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社会人編
恋しい人よ⑥
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窓の外で雨粒が壁や屋根を叩く音が響いている。雨の日の夜は時の流れがゆっくりになるような、緩やかな静けさに包まれるから苦手だ。
伊織は確固たる自分の意思で頷きを返した。近くのコンビニで傘を一本買って、少々窮屈な思いをしながら二人で駅に向かった。大雅のアパートの最寄りの駅で地上に出るまでは良かったのだ。しかし運悪く横を通り過ぎていったトラックのせいで、車道側を歩いていた大雅は雨水と泥の混じる水飛沫を浴びることになった。
雨音とは別に水滴が跳ねる音がする。伊織は雨で少し濡れてしまった髪をタオルで拭きながら、フロアクッションの上で身を縮めるようにして座っていた。
他人の家は落ち着かない。時折、用もなくスマホを見て、SNSを眺めてから画面を暗くする。その繰り返しだった。
伊織は遠慮がちに大雅の部屋を見渡した。シンプルなようでいて、ところどころ趣味に凝っている。
部屋の片隅の壁にサッカー選手のポスターが貼ってあった。数年前のワールドカップの、日本代表のキーパー。優斗や龍成の影響でそれなりに分かる。
そわりと胸が騒ぐ。好きに寛いでくれと、浴室に向かう前に大雅はそう言ってくれたが、とてもできそうになかった。
大雅に告白されて、もう二週間ほどになる。まだ返事はしていない。それなのに、今、伊織は大雅の家に居る。伊織は返事を急かさない大雅に甘えている自覚があった。
目が合うようで合わないサッカー選手を眺めながら、伊織は自虐的な気持ちに陥っていた。
「伊織さん」
「日向くん……っ」
名前を呼ばれてそちらを見遣ると、シャワーを終えた大雅が立っていた。思わず息を呑んでしまったのは、その鍛えられた上裸が視界いっぱいに広がったからだ。アウトドアが趣味の大雅の日焼けのあとがよく目立つ。
不自然に固まった伊織にはあえて触れず、大雅は椅子の背もたれに掛けてあったシャツをおもむろに被った。
心臓が浮いたところで跳ねたまま、血液を送り出している。
「服、大丈夫でした?」
「あ、うん。大丈夫だったよ。日向くんのは……洗濯すれば何とかなりそう?」
「頑張れば何とか、って感じですね」
「そっか。あとこれ、タオルありがとう」
「気にしないでください。伊織さんに風邪引かせるわけにはいかないんで。何か飲みます?缶ビールありますけど」
「いやあ、もうアルコールは……」
「ま、そんな気分じゃないですよね」
大雅がペットボトルのミネラルウォーターを二本持って、伊織の隣へとやって来る。伊織の隣にどかりと座り、ペットボトルを差し出した。
構えたように張り詰めた肩が微かに揺れる。おずおずとそれを受け取った伊織に、大雅が微かに笑みをこぼした。
「いきなり取って食ったりしませんよ」
「ごめん、そんなつもりじゃ」
「そこはそんなつもりでもいいんですけどね」
大雅の揶揄うような口振りに伊織は、恨めしげな視線を送らずにいられない。ペットボトルのキャップを捻り、キンキンに冷えた水を流し込んだ。
冷房の稼働音と雨音が壁に反響している。大雅が呆れたように伊織を見ていた。
「伊織さんってやっぱり、危機感ないですよね」
「え?」
「それに睡眠薬とか危ない薬が入ってたら、どうするんですか」
反射的に伊織は片手で口元を覆ったが、すぐに手を下ろした。
「しないでしょ」
「しませんよ」
大雅がそんな人間ではないことくらい、伊織は分かっている。大雅はあっさりと伊織に同意したが、薄く目を細めた。
「でも伊織さんが危機感ないのはほんと。しっかりしてるように見せてますけど、隙だらけ」
「隙だらけって……」
何もそこまで言わなくても、と渋い顔をする。伊織ももう二十代後半の男であるから、そんなことを言われてしまうのは不本意である。
その時、少々不満げに思っている伊織の目の前に影が射した。ほとんど同時に、 大雅の手のひらが伊織の空いた手に重なる。シャワーを浴びて暖まったはずなのに、伊織よりも冷たい。
その冷たさに動揺していて、気が付けば随分と近いところに、夜の海のような深い瞳があった。
「……っ、な!」
「ほら、言ったでしょ」
大雅の唇が緩む。囁いた声は低く、艶めいていて、いつもの爽やかで頼りがいのある後輩の姿はどこかに隠れてしまっていた。
焦点が合わず、ぼやけた大雅の高い鼻先がすぐ触れることができる距離にある。互いの呼吸が絡まった瞬間、それを解くかのように伊織は顔を背けた。
「……だめですか」
今の空模様のように沈んだ声色に、伊織の喉がひくりと鳴った。肩を掴んで前後に揺さぶられたような心地になる。身を捩り、大雅との距離をひとつ空ける。伊織はそろりと視線を戻した。
「俺のこと、少しは意識してくれてるんだと思ってました」
「それは……そうだけど」
切なげに揺れる瞳に、伊織の胸が痛む。
「……考えてもやっぱり、分からなくて」
伊織にとって、大雅は今までの人たちとは少し違うのは確かだった。告白をされてから、ついその姿を目で追ってしまうことが増えた。それに、元から大雅の傍は心地がいい。可愛らしいと思ったことも何度もある。ただそれが好意なのかどうか、ずっと決めかねていた。
「俺、あんまり恋愛経験ないんだ」
「知ってます」
「誰かと付き合ったこともなければ、人を好きになったのも……一度だけで」
「……はい」
「だから、よく分からないんだ。自分が……日向くんのこと、どう思ってるのか」
大雅は何とも言えないような複雑な表情を浮かべていた。長い睫毛を伏せながら、ぽつりと呟くように伊織に尋ねた。
「……その初恋、引きずってるんですか」
伊織は口を噤んだ。
肯定はしない。しかし否定もできなかった。胸の奥深くで閉じたはずの蓋が、時折ガタガタと揺れていることに薄々気付いている。
沈黙を貫く伊織の様子に、何かを察したようだった。大雅は深いため息を吐く。
シャワーを浴びてしんなりとした髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
そして再び大雅が顔を上げた時、伊織は思わず目を見張った。その双眸には凛とした煌めきが戻っていた。
「これは持論なんですけど」
大雅の瞳は歪むことなく、はっきりと伊織の姿を写している。
「世の中の誰も彼もが、一番好きな人と結ばれてるわけじゃないと思うんです」
伊織よりも若く、しかし伊織よりもその道理をよく知っている男が続けた。
「死ぬまでに運命の相手と出会う人だって、ほとんどいないですよね。だから多くの人が知らずうちに妥協していたりする。……でもそれって悪いことじゃないんですよ。相手を想ってることには変わらない」
伊織の指に大雅のそれが絡んだ。ぴくりと微かに動いた伊織の手を、すかさず強く握り込む。伊織の意識も、何もかも、全てを絡めとるように掴んで離さないと言わんばかりの力だった。
「伊織さんの二番目でも、運命じゃなくても構わないから……俺を好きだって、言ってくれませんか」
縋るようでいて、決して伊織を逃がさない大きな瞳に惹き込まれそうになる。
伊織の息を呑む音が大きく聞こえるほど、部屋の中には緊張と静寂が満ちていた。
潤したばかりの喉はもう渇いてしまって、言葉が出てこない。
涼しい部屋にいるのに、伊織の背中に汗が伝う。伊織の唇が動いたその瞬間、大雅は小さく首を振った。
「今は、言わないで」
その懇願するような眼差しはすぐに和らぎ、伊織の指の合間を節立つ指先が滑って解けていく。
「俺はまだ待てますから。……俺のことだけを、ちゃんと考えて、伊織さん」
伊織は確固たる自分の意思で頷きを返した。近くのコンビニで傘を一本買って、少々窮屈な思いをしながら二人で駅に向かった。大雅のアパートの最寄りの駅で地上に出るまでは良かったのだ。しかし運悪く横を通り過ぎていったトラックのせいで、車道側を歩いていた大雅は雨水と泥の混じる水飛沫を浴びることになった。
雨音とは別に水滴が跳ねる音がする。伊織は雨で少し濡れてしまった髪をタオルで拭きながら、フロアクッションの上で身を縮めるようにして座っていた。
他人の家は落ち着かない。時折、用もなくスマホを見て、SNSを眺めてから画面を暗くする。その繰り返しだった。
伊織は遠慮がちに大雅の部屋を見渡した。シンプルなようでいて、ところどころ趣味に凝っている。
部屋の片隅の壁にサッカー選手のポスターが貼ってあった。数年前のワールドカップの、日本代表のキーパー。優斗や龍成の影響でそれなりに分かる。
そわりと胸が騒ぐ。好きに寛いでくれと、浴室に向かう前に大雅はそう言ってくれたが、とてもできそうになかった。
大雅に告白されて、もう二週間ほどになる。まだ返事はしていない。それなのに、今、伊織は大雅の家に居る。伊織は返事を急かさない大雅に甘えている自覚があった。
目が合うようで合わないサッカー選手を眺めながら、伊織は自虐的な気持ちに陥っていた。
「伊織さん」
「日向くん……っ」
名前を呼ばれてそちらを見遣ると、シャワーを終えた大雅が立っていた。思わず息を呑んでしまったのは、その鍛えられた上裸が視界いっぱいに広がったからだ。アウトドアが趣味の大雅の日焼けのあとがよく目立つ。
不自然に固まった伊織にはあえて触れず、大雅は椅子の背もたれに掛けてあったシャツをおもむろに被った。
心臓が浮いたところで跳ねたまま、血液を送り出している。
「服、大丈夫でした?」
「あ、うん。大丈夫だったよ。日向くんのは……洗濯すれば何とかなりそう?」
「頑張れば何とか、って感じですね」
「そっか。あとこれ、タオルありがとう」
「気にしないでください。伊織さんに風邪引かせるわけにはいかないんで。何か飲みます?缶ビールありますけど」
「いやあ、もうアルコールは……」
「ま、そんな気分じゃないですよね」
大雅がペットボトルのミネラルウォーターを二本持って、伊織の隣へとやって来る。伊織の隣にどかりと座り、ペットボトルを差し出した。
構えたように張り詰めた肩が微かに揺れる。おずおずとそれを受け取った伊織に、大雅が微かに笑みをこぼした。
「いきなり取って食ったりしませんよ」
「ごめん、そんなつもりじゃ」
「そこはそんなつもりでもいいんですけどね」
大雅の揶揄うような口振りに伊織は、恨めしげな視線を送らずにいられない。ペットボトルのキャップを捻り、キンキンに冷えた水を流し込んだ。
冷房の稼働音と雨音が壁に反響している。大雅が呆れたように伊織を見ていた。
「伊織さんってやっぱり、危機感ないですよね」
「え?」
「それに睡眠薬とか危ない薬が入ってたら、どうするんですか」
反射的に伊織は片手で口元を覆ったが、すぐに手を下ろした。
「しないでしょ」
「しませんよ」
大雅がそんな人間ではないことくらい、伊織は分かっている。大雅はあっさりと伊織に同意したが、薄く目を細めた。
「でも伊織さんが危機感ないのはほんと。しっかりしてるように見せてますけど、隙だらけ」
「隙だらけって……」
何もそこまで言わなくても、と渋い顔をする。伊織ももう二十代後半の男であるから、そんなことを言われてしまうのは不本意である。
その時、少々不満げに思っている伊織の目の前に影が射した。ほとんど同時に、 大雅の手のひらが伊織の空いた手に重なる。シャワーを浴びて暖まったはずなのに、伊織よりも冷たい。
その冷たさに動揺していて、気が付けば随分と近いところに、夜の海のような深い瞳があった。
「……っ、な!」
「ほら、言ったでしょ」
大雅の唇が緩む。囁いた声は低く、艶めいていて、いつもの爽やかで頼りがいのある後輩の姿はどこかに隠れてしまっていた。
焦点が合わず、ぼやけた大雅の高い鼻先がすぐ触れることができる距離にある。互いの呼吸が絡まった瞬間、それを解くかのように伊織は顔を背けた。
「……だめですか」
今の空模様のように沈んだ声色に、伊織の喉がひくりと鳴った。肩を掴んで前後に揺さぶられたような心地になる。身を捩り、大雅との距離をひとつ空ける。伊織はそろりと視線を戻した。
「俺のこと、少しは意識してくれてるんだと思ってました」
「それは……そうだけど」
切なげに揺れる瞳に、伊織の胸が痛む。
「……考えてもやっぱり、分からなくて」
伊織にとって、大雅は今までの人たちとは少し違うのは確かだった。告白をされてから、ついその姿を目で追ってしまうことが増えた。それに、元から大雅の傍は心地がいい。可愛らしいと思ったことも何度もある。ただそれが好意なのかどうか、ずっと決めかねていた。
「俺、あんまり恋愛経験ないんだ」
「知ってます」
「誰かと付き合ったこともなければ、人を好きになったのも……一度だけで」
「……はい」
「だから、よく分からないんだ。自分が……日向くんのこと、どう思ってるのか」
大雅は何とも言えないような複雑な表情を浮かべていた。長い睫毛を伏せながら、ぽつりと呟くように伊織に尋ねた。
「……その初恋、引きずってるんですか」
伊織は口を噤んだ。
肯定はしない。しかし否定もできなかった。胸の奥深くで閉じたはずの蓋が、時折ガタガタと揺れていることに薄々気付いている。
沈黙を貫く伊織の様子に、何かを察したようだった。大雅は深いため息を吐く。
シャワーを浴びてしんなりとした髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
そして再び大雅が顔を上げた時、伊織は思わず目を見張った。その双眸には凛とした煌めきが戻っていた。
「これは持論なんですけど」
大雅の瞳は歪むことなく、はっきりと伊織の姿を写している。
「世の中の誰も彼もが、一番好きな人と結ばれてるわけじゃないと思うんです」
伊織よりも若く、しかし伊織よりもその道理をよく知っている男が続けた。
「死ぬまでに運命の相手と出会う人だって、ほとんどいないですよね。だから多くの人が知らずうちに妥協していたりする。……でもそれって悪いことじゃないんですよ。相手を想ってることには変わらない」
伊織の指に大雅のそれが絡んだ。ぴくりと微かに動いた伊織の手を、すかさず強く握り込む。伊織の意識も、何もかも、全てを絡めとるように掴んで離さないと言わんばかりの力だった。
「伊織さんの二番目でも、運命じゃなくても構わないから……俺を好きだって、言ってくれませんか」
縋るようでいて、決して伊織を逃がさない大きな瞳に惹き込まれそうになる。
伊織の息を呑む音が大きく聞こえるほど、部屋の中には緊張と静寂が満ちていた。
潤したばかりの喉はもう渇いてしまって、言葉が出てこない。
涼しい部屋にいるのに、伊織の背中に汗が伝う。伊織の唇が動いたその瞬間、大雅は小さく首を振った。
「今は、言わないで」
その懇願するような眼差しはすぐに和らぎ、伊織の指の合間を節立つ指先が滑って解けていく。
「俺はまだ待てますから。……俺のことだけを、ちゃんと考えて、伊織さん」
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