59 / 63
社会人編
オメガの初恋③*
しおりを挟む
窓を叩く雨音は僅かに弱まっているようだった。
「……何か飲む?」
「いや、大丈夫」
「分かった」
「浅葱は水、飲めよ」
「……うん」
キッチンの下に並べたミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。冬は常温でも氷を入れたように冷たい。
環の心配に反して、伊織の酔いはかなり醒めている。あれほど抗えないと思っていた眠気もとうの昔にどこかへ行ってしまった。
伊織と環はダイニングテーブルを挟んで向かい合う。ペットボトルの蓋をきっちりと締めると、程なくして環が口を開いた。
「浅葱は」
膝の上で拳を握る。続く言葉に構えていた。
「好きでもない男と、キスなんかしないって思ってた」
「し、しないよ。……早月とは違って」
「俺だってしない」
それはほとんど答えであるにも関わらず、二人の表情は晴れない。
「避けられてるって分かった時、マジで、ショックだった」
「……それは、ごめん」
「俺がなんかしたんだって思っても、心当たりなくて」
伊織の知らない当時の感情が蘇ったのか、環がぐしゃりと髪をかき混ぜる。切なげに細められた双眸が伊織を捉えた。
「全部、俺の勘違いだった?」
「……違う」
「じゃあなんで」
「早月は……!」
伊織の声が環の言葉を遮った。痛みを訴える胸を抑えて、半ば睨みつけるような強い視線を向ける。
さらけ出すか、一瞬迷った。しかし伊織も環と話して、きちんと決着をつけたいと願ったのだ。覚悟を決める。
「早月は……櫻木くんが、一番なんだって思ってた、から」
「………え、ハル?」
環にとっては思わぬ人物の名前に、先程までの痛切な雰囲気が引っ込んでしまう。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、環が首を傾げた。
「ハルが、なんで?」
「……知ってる? 早月って、櫻木くんのこと話す時、すっごい優しい顔するんだよ」
他の誰でもない。幼なじみの彼に関する時だけに見せる、柔らかくて甘やかな表情。本人から過保護と言われるほどありったけに注がれる愛情は、それは誰よりも特別に見えた。
「誰よりも大切って顔して、櫻木くんのこと話すんだよ」
「誰よりも……って、それほどじゃないと思うけど……ハルは幼なじみだし」
「でも、初恋なんでしょ」
櫻木春生は幼なじみで、オメガで、初恋の人。伊織の期待や自信を打ち砕くには充分だった。
環は眉尻を下げて、困惑を露わにしている。
「初恋、って……今はマジでそういうのじゃねえよ」
「そんなの、分かんないよ。俺がずっと初恋を引きずってるみたいに、早月もそうかもしれない」
段々と伊織の口の滑りが良くなっていく。もう堪えるのに疲れてしまった。
何もかもぶつけてしまいたくなった。
「俺は……早月の一番がいいの。櫻木くんよりも特別がいい。二番じゃ嫌だし、友達でも隣にいられたらいいなんて、どうしたって思えない」
感情が高ぶって、環の反応を気にする余裕もない。捲し立てるように伊織は続けた。
「どうしようもないくらい、拗らせてるんだよ。こんな歳になってさ。もう諦めたいのに、やっぱりできなくて………早月のせいで、いつまでも初恋を拗らせてる。俺こそバカみたいでしょ」
伊織は大きく息をする。伊織の中で、数年もの間燻っていたものを丸ごと出し切ったつもりだった。
体ごと正面の環から背けてしまう。とても環の反応を確認できる心境ではなかった。不安と緊張と後悔と期待。複雑に絡み合った感情が、伊織の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
環は何も言わなかった。伊織の心臓が責め立てるように脈打っている。今にも喚きたい衝動に駆られていたが、じっと耐えていた。
やがて、椅子を引く音が耳に飛び込んできた。環の気配がゆっくりと近寄ってくる。
環はフローリングに膝をついて、下を向いた伊織の顔を覗き込むように身を屈めた。
「……浅葱」
伊織は口を一文字に引き結んでいた。今にも泣き出してしまいそうだ。
環も眉根を僅かに寄せる。伊織にこんな顔をさせたくはなかった。
「ハルとはマジで、何もないよ」
「……何もなくても、嫌だった」
「それは……」
「分かってる」
環にどうこうできる問題ではない。伊織の感情の問題だ。
白むほど強く握り込まれた拳を環の手のひらが包み込む。
「こっち見て」
意地でも動きたくなかったが、その声に誘われるように顔を上げてしまう。呆れと慈しみが入り交じった視線が伊織に注がれていた。
「俺の好きな人は、浅葱だよ」
唇を噛む。甘やかでどこか切なさも感じさせる声色に、目頭が熱くなった。
「浅葱は?」
伊織の拳が緩む。その隙間に滑り込むように環の長い指が絡んでいく。
「………俺も、早月が好き」
ずっと心の中で何万回も言い続けてきた。その二文字を口に出した途端、胸の奥からせき止めていた何かが溢れ出しそうになった。
指先に力が入る。環の手を握り締めた。
「っ、でも……俺、早月と一緒には、なれないよ」
「なんで?」
「だって……」
「ハルがいるから?」
伊織の頭が縦に揺れた。環は緩く首を傾けて、丁寧に言葉を紡いでいく。
「一番とか二番とか、わかんねえけどさ。……確かにハルのことは大事に思ってる。恋愛感情はないけど、守ってやりたい」
絶望的な現実を突きつけられた気分だった。今すぐにでも逃げ出してしまいたい。そんな伊織の手を、環はもう離さなかった。
「だけど、浅葱が望むなら、絶交してもいい」
「は……っ?」
驚きのあまり、伊織は環の顔を見てしまった。
「ハルだけじゃなくて、浅葱が嫌だと思うなら友達の連絡先だって消してやる。仕事変えて欲しいならそうするし、軟禁したいならそうしてもいい」
環の瞳は真剣で、並べ立てられたその言葉の一つだって嘘ではないことを物語っている。
絶句する伊織に、環の口元がふっと緩んだ。
「やんねえよ。だって浅葱はそんなこと、望んでないだろ」
環の知る浅葱伊織という男は、優しく真面目で、他人を尊ぶあまり、自分を疎かにしてしまうような不器用な男なのである。
そんな伊織が環を縛り付けたいなどと思うはずがなかった。春生のことですら、そうしてくれと強請るわけがない。
「でもさ、マジでそうしても良いって思うくらい、俺は浅葱のことが好きなんだよ」
伊織の心が震えた。好きと囁かれる度に、伊織の飢えて干からびた恋心が、瑞々しく生き返っていくのが分かる。
環が握った手を引いた。伊織は導かれるまま、環の腕の中へとおさまっていく。肩口に顔を埋めると、ふわりと香る環の匂いにきゅうと胸の奥が鳴った。
伊織の薄い耳たぶに環の唇が触れる。背中に回った腕が、しっかりと伊織を抱き締めていた。
「俺の初めてはあげられないけど……最後を浅葱に捧げるっていうのじゃ、ダメか」
滲む涙で僅かに重くなった睫毛が震えた。肩に額を擦りつけてから、伊織は視線を持ち上げる。
「………俺は、最初も最後も、早月なのに」
「あー……はは、確かに。そうなるか」
これは困ったな、と呟くのが聞こえてくる。伊織は綻びそうになる口元にきゅっと力を込めた。じんわりと暖かいものが体の隅々まで満たしていくような感覚に浸る。
伊織は薄く唇を開いた。
「早月」
ほとんど吐息に近い声を、聞き逃すまいと環が顔を近付ける。
「何……っ」
狙いを逸れることなく、少々カサついた唇が重なった。触れるだけで、すぐに離れていく。
伊織の目尻がやや下がりがちの瞳が、悪戯っぽく細まった。
「ふふ、そんなにびっくりしなくて、も……ッん、う」
食らいつくような口付けによって声ごと奪われた。伊織の両頬を環の手のひらが包み込み、しっとりと柔らかな唇が下唇を食む。
「ン、っ……! んん、ぅ……ッ」
唇を割って入ったぬるりとした感触に、伊織の肩が小さく跳ねた。蜜を啜るように、伊織から舌を絡めていく。その舌を激しく吸い上げられ、ざらついた粘膜が擦れ合って、そこから生まれる甘い痺れが伊織の背中をぞわりと撫で上げた。
環の手が耳まで覆っているせいで、唾液の混ざり合う水音が頭の中に響いている。つい先程まで聞こえていた雨の音すらかき消えて、淫らな劣情の火種が植え付けられていた。
たっぷりと余すことなく愛撫されてから、環が満足したところで二人の唇は離れていく。名残惜しげに合間を繋ぐ銀の糸に、伊織は頬を染めた。
熱っぽく乱れた息をこぼす。伊織は恨めしそうに環を見上げた。
「っはぁ………少しは手加減、してくれない……っ?」
「悪いけど、無理」
「ぜったい、思ってないでしょ……」
長い間、誰とも触れ合ってこなかった伊織にとっては、もはやファーストキスに近いのだ。ただし、最初も最後もこの男になるだろうからあまり関係ないかもしれない。
そう思うとじわじわと歓喜が滲み出す。
それを悟られる前に、ぎゅうと環に抱き着いた。伊織よりも厚い胸板に猫のように擦り寄る。
伊織が一番好ましいと思う香りと体温に包まれながら、いじらしく環の顔を見上げた。
「……一つだけ、お願いしてもいいかな?」
「いいよ」
「それ、聞いてから言った方がいいんじゃ?」
「なんだって叶えるからいいんだよ」
キザな台詞もこの美しい男から発せられると、真のように聞こえてしまうからずるい。
「もう一回、好きって言って」
環の目がまん丸になる。恥じらいに目を伏せた伊織を食い入るように見つめた後、環はあの頃のようなあどけない笑顔を見せた。
「……一回どころか、死ぬまで言ってやるよ」
伊織の濡れた目元を拭った指が、流れるように伊織の髪を耳に掛ける。
環の吐息が耳殻を撫でる。
次の瞬間、伊織は顔を林檎のように真っ赤に染めながら、はにかみ笑いを浮かべた。
「……何か飲む?」
「いや、大丈夫」
「分かった」
「浅葱は水、飲めよ」
「……うん」
キッチンの下に並べたミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。冬は常温でも氷を入れたように冷たい。
環の心配に反して、伊織の酔いはかなり醒めている。あれほど抗えないと思っていた眠気もとうの昔にどこかへ行ってしまった。
伊織と環はダイニングテーブルを挟んで向かい合う。ペットボトルの蓋をきっちりと締めると、程なくして環が口を開いた。
「浅葱は」
膝の上で拳を握る。続く言葉に構えていた。
「好きでもない男と、キスなんかしないって思ってた」
「し、しないよ。……早月とは違って」
「俺だってしない」
それはほとんど答えであるにも関わらず、二人の表情は晴れない。
「避けられてるって分かった時、マジで、ショックだった」
「……それは、ごめん」
「俺がなんかしたんだって思っても、心当たりなくて」
伊織の知らない当時の感情が蘇ったのか、環がぐしゃりと髪をかき混ぜる。切なげに細められた双眸が伊織を捉えた。
「全部、俺の勘違いだった?」
「……違う」
「じゃあなんで」
「早月は……!」
伊織の声が環の言葉を遮った。痛みを訴える胸を抑えて、半ば睨みつけるような強い視線を向ける。
さらけ出すか、一瞬迷った。しかし伊織も環と話して、きちんと決着をつけたいと願ったのだ。覚悟を決める。
「早月は……櫻木くんが、一番なんだって思ってた、から」
「………え、ハル?」
環にとっては思わぬ人物の名前に、先程までの痛切な雰囲気が引っ込んでしまう。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、環が首を傾げた。
「ハルが、なんで?」
「……知ってる? 早月って、櫻木くんのこと話す時、すっごい優しい顔するんだよ」
他の誰でもない。幼なじみの彼に関する時だけに見せる、柔らかくて甘やかな表情。本人から過保護と言われるほどありったけに注がれる愛情は、それは誰よりも特別に見えた。
「誰よりも大切って顔して、櫻木くんのこと話すんだよ」
「誰よりも……って、それほどじゃないと思うけど……ハルは幼なじみだし」
「でも、初恋なんでしょ」
櫻木春生は幼なじみで、オメガで、初恋の人。伊織の期待や自信を打ち砕くには充分だった。
環は眉尻を下げて、困惑を露わにしている。
「初恋、って……今はマジでそういうのじゃねえよ」
「そんなの、分かんないよ。俺がずっと初恋を引きずってるみたいに、早月もそうかもしれない」
段々と伊織の口の滑りが良くなっていく。もう堪えるのに疲れてしまった。
何もかもぶつけてしまいたくなった。
「俺は……早月の一番がいいの。櫻木くんよりも特別がいい。二番じゃ嫌だし、友達でも隣にいられたらいいなんて、どうしたって思えない」
感情が高ぶって、環の反応を気にする余裕もない。捲し立てるように伊織は続けた。
「どうしようもないくらい、拗らせてるんだよ。こんな歳になってさ。もう諦めたいのに、やっぱりできなくて………早月のせいで、いつまでも初恋を拗らせてる。俺こそバカみたいでしょ」
伊織は大きく息をする。伊織の中で、数年もの間燻っていたものを丸ごと出し切ったつもりだった。
体ごと正面の環から背けてしまう。とても環の反応を確認できる心境ではなかった。不安と緊張と後悔と期待。複雑に絡み合った感情が、伊織の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
環は何も言わなかった。伊織の心臓が責め立てるように脈打っている。今にも喚きたい衝動に駆られていたが、じっと耐えていた。
やがて、椅子を引く音が耳に飛び込んできた。環の気配がゆっくりと近寄ってくる。
環はフローリングに膝をついて、下を向いた伊織の顔を覗き込むように身を屈めた。
「……浅葱」
伊織は口を一文字に引き結んでいた。今にも泣き出してしまいそうだ。
環も眉根を僅かに寄せる。伊織にこんな顔をさせたくはなかった。
「ハルとはマジで、何もないよ」
「……何もなくても、嫌だった」
「それは……」
「分かってる」
環にどうこうできる問題ではない。伊織の感情の問題だ。
白むほど強く握り込まれた拳を環の手のひらが包み込む。
「こっち見て」
意地でも動きたくなかったが、その声に誘われるように顔を上げてしまう。呆れと慈しみが入り交じった視線が伊織に注がれていた。
「俺の好きな人は、浅葱だよ」
唇を噛む。甘やかでどこか切なさも感じさせる声色に、目頭が熱くなった。
「浅葱は?」
伊織の拳が緩む。その隙間に滑り込むように環の長い指が絡んでいく。
「………俺も、早月が好き」
ずっと心の中で何万回も言い続けてきた。その二文字を口に出した途端、胸の奥からせき止めていた何かが溢れ出しそうになった。
指先に力が入る。環の手を握り締めた。
「っ、でも……俺、早月と一緒には、なれないよ」
「なんで?」
「だって……」
「ハルがいるから?」
伊織の頭が縦に揺れた。環は緩く首を傾けて、丁寧に言葉を紡いでいく。
「一番とか二番とか、わかんねえけどさ。……確かにハルのことは大事に思ってる。恋愛感情はないけど、守ってやりたい」
絶望的な現実を突きつけられた気分だった。今すぐにでも逃げ出してしまいたい。そんな伊織の手を、環はもう離さなかった。
「だけど、浅葱が望むなら、絶交してもいい」
「は……っ?」
驚きのあまり、伊織は環の顔を見てしまった。
「ハルだけじゃなくて、浅葱が嫌だと思うなら友達の連絡先だって消してやる。仕事変えて欲しいならそうするし、軟禁したいならそうしてもいい」
環の瞳は真剣で、並べ立てられたその言葉の一つだって嘘ではないことを物語っている。
絶句する伊織に、環の口元がふっと緩んだ。
「やんねえよ。だって浅葱はそんなこと、望んでないだろ」
環の知る浅葱伊織という男は、優しく真面目で、他人を尊ぶあまり、自分を疎かにしてしまうような不器用な男なのである。
そんな伊織が環を縛り付けたいなどと思うはずがなかった。春生のことですら、そうしてくれと強請るわけがない。
「でもさ、マジでそうしても良いって思うくらい、俺は浅葱のことが好きなんだよ」
伊織の心が震えた。好きと囁かれる度に、伊織の飢えて干からびた恋心が、瑞々しく生き返っていくのが分かる。
環が握った手を引いた。伊織は導かれるまま、環の腕の中へとおさまっていく。肩口に顔を埋めると、ふわりと香る環の匂いにきゅうと胸の奥が鳴った。
伊織の薄い耳たぶに環の唇が触れる。背中に回った腕が、しっかりと伊織を抱き締めていた。
「俺の初めてはあげられないけど……最後を浅葱に捧げるっていうのじゃ、ダメか」
滲む涙で僅かに重くなった睫毛が震えた。肩に額を擦りつけてから、伊織は視線を持ち上げる。
「………俺は、最初も最後も、早月なのに」
「あー……はは、確かに。そうなるか」
これは困ったな、と呟くのが聞こえてくる。伊織は綻びそうになる口元にきゅっと力を込めた。じんわりと暖かいものが体の隅々まで満たしていくような感覚に浸る。
伊織は薄く唇を開いた。
「早月」
ほとんど吐息に近い声を、聞き逃すまいと環が顔を近付ける。
「何……っ」
狙いを逸れることなく、少々カサついた唇が重なった。触れるだけで、すぐに離れていく。
伊織の目尻がやや下がりがちの瞳が、悪戯っぽく細まった。
「ふふ、そんなにびっくりしなくて、も……ッん、う」
食らいつくような口付けによって声ごと奪われた。伊織の両頬を環の手のひらが包み込み、しっとりと柔らかな唇が下唇を食む。
「ン、っ……! んん、ぅ……ッ」
唇を割って入ったぬるりとした感触に、伊織の肩が小さく跳ねた。蜜を啜るように、伊織から舌を絡めていく。その舌を激しく吸い上げられ、ざらついた粘膜が擦れ合って、そこから生まれる甘い痺れが伊織の背中をぞわりと撫で上げた。
環の手が耳まで覆っているせいで、唾液の混ざり合う水音が頭の中に響いている。つい先程まで聞こえていた雨の音すらかき消えて、淫らな劣情の火種が植え付けられていた。
たっぷりと余すことなく愛撫されてから、環が満足したところで二人の唇は離れていく。名残惜しげに合間を繋ぐ銀の糸に、伊織は頬を染めた。
熱っぽく乱れた息をこぼす。伊織は恨めしそうに環を見上げた。
「っはぁ………少しは手加減、してくれない……っ?」
「悪いけど、無理」
「ぜったい、思ってないでしょ……」
長い間、誰とも触れ合ってこなかった伊織にとっては、もはやファーストキスに近いのだ。ただし、最初も最後もこの男になるだろうからあまり関係ないかもしれない。
そう思うとじわじわと歓喜が滲み出す。
それを悟られる前に、ぎゅうと環に抱き着いた。伊織よりも厚い胸板に猫のように擦り寄る。
伊織が一番好ましいと思う香りと体温に包まれながら、いじらしく環の顔を見上げた。
「……一つだけ、お願いしてもいいかな?」
「いいよ」
「それ、聞いてから言った方がいいんじゃ?」
「なんだって叶えるからいいんだよ」
キザな台詞もこの美しい男から発せられると、真のように聞こえてしまうからずるい。
「もう一回、好きって言って」
環の目がまん丸になる。恥じらいに目を伏せた伊織を食い入るように見つめた後、環はあの頃のようなあどけない笑顔を見せた。
「……一回どころか、死ぬまで言ってやるよ」
伊織の濡れた目元を拭った指が、流れるように伊織の髪を耳に掛ける。
環の吐息が耳殻を撫でる。
次の瞬間、伊織は顔を林檎のように真っ赤に染めながら、はにかみ笑いを浮かべた。
354
お気に入りに追加
561
あなたにおすすめの小説
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
トップアイドルα様は平凡βを運命にする
新羽梅衣
BL
ありきたりなベータらしい人生を送ってきた平凡な大学生・春崎陽は深夜のコンビニでアルバイトをしている。
ある夜、コンビニに訪れた男と目が合った瞬間、まるで炭酸が弾けるような胸の高鳴りを感じてしまう。どこかで見たことのある彼はトップアイドル・sui(深山翠)だった。
翠と陽の距離は急接近するが、ふたりはアルファとベータ。翠が運命の番に憧れて相手を探すために芸能界に入ったと知った陽は、どう足掻いても番にはなれない関係に思い悩む。そんなとき、翠のマネージャーに声をかけられた陽はある決心をする。
運命の番を探すトップアイドルα×自分に自信がない平凡βの切ない恋のお話。
イケメンがご乱心すぎてついていけません!
アキトワ(まなせ)
BL
「ねぇ、オレの事は悠って呼んで」
俺にだけ許された呼び名
「見つけたよ。お前がオレのΩだ」
普通にβとして過ごしてきた俺に告げられた言葉。
友達だと思って接してきたアイツに…性的な目で見られる戸惑い。
■オメガバースの世界観を元にしたそんな二人の話
ゆるめ設定です。
…………………………………………………………………
イラスト:聖也様(@Wg3QO7dHrjLFH)
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
【書籍化確定、完結】私だけが知らない
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化確定です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/12/26……書籍化確定、公表
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる