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社会人編

世界で二番目に幸福な男②

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 一週間も今日で折り返し。終業後、さっさとデスクを片付けてオフィスを出ていく後輩たちを横目に、伊織もまた作業にキリをつける。立ち上がった伊織はくるりと足先を変えた。
 まだ仕事をしているのか、パソコンの画面に視線を注いでいた大雅は、伊織が隣に立って初めて伊織の存在に気が付いたようだった。

「……あ、お疲れ様です」
「お疲れ様。……あの、日向くん」
「はい?」
「この後、少しいいかな?」

 大雅はキーボードを打つ手を止めて、伊織を見た。その瞳が微かに見開かれ、間もなく目元が緊張が解けたように緩む。大雅は静かに微笑んで、いいですよ、と頷いた。


 今年の夏はいつもより長い。
 伊織たちの会社から少し離れたところにある喫茶店に入った。オフィス街から離れているせいか、店内の人もまばらである。
 夕食どきではあるものの、伊織も大雅もコーヒーだけを注文した。窓際の席で、大雅は窓から夕暮れの橙色が濃く、暗くなっていく様を眺めている。

「いつになったら涼しくなるんですかね」
「ううん、どうだろう。あ、でも週末は雨予報だよね」
「雨で少しはマシになるといいですけど」

 冷えたグラスに氷がたっぷりと入ったアイスコーヒーが二人の元に運ばれてくる。
 伊織はそのままグラスに口をつけた。今はブラックで飲みたい気分だった。
 大雅もグラスを傾けている。内側に氷がぶつかる音が微かにした。伊織は慎重に向かい側の動きを窺っている。
 空気が張りつめていた。肺に溜まった古い空気を、深く吐き出していく。そうやって固くなった筋肉を緩めると、伊織はゆっくりと口を開いた。

「焼肉の時から、ずっと日向くんとのこと、考えてたんだ」

 大雅の視線だけが伊織に向かう。口を挟まずに、静かに伊織の言葉を待っているようだった。
 気を抜くと呼吸が浅くなりそうだった。しかし伊織は大雅から向き合うことから逃げないように、一秒たりとも大雅から目を離さない。

「たくさん待ってくれてありがとう。でも………ごめんね。やっぱり俺は日向くんに、好きだって言えない」

 大雅の肩が揺れる。そのくっきりとした瞳の奥で何かが弾けたように夜の色が濃くなった。
 その眉間にぐっと強い力が入る。

「なんでですか」

 簡潔だが痛切な問いに、伊織は何かが込み上げてきそうになった。膝の上で拳を握ることで、それを堪える。

「伊織さんが少しでもいいと思ってくれてるって……俺、自惚れてましたか?」

 伊織は首を横に振った。
 確かに伊織は大雅に惹かれていたのだと思う。
 年下特有の人懐こいところは可愛らしい。手を抜くことなく真摯に仕事に取り組むところや、ひと口が大きくてよく食べるところ。それに伊織のことを真っ直ぐに見つめるところや、いつも伊織を気遣ってくれるところも、好ましくて、心が揺さぶられる。

 彼に似ているから。

 容姿はまるで違うし、好きなものも違う。彼は見知らぬ人には大雅ほど愛想は良くないし、逆に大雅は彼ほど謎めいてもいない。
 しかし、似ているところを探しては、そうやって重ねている。あまりにも残酷だ。
 大雅はそれを知らないから、納得がいかないと言わんばかりの表情を浮かべていた。

「じゃあ、なんで」
「俺、やっぱり忘れられない人がいるんだ」
「……俺はそれでもいいんです。一番じゃなくても、何番目だっていい」
「日向くんが良くても、俺がダメ。恋人にそんなふうに思わせたくないよ。……自分より大事な人がいるなんて、そんな辛いこと」

 大雅が大切な後輩であり友人であるからこそ、伊織のように傷付いて欲しくなかった。
 たとえ今は良いと思っていても、いつか伊織の惨さに気が付いて、その優しい心を痛めてしまうかもしれない。大雅を傷付けることも、その貴重な時間を奪うことも、臆病な伊織にとっては恐ろしいことである。

「俺の我儘だって分かってる。でもこれは譲れない」

 伊織の揺らがぬ瞳を見つめながら、大雅は反論に開きかけた唇を閉じた。
 喫茶店の少し古めかしい椅子の背もたれに、無遠慮に寄り掛かる。大雅は額を押さえながら天井を見上げた。
 ぽつり、と低いぼやきがこぼれる。

「……あーあ。押せばいけるって思ったんだけどな。伊織さん、優しいから」

 大雅の凛々しい眉が力なく下がる。困ったように笑う顔に、伊織の胸が締め付けられるように痛んだ。

「伊織さんがバカみたいに真面目だったの、忘れてました」
「バ、バカみたいって……君ね」
「ほんと、そこまで考えなくたっていいのに考えちゃいますよね。真面目で優しくて……そういうところが、好きなんですよ」

 伊織の視線が揺れた。大雅が囁くような声音で呟いた。

「そうやって、直球の好意に弱いところも」

 上体を緩やかに戻して、大雅はアイスコーヒーのグラスを傾ける。中身の半分を一気に流し入れたようだった。 

「……押すのも引くのも、俺は上手くやれたと思ってますよ。実際、がっつり意識してくれるようになったし」
「それは……その通りかな」
「ですよね。睫毛、取ってあげただけで可愛い顔してましたもんね」
「揶揄わないでよ」

 大雅が軽やかに笑った。そして上がった口角はそのままにそっと目を伏せる。

「でも俺じゃ、ダメなんですね」  

 諦めと切なさと、微かに滲む悔しさが痛いほどに伝わってくる。
 店内は寒いくらい涼しくて氷が溶けず、いつまで経っても薄まらないアイスコーヒーは何度口をつけても苦かった。

「……伊織さん、聞いてもいいですか?」

 伊織はグラスを置いて頷いた。大雅は一度唇を噛んで何かを耐えると、微かに震える声で尋ねた。

「一度でも、俺の匂いがいいって思ったこと、あります?」

 大雅の質問の意図が分からなかった。伊織は戸惑いを露わにしたような声で答える。

「日向くんの匂いは……俺、分からなくて」
「そっか。……あー、………そうですよね」

 大雅は強く目を閉じる。力を込めているせいで、伏せた長い睫毛が震えていた。

「日向くん……」
「……返事、ちゃんとくれて良かった。ありがとうございます」

 大雅がゆっくりと俯きがちになっていた顔を上げた。
 凪いだ海のような瞳が伊織に向けられている。時折小さな波が太陽の光を受けたように煌めくのが、どうしようもなく切なかった。
 その柔らかい声が、言葉を紡いでいく。

「先に謝っておきます。正直、すぐに諦めるのとか無理です。会社では切り替えますけど、顔に出てたら、すみません」
「うん」
「でも俺は伊織さんの一番の後輩なんで。いずれまた飯連れて行って、奢ってくださいね」
「……ふふ、そうだね。また美味しいお店、教えてくれるならいいよ」
「任せてください。あと」
「あと?」
「……その忘れられない人でも、他の誰とでもいいから幸せになってください。この世界で、俺の次に」
「あ、日向くんの次なんだ」
「はい。俺は伊織さんより幸せになるんで」
「おお、言うなあ」
「幸せになった俺を見た伊織さんが、逃がした魚が大きかったって、後から泣いて後悔するくらいの男になりますよ」
「それは……頼もしいな。何より、後輩として」

 大雅なら有言実行してきそうだ。少し生意気な後輩の言葉な裏にはその胸の中に渦巻く複雑な感情と、確かに伊織を想う気持ちがある。
 今年の夏は長い。しかし夏が終わり、秋がやって来るのもそう遠くはないだろう。季節が終わる寂しさと、緩慢な時の流れがもたらす穏やかさが、伊織と大雅を丸ごと包み込んでいた。

「伊織さん、ありがとうございます」
「……こちらこそ、ありがとう。日向くん」

 大雅が軽く頭を下げたのを伊織も真似る。ほとんど同時に顔を上げ、視線が絡んだ。
 大雅の瞳が一瞬、苦しげに歪んだのを見てしまった。しかしその口元に湛えた微笑みも決して偽りではない。
 こんな自分でも、ある一人の男の恋の終わりに最後まで向き合えたのだと、伊織はほんの僅かな哀愁と安堵を感じていた。
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