さみだれの初恋が晴れるまで

める太

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社会人編

恋しい人よ①

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 真夏の茹だる暑さと強い日差しは昼夜問わず人々を苦しめるが、伊織は日が落ちた後の生ぬるい風と冷えたサイダーの舌触りは気に入っている。
 日が沈む頃から軽やかな音を立てて缶ビールを飲むのが至高の季節。伊織は進んで酒を飲まないが、新入社員になりたての頃、当時の上司がそう言っていた言葉がぼんやりと記憶に残っていた。

「日向くんは毎回美味しいお店見つけてくるよね」
「暇つぶしに探してるんですよ。あ、上タン頼みますね」

 週末で浮かれた繁華街から少し外れた焼肉屋で、伊織と大雅は向かい合わせで座っている。個室であり、ゆったりと落ち着いた雰囲気で過ごしやすい。
 肉が運ばれてくる度に大雅が網に乗せる。脂が焼ける音と香りが食欲を唆って堪らない。ビールを流し込むと、独特の苦味が舌をまろやかに包みこんでくる。昔の上司の言葉が蘇って久しぶりに頼んでしまったが、正解だったようだ。

「誰かと焼肉来たの、久しぶりかも」

 しっかりと火を通した鶏肉を摘み上げ、それを意味もなく眺めながら呟く。
 肉とともに白米を放り込んで、少し膨れた頬を動かしながら大雅が伊織を見た。

「ほら、どこでも基本的に一人で行っちゃうから」
「あー、一人焼肉って流行ってますよね」

 胃袋に落とし込んだ後、大雅が言った言葉に伊織は相槌を打つ。学生時代から一人で映画館に通っていたくらいなので、飲食店に入るのも全く抵抗がない。

「伊織さんって独り身でも平気なタイプなんですか?」
「ええ、そう見える?」
「見えます。実際、恋人もいないでしょ」 
「こら、決めつけないでよ」

 もちろん、大雅の予想通りである。伊織がむっとして眉間を寄せると、大雅は持っていた箸をわざわざ置いて、至極真面目な顔をして伊織の目を見つめてきた。

「いるんですか? 恋人」
「いない、けど……」

 真っ直ぐに貫くような視線に、伊織は少し狼狽えてしまう。身動ぎをするのも躊躇われるような沈黙が訪れる。しかしそれは大雅が口を開いたことで、すぐに消え去った。

「それで、隣の部屋のご友人とはどうですか? 仲直りしました?」

 伊織の視線が宙を彷徨う。
 仲直りもなにも、元々喧嘩はしていない。それがかえって厄介なのだ。何を言えば良いのか迷ってしまう。
 結局伊織はぼやかすことにした。

「ぼちぼちって感じかなあ」
「ふうん、そうなんですね。あの人、めちゃくちゃ顔強くてびっくりしました」
「分かるよ。俺も未だに驚いちゃう」

 網の上の肉を救出しながら頷く。
 美人は三日で飽きるというのは、その美の段階によるのだと思う。環のような類稀なる美貌は、何百回見ても慣れることさえない。

「一般社会じゃ生きづらそうですよね」
「んー……そうかもね。黙ってても目立っちゃうし、あとモテるから。こっちが引いちゃうくらい」

 大雅が微かに笑った。そして伊織のやわいところを突いてくる。

「伊織さんはどうなんですか?」
「うん?」
「ずっと一緒にいて、あの人のこと、好きにならなかったんですか?」

 一瞬、伊織の手が止まる。しかし再び動き出すと、網の上の肉や野菜を全て取り上げて、そのほとんどを大雅の皿に乗せてしまった。
 カチン、と一度トングを鳴らしてテーブルに置く。

「……そうだね。考えたこともなかったな」
「本当ですか?」

 疑うような視線に伊織は胸が苦しくなる。心の奥底の蓋が、反論するように揺れた気がした。
 それを深くまで押し込むように、伊織は残りのビールを流し入れる。

「本当だよ。向こうには俺よりもずっと、お似合いの子がいるからね」

 伊織は微笑みを浮かべる。風のない日の水面のように穏やかであるにもかかわらず、そこから感じ取れるのは諦めと寂しさだった。まるで、触れた途端に消えてしまいそうな。

「そうだ。ビビンバとか頼む?」

 テーブル上のメニュー表を手に取り、視線を落とした。わざとらしい明るい声色が、かえって痛々しい。
 大雅が何かを堪えるように唇を引き結ぶ。溢れ出しそうな何かを必死に留めているようだった。その光をたっぷりと含む双眸に一瞬、意志を表すかのような濃い色が宿る。

 そして、硬く結んだはずの唇の糸を丁寧に解いた。

「俺、先輩のこと好きです」

 伊織は弾かれたようにメニュー表から顔を上げた。大雅は不自然なくらい動きを止めたまま、伊織に並々ならぬ視線を注いでいる。
 伊織は自分が聞き間違いをしたのかと思った。
 そんな伊織の心を読んだかのように大雅がそれを否定する。

「聞き間違いとかじゃないですからね」
「えっ」
「あと友人として、とかでもないです。……一人の男として、先輩のことが好きなんです。あなたの恋人になりたいと思ってます」

 大雅が次々に伊織の思考を先回りする。
 後輩からの告白に、伊織は驚きのあまり言葉が出なかった。自分だけ時の進みが遅くなったかのような感覚に陥る。
 おもむろに、メニュー表の代わりにグラスに手を伸ばす。一旦冷えた水を口に含み、喉を潤した。
 再度テーブルにグラスを戻して、伊織は眉尻を下げる。

「……その、凄くびっくりしてて。それに、今、こんなところで言われるとは……」
「ですよね。でも伊織さんの顔見てたら今言いたくなりました」
「そ、そっか……」
「まあ伊織さん豪勢にされると逃げたくなるでしょうし、いいかなって」

 当の本人である大雅の表情は至って凪いでいて、僅かな焦りも読み取れない。突然の告白に対して伊織が狼狽えているのが際立って見えるだろう。
 実際、伊織の頭の中には驚愕と困惑が渦巻いていた。大雅に好意を持たれているなんて、夢にも思わなかったのだ。
 大雅は見目も人柄も周りから一目置かれる好青年である。それに何でもそつなくこなす後輩だ。仕事だって、きっと今にも伊織を追い越していくのだろうと信じていた。
 そんな大雅が、伊織のように凡庸な男に惹かれるだなんて。
 伊織が何も言えないでいると、大雅の表情が微かに曇る。

「……やっぱり、男と付き合うのはなしですか?」
「あ、いやそれは……俺、オメガだし……っ」
「え」

 混乱して咄嗟にすべり出てきたものがそれで、伊織は自分の口を片手で覆った。
 一方の大雅も目を見開いて驚いている。当然、大雅はこのことを知らなかった。伊織の体質は相変わらずで、三ヶ月に一度の発情期(ヒート)さえ抑制剤でどうとでもなってしまう。
 オメガは学生の頃よりも社会に出てからの方がずっと苦労すると言われているが、伊織は例外だった。
 隠していたわけではないけれど、言うつもりもなかった。鼓動が不安定なのは、その尊敬の眼差しが軽蔑に変わってしまうかもしれないという不安からだった。
 しかしそれも杞憂であったようだ。確かに大雅は驚いていたが、やがてじわじわとその唇が緩んでいく。それを片手で覆い隠しながら呟いた。

「……全然、気付きませんでした」
「俺はあんまりフェロモンが強くないから」
「体質ですか。そういうのもあるんですね」
「うん、そうみたい」
「まあ……別に伊織さんがオメガだろうが、ベータだろうが、関係ないんですけど」

 個室だから、二人の会話は早々に誰にも聞かれないだろう。しかし大雅は声を潜めている。

「でも俺にとってはむしろ、ラッキーですね」
「どうして?」
「俺、アルファなんで」

 大雅の視線が強くなって、伊織は首の後ろが痺れるような錯覚に襲われた。まるで肌の上を直接なぞられているかのようである。
 伊織はゆっくりと瞬きをした。大雅の言葉の意味を呑み込んでいく。
 大雅の目元がふっと緩んだ。少し冷めて硬くなってしまった上タンを噛み砕き、腹に収めてしまう。

「伊織さん」
「っ、はい」

 肩を大きく跳ねさせて、敬礼でもしそうな勢いで返事をした伊織の姿に、大雅は噴き出した。

「ははっ、そんな緊張しなくてもいいでしょ」
「ごめん……色々と衝撃的で、上手く処理できてないみたい」
「あっさり断られても困るんで、それでいいですよ」

 そうだ。伊織は今さっき大雅に想いを告げられたばかりだった。その返事を、どうするか。
 伊織はまた違った意味で心臓が速く打つのを感じていた。
 頻りに視線を揺らしている。
 テーブルの上に頼りなく置かれた伊織の手に、大雅の指先が触れた。手の甲の細い血管を伊織よりも冷たい皮膚が滑っていく。大雅の顔を見遣り、伊織の目元が薄く染まった。伊織の唇が、自分の息で僅かに湿る。

「返事はすぐじゃなくていいので、少し、考えてみてくれませんか」

 真剣に、そしてどこか縋るような声色で言うものだから、伊織は何も言えなくなってしまった。
 この男の誠実さが滲み出ているような強い瞳に、伊織はゆっくりと首を縦に振る。

 伊織の手の甲から、指先が滑り落ちていく。大雅はやや上がっていた肩を和らげて、ほっとしたような微笑みを浮かべていた。
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