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「またね、誠人くん」
「うん。また大学で」
ロングスカートの裾がふわりと翻って、来た方向へと歩き去って行く。
夕陽を浴びるその背中を見送っていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。
「阿波井」
「お待たせ」
振り向くと阿波井が立っていた。
モノトーンでまとめたシンプルな格好でも、相変わらず様になっている。
その証拠に、同じように待ち合わせをしている周りの人々の視線が、阿波井に向けられていた。頬を染めてヒソヒソと耳打ちする女性たちがいるのは、もう見慣れた光景である。
阿波井は俺が眺めていた方角を見遣りながら、小さく首を傾げた。
「今の子、知り合い?」
「あー……」
視線を泳がせながら、言葉を濁す。
そんな俺の態度に阿波井が怪訝そうな顔をするものだから、俺は躊躇いがちに口を開いた。
「彼女だよ」
「……ああ、そうなんだ」
阿波井から言葉が返ってくるまでに妙な間があったが、俺も何故かうしろめたい気持ちになっていて、それを気にする余裕は無かった。
どうして自分がうしろめたさを感じているのか分からなくて戸惑う。
別にそんな必要は無いはずなのに。
「付き合ってどのくらい?」
「まだそんな経ってないけど、……四ヶ月くらい」
「へえ。どこで知り合ったの?」
「ええと、大学。学部が同じで……って、めっちゃ質問責めしてくるじゃん」
「はは、ごめん。気になっちゃって」
次々と飛んでくる質問に、俺は気怖じしてしまう。
この手の話を自分からするタイプでは無いし、相手が阿波井ならば尚更だった。
「もしかして今日、デートだった?」
「いや、偶然会っただけ」
「そう、なら良かった」
良かった、とはどういう意味か。
邪魔しなくて良かったということだろうか。
自分の心中が落ち着かないせいか、阿波井の言葉や態度を妙に勘ぐってしまう。
どうしてそんなことをしているのかは自分でも分からなかった。
「今度紹介してよ」
「ぜ、絶対やだ! 恥ずかしいだろ」
冗談交じりに言った阿波井に、勢い良く首を横に振る。
彼女を友人に紹介するだなんて照れ臭すぎる。
それに何より、彼女を阿波井に会わせたくなかった。こんな良い男、誰でも好きになってしまうから。
「瀬川のケチ。……ま、それはいいとして、行こうか」
阿波井にそれ以上のことを聞かれることは無く、俺はひっそりと胸を撫で下ろした。
ところで、俺も阿波井も特段これといった趣味は無いのだが、サッカー観戦が好きだということは共通している。
というのも、お互いの父親がかつてサッカー少年で、物心ついた時からテレビでサッカーの試合が流れていたのだ。
ワールドカップの時期には、試合を両家揃って観戦するのが恒例だった。その恒例行事も、俺たちが高校に上がるとともに途絶えてしまう。
それを思い出した俺たちは、今夜行われる次回のワールドカップに向けた予選試合を共に観戦しようということになったのだ。
ちなみに何故阿波井の家かというと、俺の家のテレビが絶賛故障中だから。
それに阿波井の家のテレビの方が画面が大きくて、試合観戦には最適だった。
「はいこれ。見ながら食えるかなと思って」
「ありがとう。………お、いいね、美味そ」
待ち合わせ前に買った軽食を阿波井に差し出す。すっかり日は落ちて、窓の外は薄暗い。色々準備しているうちにすぐに試合の開始時間になるだろう。
その時、阿波井のスマホの着信音が鳴った。
「……ごめん、ちょっと出てくる」
「おー、行ってら」
スマホを持った阿波井がベランダに出ていった。この時期は昼は暖かいが、夜はぐんと寒くなる。
その場で出れば良かったのに。自分の家なんだし。
ペットボトルをローテーブルの上に出しつつ、その背中を横目で見る。
窓を閉めているから、何を話しているかは聞こえない。
ただ、出ていく前にちらりと見えたスマホの画面には、女性の名前が表示されていた。メッセージでは無くわざわざ電話してくるくらいだから、彼女だろうか。
俺は阿波井の彼女についてよくは知らない。俺のことを聞いてくる前に、自分のことを話せと言いたいものだ。
そういう話題にならなかったというもあるけれど。
阿波井の電話は案外長く、阿波井がベランダから戻ってきたタイミングで試合のホイッスルが鳴った。
見ているうちに段々と前傾姿勢となってしまうくらいに、テレビの中で繰り広げられる試合にのめり込んでいく。阿波井の電話をする姿が妙に印象に残っているが、それよりも時折悲鳴や歓声を零してしまうほど目の前の光景に夢中になっていた。
ハーフタイムの隙に阿波井と前半の試合について語り合った。その瞳が子どもの頃のようにキラキラと輝いている。きっと俺も同じだろう。
俺も阿波井も最後は祈るように手を組みながら、選手たちの勇姿を見守っていた。
「ま~~っじで、アツかったなあ……!!」
「それ。後半ラスト五分のあれはやばかった」
ぼすん、とソファに倒れ込む。興奮でまだ心臓がバクバクと音を立てていた。
初めは負けていた日本が、後半に入ると点を取り返していき、最後には逆転勝ちしたのだ。高校以降、サッカーをやる機会は無かったけれど、やはり見ると盛り上がってしまった。
同じく興奮して喉が渇いたのか、阿波井は一気にペットボトルのジンジャエールを飲み干して、こちらを振り向いた。
カーペットの上に座っているから、ソファに横になっている俺と丁度目線が合わさる。
「この後やるサッカー特番で、過去のワールドカップのスーパーゴール特集やるらしいぜ」
「マジで? 見たいな」
「終電まで時間はまだあるし、見ていけば?」
「うん、そうする」
阿波井の顔が再び前を向いた。その長い指がテレビのリモコンに触れる。
番組と番組の合間を埋めるテレビコマーシャルを眺めながら、ずっと頭の片隅で気になっていたことを思い切って尋ねてみた。
「さっきの電話って彼女?」
阿波井の肩が僅かに揺れる。
視線をテレビに向けたまま、うーん、と阿波井は悩ましげに首を捻った。
「そんな感じ」
「何だその煮え切らない答え」
「じゃあ、イエスかな」
含みのある返答が気にはなるが、一旦そこは置いておくことにする。
「どんな人?」
「何、恋バナしたいの?」
「いいから。教えろよ」
くすりと阿波井が微かに笑った声がした。はぐらかそうとしているようで、少しが腹が立つ。思わず語気が強くなってしまった。
阿波井は少しの間考える素振りをみせると、コマーシャルを見ながらゆっくりと口を開いた。
「自分に凄く自信を持っている子かな」
「それって褒めてる?」
「もちろん。だから前向きで明るいよ。努力家だし」
「そっか」
俺は少しひねくれているから、何だか悪い意味に聞こえてしまうのだろう。
口を噤んだ俺に、今度は阿波井が問うてきた。
「瀬川の彼女は、どんな感じの人?」
「え……うーん、天真爛漫で、ちょっと天然」
「小柄で童顔?」
「うん……ってなんで分かるんだよ」
「はは、小学生の時からそうだろ。好きなタイプ、変わってないな」
それではまるで俺が子どもの頃から成長していないかのようでは無いか。阿波井の肩をグーで軽く殴ってやる。
痛い痛い、と笑いながら阿波井がようやくこちらを振り返った。
「……昔って言えばさ。中学二年の時、阿波井がクラスの女子全員からバレンタイン貰ってたの、思い出したわ」
「そんなのもあったな。ホワイトデーにお返しするの大変だったよ、あれ」
「それめっちゃムカつく。……でも、モテる割になかなか彼女作らなかったよな」
「あー……そうだっけ」
下駄箱も、教室の机の中も、家のポストまで阿波井宛のチョコレートで埋め尽くされていたのを思い出す。
母親と叔母からしかチョコレートを貰えなかった俺は、山盛りのチョコレートを抱える阿波井が羨ましかった。
ただし、単純な子どもだったので、食べきれないからとおすそ分けされたチョコレートを有難く貰っていた記憶がある。
今思えば、女子から末代まで祟られそうな案件だ。
そんな阿波井は当然の勇気ある女子たちから告白はされていたのだけれど、そのほとんどを断って、なかなか彼女を作ろうとしなかったのだ。
「そうだよ。だから、阿波井が……」
そこまで言いかけて、言葉を飲み込んだ。
阿波井が不思議そうに俺を見る。その艶やかな宝石のような瞳が、俺の地味な顔を映し込んでいた。
視線を逸らすと、タイミング良くテレビの画面が特番のオープニングに切り替わっていた。俺は慌てて画面を指差す。
「ほ、ほら! 特番始まった!」
「え……ああ、ほんとだ。でもさっきの、……俺が何だったの?」
「大したことじゃねえし、いいから。それよりさ、ゲストに元日本代表が五人もいる」
「うわ、ほんとだ。しばらくメディアに出てなかった選手もいる……懐かしいな」
特番に興味が移ったらしい阿波井の視界から外れることができて、思わず安堵の息を吐く。
つい思いついたまま話してしまいそうになった。
中学三年になった頃、告白される度にそれらを断るくせに、一向に彼女を作ろうとしない阿波井に、とある噂が立ったのだ。
阿波井がゲイだという、思春期の男子生徒たちによる羨望と嫉妬が入り交じった、くだらない噂。
阿波井のことが気に食わない生徒たちの何人かがそれを吹聴して回ったが、信じる奴は少なかった。その少人数が、阿波井のそういう相手として目を付けたのが、俺だった。
確かにクラスが違っても一緒に登下校するくらい仲が良くて、割といつも行動を共にしていたけれど、それは家がお隣さんの幼なじみだからだ。
とはいえ悪ガキたちにとってはそんな事実はどうでもよく、俺も阿波井と一緒にその悪ふざけのターゲットになってしまった。
噂が立ってすぐ、阿波井が学年一可愛い女子生徒と付き合いだしたので、その噂はすぐにデマとして処理された。
あのほんの一時期だけ、二人の間がぎくしゃくしてしまったっけ。
そんなことをぼんやりと思い出しながら、テレビに映し出される映像たちを眺める。
先程までの興奮はすっかりさめてしまって、折角の名プレーの数々も、あまり頭に入ってこなかった。
「………ぁ、う」
微かな衣擦れの音に、沈んでいた意識がゆっくりと浮上する。
ここはどこだろう。家に帰ったのだろうか。寝ぼけた頭では上手く整理がつかない。
薄らと瞼を持ち上げる。横たわっているのはソファではなく、ベッドの上だった。部屋は暗いけれど、自分の部屋の寝室では無いことは分かる。
どうやらテレビを見ながら眠ってしまったらしい。
なんというデジャブ。本格的に阿波井に謝らなければならない。
いくらなんでも人様の家でリラックスし過ぎだろう。自分にほとほと呆れてしまう。
ギ、とベッドが微かに軋む。反射で薄く開いていた目を閉じた。
爽やかで、少しだけ甘みを含んだ香りが鼻腔を擽る。これが阿波井の匂いだと俺は知っていた。
時計の針の音が響くような静かな部屋は、阿波井の呼吸する音ですら拾うことができる。
阿波井の気配がぐっと近くなって、ドキリと心臓が跳ねた。何で目を閉じてしまったのだろう。
不意に阿波井の手が俺のシャツに触れた。わざとか否か、その手が胸を撫で上げる。飛び出しかけた声をすんでのところで噛み殺した。
胸元の布が僅かに引っ張られて、何かが擦れるような乾いた音がする。シャツのボタンが一つ一つ、外れされているようだった。体の筋肉が張り詰めたように固まる。
なすがまま全てのボタンが外れて、冷えた外気が肌着越しに腹から胸を這う。
阿波井の指先が臍あたりでくるくると円を描いた。ぞくりと擽ったいものが背筋を駆ける。
不穏な動きをするその手が、ゆっくりとさらに下へと移動していく。
指がウエストのベルトに掛かった瞬間、俺は弾かれたように阿波井の腕を掴んだ。
「あ、わい……っ!」
「おはよ、瀬川」
ぼんやりと輪郭を持った阿波井の唇が、うっすらと弧を描く。その双眸は悪戯っぽい光をきらりと宿していた。
「おまえ……分かっててやったな……」
「狸寝入りする方が悪い」
強ばっていた体から一気に力が抜ける。
本当に焦った。てっきり阿波井に────と浮かびかけた思考を、頭の中から追い出した。
「それに、着替えさせてあげようとしただけだぜ」
「それなら起こしてくれよ……」
「すやすや気持ち良さそうに寝てたから、起こすのは可哀想かなって」
「それは、その……悪かった」
非があるのは自分の方なので何も言えない。
押し黙った俺を、阿波井は眦を緩めて見下ろしていた。
────そう、阿波井は俺を見下ろしていた。
俺の頭の横に手をついて、俺に覆い被さるようにして、ベッドに乗り上げている。
吐息が鼻先にかかるほど、近いところにその美しい顔がある。
阿波井の目はくっきり二重だと思っていたけれど、左目は奥二重だと初めて知った。
「……着替えさせてあげようか」
まるで秘密を打ち明けるかのように、低まった囁き声が俺に問う。その声色に耳の後ろがぞくぞくした。
ぐっと俺の体温が上がるのを感じる。
「か、彼女に言えよ、そういうこと……」
「……瀬川、今日、やたらとそれについて言うよな」
情けなく震える俺の声に、阿波井が呆れたようにため息を吐いた。
そんなものはどうでもいいと言わんばかりに。
「……それで、どうする?」
阿波井の瞳の奥が妖しく光っていた。
いつもの爽やかなそれでは無く、どこか蠱惑的な微笑みに、上手く息ができなくなる。
阿波井の申し出を断るために、口を開く。
つられて薄らと開いた阿波井の唇の隙間から、赤い舌がちらりと見えた。
「…………やって」
時計の音に紛れてしまいそうなほど小さな俺の声に、阿波井がふっと吐息を洩らして笑った。
阿波井の手が、肌着の下へと潜り込んでくる。
ああ、多分これは夢だ。
他人の家で夢まで見るなんて、なんて図々しい男だろう。
素肌を撫でる大きな手は心地よく、俺は身を委ねるように目を閉じた。
「うん。また大学で」
ロングスカートの裾がふわりと翻って、来た方向へと歩き去って行く。
夕陽を浴びるその背中を見送っていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。
「阿波井」
「お待たせ」
振り向くと阿波井が立っていた。
モノトーンでまとめたシンプルな格好でも、相変わらず様になっている。
その証拠に、同じように待ち合わせをしている周りの人々の視線が、阿波井に向けられていた。頬を染めてヒソヒソと耳打ちする女性たちがいるのは、もう見慣れた光景である。
阿波井は俺が眺めていた方角を見遣りながら、小さく首を傾げた。
「今の子、知り合い?」
「あー……」
視線を泳がせながら、言葉を濁す。
そんな俺の態度に阿波井が怪訝そうな顔をするものだから、俺は躊躇いがちに口を開いた。
「彼女だよ」
「……ああ、そうなんだ」
阿波井から言葉が返ってくるまでに妙な間があったが、俺も何故かうしろめたい気持ちになっていて、それを気にする余裕は無かった。
どうして自分がうしろめたさを感じているのか分からなくて戸惑う。
別にそんな必要は無いはずなのに。
「付き合ってどのくらい?」
「まだそんな経ってないけど、……四ヶ月くらい」
「へえ。どこで知り合ったの?」
「ええと、大学。学部が同じで……って、めっちゃ質問責めしてくるじゃん」
「はは、ごめん。気になっちゃって」
次々と飛んでくる質問に、俺は気怖じしてしまう。
この手の話を自分からするタイプでは無いし、相手が阿波井ならば尚更だった。
「もしかして今日、デートだった?」
「いや、偶然会っただけ」
「そう、なら良かった」
良かった、とはどういう意味か。
邪魔しなくて良かったということだろうか。
自分の心中が落ち着かないせいか、阿波井の言葉や態度を妙に勘ぐってしまう。
どうしてそんなことをしているのかは自分でも分からなかった。
「今度紹介してよ」
「ぜ、絶対やだ! 恥ずかしいだろ」
冗談交じりに言った阿波井に、勢い良く首を横に振る。
彼女を友人に紹介するだなんて照れ臭すぎる。
それに何より、彼女を阿波井に会わせたくなかった。こんな良い男、誰でも好きになってしまうから。
「瀬川のケチ。……ま、それはいいとして、行こうか」
阿波井にそれ以上のことを聞かれることは無く、俺はひっそりと胸を撫で下ろした。
ところで、俺も阿波井も特段これといった趣味は無いのだが、サッカー観戦が好きだということは共通している。
というのも、お互いの父親がかつてサッカー少年で、物心ついた時からテレビでサッカーの試合が流れていたのだ。
ワールドカップの時期には、試合を両家揃って観戦するのが恒例だった。その恒例行事も、俺たちが高校に上がるとともに途絶えてしまう。
それを思い出した俺たちは、今夜行われる次回のワールドカップに向けた予選試合を共に観戦しようということになったのだ。
ちなみに何故阿波井の家かというと、俺の家のテレビが絶賛故障中だから。
それに阿波井の家のテレビの方が画面が大きくて、試合観戦には最適だった。
「はいこれ。見ながら食えるかなと思って」
「ありがとう。………お、いいね、美味そ」
待ち合わせ前に買った軽食を阿波井に差し出す。すっかり日は落ちて、窓の外は薄暗い。色々準備しているうちにすぐに試合の開始時間になるだろう。
その時、阿波井のスマホの着信音が鳴った。
「……ごめん、ちょっと出てくる」
「おー、行ってら」
スマホを持った阿波井がベランダに出ていった。この時期は昼は暖かいが、夜はぐんと寒くなる。
その場で出れば良かったのに。自分の家なんだし。
ペットボトルをローテーブルの上に出しつつ、その背中を横目で見る。
窓を閉めているから、何を話しているかは聞こえない。
ただ、出ていく前にちらりと見えたスマホの画面には、女性の名前が表示されていた。メッセージでは無くわざわざ電話してくるくらいだから、彼女だろうか。
俺は阿波井の彼女についてよくは知らない。俺のことを聞いてくる前に、自分のことを話せと言いたいものだ。
そういう話題にならなかったというもあるけれど。
阿波井の電話は案外長く、阿波井がベランダから戻ってきたタイミングで試合のホイッスルが鳴った。
見ているうちに段々と前傾姿勢となってしまうくらいに、テレビの中で繰り広げられる試合にのめり込んでいく。阿波井の電話をする姿が妙に印象に残っているが、それよりも時折悲鳴や歓声を零してしまうほど目の前の光景に夢中になっていた。
ハーフタイムの隙に阿波井と前半の試合について語り合った。その瞳が子どもの頃のようにキラキラと輝いている。きっと俺も同じだろう。
俺も阿波井も最後は祈るように手を組みながら、選手たちの勇姿を見守っていた。
「ま~~っじで、アツかったなあ……!!」
「それ。後半ラスト五分のあれはやばかった」
ぼすん、とソファに倒れ込む。興奮でまだ心臓がバクバクと音を立てていた。
初めは負けていた日本が、後半に入ると点を取り返していき、最後には逆転勝ちしたのだ。高校以降、サッカーをやる機会は無かったけれど、やはり見ると盛り上がってしまった。
同じく興奮して喉が渇いたのか、阿波井は一気にペットボトルのジンジャエールを飲み干して、こちらを振り向いた。
カーペットの上に座っているから、ソファに横になっている俺と丁度目線が合わさる。
「この後やるサッカー特番で、過去のワールドカップのスーパーゴール特集やるらしいぜ」
「マジで? 見たいな」
「終電まで時間はまだあるし、見ていけば?」
「うん、そうする」
阿波井の顔が再び前を向いた。その長い指がテレビのリモコンに触れる。
番組と番組の合間を埋めるテレビコマーシャルを眺めながら、ずっと頭の片隅で気になっていたことを思い切って尋ねてみた。
「さっきの電話って彼女?」
阿波井の肩が僅かに揺れる。
視線をテレビに向けたまま、うーん、と阿波井は悩ましげに首を捻った。
「そんな感じ」
「何だその煮え切らない答え」
「じゃあ、イエスかな」
含みのある返答が気にはなるが、一旦そこは置いておくことにする。
「どんな人?」
「何、恋バナしたいの?」
「いいから。教えろよ」
くすりと阿波井が微かに笑った声がした。はぐらかそうとしているようで、少しが腹が立つ。思わず語気が強くなってしまった。
阿波井は少しの間考える素振りをみせると、コマーシャルを見ながらゆっくりと口を開いた。
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「それって褒めてる?」
「もちろん。だから前向きで明るいよ。努力家だし」
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「え……うーん、天真爛漫で、ちょっと天然」
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「はは、小学生の時からそうだろ。好きなタイプ、変わってないな」
それではまるで俺が子どもの頃から成長していないかのようでは無いか。阿波井の肩をグーで軽く殴ってやる。
痛い痛い、と笑いながら阿波井がようやくこちらを振り返った。
「……昔って言えばさ。中学二年の時、阿波井がクラスの女子全員からバレンタイン貰ってたの、思い出したわ」
「そんなのもあったな。ホワイトデーにお返しするの大変だったよ、あれ」
「それめっちゃムカつく。……でも、モテる割になかなか彼女作らなかったよな」
「あー……そうだっけ」
下駄箱も、教室の机の中も、家のポストまで阿波井宛のチョコレートで埋め尽くされていたのを思い出す。
母親と叔母からしかチョコレートを貰えなかった俺は、山盛りのチョコレートを抱える阿波井が羨ましかった。
ただし、単純な子どもだったので、食べきれないからとおすそ分けされたチョコレートを有難く貰っていた記憶がある。
今思えば、女子から末代まで祟られそうな案件だ。
そんな阿波井は当然の勇気ある女子たちから告白はされていたのだけれど、そのほとんどを断って、なかなか彼女を作ろうとしなかったのだ。
「そうだよ。だから、阿波井が……」
そこまで言いかけて、言葉を飲み込んだ。
阿波井が不思議そうに俺を見る。その艶やかな宝石のような瞳が、俺の地味な顔を映し込んでいた。
視線を逸らすと、タイミング良くテレビの画面が特番のオープニングに切り替わっていた。俺は慌てて画面を指差す。
「ほ、ほら! 特番始まった!」
「え……ああ、ほんとだ。でもさっきの、……俺が何だったの?」
「大したことじゃねえし、いいから。それよりさ、ゲストに元日本代表が五人もいる」
「うわ、ほんとだ。しばらくメディアに出てなかった選手もいる……懐かしいな」
特番に興味が移ったらしい阿波井の視界から外れることができて、思わず安堵の息を吐く。
つい思いついたまま話してしまいそうになった。
中学三年になった頃、告白される度にそれらを断るくせに、一向に彼女を作ろうとしない阿波井に、とある噂が立ったのだ。
阿波井がゲイだという、思春期の男子生徒たちによる羨望と嫉妬が入り交じった、くだらない噂。
阿波井のことが気に食わない生徒たちの何人かがそれを吹聴して回ったが、信じる奴は少なかった。その少人数が、阿波井のそういう相手として目を付けたのが、俺だった。
確かにクラスが違っても一緒に登下校するくらい仲が良くて、割といつも行動を共にしていたけれど、それは家がお隣さんの幼なじみだからだ。
とはいえ悪ガキたちにとってはそんな事実はどうでもよく、俺も阿波井と一緒にその悪ふざけのターゲットになってしまった。
噂が立ってすぐ、阿波井が学年一可愛い女子生徒と付き合いだしたので、その噂はすぐにデマとして処理された。
あのほんの一時期だけ、二人の間がぎくしゃくしてしまったっけ。
そんなことをぼんやりと思い出しながら、テレビに映し出される映像たちを眺める。
先程までの興奮はすっかりさめてしまって、折角の名プレーの数々も、あまり頭に入ってこなかった。
「………ぁ、う」
微かな衣擦れの音に、沈んでいた意識がゆっくりと浮上する。
ここはどこだろう。家に帰ったのだろうか。寝ぼけた頭では上手く整理がつかない。
薄らと瞼を持ち上げる。横たわっているのはソファではなく、ベッドの上だった。部屋は暗いけれど、自分の部屋の寝室では無いことは分かる。
どうやらテレビを見ながら眠ってしまったらしい。
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爽やかで、少しだけ甘みを含んだ香りが鼻腔を擽る。これが阿波井の匂いだと俺は知っていた。
時計の針の音が響くような静かな部屋は、阿波井の呼吸する音ですら拾うことができる。
阿波井の気配がぐっと近くなって、ドキリと心臓が跳ねた。何で目を閉じてしまったのだろう。
不意に阿波井の手が俺のシャツに触れた。わざとか否か、その手が胸を撫で上げる。飛び出しかけた声をすんでのところで噛み殺した。
胸元の布が僅かに引っ張られて、何かが擦れるような乾いた音がする。シャツのボタンが一つ一つ、外れされているようだった。体の筋肉が張り詰めたように固まる。
なすがまま全てのボタンが外れて、冷えた外気が肌着越しに腹から胸を這う。
阿波井の指先が臍あたりでくるくると円を描いた。ぞくりと擽ったいものが背筋を駆ける。
不穏な動きをするその手が、ゆっくりとさらに下へと移動していく。
指がウエストのベルトに掛かった瞬間、俺は弾かれたように阿波井の腕を掴んだ。
「あ、わい……っ!」
「おはよ、瀬川」
ぼんやりと輪郭を持った阿波井の唇が、うっすらと弧を描く。その双眸は悪戯っぽい光をきらりと宿していた。
「おまえ……分かっててやったな……」
「狸寝入りする方が悪い」
強ばっていた体から一気に力が抜ける。
本当に焦った。てっきり阿波井に────と浮かびかけた思考を、頭の中から追い出した。
「それに、着替えさせてあげようとしただけだぜ」
「それなら起こしてくれよ……」
「すやすや気持ち良さそうに寝てたから、起こすのは可哀想かなって」
「それは、その……悪かった」
非があるのは自分の方なので何も言えない。
押し黙った俺を、阿波井は眦を緩めて見下ろしていた。
────そう、阿波井は俺を見下ろしていた。
俺の頭の横に手をついて、俺に覆い被さるようにして、ベッドに乗り上げている。
吐息が鼻先にかかるほど、近いところにその美しい顔がある。
阿波井の目はくっきり二重だと思っていたけれど、左目は奥二重だと初めて知った。
「……着替えさせてあげようか」
まるで秘密を打ち明けるかのように、低まった囁き声が俺に問う。その声色に耳の後ろがぞくぞくした。
ぐっと俺の体温が上がるのを感じる。
「か、彼女に言えよ、そういうこと……」
「……瀬川、今日、やたらとそれについて言うよな」
情けなく震える俺の声に、阿波井が呆れたようにため息を吐いた。
そんなものはどうでもいいと言わんばかりに。
「……それで、どうする?」
阿波井の瞳の奥が妖しく光っていた。
いつもの爽やかなそれでは無く、どこか蠱惑的な微笑みに、上手く息ができなくなる。
阿波井の申し出を断るために、口を開く。
つられて薄らと開いた阿波井の唇の隙間から、赤い舌がちらりと見えた。
「…………やって」
時計の音に紛れてしまいそうなほど小さな俺の声に、阿波井がふっと吐息を洩らして笑った。
阿波井の手が、肌着の下へと潜り込んでくる。
ああ、多分これは夢だ。
他人の家で夢まで見るなんて、なんて図々しい男だろう。
素肌を撫でる大きな手は心地よく、俺は身を委ねるように目を閉じた。
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もしかして俺の人生って詰んでるかもしれない
バナナ男さん
BL
唯一の仇名が《 根暗の根本君 》である地味男である< 根本 源 >には、まるで王子様の様なキラキラ幼馴染< 空野 翔 >がいる。
ある日、そんな幼馴染と仲良くなりたいカースト上位女子に呼び出され、金魚のフンと言われてしまい、改めて自分の立ち位置というモノを冷静に考えたが……あれ?なんか俺達っておかしくない??
イケメンヤンデレ男子✕地味な平凡男子のちょっとした日常の一コマ話です。
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【完結】愛してるから。今日も俺は、お前を忘れたふりをする
葵井瑞貴
BL
『好きだからこそ、いつか手放さなきゃいけない日が来るーー今がその時だ』
騎士団でバディを組むリオンとユーリは、恋人同士。しかし、付き合っていることは周囲に隠している。
平民のリオンは、貴族であるユーリの幸せな結婚と未来を願い、記憶喪失を装って身を引くことを決意する。
しかし、リオンを深く愛するユーリは「何度君に忘れられても、また好きになってもらえるように頑張る」と一途に言いーー。
ほんわか包容力溺愛攻め×トラウマ持ち強気受け
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【完結】I adore you
ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。
そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。
※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。
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