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社会人編

雨上がり③

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「……さつき?」

 次に伊織が目を覚ました時、ベッドの上には伊織一人だった。
 ひやりと心臓が冷えるような心地がする。人の気配が消えて静まり返った部屋が、まるで全て夢だったと言わんばかりに伊織を脅していた。
 節々の痛みに顔を顰めながら、伊織はベッドから抜け出す。いつの間にか綺麗に磨かれた体は、伊織がシャワー前に脱ぎ捨てたスウェットを身に着けていたが、それだけでは心許なくて更に上から毛布を巻き付けた。

 寝室から出てすぐに、伊織の不安は薄れていく。
 ベランダに環の後ろ姿が見えた。
 雨上がりの夕暮れの空を仰いでいる。伊織が眠っている間に降り止んだらしい。
 深い紺色と金色がグラデーションを作り、掴み取ることすらできそうな固い雲が鱗のように連なっていた。

「……あ」

 何気なく振り向いた環と目が合う。環は微かに目を見張り、急ぐように部屋の中へと戻ってきた。
 窓を閉める直前に忍び込んできた外気が伊織の身体を震わせる。環が伊織を毛布ごと包み込むように抱き寄せた。

「体、しんどい?」
「……少しだけ」
「まだ寝てても良かったのに」

 環の言葉に眉を下げる。体に巻き付けた毛布を握る指に力がこもった。

「……起きた時、早月がいなかったから」

 寂しかった。ひどく不安に駆られたし、あの幸福も何もかも、伊織の夢なのかと一瞬思ってしまった。
 環は息を呑む。贖罪のようにその麗しい唇を、伊織の額に押し当てた。

「ごめんな。もうしない」

 軽やかなリップ音を立てて、伊織の顔中に口付けが降ってくる。伊織の機嫌を取りたいのならば効果は絶大だった。強ばっていた体が緩み、その口元にも自然と笑みが浮かぶ。

「ふふ……擽ったいよ」
「んー……」
「わっ!」

 膝裏に環の腕が回り、伊織を抱き上げる。伊織が焦って身動ぎしたにも関わらず、抜群の安定感だった。
 環は伊織を横抱きにしたまま、再び寝室へと戻った。そっとベッドの上に伊織を下ろし、その隣に自分も腰掛ける。環に丁寧に扱われて照れてしまいそうだった。
 それを誤魔化すように、伊織が環の首元に鼻先を近付ける。環の肩が僅かに跳ねた。

「……煙草吸ってたんじゃないんだね」
「ああ。ていうか、今は吸ってない」
「でもベランダに灰皿あったよね?」

 環が部屋に入ってくる時にちらりと見えた。
 環は気まずそうに頬を掻く。

「あー……あれは、空井のやつ」

 空井、と言われて思い浮かぶのはあの美麗で妖しげな環の友人である。あれ以来、伊織は千夜と顔を合わせたことはなかった。
 黙り込んだ伊織が誤解をしたと思ったのか、環が食い気味に言葉を続ける。

「ただの忘れものだから」
「そうなんだ」
「そう。ハルが取りに来るって言ってたんだけどさ、忙しいらしくて」
「櫻木くん?」

 環の口から春生の名前が出てきて心臓が一瞬ひやりとするけれども、心にどす黒い靄が立ち込めることはなかった。しかし何故ここで春生の名前が出てくるのかは不思議である。
 訝しげに首を傾げる伊織に対して、環も同じような顔をした。

「……言ってなかった?」
「何を?」
「空井はハルの彼女だよ」

 伊織は瞬きを繰り返した。たった今聞いた情報を、脳みそが必死に処理している。

「……ええっ!?」

 伊織が大きく仰け反った。その拍子に腰に鈍痛が走り、呻き声を上げる。

「ごめん。……あー、言ってなかったのか」

 環は伊織の腰を撫でてやりつつ、妙な納得感とほろ苦さを感じていた。思わず苦笑いを浮かべてしまう。
 伊織はそれを気にかけられないほど、困惑していた。

「さ、櫻木くんにかの、……えっ、彼女?」
「空井は見た目がああいう感じだし、アルファだから、初見じゃ分かんねえよな」
「空井さん……アルファ女性なんだ」
「そう。……あと、言っとくけど、俺と空井もマジでなんもないよ。知り合った時にはもうハルと付き合ってたから」
「え、ああ、そう……待って、もう、追いつかないんだけど……」

 千夜が女性だということもそうだが、そのうえ春生の恋人で、しかも随分前から付き合っていただなんて。とても一度に処理できる情報量ではなく、頭から湯気が出そうだ。
 暫くは環は頬を緩めて、伊織がぐるぐると目を回す姿を眺めていたが、やがてその腰を摩っていた手で伊織を引き寄せた。

「なあ。そろそろ俺以外のこと考えんの、やめない?」

 優美に弧を描く唇と、妖しげに煌めく瞳に伊織の意識は一瞬で環に捕らわれてしまった。
 夢見心地な表情で自分に見惚れる伊織はあまりにも可愛らしく、環はそのうなじを指先で擽った。

「っひゃ、……!」

 そこで伊織は思い出したかのように自分のうなじに手を伸ばした。
 切り揃えられた襟足の下に、薄らと刻まれた窪みを辿る。伊織の頬が桜色に染まった。環を見つめるその両の瞳が水の膜を張っている。

「早月、俺……」
「悪いけど、やっぱり嫌だって言っても離さないからな」

 伊織がそんなことを言うはずがない。
 長年恋焦がれ続けた男と、ようやく結ばれたのだ。死ぬまでどころか死んでからも離れてなんかやるものか。
 伊織が堪らず環の腕の中に飛び込むと、そのまま二人してベッドへと寝転んだ。
 大きく息を吸う。愛しい男の香りで体中が満たされていく。歯型の残ったうなじが甘く疼いた。

 環に出会わなければ、伊織は恋なんて知らずにいられた。
 出会ってしまったせいで伊織が知ってしまった長雨のような恋は、心の器から溢れるくらいに降り注ぎ、そしてようやく晴れ間をみせた。

「早月」

 名前を呼べば、その美しい夜空の星が伊織だけのものになる。砂糖よりも甘ったるい口付けは、伊織の身も心を蕩けさせる。伊織が恋焦がれて流す涙も、その指先が掬い上げてくれる。
 それらは全て、環に恋をしたから知れたことだった。

「どうした?」

 伊織に尋ねる声は柔らかい。まろくて、甘くて、何回だって聞いていたいと思った。

「……呼んでみただけ」

 かわいい、だなんて大真面目な顔で呟いている。そうして環は伊織の華奢な体を抱き締めた。もはや感情を抑える様子もない。
 それが気恥ずかしく、そして嬉しくて、単純な伊織は舞い上がってしまう。伊織の恋心は拗れて育ちすぎてしまったから、きっとこれからも不安に駆られることはあるのだろうけれど、環なら飼い慣らしてくれそうだ。
 くすくす笑いながら、伊織も自ら環の胸板に擦り寄って微かに目を見張った。そしてゆっくりと瞼を下ろす。
 自分と同じくらい、ややアップテンポな鼓動を子守唄代わりにしながら、陽だまりに包まれるような幸福を噛み締めていた。
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