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社会人編
オメガの初恋①
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ガヤガヤとした店内の騒音は、その輪の中に入ってしまえば案外平気なものである。食器の擦れる音と笑い声が重なっていた。
「浅葱さーん、何か頼みますか?」
「俺は大丈夫。ありがとう」
後輩の女性社員が愛想の良い笑顔で尋ねてくれる。伊織はまだ空になっていないグラスを掲げながら、首を横に振った。
夏が長かった代わりに秋は風に攫われるようにすぐに去って、冬がやって来た。暖房が効いた店内は思わず腕捲りをしたくなるほど暖かいが、外は凍えるような風が吹き抜けていることだろう。
飲み会が続く季節でもある。取引先はもちろん職場でも頻繁に催されている。今日は営業部での少し早めの忘年会となっていた。仕事納めや休暇のことも考えて、毎年月初に済ませてしまうのだ。
伊織はいつのまにか幹事など気にせずに楽しめる歳になっていて、それがなんだか感慨深い。
赤ら顔の同僚の話に相槌を打ちながらも、伊織の意識は別のところにあった。レモンサワーをひと口呷る。伊織の心を占めるのはあの男一人だけだ。
最後に環とゆっくりと会話したのは、あの日が最後だった。時折マンションで挨拶はするが、休日に時間をとって食事に行くようなことはできていない。単純に忙しい時期なのである。しかしそれは伊織にとっては好都合であった。
初恋の蓋が吹き飛んで、伊織の中でぐるぐると渦を巻いている。ぐわりと湧き上がる感情のままにとんでもないことをしでかしてしまいそうだから、顔を合わせない方が良かった。
それでも着々と時間は進んでいる。伊織はどこかで環とのことに決着をつけようと、タイミングを狙い続けていた。
環のことを考えたばっかりに、無意識に物憂げな表情が滲み出してしまう。そんな伊織の耳に、伊織の気持ちとは正反対の脳天気な声が飛び込んできた。
「おいおい、遠慮してるのか? ほら、若いんだからどんどん飲みなさい」
「は、はあ……」
隣のテーブルに座った新卒の後輩が、酔っ払った上司に絡まれていた。普段は穏やかな人であるが、酒が入ると少々厄介なのである。
今日はいつも彼の相手をする酒豪の同僚が欠席しているためにその力が暴走しているらしい。また彼のお気に入りの部下である大雅も、別のテーブルで楽しそうに後輩たちに絡まれている。
そんな手持ち無沙汰な上司の標的になってしまった後輩が見るからに困惑したように眉を下げて、押し付けられたビールジョッキを握っていた。
伊織はグラスを手に立ち上がる。
「課長こそ、遠慮してるんじゃないですか? いつもよりペース遅いですよ」
「浅葱、お前言うようになったなあ」
上司に話しかけながら、後輩が開けた隙間に腰を下ろす。ぶわっと吹きかけられた酒臭い息につい頬が引き攣りそうになったが、寸でのところで耐えた。
まだ会が始まって一時間ほどしか経っていないにも関わらず、もうこんなにも茹で上がっているのか。
「課長は学生時代、飲兵衛さんってあだ名がついてたんですよね」
「おお、よく知ってるじゃないか」
「飲み会の度に聞いてますから。もう覚えちゃいましたよ」
柔和な微笑みを湛えた伊織は後輩の手からまだひと口もつけていないであろうビールジョッキを掠め取って、こっそりと自分の元へと引き寄せる。驚く後輩に、伊織は目配せをして応えた。
確かに伊織はもう若手ではないが、こういう場で後輩が困っている時は手を差し伸べなければならない。
正直、伊織も飲みたい気分だったのだ。伊織が抱えた漠然とした不安は歪に膨らんだ風船のようで、それをどうにかぺしゃんこに潰してしまいたかったのだ。
「浅葱ー、大丈夫か?」
同期が伊織の名前を呼ぶ声がする。
伊織は目を瞑ったままだ。大丈夫だと答える代わりに挙げようとした腕は、鉛のように重たかった。
「あれま、潰されたか」
「珍しいですね」
「一人で課長に付き合ってたからな、無理もねえよ」
ざわざわと遥か上の方で、同僚たちの会話が聞こえている。伊織の思考回路はふわふわとしていて、音が形を持たずに分散していってしまう。
「お前、浅葱の家分かる?」
「ああ、分かりますよ。送ってきます」
「頼むわ。他にもちらほらダメそうな奴いるし……もうこんなんになるなら忘年会なんてすんなって話だよな」
同期の男がぶつぶつと文句を言っている声が段々と遠ざかって行く。
テーブルに突っ伏した伊織の肩を、誰かが優しく揺さぶった。
「伊織さん」
背中を摩る手のひらと囁く声は暖かい。
睡魔が這い寄ってきたかと思ったが違う。この声は、大雅だ。
「起きれます?」
「………んん」
腕に力を込めて、伊織はなんとか起き上がる。腫れぼったい瞼を持ち上げた瞬間、あまりの眩さにすぐに目を閉じてしまった。重く、熱を孕んだ目元を擦る。
いつの間にか周りは静かになっていた。光に慣れてきた目でぼんやりと虚空を見つめる。
微睡みというには少々心地の悪い倦怠感が伊織の全身を包んでいた。吐き出した息はアルコールが混じっているようである。
「送って行きますよ」
「……らいじょうぶ」
「いや、絶対無理でしょ」
呂律の回らない伊織の有り体に、大雅が呆れたように眉を吊り上げた。
そんなことはない。伊織はテーブルに両手をついた。そのまま立ち上がろうとすると、大雅が焦って伊織に手を伸ばす。伊織の体はぐらりと傾いていた。
「こんなフラフラで、一人で帰れるわけないじゃないですか」
「う……ごめんねえ」
「いいですよ。ほら、行きましょうか」
大雅の肩に掴まりながら、伊織はよろよろと歩き出した。気持ち悪いというより、とにかく眠くて体が重たい。平衡感覚がまるでない。
半分も開いていない視界でなんとか店を出る。夕方から降り出した雨粒が、地面に打ち付けられる水音が響いている。凍えるように寒かった。傘をさすまでもなく、転がるようにタクシーに乗り込んだ。
伊織を奥へと押し込んだ後、大雅も同じようにタクシーに乗る。コートの肩の部分の色を濃くした大雅はシートベルトを締めながら、運転手に行き先を告げている。
「住所、合ってますよね?」
そのやり取りをぼやっと眺めていると、唐突に尋ねられて伊織は首を傾げた。伊織さんの家、ともう一度言われてようやく理解する。伊織は幼い子どものように首を縦に振った。
「大して酒強くないのに、こんなんになるまで飲んで」
「んー……なさけない」
「後輩の代わりに課長の相手してたんでしょ。流石の伊織さんでも、飲まずに躱すのは無理でしたね」
「……かちょう、めざといから」
仕事柄飲みの場は多い。大雅の言う通り、酒に強くない伊織は普段は聞き役に徹しながら相手に飲ませてやり過ごしている。
座席の背もたれにぐったりと身を預けて、冷えた手の甲で額を冷やす。
「それにおれも、のむのたのしかったからねー……」
舌っ足らずにぼやく伊織の横顔を見つめながら、大雅は口元を緩めた。
後輩が絡まれているのも、その相手がいつの間にか伊織に変わっていたことも、大雅は視界の端で捉えていた。あの後輩は下戸で、歓迎会の時もソフトドリンクしか口にしていなかったのだ。それを伊織は覚えていたのだろうか。
車体に跳ね返る雨の音はどこか規則正しく、子守唄のようにも聞こえる。暖まった空気が循環せずに伊織の体を包んでいた。
辛うじて開いていた瞼が徐々に落ちていく。薄い唇の隙間から、今にも寝息が聞こえてきそうだった。
大雅の視線が伊織から外れる。声をかけるような無粋な真似はせず、ただ自分の元にもしばしば顔を覗かせる睡魔を追い払うべく、スマホの画面を眺めていた。
夢と現の狭間で心地よく揺れていたのが、ゆっくりとスピードを落として行き、そして止まった。
とんとん、と軽く肩を叩いた衝撃に伊織は今度こそ目を開いた。少し眠ったのが良かったのか、大分正気が戻ってきているようである。
大雅が先にするりと外に出て、折りたたみの傘をさす。もう片方の手を車内の伊織に差し伸べた。
伊織は伸ばしかけた指先をぴたりと止める。
「だいじょうぶだよ」
そう言って、一人で車から降りた。
大丈夫とは言ったが、その足取りはやはりおぼつかない。タクシーには一旦待ってもらうことにして、伊織は結局大雅の肩を借りながらマンションのエントランスへと入っていった。
「伊織さん、鍵は?」
「かぎはね、……カードキー、なんだけど」
エントランスから内部に入るためのカードキーを探す。いつもは財布に入れているが、肝心の財布が見つからない。ごちゃついたバッグの中を漁っていると、伊織の背中を支えていた大雅も同様に中身を覗き込んできた。
今日は情けないところばかりを見せてしまっている。気恥ずかしさが過った時、耳に滑り込んできた声に伊織は弾かれたように顔を上げた。
「浅葱?」
伊織に貸したものとはまた別の、紺のマフラーを身につけた環が立っていた。
伊織の心臓が跳ねる。伊織に注がれていた環の視線が、隣の大雅へと移っていく。
「……日向の、弟だっけ」
「どうも」
バッグの中に手を入れたまま、大雅が環の顔を見る。
ぞわりと産毛が逆立つような感覚を覚えた。
「……なにしてんの、こんなところで」
「あ……ええと、カードキー、さがしてて」
真冬を感じさせるような芯から冷えたような声色にたじろいでしまう。
「俺ので入れば」
「う、うん……」
伊織が散々探していたカードキーと同じものを、環の指がしっかりと挟んでいた。
立ち止まっていた環がそのまま二人の元へと近寄ってくる。
伊織たちの背後にあるカードリーダーへの動線を確保しようと伊織が身を捩ると、ふいに大雅が口を開いた。
「伊織さん、ありましたよ」
「ほんと?」
店に忘れてきたのかもしれないと思っていたので安堵する。見つかった財布を大雅の手から受け取ろうとすると、大雅は伊織の手をひらりと避けてしまった。
伊織の眠気にとろりとした瞳が丸くなる。
「……えっ?」
大雅が財布を持った手を後ろへと引いていく。つられるようにそれを伊織の指先が追った。
その隙を狙って、背中に回った腕が伊織を引き寄せる。瞬きをする間に、夜の海を閉じ込めた二つの大きな瞳が間近に迫っていた。
「浅葱さーん、何か頼みますか?」
「俺は大丈夫。ありがとう」
後輩の女性社員が愛想の良い笑顔で尋ねてくれる。伊織はまだ空になっていないグラスを掲げながら、首を横に振った。
夏が長かった代わりに秋は風に攫われるようにすぐに去って、冬がやって来た。暖房が効いた店内は思わず腕捲りをしたくなるほど暖かいが、外は凍えるような風が吹き抜けていることだろう。
飲み会が続く季節でもある。取引先はもちろん職場でも頻繁に催されている。今日は営業部での少し早めの忘年会となっていた。仕事納めや休暇のことも考えて、毎年月初に済ませてしまうのだ。
伊織はいつのまにか幹事など気にせずに楽しめる歳になっていて、それがなんだか感慨深い。
赤ら顔の同僚の話に相槌を打ちながらも、伊織の意識は別のところにあった。レモンサワーをひと口呷る。伊織の心を占めるのはあの男一人だけだ。
最後に環とゆっくりと会話したのは、あの日が最後だった。時折マンションで挨拶はするが、休日に時間をとって食事に行くようなことはできていない。単純に忙しい時期なのである。しかしそれは伊織にとっては好都合であった。
初恋の蓋が吹き飛んで、伊織の中でぐるぐると渦を巻いている。ぐわりと湧き上がる感情のままにとんでもないことをしでかしてしまいそうだから、顔を合わせない方が良かった。
それでも着々と時間は進んでいる。伊織はどこかで環とのことに決着をつけようと、タイミングを狙い続けていた。
環のことを考えたばっかりに、無意識に物憂げな表情が滲み出してしまう。そんな伊織の耳に、伊織の気持ちとは正反対の脳天気な声が飛び込んできた。
「おいおい、遠慮してるのか? ほら、若いんだからどんどん飲みなさい」
「は、はあ……」
隣のテーブルに座った新卒の後輩が、酔っ払った上司に絡まれていた。普段は穏やかな人であるが、酒が入ると少々厄介なのである。
今日はいつも彼の相手をする酒豪の同僚が欠席しているためにその力が暴走しているらしい。また彼のお気に入りの部下である大雅も、別のテーブルで楽しそうに後輩たちに絡まれている。
そんな手持ち無沙汰な上司の標的になってしまった後輩が見るからに困惑したように眉を下げて、押し付けられたビールジョッキを握っていた。
伊織はグラスを手に立ち上がる。
「課長こそ、遠慮してるんじゃないですか? いつもよりペース遅いですよ」
「浅葱、お前言うようになったなあ」
上司に話しかけながら、後輩が開けた隙間に腰を下ろす。ぶわっと吹きかけられた酒臭い息につい頬が引き攣りそうになったが、寸でのところで耐えた。
まだ会が始まって一時間ほどしか経っていないにも関わらず、もうこんなにも茹で上がっているのか。
「課長は学生時代、飲兵衛さんってあだ名がついてたんですよね」
「おお、よく知ってるじゃないか」
「飲み会の度に聞いてますから。もう覚えちゃいましたよ」
柔和な微笑みを湛えた伊織は後輩の手からまだひと口もつけていないであろうビールジョッキを掠め取って、こっそりと自分の元へと引き寄せる。驚く後輩に、伊織は目配せをして応えた。
確かに伊織はもう若手ではないが、こういう場で後輩が困っている時は手を差し伸べなければならない。
正直、伊織も飲みたい気分だったのだ。伊織が抱えた漠然とした不安は歪に膨らんだ風船のようで、それをどうにかぺしゃんこに潰してしまいたかったのだ。
「浅葱ー、大丈夫か?」
同期が伊織の名前を呼ぶ声がする。
伊織は目を瞑ったままだ。大丈夫だと答える代わりに挙げようとした腕は、鉛のように重たかった。
「あれま、潰されたか」
「珍しいですね」
「一人で課長に付き合ってたからな、無理もねえよ」
ざわざわと遥か上の方で、同僚たちの会話が聞こえている。伊織の思考回路はふわふわとしていて、音が形を持たずに分散していってしまう。
「お前、浅葱の家分かる?」
「ああ、分かりますよ。送ってきます」
「頼むわ。他にもちらほらダメそうな奴いるし……もうこんなんになるなら忘年会なんてすんなって話だよな」
同期の男がぶつぶつと文句を言っている声が段々と遠ざかって行く。
テーブルに突っ伏した伊織の肩を、誰かが優しく揺さぶった。
「伊織さん」
背中を摩る手のひらと囁く声は暖かい。
睡魔が這い寄ってきたかと思ったが違う。この声は、大雅だ。
「起きれます?」
「………んん」
腕に力を込めて、伊織はなんとか起き上がる。腫れぼったい瞼を持ち上げた瞬間、あまりの眩さにすぐに目を閉じてしまった。重く、熱を孕んだ目元を擦る。
いつの間にか周りは静かになっていた。光に慣れてきた目でぼんやりと虚空を見つめる。
微睡みというには少々心地の悪い倦怠感が伊織の全身を包んでいた。吐き出した息はアルコールが混じっているようである。
「送って行きますよ」
「……らいじょうぶ」
「いや、絶対無理でしょ」
呂律の回らない伊織の有り体に、大雅が呆れたように眉を吊り上げた。
そんなことはない。伊織はテーブルに両手をついた。そのまま立ち上がろうとすると、大雅が焦って伊織に手を伸ばす。伊織の体はぐらりと傾いていた。
「こんなフラフラで、一人で帰れるわけないじゃないですか」
「う……ごめんねえ」
「いいですよ。ほら、行きましょうか」
大雅の肩に掴まりながら、伊織はよろよろと歩き出した。気持ち悪いというより、とにかく眠くて体が重たい。平衡感覚がまるでない。
半分も開いていない視界でなんとか店を出る。夕方から降り出した雨粒が、地面に打ち付けられる水音が響いている。凍えるように寒かった。傘をさすまでもなく、転がるようにタクシーに乗り込んだ。
伊織を奥へと押し込んだ後、大雅も同じようにタクシーに乗る。コートの肩の部分の色を濃くした大雅はシートベルトを締めながら、運転手に行き先を告げている。
「住所、合ってますよね?」
そのやり取りをぼやっと眺めていると、唐突に尋ねられて伊織は首を傾げた。伊織さんの家、ともう一度言われてようやく理解する。伊織は幼い子どものように首を縦に振った。
「大して酒強くないのに、こんなんになるまで飲んで」
「んー……なさけない」
「後輩の代わりに課長の相手してたんでしょ。流石の伊織さんでも、飲まずに躱すのは無理でしたね」
「……かちょう、めざといから」
仕事柄飲みの場は多い。大雅の言う通り、酒に強くない伊織は普段は聞き役に徹しながら相手に飲ませてやり過ごしている。
座席の背もたれにぐったりと身を預けて、冷えた手の甲で額を冷やす。
「それにおれも、のむのたのしかったからねー……」
舌っ足らずにぼやく伊織の横顔を見つめながら、大雅は口元を緩めた。
後輩が絡まれているのも、その相手がいつの間にか伊織に変わっていたことも、大雅は視界の端で捉えていた。あの後輩は下戸で、歓迎会の時もソフトドリンクしか口にしていなかったのだ。それを伊織は覚えていたのだろうか。
車体に跳ね返る雨の音はどこか規則正しく、子守唄のようにも聞こえる。暖まった空気が循環せずに伊織の体を包んでいた。
辛うじて開いていた瞼が徐々に落ちていく。薄い唇の隙間から、今にも寝息が聞こえてきそうだった。
大雅の視線が伊織から外れる。声をかけるような無粋な真似はせず、ただ自分の元にもしばしば顔を覗かせる睡魔を追い払うべく、スマホの画面を眺めていた。
夢と現の狭間で心地よく揺れていたのが、ゆっくりとスピードを落として行き、そして止まった。
とんとん、と軽く肩を叩いた衝撃に伊織は今度こそ目を開いた。少し眠ったのが良かったのか、大分正気が戻ってきているようである。
大雅が先にするりと外に出て、折りたたみの傘をさす。もう片方の手を車内の伊織に差し伸べた。
伊織は伸ばしかけた指先をぴたりと止める。
「だいじょうぶだよ」
そう言って、一人で車から降りた。
大丈夫とは言ったが、その足取りはやはりおぼつかない。タクシーには一旦待ってもらうことにして、伊織は結局大雅の肩を借りながらマンションのエントランスへと入っていった。
「伊織さん、鍵は?」
「かぎはね、……カードキー、なんだけど」
エントランスから内部に入るためのカードキーを探す。いつもは財布に入れているが、肝心の財布が見つからない。ごちゃついたバッグの中を漁っていると、伊織の背中を支えていた大雅も同様に中身を覗き込んできた。
今日は情けないところばかりを見せてしまっている。気恥ずかしさが過った時、耳に滑り込んできた声に伊織は弾かれたように顔を上げた。
「浅葱?」
伊織に貸したものとはまた別の、紺のマフラーを身につけた環が立っていた。
伊織の心臓が跳ねる。伊織に注がれていた環の視線が、隣の大雅へと移っていく。
「……日向の、弟だっけ」
「どうも」
バッグの中に手を入れたまま、大雅が環の顔を見る。
ぞわりと産毛が逆立つような感覚を覚えた。
「……なにしてんの、こんなところで」
「あ……ええと、カードキー、さがしてて」
真冬を感じさせるような芯から冷えたような声色にたじろいでしまう。
「俺ので入れば」
「う、うん……」
伊織が散々探していたカードキーと同じものを、環の指がしっかりと挟んでいた。
立ち止まっていた環がそのまま二人の元へと近寄ってくる。
伊織たちの背後にあるカードリーダーへの動線を確保しようと伊織が身を捩ると、ふいに大雅が口を開いた。
「伊織さん、ありましたよ」
「ほんと?」
店に忘れてきたのかもしれないと思っていたので安堵する。見つかった財布を大雅の手から受け取ろうとすると、大雅は伊織の手をひらりと避けてしまった。
伊織の眠気にとろりとした瞳が丸くなる。
「……えっ?」
大雅が財布を持った手を後ろへと引いていく。つられるようにそれを伊織の指先が追った。
その隙を狙って、背中に回った腕が伊織を引き寄せる。瞬きをする間に、夜の海を閉じ込めた二つの大きな瞳が間近に迫っていた。
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