、時間がある時に俺のそばにいてくれ。今の俺には君しかいない。頼むよ」言葉の節目を区切るようにして、河合の唇と舌が菜実の乳房を貪った。
 やがてスカートの裾がまくり上げられ、パンティの中に差し入れられた指が陰毛を搔き分けた。
 河合を憐れむ気持ちが胸を刺す中、村瀬の優しい笑顔と、自分への労りが海のように深く伝わってくる掌の温かさが思い出された。それでも、知恵が思いつかない。河合という、連鎖的な不運、不幸の中に浸かって生きてこざるを得なかった、血の気が少なく優しい性格が幸せを約束しなかった男に、抱かれることを含めた寄り添い。それ以外のものは。一切。
 「待ってて。ピル、飲むから‥」菜実の小声に、河合は一寸動きを止め、そののち肩を掴み、菜実の唇を自分の唇で塞いできた。体を降り重ねた河合の肋骨の向こうからソニックされる早打つ鼓動を胸に聴きながら、菜実は、自分の気持ちをさらう出来事、再会劇が重なった今日のことを思い出していた。
 なお、ダブルデッキで自分を捕まえ、唐突な愛の告白をしてきた根島と名乗った若者のことは、河合に舌を挿し入れられている今は、全くと言っていいほど印象の中にない。
 小さなテーブルの上には、さほど遠くない日の母娘の写真と、手つかずのオレンジジュースが置かれたままになっていた。そのテーブル脇で行われている、連鎖する罪を象徴する行為を傍観、あるいは俯瞰するように。
 ~父娘の共時~
 レジ研修は四日目を迎えていた。真由美を始めとするレジ中心に勤務するスタッフが、隣に村瀬を立たせて見本を見せ、次に村瀬にやらせてみせる。その合間にメモを取る。
 村瀬は機械の類いを操作するのは得意ではないが、特に真由美が親切に、分かりやすく教えてくれるため、だいぶ要領を掴み、呑み込めてきている。
 千葉の簡易裁判所で八ヶ月の実刑判決を言い渡され、上告することもなくそれを受け入れ、検察職員に肩を押されて扉の向こうへ消えた美咲を傍聴席から見送ったのは、つい三日前のことだった。
 これでいい、と思うのみだった。美咲には、何らかの咎、罰を受け、自分でものを考えるプロセスを経ることが本人のためになるし、子供とも離す必要がある。もっとも恵梨香は自分の育った環境から自ら離れていったが。
 しばしばバーコードが読み取れず、エラーになってしまうことには悩まされたが、真由美がコツを教えてくれた。それでもこの調子では、五日間の研修も無事終了し、一人立ち出来そうな案配だった。
 十何日か前、この店に恐喝を仕掛けただけではなくレイプ未遂のような強制猥褻まで働いた吉富とその仲間の男を撃退し、吉富の子供達も救った村瀬の頑張りに、常連客達は目と声で声援を送り、村瀬は礼を返した。
 今、博人のみが残る公団の部屋は引き払いの手続きが済んでおり、彼の荷物が何点か村瀬の家に来ている。団地の家を引き払う準備は、父子と義毅で行った。義毅の嫁については、早く顔が見たいという気持ちが高まっていた。市役所へ行き、博人、恵梨香の籍を父親の籍に戻す手続きも終わった。
 早番シフトのため十七時で退勤した村瀬は、商店街の中華料理店でラーメンと小炒飯の夕食を摂ってから電車に乗り、京成では大久保で降りた。手に持つクリアファイルには、菜実宛てのクリスマスカードが挟んである。
 三山の「恵みの家」の前に着いた時、時刻は十八時前になっていた。
 チャイムを押すと、インターホンから中年の女の声が応答した。村瀬はまず名前を名乗り、池内菜実さんはいらっしゃいますでしょうか、と問うた。それから、ボブヘアに赤や緑のメッシュを入れ、剃刀のピアスをした五十代の女が顔を出し、きっと睨む目で、菜実との関係性を短く訊いてきた。
 村瀬が、お付き合いをさせていただいている者ですが、と偽らずに答えると、ちょっと待って、と西日本訛りを残し、やがてトレーナー上下姿の菜実が現れ、キタキツネの笑顔で村瀬の前に立ち、村瀬も笑顔を返した。半月以上ぶりに見る菜実は、頬の丸味が増し、少し太ったように見えた。それが従来のエレガントキューティに愛嬌を加えていて、村瀬は彼女を抱きすくめたくなる気持ちを覚えたが、ここでは抑えることにした。
 「これ、クリスマスカード‥」村瀬が差し出した、サンタクロースと、後ろ足で立ち上がったトナカイがゴーゴーのようなダンスを踊り、音楽の楽譜が一面に舞っている緑地のカードを受け取った菜実は、「わあ‥」と小さく歓声を上げた。
 「イブには少し早いけど、今週、土曜日が午後休みで、日曜に有休を摂ってあるから、会おう‥」「うん‥」「前の日ぐらいに電話で、待ち合わせ場所とか、決めよう」村瀬が言った時、菜実の目が上がり待ちに落ち、その顔から笑顔が引いていった。固く結ばれた口は、何かの打ち明け難いことを奥に溜めているように見え、目には涙の気配がある。
 愛する自分が、あのまま去ってしまうことなく、約束を守ってこうして現れたことの喜びが極まったことによるものか、それとも別の理由があってのことなのか、村瀬には分からなかったが、再会を喜んでくれていると解釈することにするしかなかった。
 菜実が顔を上げ、涙を押し込んだ笑顔をまた作って、村瀬を見た。村瀬も笑顔で、彼女の肩に手を添えた。
 「元気にやってるようで良かったよ。ちなみに俺、今の職場で出世するんだ。詳しくは、会った時に話すよ」村瀬は言うと、菜実は「はい‥」と答えた。
 菜実とハイタッチをし、失礼します、と奥に声を送ると、先に応対したパンキッシュな中年女が出てきた。
 「池ちゃんのいい人のお方でっか。だいぶ齢行っとるようですけど、大丈夫かいな」歯に衣を着せない女の問いかけに、村瀬はかすかな戸惑いを覚えたが、少しテンポ遅れて「大丈夫です」と返答した。
 「齢は関係ないなんてよう言われますねんけど、相手方が極端に若かったりすると、いろいろややこしいこと、出てきよるさかいな。おっさん、あんた責任取れるんかいな」女の言葉はきついが、口調はさほどは詰るようなものではなかった。
 「責任は、取ります。ここまで来たからには‥」村瀬の答えに、少しの呆れを滲ませた女の顔色は変わらなかった。
 「こんなに誰よりも綺麗な人に、責任を放棄するなんて‥」村瀬は言い、女に同時礼をし、菜実に手を振り、踵を大久保方面へ向けた。菜実は村瀬から渡されたクリスマスカードを豊かな胸に抱き、女と二人並んで立って、村瀬を見送った。
 朝の予報通り、ささやかな粉雪が、陽の落ちた大久保商店街の街路にはらはらと舞っていた。雪は村瀬の肩に落ち、白く貼りついた。村瀬は駅までの道中、空から雪を受けながら、先ほど菜実が見せた涙の顔が気になる思いになっていた。それが純粋な喜びによるものだったか、それとも、こちらには言えない何かのリグレットを込めていたのか。
 それを詰めて考えようとした時、たとえごくわずかでも、菜実に対して疑りの気持ちを持ちかけている自分が嫌になる心地になった。
 一つの居間、一つの八畳部屋、キッチンを擁する、庭を含む広さが三十坪ほどの家の食卓に出された今日の夕食は、サニーレタスとポテトサラダが添えられたハンバーグ、麦飯、わかめと大根の味噌汁だった。お味噌汁と、麦ご飯のお代わりあるからね、と、早瀬(はやせ)裕子(ゆうこ)は優しく声をかけてくれた。恵梨香はぎこちなく頷き、まず、味噌汁に箸をつけた。テーブルの真向いには裕子のただ一人の娘である美(み)春(はる)、その隣が裕子という位置だった。
 美春は中学二年生だが、身長が恵梨香の胸の辺りまでしかなく、小さな体に反して頭部の大きな体の形をしている。軽くシャギーの入った肩までの髪は、二ヶ月毎にお得意の美容室へ行き、カットしてもらっているという。彼女は幼稚部から高等部までの学部がある特別支援学校の中等部の二年に在学しており、何かにつけて口にする「ああ、もー」が口癖で、表情はいつも明るく、よく母親の裕子に「おバカ」と言う。
 一週間前の夜、バンドエイドとガーゼで顔に傷の手当跡を作った、泣き顔の恵梨香が来た時には、やった、美春、お姉ちゃん出来た! と叫び、小躍りして喜んだものだった。その彼女に対し、恵梨香はまだ表立って愛想は見せていないが、一方的と言っていいほどの懐き、甘えを見せ、芸能人やスポーツ選手のことなどで質問攻めにしてくる。
 あの夜、鱈の和風ムニエルの夕食をいただいた時、裕子は恵梨香に、箸の持ち方を、優しいがどこかぴしっとした言葉で指摘した。恵梨香の箸持ちは、箸の先端部近くを鷲掴みのような手つきで握るもので、実は母親の美咲がこういう持ち方をしていたのだ。母親は自分のその箸持ちを直さず、子供のそれも正そうとしなかった。
 正された箸持ちで、まだ戸惑いのようなものを隠しきれない面持ちでハンバーグの食事を口に運ぶ恵梨香に、斜め向かいの裕子が微笑みかけた。美春は、キッチンシザーでカットされたハンバーグに顔を寄せ、笑顔で、恵梨香の顔を凝視加減に見ながら食べている。
「私はあなたに、お金の援助は出来ない。だけど、あなたがここを巣立つまで、ご飯とお風呂、洗濯、お布団を協力することは出来るの」微笑みの顔のまま裕子は言い、美春の口許に付いたデミグラスソースをティッシュで拭った。
 「集中して食べなさい」裕子は美春に言い、頭をぽんと叩いた。
 裕子が言ったことの見通しなどは、今の時点ではまだ全く立っていない。それは裕子の自己犠牲によって新小岩の少女ギャングによる暴力から救出され、尋常にはあり得ない温情を受けているだけの今には。
 「見て話して知っての通り、私は訪問介護事業所で主任ヘルパーをさせてもらっているのよ。仕事は楽じゃなくて、体は辛どいけど、利用者さんとその家族の方達に喜んでもらえることが、何よりもの心の報酬になってるの。だから、この仕事は辞められない‥」箸と茶碗を手に俯く恵梨香に、裕子は述べた。
 「私は元からシングルなのよ。この子を一人で産んでから、養うために今の業界に入って、もう十四年目だけど、最初の頃は大変だったよ。よく、日報の書き方のことで厳しい注意を受けてたからね。今はかなり力が抜けたけど、初めの二年くらいは毎日汗だくだった。この子を保育施設に預けながらね」裕子が言うと、ポテトサラダを口に入れた美春が、ふうーん、と甘えた声を出し、母親の肩に頭を摺りつけた。
 「私は、あなたに自分と相通じるものを見たから。私、昔はこんなじゃなかったのよ。その頃の私は、自分が子供を育ててるなんてことすら想像出来なかったからね。本当に、酷いことばかりを積み重ねてたから‥」裕子は漏らすように言い、美春の頭を肩で受けたまま、食事に箸を通した。恵梨香もうなだれて、ハンバーグを口に運び、味噌汁を啜った。美春はメロディを成していないハミングのような声を出しながら、笑顔で母の肩に頬を摺り、慕いの目を恵梨香に向けていた。
 「林檎切ったから、食べない?」貸し与えられた六畳の部屋で何をすることもなく座っていた恵梨香に、裕子の声がかかったのは、入浴も済んだ二十時過ぎだった。恵梨香はその声かけに声や言葉で反応することもなく、居間に来た。居間の円卓には皮をピーリングされて六等分された林檎が、ヒメフォークを刺されて皿に盛られていた。バラエティ番組が映っているテレビの前では、ヒメフォーク刺しの林檎を持った美春が座り、笑顔で体を前後に揺すっている。
 その時、皿の縁に載っている木目柄のフルーツナイフに、恵梨香の目が吸いつけられた。
 「利用者さんが分けてくれたの。ちょうど今が食べ頃の、青森のふじりんごだって‥」裕子の言葉かけをスルーするように、恵梨香の目はフルーツナイフに注がれていた。
恵梨香がそのナイフを取った時の手つきに造作はなく、その目には憎しみが燃え、閉じられた口許は殺意に吊り上がっていた。
フルーツナイフの柄を握った恵梨香は、座って体を揺すっていた美春のパジャマの襟首を掴み、刃渡り120ミリの刃身を、彼女の喉に当てた。それを目の前にした裕子の顔色に、驚きや怒りのようなものが挿すことはなかった。ただ涼しい眼差しで、娘の喉に刃物を当てている恵梨香の目を見据えているだけだった。
「茶箪笥に金が入ってることは知ってるよ」低く潰した声の言葉が、口角の吊り上がった恵梨香の口から発せられた。後ろのテレビの画面は、強い毛根を育てる、サードからフォーエイジへのファンタスティック・スーベニールというナレーションが流れるメンズヘアトニックのCMが映っている。
「茶箪笥の金をありったけと、あと、銀行の通帳と銀行印、出せよ。でないと、このガキ、命ないよ」恵梨香の瞼が据わり、口許には嘲り威す笑いが刻まれていた。
「お前が何気取って、私にこんなお世話焼いてんだか知らねえけどさ、お前だって信用出来ねえんだよ。もっともらしい自己犠牲を演じて、それに自己陶酔してさ、最後は自分が神様、仏様の位にありつけりゃそれでいいんだもんな。みんな一緒だよ。お前も、その辺歩いてる気取った面した奴らも。私の親父も。私のことなんか、何も分かっちゃくれやしねえんだよ」
喉元にナイフを当てられている美春の表情には、これから命を奪われるという切迫は覗えなかった。笑顔でもなく、怯えている風でもなく、ただ表情を抑えた、落ち着いた顔をしているだけだった。悲鳴のようなものを上げそうな気配もまるでない。
裕子も、いささかの動揺もなく、首元に刃物を突きつけられた娘と、憎悪に憑かれた顔の恵梨香を見ていた。
「今から頭ん中で三十数えるからさ、そのうちに出せよ、金と通帳と印鑑。三十切ったら、この国庫資金食い潰し虫のガキ、お前の目の前で死ぬことになるよ。脅しだと思ってんなら、本当に三十秒待ってみろよ」恵梨香の声に、一層の凄味が籠った。「私はユニオンに戻るんだ」
「ここに来た日の最初と、さっきも言ったはずよ。私はあなたにお金は渡さないって」言った裕子の声には、怯みも力みもなかった。表情にも、大きな動きはない。立っている姿も凛としている。
「このガキが死んでもいいの?」「殺して、その先があるって思えてるんだったら、やりなさい。その代わり、娘だけじゃなくて、私のことも殺して、お金を持っていきなさい。そうすれば、そのお金を使いきる前にあなたがどうなるかは、あなたは本当は分からないはずがないでしょう? その子は、全てを悟って死んでいく。私も同じよ」「うるせえ、糞婆あ! さっさと金出せよ!」
 美春も裕子も、表情に一切の動きを見せなかった。美春はあたかも何も起こっていない、自分の身にも何も差し迫ってはいない、という風の顔をし、裕子は静かに涼然と、恵梨香の目を見ている。体の動きにもぶれはない。後ろのテレビは能天気な音声を流し続けている。
「どうしてこんなことが言えるのかっていうとね、この子は、私の子として生まれた以上、この子自身が一生落とせない因業を背負ってるからなの」「そんなこと知ったこっちゃねえよ」
恵梨香は美春を突き飛ばすように離すと、両手で柄を握ったフルーツナイフの先端部を自分の喉元に当てた。目にはまだ、赤黄色をした劫火の憎悪が燃えている。
「お前みてえな、さも篤志家気取りのナルシストには一生かかっても分かんねえだろうけどさ、まだ生理も始まってない私の体にさ、毎日毎日、二番目の親父と、その仲間の汚えおっさんが何人も乗っかって、写真と動画撮られて、まだ子供の体で、二回、腹のガキ始末したんだよ。みんなで飯食うとか、あったかい風呂とか、そんな世間並みの幸せなんか、聞くだけで吐き気がするだけなんだよ。私の居場所なんて、このガキみたいな寄生虫駆除するユニオンしかねえんだよ。それが許されねえんだったら、今、ここで死んでやるよ!」恵梨香は叫び、フルーツナイフの先端が喉の皮膚を押した。
そこへ下から掬うように回された裕子の手が、フルーツナイフの刃身を掴んだ。恵梨香が柄を、裕子がブレード部位を取ったフルーツナイフは、裕子の力に押されるようにして恵梨香の顔脇に移動し、やがて、半円を描いて恵梨香の腹の位置に下がり、その動きを止めた。
みるみるうちに裕子の指の間から血が湧き出て、手の甲と母指球を舐めて、カーペットの上に滴り落ちた。
「いい、よく聞いて‥」裕子は小さな呻きを吐き出してから、額に脂汗を光らせ、言葉を継ぎ出した。その目には、苦痛を堪えているための赤みが差している。一週間前に煙草の火を受けた、同じ右手だった。
「少し話したから知ってるよね。私は神奈川の出身で、理由があって、三十年前にこっちに移り住んだの」裕子はこめかみから顎下に向けて何本もの脂汗の筋を引いて落とし、荒い息を吸い吐きしながら語り始めた。
「その理由は、人の人生を殺すよりも惨いやり方で奪ってしまったからなのよ。その時、地元は元より、日本全国に知れ渡った事件だったの。あなたも聞いたことがあるかもしれない。藤沢アベック強姦致傷事件。まだあなたは生まれてない頃。私はその事件の主犯の少女Aなの」
恵梨香が顔を上げて、裕子の目を見た。
「あなたは今、初めて自分の過去を私に話してくれたよね。実は私も一緒なのよ、あなたと」
 裕子を睨む恵梨香の目が、かすかに丸くなった。
「その事件のことは、こっちの人達の誰にも話せない。こんなことが知られたら、私達はここを追われることになるから。あの時、神奈川を追われたのと同じようにね」裕子の声が低く落ちた。彼女の手からは、鮮血が滴り続けている。
「私の親は、両方とも、働く意欲にも意思にも乏しい人達だった。それでも賃貸アパートの家も維持出来てたし、私と兄は、ご飯は値の張る店屋物の鍋焼きうどんとか、お寿司とか、レストランのステーキやフルーツパフェが食べられた。父と母はほとんど働かないのに、毎日昼からお酒を飲んでた。ギャンブルもやって、居酒屋さんとかカラオケスナックに行ってた。そのわけは、私がその親に強要されて、その頃のロリータ物、今の言葉で言う児童ポルノに出演してたからなのよ。つまり、子供の私が歪んだ性癖を持つ男達に体をおもちゃにされるビデオに出て、そういう性欲にアピールする裏グラビアのモデルになることで、父と母と兄を養ってたの。どんなに美味しいものを食べさせてもらっても、美味しいと感じたことは一度もなかった。むしろ味がしない感じがした。撮影場所はラブホテルだったり、私の家だったりした。その中では、複数の男を相手にしなくちゃいけないこともあった。学校にも行かせてもらえないで、太った中年の男達とカメラの前でセックスをさせられる日々が続いた。それで自分の親を含む大人っていうものが根から信じられなくなって、十代に入ってから不良の道に入ったんだ。中学に籍だけがある状態でね」
裕子の声は這うように落ち、脂汗に濡れた顔は目、口の端が鬼面のように吊っていた。
「家出して、声をかけてきた何歳か先輩の人が親類名義で借りてるマンションに転がり込んで、他の学区の男子や女子の不良と寝泊りするようになったの。その先輩はまだ十代だったけど、暴力団の若頭の愛人だったのよ。それで、その先輩から、相手の鼻や顎、鳩尾の急所を狙う喧嘩のやり方を教わって、繁華街の街中で男女混合の仲間とつるんでシンナーを吸って、目に留まった人を誰彼構わずぶん殴ってたの。目が合ったっていうだけで殴ったこともあったよ。必要なお金はみんな、恐喝と路上強盗で工面してた。警察なんか舐めきってた。補導されたところで、せいぜい簡単な調書を取られて説教されて終わりだから。喧嘩じゃ、私は殴らせなかった。一方的に殴るだけだった。もう、身も心も、どこまでも徹底的に腐ってやろうと思ってた。自分なんかが何を頑張ろうが努力しようが、世間並みの人間にはなれはしない、人の奥さんになって、妻として、母親としての喜びを得るなんて人生は人のものだと思ってたから。それで、あの夜、私達が蛇行運転する盗難車にクラクションを鳴らした車に乗ってた男の人と女の人は、運が悪かった。それで人生そのものが生きながら断たれて、死を選ぶことになるなんて、想像してなかったんだと思う。本当に‥」フルーツナイフのブレードを握りしめたままの裕子の声は、涙気を湛えて震えた。
隣に座る美春が母親の過去をどの程度知っているのか、または母親が語っている話にどこまで理解を及ばせているかは分からない。だが、据わった目を前のキッチンに向け、言葉をつぐんでいる様子には、ある種の達観的悟りが覗える。まだ、またはこれからも自分自身が経験し得ないであろう地獄を知っているように見える。
「クラクションを鳴らしたその車を、私達はパッシングして幅寄せして停めて、中から男の人と、少しお腹の大きい女の人を引きずり出した。私達は男が三人、女が私を含めて二人だった。私達はその人達を海岸にさらった。車はそこに置き去りになった。海岸で、まず、私達はその人達から金目のものを奪って、それから裸にした。“彼女は妊娠してるんだ。彼女だけは助けて下さい”って、男の人は懇願したよ。だけど、シンナーでらりってブレーキが壊れたみたいな状態になってた私達に、その懇願は余計に残忍な衝動を与えただけだったの。それで、男三人が、その男の人の目の前で、女の人をレイプしたの。男の人は、その恋人の名前を何度も叫んで泣いてた。レイプが終わってから私達は、その男の人の体を浜辺に組み敷いて、サバイバルナイフで、その人の性器を切断したのよ。私が切ったその人の性器を、私は海に投げ捨てた。ひっ立たされて、それを見せつけられてた女の人の股の間から、血が流れ出して、小さな赤い塊が落ちたの。その人は流産したの」裕子の目から涙が粒大きく流れ出した。

「車道に打ち捨てられてた車と、目撃者の証言に私達の特徴があって、それからすぐに足がついて、私達は逮捕されたの。事件は大々的に報道された。被害女性は強姦の上に流産、男性は体の一部を切断されたって。だけど、その時の私は何の良心の呵責も感じてなかったし、むしろ服役で箔がついて、そのあとは暴力団の幹部の二号にでもなって悠々自適とした暮らしを送ろうと考えてたのよ。だから、裁判待ちの勾留中に国選弁護人の人から、その男の人が自殺したって聞いた時も居直っただけだった。それで裁判で実刑を言い渡されて送られたのが、地獄の中の地獄って呼ばれて、誰もが恐れてた女子少年刑務所だった。そこでは、娑婆の気を抜くため、いじめやリンチを刑務官が見て見ぬふりをしてたから。いや、それどころか煽ってたのよ」
裕子は血濡れの右手に力を込めた。恵梨香の目からは先まで燃え盛っていた憎しみの火が鎮火の様子を見せ始め、恐怖の色が浮かび始めていた。美春は変わらず、自分の周りにあることは、それが過去であっても未来であっても、自然体のまま受け入れるという風の表情を保っていた。
「私はそこの雑居房で、同じような粗暴犯で収容されてた連中から、来る日も来る日も、少しの加減もない集団暴力の集中的な的になったのよ。あの人達にやったように、裸にされて、膣に異物を挿入されて、食べ物じゃない物を口に押し込まれて、何度もお腹を殴られて、髪を掴んで引きずり回されたの。顔も蹴られて、胸も殴られたんだ。私はただ泣いて赦しを乞うことしか出来なかった。喧嘩で一度も怖いと思ったことがなかった私が。それで精神錯乱にまで追い込まれて、何回も自殺を図っては、保護房と雑居房を繰り返し出たり入ったりするようになって、医療少年院送致になったの。その頃になって、やっと分かったのよ。酷い境遇を理由に道を踏み外して、自分が持ってた考えの浅はかさ、私達が嚇して殴る蹴るしてた人達が味わってた、プライドを滅茶苦茶にされる悔しさと恐怖、それにあの夜、何の罪もない人達に私達がやったことがどれだけ恐ろしいことだったかを」
裕子は泣いていた。語れば語るほど、己の罪を認めざるを得なくなるという、悔恨の涙に見えた。恵梨香は固く俯いていた。他者の話など一度も真面目に聞きはしなかった彼女が、ようやくそれを心で聞く機会を得たという感じだった。
「五年程度の短すぎる懲役が終わって出てきた時、私は二十歳を過ぎてた。家に帰ると、親も兄も勝手に引っ越してた。それで伯母を頼って千葉に来たの。それから私は、私が性器を切って自殺へ追いやった男の人と、流産させた女の人の家族に会いに行って、これから賠償金を支払い続けることを直接約束したのよ。男の人のお父さんは、“約束を守ってくれればいい”とだけ言った。それで私は今も賠償金を払い続けてるの。美春の養育と、その賠償金のために働いてるようなもので、自分の楽しみに使うようなお金はないのよ。それで私の親も兄も、今どこにいるのか、今生きてるのか死んでるのかも分からない。だけど、もう一生会わなくても異存はないの。ただ、私をぽんとこの世に出したっていう、それだけの関係性の人達だから。戸籍の上だけの親よ」裕子はブレードを握ったままだった。
「この子は、愛を育んで出来た子供じゃないのよ」裕子は美春を手で指した。
「三十半ばの時、行きずりの人を捕まえて作った子供なの。あんな行きがけの非道な行為で、人の人生そのものを奪った自分が人並みの幸せな結婚なんてものを求める権利はない。だけど、子供は育てなくちゃいけない。何故なら、昔の自分がやったようなことを絶対にしないし、そういうことを許さない人間を一人でも作って育てなきゃいけないっていう気持ちを持ったからなの。赤ちゃんポストの子との養子縁組も考えたよ。だけど、これは血を分けた実の子でなければ意味がないって思えて、たまたま街にいた人に声をかけたのよ。それで生まれた子は、あなたも見て知っての通り、障害児よ。そしてこの子、美春は、自分には父親がいないことを恨みもしないで悟りきってる‥」裕子は涙を袖で拭った。母親の発した自分自身を表す名称に反応するように、美春が裕子を見た。恵梨香の目も美春に向いた。美春を見た恵梨香は、裕子の顔に視線を戻した。
「あの時、新小岩で見て見ぬふり出来なかったのは、暴力を振るわれてたあなたよりも、暴力を振るってた側のあの子達だったの。これはまさに昔の私だけど、暴力以外の自己主張を知らない人は、何も持ってない人なの。自分も他人も愛することを知らない人達で、自己肯定心がないの。中身も、これと言った取り柄もないのよ。それで大切なものを何も持たないまま、遅かれ早かれ、いつかは誰かの暴力で滅びていくものなの。そんな人生に追いやられる人達を、私は一人でも減らすきっかけの人になりたいの。だから、これから保護司になろうと思うの」「ほごしって何?」恵梨香が目を丸めて問うた。
「罪を犯した人達の更生のサポートをする、非常勤の国家公務員。でも、ボランティアの位置づけだから、必要経費の支給はあるけど、給与は出ないの。刑務所を出た人と月一で面談して、社会復帰を手助けするのよ」「へえ‥」恵梨香が返した相槌には、微弱な興味が覗えた。
「暴力が格好いいっていう考えに染まっちゃって、惰性でずるずるそういう考えを改められないでいて、自分も苦しみながら人を傷つける生き方を送ってる人を、一人でも多く助けるお手伝いがしたいのよ。それだけじゃない。そういう人の手にかかって、人生を奪われる人達も出したくないの。私はこれからも祈り続けるよ。あの可哀想な男の人の冥福と、あの女の人が、最近やっと手に入れたって話に聞く幸せが、これからも続くことを。あの人達の悔しさと悲しさと絶望が、自分が暴力を振るわれる側になって、骨身にこたえて分かったから‥」
恵梨香の手がフルーツナイフの柄から離れた。裕子も握っていたブレードを離した。血に濡れたフルーツナイフが、ぽとりと落ちた。
「ママ‥」美春が立ち上がって、裕子の腰に抱きついた。裕子は美春の肩を抱き、頭に損傷していないほうの手を載せた。右手からは、まだ血が滴っている。
恵梨香の顔からは、すっかり憎しみの色が失せていた。間違いのない何かを、人生で初めて理解した顔だった。
「あなたがこれまでの人生で味わってきた恐怖も悲しみも、悔しさも、怒りも、私にはよく分かるよ。新小岩で、私はあなたが一番訴えたいことをすぐに理解出来たから。手に取るみたいにね」裕子が言って、箪笥の上に置かれた救急箱に足を進めた。滴った血がカーペットに吸われた。それを美春が仔鴨のように追った。
裕子の血が落ちたカーペットの上に、顔から表情の失せた恵梨香が座り込んだ。やがて、焦点の定まらないその目から涙が流れ始め、上体を伏せた彼女の口から、細く小切れた泣き声が上がった。
土曜、菜実は白のミドルコートに花柄のフレアスカートのウエア、ワインレッドのローヒールパンプス、茶のバッグを持った姿で、大久保駅の改札前で村瀬を待っていた。変わらない明るい栗色にカラーリングした髪は、後ろまとめでサイドを編んでいた。村瀬と顔を合わせると、すぐにキタキツネの笑顔で微笑みかけてきて、黒のショートコートを着た村瀬も笑顔を返し、すぐに互いの手を取った。
新京成に乗り換え、北習志野で降車、ロータリーからバスに乗り、北欧の童話作家の名を冠した広大な公園施設へ来た。ゲート入口で、村瀬は数百円の入場料を支払い、菜実は療育手帳を提示し、無料の入園となった。
大きな鉢に生けられた赤いサルビアやパンジーに挟まれた通路を渡り、噴水の前を左に折れた所にあるフードコートで、二人でラーメンとケバブの昼食を摂ってから、食休みをし、南の方向へ歩みを進めた。他の来園客は、親子連ればかりで、休日の家族サービスに疲れを滲ませた顔の父親と、そんな大人の事情に関せずにはしゃぐ子供達がいた。
「まだ話してなかったことを、いろいろ話さなきゃいけないんだ。その上で決めてくれたら‥」ゾーン間を結ぶ長さ100メーターの橋を渡り、その作家のブロンズ像の立つ通りを過ぎた頃、村瀬のほうから話を振った。
二人で、頂に三羽の白鳥が戯れ、円盤から水が溢れる噴水の広場のベンチに腰かけた。広場の脇には、デンマークの国旗が下がる赤壁に三角屋根のヒュッテがある。
「俺にもう成人した子供が二人いることは、話して知ってると思うけど‥」言った村瀬に、菜実は隣から彼を見上げながら、小さな頷きを返した。
「実は、十五年前に別れた俺の元の奥さんは、いろいろ問題のある人で、今、刑務所に服役してるんだ。その人との間に出来た、上が女で下が男の二人の子供も、ちょっと訳があってね」語りかける村瀬の顔を、菜実は受け入れを前提としたような顔で聞いている。
「娘は、こないだ家を出ちゃってね。息子は、こっちに呼んで、近いうちから一緒に住むことになるんだ。ゆくゆくはグループホームみたいな所に入ることになるだろうけどね。どっちも事情から、これまでよく見てやれなかったこともあって、娘も発達面の遅れがまだそのままになってて、息子も軽いハンディキャップを持ってるから、息子に関しては、弟の奥さんが間に入って、これから支援機関とやり取りしてくれるみたいなんだ。菜実ちゃんが通ってるA型みたいな所へ通うようになるかもしれない。これまではよく説明が出来なかったけど、俺の身の回りはそんな感じなんだよ」村瀬は菜実の手の甲に、自分の掌を重ねた。
「これまで俺はずっと、この先菜実ちゃんとどうするかについて真面目に考え詰めてきたんだよ。報告すると、俺、これから出世するんだ。今、働いてるスーパーで副店長になるんだ。そのあとは年収もぐんと上がるし、そうすれば、一緒になる人をお金の面でも楽をさせてあげることが出来る。だから、もしも菜実ちゃんが良かったら、俺はいつでも菜実ちゃんに指輪を渡せる。出来れば、俺は菜実ちゃんと一緒にいたいんだ。これは菜実ちゃんには、ゆっくり考えてもらいたいんだ。こっちの家族の面倒事の負担は、菜実ちゃんには一切かけないよ。息子は複雑な環境で育ったわりには、優しくてまっすぐな性格をしてる。だから、母親とは縁を切らせるつもりでいる。息子は菜実ちゃんにもすぐに馴染むと思うんだよね。俺の家族の話は打ち明けづらかったけど、隠しごとは良くないし、知ってもらう必要があると思って話したんだ」村瀬が菜実の手の甲を掌で優しく叩きながら言うと、村瀬を見上げている菜実の口が、何かを言いたそうにぽっかりと開いたが、開いた口は、それを封じるように閉じられた。
「今日と明日一日とで時間があるね。ゆっくりしよう」村瀬が笑って言うと、菜実は一寸何かを考える顔を見せてから、はい‥と答えた。表情は、笑顔ではないが暗くはなかった。だが、言葉をつぐみ気味の様子や、その表情に、何か打ち明けることが難しいものを抱えているような翳りが、村瀬には見えた。それでも彼は、愛する相手と会えたことによる幸福を心に感じていた。
洋花の生垣と、ソメイヨシノやヒマラヤスギの並ぶ歩道を、掌から体温を伝え合いながら歩き、日本の農家と同じく藁葺の屋根を持つ復元のデンマーク農家家屋、チューリップに囲まれた風車の中に入り、樹林の中の散策路に入った時、村瀬は菜実の肩を抱いて、彼女の目を見た。
私の気持ちは変わらない、と訴えかける目が、村瀬を見上げ、見つめてきた。村瀬も同じ気持ちをふんだんに込めた目線を、菜実の胸に伝えるようにまっすぐに送った。二人の腹の前で上下に組まれた二つの手は、皮膚だけではなく心の温かみを伝達し合っていた。周りに人気はなかった。村瀬は勃起の兆しを体に覚えながら、右手を菜実の乳房にそっと載せた。それからその手を菜実の肩に回し、彼女の唇に自分の唇を重ねると、すぐさま舌が挿し入れられてきた。舌の温度は熱を帯びていた。その熱には、悲しみが籠っているように思えた。村瀬もそれに応え、菜実の舌に自分の舌を絡めた。遊び疲れないうちに家に戻ろうと思った。
ヒュッテが並ぶ丘沿いの一角で、サンタのコスチュームを着た女性スタッフ達が手持ち看板を掲げ、体験はいかがでしょうか、と声をかけていた。クリスマス菓子やクリスマスキャンドル、デコパージュを作るワークショップを開催しているようだった。村瀬と菜実は、二人で吸い寄せられるようにして、子供が目立つ客にまぎれてヒュッテに入った。
二人でやってみたところ、切り抜いた花や動物イラストを星型の小さな皿に貼り、ニスを塗る作業が、菜実は上手かった。手つきが器用なだけでなく、センスもいい。初めて家に泊めた時、食材を切る手つきに健常の女の子と比べても遜色のない上手さを見たが、これが彼女の能力の一つなのだと、今日の日にまた思えた。それとは別の特色があるとすれば、生き抜くための根性だ。スタッフが見守る中、すごいね、と村瀬が素直な気持ちで褒めると、菜実は面一杯に喜びの笑みを浮かべた。先に菜実の様子を見て感じた悲しみの翳りは、その時にすっかり薄れていた。村瀬はそれを決して詮索しまいと思った。そのデコパージュ皿を、二人は買った。
「今、スタッフさんが変わったグループホームはどうかな。こないだ会ったおばさん、なかなか面白い人だね。何て言うか、パンクロッカーおばさん‥」花を編み合わせてハートを形どったアーチの前で、村瀬は菜実に問いかけた。
「あの人、佐々木紅美子さんっていって、大阪の河内っていう所から来た人なの。教えてくれたのね。昔、バンドのグルーピーっていうのやってたんだって。今、三十歳の息子さんいるんだけど、その息子さん、バンドの人の子供なんだって。でも、結婚しないで、ずっと一人で育ててきたって言ってる。前は、お爺ちゃんとお婆ちゃん見るお仕事してたんだって‥」村瀬は納得した。人を扱う業務は、勿論、人にもよるだろうが、正直一辺倒の人がそう長く続けられるものではない、とイメージづいた。場所や状況によって過酷な場面に立たなくてはいけない仕事であるからには、肚の据わった、知力があり、思考の機転を効かせることの出来る人が欲せられるものだろう。だが、今も現場の人手不足は解消されず、そのため、資質に乏しい人間を無作為に雇い入れるから、福祉施設の不祥事件が相次いで報道される事態になっている。それは当然の流れだ。不祥事が発生する施設の施設長クラスや、現場リーダークラスの人間が士気を喪失し、それがその下で働く職員にも伝播しているからだ。それがあの「磯子りんどう園」のような忌まわしい出来事へと繋がっていく。だが、菜実の住む恵みの家のように、それが何かで変わる場合もある。それこそが繋いでいくべき希望だと思う。
「そうだ」村瀬はハート型のフラワーアーチに目を向けたまま、低い声を発した。
「菜実ちゃんを最初に送ってった時に、菜実ちゃんがホームに入ったのと入れ違いに、派手で、目つきとかがおっかない男が出てきて、暴走族が乗るみたいな車で去ってったんだけど、あいつは何だったの?」村瀬の問いに、菜実は表情を沈めた。
「あの人、前のホーム長だった古谷さんが入れてた人‥」「そうか。やっぱりホームの職員じゃなかったんだね」「うん。ホームで煙草吸って、お酒飲んで、やくざの映画とか、エッチなビデオ観てたの。あの人が来る時、私も他の子達も、六時ぐらいに寝なくちゃいけなかったの」
村瀬は不快を覚えた。その不快は、はっきりとした怒りを含んでいた。古谷とは、菜実が他の利用者たちと乗る送迎のマイクロバスをつけた時に見た、何かを品定めする目つきが地のものとなっているような下顎前突症の女で間違いないと思われるが、その女がいなくなった今、あの気っ風を持つ佐々木という女が、あの男の出入りを許しているとは思えない。
「まさか、今も来てるとかっていうことはないよね」村瀬が訊くと、菜実が小さくかぶりを振った。
「社長さんのお友達の、荒川さんっていう人が、もう来るなって言ってから、来てないよ。だから、今、私達、十時まで起きてられるんだ。それで、歌もドラマも観れるんだよ。その荒川さんって、私、前から知ってるの。柏で、私が女の子達にぶたれそうになってる時、助けてくれた人なの。その時、私のこと助けないで見てたお兄さん達に怒ったんだよ」菜実は明るい目と声で淡と語った。
「そうなんだね。だけど恵みの家も、なるべきことになったよね‥」相槌を打った村瀬は、しばし黙して、その荒川という男が何者かという考察した。
菜実の話からは細かい要領は得られない。だが、体制側か、法に背く者か、徹底的にどちらかの両極端であろうという答えしか、村瀬の思考中枢は導きださなかった。たまたま菜実と、村瀬の知らない恵みの家の経営者と知己の人間であった、逮捕権などを持つ人間が警告したか、あるいはその反対側の渡世に生きる者が、そもそもそれが生業の物騒な手段を用いて、二度と恵みの家に近寄るなと威したか。だが、それはどちらでもいい。外から見ても、利用者の生活環境に劣の字がついていると分かるホームが変わったのだから。村瀬には、それでいい。
そこで、まさかとは思いつつも、村瀬の頭に、目の据わった狡い笑いを刻んだ義毅の顔が浮かんだ。それは自分の身辺状況を彼に掴まれていると、再会した時から感じていたからこそだったが、それはまさかというやつに過ぎない、ということにした。
それから村瀬と菜実は、公園中央部に設けられた1・6ヘクタールほどの池でボートに乗った。オール漕ぎは主に村瀬が担当したが、菜実に漕がせてみると漕ぎ方が上手かった。発達障害は知的領域のばらつきが目立ち、知的障害とは均一的な遅れと多くの人が旧いイメージに捉われるが、菜実は極端に突出した何かを持っていると、村瀬は改まった。紙の貼り絵で長岡の花火や富士山、海岸の港を完全描写した山下清や、フィクションの人物を言えば、床に落ちた楊枝の数を一瞬で数える特能を持つ「レインマン」のダスティン・ホフマンのように。または、たとえは極めて悪いが、遠い昔の初夏の白昼、下町の往来で女子供ばかりを四人も刺殺、逮捕後に「侍の俺に殺されて町人は本望だろう」と微塵の悪びれも見せることなく述べ、生育環境の劣悪さと「覚醒剤使用による心神耗弱状態にあった」として極刑を免れ、今も無期服役中の境界域知能の元寿司職人は、行きつけのパブレストランで勘定をする際、その日に飲み食いした額をいつもぴたりと当てていたという。
菜実の持つものは何か。脂肪層の下に埋もれ、息づく筋肉に答えを見出せそうだが、考えれば考えるほど、それはシュールな幻想に留まるものになる。だが、彼女の人となりに携えられた、惨い境遇、酷い環境を生き抜きながら人間性を失わない、言うなれば「ベスト・コマンダー」的なメンタル・ポテンシャルとは、決して無関係ではないと思える。叔母の孝子はそれを「怒り、憎しみ、恨みという感情を概念から知らないからだ」と言ったが。
彼女は、死すら恐れないかもしれないと思えるのは飛躍だろうか。まだ、自分の知らない菜実がいるような気がする。
ボートを三十分ほど漕いで、それから園内を隅々まで回った頃、時刻は十五時を過ぎていた。そろそろ家、行こうかと村瀬が声かけすると、菜実は、はい、と返答し、頬を肩に預けてきた。
バス、新京成、京成の車中で掌を握り合っている間、瞼を落とした菜実の表情からは、何かを村瀬に詫びたげな色が見えたが、今日、幸せは充分に堪能したとも、その顔は言っていた。深追いはしまいと、村瀬は思っていた。待ち合わせた昼前から、明日の夕方までの時間が、自分達にとって幸せなものであればいい。そして、今後も。自分が菜実に対して持つ思いと、彼女の人間的性質を思えば、二人は間違いない。窓外の夕陽に目を馳せながら、村瀬は思った。
クリスマスの小晩餐の買い出しをするため、実籾のスーパーに入った。村瀬のマスオマートもそうだが、どこの店も街中も、すっかりクリスマスモードになっている。
クリスマス仕様の店内の飾りつけとBGM、サンタクロース帽を被った店員の接客姿を見て、何日かあとのイブには、ケーキを買って高津の家に行き、博人といろいろと話をしようと思った。連絡は常に取り合っていて、何も心配が及ぶことはないが、父親として出来る限りのことはしてやりたい。ただ、今、行方の掴めない恵梨香には、近くにいない以上、それをしようにも出来ないことがもどかしい。
菜実と二人で、クリスマスチキンとケーキ、ノンアルコールのシャンパンなどをカートに入れている時、純法のことをふと思い出した。彼らは今も地下で跳梁し、こうしている間にも餌食になっている人間達がいるが、巷では、声を潜めて噂されるに留まっている。彼らの商品である女達に、県警の上層部で有力な地位にある人間達がすでに篭絡、掌握されており、地方という単位の捜査、検挙系統はすでに無力化されていると見ていい。
もしもこの「次」があるのなら、自分は新聞社を訪ね、骨のある記者を捕まえて事の一切を明かし、彼らの非道な経済活動を白日の下に晒すように要請するか、場合によっては証拠を含む資料を作成した上で、警察の警視総監クラスの人間と接見しようという肚づもりが固まっていくのを感じていた。どちらを行うにしても命懸けだが、誰かが立ち上がらなければ、彼らは日に日に勢力を拡大し、刑法、司法の力も及ばないような力を手に入れてしまうかもしれない。他の勢力との間に抗争が発生し、頂上が斬首でもされない限りは。
先日に報道されていた、警察庁勤務の警視正が奥多摩の山中で自殺したというニュースは、すでに無関係ではないように思える。組織立った犯罪側は常に巧緻で、効果的、合理的な破壊の術を知り尽くし、それを監視する体制側は脆さを露呈する。何故なら、体制側は定給が支払われる公務員だが、犯罪側は、そこに属しているというだけで命の危険と隣り合わせの人生を送ることになる。紡ぐ生の緊迫の桁が違う。猶予のある世界とない世界の違いだ。それを考えると、最後に自分や自分の大切な人を守れるものは、自分の判断力しかないという結論が手繰り出される。村瀬は、幸福感の中に緊張が走るのを覚えていた。
二人分のケーキが入った箱を菜実が持ち、シャンパンとチキンが入った袋を村瀬が提げ、家までの道のりをたどった。街は華やいでいた。これから日本を覆うかもしれない闇夜の霧の気配など、誰もが察していないかのように。
「イブのイブっていうところで、ちょっと早いけど、メリークリスマス‥」両親の遺影が見下ろす居間の円卓には、皿によそられたリボン付きのチキンと、村瀬のサバランと菜実のメロンケーキ、金のラベルのシャンパン、二つのコップが載っている。菜実の手に持たれたコップに、村瀬がシャンパンを注ぐと、菜実は「私にも注がせて」と言って、ボトルを取り彼女の手で村瀬のシャンパンが注がれた。母指球に少しこぼれたシャンパンを、村瀬は舐めた。
テレビは音声低く、大量の未公開株が素性の分からない団体に買い占められているという、不吉な連想を催すニュースを流している。
「さ、食べよう。ご飯のほうは、あとでスパゲティ作るから」何かを申し訳なさげに瞼を落とした菜実に村瀬が声をかけると、彼女はシャンパンを啜り、ヒメフォークをメロンケーキに通した。村瀬もまずフォークでサバランを割り、一かけらを口に運び、それからチキンの骨部分を持ち、かじり、シャンパンを何口か飲んだ。
「私、今日、まだ村瀬さんに話してなかったことある‥」村瀬は穏やかに目を大きくして、何でも話して、という相好を作った。内心は、菜実の口から、自分が衝撃を受ける話が出るかと身構える思いだった。それは今日の日中、彼女の表情、挙措に垣間見えた、村瀬に何かを詫びたそうな様子が、幸せの中にも気になっていたからだった。
「私、叔母さんに、もうずっと会わなくした‥」菜実はからりと晴れた声と顔で言い、村瀬は顔を軽く乗り出した。
「もう、叔母さんにお金送れないし、渡せないって言ってきたの。弁護士さんのお金のこと、嘘だからって、私、言ってきた」「そうか。自分で言えたんだね。勇気出したね」
村瀬は褒めたが、娑婆で唯一繋がっていた親類と縁を切った菜実が覚えているであろう寂しさも汲まざるを得ない気持ちもあった。性格、素性はどうあれ、菜実を子供の頃から見て、世話をしていた人間であることには変わりない。だが、いくらそういった経緯を持つ相手ではあっても、関わることが自分に損益をもたらし、メリットがないのであれば、生涯に渡って絶縁することも一つの毅然だ。人間が生きる条件として、自分を自分で守ることは必須なのだ。それは吉富とその遊び仲間のような男を、同僚と他の客の前で力で撃退した時、彼の息子のけんとに対して余すところなく言い届けることが出来たと思う。
「あと、私のお父さん、いたの‥」「お父さん?」ぱっと明るい顔で話された菜実の報告に、かじりかけのチキンを持っていた手が止まった。
村瀬が、先日に菜実自ら絶縁したという叔母の孝子から聞いた話では、その父親は、菜実が三歳の時に内縁妻と娘を置いていずこかへ、おそらくは逃亡したというが、菜実は、どこでどういう状態で、二十何年か越しに会ったのか。話を聞いて受けた印象では、やはり何かのハンディキャップがありそうだと思う。
なお、二ヶ月前の印旛沼デートの折には、菜実は父親について、「分からない」と言っていた。
「叔母さんに会った日と同じ日、柏で会ったんだ。どこかの施設の職員さんと、あと、障害ある人達と一緒にいたの。私、お父さんって呼んだんだけど、職員さんに押されて、行っちゃった。お話したかったんだけど」話出しは明るく晴れたものだった菜実の口調に、悲しみの抑揚が落ちた。
菜実が会ったという時の状況の要領が掴めた。聞いた話でだいたいは村瀬にも分かっていたことだが、はっきりと分かれば、一層改められるものがある。
菜実を囲んできた家族は、祖父のことは語られていないが、彼女本人、祖母、母親、父親と、みんな知的障害者だった。一歳の時に事故で死別するまで育ててきた「なつみ」という名前の菜実の娘も、多分祖母、母親から継いだハンデを持っていたのだろう。
菜実は二十歳を過ぎてから支援にたどり着いたが、家族ごと障害で、そこに何のケアも差し伸べられないという状況は、想像が容易だ。その凄惨な場所で、菜実は生き抜いてきたのだ。
これから九年待ち、仮出所した母親を待つということが見通し的に不透明であるなら、父親が存命で、柏の沼南地域周辺にいると分かったことは大きいと思った。
「菜実ちゃん、お父さんのいる場所、探すっていうのはどうだろう‥」村瀬が区切りを強調しながら言うと、菜実の顔にきょとんとした色が出た。
「トゥゲザーハピネス、っていう事業所さんにいるみたい。職員さんの名札で分かったの」「トゥゲザーハピネスか。多分、柏市内か、柏の近くだね。我孫子とか、流山とか、茨城の取手かもしれないし。俺のほうで調べておくよ」村瀬は言い、シャンパンを啜った。
「菜実ちゃんのお母さんが出てくるまでの九年は、菜実ちゃんにとっても長い時間だよね。それまで、お父さんがそばにいるだけでも違うはずだよ。協力出来るかもしれないよ。実は、印旛沼で話した冒険野郎の弟の奥さんが社会福祉士でね、その奥さんに仕事を頼めると思う。つまり、福祉の助けを借りて、近い距離か、あるいは一緒に暮らせるようになるかもしれない‥」
 自分が想像しなかった可能性を村瀬から示された菜実の顔に、静かな驚きと希望の色が挿した。
 「さ、今は飲んで、食べよう。明日の夕方には菜実ちゃんもホームに戻らなくちゃいけないだろうけど、それまではゆっくり出来るから。このあとスパゲティ食べたら、抱くからね。また、朝日の中にいる菜実ちゃんを見たいから‥」「はい」菜実が明るくはきと返事をし、涙の浮いた笑顔を見せた。
 その時、口の中のサバランをシャンパンで流し込んだ村瀬の目が、「事情不明の買収相次ぐ 甲信越の福祉施設」というテレビニュースの見出し文字に引きつけられた。画面には長野だという知的障害者支援施設の外観部が映し出され、男のレポーターが興奮を抑えた口ぶりで、「長野県内だけで二つの就労継続支援、新潟で一つの生活介護施設が、悪い言い方をするところ買い叩かれ、施設を利用する人達やその父兄には何の説明もなく経営者が交代するという事態が相次いでいるようです」と解説している。そこから画面が変わり、「きょう 十五時」というテロップとともに、高級国産車から降り立った初老風の男に、局違いの報道関係者が何人も詰めてマイクを向ける映像になった。村瀬はリモコンを取ってボリュームを上げ、釘を打たれたようにその画面を見つめた。車のナンバープレートと男の顔部分にはモザイク処理がされている。
 「―さん、よろしいでしょうか」猥褻な言葉にかかるものと同じ自主規制音が男の氏名にかぶさり、何本ものマイクが男の顔下に差し出された。
  「今回、ご自身が理事長をお務めになっていた社会福祉法人―の運営権を譲渡したという相手先を明るみにされていないようですが、どういった団体、または個人に、今後の経営をお任せされたのでしょうか」「県の監査課への説明はどこまでされたんですか」取材陣に求められたコメントを無視するように、男は車の方向、来たほうへ踵を戻して歩き出した。一目越しにも分かる、自分自身の安全を第一に慮っているように見える態度だった。
  「―さん! ―さん! 一言でも構いませんので、何かお願いします!」追いすがるインタビューアを背中で振り払うようにして、男は車に乗り込んだ。
  「相手方はいくらでーを買い取ったんでしょうか」女のインタビューアが声高々とマイクを向けて問うたが、男はリアドアを閉めてエンジンをかけ、自宅前から走り去った。
  村瀬はテレビを消した。ヒメフォークを持つ手が止まった。未公開株の買い占めから、福祉施設の占有買収、すなわち有償の乗っ取りのニュースに、この二ヶ月の間に自分が体を挺し、見て聞いてきた事柄。それが確実に表の世界を侵食しつつある。甲信越地方で福祉施設を金でジャックしているのは、李の配下だ。
  尊教純法という宗教社団の看板を掲げるシンジケートは、その忌まわしい大願を着実に達成に近づけている。
  一市民の自分は、組織の前では無力だ。だが、自分には役があると思える。純法の実態にその身を挺し、一時、心を邪悪なものに浸し、その手を罪に濡らした。その罪の水を綺麗に拭わなくてはいけない以上、恐れ故に沈黙の現状を維持する者達の中から立ち上がらなくてはいけないのだろう。
  目の前でメロンケーキを食べる菜実の姿が、小鳥のように小さく、儚く見えた。今日の夜は、守り、かつ、彼女が表に出さない傷をこれからも癒していくと、体と心で契ろう。この人は、元から女を抱く資格のない男達に、親を助けるために抱かれてきた。自分と周囲の障害のために、世間並みの青春などなかった。それをこれから作る手伝いが出来るのは、自分だ。また、弟の協力もあり、幸せを奪う敵の一端を知った自分にこそ出来ることだ。村瀬は固く思った。
  その時ふと、純法とは二度と直接は関わりたくないと思いつつも、二ヶ月前に自分を秒の時間でぶちのめして意識を深い闇に沈め、義憤から戦おうとした自分の前に立ちはだかった、「の」の字の目をした行川と、個人的にどこかでリベンジ・リターンが出来たら、という曲がりなりにも空手初段の格闘家としての血のざわつき、惜しみも感じている己が確かにいることも感じていた。
  夕方に組まれた面接には、その職場に事情があるということを、まだ社会経験のない恵梨香は捉え得なかった。つい昨日ハローワークの検索で見つけ、即面接となったその職場は、市川の鬼越にあった。何坪あるかは恵梨香には分からないが、広い敷地の中に地上三階建ての、鉄筋コンクリートの建物がある。
  「今、入浴が始まったところです。男女とも、一斉に十五人ほど入ります。こちらは女性になります」齢の頃四十代半ば、厚い一重瞼で、睨む目つきが常のものとなっているらしい施設長は愛想なく言って、脱衣場前のスペースに並ぶ、小さな巾着袋やマスコット類を下げた、オーソドックスな黒や、カラフルな赤や青の車椅子を手差しした。脱衣場からは、複数人が発する言葉を成さない声が反響して漏れている。半開きの扉から、タオルを手に出てきた若い女のスタッフは、疲労によるものらしい苛立ちが、隠しようもないまでに顔に出ていた。
  次に大きな机が並ぶ作業室、食堂、テレビのあるレストスペースを見、最後に利用者の居室へ案内された。その部屋は十畳ほどの広さで、壁の色は灰色、カーペットも何も敷かれていないコンクリートの床に、数セットの薄い布団が並べられて敷かれており、風景というものはまるでなかった。
  それを見た恵梨香は、強いて語彙化するところ「雑」という印象を胸に抱いた。福祉施設などこれまで入ったこともなく、恵梨香はこういう事業には全く詳しくはない。それでも、人数分の布団がぺたぺたと並ぶ居室や、テレビが置かれながらチャンネルを選べないレストスペースを見て、どこもこういうものなのか、ということが分かりかねた。
  案内の途中、何人かの男女スタッフや利用者とすれ違ったが、スタッフ達はみんな、一様に疲れて殺気立った顔をしていた。
  「どうでしょうか」最初に通された小さな応接室に戻った時、施設長は、前に座る恵梨香に感想を訊いた。威圧的な口調だった。テーブルの上には、「地域に密着して48年」「権利擁護」と表紙に踊るパンフレットとハローワークの応募シート、「関本(せきもと)守(まもる)」とある施設長の名刺、恵梨香のメモ帳とボールペン、冷めてしまった二人分の茶が置かれている。ソファの脇には鉢に植えられた観葉植物がそそり立っている。
  勤務時間は、日中部門と宿泊勤務、夜勤に分かれているが、この勤務形態と、休みはシフト制だという。時給は1300円、なお、退職金共済はあるが、賞与はない。それが社会福祉法人理徳会・鬼越ライラック園の募集内容だった。
  「どうされますか? 入職する、しないは、ご自身の意思次第ですよ」施設長は、低く威圧する風の口調で言い、恵梨香は心なしか息を呑み込んでいた。これがこの男の地の話し方のようだが、持つ気性が発声などによく出ている。
  「それで最初に言っときます。試用期間は三ヶ月を設けてますけど、遅くとも、だいたい二週間ぐらいで業務を習得してもらわないと、困ってしまうんですよ。うちに入所して生活してる利用者さんは、約百名になります。反してそれを見る職員は、看護師と嘱託医、栄養士を除いて、今、直接支援に当たる人間は、たったの二十人しかおりません。だから、職員一人で五、六人に目が届いてないと、全く仕事にならないんですよ。人手が足りないから、一人一人の労働の密度が高いわけで、みんなかりかりしてます。だから、もしも村瀬さんが希望して入職しても、あまり仕事の覚えが遅いと、だんだん先輩達の言葉も荒くなって、しまいには誰からも相手にされなくなります。気休めを言ってもしかたないから、遭えて本当のことを言いましたけどね。ちなみ言うと、私も気が短いものでね」関本は小さく苦笑して、手元の湯呑を取り、茶を啜った。
  「入職されるのも、ご辞退されるのも自由です。お返事は今でなくても構いません。そうですね、だいたい年末くらいまでに連絡をいただければと思ってますので、まあ、まだ少し時間がありますので、よくお考えになって下さい‥」関本の語尾は、エアコンの送風音に消えた。それから関本は、目の前の応募者を試すような目を天井に向け、恵梨香は目の下のパンフレットを点視し、数秒の時間が経った。
  「‥やります」送風音に乗るような恵梨香の声が、小さく放たれ、関本の目が彼女に向いた。 
  「そうですか。今、そんなにあっさりと決断されて、大丈夫ですか?」関本の問い直しに、恵梨香はもう一度、同じ返事を繰り返した。
  「分かりました。それならやってみますか。では、日勤のシフトから入りましょう。それじゃ早速、水曜、さっきお伝えしました時間に出勤してもらえますか。ロッカーがありますので、動きやすいジャージと、あと、上履きを持ってきて下さい。昼食は、朝、仕出し弁当を頼んでもいいし、ご自分で用意するのもいいですよ」恵梨香は関本の説明をメモ帳に書き込んだ。
  裕子の下で寝食の世話を受ける恵梨香が就職に腰を上げた直接の動機には、働かないことには自分の携帯料金と生理用品代を工面出来ないことにあった。また、見聞きしただけで苛烈さが一見にして分かるこの職場で働くことに同意したのは、裕子の話を聞き、まどかの言葉を思い出し、これまで感じたこともなかった危機感を覚えたからに他ならなかった。
  犯した罪が赦されないものなら、自分の身を禊ぐしかない。恵梨香は、自分がこれまでの人生で、一度たりとも持ったことのなかった真面目な気持ちが胸に根づき始めていることをひしひしと感じていた。
  関本はニットを被った恵梨香の剃り上げた頭を訝しむこともなく、中学卒業以降の職歴欄が空白になっている履歴書を見て、これは何かと呆れて尋ねることもなかった。人手の不足と資金難から、労働、利用者の生活環境ともに劣化著しいこの施設の長の立場にある彼は、難のない歯車として機能するだけの人間が欲しいのだ。
  「お疲れ様でした。それでは、後日‥」ピロティで腰を折った関本に頭を下げた恵梨香は、陽が落ちた鬼越の家並に歩みを進めた。
  母親が実刑判決を受けたことは、父からのメッセージ録音で知っている。その際、父は弟の博人を引き取って一緒に住む旨も録音に残している。父については、中身を伴わない綺麗事を言う保身主義者という見方しか、今も持てない。それでも、半月ほど前に電話で啖呵を切り、食ってかかった時、受話器から聞こえてきたどこか悲しげな減張の声が、今、胸を叩いている。それが最後は保身、の人間なりの、心のある言葉だということを、認めなくてはいけないが、認められない自分がいる。それが心に葛藤を起こし、同時にまどかの、凛としていて、正しい優しさを込めた顔、声、言葉、西船橋のナチ・バーで自分を張り倒した叔父の掌と、自分に降らせたドスに籠った優しさを思い出していた。
  生理用品と飲み物を買うため、八幡の大きなスーパーに入ると、出入口近くのレストコーナーに座っている母子が目に入った。丸い一脚テーブルに弁当、パン、総菜、お茶とジュースが並び、茶色く染めた髪を後ろでまとめた、化粧気のない顔をした母親と、三人の未就学から小学校低学年と見える子供が、顔を寄せ合うようにしてそれを食べていた。子供達の髪はぼさつき、着ている服には金がかかっていないようだった。人生経験を積むのはこれから、という年齢の恵梨香にも、もっとも本当のことは分からないなりに、父親は常に飲み歩き、母親が全く調理を出来ないため、という事情の一例が思い浮かんだ。その時、店内BGMに流れるクリスマスソングのインストゥメンタル曲が悲しく聞こえた。
  ハローワークでは、スタッフから検索機の操作を手取り足取り教えてもらいながら、ドラッグストアのバックヤード仕事や食品工場、仕出し弁当を作る会社の募集概要を印刷した。みんな、時給単価の安い仕事だった。それでも構わないと言えば構わなかった。だが、心が徹底的に汚れきっていく時に挿す絶望感の味を知っている恵梨香は、それを二度と味わいたくないという思いから、自分の身を洗う場所として、介護・福祉を選び、検索し、学歴不問とある鬼越ライラック園を印刷、面接予約を取りつけたのだ。
  恵梨香は、丸テーブルで子供達と身を寄せて出来合え物の夕食を食べている、おそらく準知的障害者であろう母親に情の目を送って、売場へ歩き出した。
  市川南の裕子の家に帰りつくと、入浴を終えてパジャマになった美春の歯を、裕子が腰を屈めて磨いていた。お帰りなさい、と裕子が言うと、美春がお姉ちゃん、と口をもごつかせて恵梨香を呼び、挙手した。恵梨香は口の端を微笑させて、美春に掌を振った。
  「ご飯、取ってあるから」裕子が美春の歯を磨きながら振り返らずに言い、テーブルを見ると、ラップされた豚の生姜焼きとブロッコリーのサラダ、漬物、長葱の味噌汁、逆さになったご飯茶碗と箸が置かれていた。
  「仕事、決まったよ」投げやりな口調の報告に、歯ブラシを握った裕子が振り向いた。
  「おめでとう! 頑張ったね」裕子は満面の笑みで、歯ブラシ片手に立ち上がった。
  「何屋さんに決まったの?」「障害、持った奴ら見る仕事だよ。場所は鬼越‥」「福祉だね。私と同じ。私は知っての通り、高齢のほうだけどね。身体障害の人を訪問することもあるけど」美春が口許に歯磨き粉をつけたまま、いつもと変わらないきらきらした目で、恵梨香の顔を見ている。
  「まとまった給料もらえるようになったら、出てくよ、ここ‥」恵梨香はあてがわれている部屋へ歩き出し、そこへ裕子が「ねえ‥」と声かけし、呼び止めた。
  「お給料もらったら、すぐに?」「ああ、なるべく早くかな」「一人暮らしの準備は、お金かかるよ」裕子は幼児用の小さな歯ブラシを持ったまま、体を反転させてキッチンのほうを見た。
  「これからのあなたと同じで、生きた人を見る仕事をしているから、分かることがあるのよ‥」裕子の声が、ボリュームを控えたテレビ音声の流れる部屋に低く落ちた。
  「恵梨香ちゃん。あなたはまだ、誰かにそばにいてもらって生活してるほうがいい。たとえば私は今でこそこうして子供を持って、人の親をやってる。だけど、あなたと同じ子供の頃の境遇を持ってて、心に深い傷を負った身で、人を完全に信じることが出来るようになるまで、長い時間がかかったのよ。それこそポルノに売られてた子供の年齢の頃から、人生の半ばに差しかかるまで、誰を信じていいのかが分からなかったの。それがこの子が生まれてから変わったのよ。だけど、今のあなたはまだ、心が赦しを受け入れていないことが分かるから。だから、それが出来るようになるまでは、私が後見人みたいに、あなたの後ろについていてあげる。だから、私達と一緒にここに住みながら、自分のためのお金を溜めて、将来一緒になる人を探しなさい。私は、あなたには、間違いのない確かな方法で幸せを掴んでほしいの。それをサポートしたいのよ。それはこないだも言ったことだけど、見て見ぬふりが出来ないから!」裕子は恵梨香の上腕に手を添えた。その温かさが、上着越しにも伝わるのを、恵梨香は感じた。
  「裕子さん、私は‥」恵梨香は初めてホストマザーの名前を敬称づけで呼び、声を詰まらせた。心臓が甘く収縮する感じを覚えた時には、何本もの涙の筋が、強張った頬に引かれていた。
  「いいのよ。何も言わないで‥」裕子の言葉が優しく溶け、消えた。美春は恵梨香のジャケットの裾を掴み、にまにまと笑っている。
   二人で調理したペペロンチーノを食べ終わり、村瀬が食器を洗い、菜実がそれを布巾で拭き、水切りラックに置いていた。音声を軽く落としたテレビからの歌、水、食器の置かれる音が静かに部屋に鳴る中、村瀬は体に勃起の疼きを覚えていた。
   菜実の手が、村瀬の腕を取って巻かれた。体を寄せてきた菜実のつけている、高級目のコロンが村瀬の鼻に薫った。
   「二階、行く?」村瀬の誘いが、菜実の開いた瞳孔に送られるようにして囁かれ、彼女の頷きを待たず、村瀬の手がセーターの裾下から挿し入れられて、ブラジャーの下の乳房をそっと掴んだ。顔を紅潮させた菜実の口から、小さな吐息が漏れた。
   熱を発するお互いの手を取って二階の寝室前の廊下で、菜実は歩みを止め、スカートの上から自分の陰部をまさぐり始めた。村瀬はその菜実を腹に抱えるように抱いて、部屋に入った。
   枕を二つセットした布団の上で、座位の菜実のセーターを脱がせると、菜実は自分からスカートを脱ぎ、布団の脇に置いた。トランクス一枚になった村瀬が腰を抱くと、白い体を反らせた菜実が、後頭部から落ちるように横臥し、栗色の髪が放射状の形になって、広がった。
   堰を切ったように溢れ出した欲望の中、潤みを湛えた目で天井を見る菜実の顔色に、何かの負い目のようなものが視えるのは、自分の気のせいかと、村瀬は疑念していた。それは村瀬には、菜実が自分には打ち明けられないものを先日の近い日に背負ってしまったことのためのように見えた。
   だが、その疑念はないもののように、村瀬の手は彼の欲情に忠実に従った。その手によって、フリルのついたデザイナーズブランドブラジャーのフロントホックを外し、同じ青のショーツをぴりぴりと引き下げて足首から抜き払い、乳房と陰毛が目の下に露わになった。村瀬は菜実の体を跨ぎ、果実を持つように菜実の片乳房を掴み、もう片方に顔を押して、乳輪を吸った。やがて乳房を掴んでいた手が彼女の下腹に落ち、陰毛を掻き分けて、陰部の粘膜を捉えた。菜実が体を震わせ、反り返らせた。彼女の乳首は天井を仰ぐように、尖って伸びていた。やがて菜実は何かにはっと気がついたような顔になり、布団の縁に手を着いて、半身を起こした。恋肌メイクを施した顔には、すでに小粒の汗が玉ばんでいる。
   村瀬のトランクスが下ろされ、上を向いて張った村瀬の陰茎が菜実の口腔に深く呑まれた。村瀬は自分の分身を菜実の口に預けながら、北枕に体を横たえた。菜実の腿が村瀬の顔を跨いだ。目の上に入口を覗かせて迫った菜実のラビアに舌を這わせ、小陰唇を指で左右に開き、クリトリスを転がし、吸った。吸いながら、肛門に指を浅く挿入した。しばらくその男の前戯を続けてから、菜実の脇下に腕を差し、彼女の乳房を両掌の中に包み、ゆったりと揉んだ。村瀬の手の中で柔らかな乳房が形を変えた。
   村瀬は後背位で菜実に体を沈めた。菜実の乳房を両手の中に収め、淡い桃色をした肛門と、腰の律動に合わせてめくれる陰唇の縁と、前後に揺れる白い裸体の背中を見ながら、今日の日中から、彼女の顔に時折浮いた、何かを話しあぐねているような表情のことを考えた。その疑念はすぐに、菜実の乳房が掌を通し、繋がる性器を通して心に伝えてくる幸福感に流され、消えていった。前回に抱いた時と変わらず、菜実は大きな声を立てることはなかった。今回は、声を封じたその褥の姿が、ますます何かの隠しを胸に置いていることを、村瀬に想起させながら。
   精を菜実の子宮に注いだ村瀬は、自分の胸に頬をつけ、まどろむ彼女の体を腕に抱きながら、半月前に出奔、今、いずことも分からない土地で何をし、どんなことを考えているかも分からない娘のことを想った。
   彼女が背負う、筆舌に絶する傷跡については、一応、村瀬は父としての溜飲は下げている。表のもの、裏のものの入り混じる社会の因果応報が、遊び仲間と一緒に恵梨香を玩弄した江中をしっかりと制裁し、娘の痛みと恨みは、きちんとその体に返礼した。その後、今の江中がどうなっているかは知るよしもない。未来に彼の身がどうなるか、などということにも関心はない。だが、その江中にわずかな金をくれてやったことは、良くも悪くも自分らしい。
   恵梨香がたどってきた子供時代を思えば、誰かを信じることで自分を益するという常識的なソーシャル・アティチュードは、普通というものを当たり前に供給され、その中で情操を難なく育んできた人間だけに許された、上等な贅沢品のようなものなのだろう。
   恨みと憎しみに自閉した心を開くことの出来る人は誰か。身内や、身内と繋がる人間には、二度と心を開きはしないだろう。だが、それの出来る人間は、種類的には極めて少ないなりに、決していないということはないのではないか。
   それは、恵梨香の抱えるものに対して、近いか、あるいは種を同じくする傷を負い、その痛みを理解し、過ちの経緯をその人生に持つ者だろう。
   想い、考えるうちに、激しい交わりの疲労と虚脱が来た。村瀬は菜実の髪を編んだ頭を抱き直し、彼女の額に自分の額をつけ、深く目を閉じた。意識が落ちる前に、未来の時間の、どこかの公園で、綺麗な髪の伸びた恵梨香が嬰児を胸に抱いてあやし、寝かしつけている光景の夢を見たような気がした。
   「おはよう」恵梨香は初めて自分から、早瀬家の人に朝の挨拶をした。顔に愛想はなく、口調はぶっきらぼうだった。起きて、キッチンに来た時、椅子には美春が座り、裕子が韮を切っていた。
   「おはようさん。前とだいぶ変わったね。自分から声かけてくれるなんて‥」裕子が言い、美春がきゃらきゃらと笑った。
   民放の「ズームアップ 日本!」を観ながら、刻みキャベツ添えのハムエッグ、ソテーしたウインナーソーセージ、韮と舞茸のコンソメスープ、麦飯の朝食を三人で摂り、食後のコーヒーを裕子に淹れてもらい、飲んでいるところで、美春の歯磨きになった。
   「私に、ちょっとやらせてもらえる?」恵梨香は洗面台の前に歯ブラシを持って、美春の顔の高さに屈んだ裕子に声をかけた。 
   「いいよ。上手な磨き方、教えてあげる。仕事の練習だものね」裕子は恵梨香に小さな幼児用歯ブラシを、柄の部分を向けて差し出した。
   「縦磨き。歯の際を意識してね」裕子の声を受けて、恵梨香は屈んで、目の高さを美春に合わせ、彼女の上唇をそっとめくり、杭のように長く、不揃いな歯列の上の歯から磨き始めた。裕子に言われたように、歯ブラシを数字の「1」のように縦に当て、歯茎をマッサージしながら、一本づつを丁寧に磨いた。
   下の歯列、歯の裏も磨き終わり、カップを美春に渡すと、彼女は自分の手でレバーを押して水を汲み、口をゆすいだ。
   「上手いよ。自信もっていいと思うよ。美春と息も合ってたし‥」裕子の言葉に、恵梨香は自分の口許に笑みが浮かぶのが分かった。かすかな笑みだが、これが実に十年ぶりのものだと気づいた時、つい昨日まで心にかかっていた暗い幕が、緩やかに開いていく感覚を覚えた。それが目を涙に霞ませた。裕子の前で泣くのは、あの新小岩の夜から数えて、これで四度目だった。可愛い歯ブラシを手に立ち、声を抑えて哭きながら、厭離のつもりで叔父や弟もろともその許を去った父親の顔と声、言葉を思い出した。頭に再生された言葉は、今もまだ綺麗言として響いていたが、あれだけのことを言った以上は、それらの言群を具体形に固めて、いつか自分の前に提示してほしいという未語彙化の想いがよぎった。
   それでも、今の時点では、また会う日が来るか来ないかの確証は、恵梨香の中にはない。ないのだ。それを思ってか思わずしてか、涙の量が多くなった。
   視界が涙で遮断される中、肩に添えられた裕子の掌の温かみが心に沁み入った。恵梨香は、これまで感じたことのなかった幸せを胸の奥に覚えていた。これが幸せというものか、と思った。それは血の繋がりこそないが、自分の母として機能する人と、無条件に愛を与える妹のような存在が出来たからということに集約され、得た幸せだった。
   虚勢の表れだった、母親から刷り込まれた障害者への侮蔑心、偏見は、すでに綺麗に落ちてなくなっていることに、恵梨香はその時に気づいていた。
   旭日がカーテンを越して二人の肌を照らし、目を覚ました村瀬の腕の中で、菜実がぱちっと目を開けた時、枕元の液晶デジタル時計は七時過ぎの時刻を表示していた。
   「おはよう‥」村瀬が小さく囁き言うと、腕にくるまれた菜実は「はい‥」と返した。起きばなの菜実の顔は、昨日に引き続いて、胸に何かを抱えている色が出ていたが、それを無理に訊き出すことは、やはり村瀬には野暮に思えた。
   朝の勃起が激しかった。仰向けの体勢に寝かせ直した菜実に覆いかぶさり、乳房と唇を交互に口で愛撫した。それから口を陰部に移した。菜実の腿を大きく広げ、会陰からクリトリスまでを舌と唇で愛でると、菜実が体を起こし、村瀬の膝の上に乗って、彼の背中を抱いて、唇に唇を重ねてきた。村瀬が舌を挿れると、菜実も舌で応えてきた。村瀬の胸板が菜実の胸を押し、乳房がたわんだ。舌と舌の応酬が終わると、菜実は村瀬の下腹に顔を映し、目を閉じて、陰茎を頬の中に包んだ。骨盤が溶けるような感覚を覚えた村瀬は、あっと短い呻きを漏らし、菜実の乳房に両手を掛けた。それから村瀬が菜実に被さる正常位で、体を一つにした。
   村瀬は突き動きながら、これからの半生を賭して守っていくと決めた女の顔を、その念を込めた真摯な目で見つめた。額、こめかみから滴った汗が、曳光弾を思わせるラインを引いて落ちた。菜実は村瀬の下で、何か堪え難いものを堪えるように、眉間に筋の浮いた顔を俯かせていた。
   その顔には、詫びの色が出ていた。
   その日は、居間のソファで菜実を膝に抱いて体を揺り篭のようにゆったりと揺らしながら、詩を読んだり、お互いの子供の頃の話をしたり、家近くの公園でたこ焼きを食べたりして過ごし、そうしているうちに、菜実がホームに帰る時間が来た。村瀬はそれを惜しむようにして、また菜実を二階へ誘導し、抱いた。
   大久保から恵みの家までの道すがら、菜実は無口だった。恵みの家に着いた時、その顔に、一瞬のためらいののち、笑顔が刻まれた。自分を慕う、変わらないキタキツネの笑顔だった。
   「じゃあ、またね」村瀬は言って、菜実の肩を抱いて、額にキスをした。微笑の顔で玄関に消える菜実を見送った村瀬は、しばらくホームの前に立ち止まった。立ち止まって考えていたことを、馬鹿馬鹿しいことだ、と自分に心で言い聞かせ、納得させ、大久保駅のほうへ歩き出した。
   クリスマスソングがどこからか聞こえる商店街は、いつものように若者のグループが並んで歩き、その間を割って車が走っていた。
   恵梨香は今、どうしているのだろう。昨晩に抱いた案じの念が、また頭をもたげてきていた。
   ~復讐の蒼天~
   クリスマスが明けて、師走に近づいた土曜日だった。「賃上げ」を主なテーマに据えた小討論会の準備を、吉内叶恵は早くに顔を出して手伝っていた。利用者達が職員のサポートを受けながら作業を行う様子、外遊の催しの様子などを写真で紹介するスクリーン、プロジェクターのセッティングその他を、彼女は文岡に任されていた。
   時間は午前であり、NPO法人ダブルシービーの生活介護部門室には、長いテーブルが四つ重ね合わされ、パイプ椅子には、計九人が座っている。その出席者は、市内のグループホーム経営会社の代表取締役、ダブルシービーと業務契約をしている株式会社の役職者、それにダブルシービーを後見しているという、リベラル政党に所属する県会議員、他は利用者の保護者である中高年の女達だった。テーブル上の、保護者以外の人物の前には、中紙に名前の書かれた透明アクリルのネームプレートと、茶や水などの飲料類が置かれている。
   対面する壁には、200インチのスクリーンが掛かり、そのサイドに会長、施設長の文岡丈二と、実弟でサービス管理責任者、副施設長格の文岡和馬、席の下座には叶恵が立っており、時間は昼までの一時間半ほどを予定している。
   叶恵はぬかることなく、プロジェクターに、スマホに保存されている映像データを映し出すため、端子にレシーバーをセットしていたが、文岡兄弟の目を巧みに盗んで付けたその小さな装置に、開会直前になっても彼らは気づいてはいない。
   私が本懐を遂げる時が来た。叶恵は、父と母の霊に念を送った。あれから二十五年の間、私が心血を注いできたことの結果が、今日、出るのだ。
   文岡兄弟の逆駁も覚悟の上だった。
   普段、体の自由が利くほうの利用者には軽作業を、身体障害の重複した人達には個別の運動を行わせている広い部屋。ここが、文岡兄弟の社会人生が終焉する場所になる。
   「お待たせいたしました‥」文岡がマイクを通して挨拶の第一声を出した時、ボリュームを抑えたBGMのクラシック音楽は、シューベルトの「ます」が流れていた。
   「皆様、本日はお忙しい中、本討論会にご参加いただき、誠にありがとうございます。本日の会のテーマは‥」文岡は、スクリーン真上に掛かっている長方形のテーマ書き看板に書かれている“作業工賃の単価賃上げを含む利用者の処遇向上”を読み上げた。
   「先日、県は、福祉施設における工賃及び職員の処遇向上の第二次三か年計画を策定いたしましたが、当法人では、今後十年というスパンを見込んだ上で、他法人とその関係者各位、父兄の方々とともに、その処遇向上というテーマを煮詰めていきたい、と考えております。そこで本日は、その辺りで忌憚のない意見を交換し、利用者様方は元より、当法人で働くスタッフ、保護者様方の恒久的な安心を今後も作っていくことへのさらなる一歩になれば、私どもにとっても大変な幸となります」若干のハウリングが混じる文岡の声が響いた。
   「当ダブルシービーでは、ちょうど十年前、平成二x年の設立以来、地域の方々からの手厚い協力をいただきながら、利用者の命を尊ぶ心を、行動、言質に一致させるという支援方針をスタッフ各位に一貫させて今日まで歩んでまいりました。そこで、今日この日まで、当法人を援護下さり、または業務提携してきた方々、また、本日の討論会に参加することで、是非、参考を得たいという考えをお持ちの他支援母体の方々に、ご挨拶と、簡単なご紹介をいただきたいと思います‥」文岡が述べると、テーブルの上座近くに座る、ネイビーのスーツを着た五十代の男が起立した。
   「お会いするのが初めての方もいらっしゃると思いますので、簡潔に自己紹介をさせていただきたいと存じます。私は、護憲民治党に所属し、現在県議会議員をしております、小林(こばやし)常(つね)隆(たか)と申します。文岡さんご兄弟とは、このダブルシービーを立ち上げられる前から知己の間柄でして、この法人のバックボーンに据えられた支援者としての矜持に、心から賛同している者です。私も常日頃より、議席から、県に暮らす方々の幸せと安全を思いながら、条例や予算の制定などの職務を行う立場の者として、この法人を後見支援させていただいております。今後も是非ともお見知りおきをお願いいたします」小林は押し出し良くひとしきり言うと、一礼して着席し、保護者を含む他の出席者達が軽く頭を下げた。
   「株式会社グリーンロームで代表取締役をしております、大滝(おおたき)と申します」次に席を立って一礼したのは、まだ四十歳前と見える、ラフな私服姿の男だった。
   「当方はまだ今年の春にグループホーム事業を立ち上げたばかりで、船橋市の金杉台に一軒、現在三名の利用者が入居している男性のホームを構えております。私は不動産業界からの転身で、四年かけて福祉のことを一から勉強したもので、文岡様方と比べたら、ひよっこのようなものですが、これから女性のホームや、ショートステイも行う日中一時支援、または放課後等デイサービスの立ち上げなど、事業の拡大を目指しております身で、参考になるご意見が伺えたらと思って、参加させていただいた次第です。よろしくお願いいたします」大滝と名乗った男が座ると、次に紺のスーツ姿をした、髪の薄い眼鏡の男が立った。
   「百円ショップの“ビーワン”運営母体である株式会社マルサンの船橋支社で、製造販売部の主任をしております塚口(つかぐち)と申します。ダブルシービー様からは平成x年より弊社の業務をアウトソースしていただいております。今回、文岡様ご兄弟がお考えになって立ち上げたテーマであります、処遇の向上というものについて、私の上部が大変な関心を持ちまして、今回の討論会に参加させていただきました。当部の部長から、行って話を聞いてこいと、どんと背中を押されましたものでして‥」塚口という男が笑いを交えて言った時、保護者達の席からも小さな笑いが湧いた。文岡も笑っていた。
   六名の保護者達がそれぞれ、利用する子の親である、という挨拶を済ませると、文岡はプロジェクターのリモコンをマイクとは反対の手に取った。
   「心の籠ったご挨拶と自己紹介をありがとうございます。それでは、まずは、当法人が普段どのような雰囲気の中で支援に当たっているかを、スライド画像で見てイメージを掴んでいただきたいと思います」
   その時、叶恵の手にスマホが包まれて持たれていることに、文岡と和馬の目は完全には届いていなかった。関係者、保護者の参加者は、皆、一斉にスクリーンに目を向けていた。
   映ったのは、砂利が敷き詰められた、社屋を背にした施設のバックヤードで、二人の男が一人の小柄な利用者を掴み、その体を揺さぶっている鮮明な映像だった。男達は文岡と和馬だった。疑問を呈する単字一文字の声が、保護者の女達から小さく上がった。
   映像の中で文岡は、利用者の阿部の腹に膝を入れた。その音に目を見開いた文岡兄弟は、左右からスクリーン画面を見た。文岡は腰が抜けたような体の恰好になっており、和馬は呆然としながらも、横顔に怒気を含ませている。
   “お前、俺達に一端張ってるみてえだな。ちょうどいいから、お前みてえな家畜には一生かかっても分からねえこと、教えてやるよ”スクリーンに映る文岡が言うと、参加者席がざわめき始めた。
   “世の中には分際ってもんがあるんだよ。お前らの安全を毎日守って、お前らの糞やションベンの世話してんのはこっちなんだ。つまり、俺達がお前らの命を握ってんだよ。お前らの命を握ってるから、病災の頃は感染対策をきっちりやったし、地震や台風からお前らの命を守るための防災訓練だってやってるわけだ。お前を含めて、どいつもこいつもそれに感謝の心を少しも見せねえとこに、すでにお前らの分際が出てるんだよ”スクリーンの中の文岡が目を剥いた。
   “そんなに竹ひごの検品が嫌だったら、職員の手元やるか? 言っとくけどな、こっちは竹ひごとか梱包みたいに優しくも甘くもねえぞ。優しいほうがよけりゃ、こっちが決めた朝の割り当てに従え。それが出来ねえんだったら、とっとと自殺して、もーもー、ぶーぶー鳴いて、餌食って、クソションベン垂れる牛か豚に生まれてこいよ。五階から飛び降りるとか、電車に飛び込めば死ねることぐらい、お前にも分かんだろ。まあ、そんなのが一匹死んでくれて、こっちはすっとしてるんだけどな。風呂も入らなきゃ、糞したあとでけつも拭かねえ、臭え、ぎゃぎゃ、ぎゃぎゃうるせえ爺いが、ちょうどよく脳溢血でくたばってくれたからさ。あの加瀬の親爺だよ。お前も知ってんだろ、おい”文岡が言い、阿部の頬に平手打ちを繰り返し見舞った。
   文岡は顔から血の気を引かせ、化石のように立ち尽くしているだけだった。和馬は参加者席を、目を大きく剥いて、何かの説明を試みようとしていることが見て取れるが、開いた口からは言葉は出ない。
   画面が変わった。スクリーンに、剥き出しになった女の性器が大映しに映った。肛門までもがあからさまに映っている。女の嬌声めいた声と、濁った男の笑い声が流れた。
   保護者の女達が悲鳴を上げた。関係者達は息を呑み込んだ表情と恰好で、スクリーンに目を吸われている。画面の中では、女のクリトリスを、印台指輪の指が弄んでいた。次には、四つ這いになった女、村嶋理恵が、和馬にフェラチオを施しながら、肛門で文岡を受けている映像になった。その脇では、顔の映っていない男が勃起した男根をしごいている。「汚え、糞が引っついてやがる‥」文岡の声が漏れた。保護者の女達は、そこで悲鳴を止めた。今となっては微動たりとも動かしようのない現実、事実を、自分の感情は関係なしに見ざるを得なくなったという顔で、スクリーンを見つめている。関係者達も、いつしか現実を飲み下した顔になっていた。
   「待って下さい! 合成映像です! こちらを良く思わない人間達がプロジェクターに仕込んだものです!」和馬がパイプ椅子の席を一つづつ周りながら、狼狽の中にも作り直した気丈な顔で説明せんとした。「知っておいでですよね! これだけ精巧なものは、今の技術では簡単に作れてしまうものなんですよ!」兄の丈二は、焦点の合わない目を宙にさまよわせ、荒い息を吸い吐きしている。スクリーンの中では、理恵が和馬に正常位で挿入されて忘我の声を上げ、上から挿し入れられた文岡の手が、乳房を荒く揉んでいる。
   画面はそこで切れ、元の白くぬっぺりとしたスクリーンに戻った。
   静まり返った生活介護部門室を、叶恵は、下座から縦断し、表情と体勢を硬直させた文岡と、怒りに顔を紅潮させ、両手に拳を握りしめて仁王立ちになっている和馬に歩み進んだ。
   「私がここにスターティングメンバーで入職したのは十年前、まだ平成の頃だったけど、気づいてた? 今から二十六年前のクリスマス時の夜、大田区の東糀谷の街で、お前ら兄弟が率いる七、八人組のチーマーが、まだ幼い娘を連れた親子連れの父親を、娘の目の前で、寄ってたかって嬲り殺しにしたんだ。覚えがあるよな。私は、あの時、お前らがげらげら笑いながら父親を嬲りものにする脇で、泣いてた小さな娘だよ」兄弟の目前に立った叶恵の素性明かしに、和馬の顔から怒りが引き、代わって恐れの色が浮き始めた。
   「通行人は、みんな見て見ぬふりの見殺しだったよ。それどころか、見物して、可笑しそうに笑ってる奴らもいたよ。まだ五歳だった私に対する警察の聴取は高圧的だった。残された私達に下りた犯罪被害者給付金はわずかなものだった。お前らの親は、誰一人として賠償金を払わなかった。母は、惨たらしい一方的な、それでいて、こちらには何の落ち度もないにも関わらず振るわれた暴力で夫を亡くしたショックと悲しみを一生持ち越すことが出来なくて、私が中学を卒業する頃に自殺したんだよ。文岡丈二! 文岡和馬! お前らの福祉職歴は、ここを含めて十七年だそうだけど、これまで何を考えて、自分達が起こしたあの嬲り殺しをどう思いながら、人を見る仕事をやって、家庭の主までやってきたんだ。お前らのママが口を揃えて言うには、私の父に非があったとかだったらしいけど、ママに倣ったようなことをこれまで考えて、お前らは福祉をやってきたってことでいいんだよな。そりゃそうだ。お前らにとって、利用者は家畜で、性欲満たすためのおもちゃなんだもんな。その本性が今日、これまでお前らを信用してきた人間達のまえで暴露されたわけだけど、これからどうする? 関係機関、関係者に圧かけて、箝口令を敷く? それとも、私を名誉棄損、誣告で告訴でもする? でなきゃ、猥褻物陳列罪で、今、警察に通報する? それでお前達の支援屋としての生命が保てて、将来は県の名士に成り上がれる算段があんなら、どれでも好きなほうをやりな」シューベルトのハ長調をバックに、低い気当たりを持つ叶恵の声が、落ち着いた静けさを裂いた。
   「お前らがどうしても、これからもこの法人を維持したきゃ、今、ここに来てる人達に、今のが合成だなんて、ここの利用者でも分かるような嘘の言い逃れを撤回して、映像は本物の身体的、心理的虐待で、女子の利用者を兄弟でセクフレにしてることをきっちり認めて、それに加えて、昔の時分に大田区で非道の限りを尽くしてきて、逮捕、服役歴があることもしっかり説明しなよ。それで、保護者各位に、その旨をファックスで送ることだね。間違いを犯しましたが反省しますってね。その上で、今、ここで心を入れ替えることしか、お前達に生きる道はないよ。ただ、この人達がそれに納得するかしないかにかかってるよね。さあ、どうする?」語気を強めて、施設長とサービス管理責任者の顔を交互に見た叶恵に、その兄弟は後ずさりした。
   参加者達が席を立ち始めたのが、背後からの音で分かった。保護者の女達が、小声の早口で、声色で軽蔑のものと分かる話を交わしている。私達、馬鹿みたいだったね、という言葉も聞き取れた。
   「何なんだ、あんた達は!」和馬の後ろに立った、護憲民治党所属の県会議員、小林が荒らげた声を投げた。
   「晴天の霹靂だ。この十何年もの間、あんたらがそんな下品な経歴を持ってて、我々後援者の見てない所で、あんなふしだらなことをやっているとは露知らずだったよ。これじゃ、これまで何のためにあんたらを後見してきたのか分かりやしない! あんた達とは、もうこれまでだ。党のイメージダウンに繋がることは明らかだし、あんたらみたいなごろつきとこれ以上付き合うと、私の名前にも傷がつく! それじゃ、私は失礼する!」小林はあらん限りの憤怒を横顔に浮かせ、足取りも荒く、生活介護室を退出した。
   小林に続いて、保護者の中年から壮年の女達も、ある者は後ろを振り返ることもなく、またある者は、ちらりと軽蔑、見限りの眼を一瞬だけ向けて、足早に出ていく。
   グループホームから日中施設へと事業を開拓していく展望を語った、株式会社グリーンロームの代表取締役、大滝は、がっくりと俯かせた顔に無念を漂わせ、何も言わずに部屋を出た。それから、百円ショップの運営会社で主任をしているという塚口は、全ての現実をやむなく受け入れたが、まだ納得してはいないという顔で、和馬、文岡、叶恵の前に立ち、何呼吸か置いてから、ゆっくりと言葉を搾り始めた。
   「あまりに驚いて、まだ、先しがた見たものを、私自身の心が受けつけておりません‥」塚口の眼鏡越しの目は、床に落ちたまま、せわしない瞬きを繰り返し、声は細く高ぶり、震えていた。
   「吹けば飛ぶような主任の私目にも、上が貴法人様を信頼して製造業務の請負をお願いしていることはよく分かっておりました。出来るものなら、私は見なかったことにしたい。だけど、私には報告義務がありますし、今回、この討論会に出席した理由には、当社との委託契約をより強く確かなものにするため、と上から命を受けたことにあります。これを上が知ってしまったら、ダブルシービーさんに限ってそんなことはあり得ない、と怒られると思います。だけど、ありのままの報告をすることは、業務命令であり、義務です。これを知った課長、部長がどんな顔をして落胆するかと考えたら、私は気が気じゃないですよ。本当に。本当に‥」
   どうにもならない事柄への心底からの嘆きを顔一杯に浮かべた塚口ががっくりと肩を落として立ち去り、もう誰も残っていないと思えた時、足音を憚って近づいてくる靴音がした。
   叶恵の後ろに、入室の時から口数のなかった五十代の女が立った。石山和沙(いしやまかずさ)という、知的と身体が重複し、歩行器を使用して移動する、支援区分が重い二十代の女子利用者の母親で、石山(いしやま)尚子(なおこ)、という氏名の女だった。
   「石山さん、これは‥」和馬は引き攣った愛想笑いを浮かべて、なおもまだ弁解を切り出そうとした。
   「七年前、私がここを娘を預けてもいい場所だと親の判断をしたのは、命を尊ぶ、というスローガンを、あなた達なら最後まで貫いてくれると思ったからです。面談した時、私はあなた達に、とても信念を持っていて、熱心で清廉潔白な人達だっていう印象を持ちました。その時に受けた印象を、今日までずっと信用してたんです。だけど、それが今はただ悲しい。何が悲しいかって言うと、あなた達が、自分達が犯した過ちの反省が出来ない人達だっていうことが分かってしまったことです。娘は心臓弁膜の奇形と腎臓の機能不全の内部障害も持っていて、この先生きることが出来ても、せいぜい四十歳くらいまでだって医師からは宣告されています。私は親として、生きられる時間が短く限られてる娘を、反省っていう、人として当たり前のことが身についてる人の所に預けたい。だから、こちらとの契約は、もう打ち切らせていただきます。これまで娘を見てくれてありがとうございました。お世話になりました」尚子は腰を折って一礼し、退室し、それを和馬は言葉なく目で見送った。
   関係者、保護者は、開催からほんの数分程度で、みんないなくなった。生活介護室には、三人の職員だけが残された。ハ長調は、沈黙の間を縫うように流れ続けていた。
   「ほら、みんな、いなくなっちゃったよ。もう、後援者、業務提携者もいなくなって、利用者もこれからどかどか、いや、今日をもって根こそぎいなくなるんじゃないかな。これからどうする? いっそのこと誰かにここを買い取ってもらって、隠居か、それとも転職でもするのもありなんじゃないかと思うんだけど‥」
   その言葉に何かがぎくりと来たらしい文岡が脚を震わせ、へなりと跪いた。睫毛の長い三白眼の目はあらぬ空間を泳ぎ、膝は、内へ、外へと開閉する不随意運動を繰り返している。赤く充血した両目からは涙が滴りこぼれ始めていた。
   一方、和馬は、威圧的な形の大きな目を血走らせ、食いしばった歯を剥いた形相で、肩を荒く上下させ、腰の脇に握りしめた拳を震わせて叶恵を凝睨しているが、言葉は出ない。
   「これで全部終わった。私の仕事は‥」叶恵は窓のほうを見て、ブルーの無地のエプロンを、体から剥ぐようにして脱ぎ、左腕に垂らして掛けた。
   「さて、冬の賞与もちょうどもらったところだし、これで私はお暇させてもらうよ。もしもここから名誉を回復させたいんだったら、せいぜい頑張ることだね。じゃ、十年間世話になったな。さようなら、似非支援者さん。一応は一スタッフとして雇ってもらって、社保完で働かせてもらって、給料をもらってた立場から、これからのあんた達の幸を祈ってやるよ」叶恵は残して、膝を着いて、裏返った声の咽びを撒く半狂乱の文岡と、憤怒露わに歯噛みをして体をいからせる和馬に背を向け、しんみりとハ長調の流れ続ける生活介護室を出た。
   女子ロッカーへ行き、生理用品など中の荷物を残さずにリュックに入れ、外へ出た。もうじき年末となる十二月下旬の船橋市宮本の上には、父と母と、その他、文岡兄弟により体や心に深い傷を負った罪のない者達のために遂行した私裁を終えた叶恵の心を象徴するような、蒼が萌える空が広がっていた。
   ぺスパが停まる駐輪場の斜め前の駐車スペースには、黒のソアラが停車していた。叶恵が近づくと、運転席側のウインドウが下がり、リムレススクエアを掛けた、唇の厚い男が顔を覗かせた。
   「終わったか」男が声低く訊くと、叶恵は頷いた。「全部終わった。お陰様だ。恩に着る「もう一匹はどうすんだ。あれが事実上の主犯だろ」「あいつは今、虫けら同然の惨めな人生を送ってる。そこから抜け出せる見通しはこれからもない。あの男は、これでいい」「そうか。引導を渡す代わりに職場は無くしたわけだけど、これからどう身ぃ振るんだ」男が訊いた時、後ろからばたばたという足音と、「待って下さいよ」といううろたえきった声がした。
   追ってきたのは和馬だった。その手には、一枚の茶封筒が持たれている。顔からは、先までの怒りの相は完全に消え失せ、眦と口の箸が下がった、見るに情けない表情が浮き出している。
   和馬は叶恵とソアラの間に駆けて割り込むなり、駐車場のアスファルト路面に膝を落とし、手の茶封筒を叶恵に差し出した。
   「中に五十万、入ってます。賠償金の代わりだと思って受け取って下さい!」高く反転した声を搾り上げる和馬を、叶恵は涼しく見下ろした。鱈子唇をしたリムレスグラスの男も、黒いレンズ越しに和馬を見下げた。ひとからかいしたげな表情だった。
   「あの時のことは、本当にすみませんでした。あの時はみんな薬決めてて訳分かんなくなってたし、俺達もまだ子供で分別がなくてやっちゃったんですよ。だから、赦して下さいよ! 五十万で足りなきゃ、もう五十万足して、百万差し上げますから! いや、お望みなら、三百万出しますから! お願いします、吉内さん!」和馬は叶恵の脚を掴んで揺さぶりながら懇願した。叶恵はその両手を払い、後ろへ下がった。
   「これが反省の証明になるとかって、お前は本気で思ってんの?」叶恵が投げた問いに、和馬は喉の奥からひっという悲鳴染みた声を上げ、身を震わせた。
   「私の親の命が、あの世から買い戻せるんだったら、その金も謝罪の証しになるかもしれないよな。だけど、ここは復活の呪文とかのあるロールプレイングゲームの世界じゃない、現実の世界だろうが。今のお前ら兄弟は、反省なんか微塵もしてない。その齢の面ぶっ提げて、どうあっても赦せるはずのないことを赦してくれなんて懇願して銭金で埒明けを図ろうとする根性、それにあれはああだったから、こうだったからって弁解、それがその証しだよ。お前らみたいな奴らは、よぼよぼになって死ぬ時に、それらしいものが芽生えるか芽生えないかが関の山だと思うよ」叶恵はソアラの男と目礼と頷きを交わし、駐輪場へ向かった。数歩進んだ時、背後から人間の体が揉み合う音と、くぐもった気合のような声に、体ごと振り向いた。
   荒川と名乗るソアラの男が、組み伏せた和馬の首根を掴み、右腕を天に向かって掴み上げて制圧していた。和馬の右手には、バタフライナイフが持たれている。やがてそのバタフライナイフは荒川の手にもぎ取られ、渡り、路面に投げ捨てられた。もがきの声を発する和馬の腹に荒川の膝が入り、彼の膝を受けた文岡兄弟の弟は呻いて体を折った。後ろから叶恵を刺そうとしたところを、下の名前がヨシキというらしく、本名の苗字が不明の荒川が取り押さえたのだ。
   元利用者の村嶋理恵を連れ込み、兄弟でおもちゃにしている市川のウィークリーマンションに超小型の盗撮機を仕掛け、そのあられもない映像を叶恵のPCに送信する協力をした、この飄々とした男が。
   「この銃刀法違反と殺人未遂、それにこっちの過剰防衛、猥褻物陳列は、完全にクロブタだな。諦めろ。俺の奥さんも言ってんだ。一度犯した罪は消えない。そいつは命がある限り償い続けるしかねえんだってね」荒川名乗りの男は、和馬の胸を踏みつけ、その体を路面に留めながら言い、その足を離し、胸を蹴った。蹴られた和馬が力無く呻いた。
   
   「これからどう身を振るんだ」荒川名乗りの男が、先のものと同じことを訊いた。その問いに、叶恵は微笑を返した。
   「思いつくままに生きるよ‥」やるべきことは全部やったという充足の笑みを浮かべ、小さく手を振った叶恵の、余分な力の抜けた姿勢の後ろ姿を、荒川佳樹こと村瀬義毅は、温かな目で見送った。
   やがて彼は、うずくまって泣き声を上げ始めたサービス管理責任者の尻を足で軽く嬲って、すぐそばのソアラに体を向けた。女々しいさざめ泣きを背中であしらいながら、昔の習いで、肩の後ろを振り返って、相手の逆撃を警戒しながらオートキーのボタンを押した。義毅の頬にも笑いが浮いていた。足を洗おうとした矢先に、往年の不逞な手段を用いたが、気持ちを痛いほど理解していた人間に力を貸し、成功へ持っていくことが出来たという、これまた充足の笑みだった。
   雲のない蒼天に、義毅は、叶恵と共有する思いを重ね合わせた。
   ~二胡と斧~
   黒地の内照看板に、白文字の山東招館という号が描かれた大構えの店は、中華街から外れて本牧に軒を置いている。
   その豪奢な中華飯店の店前に、隅々までが磨かれた暗いカラートーンの高級車が三台停まった時刻は、十八時を過ぎた頃だった。
   二番目に停車したメルセデスベンツの助手席から男が降り、彼の開けたリアドアから初老の女が出た。女は淡いブルーレンズのグラスを掛け、銀色の髪を男のように短く刈った頭をし、上がフォックス革のコート、下が紺のズボンという出立ちで、皺の浮いた指には宝石の指輪を光らせている。
   続いて先頭のリンカーンコンチネンタル、最後尾のクライスラーから、ゆっくりとした歩調で、計六人の男達が降り、女をガードする風に左右を囲むと、三台の車は駐車スペースへと回った。そのうち一人の男は、手から黒いキャンパス袋を提げている。
   女の脇には、女と顔立ちがよく似た、年齢的にそろそろ中年域に入りそうな、小太りの男が立った。
   この男を始めとして、男達は全員ネクタイを締めた正装の姿をしている。この店はネクタイ必須の完全予約制なのだ。
   その人間達は、竜の大理石像が建つ、自動ドアを越えた入口からマネージャーのような男に案内され、奥の個室席にその姿群を移動させた。
   その時、紅い中華提灯がたわんで下がり、西洋調デザインのウォールランプが薄く光る二百坪のフロアでは、五組ほどの客が回転テーブルを囲んでいる。アジアン・バイオリンである二胡の奏でる緩やかな旋律が流れる中、広州風レイアウトの窓際席には身分賤しからぬ家族連れが四人座り、よそ行きを着た二人の幼い娘が、コースの前妻皿の前で、今日買ってもらったらしい小さなおもちゃで遊んでいる。
   李はそれを一瞥すると、すぐに関心なさげに顔向きを前に戻した。グループの人塊からやや距離を取り、最後尾から追うようにして歩く行川は、フロアの隅から隅にまで、愛らしい「の」の字の目を動かして射廻しの視線を配っていた。山脈と鳥が描かれた水墨画の掛かる奥の壁際に座って料理をつまみ、酒を傾ける年老いた三人の男が、その圧視に気づいてグループのほうを見たが、それぞれの顔にたちまち恐れが刻まれ、すぐに顔を伏せた。
   李らが案内された個室では、回転台が廻り、大皿に盛られた茹で豚の搾菜あえ、牛肉とブロッコリーのソルティソテー、鶏のカシューナッツ炒めや魚の蒸し物、小籠包などが皿に取り分けられ、箸の掻き込みと咀嚼の音と、紹興酒やウイスキー、ビールの嚥下音、トーンを落とした男達の会話が交差していた。その中に、時折小さな低い笑いが混じった。
   「最近、上がりがさ、私の指示した額が納まってないんだけど、お前達、ちゃんと仕事してるかい?」短髪にブルーのサングラスの女が五人掛け席を立ち、男達を順繰りに睨みながら、ハスキーな声のドスを撒いた。
   「上がりは月に七つって決まってるんだ。最近、私のことを舐めてる奴がちらほらいるっぽいんだよね。ふざけた仕事してると承知しないよ」
   その時、グラスの青島を飲み干した李が、真隣の者にしか聞こえるべくもないかすかな嗤いを鼻から吹き上げたことに、女は気づいてはいなかった。
   「おい、李」女は六人掛け席に座る李の背後に立った。丸い額縁に入った墨字の漢詩が下がる壁際には、軽く握った両拳を垂らし、足を床に吸わせるようにした行川が立っている。
   「今、事実上、そいつの実質的な責任者のお前が、そのことで説明もないんじゃ、簡単に納得印を捺すわけにはいかないんだよ。おい、どうなってるのさ」「篠原(しのはら)さん‥」李が女の名前を呼び、椅子を立った。行川の射る眼は、まっすぐ二人をロックしている。
   この「除霊」「祈祷」「浄め」「心霊写真鑑定」「入神託宣」に法外な料金を請求する自称霊能者の稼業を昔から営んでいるこの女は、元々、横浜を拠点とする広域指定団体の常任理事役の男の情婦で、組織の運営に深く関わり、抗争時には本部詰めの幹部達に混じり、参謀の役割も務めていた経歴があることを、李は知っている。
   「篠原さんが指示するものを下回る額ばかりが、ここのとこ行ってることには、率直にお詫び申し上げます。ついで、こちらの報告が遅れたことも‥」李は腰を屈め、曲げた膝の上に両掌を置いて上体を下げるお辞儀をしたが、前の稼業の習いで、決して相手から目を反らすことはない。
   「ただ、お察しいただけるとありがたい。俺はこれでも現場の一線で動いてる人間です。その現場じゃ、杓子定規な足し算、引き算は通用しない。そん時のやり取りによっちゃ、帳簿をオーバーする時だってあるんすよ。掴んだ顧客の中には、したたかなのもそれなりにいます。問題は、そいつらが、あれが違う、これが違うっつって、こっちに揉め弾いてくる時です。そん中には、いるんすよ。裏からいろいろ手ぇ回そうとするようなのがね。それを抱き込むためにゃ、規定の予算を越えることもしばしばです。顧客には、堅い仕事の人間もいますんで‥」お辞儀を解いて言った李を、篠原は荒い鼻息をついで睨むだけだった。
   「立ち上げからもう二年じゃないですか」李は囁くように言い、食事と呑みの手を止めて事の次第を見ている男達をゆっくりと見回した。
   「この辺りで考えませんか」「何をだよ」「俺達の経済活動の、本格的な合法化です」
   席の端々から、抑えた反応が立ち昇っている。篠原の隣に座る、彼女の息子だけが、母親と、その下の幹部のやり取りをちらりとも見ず、ビールと料理を口に運び続けている。この男が無職であることも知っている。無職でありながら、母親の阿漕な稼ぎに寄生するようにして、外車を乗り回し、キャバクラや風俗で遊び回っているのだ。
   「俺の手の連中が、甲信越のほうで、社福、特定非営利法人の買い取りを進めてます。こっちのほうでも、もう何軒か、交渉の掌中に入れてます。後任がいねえから、老いた理事長が、ひいひい言いながら、隠居しようにも出来ねえってとこもあるんでね。無認可じゃ三年の活動実績が必要で、俺達が社団じゃねえ宗教法人の資格を得るためには、あと一年必要なんですよ。これから一年の間までに、能書きをもっと整備して、品の卸しももっとスマートなものにしなくちゃいけねえ。ここで俺は、もう一軒、外郭を作ろうと思ってるとこです。そいつは、障害者の人権団体で、まっとうな任意団体ですよ。障害者総合支援法、知的障害者福祉法の考え方に基づいて、障害者も当たり前に、パイプカットだの避妊手術だのはなしに、健常者と同じように、愛し合いを楽しむ権利があるって訴えて、最後には権利条約をお上に結ばせるって青写真だ。そうすりゃ、俺らが立ち上げた純法は、まっさらな合法団体の道に舵を切ります。それで今の抱き込みを進めりゃ、俺達は、この国を裏からいいように操れるようになるかもしれねえ。官憲も司法も、俺達の手の中で踊らすことが出来るようになりますよ」李は口許をにまりとさせた。篠原は、組織の総帥でありながら、完全に李に気で圧されている。
   「まあ、いい。今日の楽しい酒と飯のついでに、ちょっと面白いたとえ話を一席ぶとう。呑んで食いながら聞いてくれ」李が周りを見回しながら言うと、男達はまた料理に箸をつけ、酒を飲み始めた。
   「昔、樵って職業が存在したろ。あの鼻の穴が立派な大物演歌歌手の歌の題材にもなってたやつだ。今、それに相当するのは林業で、木を切り倒すのに使う道具は、斧とか鋸からチェーンソーに取って変わったわけだ。もっともこの職業名も、今じゃ差別用語で放送禁止だけどな」李が話をぶち始めると、壁に立てかけてあった黒のキャンパス袋から、行川の手で、厚い刃の首部分を持つ道具が取り出され、李の手に渡った。
   それは、柄を含めて直径50センチほどで、20センチ程度の刃渡りを持つ手斧だった。
   「現代じゃチェーンソーで秒単位だけどな、昔は大変な根性仕事だったことは、お前らにも想像がつくだろ。ほいほいさ、ほいほいさ、とな」李は銀色の刃身を光らせる斧を手に、一語づつをアクセントを強めつつ、席を回った。席の所々から笑いが上がった。
   「俺達の仕事も、その樵と相通じるようなガッツが要るものじゃねえか。追い込まれてやばい状況に陥っても、泣きを入れることなく、根性と知恵を連携させて、事を成すんだ。そこで樵と俺らの違えとこはな、樵みたいな単独作業じゃねえ。連帯だよ。こいつは当たりめえだよな。樵は一人で木を切ってりゃいいけど、うちはそうじゃねえ‥」李の声に、低い昏味が落ちた。
   窓側の、篠原と同じテーブルの椅子に座る神辺の背中後ろで、ぴたりと歩みを止めた李の動きは、全くの無造作と言う他なかった。
   「品」を管理し、監視する役職を純法の関東エリア内で持つ神辺久弥の白い横顔には、静かなうろたえが覗えた。
   「連帯の掟を無視してな、勝手な売をかけて、その連帯を混乱させて、ちんけなやっかみから上役の足を掬う真似をするような野郎は、俺らの組織には要らねえってことよ!」所々巻き舌を交えた高く圧した声が、BGMに流れる二胡の音色を裂き、手斧が李の頭上高く振り上げられ、緩やかな曲線を描いた刃身が、神辺の項に落ちた。野菜を包丁で真中から切るものに似た音がし、神辺の頭部が後ろのめりに、赤地に金色の絵が描かれたタイル床に垂直落下した。首を失った神辺の体は、左手はグラスを握ったまま、右手は箸を持ったまま、椅子から尻を浮かせてがたがたと縦に痙攣し、左に傾いた体からぶらりと下がった両手が緩み、グラスと箸が落ちた。グラスは床の上で割れ、破片を飛び散らせた。やがて、露わになった白い頸椎と頸筋の断面から、赤い泉を思わせる鮮血がこんこんと涌き上がり、ビジネススーツのジャケットと、椅子の下の床を夥しく汚した。血が粉舞して付着した円卓テーブルの上には、食べかけの海老餃子、まだ箸をつけていなかったらしいピータンと、青島の中瓶が載っている。
 李は神辺の生首の髪を掴み、篠原と、その息子が座るテーブルに、それをぺたりと静かに置いた。息子は目一杯の怯えを顔と体の恰好に出し、周りの男達は、自分達の胸にある負い目、疚しさを必死で取り繕う顔になった。篠原は、予想のうちに全くなかった部下の行動に青ざめ、体を硬直させている。
 「販路の外の人間に品を卸して、それで稼いだ金を撒いて、人例を乗っ取って、販売まで仕切ろうとしてたんだ。動きが怪しい奴を片っ端からふん捕まえて、唄わせてな、その上で、きっちり裏も取ったんだよ。まさか、今ここにいるお前らの中に、こいつと同じような妙な気を起こしてる奴はいねえよな」行川を脇に、李は全体に警告するように言い、一人一人の顔に目線を当てた。隣に立つ行川の射りも、全体に注がれた。誰もが動きを止め、呆然とした顔で体を固め、こめかみに汗を光らせている者もいる。冷えていく料理に箸を伸ばす者はいない。
 「いいか、お前ら。今、この尊教純法の、全ての活動の指揮権を握ってるのはこの俺だ。その俺に舐めた真似をする奴がどうなったか、今、ここにいるお前ら一人づつが、その目で見たはずだ」血に濡れた手斧を肩に担いだ李は、個室全体に爬虫の目を差しながら、鋭利な剃刀の声を降らせた。
 「今、俺が言ったことを疑わねえなら、これから伸びてく純法の一員として、美味いものも食えるし、上等な酒も呑めるし、いかした車も乗り回せるし、女も抱ける。だがな、欲をかいたり、分相応ってもんを弁えねえで出しゃばる奴は、それも出来なくなるんだ。そいつを肚に叩き込んで、忠犬の男どもと、品の女を仕切れ。お前らが、食うや食わずだった二年前から、死に物狂いで築いてきた位と、権力と、金が惜しけりゃな」隣からは、行川が、篠原を始めとする、ここにいる人間達をまんべんなく目で射っている。 
 「ホームセンターがまだ開いてる。外の奴らに、寝袋、買いに行くように言ってこい‥」李は斧を置き、言葉もなく立ちすくむ篠原と、怯えきったその息子を背に、自分と同じテーブルを囲んでいた男の一人に命じた。男は顔を俯けたまま、個室を出た。
 この店のオーナー、マネージャーは、すでに破格の金を握らされた上、暗なる脅迫警告を受け、懐柔されている。神辺の死体は、李達が先に引き上げたのちまで残る男達の手によって、客の引いた閉店間際の時間に、裏口から運び出される手筈になった。
 テーブルに載る生首は、虚ろに目と口を開いたままだった。今日の日に、その人生が断たれたことを、まだ認識していない表情で、照明の光を受け、白く悲しげに光っている。
 「分かったか‥」隣に行川を携え、細い目を大きく開いて、声高く唸る李が、この夜に全権を掌握したことを、誰もが認めざるを得なくなっている。
  二胡は、寂しい短調の曲を奏でていた。その場で体を留められたようになった篠原と、その配下の男達に、李の血に飢えた目と、行川の射りが照射されていた。
 「恵比寿顔ものの報告を、ここらで一丁させていただきましょうか、篠原さん」李は言って、篠原に向き直り、円卓の上のスマホを取るとフォトを表示して、青ざめて言葉を失っている篠原の目前に提揚した。
 フォトフレームの中には、白い壁を背後に、乳房と陰毛を露わに一糸まとわない裸の体を晒して立つ菜実が写っている。
 「今はちょっと待機扱いですが、見てお分かりの通り最上の逸品で、買いの仮契約が終わってまして、これから本契約に入るところです。問題なく、うちが一層力をつけるための潤いをもたらしてくれると俺は狂いなく見込んでます。だから上がりについては、何も憂うことはません。それに‥」李は針の目を、オレンジ色に煮えて湧き立つ溶岩のように底光りさせ、凄惨な含み笑いをその頬に刻み浮かせた。
 「俺達人例で、中核級の働きをする逸材が、年が明けて少しする頃に来てくれますから‥」「本当かい」篠原が訊き捨て、李が頷いた。「本当ですよ。これまで俺は常に有言実行だったじゃないですか」
 男達が行川に射り留められて固まる中、二胡のBGMは、中華風アレンジの「展覧会の絵」に変わっていた。
 ~誰よりも~
  クリームシチューとクロワッサン、プチサラダの朝食がテーブルに並び、めいめいに食前挨拶をし、食べ始めた時、ぴりりと鳴った恵みの家の業務用携帯を、大鍋を洗う手を止めた紅美子がさっと手を拭き、取った。テレビには天気予報が映り、九州地方で大雨の恐れ、と出ていた。
  「おはようございます、グループホーム恵みの家、佐々木です‥はい、お世話になってます」
 はい、うん、と相槌を打つ紅美子の顔色が、次第にシビアなものになり、相槌が消えた。受話器向こうからの説明を、ただじっと聞いている様子だが、それに右手にスプーン、左手にクロワッサンを持った菜実が反応した。
「ほうでっか。じゃ、まだ保護者さん方の間で混乱が収まってない、いうことでよろしいんで‥」応えて、携帯を耳に当てた体を廊下へ引っ込めた。
「池ちゃんの通所、今日からしばらく休みやて」廊下から出てきた紅美子は、パンを食べかけていた菜実に、からりとした声をかけた。
「今、だいぶややこしいことが起こっとってな、業務がでけんようなっとるみたいなん。それが落ち着き次第、向こうから連絡あるみたいやさかい、それまで池ちゃんは、休んで、ホームでゆっくりするんがええよ。ちょうどこれから年末年始やしな」言い終えた紅美子の頬に涼然とした笑みが浮かんだ。テンポをいくらか遅らせて、菜実は「はい」と返事をした。
実籾の線路沿いに建つ、小さな食堂だった。三人掛けのカウンター席があり、十二畳ほどの空間に席が六つある。客入りはそこそこで、カウンター席で一人ビールを飲む壮年の男がいて、テーブル席には中年の夫婦と十代の息子二人が座り、カウンター脇に置かれたテレビは昼のニュースを映している。木目の壁にはひょっとことおかめの面が飾られ、カウンター端には小さな招き猫がちょんと置いてある。そのカウンターの前にエプロン姿をした中年の女が立ち、追加の注文と、新しい来客を待っている。
テーブル席で、村瀬と博人は味噌汁付きのハンバーグ定食とかつ丼を囲んでいた。村瀬の顔は長男をまっすぐに見つめ、博人は目玉焼きが載り、輪切りのオニオンミックスベジタブル、ポテトフライが添えられたハンバーグ定食に目線を落としている。村瀬のかつ丼は碗の蓋が閉じられたままだった。ハンバーグからは、もう湯気が立っていない。
「ずっといていいって言ってくれる気持ちは嬉しいよ。でも、それだと、お父さんが俺に気を遣わなくちゃいけなくなると思ったんだ。それに、お父さんだって齢とってくし、俺のこと見るの、だんだん大変になってくじゃん。それをまどかさんに話して、グループホームを‥」「そうか」村瀬が博人に送った相槌は優しかった。
「入居はいつの予定なんだ」「来年の、三月には、もう。世話人さんも、入居者の人達も、みんないい人ばっかりだから」
博人がまどか付き添いの下、八千代の精神科病院で何種類かの検査を受け、ADHDを持つ知的ボーダーという診断を得たことは知っているが、村瀬は、これは家族の問題であることにすでに理解を及ばせている。博人はこれから療育手帳交付、自立支援医療券の申請に入るという。
今、母親、姉がいなくなった公団の部屋は、今月で契約が切れる。そのため、大型電化製品類は市に依頼して処理してもらい、博人の身柄は父親の家にある。
美咲は、自分が作った因果の結果とはいえ、その分だけ充分に苦しんだ。その実情を知っているが故、これ以上の苦しみを与えることは、自分が一応、元は夫だった人間であることを鑑みると忍びない。出所後は、こちらも福祉的な世話に繋げてやろうと考えている。ただし、それでも、よほどのことがない限り、子供とは離していかなくてはいけないという考えは、村瀬の中では変わらない。
「ねえ、よかったら教えて‥」「何だ?」村瀬は凝った肩を揺すってほぐしながら問い返した。
「お父さんのいい人って、どんな人なの?」「そんなこと、誰から聞いたんだ」村瀬は笑った。
「叔父さんからだよ」「お父さんにそんな人がいるって、義毅が言ってたのか」「うん」村瀬ははにかむしかなかった。はにかみながらテレビに目を遣ると、「NPO法人福祉施設討論会で虐待とわいせつの映像」という見出し文字がでかでかと踊っており、思わず目が吸いつけられた。
ボリュームが抑えられていて、キャスターの言葉は聴こえずらいが、字幕によると、船橋市のNPO法人知的障害者支援施設で関係者、父兄を招いて開催された討論会で、スクリーンに、四十四歳の施設長が実弟であるサービス管理責任者とともに、利用者を脅し、叩く、蹴るなどの虐待を加える映像の他、その施設長とサービス管理責任者が映っているわいせつな映像が流れた問題で、県の監査課は、説明義務に基づいて、施設長らに保護者への内容の説明を求めると同時に、警察は、この映像をスマートフォンに仕込み、スクリーンに映し出した三十二歳の元職員の女を、わいせつ物陳列の容疑で取り調べる方針、とのことだった。
テレビから顔を向き直すと、博人が微弱な興味の浮かんだ顔で村瀬を見ていた。先しがた入ってきた男一人の客が、村瀬達の後ろに座りばな、大声で瓶ビールと中華そばを注文した。
「どこのどんな女性よりも、誰よりも綺麗な人だよ」村瀬が言うと、博人は笑みの浮いた顔で俯いた。村瀬がその息子を情愛たっぷりに見、博人が照れるように俯いた時間が、一分ほど過ぎた。
「俺、食うよ」博人は視線を下に落としたまま言って、箸を取り、ハンバーグを割って、口に運んだ。村瀬はその息子を面映ゆく見てから、かつ丼の碗蓋を外した。
テレビ画面は、菜実の愛好するmaybeが北米ツアーで新曲を披露したという芸能ニュースに変わっていた。
 ディスプレイに「かわい」という名前が表示されたライン通話の着信が来たのは、朝食を終えて居室に戻ってすぐだった。
「もう年末休みに入ってる?」受話器向こうの河合が、沈んだ声で菜実に訊いてきた。「明日からだったんだけど、しばらくお休みになったの」「そうなんだ。じゃあ、今日、ちょっと、上野でも行かないかな。動物、観にさ。俺も今日、派遣、休みだから」
ピンクのロングコートに、髪をスカーレット色をしたサテン地の蝶リボンでポニーテール風にまとめた姿で階下に降りてきた菜実に、紅美子が「どこ行くん?」と声をかけた。
「友達と、上野行くの」「夕飯はとっとく?」「とっといて‥」「分かった、清水さんに言っとく。今日は鮭のムニエルの予定やからな。でも、遅くなりそうやったら、ちゃんと連絡ちょうだいな。心配なるさかい」「うん‥」
テーブルでは、すでに着替え、足許にリュックや水筒を置いた佳代子、千尋、小百合が座り、テレビの画面に目を向けている。彼女達の通所も、今日で年内は終わりなのだ。
「気ぃつけてな」紅美子の声に、うん、と返し、菜実はホームを出た。
河合は、JR柏駅西口改札前に、黒のジャケットにデニム、運動靴という恰好で待っていた。それから常磐線の快速に二人で乗り、上野に向かった。車内では、河合は暗く口をつぐんでいた。
年末の上野公園は人が多かった。桜や銀杏の木が、葉を冬枯れさせていた。西郷隆盛像の前でスナップ写真を撮っている、外国人のグループがいた。
上野動物園は、河合は六百円を払い、菜実は療育手帳を見せ、無料の入場となった。
正門から園に入ると、河合は無言で菜実の肩を抱いて、その体を自分の体に寄せた。
東園で、徘徊するホッキョクグマ、「団子」のように体を寄せ合うニホンザル、姿勢よく鎮座するゴリラ、翼を広げるコンドル、水路を擁し、草の植えられた飼育舎内をしなやかな動きで歩くアムールトラ、五重塔脇のシカ、バイソンと、しぐさの愛らしいプレーリードッグを見た。同覧の家族連れやアジア人のカップルが、中国語に聞こえる言葉で話し、柵の向こうの動物達にカメラやスマホを向けていたが、河合は沈痛な顔でゴリラやコンドルに目を投げ遣っているだけで、菜実との間に会話はなかった。
河合のスマホが着信音を鳴らしたのは、西園の、いそっぷ橋を渡った所にある、パンダ舎脇のベンチで休憩している時だった。ディスプレイを見た河合はベンチから立ち、菜実と距離を取り、落とした瞼を瞬かせた。時間は短かったが、通話口に向けて、何度か「はい」という返事を送り、通話終了したスマホを腰に下ろした。
「奥さんから。口座に四万円振り込んでくれって‥」河合はその時になって、閉じていた口をようやく開いた。
「派遣の仕事も減らされてるっていうのに、こっちに無尽蔵に金があるとでも思ってるのかって言いたいよ。今の株式相場は不況に向かってるって囁かれてるのにさ」河合はこぼした。
今、河合がこぼした言葉は、日頃、菜実の興味の中にはない内容であり、その知識もないことだったが、河合の人生、日本のことを想う時に、明るいイメージを想起させるものではないことは分かる。
「俺達人間様を含む、生き物が生きてる意味って、何なんだろうな‥」河合が漏らすように言い、菜実がパンダ舎のほうを見ると、友達同士で来ているらしい、小学校高学年か中学一年生くらいに見える少女達が、歓声を上げ、笑い合いながら、パンダにスマホを向けている。
「子供の頃、無機物を見ていて、怖い思いになったんだよ」「むきぶつ?」「そう、俺達と、ここにいる動物達は、みんな有機体、命があるから感情のあるものだよ。だけど、たとえば、学校の机や椅子、教室の棚は、視ることも聞くことも、感じることも出来ないわけで、それを見てて、自分の命がいつか尽きる時のことを思ったんだ。だけど、俺達には、視て聴いて、感じることが出来る命があるから、苦しみと悲しみがある。それを思うと、そんなものを抱えて生きる俺達は、そもそもどうして原始の地球環境の自然がお創りになったんだろうって思う。こんな理不尽なことづくしの人生まで‥」河合は横顔に憤りを満ちさせた。
「そこから抜け出すにはどうすればいいかって自分なりに考えて、ここ二年ぐらい、いろいろな宗教回ってるんだ。キリスト教系とか、仏教系とかね。だけど、その中のどの団体の行事や集まりに出ても、答えが出ないんだよ。池内さんも聞いたことあるかもしれないけど、あの恩正啓生会にも行ったよ。そうしたら、そこで支部長みたいな人に言われたことは、お仏壇のお祀り込みをして、奥さんと子供達に対して自分の至らなさを反省しなさい、あなたが寂しい思いをさせてるから、それが奥さん、子供の暴力っていう現症になって出ているのよ、あなたが変われば、奥さんも子供達も変わるんだから、とからしいんだ。奥さんは、子供の頃から恵まれなかった親子関係の代償をあなたに求めてるんだってね。それで、毎月、パチンコに負けたと思って五千円から一万円の喜捨をすれば、執着が取れて、未来の幸せが約束されるとからしいんだ。だけど、そんなことを言われてもね‥」
周りには、パンダ舎前で湧く少女達の他、悩みというものが外観からは覗えない冬のお洒落を決めたカップルや、充実の滲み出た顔と居ずまいをした父親が妻と子供達を引率している光景がある。
「自分が苦しんで考えてきたことに、どうすれば答えが出るのかが、あれだけ宗教を回っても、今も見つけ出せそうもないんだよ。これからどうすればいいのかも、全然見えないんだ」河合の口から溜めた吐息が漏れ、肩が落ちた。
その時、菜実は、二ヶ月前の船橋のラブホテルで村瀬の言ったことを思い出していた。彼の言ったことの要は、神仏とは、実質的に人や世を救うものではなく、人間をその崇拝対象だけが絶対という観念を与え、それによって悲惨な争いや自死をもたらすトーテムであるということだが、その辺りを歩いている人達と比べて薄いと分かっている自分の知能でも、村瀬が伝えようとしたことが、上書きされるように理解出来る思いになった。
純法の支部で二人の男を倒し、自分の手を引いて脱出した際、峰山を刺した彼の言葉も、自分が理解するにはだいぶ難しかったが、気持ち、思いは心に伝わった。それは自分では認めなかったことを、自分のために起こしたその行動が、認めさせたからだ。
信教は自由だ。だが、それでも最後は自分しかいない。菜実は語彙を成さない思いが胸に浮かぶのを感じていた。
「今の俺にはこれぐらいしか自分の人生を救う手段が思い浮かばないけど、君がいるだけで、それでも全然違うんだ」河合は言うと、菜実の肩をまた抱いた。
河合を憐れむ菜実の気持ちは、先日アパートの部屋で彼と関係を持った時から変わってはいないが、それがのっぴきならない道へ自分を引く予感を覚えている。なお、彼が抱えているものを吸い取り、軽減してやるため、自分の出来ることは、菜実には一つしか分からない。彼が自分を妊娠させ、逃げたあの時と同じ寄り添い方だけだった。
「君がそばにいてくれるだけでも‥」河合が菜実の肩を強く抱き寄せて言った時、一瞬、世間でよく使われながら意味を完全に把握しきれていない、身勝手、という言葉が浮かんだ。しかしそれも、彼への憐憫が優勢を取って、思考の奥深くへ流れ去っていった。
二人でベンチを立ったあとは、笹を食べるパンダを見、ペンギン、カンガルー、キリンやサイ、カバなどのアフリカ動物を見て、不忍池に掛かる橋を渡って、長い尾を持つアイアイを見た。池には、ペリカンやコウノトリもいた。闇を呑み込んだ河合の眼鏡の奥の目と、暗く強張った表情は変わることはなかった。
昼前の時間に上野動物園を旧正門から出た。その時、河合の腕は、菜実の肩から離れていた。
来た道をそのまま引き返すようにして、上野公園を階段へ向かって下った。外国人のストリート・ミュージシャンが奏でるクラシックギターのスパニッシュな旋律が響き渡っていた。
階段を降り、信号を渡り、上野中央通りに出た。アメ横が動けないほど混雑していることは想像出来る。菜実は、前後、横の通行人に配慮、注意を払うことなく、どけ、と言いたげに、脚を棒のように振って通りを進む河合を追って歩いた。
河合が足を止めたのは、アメ横へ続く坂に沿って軒を構えるパチンコ、スロットのアミューズメントホールの店前だった。パチンコ、パチスロは、彼の人生を救いはしなかった。それに加えて、テレクラがまさにその人生の足を掬った。「アイドル」に勤務していた時より、菜実から傍目に見ても、パチンコが彼の心を救済などはしていないことは分かっていた。
自分への無視を非難する心も特に起こらないまま、やめたほうが、というワードを胸が言いかけた。その間もなく、河合は自動ドアのボタンを指で押し、店に体を潜らせた。菜実への声かけ、断りはなかった。菜実はそれに従うようにして、河合を追って入った。
 電子的なプレイ音とBGMの重低音が音の洪水となって店内の空間を叩き鞣す中、河合は手前の空いているパチンコ台の椅子に座った。台には仰々としたロゴで、菜実が生まれた頃よりだいぶ昔に人気を博していたらしいロボットアニメの題名と、そのロボットのイラストがでかでかと描かれている。菜実に横顔を向けた河合は、その台の紙幣挿入口に、千円らしい札を吸い込ませた。
縁の射出口から玉が沸いて高く跳ね上げられ、そのロボット物の主題歌らしいインストの音楽が流れ、赤や青のランプが点灯、点滅を始めた。これは菜実も一時馴染んだ眺めだ。河合の横顔には、鬱憤を叩きつけるような興奮が見える。
それから三十分ほど経ち、河合のドル箱は二箱ばかり埋まった。現金交換の玉数をオートでカウントするジェットカウンターの音が、菜実には虚しく、悲しく聞こえた。菜実もよく知っている、銀箔の貼られた延べ棒状のものを受け取った河合は、興奮の消えた無表情な顔つきで、菜実の存在がまるで頭に入っていないかのように、中央通りの往来に出た。アメ横のアーケード下に小さく息づく交換所で、宝石の指輪を嵌めた老いた女の手から三千円程度の現金を受け取った河合の顔には、埋めようにも埋まらない虚しさがくっきりと浮かんで出ていた。菜実には、それを自分が埋めてやる方法は、今、そばに寄り添うことの他は分かりようがなかった。
師走時の人垣を割るようにしてアメ横を横に抜け、来た坂を上がり、アミューズメントホールの前を横切って中央通りに戻ると、河合は松坂屋の方面へ、でくりでくりと歩み進んだ。
河合の後ろ姿は、アメ横が終わる辺りの路地を左へ折れ、御徒町の方面へ進んだ。菜実は軽く駆けて、彼と肩を並べて歩いた。合わせる早歩きになった。河合の足は、小さな会社や貴金属店の入る、階数の低い雑居ビルが立ち並ぶ通りに踏み入れられた。何軒かのビル前を過ぎた右手に建つ、ステイ¥6000~、レスト¥4000~、カラオケ設備ありと緑色の壁面看板にある「ニューブーケ」という五階建てのラブホテルの前で、彼の足が停まった。足を停め、何かを考えこむ顔をしばらく俯けた河合は、菜実の手首を力荒く掴み、引いて、自動ドアのボタンを指で叩いて押した。菜実の同意が取りつけられることはなかった。
これがもしも害意のある相手なら、脚を踏みしばり、掴まれているほうの手を引く、菜実なら、それでその相手を路面に崩すことが出来る。あるいは、自分の圏内に引き入れる力を利用して、引き込みと同時に鳩尾に膝、あるいは金的。それから、倒れ伏した相手の後頭部に踵を打ち下ろす。
菜実には出来る。だが、それをやるには、今の相手は弱く、それ故に哀れすぎる。菜実の肉体に仕込まれているこのスキルのことは、長く繋がってきた肉親の他は、誰一人知りはしない。村瀬は勿論、恵みの家の世話人も、通所先のスタッフも。
入ると、左手に小さな黒いカーテンの掛かった料金支払いカウンター、その奥に、料金が表示された部屋の内照パネルが二段、並んでいた。河合は、どれでもいい、とばかりに、白壁造りの部屋のパネルをタッチした。受け取り口に落ちてきたキーをひったくるように取ると、菜実の手首を引いて、エレベーターの昇降ボタンを押した。エレベーターの中で、河合は口を堅く結んだまま、菜実の手首を離さず掴んでいた。
503 エーゲ、とある部屋に、河合は菜実を引っ張り込んだ。パネルで確認したように、壁、装飾がギリシャ風の部屋だった。バスルームの脇には玩具の自販機、その隣にはカラオケセットがある。
部屋に入るなり、河合は菜実のコートのボタンを必死の手つきで外し始め、その全部を外し終えると、襟に親指を挿し入れ、剥くように脱がせたそれを、カーペットの上に投げた。乱雑な形で落ちているコートを脇にして、菜実の腰を抱き、二人で頽れた。頽れると、菜実のタック付きスカートのホックを外し、右手で毟るように剥ぎ取り、コートとは反対側へ投げ捨てた。ワインレッドのセーターを上体から抜き取り、パンティとストッキングを一緒に剥き、菜実を陰毛を露わにしたブラジャーと靴下のみの姿にした。膨らんだ鼻孔から放たれる荒息が、菜実の耳を打った。その顔は、哀れさを一層誘うまでに一極集中したものだった。菜実の中に、抗いの気持ちは起きなかった。
「怖いんだ‥」菜実の頬の脇に両手を着いて言った河合の顔には、憔悴が深く刻まれていた。
「子供の頃、感情も意思もない物体を見てて、時間が経って、自分もこれと同じものになると思うと、いっそのこと、そんなことさえ感じない世界へ逃げてやれば楽になるんじゃないかって思ったよ。だけど、俺にははなから、自分の命を自分で断って、その世界へ行くような勇気も持てなかったんだ。だけど、生きてる限り、退屈を割って、怖いこと、苦しいことばかりが俺の所にやってくる。こんな人生がこれからあと四十年あまりも続いて、しまいに視えない、聴こえない、感じない世界、その世界っていうものすら分からない世界へ行くと思うと、耐えられないんだ」河合は言って、ジャケットとトレーナーを上体から抜き取るようにして脱いで放り、デニムとパンツを一緒に脱ぎ捨てた。痩せた体から上を向く、勃起しきった陰茎が、菜実には悲しく映った。
「だから、君がいないことなんて、俺は我慢できない。君は俺には、なくてはならない人なんだ。あの時、アイドルで君と出逢ってから、俺は‥」泣くように言った河合の腿に菜実の片足が抱えられ、陰部に手が挿し入れられた。少しの時間ののち、粘膜の音が立ち始めた。
河合は菜実の体を返し、膝を着いた後ろ向きの体勢にした。菜実は、肛門と、心ならず潤んで口を開かせた女陰を河合の目の下に露わに晒し、赤いカーペットに肘を落とし、額から鼻筋を当てて顔を伏せながら、虚無の中に疚しさが入り混じる感情に苛まれていた。やがてブラジャーが取り払われ、乳房に両掌を掛けた河合が、後ろから体を沈めてきた。河合の動きに合わせて、俯いた顔が涙に濡れはじめた。
博人と二人で津田沼に繰り出し、カラオケボックスに入り、二時間コースを選んだ。ポップコーンとたこ焼きをつまんで飲み放題のソフトドリンクを飲み、世代違いの歌を二人で交代に唄った。
博人が入れた曲の前奏が流れた時、村瀬の携帯が鳴った。ディスプレイには、「恵梨香」と表示されている。
驚いた村瀬は、唄う博人に挙手し、「唄ってていいぞ」と耳に声をかけ、ルームを出た。
廊下を行き交う若者達を肩でよけながら、通話ボタンを押した。応答の声を送ると、小さな溜息のような声が漏れてきた。
「恵梨香か。応えなさい。お父さんだ」「お父さん‥」平然と親をお前、てめえという呼ばわりをしていた娘が、実に十数年ぶりに自分をお父さんと呼んでくれたことに、村瀬はじわりと来るものを感じた。
「置いてった手紙は読んだぞ。今、お前、どこにいるんだ」「市川だよ。ヘルパーやってる、早瀬さんっていうおばさんのとこで、家と風呂と飯、お世話んなってんだ‥」言った恵梨香の声は、どことなく遠くへ宛てたもののような抑揚だった。
声と言葉に、相変わらず愛想の調子はないが、近況をさらりと聞くことが出来たことは嬉しい気持ちになった。
「そうなのか‥」村瀬の声が霞んだ。「お前は今、無事なんだな。無事で良かった。本当に良かった‥」村瀬がかすかに震える声を送った時、ふん、と笑う声が返ってきた。
「仕事とかは、今、してるのか。お世話になってるんだったら、家賃とか、食費の足しを入れなくちゃいけないだろう?」「これから入れるよ」「仕事はしてるのか」「障害者の支援施設で、今月の半ばから働いてるよ」「本当か。何っていう名前の施設だ」「市川の鬼越にある、鬼越ライラック園っていう所‥」「そうか‥」
村瀬は目を涙に霞ませながら、背筋を伸ばした。ルームからは、博人が唄うロマンフルドキュンの「ヤンキー哀歌」が盛大に流れている。
「この先、そっちに連絡するとかは、分からないよ。そっちの電話にも出ないかもしれない」「いや、今は、お前が無事ならいいんだ。だけど、お前には、そういうお世話の縁がある気がしてたんだ。分かってくれる人は、ちゃんと分かって、理解してくれるものだからな。待ってろ、博人に代わる‥」「いいよ。こっちはこっちで何とかやってることだけ伝えてくれればさ」「分かった。伝えておく‥」村瀬は力強く答えた。「それと、これから連絡することが、あるかないか分からない以上、言っとくよ」「何だ」「私は、ずっと、あんたを求めてたんだ。誰よりもね。早瀬さんといろいろ話して、最近やっと整理がついたんだ」「恵梨香!」「じゃあね‥」電話が切れた。
村瀬は握りしめたスマホを腰の位置に下ろした。自分の酷い境遇への恨みを弱い者に当てる心と、美咲から刷り込まれた差別心で、盛んに社会的に不利な立場にある人を侮辱する言動を取り、己の行いを屁理屈で正当化し、母親に暴力を振るい、金をあるだけ毟っていた娘が、社会人としての道を歩み始めている。それを後押しした人は‥村瀬は、いつか、その早瀬という女性に必ず礼を言おうと決めた。
涙を拭きながらしばらく立ち尽くし、博人の曲が終わる頃を待って、ルームに入った。
「博人、聞きなさい」曲が終わってから声かけすると、博人はぽかんとして、赤い目をしている父親を見た。そこで、八十年代に「若者の教祖」と呼ばれていたが、二十代の若さで事件性が囁かれる死を遂げて久しい歌手の、夜の校舎に忍び込んで窓ガラスを破損する犯罪行為が歌詞のフレーズにフィーチャーされている、若い憤りに満ちた卒業ソングのイントロが流れ、題名が大きく表示されたところで、村瀬は自分の入れたその曲を、リモコンの停止ボタンを押して、切った。なお、その歌手は別のナンバーでは、バイク窃盗を開き直っている。現在、長男がそのあとを継ぐようにしてシンガーをしているが、その歌詞には、父親のような毒気、耽美的な破滅崇拝の暗みはない。
「今の電話は、恵梨香からだ」「え、お姉ちゃん?」博人は体を乗り出した。
「今、市川にいるそうなんだ。心ある人がホストマザーになってくれて、家の部屋を下宿みたいな感じで借りて、福祉の仕事をしてるらしい」「本当?」
博人はしばらく項を垂れてから、両目から涙を流し、鼻を抑えて、洟を啜り上げ、体を震わせた。
  「良かったよ‥」高くビブラートする声で博人が言い、村瀬はその息子の肩を叩いた。
  「あいつ自身が、あいつなりに気持ちを立ち上げて、それが縁に結びついたんだと思うんだ。しばらくの間は、こっちには連絡しないそうだ。だけど、いろいろとうまく軌道に乗った時に、また会えるって、お父さんは信じてるよ。だから、陰から応援してやろう‥」「うん」
  博人は泣き続けた。隣のルームからは、酔った男ががなる、酷い音痴の軍歌らしい曲が流れていた。
   身繕いを終えた菜実は、カーペットの上に座り込み、瞼を落とした目の視線を落としていた。 
  「悪かったよ」トランクス一枚の姿でベッドの縁に座る河合が、煙草の煙を吐きながらこぼした。
  「こんなに荒く君を抱くつもりはなかったんだ。だけど、抑えられなかったんだ。さっきのパチンコも、欲望が波みたいに押し寄せちゃって。それでも、愛っていうものを寄せる人は、君しかいないんだ。どこのどんな人間よりも。誰よりも」浮いた言葉を、河合はぼそぼそと述べ、菜実は小首を返して彼を見た。河合は細面の顔に暗い翳りを貼りつけ、下を向いている。
  二時間の間に、河合は三度、射精した。菜実の乳房と膣、肛門を、舌と指、陰茎で、存分に貪る抱き方だった。その河合の勃起した陰茎に、彼に強いられるままに口腔の愛撫を奉仕したわけは、彼が突き出す欲望への反射だった。
  菜実は力の抜けた体の尻と脚をカーペットに着け、答えの出ない気持ちの巡りを胸に抱いていた。座り込んだ自分の姿が、背景のない空間に佇み、それが遠ざかっていくビジョンを、頭の中に見ていた。
  「正月も、二日を除いてアマゾニックスの倉庫の仕事があるんだ。だから、三が日が明けた頃に、また電話するから」柏駅の西口改札前で、河合は言い、菜実はそれには何も答えず、瞼の落ちた顔を俯かせた。
  「奥さんとは、離婚の話し合いに入るかもしれないよ。そしたら、その時には、君と‥」河合の言葉は、構内アナウンスと、ホームを離発着する電車の車輪が立てる響きの中、空虚に消えた。
  「じゃあ、また‥」答えない菜実に背中を見せ、カードをタッチして、改札向こうに消えた。
   菜実は、自分の体重があってないもののような心地を、良心を司る胸の一部に覚えながら、その場に立ち果てていた。自分を一心に思う村瀬の微笑した顔が浮かんでは、それが背後の薄闇へと後退し、消えていく。繋いだ手と手がほどけ、その手も、いずこへと消えるという印象像が浮かび、駅のアナウンス他の雑多な音が、その寂寥をさらに盛り立てた。コートの裾をひらめかせながら東武野田線乗り場へ踵を向けた時、また、自分の頬が熱く濡れ始めたことが分かったが、人目は気にならなかった。
  まだ三十代かそれくらいに見える、容姿のいい両親の真中を歩き、浦安の「夢の国」のおみあげらしい青いビニールバッグを持った幼い女の子が、はしゃいだ声で「綺麗なお姉さんが泣いてるよ」と言うのを聞いたが、菜実は振り返ることなく、船橋行のプラットホームへ早歩きした。今日、自分を振り回す行動を取った上、欲望の赴くままに自分を貪り抱いた男の、誰よりも、という言葉が、苛むように繰り返し思い出され、それがさらに憐みの念を強めていた。
  ~人生と常識~
 晦日の午後だった。その日、村瀬は時折レジに入りながら、主に品出しと陳列、バックヤードの入出荷の補助の業務を行っていた。なお、レジ業務は真由美などに助けてもらっている部分はまだあるが、だいぶ板についてきている。
店内BGMは正月仕様の琴のソロが流れ、至る所に、来年の干支をイメージしたイラストが描かれた貼り紙や、小さな門松などが飾りつけられ、すっかり年末ムードに入っている。
1パック税込二千百十三円の「マスオマートオリジナルおせち」に20%引きのシールを貼りながら声出しをしていた村瀬の所へ、香川が来た。
「村瀬さん、ちょっとスタッフルームいいですか?」香川は神妙な顔で声を潜めた。
「“川原様”か?」村瀬がシール貼りの手を止めず、声を落として訊くと、香川は、まあ‥と答えて頷いた。
 川原様とは「買わないハラスメント」という意味のある、万引き犯を表す隠語だった。
「今日は店長も休みに入ってるし、パートさん達にやらせるのも何だし、これは子供を育てた経験がある村瀬さんに当たってもらうのがいいかなと思って。僕は子供、いないし」「子供なのか?」「はい。見たところ、中学生ぐらいの女の子なんですけど、ヤンキー風とかじゃなくて、どちらかというと大人しい感じがして、そういうことをやりそうなタイプには見えないんですけどね。Gメンが声をかけて、連れてきたんですけど」村瀬はシール貼りを止めて、ひと苦言の顔で香川を見た。そこへ母子が来て、小学校低学年に見える少年が、母親の持つ籠におせちを入れた。村瀬は「ありがとうございます」と声をかけた。
「三月には副店の辞令も出る予定だし、ここは一つ、慣れるという意味でも。あの時は、このお店と、お客様を助けるために、あれだけの活躍をされたんだから、大丈夫ですよ」「そうは言っても、ああいうのとはまた違うやりづらさがあるよ」言ってみながらも、近くで品出しを行っている正田(しょうだ)という年配の男性パートタイマーに、「すみませんけど、そちら終わったら、おせちのシールお願いしてもよろしいでしょうか」と声かけし、スタッフルームへ足を進めた。
観音開きの錠なし扉を開けて廊下へ進んだところで、中年の女性店員の悲鳴染みた声が聞こえた。それは「あなた、やめなさい!」という語彙を含んでいた。
村瀬は小走りに走った。その少女が暴れているのなら、自分にはやめさせる義務がある。
後ろに香川を引いてスタッフルームに入ると、令和の今は、普通の常識を持つ世界では、男がまず見ることのない光景が拡がっていた。
うろたえきった二人の女のパートタイマーに囲まれるようにして、スリップとパンティの下着姿の少女が立っている。村瀬は視線を外し、香川は、あわ‥と聞こえる声を発して顔を両手で覆ったが、彼は指の間から見ているらしいことが覗えた。
「服を着て」村瀬は香川に呆れるのもほどほどに、優しい言葉を努めた。「いくらこういうことをしても、被害を受けたお店は、ちゃんとそれを処理しなくちゃいけないんだ。だから服を着て、話を聞かせてもらえるかな」
もういいかな、と言って視線を戻すと、少女は黒のセーターと、ギンガムチェックの膝上スカートの服装になっていた。テーブルには、ペットボトルのコーラと、二点のスイーツ類、小学生から中学生の女の子に好まれている、おまけつきのグミキャンディ、チョコレートが置かれている。髪の整容具合、服装は困窮した家の子供のものではない。それが何故、こんな千円にも満たない額の万引きをしたのか、それに加えて服を脱ぎ出すという行いは何の意味を含んでいるのかと思ったが、当人よりも長く生きている村瀬は、事情はそれぞれという答えを腑に落とす。
この万引きは、保護者などを振り向かせたいという思いがあってやったこと。正確なものかどうかは分からないが、おおかた、事情的にはそういうところか。だが、使い走りの不良が格上の者から命令されてやることもあるし、困窮する家の子供の場合、保護者にやらされることもある。特に後者は、悲しいことだが、日本に根を張る格差社会を象徴して、現実に起こっている。
この少女の心の中にしかない、裸になろうとした理由は、何かの深刻な事情がありそうだと村瀬は思った。
「座って」村瀬が言うと、少女はためらいがちに、ソファに腰を下ろした。斜め上の壁には、「熱意」という墨字書が、額縁に入り、掛かっている。少女の隣には、マスオマートと契約している万引きGメンの中年の女が座っている。
俯いた顔にパーツとして付く、睫毛の長いぱっちりとした目と、お洒落な菱形の輪郭に、ますます、村瀬の記憶の中にある見覚えが騒ぐ。
「中学生? 高校生?」村瀬が訊くと、少女は三十秒間ほど固く唇を閉じて押し黙ってから、耳を凝らさなければ聞こえない声で、中学、と答えた。
「じゃあ、まず、名前を教えて」村瀬は言い、数秒沈黙したのち、小声で話された少女の名前を、バインダーに留められた紙に書いた。
こしばゆうり。それが少女の名前だが、村瀬の知るその「こしば」の苗字は一人しかいない。それは言わずもがな、互いが子供だった時間に、初恋の原形と呼べる関係性にあり、万年筆をプレゼントしてくれた小柴(こしば)早(さ)由美(ゆみ)だった。苗字が同じの上、外観も生き写しと言っていいが、内縁でない限り、結婚すれば苗字は変わる。だが、離婚、死別もある。村瀬は母親の名前を訊き出そうかと思ったが、やめることにした。
「ここに、自分の名前を自分で、漢字で書いてくれるかな」村瀬は言い、バインダーをとボールペンを進めた。少女はためらいの出た手つきで、言われたことに従って、名前を書いた。バインダーを取り、見ると「小柴(こしば)悠(ゆう)梨(り)」とあった。
「売り場、戻っていいよ」村瀬は後ろに立っている香川に指示した。香川は小さく頷いて、体をターンさせてスタッフルームを出ていった。
「全部で、だいたい八百円前後ですかね。バッグに入れて店を出ようとした所を呼び止めたら、認めましたので」Gメンの女が言い、村瀬はそうですか、と返して、社用のPCを開いた。
マスオマート全体で共有する窃盗犯リストを開き、見たが、少女が名乗った名前はなく、全くの初犯らしいことが分かった。
「中学はどこかな」村瀬が訊き、悠梨という少女はまた押し黙った。
「あなた、正直に答えないと、自分のためにならないわよ」万引きGメンの女が迫力を挿した。「あなたがしたことは、歴とした罪なの。その罪に、大人だとか、子供だからっていうのは関係ないのよ。あなたは確かにまだ子供かもしれないけど、子供のうちにこういう癖を手につけて、そのまま大人になったら大変なことになるのよ。だから、訊かれたことにちゃんと答えて、反省しなさい。そうすれば、子供のうちの過ちに留まるんだから」
「任せてもらえますでしょうか」村瀬は挟んで、Gメンの女に軽く挙手した。
「まあ、罪、それはそうでしょうけれど、まだ子供さんですよ。他ではどうか分からないですけど、ここでは初めてみたいだし、まだまだ反省の出来る余地はあると思いますので‥」村瀬の言葉に、Gメンは納得しきれないなりにもその意見を受け入れる顔になった。気迫を持たなければ業務の成立しない仕事である以上、村瀬も立場を汲まなければならない。村瀬とて、その気迫を成り行き的に養ったからこそ、吉富を排除し、彼の子供達を救う糸口を開くことが出来たのだから。
小柴悠梨は黙したままだった。一分ほど経っても、彼女の口が開く様子はない。
「ごめんね。でも、あなたが今日したようなことが赦されちゃうと、ちゃんとお金を払って商品を買ってお帰りになる他のお客さん方に示しがつかなくなっちゃうし、お店も困ってしまうんだ。こちらの訊くことにあなたが答えてくれないと、あなたも帰れなくて困ることになるし、私達の仕事にも差し支えが出るんだよ。これは常識の対応で、確かに警察と、学校にも親御さんにも連絡をしなきゃいけない。それであなたは怒られるだろうけれど、これからは二度とやらなければいいことじゃないかな。何も言わないことのほうが、あなたにとって不利になるよ」村瀬が諭すと、悠梨の唇がぽかっと開いた。
「鷺沼北中‥」細く、蚊の鳴く声の答えが悠梨の口から発せられ、村瀬はそれを復唱しながら書き込んだ。
「今、親御さんには連絡はつくかな」「お母さん‥」「お母さん?」村瀬の問い返しに、悠梨は俯いたまま頷いた。その答えに、村瀬は先ほど抱いた予感を確信に近づけた。
父親は不在だと思われ、連絡の可能な家族は母親だけらしい。それならば、母親の姓が小柴でもおかしくはない。
「じゃあ、連絡のつく電話番号を教えてもらえるかな。お母さんの職場か、それか、携帯番号だね」村瀬が促すと、悠梨は脇のバッグからガラケー携帯を取り出し、「おかあさん」とある電話番号を表示させた。村瀬はそれを紙に書き写し、テーブルの上で充電器に載っている社用携帯を取った。先に警察に連絡をしなかった理由は、当人が子供で、保護者による被害弁済などの誠意を見せてくれることに期待したからだった。
「ごめんね。でも、これも私達の、仕事上の義務だからね」村瀬は俯いたままの悠梨に言って、廊下へその身を移動し、紙に書いた080の番号をプッシュした。
二回の呼び出し音ののち、はきとした声の女が、はい、と言って出た。「もしもし、小柴様の携帯でお間違いないでしょうか」「そうですけど」村瀬の送った声に、張りのある女の声が応答した。
「さようでございますか。私は、スーパーマーケットチェーンのマスオマートの者で、村瀬、と申します」「はい。用件はどういったことでしょうか」女は聞き覚え確かな声で問うてきた。村瀬は思いを呑み下した。
「何の用件ですか?」「小柴悠梨さんは、娘さんでお間違いありませんでしょうか」「そうですけど、娘が何か」「娘さんでいらっしゃいますね。実は大変申し上げづらいのですが‥」「万引きでしょうか」女は何の動揺もない声で問い返してきた。
「はっきりと申し上げてしまいますと、さようのことになります。万引きをされた商品は、飲み物が一点と、あとは菓子類です。金額的にはたいした額ではございませんが」「分かりました。娘は今、そちらにいるんですよね」女の言葉が村瀬の説明を遮った。
「私、今、用あって三咲にいるんですよ。遅くても三十分以内には行けると思いますので、待ってていただけますか?」「分かりました。お来しになるということで‥」「買い取りますので。それでは、のちほど」「ご足労をおかけしまして、申し訳ございません‥」村瀬が形式上の詫びを言うと、女は電話を切った。
「もうじきお母さんが見えるよ」村瀬は業務用携帯を充電器に置いて言ったが、悠梨は目立った反応を返さなかった。
「よかったら、ちょっとお話しようか」村瀬は微笑して、悠梨の前に座り直した。
「見た感じ、あなたには、いろいろと心のほうにわけがありそうだって、私は感じたんだ」村瀬は言いながら、自分の左胸に右の掌を当てた。
「私が人生の道すがらで確かに学べたと思うことを言うと、人生っていうものは、そもそも道なき道なんだよね。道がないから、そのない道を切り拓く過程で、間違ってしまうことも一度や二度じゃないんだ。感情的になることもあるしね。つまり、人生は、間違いあってこその人生なんだよ。勿論、これが間違いだと分かっていることを繰り返してしまう人生は良くない、というか悪い。間違いだと気づいたことは、繰り返さないことが大切だからね。だから、もしも今のあなたが、正しいことと間違ったことの境目が分からなくて悩んでるんだったら、よかったら話してごらん。もう五十歳に手が届いてるおじさんだけど、これまでの道すがらじゃ、そこそこ濃い経験をしているから、小柴さんにとってヒントになる助言が出来るかもしれないよ」
瞼の落ちた目をテーブルの上面に向け、口を閉じたままの悠梨の様子に、親切のつもりが酷なことを振ってしまったようだと、村瀬は反省の念をよぎらせた。話してごらん、とは、自分が理解したふりをした彼女の心をこじ開けるような無理強いで、この目の前の少女は、一見の関係性で、小さな市民でしかない人間には話せない何かを抱えている。
あるいは、ハンディキャップ。二ヶ月半前の純法主催、手繋ぎ式で、生田絹子のあとの二番目に組んだ、わたなべゆき、という女の子に、自分からは他者に会話を振らずに貝のように態度をつぐんでいる様子、表情に乏しい顔が同一と思える。それに、遠い頃、夏休みのアルバイトで入った洋菓子工場で一緒になった、形容するところ、「ウドの大木」のような少年。
純法の鴨で間違いないであろう、ゆきの現在も気になるが、あの物言わぬ大木、岩のような少年も、すでに中年域に入った今、どういう人生を送っているのか。今の村瀬には明らかな広汎性発達障害と分かるが、障害の認定は受けて、手帳が交付されているのか。何故そこに思いを馳せたかというと、自分の抱える生きづらさを認めないばかりか、気づくことすらない人間達と、公立の義務教育と人を相手にする仕事の中で、否応なしに関わらなければならなかったからだ。
事実上、村瀬が出入り禁止にした吉富は、最も恥ずかしい類いの刑事事件を起こして生活保護も打ち切られたはずだが、これからどうやって、中年から壮年、老年の時間を生きていくのだろう。兼田は、あのまま生きていたところで、今頃どんな中年男になっていたことだろう。日本の法律をどこまで知っているのか、今の社会で腕力だけで何でも埒が明くと信じきり、知性を得ることに関心を持たず、自分達の行いが何をもたらすかを想像出来ない「特攻拉麺」の若者達は、あのまま行けば、どんな中年、壮年、老人になり、老いた頃にはどんな境遇下に置かれているのだろう。考えても考えても暇がない。
「ごめんね。まだ誰にも答えたくないことがあるんだね。それなら整理がついた時に、誰か信用出来る人に話してみるのがいいだろうね」表情のない顔と、顔を俯けた様子が変わらない悠梨に、村瀬は優しく声かけした。
「でも、今日のことは、ちゃんと反省して、同じことをまたやらないようにしよう。そうなると、一番困ることになるのはあなたなんだ。もう少しでお母さんが来るから、待ってよう」
Gメンの女をふと見ると、溜息でもつきたげな、村瀬への呆れが出た顔をしていた。村瀬の対応が常識を逸して甘い、と言いたいのだ。だが、村瀬はこれでいい、やるべきことはちゃんとやっている、と自分を納得させた。その他には、何もないからだった。
扉がノックされ、中から応対の声を送ったパートタイマーに、「小柴ですけど」と答える声がしたのは、それから二十分近くが経過してからだった。はい、と答えたパートタイマーが扉を開けると女が入ってきた。立ち上がった村瀬が一礼したその女は、緩やかなパーマをかけた背中までの髪に貝殻のイヤリング、黒い本ミンクのコートに黒のハイヒールを履き、腕にはブレスレットと金の時計、金のチェーンに下がる鰐革のバッグを肩から掛け、指には銀のプラチナリングを光らせた四十代だった。
村瀬が見たその顔は、かつて妹分であって、小さな恋のようなものを一緒に紡いだ小柴早由美と、目、鼻、口、輪郭、特徴的な尖った顎と、どこも、何一つ違う箇所はなかった。
美しかった。最後に会った時から数えて、二十幾年の歳月を経ても。それでも変わってしまったものがあるとすれば。
華美な外飾。娘の非行行為に、まるで開き直ったかのように、いささかの動揺も見せない言葉態度。それを思うと心なしか、目と口許の感じに、あの頃にはなかった険が見えるような気がする。
「豊文君‥」昏く妖熟した女になって、村瀬の目の前に立った早由美の口から、彼の名前を呼ぶ声が小さく漏れた。村瀬はもう一度、軽く頭を下げた。
早由美はしばらく、偶然が導いた再会の静かな驚きを小胸に畳んだように、横目で床に目線を遣って立っていたが、やがて、娘が盗んだ何点かの商品を目に留める位置までハイヒールの足を進め、紅いルージュの唇を開いた。
「全部でおいくらでしょうか」「計八百十三円となりますが」値段を尋ねた早由美に、村瀬が答えた。
「買い取ります。これでも私、世間の見映えがいい仕事をしておりますので、こんなことが広まったら困るんですよ。今回に限って、警察と学校には連絡をしないでいただけますでしょうか」誰へともなく言った早由美が、鰐革バッグから一見して高級なものと分かる財布を出し、テーブルに硬貨を数枚出し、置いた。その間に村瀬が小さなサイズの袋に商品を入れていき、早由美に差し出した。早由美はそれを表情もなく受け取った。
「行くよ、悠梨‥」母親に呼びかけられた悠梨がソファを立った時、Gメンの女も立ち上がった。その顔には、母親の常識感覚を疑う表情がありありと浮かんでいる。
「ちょっと、あなた」娘を引いてスタッフルームを出ようとしている早由美の背中にGメンが声を投げ、歩みを止めた母娘に進み寄った。村瀬には、Gメンが言わんとしていることが容易に想像がついた。
「あなたの感覚では、これはお金を払ってしまえば済むことなんですか?」Gメンの問いかけに、早由美は居直りきった顔を向けた。悠梨は変わらず、表情のない顔を下に向けたきりだった。
「今日、お子さんがここでやったことは、刑事罰の対象になることです。これからお子さんがこういう手癖をつけないようにするために、親御さんとしてどうするかということなどは、お考えになっていないのでしょうか。もしもこれが大人でしたら、簡単に収まるものではないですよ。窃盗障害、クレプトマニアというものがあることは、日頃テレビを観ていればご存じではありませんか? 衝動が良心に勝ってしまって、窃盗をやめたくてもやめられない障害です。これは社会的地位、人格の優劣に関係なく発症するものです。子供のうちに教えておかないと、あとから大変なことになりますよ。今日のことを、あなたはどう思ってるんですか。先ほど、今回に限って、とおっしゃいましたけれど、次に娘さんが同じことをした場合、その時はきっちりと警察と学校の沙汰にして、けじめをつけさせるということでよろしいんでしょうか」Gメンの言葉に、早由美はますます居直ったような笑いを顔に浮かせた。
「あの、笑っているのは何故ですか。今日、娘さんがここでやったことは、あなたにとって笑うようなことなんですか」Gメンの顔と口調が憤りを帯びた。「私は弁済を済ませましたけれど」憤るGメンに、早由美は冷めた言葉を投げ返した。
「確かにうちの子供が、今日ここで迷惑をおかけしたことについては、親として申し訳ないと思ってます。だけど、今回のことで、親の私もこの子も、弁済以上のことをしろと言われても、それは出来ないはずじゃないですか。自分の心ならず、ぎりぎり刑法の縁を歩いてしまって、その縁を踏み外してしまう可能性は、誰でもあるものです。そのために弁護士事務所だってあるものでしょう? 私が行った事の処理は、民法に則った、まっとうな処理ですよ。したがって、今日のところは、私にも娘にも、これ以上のことはしようがないんです」呆れを呑んだ顔のGメンに、早由美は、理路整然と自論を述べた。
  「行くよ」早由美は先に言ったことをもう一度娘に言い、ミンクコートの裾をひらりと翻して、踵を返した。娘がそれに続こうとした所で、Gメンの女が歩を進めてその脇に並んだ。
「ちょっと待ってもらえますか。これだけじゃないんですよ、今日のことは‥」Gメンが耳打ちするように言い、早由美が無表情にその顔を見返した。
  「娘さんが、私達の前で裸になろうとしました。娘さんの心の中にある理由、お母様が分かっておられる原因は、何か思い当たることはありますか?」Gメンに問われた早由美の口端に、意味のありげな笑いが浮かんだ。
  「そうなんですか。今日、そんなことまで娘がやったとは露知らずでしたね。考えられる理由があるとすれば、自分はこれの他には何も盗ってないっていうことを、娘なりに証明したかったんじゃないんでしょうかね。体のほうは生意気にもう一端ですけど、こっちは少し遅いもので」早由美は手に下がる袋を上げ、指で自分のこめかみを叩き、「失礼します」と加えて、扉を開けた。
  「早由美ちゃん‥」村瀬はスタッフルームを出、錠なし扉を押そうとしていた早由美を呼び止めた。早由美と娘が同時に振り返った。
 「久しぶり。あれから県外へ行ったって聞いてたけど、元気かな。俺があのあと銀行に就職して、それから結婚したことは、うちのお袋からおばさんに話が行って聞いてるかもしれないけど、見ての通り、今はスーパーの店員だよ。早由美ちゃん、仕事とかは今は‥」
 早由美は、妖しげな化粧の顔に、昔と変わらない懐きの笑みを浮かべた。
 「電話で、名前と声で豊文君じゃないかって思ったのよ。そしたら、当たってた。元気でやってるみたいで、良かった‥」早由美は笑んで、村瀬の小指に自分の小指を繋いできた。村瀬の胸中に昔が蘇った。
 「仕事は、今、わりと稼いでるのよ。富山の、歯科医さんの所へ嫁いだことは知ってるでしょ? でも、離婚になって、八年前にこっちに戻ってきてね。今、谷津なの。この子と親子二人で」「俺も離婚組だよ。今、息子を引き取って二人で住んでるんだ。そうだ、おばさんは‥」「母は、亡くなって、もう五年になるかな。ガンで長患いしてたんだけどね。そのあとで、父も逝っちゃったのよ。あとを追うようにしてね」「そうなんだ。うちの親も、もう両方ともいないよ。同じだね」「ちょっと待って‥」早由美は村瀬と繋いでいた小指を外し、バッグのチャックを開け、一枚の付箋を取り出した。村瀬の手に渡されたその付箋には、電話番号、Eメールアドレスが、綺麗な字で書かれている。
 「もし差し支えなかったら、登録して。時間がある時に、電話でも、ラインでも、メールでも‥」「分かった。ありがとう」「付き合ってる人は、誰かいるの?」村瀬に訊いた早由美の目が丸くなった。
  「いるよ」村瀬は偽らずに答えた。
  「そうなの。じゃあ、その人に焼き餅を焼かせないように、配慮するから‥」早由美は言い、扉を押した。「あの時、早由美ちゃんがプレゼントしてくれた万年筆、まだ持ってるよ」村瀬が言うと、早由美は頷いた。
  「じゃあね、また‥」残して、派手な装飾のその姿を、扉の向こうの売り場へと消した。娘の悠梨が、俯いたまま続いた。
  村瀬は、早由美母娘が去ったあとの廊下に立ち、渡された付箋を見ながら、この再会が喜ぶようなものではないことを巡念していた。
  自分に万年筆のプレゼントをくれた頃の彼女とは、身に着けるものなどの外観、顔つき、常識観などが大幅に違っており、見てはいけないものを見てしまったという思いがある。
  弁済も一つの償いの方法であるし、健常でありながら心ならない、または判断力が不全な人が、知らぬという故の脱法、触法を犯してしまった時のために弁護士事務所はあるものだと思う。
  それでもそれらの方法、機関は、罪を犯した当人の反省が前提にあって成り立つものでなくてはいけない。
  だが、今日の日に、二十数年の時間を隔ててまみえた早由美は、誰の目から見ても、自分が養育する子供が及ぼした迷惑、周囲に与えた困惑を詫びる気持ちが覗えないだろう。
  スタッフルームに顔を覗かせた村瀬は、「売り場に戻ります」と、中のパートタイマーに声かけした。
  扉の前には真由美がおり、一番レジ、お願い出来ますか、と、出てきた村瀬に笑顔で要請した。
  二番、三番の後ろには、師走の買い出しで買い物籠を山にした客達が列をなしている。村瀬は一番に立ち、「お待ちでしたらどうぞ」と、笑顔で大きく声出しした。左右に並んでいた客達が、わらわらと一番レジに並び始めた。
  バーコードスキャンを行いながら出入口の自動ドアを見ると、ミンクコートと黒いセーターの背中をこちらに向けた早由美母娘が出ていく後ろ姿が捉えられた。
  連絡はしまい、と村瀬は決めた。何故なら、子供の義毅が結婚を奨めていた頃とは違い、今の早由美は、我が子を大切にしないという最低な形態の親であり、自分の虚飾、虚栄を第一にする女に成り下がってしまったことが分かったからだった。今、心に立ち昇っている虚しさは、菜実との初詣で解消しようと決めた。 レジ台の上に顎と手を載せた幼い男児が村瀬に笑いかけ、村瀬も笑顔を返した。
しおりを挟む

処理中です...