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大学生編
泡沫の夜④
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「………だから………だって…………」
微睡みを漂っていたところで、僅かな物音とひっそりとした話し声が、伊織の脳みそを緩やかに覚醒へと導いた。
ゆっくりと目を開くと、灯りの消えた部屋は薄ぼんやりと光っている。明け方だろうか。
体を清めて布団に潜り込んだ頃には日付を超えていたから、浅い眠りであったに違いない。
寄り添って眠っていたはずの男の気配はなかった。伊織は未だにチョーカーに覆われたままのうなじを擦りながら、視線だけを巡らせる。
声は浴室の方から聞こえてきた。薄く開いた扉の隙間から、細長い光が伸びている。
伊織は耳をすませた。
「…………くんなよ…………なんで、………仲直り…………」
電話をしているのだろう。しかし眠っているはずの伊織に配慮しているのか声を潜めていて、環が何を話しているかよく聞こえなかった。
呼吸すら止めて、必死になって音を拾い上げようとする。
「……………ハルが、…………家………だから…………」
伊織はすぐに後悔した。
聞き取り辛いが、確実に聞こえてきた単語の中に混じっていた彼の幼馴染の名前が、重石のように伊織の心を抑え込む。図に乗るな、と誰かが釘を刺しているかのようだった。
伊織は盗み聞きに集中するのを止めた。鼻の奥がツンと痛くなる。
言われなくとも分かっている。所詮は泡沫の夢なのだと。
何往復かのやり取りの後、しんとした静さが戻ってくる。扉が開く微かな音がして、伊織は急いで目を瞑った。
彼の気配が近付いてくる。伊織が思っていたよりも、すぐそこに迫っていた。
そっと指先が伊織の頬をなぞった。目元に掛かった髪を払い除ける。思わず瞼が震えたが、伊織はじっとしたまま、身動ぎひとつしないように気を張っていた。
「………あさぎ」
──────そんな声で名前を呼ぶなんて卑怯だ。
切なくも聞こえるその声色に、どうにか甘さを見つけ出して、勘違いしてしまいたくなる。
柔らかいものが額に触れて、すぐに離れた。ごそごそと音がして、離れ難い温もりが伊織の背中を包み込む。
伊織はこっそりと唇を噛み締めた。そうでもしないと、涙が溢れて止まらなくなってしまいそうだったのだ。
部屋のカーテンを開きながら、伊織が呟く。
「……天気、もたなかったね」
「うわ、結構降ってるな……まあ昨日晴れただけ良かったか」
環が伊織の背後から窓の外を覗く。ごく自然な仕草で伊織の肩に顎を乗せた。
二日目の熱海は予報通りの雨模様だった。
今日の予定は多方が屋外なので、出歩くのが少々億劫になる。
「チェックアウト、少し遅らせ……んっ」
伊織が振り向いた瞬間、環がその唇を掠め取る。伊織は瞳を瞬かせて、そして呆れたように笑った。
「もう、油断も隙もないな……」
「浅葱は隙しかないから。社会人になるんだし、もう少し危機感持てよな」
「はいはい。気を引き締めていきますよ」
「あー……分かってないなこれ」
環は困ったようにぼやいたが、伊織の思考は別のところにあった。
来月からいよいよ社会人生活が始まる。環とは勤める会社はもちろん、勤務地も異なっている。高校、大学と同じ道を歩んできたが、遂に別れがやってくるのだ。
感傷に浸りかけたのを引き戻して、伊織は腹に回った環の腕を摩った。
「それで、チェックアウトどうする?」
上目遣いで見上げると、環の口元が緩む。
言うまでもなかった。
時間いっぱいまで部屋でくつろいだ後、伊織たちは雨の中、一日目にまわりきれなかった観光地を巡った。
二人きりの小旅行は瞬く間に終わりを迎える。夕方の新幹線は二人ともぐっすり眠ってしまったので、危うく乗り過ごすところだった。
伊織も環も既に実家に戻っている。
遠慮する伊織を強引に押し切って、環は伊織の住むアパートまで送り届けていた。
「二日間ありがとう。それに帰りまで……一人でも」
「帰れたのにって? 俺、浅葱のそれだけは信用してないから」
「酔ってないのになあ」
伊織は不満げであるが、環は譲れなかった。伊織の記憶からは既に薄れ始めているが、環はあの春の事件の焦燥や怒りを覚えている。
名残惜しさが漂うが、これ以上環を引き留めておくわけにもいかない。
二人の合間に、春の夜のぬるい風が通った。
「……じゃあ、おやすみ」
物言いたげな顔をしている環に背を向ける。
アパートの方へと足を踏み出した時、伊織の腕を環が掴んだ。痛くはないがその強さに、全身に緊張が走る。
「浅葱、あのさ」
「伊織ー?」
何かを言いかけた環の声を遮るように、道の向こうからやって来た女性が伊織を呼ぶ。
伊織は聞き慣れた声に咄嗟に環の腕を振り払った。母親にいらぬ心配と誤解を与えたくなかった。
「母さん」
「おかえりなさい。……あら、貴方が早月くん? いつも伊織がお世話になってます」
「はじめまして。こちらこそ、いつも浅葱くんにはお世話になってます」
仕事帰りの母親の腕にはパンパンに膨れたエコバッグがぶら下がっている。環は爽やかな笑顔を伊織の母親に向けていた。
妙に張り詰めていた空気が、一瞬で消え去っていく。
伊織はこれ幸いと空いた片手で母親のバッグを取り上げた。
「重たいでしょ。運ぶよ」
「助かるけど……いいの? まだお喋りしていたんじゃ?
「大丈夫だよ。ね、早月」
「……ああ」
若干の間はあったが、環は素直に首を縦に振った。
「おやすみ。またな」
「うん、おやすみ」
穏やかな声色と共に浮かべた微笑みは、今までで一番よく出来ていると思う。
先に進んでいく母親を追いながら、伊織も今度こそ本当に環に背を向けた。
その夜。
伊織のスマホに一通のメッセージが入った。母親が「本当にあんな綺麗な子がいるのね」と感心したように言うのを聞き流しながら、伊織はそれを確認する。
送り主は環からで、また近いうちに会えないか、という誘いだった。
正直、あの時母親が来てくれて助かったと思った。
ごめん。暫くは忙しいから。
そうメッセージを打ち込んで返信する。すぐに既読がついて、了解の一言が返ってきた。
伊織はスマホの電源を落とした。テーブルに画面を伏せる。母親に断りを入れてから、浴室へと向かった。
伊織には旅行前から決めていたことが一つある。
それは、この初恋に、環への想いに区切りをつけること。
伊織はこの半年ほど、ずっと考えていたのだ。自分の恋の末路と幕引きについて。
伊織だって、環が伊織のことを並みの友人以上には好いてくれていることには気付いている。
しかし、環には春生がいる。どうしてもそのことが、伊織の心に深く突き刺さったまま抜けない。
伊織の抱いた初恋はあまりにも大きく、重くなり過ぎて、拗れてしまったように思う。
そばにいられるだけで良いなんて綺麗事は言えない。春生や他の誰でもなく伊織だけが、環の特別で、一番で、唯一であって欲しい。
しかしそれはかなわない。春生がいる。伊織はきっと、春生と環の間の絆の強さには勝てない。
ならばいっそ、伊織は止めることにした。いつまでも想い続けるのは不毛だと割り切って、この長い長い初恋にひっそりと蓋をすることに決めたのだ。この旅行の間で与えられた、最初で最後の甘く儚い思い出とともに。
上から降り注ぐ飛沫を頭から被りながら伊織は鼻を啜った。シャワーに混じって、別の何かが頬を伝っている。
大声で誰かを責め立ててしまいたくなるくらいの胸の痛みと苦しみだった。嗚咽を必死に噛み殺していた。口の中に鉄の味が広がる。
どうせ叶わぬ恋ならば、初めからしなければよかった。
出会う前に戻りたい。出会わなければ、こんな苦しさも切なさも味わうことはなかった。
恋なんて、知らずにいられたのに。
熱い雨に打たれながら、伊織は全てを心の底に押し込んでいくように目を閉じた。
──────それから、五年の間。伊織は一度も環と会うことはなかった。
【大学生編】完
微睡みを漂っていたところで、僅かな物音とひっそりとした話し声が、伊織の脳みそを緩やかに覚醒へと導いた。
ゆっくりと目を開くと、灯りの消えた部屋は薄ぼんやりと光っている。明け方だろうか。
体を清めて布団に潜り込んだ頃には日付を超えていたから、浅い眠りであったに違いない。
寄り添って眠っていたはずの男の気配はなかった。伊織は未だにチョーカーに覆われたままのうなじを擦りながら、視線だけを巡らせる。
声は浴室の方から聞こえてきた。薄く開いた扉の隙間から、細長い光が伸びている。
伊織は耳をすませた。
「…………くんなよ…………なんで、………仲直り…………」
電話をしているのだろう。しかし眠っているはずの伊織に配慮しているのか声を潜めていて、環が何を話しているかよく聞こえなかった。
呼吸すら止めて、必死になって音を拾い上げようとする。
「……………ハルが、…………家………だから…………」
伊織はすぐに後悔した。
聞き取り辛いが、確実に聞こえてきた単語の中に混じっていた彼の幼馴染の名前が、重石のように伊織の心を抑え込む。図に乗るな、と誰かが釘を刺しているかのようだった。
伊織は盗み聞きに集中するのを止めた。鼻の奥がツンと痛くなる。
言われなくとも分かっている。所詮は泡沫の夢なのだと。
何往復かのやり取りの後、しんとした静さが戻ってくる。扉が開く微かな音がして、伊織は急いで目を瞑った。
彼の気配が近付いてくる。伊織が思っていたよりも、すぐそこに迫っていた。
そっと指先が伊織の頬をなぞった。目元に掛かった髪を払い除ける。思わず瞼が震えたが、伊織はじっとしたまま、身動ぎひとつしないように気を張っていた。
「………あさぎ」
──────そんな声で名前を呼ぶなんて卑怯だ。
切なくも聞こえるその声色に、どうにか甘さを見つけ出して、勘違いしてしまいたくなる。
柔らかいものが額に触れて、すぐに離れた。ごそごそと音がして、離れ難い温もりが伊織の背中を包み込む。
伊織はこっそりと唇を噛み締めた。そうでもしないと、涙が溢れて止まらなくなってしまいそうだったのだ。
部屋のカーテンを開きながら、伊織が呟く。
「……天気、もたなかったね」
「うわ、結構降ってるな……まあ昨日晴れただけ良かったか」
環が伊織の背後から窓の外を覗く。ごく自然な仕草で伊織の肩に顎を乗せた。
二日目の熱海は予報通りの雨模様だった。
今日の予定は多方が屋外なので、出歩くのが少々億劫になる。
「チェックアウト、少し遅らせ……んっ」
伊織が振り向いた瞬間、環がその唇を掠め取る。伊織は瞳を瞬かせて、そして呆れたように笑った。
「もう、油断も隙もないな……」
「浅葱は隙しかないから。社会人になるんだし、もう少し危機感持てよな」
「はいはい。気を引き締めていきますよ」
「あー……分かってないなこれ」
環は困ったようにぼやいたが、伊織の思考は別のところにあった。
来月からいよいよ社会人生活が始まる。環とは勤める会社はもちろん、勤務地も異なっている。高校、大学と同じ道を歩んできたが、遂に別れがやってくるのだ。
感傷に浸りかけたのを引き戻して、伊織は腹に回った環の腕を摩った。
「それで、チェックアウトどうする?」
上目遣いで見上げると、環の口元が緩む。
言うまでもなかった。
時間いっぱいまで部屋でくつろいだ後、伊織たちは雨の中、一日目にまわりきれなかった観光地を巡った。
二人きりの小旅行は瞬く間に終わりを迎える。夕方の新幹線は二人ともぐっすり眠ってしまったので、危うく乗り過ごすところだった。
伊織も環も既に実家に戻っている。
遠慮する伊織を強引に押し切って、環は伊織の住むアパートまで送り届けていた。
「二日間ありがとう。それに帰りまで……一人でも」
「帰れたのにって? 俺、浅葱のそれだけは信用してないから」
「酔ってないのになあ」
伊織は不満げであるが、環は譲れなかった。伊織の記憶からは既に薄れ始めているが、環はあの春の事件の焦燥や怒りを覚えている。
名残惜しさが漂うが、これ以上環を引き留めておくわけにもいかない。
二人の合間に、春の夜のぬるい風が通った。
「……じゃあ、おやすみ」
物言いたげな顔をしている環に背を向ける。
アパートの方へと足を踏み出した時、伊織の腕を環が掴んだ。痛くはないがその強さに、全身に緊張が走る。
「浅葱、あのさ」
「伊織ー?」
何かを言いかけた環の声を遮るように、道の向こうからやって来た女性が伊織を呼ぶ。
伊織は聞き慣れた声に咄嗟に環の腕を振り払った。母親にいらぬ心配と誤解を与えたくなかった。
「母さん」
「おかえりなさい。……あら、貴方が早月くん? いつも伊織がお世話になってます」
「はじめまして。こちらこそ、いつも浅葱くんにはお世話になってます」
仕事帰りの母親の腕にはパンパンに膨れたエコバッグがぶら下がっている。環は爽やかな笑顔を伊織の母親に向けていた。
妙に張り詰めていた空気が、一瞬で消え去っていく。
伊織はこれ幸いと空いた片手で母親のバッグを取り上げた。
「重たいでしょ。運ぶよ」
「助かるけど……いいの? まだお喋りしていたんじゃ?
「大丈夫だよ。ね、早月」
「……ああ」
若干の間はあったが、環は素直に首を縦に振った。
「おやすみ。またな」
「うん、おやすみ」
穏やかな声色と共に浮かべた微笑みは、今までで一番よく出来ていると思う。
先に進んでいく母親を追いながら、伊織も今度こそ本当に環に背を向けた。
その夜。
伊織のスマホに一通のメッセージが入った。母親が「本当にあんな綺麗な子がいるのね」と感心したように言うのを聞き流しながら、伊織はそれを確認する。
送り主は環からで、また近いうちに会えないか、という誘いだった。
正直、あの時母親が来てくれて助かったと思った。
ごめん。暫くは忙しいから。
そうメッセージを打ち込んで返信する。すぐに既読がついて、了解の一言が返ってきた。
伊織はスマホの電源を落とした。テーブルに画面を伏せる。母親に断りを入れてから、浴室へと向かった。
伊織には旅行前から決めていたことが一つある。
それは、この初恋に、環への想いに区切りをつけること。
伊織はこの半年ほど、ずっと考えていたのだ。自分の恋の末路と幕引きについて。
伊織だって、環が伊織のことを並みの友人以上には好いてくれていることには気付いている。
しかし、環には春生がいる。どうしてもそのことが、伊織の心に深く突き刺さったまま抜けない。
伊織の抱いた初恋はあまりにも大きく、重くなり過ぎて、拗れてしまったように思う。
そばにいられるだけで良いなんて綺麗事は言えない。春生や他の誰でもなく伊織だけが、環の特別で、一番で、唯一であって欲しい。
しかしそれはかなわない。春生がいる。伊織はきっと、春生と環の間の絆の強さには勝てない。
ならばいっそ、伊織は止めることにした。いつまでも想い続けるのは不毛だと割り切って、この長い長い初恋にひっそりと蓋をすることに決めたのだ。この旅行の間で与えられた、最初で最後の甘く儚い思い出とともに。
上から降り注ぐ飛沫を頭から被りながら伊織は鼻を啜った。シャワーに混じって、別の何かが頬を伝っている。
大声で誰かを責め立ててしまいたくなるくらいの胸の痛みと苦しみだった。嗚咽を必死に噛み殺していた。口の中に鉄の味が広がる。
どうせ叶わぬ恋ならば、初めからしなければよかった。
出会う前に戻りたい。出会わなければ、こんな苦しさも切なさも味わうことはなかった。
恋なんて、知らずにいられたのに。
熱い雨に打たれながら、伊織は全てを心の底に押し込んでいくように目を閉じた。
──────それから、五年の間。伊織は一度も環と会うことはなかった。
【大学生編】完
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