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社会人編

のどかな日常①

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 太陽の光がカーテンの合間から射し込んでいる。伊織は目を擦りながらベッドから体を起こした。

「……ふあ」

 ぐーっと猫のように背中を伸ばす。自宅というプライベート空間では、欠伸を噛み殺す必要もない。
 掛布団を退けると、寒気が裸足の足元から這い上がってくる。
 充電中のスマホに手を伸ばした。時間は昼前だ。完全な寝坊だが、休日だから構わないだろう。
 伊織は流れるような動作でカメラロールを開いた。
 自然と伊織の唇が弧を描く。
 昨夜は結婚式直前でマリッジブルーになっているらしい優斗を励ますため、環と合わせた三人で飲んでいた。酔い潰れた優斗を二人で送り届けた後、一緒にマンションまで帰ってきたのだ。
 伊織のカメラロールには一枚の写真が収められている。赤ら顔の優斗と、彼に絡まれている環のツーショット。友人たちの姿を指先でなぞる。
 その美貌は言うまでもないが、環は昔からよくこういう顔をする。悪友たちを一歩引いて見ている時の、少し大人ぶった表情。伊織もそんな環の隣で微笑ましそうに友人たちを見守るのだ。そして時折二人で目配せをして、堪えきれなかったようにひっそりと笑う。
 たまに食事に行ったり、顔を合わせたら世間話をして、映画について語ったりもする。そんな穏やかで、沁みるほど懐かしい日々を過ごしていた。この日々をもう手放したくはない。
 寝起きのぼんやりとした頭のまま、軽く寝癖を整えて、六枚切りの食パンをトーストせずにそのまま食べ終えた。

 今日は大した予定もない。
 残り僅かな午前中をゆったりと満喫した伊織は、昼過ぎになってようやく重い腰を上げた。
 コンビニから出た伊織は思わず身震いをした。カーディガンだけではもうそろそろ限界かもしれない。

「……ん?」

 伊織はマンション前でうろうろと歩き回っている男の姿を見つけ、訝しげに眉を顰めた。どう考えても挙動不審で怪しい。
 警察に通報するべきか。そこまで考えたところで怪しい男が突然振り向いた。その勢いに伊織が怯んだ隙に、男が何やら声を上げながら伊織の元へと駆け寄ってきた。

「あっさぎぃ~~!!」
「だっ………えっ、河内!?」

 がばりと飛び付いてきた体を受け止めて、その顔を覗き込んだ伊織は驚愕に目を丸くした。
 髪をアッシュベージュに染めた直樹が、何故か伊織の目の前に現れたのである。

「久しぶり~、俺に会いたかった? 俺はすっげー会いたかったよ!」
「ひ、久しぶり……元気そうだね?」
「元気じゃなーい……」
「あ、違うんだ」

 緩い口調とは裏腹に力強い抱擁をその一身に受けながら、伊織は視線を巡らせる。通りかかった人が見たらかなり異様な光景だろう。
 人の注目を集める前に、この状況をどうにかしなければならない。

「突然どうしたの? ていうか、河内って関西でしょ」
「休暇使ってこっち来てんの」
「そうなんだ。尚更どうしたのか聞きたいんだけど……」
「……あんの、バカが、バカ日向がぁ……!」
「日向が、何? えっ、本当に何……?」

 直樹は恐らく恋人である男の名前を憎しみを込めて繰り返すばかりで、話が一向に進まなかった。それに伊織の背中に回った腕の力は緩む気配を見せない。伊織は落ち着かせるように直樹の肩を叩く。

「ほら、河内、一旦落ち着こう……」
「え、浅葱くん?」

 耳に飛び込んできた第三者の声に、伊織の意識が一瞬遠のきかけた。現実逃避をしたところでどうにもならないため、飛んでいきそうになったそれを手繰り寄せる。
 伊織が声の主を見遣った。伊織も驚きに目を見開いたが、相手はただでさえ大きな瞳の持ち主だから、もはや目玉が転がり出てくるのではないかと余計な心配をする。

「さ、櫻木くん……」
「何、どういう……暴漢? ……っ、おいこら、なにしてんだお前!」
「あー、待って待って。櫻木くん、俺は大丈夫だから」
「う~、浅葱ぃ……」
「っひ、……河内っ、耳元で喋らないで」
「この野郎、浅葱くんから離れろ!」
「そうじゃないから! ほんと、二人とも落ち着いてってば!」

 可愛らしい顔を最大限の威嚇に歪めながら直樹に飛び掛かろうとする春生と、唸りながら伊織にべったりと張り付いて離れない直樹。
 二人の友人の暴走に、伊織の悲鳴じみた声が響き渡った。


「俺は大丈夫だって何回も言ったでしょ」
「あ~、ごめんな。浅葱くんが襲われてるって思ったらパニックになっちゃってさ……」
「大丈夫大丈夫~! 全然痛くなかったし」

 直樹はその背中に一発拳を入れられたにも関わらず、けろりとして笑っている。
 伊織も慌てるような勢いで春生から繰り出されたのは、猫パンチだった。伊織は呆然としたが、それが効いたのか直樹は正気を取り戻した。
 マンションの住人か歩行人か、周囲の視線を集め始めていた。伊織は落ち着いた二人を引っ張り、近くのカフェに入る。ディナーにはパスタを提供する店で、伊織も幾度か一人で食事をしたことがあった。
 そして現在、注文したドリンクを待ちながら自己紹介をすませたところである。

「早月ってさ、ちっさい頃からバチバチの美形だったの?」
「えー、どうだろ。俺はあんまり記憶ないなー……あ、でも確かにバレンタインとか凄かったかな。小学校の時とか、机からなだれが起きてたし」
「すっげー、ガチ少女漫画~! てか櫻木くんもモテたでしょ?」
「いやいやっ、全然! チョコレートも毎年母さんからしか貰ってなかった」
「マジ? うっそだあ」

 出会い方は些か悪かったものの、今やすっかり打ち解けたようである。
 伊織としてもほっと一息吐きたくなるところだが、散らばった疑問を片付けるのが先だ。

「ねえ、河内」
「なに~?」
「なんでうちの前にいたの?」

 直樹は関西で就職したからそちらで暮らしているはずだ。直樹の表情がみるみるうちに険しくなっていく。しかし再び取り乱すようなことはなかった。

「日向と喧嘩した」
「日向?」
「河内の彼氏」
「へえ~」

 伊織の隣に座っている春生が首を傾げるので、小声で教えてやる。興味深そうに直樹を見た。
 そこに各々のドリンクが運ばれてくる。直樹は一度口を止めると目の前にグラスが置かれるのを待ち、ウェイトレスが去った途端、その鬱憤を小爆発させた。

「あいつさあ! 俺がせっかくこっち来てるのに、デートしてくれないんだよ!」
「ええっと……仕事が忙しいとか?」
「違う。ずーーーっと家!」

 家。伊織は口の中で繰り返した。

「家、っていうかべッド」
「あー、いいから。分かった分かった」

 補足しようとする直樹を止める。こんなところで言うことではない。春生はいまいち分かっていないような顔をしていた。

「遠距離であんま会えないから、たまに会えた時くらい恋人らしくデートとかしたいのに……これじゃあセフレと一緒じゃん……」

 しょんぼりと垂れた犬の耳と尻尾が直樹から生えている幻覚が見えた。伊織は思わず目を擦る。
 話を聞いていた春生は、直樹に共感するかのように物憂げな表情を浮かべていた。

「河内くん、それって彼氏に言った?」
「言った。でもわざわざ外出たくないってバッサリ。却下」

 春生の問いに直樹は力なく首を振る。
 日向とも交流のある伊織は、あの男なら平気で言いそうではあると思った。

「日向んちなんて、今更戻りたくないし。もうこのまま帰ってやろうかな」
「心配するよ」
「しないって」

 絶対にする。あの男が狂おしいほどに直樹を愛していることは周知の事実なのである。ただ、本人たちの意思疎通が上手くいっていないだけで。
 今頃電話を鬼のように掛けてきていてもおかしくない。そう思いつつ尋ねると、スマホの電源は切っているらしい。
 日向の心情を思えば、少々彼に同情したくなった。

「河内がなんでデートしたいか教えてあげたら?」
「えー……言う必要ある?」
「外でデートするのと家にいるの、どっちも一緒って思ってそうだからね」
「いやいやぁ、流石にそんな……ありそー」

 直樹は遠い目をしながらため息を吐いた。伊織も苦笑せざるを得ない。

「とにかく、ちゃんと話し合ったら? このまま帰っても、もっとしんどくなるでしょ」
「うん~~……そうする」

 素直に頷いた友人に伊織は頬を緩め、隣でホットココアの水面を揺らしている春生を見つめた。

「……それで、櫻木くんはなんであそこにいたの?」
「めぐるに借りるものがあってさー。でもまあいいや、またにする」
「そっか」

 分かりきっていることを聞いた伊織は、それ以上のことを深くは掘らなかった。


 話に夢中になっていて、今初めてグラスに口をつけた直樹が目を輝かせる。

「これめっちゃ美味しい~」
「それ、レモネード?」
「そうそう! 甘すぎなくて丁度いい。あと体あったまる」
「最近寒くなってきたもんな」

 伊織は紅茶を注文した。意識せずともアイスではなくホットを選ぶ季節になってきた。
 簡素なメニュー表にはおすすめの文字とともにモンブランの写真が載っていて、つい気になってしまっている。
 渋みの少ない紅茶を堪能しつつ、今度こそようやく心身を落ち着かせた伊織のことを直樹は放っておいてはくれなかった。

「そういえば浅葱はどうなの?」
「うん?」
「恋愛」

 キラリ、と目の端が光る。探偵のような顔つきが少々鬱陶しい。自分のものが片付きそうだと思った途端これだ。
 伊織は顰めっ面をしてみせた。何年経ってもこの男のこういうところは変わらない。

「俺のは別にいいでしょ」
「よくな~い! 樺地さんも結局、別の男とくっついたって噂だし」
「俺の親友ね」
「なんで! 先にキューピットやっちゃってんの?」

 伊織と玲子は卒業してからも仲が良かったので、どうやら直樹は意味深な目で見守っていたらしい。
 そうであるならこの友人は、恋愛が好きな割に察しが悪いということになる。場数が多いにも関わらず、自分の恋愛にも不器用なので当然なのかもしれない。

「まじでなんもないの?」
「毎回ないって言わせて、嫌がらせのつもり?」
「これはシンプルな驚き! じゃあまだ誰とも付き合ったことないんだ」
「エッ、浅葱くんて誰かと付き合ったことないの!?」

 大人しく話を聞いていた春生が急に食いついてきた。伊織も、そして直樹も目を丸くして春生の方を見る。
 そのまろい頬がほんのりと桜色に染まっていた。

「恋人いない歴が年齢ってこと……?」
「……そうだけど」
「ま、マジか~……!」

 今度はやや小さめの唇をあんぐりと開けて驚愕を表現している。
 普段は独り身であることに対して特に何も思わない。自分の意思に反したことをするよりもよっぽど良いのである。
 しかし本人が気付かずとも、多くの人々に好意を注がれていた春生にそんな反応をされるとつい卑屈になってしまう。

「恋人がいなくたって楽しいよ」
「いやっ、そういう意味で言ったつもりじゃなくて……! マジでびっくりしちゃっただけっていうか」

 春生が慌てた様子で自分の言葉を補った。
 もちろん春生に限って、伊織のことを馬鹿にするような考えはないだろう。しかしそんなに驚くことだろうか、と伊織は内心首を捻った。

「そりゃあ~、いい人がいれば付き合いたいよね?」
「河内のセリフじゃないでしょ」

 口元をにやつかせる直樹に、伊織は呆れたように額を押さえた。
 その時、ぽんと投げられた言葉に伊織は弾かれたように顔を上げる。

「めぐるは?」
「えっ」
「めぐる、めっちゃいいやつだよ!」

 つんと高い鼻先が伊織に近付く。こぼれ落ちそうな瞳がキラキラと瞬く星を飼っている。

「寒がりだし過保護だし……あとヘタレでちょっとスカしてるとこはあるけどさ」
「結構悪口言ってない?」
「愛の鞭! でも……優しくて頭良くて、そんで仕事もできるのに顔も綺麗だし?」

 直樹の緩いツッコミが入るが春生は止まらない。

「あと料理も旨い。俺さ、めぐるの作るからあげ好きなんだよな」
「そ、そうなんだ……」

 興奮気味に畳み掛けられる春生に伊織は圧倒されてしまった。

「ほんと、めぐるはいいやつなんだよ」

 春生は緩やかに目を細め、しみじみと感じ入るように言う。
 伊織の胸がぎゅっと締まった。そんなことは知っている。そして伊織以上にそれを知っているのが春生であることが、苦しい。
 いや、苦しがるのは変だ。伊織は環の良き友人でありたい。

「……そう。俺には勿体ないくらい良い男だよ。でもね、ほら……こういうのはお互いの気持ちだし、ね?」

 彼が可愛がっている幼なじみに、彼をすすめられるというのは中々の地獄だ。複雑に入り乱れた気持ちが顔や声に出ないように、伊織は気を張っていた。

「それはっ、そうだけど………」

 そうは口にしつつ、春生はまだ何か言いたげな顔をしていた。伊織は一度目を伏せて、再び直樹に視線を戻す。

「それより、日向に連絡した?」
「げっ……してない」
「早くしてやりなよ」
「うわあ……スマホの電源入れんの怖いなあ」

 直樹はげっそりとした顔をしながらスマホの電源を入れる。
 その後、あまりの通知の多さに連絡することを拒み始めた直樹を、伊織と春生の二人がかりで説得し、なんとか連絡させることに成功した。

「あーもう、分かったって! そっちに帰……えっやだ来なくていい! はずいから!」

 スマホの向こうの男に声を上げる直樹の頬が赤いのは、怒りのせいではないだろう。
 目の前で繰り広げられる光景に、伊織と春生は互いに顔を見合わせてくすりと笑みを浮かべた。


「櫻木くん、このまま帰って良かったの?」
「うん。別に、急ぎの用じゃなかったしなー」

 相手が来る前にと転がるように先に帰って行った直樹を見送り、伊織は春生と二人で駅までの道のりをのんびりと歩いていた。
 太陽が傾きつつあった。金と橙、仄かな紫が混じり合う空の色に目が安らぐ。

「河内くん、仲直りできるかな」
「できるよ。しょっちゅう喧嘩するけど、結局いつも一緒にいるから」

 社会人になると流石の直樹も落ち着いたようで、以前のように離縁と復縁を繰り返すことはなくなった。

「いいよなあ、そういうの。見た? 電話してる時の河内くん」
「見てた見てた。ほんと、こっちが赤面しちゃうくらい、好きがダダ漏れで」
「すっげー可愛かった! 連絡先交換してくれたし、帰ったら色々聞きたいんだけど……迷惑かな?」
「そんなことないと思うよ。きっと喜ぶ」

 楽しそうな笑顔を見ていると、伊織の気分も自然と上向きになる。
 櫻木春生という男は、接する者の心を自然とまるくしてしまうような何かを持っていた。伊織は春生を良き友人だと思っている。後ろ暗い感情はもう抱きたくなかった。
 駅の改札前に着いた。伊織が別れを告げようとすると、春生が手を伸ばしてくる。
 じんわりと暖かい指先が伊織の手を握る。

「これからもめぐると仲良くしてやってね」

 朝焼けに染まる湖のように、どこまでも澄んだ瞳が伊織を射抜く。
 彼もまた幼なじみである環に慈しみを抱いているのだ。
 伊織はかさぶたが疼くような心地を覚えながらも、何も返すことができず、ただ頷くしかなかった。
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