さみだれの初恋が晴れるまで

める太

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大学生編

泡沫の夜②※

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 ちゃぷん、と張り詰めた水面が波立つ音がする。
 切り取られた窓から、月明かりを受け止める静かな海が見える。それを食い入るように眺めながら、伊織は立てた自分の膝をぎゅうぎゅうと抱いていた。

「ははっ、マジで狭いな」
「大人が二人も入れば、それはね……」

 環が肩を揺らして笑うので、浴槽からお湯が溢れ出ていく。一方の伊織の笑顔は少々引き攣り気味だった。
 狭い空間に二人で浸かろうとすれば、どうしたって窮屈で、まるで環が伊織の背後から抱き締めるような体勢になる。
 どんなに縮こまっていても、肩や背中と素肌が触れ合う。環の体温も息遣いも余すことなく拾い上げることができてしまう。
 心臓が痛くて、体中が熱くて、どうしようもない。
 すぐにのぼせてしまいそうだと思っていたところで、不意に環が伊織の肩に触れた。

「……ひゃっ……な、何……?」
「いや、ガッチガチだから」

 強ばった筋肉を解すように揉まれる。
 伊織は首根っこを掴まれた子猫のように固まって、その手を受け入れている。環は小さく噴き出した。

「浅葱から誘ったのに、なんで浅葱の方が緊張してんの」
「さそっ……たけどさ」

 伊織は眉根を寄せてぼやいた。
 一方の環は人を揶揄う余裕もあるらしい。そこにある感情の種類は別として、一般的にこの状況は気恥ずかしさがあるものではなかろうか。

「逆に……早月はなんで平気なの?」
「別に平気ってわけじゃない」
「え………っひ、ぅ」

 言葉の真意を尋ねようとしたが、それは環によって遮られてしまった。
 伊織の肩を揉んでいた指が突然うなじをなぞったのだ。微かに甘い刺激がぞくりと這い上がっていく。

「そ、そこは……」

 すりすりと撫でる指先が意味深である。擽ったさに似た何かに、体の芯がふやけてしまうようだった。伊織は迷った結果、別のことを口にした。

「……ほくろって、どんなの?」
「ほくろ?」
「うん。うなじにあるって、前に言ってたでしょ。黒豆みたいなやつなのかなって、地味に気になってて」
「黒豆って」

 環はおかしそうに笑みをこぼすと、首筋のほくろがあるらしい場所に指で円を描いた。

「大きさは普通くらい。でも三角形みたくなってるから、すげえなって思ってただけ」
「えっ、三角形? それはすごいや」
「自分じゃ見れないもんな」
「うん。そんなに気にしないし……あ、でも」

 伊織は立てた膝の奥を覗き込むようにした。

「ここのほくろは、子どもの頃からお風呂入ると見ちゃってたなあ」
「へえ、そうなんだ」
「うん。別に形も大きさも普通だけど、ぽつんって一個だけあるから、なんだか気になっちゃって。ここ、内腿にあるんだけど……」

 伊織はそこまで言って口を閉じる。背後から注がれる視線がなんだか熱いように思えた。伊織が急に黙っても、何も言わない。
 奇妙な居心地の悪さにとうとう耐えきれず、伊織は後ろを振り返った。

「………そんな目で見ないで」

 本当にのぼせてしまいそうだ。伊織は恨みがましく呟いた。
 上気した頬に赤い唇。血の巡りが良くなって、色素の薄いかんばせが華やかに色付いている。無造作に掻き上げられた髪のひと房が陶器のような額の上で弧を描く。
 そして何より、熱に浮かされたように蕩けた瞳が、容赦なくまっすぐに伊織を見つめていた。そのたっぷりと濡れた色気が伊織を赤面させる。

「そんな目って?」
「……言わなくても分かるくせに」
「わかんねえよ」

 うなじから頬にかけて指先がゆっくりと滑っていく。
 伊織は目を伏せた。唇を固く結び、目元は赤らんでいる。恥じらっているのに、拒否はしない。そんないじらしさが環を密かに煽っているということを伊織は知らない。

 水面が揺れる音が響く。二人の距離が近付いて、唇が重なった。

「んっ……んぅ……」

 固く閉ざした唇を解すように食まれてしまえば、すぐに綻びが生まれて、当然のようにぬるりとしたものが侵入する。環は口が少し大きくてその分舌も伊織より長い。しかもそれを器用に操るからたまったものではない。
 口蓋を擽られ、絡んだ舌を甘く吸われて、背骨が引き抜かれていくような感覚に襲われた。へにゃりと柔くなった手で環の体に縋る。触れ合う素肌が熱い。
 壁が微かな音すら大袈裟に拾い上げるせいで、互いの粘膜が擦れ合う音や唾液が混ざり合う音が聴覚を刺激する。視覚がない分その効果は絶大で、伊織は脳みそが作りたてのジャムのようにどろどろになっていくような心地がした。

「……ンン……っん、ぅ………っふぁ」

 一旦、唇を解放される。
 蒸気と涙でぼやけた視界の片隅で、ぷつんと切れる銀の糸を見て、伊織の心臓が一際大きく脈打った。
 暫しの間見つめ合い、環がぽつりと呟いた。

「……最近なんか、よそよそしかった」
「……そう、かな」
「そうだよ」

 隠しきれていなかったことにやや後悔を覚える。水面を波立たせながら伊織は体ごと環に向き合った。そっと手を伸ばし、薄ら刻まれた眉間の皺に触れる。

「ごめんね」
「……まあ、もういいけどな」
「う、わっ……!」
  
 環の腕が伊織の体を抱き寄せた。ばしゃん、と水が大きく跳ねる音が立って、次の瞬間には互いの鼻先が触れ合うくらいの距離が縮まっていた。
 湯の中で肌が重なったところから、まるで火傷するみたいに体中が熱くなっていく。

「キス、していい?」
「……さっきは、聞かなかったのに」
「ちゃんと聞きたくなった」
「なんだそれ」

 眉尻を下げてはにかむ。いいよ、と小さく囁くと、伊織の後頭部に環の手が添えられた。伊織は反射的に目を閉じる。
 今度はその柔らかさやしっとりとした感触を楽しむかのように、ゆっくりと唇を重ね合わせた。
 伊織の閉じたまつ毛が震える。甘ったるくて、心臓が煩くて、頭が煮立ってどうにかなってしまいそうだった。
 それでももう伊織には止めるという選択肢はなく、自らも環の胸元に体重を預けていく。艶やかな水音と時折軽やかなリップ音が響く二人きりの空間で、余すことなく互いの吐息を貪り合った。


 少しのぼせてしまったと思いながら火照った体に浴衣を巻き付けていく。風呂に入る前、着替えに挟み込むようにして隠していたそれをこっそりと手に取った。
 振り返ると、伊織よりも手早く着替えた環の視線が首元に注いでいる。
 裸を見られるより恥ずかしいと思った。首に巻き付いたチョーカーは、うなじを隠してはくれるが、伊織の邪な下心を透かしてしまうようだった。
 環は敢えてそれに触れることはなく、伊織の腰を抱き寄せた。

「浅葱」
「きっ、聞かなくて、いいから」

 言葉にされると身構えて、緊張して、顔から火が噴き出そうになる。
 こんなキス一つで心臓が爆発しそうだというのに、利用すればいいなんてよく思えたものだと内心で自虐した。

「………浅葱ってさ」
「え……?」
「いや……なんでもない」

 環は何かを堪えるように眉根を固くして、ため息を吐いた。その視線は先程よりも鋭いように思える。伊織がそれを疑問に思う隙を与えず、環が噛み付くように唇を奪った。
 脱衣所に粘膜が絡まり合う卑猥な音がこもる。

「……っんぅ………ぅ……ぁふっ……ね、くちびる、とれそ……っ」
「は、……こんなんじゃとれねえって」
「いや、とれるっ……ンっ、んん!」

 息を吐く暇もない。じゅる、と唾液ごと啜られて、伊織の背中がぞわりと粟立った。
 目尻に勝手に涙が滲んでくる。肌の上を這い回るような官能にびくんと細腰が跳ねてしまうのを、環の腕が押さえ付けた。口付けが更に深まる。
 不意に環の手が伸びる。既に崩れ出した浴衣の合間に潜り込み、腿の付け根から上へとなぞり上げた。

「……っン、んぅ、……ひゃあっ!」

 伊織の肩が大きく跳ねた。縋っていた両手で環の肩を押し返す。当然突き飛ばすことはかなわなかったが、甘い口付けは途切れてしまった。

「な、なにを……っ!」
「だって、硬くなってる」
「あっ、……ちょっと……ンッ」

 驚きにわなわなと震える唇から、媚びるような声が洩れた。環が下着の上からやわく揉むそこは、環の言葉の通り芯を持ち始めている。
 伊織は顔を真っ赤にして環を睨んだ。だって、仕方ないだろう。

「せっ、生理現象だ………っひぁ、ん……ッ」
「……自分でする時も、そんな声出すの?」
「……ふっ、ぁん……じぶんで、さわんない……っ」
「マジで? ……ってことは」
「違ッ……! ぜったい、違うこと考えてる……!」

 伊織はあまり自慰をしないという意味だ。
 しかし手を止めて、驚愕の表情を浮かべる環は明らかに誤解をしている。伊織は慌てて首を横に振った。

「いつも後ろでするとかじゃないから……!」
「へえ、したことはあるんだ」
「な、殴りたい……」

 デリカシーはどこに落っことしてきたのだ。伊織が唸ると、再び環の指が妖しく蠢いた。

「っんゃ、やだ……っ、きゅうに、さわんないでってぇ……」
「聞かなくていいって言ったろ」
「それっ、じゃない……っぁ、うう」

 先程よりも硬く重くなった男性器を、下から揉まれて伊織の喉が震える。かりかり、と指先が優しく引っ掻くのも堪らない。その度に細かく体が跳ねてしまう。
 あくまで一枚の布を隔ててはいるけれど、口付けで焚き付けられた体はいとも簡単に快感を拾い上げる。
 伊織は環の腕を拒むように掴んでいるのも全く意味をなしていなかった。
 浴衣など布切れ同然で防御力は皆無だ。それに身を捩るせいで、しっとりと火照った肌がちらついている。
 環は唇を噛んだ。

「ぁっ、ひん……ねっ、さつき……やだって……もっ、だめだからぁ……ッ」

 ぐじゅ、と濡れた音まで耳に入ってくる。涙混じりの声色で懇願すると、ようやく環が手を止めた。
 意地悪く口角を吊り上げて、薄らと膜の張った伊織の瞳を覗き込む。

「気持ち良くない?」
「いっ、いいとか悪いとかじゃなくて……」
「悪くないんならいいだろ」
「ひぁッ! ……っだから、突然、さわんないでって……っ」
「じゃあここで終わりにする?」

 伊織は口を閉じた。
 僅かに視線を彷徨わせてから、「続ける」とぶっきらぼうに呟いた。己の欲望には勝てない。
 環は満足気に笑った。

「暴れるなよ」
「え、あっ、何っ……!」

 素早い動きで背中と膝裏に腕が回ったかと思えば、次の瞬間には両足が宙に浮いていた。驚いた伊織は咄嗟に環の体にしがみつく。

「うわ、軽い」
「言うと思った……っていうか、下ろしてよ」
「はいはい。後でな」
「意地悪だ……」

 こういうありきたりなものが一番羞恥心を掻き立てる。
 抱き上げられたままで伊織が呻くと、環が悪戯めいた笑みを見せた。
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