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社会人編
同好の士②
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大雅と別れ、伊織は帰路につく。どこかで環に追いつくかもしれないという淡い期待があったが、結局伊織は部屋の鍵を開けるまで一人であった。
そして翌朝、伊織は腕を組みながら大層悩ましい表情を浮かべていた。
伊織の目の前に置かれているのは一本のDVD。環に貸そうと申し出た作品である。
「うーん」
離れていた距離が縮まったと思ったのも束の間で、別れ際には結局あの冷たく素っ気ない空気感が元通りなってしまっていた。
こうなると、改めて伊織から環に会いに行くのも気まずい。それにDVDの話も環からしてみれば話の流れでしかなく、別に本当に借りたいとは思っていないかもしれない。
何も直接聞く必要はなく、メッセージを送ってしまえばすむ話だが、それでいらないと言われてしまえばそれこそ終わりな気がしていた。
右往左往する自分の意思に伊織は唸っていたが、突然立ち上がった。テーブルの上のDVDを引っ掴み、勢いのままに玄関の扉を開ける。
悩んでいたとて埒が明かない。 実際、環に貸す流れになっていたのだし、訪ねても問題ないだろう。
隣の部屋の前に立ち、伊織は覚悟を決めたような目つきでドアチャイムに指を伸ばしていく。寸前で大きく深呼吸をすると、躊躇いなくボタンを押した。
応答はない。耳をすませてみるが、物音は聞こえてきそうにはなかった。このマンションの壁はそれなりに防音性に優れているから当然である。
無音の時間に、背中がそわりとする。
伊織はため息を呑み込んだ。そもそも環が土日休みなのかも知らないし、休みだとしても外出している可能性だって十分にある。力んだ心が宙ぶらりんになるのを感じながら、伊織が諦めて足先を変えようとした時だった。
微動だにしなかった扉が音を立てた。
「はーい……どちら様?」
ハスキーな低音に伊織は目を見張る。開いた扉から顔を覗かせたのは、残念ながら環ではなかった。
すらりとした高身長。体格が良いというわけではないが、人形のように整った顔立ちとモデルのようなプロポーションに圧倒されてしまう。
「………あの?」
「あっ……ええと、早月は……?」
「あ、環くんの知り合い?」
シルバーのピアスが小さく光る唇が曲がる。不審がる視線に慌てた伊織が口を開くと、相手側の警戒が緩んだように見えた。
「浅葱って言えば分かると思うんですけど……」
「……ふうん、なるほど」
器用に眉を吊り上げて、伊織を上から下まで眺めている。品定めするような明け透けな視線に伊織の肩が強ばる。しかし次の瞬間、ぱっと華やぐような笑顔を見せた。
「今、環くんシャワー浴びてるんだよね」
「そ、うなんですか……じゃあ」
「だからほら、入って待ってなよ」
出直します、という言葉は遮られる。伊織が理解する前に手首を掴まれて、あっという間に玄関に引き込まれてしまった。
「え、あの」
「はい、上がって上がって。遠慮しないで」
「ええっ」
ニコニコと人の良い笑顔だが伊織の背中を押す力は有無を言わさぬ何かがある。伊織は困惑しながらも、押されるがままに本来の家主の許可なしに奥へと進んでしまった。
モノトーンを基調としたシンプルな部屋で、余計な物を置かずにいるところが環らしいと思う。
まだ名前も知らないその人に促され、ダイニングのソファに腰掛けた。居心地悪そうにしているのも構わず、伊織の隣に寄り添うように座ってすらりと長い足を組む。
腕がぶつかるような距離の近さに、伊織がおずおずとその顔を窺った。
「空井千夜」
「えっ」
「僕の名前ね」
伊織の戸惑いは深まるばかりだった。彼あるいは彼女は何者なのか。
陶器のような肌も、アンニュイな雰囲気を纏う瞳も、ぷっくりとした唇も、文句の付けどころがないくらい造りが良い。ただ、男性とも女性ともどちらとも取れる中性的な美がそこにあった。
「ええと……空井さんは、早月の友達なんですか?」
「敬語じゃなくていいよ、同い歳だから。……そうだね、僕は環くんのともだち」
短いシルバーアッシュの髪が揺れた。
千夜の作り物めいた笑顔が益々深まる。含みを持たせるような言い方に、伊織は胸がざわめくような心地がした。
「出会ったのは浅葱くんより後だけどね。環くんが大学生の時だし」
「なるほど……」
「浅葱くんは高校から一緒でしょ? 僕も見てみたかったなあ、高校生の環くん」
伊織は曖昧に笑う。千夜の笑顔も話し方も、極めて親しげな印象を与えてくるにも関わらず、伊織の肩から一向に力が抜けない。
千夜の伊織を見る目が、人形のように透き通っていて、無機質に見えるからかもしれなかった。
千夜と二人きりの空間は伊織の不安をやたらと掻き立てる。伊織が耳をすませると、微かな水音を拾い上げた。早く環がシャワーを終えて出てきて欲しい。
代わりに何か頼れるものはないかと伊織は視線を巡らせる。そのある一ヵ所で、伊織の目が止まった。
テーブルの上に置かれた灰皿で、煙草の吸殻が燻っていた。後頭部を叩かれたような軽い衝撃を受ける。
それを目敏く察した千夜が、伊織の耳元に唇を寄せた。
「ビックリした?」
「っ、何……?」
「僕が教えてあげたんだよ。これ以外にも、色々と。環くん、一時期荒れてたんだけど、それが可哀想でね」
まあ、君は知らないだろうけど。
ひっそりとした囁きに、反射的に伊織は千夜から距離を取ろうとした。しかし、生白い腕が邪魔をする。細い腕のどこにそんな力があるのか、伊織の肩を掴んで強引に引き寄せた。
伊織の顔を覗き込み、透き通った瞳が三日月のように歪む。
「あはは。良い顔するんだね、君」
「顔、って……」
「傷つきました、って言わんばかりの顔。ただの友達の癖に、そういう顔するんだ」
喉が引き攣る。ナイフで裂かれたように心臓が痛かった。
「浅葱くんって、こうやって見ると結構綺麗な顔してるよね。いいなあ」
千夜の細い指先が首から肌をなぞり上げ、頬に添えられる。ゆっくりと近寄ってくる夜の海のような瞳がひどく蠱惑的で、伊織の唇から乾いた音が洩れた。
「空井お前、何やってんの」
聞き慣れた声に我に返る。しっとりと濡れた黒髪をタオルで掻き混ぜながら、環がいつの間にか立っていた。その表情は硬く険しい。
「さ、早月……」
伊織の情けない声が環の名を呼んだ。環はそれには答えず、大股で近寄って千夜の華奢な肩を掴む。
千夜の体は容易く引き剥がされて、伊織から離れていった。安堵から筋肉が緩み、伊織の強ばっていた体から力が抜けていく。
「ちょっと意地悪したくなっちゃってさ」
「いい加減にしろ」
環の声の低さに身震いをした。
密度を増した空気が肌を逆撫でするようだった。伊織はひりつくうなじを無意識に摩る。
それでも千夜は平気そうな顔をして、悪戯めいた微笑みを絶やさずに、あざとく小首を傾げてみせる。
「怖いなぁ。環くん、どっちで怒ってるの?」
「はあ? それ、どういう意味だよ」
「この子だろ」
「……何が」
「無駄だよ。環くんって凄い分かりやすいんだから」
二人の会話の意図が掴めずに伊織が首を捻っていると、環はそれ以上千夜の言葉には答えずに、今度は伊織へと視線を向けた。ほんのりと火照った肌に心臓が跳ねる。
「なんで浅葱がうちに?」
「……あっ、これ。昨日話してた映画」
環が伊織の手からDVDを受け取る。それをまじまじと眺めた後、再び伊織の顔を見て、そしてため息を吐いた。
「……ありがと」
「うん。その……ごめんね」
「別に謝んなくていいよ……ていうか、空井、俺の部屋で吸うなって言ったろ」
環が灰皿を見つけると、不愉快そうに顔を顰めた。
「あはは、ごめんよ」
「わざわざ灰皿まで持参してるし……」
「環くんの家にはないからねえ」
伊織は信じられないようなものを見る目で千夜の顔を見た。
視線が交わり、茶目っ気溢れるウィンクを貰う。伊織は自分が揶揄われたことを悟り、思わず頭を抱えた。
「空井になんかされた?」
「えっと、特に何かされたってことでは、ないけど」
「そうそう。お喋りしてただけだよ」
お喋りなんて到底可愛らしいものではないが、それを口にするのも億劫で伊織は無言で頷いた。
「そんな疑わしそうな目で見ないでよ。僕は恋人一筋だよ」
「当然だろ。沈められたいのか」
「うわあ、顔怖いよ」
伊織が二つの美しい顔を交互に見つめていると、環が弁解するように少々早口で告げる。
「空井とはそういうのじゃないから」
「僕も環くんみたいな子は好きなんだけど、生憎タイプではないんだよね。ごめんね」
「俺はお前のことそこはかとなく嫌いだけど」
「え~、ひどいな」
鬱陶しそうにしているが、部屋に上げるくらいだ。千夜とは並々ならぬ関係なのだろう。
性格は真逆に見えるが、環は元より面倒見がいいので、こういうタイプが寄り付きやすい。
それに千夜もまた、環と並んでも見劣りしない美形であった。類は友を呼ぶとはこういうことか。もしここに第三者がいたとしたら、伊織の容姿は霞んで見えるのだろう。
伊織は千夜のことを知らない。二人の関係性は当然気になってしまうが、伊織はそこに踏み入る資格を持ち合わせていない。
「あの、俺……DVDも渡せたし、帰るね」
「ええ。もっとお喋りしていこうよ」
「それは早月に悪いから。……勝手に家上がっちゃったのも申し訳ないし」
「気にすんなよ。どうせ空井が無理矢理引き入れたんだろ」
「まあね」
伊織は苦笑しつつ、ソファから立ち上がる。長居する理由もないし、何よりこの空間はとても落ち着いてはいられなかった。
「またお喋りしようね。浅葱くん」
ソファに座った千夜の麗しいかんばせが微笑みを湛えている。天使のようだが、伊織にはどうも単純に信じ切れそうになかった。
今度は環が玄関で伊織を見送る。
不意に環の気配が近付く。ダイニングにいる千夜に聞こえないように、耳元でこっそりと謝罪された。
耳殻を撫でる吐息と、シャンプーの匂いで伊織の首筋が熱くなる。
焦った伊織は扉に飛び付き、後ろを振り返った。
「お、お邪魔しました」
「わざわざありがとな。これ、見たら返すから」
「また感想教えてね」
「分かった。……またな」
伊織は小さく手を振って、扉を開ける。
伊織が出ていった後の扉がゆっくりと閉まっていく様を環がどんな表情で見ていたのか、伊織には知る由もなかった。
そして翌朝、伊織は腕を組みながら大層悩ましい表情を浮かべていた。
伊織の目の前に置かれているのは一本のDVD。環に貸そうと申し出た作品である。
「うーん」
離れていた距離が縮まったと思ったのも束の間で、別れ際には結局あの冷たく素っ気ない空気感が元通りなってしまっていた。
こうなると、改めて伊織から環に会いに行くのも気まずい。それにDVDの話も環からしてみれば話の流れでしかなく、別に本当に借りたいとは思っていないかもしれない。
何も直接聞く必要はなく、メッセージを送ってしまえばすむ話だが、それでいらないと言われてしまえばそれこそ終わりな気がしていた。
右往左往する自分の意思に伊織は唸っていたが、突然立ち上がった。テーブルの上のDVDを引っ掴み、勢いのままに玄関の扉を開ける。
悩んでいたとて埒が明かない。 実際、環に貸す流れになっていたのだし、訪ねても問題ないだろう。
隣の部屋の前に立ち、伊織は覚悟を決めたような目つきでドアチャイムに指を伸ばしていく。寸前で大きく深呼吸をすると、躊躇いなくボタンを押した。
応答はない。耳をすませてみるが、物音は聞こえてきそうにはなかった。このマンションの壁はそれなりに防音性に優れているから当然である。
無音の時間に、背中がそわりとする。
伊織はため息を呑み込んだ。そもそも環が土日休みなのかも知らないし、休みだとしても外出している可能性だって十分にある。力んだ心が宙ぶらりんになるのを感じながら、伊織が諦めて足先を変えようとした時だった。
微動だにしなかった扉が音を立てた。
「はーい……どちら様?」
ハスキーな低音に伊織は目を見張る。開いた扉から顔を覗かせたのは、残念ながら環ではなかった。
すらりとした高身長。体格が良いというわけではないが、人形のように整った顔立ちとモデルのようなプロポーションに圧倒されてしまう。
「………あの?」
「あっ……ええと、早月は……?」
「あ、環くんの知り合い?」
シルバーのピアスが小さく光る唇が曲がる。不審がる視線に慌てた伊織が口を開くと、相手側の警戒が緩んだように見えた。
「浅葱って言えば分かると思うんですけど……」
「……ふうん、なるほど」
器用に眉を吊り上げて、伊織を上から下まで眺めている。品定めするような明け透けな視線に伊織の肩が強ばる。しかし次の瞬間、ぱっと華やぐような笑顔を見せた。
「今、環くんシャワー浴びてるんだよね」
「そ、うなんですか……じゃあ」
「だからほら、入って待ってなよ」
出直します、という言葉は遮られる。伊織が理解する前に手首を掴まれて、あっという間に玄関に引き込まれてしまった。
「え、あの」
「はい、上がって上がって。遠慮しないで」
「ええっ」
ニコニコと人の良い笑顔だが伊織の背中を押す力は有無を言わさぬ何かがある。伊織は困惑しながらも、押されるがままに本来の家主の許可なしに奥へと進んでしまった。
モノトーンを基調としたシンプルな部屋で、余計な物を置かずにいるところが環らしいと思う。
まだ名前も知らないその人に促され、ダイニングのソファに腰掛けた。居心地悪そうにしているのも構わず、伊織の隣に寄り添うように座ってすらりと長い足を組む。
腕がぶつかるような距離の近さに、伊織がおずおずとその顔を窺った。
「空井千夜」
「えっ」
「僕の名前ね」
伊織の戸惑いは深まるばかりだった。彼あるいは彼女は何者なのか。
陶器のような肌も、アンニュイな雰囲気を纏う瞳も、ぷっくりとした唇も、文句の付けどころがないくらい造りが良い。ただ、男性とも女性ともどちらとも取れる中性的な美がそこにあった。
「ええと……空井さんは、早月の友達なんですか?」
「敬語じゃなくていいよ、同い歳だから。……そうだね、僕は環くんのともだち」
短いシルバーアッシュの髪が揺れた。
千夜の作り物めいた笑顔が益々深まる。含みを持たせるような言い方に、伊織は胸がざわめくような心地がした。
「出会ったのは浅葱くんより後だけどね。環くんが大学生の時だし」
「なるほど……」
「浅葱くんは高校から一緒でしょ? 僕も見てみたかったなあ、高校生の環くん」
伊織は曖昧に笑う。千夜の笑顔も話し方も、極めて親しげな印象を与えてくるにも関わらず、伊織の肩から一向に力が抜けない。
千夜の伊織を見る目が、人形のように透き通っていて、無機質に見えるからかもしれなかった。
千夜と二人きりの空間は伊織の不安をやたらと掻き立てる。伊織が耳をすませると、微かな水音を拾い上げた。早く環がシャワーを終えて出てきて欲しい。
代わりに何か頼れるものはないかと伊織は視線を巡らせる。そのある一ヵ所で、伊織の目が止まった。
テーブルの上に置かれた灰皿で、煙草の吸殻が燻っていた。後頭部を叩かれたような軽い衝撃を受ける。
それを目敏く察した千夜が、伊織の耳元に唇を寄せた。
「ビックリした?」
「っ、何……?」
「僕が教えてあげたんだよ。これ以外にも、色々と。環くん、一時期荒れてたんだけど、それが可哀想でね」
まあ、君は知らないだろうけど。
ひっそりとした囁きに、反射的に伊織は千夜から距離を取ろうとした。しかし、生白い腕が邪魔をする。細い腕のどこにそんな力があるのか、伊織の肩を掴んで強引に引き寄せた。
伊織の顔を覗き込み、透き通った瞳が三日月のように歪む。
「あはは。良い顔するんだね、君」
「顔、って……」
「傷つきました、って言わんばかりの顔。ただの友達の癖に、そういう顔するんだ」
喉が引き攣る。ナイフで裂かれたように心臓が痛かった。
「浅葱くんって、こうやって見ると結構綺麗な顔してるよね。いいなあ」
千夜の細い指先が首から肌をなぞり上げ、頬に添えられる。ゆっくりと近寄ってくる夜の海のような瞳がひどく蠱惑的で、伊織の唇から乾いた音が洩れた。
「空井お前、何やってんの」
聞き慣れた声に我に返る。しっとりと濡れた黒髪をタオルで掻き混ぜながら、環がいつの間にか立っていた。その表情は硬く険しい。
「さ、早月……」
伊織の情けない声が環の名を呼んだ。環はそれには答えず、大股で近寄って千夜の華奢な肩を掴む。
千夜の体は容易く引き剥がされて、伊織から離れていった。安堵から筋肉が緩み、伊織の強ばっていた体から力が抜けていく。
「ちょっと意地悪したくなっちゃってさ」
「いい加減にしろ」
環の声の低さに身震いをした。
密度を増した空気が肌を逆撫でするようだった。伊織はひりつくうなじを無意識に摩る。
それでも千夜は平気そうな顔をして、悪戯めいた微笑みを絶やさずに、あざとく小首を傾げてみせる。
「怖いなぁ。環くん、どっちで怒ってるの?」
「はあ? それ、どういう意味だよ」
「この子だろ」
「……何が」
「無駄だよ。環くんって凄い分かりやすいんだから」
二人の会話の意図が掴めずに伊織が首を捻っていると、環はそれ以上千夜の言葉には答えずに、今度は伊織へと視線を向けた。ほんのりと火照った肌に心臓が跳ねる。
「なんで浅葱がうちに?」
「……あっ、これ。昨日話してた映画」
環が伊織の手からDVDを受け取る。それをまじまじと眺めた後、再び伊織の顔を見て、そしてため息を吐いた。
「……ありがと」
「うん。その……ごめんね」
「別に謝んなくていいよ……ていうか、空井、俺の部屋で吸うなって言ったろ」
環が灰皿を見つけると、不愉快そうに顔を顰めた。
「あはは、ごめんよ」
「わざわざ灰皿まで持参してるし……」
「環くんの家にはないからねえ」
伊織は信じられないようなものを見る目で千夜の顔を見た。
視線が交わり、茶目っ気溢れるウィンクを貰う。伊織は自分が揶揄われたことを悟り、思わず頭を抱えた。
「空井になんかされた?」
「えっと、特に何かされたってことでは、ないけど」
「そうそう。お喋りしてただけだよ」
お喋りなんて到底可愛らしいものではないが、それを口にするのも億劫で伊織は無言で頷いた。
「そんな疑わしそうな目で見ないでよ。僕は恋人一筋だよ」
「当然だろ。沈められたいのか」
「うわあ、顔怖いよ」
伊織が二つの美しい顔を交互に見つめていると、環が弁解するように少々早口で告げる。
「空井とはそういうのじゃないから」
「僕も環くんみたいな子は好きなんだけど、生憎タイプではないんだよね。ごめんね」
「俺はお前のことそこはかとなく嫌いだけど」
「え~、ひどいな」
鬱陶しそうにしているが、部屋に上げるくらいだ。千夜とは並々ならぬ関係なのだろう。
性格は真逆に見えるが、環は元より面倒見がいいので、こういうタイプが寄り付きやすい。
それに千夜もまた、環と並んでも見劣りしない美形であった。類は友を呼ぶとはこういうことか。もしここに第三者がいたとしたら、伊織の容姿は霞んで見えるのだろう。
伊織は千夜のことを知らない。二人の関係性は当然気になってしまうが、伊織はそこに踏み入る資格を持ち合わせていない。
「あの、俺……DVDも渡せたし、帰るね」
「ええ。もっとお喋りしていこうよ」
「それは早月に悪いから。……勝手に家上がっちゃったのも申し訳ないし」
「気にすんなよ。どうせ空井が無理矢理引き入れたんだろ」
「まあね」
伊織は苦笑しつつ、ソファから立ち上がる。長居する理由もないし、何よりこの空間はとても落ち着いてはいられなかった。
「またお喋りしようね。浅葱くん」
ソファに座った千夜の麗しいかんばせが微笑みを湛えている。天使のようだが、伊織にはどうも単純に信じ切れそうになかった。
今度は環が玄関で伊織を見送る。
不意に環の気配が近付く。ダイニングにいる千夜に聞こえないように、耳元でこっそりと謝罪された。
耳殻を撫でる吐息と、シャンプーの匂いで伊織の首筋が熱くなる。
焦った伊織は扉に飛び付き、後ろを振り返った。
「お、お邪魔しました」
「わざわざありがとな。これ、見たら返すから」
「また感想教えてね」
「分かった。……またな」
伊織は小さく手を振って、扉を開ける。
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