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社会人編

のどかな日常②

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 月初から三連休というのは気分が好い。時折窓を叩く風の音が些か不安な気持ちにさせるが、外を見れば遥か遠い青空が美しかった。
 溜め込んでいた洗濯物は昨日のうちに片付けたし、いつもより遅めに起床しても十分にゆとりがある。
 まったりと準備をしていた伊織の元に一通のメッセージが届いた。送り主は龍成。今夜食事に行く約束をしていた。
 約束はしていた、というのは過去形で正しい。体調を崩してしまったとの連絡だった。お大事に、とメッセージを打って送る。
 最近は日中も気温が上がらない。そういう季節だろう。

「………どうしようかな」

 店を予約していたわけでもないので、急遽予定がキャンセルになってもすることはない。
 何の拘束もなく、本当の意味で自由になってしまった伊織はぼんやりとスマホの画面を見ていた。
 生憎、明日も予定はない。このまま平日の忙しさを癒すように、ゆったりとした休日を過ごすのも悪くはないが。
 伊織はメッセージアプリのトーク画面を開く。

「ご飯行かない、っと」

 ごく簡潔な文章を打ち込むだけ打ち込んで、送信ボタンはタップせずにそれを読み上げた。
 僅かな躊躇いを投げ捨てて、環へメッセージを送る。確実に送信されたことを確認した伊織は、深く息を吐き出しながらダイニングテーブルに突っ伏した。
 学生の頃も毎回少し緊張しながら遊びに誘っていたな、と思い出す。今も変わらないなんて不思議だ。
 スマホが手の中で震える。たった今、環から返信が来た。
 おもむろに立ち上がり、伊織は洗面台へと向かう。鏡に映った伊織はまるで鼻歌でも歌い出しそうな表情を浮かべていた。


「急に誘ってごめん」
「いいよ。今日暇だったから」

 部屋を尋ねてきた環とともに、伊織はマンションを後にする。黒のチェスターコートがよく似合っているが、伊織の視線は自然とその首元に向かう。

「そっか、早月って寒がりだったね」

 屋外での体育の授業は環にとっては修行だっただろう。ぐるりと巻かれたマフラーは環の冬の必需品だった。
 環はそんな伊織を、逆に不思議なものを見るような目で見つめていた。

「浅葱はそれで寒くないのか?」

 もこもことしたセーターの袖を伊織は見下ろす。深みのある赤のセーターは、伊織の浮かれた気分を表しているかのようだった。

「いや、首」
「んー、まだ耐えれる」
「マジ? 絶対寒いって」
「早月は寒がりすぎなの。このくらい、普通は平気だよ」

 セーターの襟ぐりが広いのが気になるらしい。風が吹くと肌寒いが、この時間帯ならばまだ太陽も顔を覗かせている。平然としている伊織に、環は呆れたような顔をした。
 夕食にはまだ少し早い時間だ。駅の周辺には飲食店も多く立ち並んでいるが、それ以外にも時間を潰せそうなものがちらほらと視界に入ってくる。
 二人は中古書店へと足を踏み入れた。

「なんか欲しいものあんの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。ここ、中古のビデオも種類豊富だから」
「そうなんだ。あんま来たことないんだよな」

 店内はそれなりに人で賑わっている。その間をすり抜けて、目当てのフロアに向かった。
 大雑把なジャンル分けをされたうえで、パッケージが無造作に詰められた棚を見上げる。

「こういうの、宝探しみたいで楽しいんだよね」

 通販で目的の商品を購入するのとはまた違う。伊織の弾んだ声色に環も同意しつつ、興味深そうにずらりと並んだパッケージを眺めている。

「あ、これ」
「どれ?」

 伊織の指先が一点を指した。手を伸ばせば届く高さだったが、環が上から軽々とそれを取ってしまう。
 少し色褪せた女優の姿が麗しい。

「観たかったやつ。レビュー評価が星一つの問題作」
「なんだそれ、面白そう」
「やっぱりそう思うよね?」

 環の口角が緩やかに上がっている。
 ネットサーフィンをしていた時にたまたま見つけた作品だが、大抵のウェブサイトで評価が悪く、逆に興味をそそられていた。
 そんな伊織の心情を環は理解できるようである。

「どうしよう……買っちゃう?」
「いいじゃん。三点買えば安くなるらしいし」
「ええ、そうなんだ。迷うなあ」

 伊織の視線が忙しなく動いている。薄らと眉間に皺を寄せながら真剣に棚を見つめる伊織の横顔に、環の瞳が色濃く輝いた。

「俺も選んでいい?」
「もちろん。そっか、一緒に買えばいいんだ」
「普通に割り勘して、シェアすんのもあり」

 確かに、と伊織は頷く。
 それから二人は、まるでガラクタの中から宝を探すかのように、棚を隅々まで眺め回した。
 商品を手に取りながら環がふと呟く。

「俺、今ホームプロジェクター欲しくてさ」
「それ俺も一人暮らしする時考えたよ」
「やめたんだ?」
「種類がありすぎて、選ぶのも少し面倒だなあって思ってたら……ね」
「まあ、分かるけど」

 観たい映画があれば映画館に行ってしまうし、テレビの画面で不自由はしないから、敢えて買う理由はない。そうやって結局いつも先延ばしにしてしまっていた。
 二人で選りすぐった三点を購入する。夕食にするには丁度いい頃合いになっていた。
 特にこだわりのない二人だから、目に付いたラーメン屋に入る。休日の客の出入りの激しさに流されるように、長居することなく店を出た。


 無防備な頬を冷気が撫でる。
 太陽が沈んだ後のしんとした風が、街路樹の落ち葉を吹き上げていく。昼間とは打って変わって人通りは少なくなっていた。

「さ……っ」

 伊織は開きかけた口を閉じた。環は伊織に視線を向ける。むっと曲がった唇を見て、環が堪らずに噴き出した。

「ほら、言っただろ」

 黒のマフラーを巻き直し、見るからに暖かそうな環をじろりと横目で見る。少々意地の悪い視線を浴びた伊織は顔を逸らして、さっさと一人で歩き出してしまった。
 環はすらりと長い足を優雅に運び、あっという間に伊織に追いつく。

「これでも耐えれる?」
「……寒いよ」
「おっと」

 隣に並んだ環の肩にわざとぶつかっていく。対して体重のない伊織がぶつかった程度では、環の体幹は揺らがない。吐息混じりの笑い声が聞こえた。
 転ばないように気を配りながらも、環の肩にぐっと体重をかけると、同じくらいの力で押し返される。更に押すと、環の方も力を込めてくる。伊織の口元が綻んだ。
 ぎゅうぎゅうとくっついて、縺れるように道を歩いていく。すれ違い様に若いカップルの視線がちらついて、遅れて羞恥心がやってきた。
 じゃれ合うのはここまで、と言わんばかりに離れようとした伊織は、僅かな抵抗を感じ取って動きを止めた。

「わっ……ごめん」

 伊織のセーターの袖が、環のショルダーバッグの金具に引っ掛かっている。
 じゃれていた拍子にやってしまったのだろう。即座に引こうとした腕を環が掴んだ。

「引っ張るとますます解れる」
「大丈夫だよ」
「はいはい。じっとしてて」

 まるで聞き入れず、環は慎重にショルダーバッグを下ろすと、その指先で金具の部分を辿った。
 セーターの糸がこれ以上解けないように、丁寧な手つきで探っている。手元を覗き込み、一点に集中する環の顔が気付けば随分と近いところにあった。
 もの柔らかな静けさが道の隅で立ち止まった二人を包み込む。
 伏せられたその睫毛の長さと、その向こうに透ける黒曜石のような瞳をぼんやりと眺めていた。

「……優斗、新婚生活どうなんだろう」

 先日、結婚式を挙げた友人のことを口に出した。 特に深い意味はなく、ふと今話題に出したくなったのだ。

「さあ。でも、好きな人とずっと一緒なんだから、なんだって楽しいんじゃねえの」

 環は視線を外すことなく答えた。
 思ったよりもしぶとい赤い糸は環に絡まったままだった。
 伊織は曖昧な相槌を打つ。

「そっか。……喧嘩とかしないのかな」
「それは、するだろ。一緒に生活してたらストレスもたまるし」
「それでも一緒にいたいんだよね」
「好きだからな」
「なるほど」

 取れた、と環が呟いた。繊細な指先がそっと伊織の袖から離れていく。伊織は少し解れたそこを擦りながら、環のかんばせを瞬きもせず見つめていた。
 長い睫毛が音ひとつなく静かに持ち上がり、伊織の視線と絡み合う。時間が止まった気がした。
 環の吐息が微かに緩んだ。丸い頭を僅かに傾けてマフラーを外す。伊織がそれを疑問に思うと同時に、柑橘類の香りがふわりと鼻先を掠めた。

「これで寒くないだろ」

 優しく掠れた低い声が鼓膜を擽る。乾燥知らずの艶めく唇が月よりもなだらかな弧を描いていた。
 首元に巻かれた温もりが、伊織の心まで締め付けてくる。それを緩めてしまいたくて、マフラーに指を引っ掛けた。
 乾いた空気に匂い立つ、爽やかで少し甘い香り。伊織の心の奥底を揺さぶる。心臓が一際強く脈打った瞬間、ずっとガタついていた何かが突き破られてしまったのを悟った。
 伊織は目を閉じて、諦めたようにため息をこぼした。
 その温度は今も昔も変わらない。ほろ苦いようで、ひどく甘ったるい。

 伊織はずっと、早月環に恋をしている。

 伊織の中で弾けたそれに環は気が付いていないようだった。その目線は伊織の手に注がれていた。指先から手の甲を辿り、手首をそっと掴まれる。

「帰るか」
「……うん」

 辛うじて絞り出した声は、情けないくらいに小さかった。顔をすっぽり覆い隠したい衝動に駆られながら、伊織はマフラーに口元を埋める。
 濃くなる香りに耳裏が燃えるように熱くなった。服越しに手首に触れている少し強ばった指に、伊織の神経が集中している。

「……今度、マジでホームプロジェクター買おうかな」
「プロジェクター……ああ、さっきの」
「通販だと永遠に決められなさそうだから、実店舗に行ってさ」
「いいと思う」

 ぎこちなく返事をする伊織に、環も何も言わなかった。覆うものがなくなり、剥き出しになった首筋が赤くなっていたが、伊織は転ばないように足を動かすのに必死でまるで気が付かなかったのだ。


 そこからの記憶は曖昧だった。いつの間にかマンションの自室に辿り着き、扉を閉めた途端に伊織はその場に崩れ落ちる。
 心臓が破裂しそうだった。血が巡る音が煩くて堪らない。

「……無理、だったなあ」

 想いを押し込めるなんて。
 伊織の初恋は五年もかけて塞いだはずの蓋を簡単に突き破ってしまった。
 柔らかな布をぎゅうと握る。肌触りのいい生地と微かに残る香りが、環が触れた時のあの恋しさを容易く呼び起こす。
 この日々を再び手放すくらいなら、今の関係のままでいいと思っていた。しかし、そんなものは幻想で、伊織はそれがこなせるほど器用ではない。
 環に近づく度に、伊織の心が震えている。
 返しそびれたマフラーをおそるおそる外す。伊織は胸の苦しさを紛らわすようにそれを抱き締めたが、これっぽちも和らぐことはなかった。
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