50 / 63
社会人編
恋しい人よ⑤
しおりを挟む
ポコン、とメッセージアプリの通知音が鳴る。
グラスに伸ばしかけていた利き手でスマホを持ち上げた。
送り主は環で、宣言通り秋に挙げられる優斗の結婚式の話題だった。画面に視線を落とし、キーボードをタップする伊織の表情は柔らかい。すぐに既読がつく。短い時間に幾度かやり取りをして、画面の左上に少々慌てた様子で立ち上がった。
部屋を出て隣を見る。環の部屋の扉はしんとしていた。先日帰りに一緒になったのが珍しいだけで、朝晩ともに顔を合わせることはないが、その代わりに文字でのやり取りは増えている。本当に取り留めのない話ばかりだ。好きなものや仕事のこと、今の環を知る喜びは、生クリームをたっぷり使ったプリンの口溶けに似ていた。
待ち合わせは駅前だった。真っ白で分厚い雲が映える青空で、残暑の厳しさに関わらず人で溢れている。そんな休日の人混みの中でも、彼の姿は案外簡単に見つかった。
「日向くん」
「あ、伊織さん。こんにちは」
「待った?」
「いや、俺も今来たところなんで」
いつものスーツ姿とは違い、カジュアルなスタイルは目に新鮮だった。身長が飛び抜けて高いということはないのに、手足が長いからオーバーサイズの服でも着られている感がない。思わず大雅の姿を見つめていると、大雅が恥ずかしそうに視線を泳がせた。
「あの……あんまり見られると」
「あっ、ごめん。社外の姿って新鮮だから……」
「変ですか?」
「そんなことないよ。格好良い。むしろ俺こそ変じゃない?」
「まさか。かわいいですよ」
さらりと言われた単語に、伊織は息を呑む。拘りのない伊織は、白やベージュを基調としたごくシンプルなファッションだった。ただしそこを狙っているわけではないから、少々複雑である。伊織は唇を薄く曲げた。
「かわいいって……カッコイイの方がいいんだけどな」
「カッコイイが前提ですよ」
「え、そう?」
ならいいかと機嫌を上向かせる伊織に大雅は笑いを堪えた。そういうところがかわいい、とは言わなかった。
「映画、何時でしたっけ?」
「十四時かな」
「じゃあもう行きましょうか、混んでるだろうし。ポップコーンとか買います?」
「うん。買おう」
駅から歩いてすぐの映画館に向かう。
今日は大雅に誘われ、新しくできたばかりのビアガーデン行く予定だったが、話の流れで伊織が見たかった映画も観ることになった。
涼し気な館内は思った通り混み合っている。カウンター前にずらりとできた列を横目に伊織は呟いた。
「チケット、先に買っておいて正解だったね」
「ですね。ありがとうございます」
「このくらいどうってことないよ」
映画のチケットは予めウェブサイトで買っておいたのだ。発券機で番号を入力するだけでいい。
「あれ、吹替えにしたんですか?」
大雅の言葉に頷く。事前に吹替えか字幕かどちらが良いか尋ねたら、伊織の好きな方で良いと言うから、迷った挙句こちらにした。一人なら字幕だが、たまには吹替えで観るのも良いだろう。
ポップコーンとドリンクを買って、大雅の元に戻ると、大雅が近日公開映画が掲載されるフライヤーを眺めていた。こっそりと覗くと大人の恋愛を題材にした作品だと分かる。主演の俳優は邦画には明るくない伊織でもその顔は見たことがあった。
「日向くん、恋愛もの好きなんだ?」
「え、あー……いや」
横から声をかけると、大雅は伊織の手からポップコーンを受け取りながら言葉を濁した。
「しかも運命のつがい、かあ。皆好きだよね」
あらすじに軽く目を通し、伊織はおかしそうに笑った。
所詮、この社会におけるマジョリティはベータで、彼らからしてみれば、オメガとアルファの間の特別な絆はさぞ面白く見えるのだろう。
実際のところ、多くのオメガとアルファが運命のつがいに出会うことなく一生を終えていく。そのせいで当事者であるはずの伊織たちも、運命のつがいがどんなものなのか、ふんわりとした知識しか持ち得ていないのだ。
「遺伝子レベルで惹かれ合うってところが、羨ましいんじゃないですか?」
「そうかな。俺はあんまりだけど」
ずっと寄り添ってきてつがいになるはずだったアルファが、ある日突然現れたオメガに、運命のつがいというだけで奪われたら。残された方のオメガはどうすればいいのか。伊織はいつも取り残される側の気持ちを考えてしまう。
物憂げな色を帯びる伊織の瞳を大雅は黙って見つめていたが、やがて唇をゆっくりと開いた。揶揄うようで、優しい声だった。
「デートなら、こういう映画を見るだろうなって思ってたんですけどね」
「そ、ういうもの?」
「はい。なのに俺たちが見るのは、やばそうな村の儀式のホラー映画ですから」
いつも数年に一度、新作が出るシリーズのホラー映画である。暑い季節にぴったりだと思うが、大雅の表情は少々浮かない。
「伊織さんがこういうの得意なの意外で」
「得意ってわけじゃないけど、幽霊より人間の方が恐いんだよ」
「なんかあったんですか?」
伊織は曖昧な笑い声を立てて誤魔化した。
触れてこない幽霊より、人間のストーカーの方がよっぽど怖いのだ。
上映中、劈くような悲鳴とともに突然現れた生白い顔面に驚いた伊織は、左手に触れた少し大きな手のひらにも驚かされた。ふと手と手が触れ合って握り合う、なんて可愛らしくこそばゆいシチュエーションではなく、骨が軋むほどぎゅうぎゅうと手を握られて、伊織こそ悲鳴を上げたくなったものだ。
「日向くん、ホラー苦手だったんだ」
部屋から出てきた大雅をエントランスのベンチに座らせて伊織が言う。大雅の顔色はなんだか青白く、意気消沈している。
「………すみません」
覇気のない返しに伊織の胸に罪悪感が湧く。
もちろん映画の内容は事前に伝えてはいたし、遠慮する伊織に大丈夫だと押し切ったのは大雅だった。だから仕方ない、と思えるわけもない。
「合わせてくれたのは嬉しいけど、日向くんがしんどかったらそれは嫌だよ」
「……だって」
伊織が心配そうに大雅の顔を覗き込むと、大雅がぼそりと呟いた。
「伊織さんの好きなもの、俺も知りたかったから」
視線が絡む。弱っているが、その瞳に宿る実直さは霞むことなく、伊織を捉えていた。伊織は言葉に詰まる。伊織に構わず、大雅が気まずそうに視線を逸らしながら続けた。
「それにホラーが苦手って、……ダサいし」
「ええ、そんなことないよ」
「ほんとですか?」
伊織は首を縦に振った。伊織の知る限り、優斗と龍成、あとは直樹も駄目らしい。
基本はアクション映画を好んでいるから数は多くないものの、誰かと見たい時は決まって環を誘っていたことを思い出す。
大雅は大きく息を吐き出すと、膝を叩いて立ち上がった。
「もう平気?」
「はい。ありがとうございます」
随分と良くなった顔色で、大雅が腕時計を見遣る。
「予約の時間までまだ少しあるな……」
「中途半端だよね。どこか行きたいところある?」
「あ、じゃあ一軒寄ってもいいですか?」
二人が向かったのは、すぐ近くにあるアウトドアショップだった。最近、友人の影響でキャンプに興味があるらしい。
伊織はその手の知識は全くないので、辺りを見回しながら大雅について歩いた。見慣れぬ名前の用品をしげしげと眺める伊織に、大雅は逐一教えてくれるから飽きなくて楽しい。
今回は下調べだったらしく、何かを購入することなく二人が店を出ると辺りの薄暗さに驚いた。しかし暗くなるのが少々早すぎる。その理由は天を仰いですぐに分かった。
「雨、降りそうだね」
「あー……ですね」
灰色の雲が敷き詰められた空はなんだか寂しげに見えた。
伊織たちの予想は的中した。それどころか、想像以上だった。
「……えげつないくらい降ってますね」
ビアガーデンで料理とビールを楽しんでいる途中から降り出した雨は、今や前が見えないほどになっていた。
大雅がくしゃりと前髪をかき上げる。形の良い額に映えるセンターパートが湿気で乱れてしまっていた。
ビアガーデンは一応雨でも困らない仕様になっていたが、途中からアルコールを呷る気分ではなくなってしまった。折角が夜景が売りの景色もくすんだ灰色で、大雅は思わず鬱々とした気分になってしまう。
伊織が突然肩を揺らして噴き出したので、大雅は驚いてそちらを向いた。
「え、なんですか?」
「ご、ごめん……日向くんが、運動会が延期になった子どもみたいな顔してるから」
伊織は緩んでしまった頬を引き締める。
大雅は小さくため息を吐いた。
「映画はビビってダサいとこ見せて、その上ビアガーデンなのに土砂降りで……そんな顔にもなりますよ」
「そう? 俺は凄い楽しかったけどな」
とても降り止みそうにない空を見上げながら言葉を続ける。
「ほら、日向くんってなんでもできるイメージだからホラー苦手って意外だったし。それにこの雨のおかげで、オープンしたてなのにお店もあんまり混んでなくて、余裕もって楽しめたからね」
大雅と同じように悪天候では楽しめないと思ったのか、ちらほらと空席があった。しかし満席なら満席で、頼んだドリンクが中々来なかったり、ビュッフェに並ぶのに時間がかかったりと一苦労もあったことだろう。
大雅は目を丸くしていた。
「まあ帰るのが大変っていうのはあるけど……そのくらい大したことじゃないよ。……日向くんは、楽しくなかった?」
言っているうちに段々と不安になってくる。楽しかったのは伊織だけで、大雅はそんなことはなかったかもしれない。特に苦手な映画を観たのは大雅の方だ。下から窺うように大雅を見つめると、瞬きを幾度か繰り返して、やがて首を横に振った。
「………いえ、楽しかったです。想像の百倍くらい」
「あ、百倍も? それは良かった」
常よりもはっきりとした語調である。伊織は微笑んだ。
大雅の落ち込んでいた気分が少しでも上昇したのならそれで良いと、伊織はスマホに目を落とす。
ここから自宅までの帰宅ルートを検索して、つい声を上げてしまった。
「うわ……」
「どうしました?」
「車両点検で運転見合わせだって。タクシーで帰るにも……この雨だからなあ」
伊織が帰宅するためには電車が動いていなければならない。しかも土曜の夜、天候は大荒れ。伊織と同じように考える人間はもちろんいて、早々タクシーも捕まらないだろう。伊織がぼやく。
「どうするかな」
「……あの」
頭を悩ませる伊織に大雅が口を開く。声につられて顔を上げる。真っ直ぐ伊織を貫くような視線につい怯んでしまいそうになった。
「うち、ここから地下鉄で二駅くらいなんですけど……来ます?」
「……え?」
「電車動くまでの雨宿り、ってことで」
飲食店も閉まる時間だろうからと大雅が追って付け足していく。
雨粒が地面に叩き付けられる音に混じり、伊織の心臓が脈打っていた。
大雅の表情は固い。しかし一瞬たりとも視線を逸らさず伊織のを見据えたその男から、伊織もまた目を離すことができなかった。
グラスに伸ばしかけていた利き手でスマホを持ち上げた。
送り主は環で、宣言通り秋に挙げられる優斗の結婚式の話題だった。画面に視線を落とし、キーボードをタップする伊織の表情は柔らかい。すぐに既読がつく。短い時間に幾度かやり取りをして、画面の左上に少々慌てた様子で立ち上がった。
部屋を出て隣を見る。環の部屋の扉はしんとしていた。先日帰りに一緒になったのが珍しいだけで、朝晩ともに顔を合わせることはないが、その代わりに文字でのやり取りは増えている。本当に取り留めのない話ばかりだ。好きなものや仕事のこと、今の環を知る喜びは、生クリームをたっぷり使ったプリンの口溶けに似ていた。
待ち合わせは駅前だった。真っ白で分厚い雲が映える青空で、残暑の厳しさに関わらず人で溢れている。そんな休日の人混みの中でも、彼の姿は案外簡単に見つかった。
「日向くん」
「あ、伊織さん。こんにちは」
「待った?」
「いや、俺も今来たところなんで」
いつものスーツ姿とは違い、カジュアルなスタイルは目に新鮮だった。身長が飛び抜けて高いということはないのに、手足が長いからオーバーサイズの服でも着られている感がない。思わず大雅の姿を見つめていると、大雅が恥ずかしそうに視線を泳がせた。
「あの……あんまり見られると」
「あっ、ごめん。社外の姿って新鮮だから……」
「変ですか?」
「そんなことないよ。格好良い。むしろ俺こそ変じゃない?」
「まさか。かわいいですよ」
さらりと言われた単語に、伊織は息を呑む。拘りのない伊織は、白やベージュを基調としたごくシンプルなファッションだった。ただしそこを狙っているわけではないから、少々複雑である。伊織は唇を薄く曲げた。
「かわいいって……カッコイイの方がいいんだけどな」
「カッコイイが前提ですよ」
「え、そう?」
ならいいかと機嫌を上向かせる伊織に大雅は笑いを堪えた。そういうところがかわいい、とは言わなかった。
「映画、何時でしたっけ?」
「十四時かな」
「じゃあもう行きましょうか、混んでるだろうし。ポップコーンとか買います?」
「うん。買おう」
駅から歩いてすぐの映画館に向かう。
今日は大雅に誘われ、新しくできたばかりのビアガーデン行く予定だったが、話の流れで伊織が見たかった映画も観ることになった。
涼し気な館内は思った通り混み合っている。カウンター前にずらりとできた列を横目に伊織は呟いた。
「チケット、先に買っておいて正解だったね」
「ですね。ありがとうございます」
「このくらいどうってことないよ」
映画のチケットは予めウェブサイトで買っておいたのだ。発券機で番号を入力するだけでいい。
「あれ、吹替えにしたんですか?」
大雅の言葉に頷く。事前に吹替えか字幕かどちらが良いか尋ねたら、伊織の好きな方で良いと言うから、迷った挙句こちらにした。一人なら字幕だが、たまには吹替えで観るのも良いだろう。
ポップコーンとドリンクを買って、大雅の元に戻ると、大雅が近日公開映画が掲載されるフライヤーを眺めていた。こっそりと覗くと大人の恋愛を題材にした作品だと分かる。主演の俳優は邦画には明るくない伊織でもその顔は見たことがあった。
「日向くん、恋愛もの好きなんだ?」
「え、あー……いや」
横から声をかけると、大雅は伊織の手からポップコーンを受け取りながら言葉を濁した。
「しかも運命のつがい、かあ。皆好きだよね」
あらすじに軽く目を通し、伊織はおかしそうに笑った。
所詮、この社会におけるマジョリティはベータで、彼らからしてみれば、オメガとアルファの間の特別な絆はさぞ面白く見えるのだろう。
実際のところ、多くのオメガとアルファが運命のつがいに出会うことなく一生を終えていく。そのせいで当事者であるはずの伊織たちも、運命のつがいがどんなものなのか、ふんわりとした知識しか持ち得ていないのだ。
「遺伝子レベルで惹かれ合うってところが、羨ましいんじゃないですか?」
「そうかな。俺はあんまりだけど」
ずっと寄り添ってきてつがいになるはずだったアルファが、ある日突然現れたオメガに、運命のつがいというだけで奪われたら。残された方のオメガはどうすればいいのか。伊織はいつも取り残される側の気持ちを考えてしまう。
物憂げな色を帯びる伊織の瞳を大雅は黙って見つめていたが、やがて唇をゆっくりと開いた。揶揄うようで、優しい声だった。
「デートなら、こういう映画を見るだろうなって思ってたんですけどね」
「そ、ういうもの?」
「はい。なのに俺たちが見るのは、やばそうな村の儀式のホラー映画ですから」
いつも数年に一度、新作が出るシリーズのホラー映画である。暑い季節にぴったりだと思うが、大雅の表情は少々浮かない。
「伊織さんがこういうの得意なの意外で」
「得意ってわけじゃないけど、幽霊より人間の方が恐いんだよ」
「なんかあったんですか?」
伊織は曖昧な笑い声を立てて誤魔化した。
触れてこない幽霊より、人間のストーカーの方がよっぽど怖いのだ。
上映中、劈くような悲鳴とともに突然現れた生白い顔面に驚いた伊織は、左手に触れた少し大きな手のひらにも驚かされた。ふと手と手が触れ合って握り合う、なんて可愛らしくこそばゆいシチュエーションではなく、骨が軋むほどぎゅうぎゅうと手を握られて、伊織こそ悲鳴を上げたくなったものだ。
「日向くん、ホラー苦手だったんだ」
部屋から出てきた大雅をエントランスのベンチに座らせて伊織が言う。大雅の顔色はなんだか青白く、意気消沈している。
「………すみません」
覇気のない返しに伊織の胸に罪悪感が湧く。
もちろん映画の内容は事前に伝えてはいたし、遠慮する伊織に大丈夫だと押し切ったのは大雅だった。だから仕方ない、と思えるわけもない。
「合わせてくれたのは嬉しいけど、日向くんがしんどかったらそれは嫌だよ」
「……だって」
伊織が心配そうに大雅の顔を覗き込むと、大雅がぼそりと呟いた。
「伊織さんの好きなもの、俺も知りたかったから」
視線が絡む。弱っているが、その瞳に宿る実直さは霞むことなく、伊織を捉えていた。伊織は言葉に詰まる。伊織に構わず、大雅が気まずそうに視線を逸らしながら続けた。
「それにホラーが苦手って、……ダサいし」
「ええ、そんなことないよ」
「ほんとですか?」
伊織は首を縦に振った。伊織の知る限り、優斗と龍成、あとは直樹も駄目らしい。
基本はアクション映画を好んでいるから数は多くないものの、誰かと見たい時は決まって環を誘っていたことを思い出す。
大雅は大きく息を吐き出すと、膝を叩いて立ち上がった。
「もう平気?」
「はい。ありがとうございます」
随分と良くなった顔色で、大雅が腕時計を見遣る。
「予約の時間までまだ少しあるな……」
「中途半端だよね。どこか行きたいところある?」
「あ、じゃあ一軒寄ってもいいですか?」
二人が向かったのは、すぐ近くにあるアウトドアショップだった。最近、友人の影響でキャンプに興味があるらしい。
伊織はその手の知識は全くないので、辺りを見回しながら大雅について歩いた。見慣れぬ名前の用品をしげしげと眺める伊織に、大雅は逐一教えてくれるから飽きなくて楽しい。
今回は下調べだったらしく、何かを購入することなく二人が店を出ると辺りの薄暗さに驚いた。しかし暗くなるのが少々早すぎる。その理由は天を仰いですぐに分かった。
「雨、降りそうだね」
「あー……ですね」
灰色の雲が敷き詰められた空はなんだか寂しげに見えた。
伊織たちの予想は的中した。それどころか、想像以上だった。
「……えげつないくらい降ってますね」
ビアガーデンで料理とビールを楽しんでいる途中から降り出した雨は、今や前が見えないほどになっていた。
大雅がくしゃりと前髪をかき上げる。形の良い額に映えるセンターパートが湿気で乱れてしまっていた。
ビアガーデンは一応雨でも困らない仕様になっていたが、途中からアルコールを呷る気分ではなくなってしまった。折角が夜景が売りの景色もくすんだ灰色で、大雅は思わず鬱々とした気分になってしまう。
伊織が突然肩を揺らして噴き出したので、大雅は驚いてそちらを向いた。
「え、なんですか?」
「ご、ごめん……日向くんが、運動会が延期になった子どもみたいな顔してるから」
伊織は緩んでしまった頬を引き締める。
大雅は小さくため息を吐いた。
「映画はビビってダサいとこ見せて、その上ビアガーデンなのに土砂降りで……そんな顔にもなりますよ」
「そう? 俺は凄い楽しかったけどな」
とても降り止みそうにない空を見上げながら言葉を続ける。
「ほら、日向くんってなんでもできるイメージだからホラー苦手って意外だったし。それにこの雨のおかげで、オープンしたてなのにお店もあんまり混んでなくて、余裕もって楽しめたからね」
大雅と同じように悪天候では楽しめないと思ったのか、ちらほらと空席があった。しかし満席なら満席で、頼んだドリンクが中々来なかったり、ビュッフェに並ぶのに時間がかかったりと一苦労もあったことだろう。
大雅は目を丸くしていた。
「まあ帰るのが大変っていうのはあるけど……そのくらい大したことじゃないよ。……日向くんは、楽しくなかった?」
言っているうちに段々と不安になってくる。楽しかったのは伊織だけで、大雅はそんなことはなかったかもしれない。特に苦手な映画を観たのは大雅の方だ。下から窺うように大雅を見つめると、瞬きを幾度か繰り返して、やがて首を横に振った。
「………いえ、楽しかったです。想像の百倍くらい」
「あ、百倍も? それは良かった」
常よりもはっきりとした語調である。伊織は微笑んだ。
大雅の落ち込んでいた気分が少しでも上昇したのならそれで良いと、伊織はスマホに目を落とす。
ここから自宅までの帰宅ルートを検索して、つい声を上げてしまった。
「うわ……」
「どうしました?」
「車両点検で運転見合わせだって。タクシーで帰るにも……この雨だからなあ」
伊織が帰宅するためには電車が動いていなければならない。しかも土曜の夜、天候は大荒れ。伊織と同じように考える人間はもちろんいて、早々タクシーも捕まらないだろう。伊織がぼやく。
「どうするかな」
「……あの」
頭を悩ませる伊織に大雅が口を開く。声につられて顔を上げる。真っ直ぐ伊織を貫くような視線につい怯んでしまいそうになった。
「うち、ここから地下鉄で二駅くらいなんですけど……来ます?」
「……え?」
「電車動くまでの雨宿り、ってことで」
飲食店も閉まる時間だろうからと大雅が追って付け足していく。
雨粒が地面に叩き付けられる音に混じり、伊織の心臓が脈打っていた。
大雅の表情は固い。しかし一瞬たりとも視線を逸らさず伊織のを見据えたその男から、伊織もまた目を離すことができなかった。
123
お気に入りに追加
573
あなたにおすすめの小説



彼の理想に
いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。
人は違ってもそれだけは変わらなかった。
だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。
優しくする努力をした。
本当はそんな人間なんかじゃないのに。
俺はあの人の恋人になりたい。
だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。
心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。

捨てられオメガの幸せは
ホロロン
BL
家族に愛されていると思っていたが実はそうではない事実を知ってもなお家族と仲良くしたいがためにずっと好きだった人と喧嘩別れしてしまった。
幸せになれると思ったのに…番になる前に捨てられて行き場をなくした時に会ったのは、あの大好きな彼だった。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる