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社会人編
雨上がり①
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スマホのアラーム音が沈んでいた意識を刺激する。不思議なことに何もせずともその音は止まったが、伊織はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「………びっ、くりした」
伊織の声は乾燥に掠れていた。すぐ隣に目を見張るほど眩い美貌がある。夢見心地に蕩けた瞳に、高い鼻梁、程よく薄めの唇。どれをとっても麗しいうえ、この至近距離でもその滑らかな肌には毛穴も見つからない。伊織が昨夜はたいてしまった頬も、痕は残っておらずほっとする。
伊織がその美しさに間抜けな声を上げると、環の唇が弧を描く。
「おはよ」
「……おはよう」
体の芯から甘やかすような声色に、伊織の頬が熱くなる。それを揶揄うように指先を擽られ、伊織は腕の中で身を捩った。
そのままのろのろと上半身を起こす。毛布の温もりを失えば、裏起毛のスウェットでも冬の朝の寒さを防ぎきれなかった。
しっかりと閉じたカーテンを見遣る。窓を打ち付ける雨の音が微かに聞こえてきた。昨日の夕方からずっと降り続いているようだ。
左隣からごそごそと衣擦れの音が立つ。環の腕が腹に回り、伊織の肩にまるい頭の重みが乗っかった。
「起きる?」
「んー……お腹減ったから」
「なんか作ろうか」
「えっ、いいの?」
伊織の目が輝いた。しかしすぐに視線を泳がせる。
「ああ……でも、もしかしたら、使えるものあんまりないかも」
二人揃ってベッドから抜け出してキッチンへと向かう。伊織の許可を得た環が、キッチンの中をぐるりと見て回っている。
その姿を眺めつつ、伊織は自分の後ろの髪がぴょこりと跳ねている気がしてならなかった。
「浅葱」
「うん?」
「マジで、冷蔵庫の中何もない」
冷蔵庫を覗いていた環が顔を上げ、呆れた顔をつくる。伊織は肩を竦める。最近は忙しくて自炊する気も起きなかったので、買い物にも行っていなかったのだ。
勿体ないことをしたな、と思っていると、環がまさかの代替案を出してきた。
「俺の部屋来る?」
「えっ」
「ここよりはマシ……あー、食材は揃ってるからさ」
「い、行きたい……!」
伊織があまりにも食い気味で即答するものだから、環は小さく噴き出して、その髪をくしゃりと撫でた。
マンションの部屋が隣というのは実に都合が良いものだと思う。
ほとんど寝巻きのスウェット姿で環の部屋に訪れる。以前訪れた時と変わらぬモノトーンを基調としたシンプルな部屋だが、前には見なかったものが一つ増えていた。
「これ……」
ダイニングソファにちょこんと置かれたクッションは、この部屋に似つかわしくないほどキュートな形をしていた。
「浅葱もそれ、覚えてる?」
キッチンから環が声をかける。伊織はそのクッションを持ち上げてまじまじと眺める。
ふわふわの白毛、まるっこくなったフォルムではにかんでいる、ペンギン。
「櫻木くんが好きだったペンギンシリーズの……?」
「当たり」
春生が好んでいたのはこちらではなく、仏頂面のペンギンだったが、学生時代よく目にしたので覚えている。なんなら、分けてもらったマスコットは今でも実家のデスクに飾っているはずだ。
それにしても何故こんなものが。
「これ、櫻木くんが……?」
「そうじゃないって。それ、俺の」
「早月の??」
驚きで伊織はあんぐりと口を開ける。普段はしまってるんだけど、と環は恥ずかしそうに笑っていた。
「昔、ハルに唆されて買ったやつな。浅葱に似てるーって言われてたから、欲しくなって」
「俺に……」
再度、そのはにかんだ表情を観察してみる。やはりしっくりはこなかったがそれほど悪い気はしなかった。
環が作ってくれたのはフレンチトーストだった。伊織は朝はパン派である。それを覚えていたことに少しばかり驚いた。
噛むとじゅわりと溢れるほのかな甘みに、伊織の目元が緩む。甘すぎないし、ふんわりとしっとりのバランスが絶妙で堪らない。
そんな伊織を見つめる環の目はそれよりも甘やかだった。
相手を気遣って隠していたものをもう隠さなくても良くなった途端、容赦なくその内側から愛情を零している。伊織に気付かれそうになった瞬間表情が引き締まるのがいじらしいが、伊織がそれを知るのは少し先だ。
伊織は目の前でコーヒーカップを傾ける環を見て、眉尻を下げた。
「ごめん、俺だけのために……」
伊織とは違い、トーストにバターを塗ったものを環は既に食べ終えていた。環は伊織ほど甘味を好まない。
「気にすんな。俺がやりたくてやってんだから」
「……うん、ありがとう。これ、凄く美味しいよ」
環は満足そうに目を細めた。
「これからはなんでも作ってやるよ。なんか食いたいのある?」
環の言葉に伊織の胸が踊る。食い意地が張っている、ということではない。単純にこれからもこうやって環と朝晩をともにできるという事実が伊織を歓喜させるのだ。
伊織は暫しの間、思考を巡らせていた。食べたいもの。きっと環が作るものだったらなんだって美味しくて、胃袋がはち切れたって平らげるだろう。
伊織の脳内に一つの閃きが走った。伊織が今欲しいもの。昨夜、環の腕の中で眠りに落ちる寸前まで燻っていたそれ。空腹が満ちても、満たされないところがある。
「……早月がいい」
環の動きが固まった。コーヒーカップを中途半端な位置に持っている。
伊織は湧き上がる羞恥に若干の後悔を覚えながらも、上目がちに環を見つめた。
「早月としたい。……最後まで」
どこで覚えてくるんだ、そういうの。
環しか知らないと伊織は言うが、自分だって教えた覚えはない。これが天然ものだというのだから、末恐ろしい。浅葱伊織という男は頭のてっぺんから爪先まで、環の好みに仕上がっている。
環はゆるりと目を細めた。
「俺の全部、食っていいよ」
環の赤い舌が唇を舐めた。その艶やかさに伊織の心臓が一際大きく跳ね上がる。
普段は凪いでいる双眸が熱っぽく、鋭い光をチラつかせている。
食われるのは自分だと賢い脳みそは瞬時に理解したようで、伊織は耳まで真っ赤に染まった。
「………びっ、くりした」
伊織の声は乾燥に掠れていた。すぐ隣に目を見張るほど眩い美貌がある。夢見心地に蕩けた瞳に、高い鼻梁、程よく薄めの唇。どれをとっても麗しいうえ、この至近距離でもその滑らかな肌には毛穴も見つからない。伊織が昨夜はたいてしまった頬も、痕は残っておらずほっとする。
伊織がその美しさに間抜けな声を上げると、環の唇が弧を描く。
「おはよ」
「……おはよう」
体の芯から甘やかすような声色に、伊織の頬が熱くなる。それを揶揄うように指先を擽られ、伊織は腕の中で身を捩った。
そのままのろのろと上半身を起こす。毛布の温もりを失えば、裏起毛のスウェットでも冬の朝の寒さを防ぎきれなかった。
しっかりと閉じたカーテンを見遣る。窓を打ち付ける雨の音が微かに聞こえてきた。昨日の夕方からずっと降り続いているようだ。
左隣からごそごそと衣擦れの音が立つ。環の腕が腹に回り、伊織の肩にまるい頭の重みが乗っかった。
「起きる?」
「んー……お腹減ったから」
「なんか作ろうか」
「えっ、いいの?」
伊織の目が輝いた。しかしすぐに視線を泳がせる。
「ああ……でも、もしかしたら、使えるものあんまりないかも」
二人揃ってベッドから抜け出してキッチンへと向かう。伊織の許可を得た環が、キッチンの中をぐるりと見て回っている。
その姿を眺めつつ、伊織は自分の後ろの髪がぴょこりと跳ねている気がしてならなかった。
「浅葱」
「うん?」
「マジで、冷蔵庫の中何もない」
冷蔵庫を覗いていた環が顔を上げ、呆れた顔をつくる。伊織は肩を竦める。最近は忙しくて自炊する気も起きなかったので、買い物にも行っていなかったのだ。
勿体ないことをしたな、と思っていると、環がまさかの代替案を出してきた。
「俺の部屋来る?」
「えっ」
「ここよりはマシ……あー、食材は揃ってるからさ」
「い、行きたい……!」
伊織があまりにも食い気味で即答するものだから、環は小さく噴き出して、その髪をくしゃりと撫でた。
マンションの部屋が隣というのは実に都合が良いものだと思う。
ほとんど寝巻きのスウェット姿で環の部屋に訪れる。以前訪れた時と変わらぬモノトーンを基調としたシンプルな部屋だが、前には見なかったものが一つ増えていた。
「これ……」
ダイニングソファにちょこんと置かれたクッションは、この部屋に似つかわしくないほどキュートな形をしていた。
「浅葱もそれ、覚えてる?」
キッチンから環が声をかける。伊織はそのクッションを持ち上げてまじまじと眺める。
ふわふわの白毛、まるっこくなったフォルムではにかんでいる、ペンギン。
「櫻木くんが好きだったペンギンシリーズの……?」
「当たり」
春生が好んでいたのはこちらではなく、仏頂面のペンギンだったが、学生時代よく目にしたので覚えている。なんなら、分けてもらったマスコットは今でも実家のデスクに飾っているはずだ。
それにしても何故こんなものが。
「これ、櫻木くんが……?」
「そうじゃないって。それ、俺の」
「早月の??」
驚きで伊織はあんぐりと口を開ける。普段はしまってるんだけど、と環は恥ずかしそうに笑っていた。
「昔、ハルに唆されて買ったやつな。浅葱に似てるーって言われてたから、欲しくなって」
「俺に……」
再度、そのはにかんだ表情を観察してみる。やはりしっくりはこなかったがそれほど悪い気はしなかった。
環が作ってくれたのはフレンチトーストだった。伊織は朝はパン派である。それを覚えていたことに少しばかり驚いた。
噛むとじゅわりと溢れるほのかな甘みに、伊織の目元が緩む。甘すぎないし、ふんわりとしっとりのバランスが絶妙で堪らない。
そんな伊織を見つめる環の目はそれよりも甘やかだった。
相手を気遣って隠していたものをもう隠さなくても良くなった途端、容赦なくその内側から愛情を零している。伊織に気付かれそうになった瞬間表情が引き締まるのがいじらしいが、伊織がそれを知るのは少し先だ。
伊織は目の前でコーヒーカップを傾ける環を見て、眉尻を下げた。
「ごめん、俺だけのために……」
伊織とは違い、トーストにバターを塗ったものを環は既に食べ終えていた。環は伊織ほど甘味を好まない。
「気にすんな。俺がやりたくてやってんだから」
「……うん、ありがとう。これ、凄く美味しいよ」
環は満足そうに目を細めた。
「これからはなんでも作ってやるよ。なんか食いたいのある?」
環の言葉に伊織の胸が踊る。食い意地が張っている、ということではない。単純にこれからもこうやって環と朝晩をともにできるという事実が伊織を歓喜させるのだ。
伊織は暫しの間、思考を巡らせていた。食べたいもの。きっと環が作るものだったらなんだって美味しくて、胃袋がはち切れたって平らげるだろう。
伊織の脳内に一つの閃きが走った。伊織が今欲しいもの。昨夜、環の腕の中で眠りに落ちる寸前まで燻っていたそれ。空腹が満ちても、満たされないところがある。
「……早月がいい」
環の動きが固まった。コーヒーカップを中途半端な位置に持っている。
伊織は湧き上がる羞恥に若干の後悔を覚えながらも、上目がちに環を見つめた。
「早月としたい。……最後まで」
どこで覚えてくるんだ、そういうの。
環しか知らないと伊織は言うが、自分だって教えた覚えはない。これが天然ものだというのだから、末恐ろしい。浅葱伊織という男は頭のてっぺんから爪先まで、環の好みに仕上がっている。
環はゆるりと目を細めた。
「俺の全部、食っていいよ」
環の赤い舌が唇を舐めた。その艶やかさに伊織の心臓が一際大きく跳ね上がる。
普段は凪いでいる双眸が熱っぽく、鋭い光をチラつかせている。
食われるのは自分だと賢い脳みそは瞬時に理解したようで、伊織は耳まで真っ赤に染まった。
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