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大学生編

この恋の行方①

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「ややっ……やっと終わったあ~……!」
「お疲れ様」

 電話で席を外していた直樹が、伊織の向かい側の席に雪崩込むように座る。席を立つ前の緊張感がすっかり解けて、安堵と達成感と疲労が混ざり合った表情を浮かべていた。
 そこに少し遅れてやって来た環も合流する。環が定食を乗せたトレイをテーブルに置くのも待たずに、直樹は無事内定が決まった喜びを共有した。

「良かったな。お疲れお疲れ」
「これで俺も二人の仲間入りだよ~! ハチャメチャに遊んでやるっ!!」
「卒論のこと、覚えてる?」
「うぐ……今は就活終わった余韻に浸らせてよう」

 絵に描いたような八の字眉毛で呻く直樹に、二人は思わず笑みをこぼした。
 無事に四年生に進級し、就職活動を終える学生の数も徐々に増えてきた。代わりに卒業論文なるものが伊織たちに迫っているが、締切りまで大分猶予があるので心持ちは随分と軽やかだった。
 三年間で単位を落とすことがなかった伊織は、大学の講義はほとんどないも同然だった。週に五日のシフトでアルバイトをしながら、着々と卒業論文の執筆を進めている。伊織は実に堅実な学生であった。

 すっかり食べ慣れてしまったカフェテリアのカレーライスをつつきながら、直樹が目を輝かせた。

「卒論はいったん置いといてさっ! 卒業旅行すっごいたのしみなんだけど!」
「そうだね。ホテルは早月が探してくれてるんだっけ?」
「ああ。でもあれ、全員好き勝手言うからさ、マジで探すの大変なんだけど」
「そこを何とかできるのが早月様じゃん~? よろしくお願いしま~す!」
「調子のいい奴だな」

 環は呆れたような顔をする。
 同じゼミの男子数人に直樹を加え、学部でも仲の良いグループでの卒業旅行になる予定だった。
 比較的早い段階で就活を終えた者たちが企画側に回っていて、環もそのうちの一人である。
 ちなみに、直樹と何回目かの復縁を果たした例の男もメンバーには含まれている。旅行直前に喧嘩別れでもされたら気まずいだろうと思うのが普通だろうが、くっついたり離れたりを繰り返すカップルであるから、なんとかなるだろうと大して気にしていなかった。

「二人は他にどっか行くの? 海外行く?」
「あー、海外はサークルで行くかな」
「アメリカだっけ? いいなあ、お土産買ってきてね」
「あっ、俺も欲しい~! 浅葱は国内だけ?」
「うん。その予定」

 伊織は玲子からアメリカ旅行の話を聞いていた。なんでも毎年サークルの恒例行事となっているらしい。
 対する伊織は海外までは出向かないものの、他にも幾つか卒業旅行の計画を立てている。
 龍成や優斗といった気の置けない友人たちとの旅行も楽しみであるが、伊織には思わず心が上擦らずにはいられない計画があった。
 密かに隣の環の顔を窺おうとしてがっつりと目が合ってしまった。息を呑んだ伊織に、環の唇が悪戯っぽく弧を描く。テーブルの下で、こつんと膝が触れ合う。

 就職活動中に時折こぼしていた温泉という単語を環は覚えていたようで、つい先日卒業旅行として温泉に誘われたばかりだった。
 熱海に一泊二日の小旅行。別にこれといって珍しいものでもない。しかしながら、旅行のことを考えるととても落ち着いてはいられない。伊織と環の二人きりだなんて。
 伊織は直樹に気付かれないように視線を逸らす。直樹の前では話すことが躊躇われる内容だ。それは直樹を爪弾きにしているという意味ではなく、あくまで誤解を防ぎたいという気持ちによるものだった。
 温泉旅行なんて、いかにも艶っぽくていけない。伊織と環はそういう関係ではない。キスをすることはあるけれど、あれはストレス軽減のための単なるじゃれ合いなのだ。そうこじつけることにしている。
 だから直樹にも誰にも話していない、秘密の計画。その背徳感が余計に伊織の胸をざわつかせているのだが、伊織にその自覚はなかった。


 夕方からのバイトのシフトをそつなくこなし、クローズ作業も手早く終えてしまう。大学一年生の頃から働き続けているので、もう大概のことは目を瞑ってもできるだろう。

「浅葱くん」
「うわあ、何……!?」

 無心で箒に溜まった埃を削ぎ落としていると、落ち着いた高音が背後から伊織を呼んだ。弾かれるように立ち上がった伊織は、目を丸くして後ろを振り返った。
 伊織に声をかけた張本人は不服そうな表情を浮かべている。

「何よ、幽霊でも見たような顔して」
「か、樺地さんが急に呼ぶのが悪いよ……」

 ミス・クールビューティーこと、樺地玲子。
 伊織と玲子の付き合いも随分と長くなった。バイトのシフトも被ることが増えたし、二人で食事に行くことも多い。
 恋敵でもあり、同じオメガでもある玲子には何も隠さなくていい。その関係性が伊織にとっては心地好い。

「どうかした?」
「貴方、明日の予定は?」
「何もないけど……」
「じゃあ決まりね。この後、飲みに付き合いなさい」
「ええっ!?」
「ほら、早くクローズして帰るわよ」

 玲子も玲子で全く遠慮をしない。困惑する伊織を置いて、さっさと後片付けに行ってしまう。
 残された伊織は自分に拒否権がないことに苦笑しつつ、一方で、これほどまでに強引なのは珍しいと感じていた。

 こんな時間でも気軽に立ち寄れるところがファミレスの利点だろう。
 飲みに行く、と言っていたのでてっきり大衆居酒屋にでも行くのかと思っていたが、玲子が選んだのは駅に近いファミレスだった。

「あ、でも飲むんだ」
「飲みに行くって言ったでしょ」
「まあ、そうだけど」

 それほど腹が空いているわけでもなく、伊織が適当につまめるものを選ぶ傍らで、玲子はワインを注文しようとしていた。伊織も飲むかと問われたが、首を横に振る。なんとなく今日の玲子は潰れてしまう気がしたのだ。
 注文したものがテーブルに並べられて早々に玲子はワイングラスに手を伸ばす。その上品な出で立ちに似つかわしくない豪快さで中身を呷るので、伊織は目を丸くした。
 本当に大丈夫だろうか。おそるおそる尋ねようとした伊織の言葉を遮るように玲子が言い放った。

「告白したの」

 唐突な爆弾発言に伊織はあんぐりと口を開けた。呆然と自分を見つめる伊織に、玲子は小さく鼻を鳴らす。

「ねえ、聞いてるの? わたし、早月くんに告白したのよ」
「え……あ、ああ……聞いてるよ。聞いてるから、びっくりしてるんだけど……それ、いつの話?」
「一昨日」

 一昨日。玲子の言葉を伊織は意味もなく繰り返した。突然の展開に伊織の脳みそは理解するだけで必死である。
 もちろん事前に玲子から聞いていたわけでもなく、環がそのような素振りを見せたこともなかった。そんな伊織の様子を見て、玲子は小さくため息を吐く。

「なんだ、早月くんから聞いてなかったのね」
「早月はそういうことは自分から言わないから……」

 特に伊織が玲子と親しいことを知っているから尚更。
 玲子はあっという間にワイングラスを空けると、再び同じものを注文していた。伊織はそっと玲子の方へ水を差し出した。
 不満そうにしながらも素直に玲子はそれに口をつける。少し落ち着いたらしい。

「でも、どうして急に?」

 伊織の疑問は解決できていない。
 玲子とは頻繁に顔を合わせている。しかしそんな様子など全く見せていなかったではないか。

「別に勝算があったわけじゃないわよ。ただ、就活も終わったし、区切りをつけておきたくて」
「区切り?」
「だって、卒業したら会わなくなってしまいそうなんだもの」
「だから……今?」

 玲子の言い分であれば、もう少し先でも良かったのではないかと思うところもある。玲子は伊織が頼んだフライドポテトを口に運びながら、軽やかに微笑んだ。

「今なら、失恋の慰めを学生のうちに見つけられるでしょう?」
「失恋、って」

 つまり、結果はそういうことなのだろう。伊織の浮かべる複雑な表情を、玲子は顔を顰めて嫌がった。

「ねえ、その顔、やめてくれないかしら。ライバルが玉砕したんだから、大手を振って喜びなさいよ」
「そんな性格悪くないよ……」
「憐れむ方がよっぽど性悪だと思うけど?」
「もう……ああ言えばこう言う」

 伊織はため息を吐いた。軽口を叩く余裕はあるらしい。落ち込んではいるのだろうが、そこまで弱っているということではないのだろう。もしくはただのカラ元気か。
 玲子は再び目の前に置かれたワイングラスを手に取ったが、先程のように一気に流し込むようなことはしなかった。
 玲子は目を伏せた。グラスに口をつけるわけでもなく、くるりくるりと葡萄色を揺らしてその水面を追っている。
 伊織は黙ってその様子を見つめていた。ここは何を言うでもなく、玲子の言葉に耳を傾けることが玲子が望んでいることだと思ったのだ。

 暫しの沈黙の後、玲子が口元を緩ませながら呟いた。
 その笑みには諦めが滲んでいる。

「……樺地は友人だからって言われたの。割とあっさり、スマートにね」
「早月らしいね」
「そうよ。告白され慣れていて腹が立ったわ。……でも、言って良かったと思ってるの。心からね。だから、浅葱くんにも話せてる」
「……そっか。樺地さんって、凄いなあ」
「そうでしょう。わたしって凄いのよ」

 しんみりとした空気に玲子は片眉を器用に吊り上げながら首を傾げた。

「新しいことでも始めてみようかしら。わたしが一番になれるもの。何かある?」
「うーん……あ、ゲームとかは?」
「やったことはないけれど……シューティングゲームは気になるわね。こう敵を、バンッ、と……爽快なんじゃない?ランキングとかもあるって言うし」
「うん、いいね……いいと思う。きっと向いてるよ」

 気丈に振舞ってはいるが、玲子の表情は少し寂しそうだった。伊織の胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
 想いを告げられない伊織には、玲子の姿が眩しく見える。ほんのりと胸に広がる苦さは、自分の狡さに対するものだ。
 それを誤魔化すかのように伊織は口を開いた。

「……今日は奢るね」
「あら、いいの?」
「そのつもりだったでしょ」

 玲子はライバルの前に友人である。伊織がそう申し出ると、玲子は機嫌良さそうにデザートメニューを眺め始めた。


 空になった皿を適当に重ねてテーブルの隅に寄せる。ワイングラスを二杯空けた玲子の前には、デザートのティラミスが鎮座していた。
 玲子はティラミスに舌鼓を打ちながら、吹っ切れたかのように告白の時のことを話し始めた。

「早月くんったらフリーズしたのよ、一瞬。まるでわたしが好意を寄せてるなんて気が付いてなかったみたい」
「あー……早月って鈍いところあるからな」
「鈍感というより、眼中にすら入ってなかったんじゃないかしら。ああ、腹立つわね……」
「すんごい怖い顔してるよ」
「あら、ごめんなさい」

 全く思っていないような口振りだった。
 そうしてふと思い出したかのように、玲子はその細い指先を顎に添えながら首を傾げる。

「そういえば……わたし早月くんに好きな人がいるのかって、率直に聞いたんだけれど」

 伊織は心臓がひっくり返ったような心地になった。
 玲子の次に口を開く瞬間が恐ろしくなり、背中に冷や汗が伝う。

「うまいこと、はぐらかされちゃったわ」
「そ、そっか……」

 安堵と落胆が同時にやってくる。実に複雑な感情だった。
 しかし、続いた言葉がその油断したところを的確に突いてくる。

「でもそれでかえって確信しちゃった。彼、過去の恋愛を引きずってるんじゃないかしら」

 過去の恋愛。
 気が緩んだところにぬるりと、冷たい氷が伊織の心臓に刺さったような感覚に襲われた。

「……なんで、そう思ったの?」
「恋人関係は長続きしないし、付き合う人のタイプもバラバラ。告白された時のはぐらかし方も妙だし、あとは……結局勘だけれど」

 玲子の勘はかなり鋭い。いや、伊織が鈍いだけなのかもしれない。ふと頭の片隅に親友の顔が思い浮かんだ。
 伊織の呼吸が浅くなる。そんな伊織の様子の変化を、玲子は目敏く察したようだった。

「心当たりあるの?」
「………幼馴染、とか」

 環が特別に想いを寄せそうな、昔馴染みの相手と言えば、思い浮かぶのは一人しかいない。
 人懐っこく、可憐で、そして少し天然な幼馴染。

「……すごく、いい子なんだ。ほっとけないタイプで、かわいい」
「典型的な幼馴染ね。少女漫画みたい」

 玲子が呟いた。伊織たちのテーブルを陽気なファミレスとは不釣り合いな静寂が包み込む。

 伊織が目を背け続けてきた現実に向き合わなければならない時が、すぐそこにまで迫っているようであった。
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