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大学生編

甘夏①

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 波乱の春休みが終わり、春の陽気を感じる暇もなく、今年は少し早めの夏がやって来た。梅雨明けから蒸すような暑さに悩まされ、七月に入るとすっかり太陽もそれらしい顔をしている。
 伊織は少人数用の講義室で、最近はそれなしには生きて行けなくなってしまった冷房の風を頬に受けながら、ぼんやりとホワイトボードを眺めていた。

「和泉式部は情熱的な恋愛をした女性で、恋愛にまつわる有名な歌をたくさん詠んでいるんですよ」

 悪く言えば単位稼ぎでしかないこの選択科目は、おっとりとした婦人が担当している。目の前で眠っている他学部の生徒に目もくれず、楽しそうに話をしていた。
 伊織はつられて出てきそうになった欠伸を噛み殺した。ゼミの課題にアルバイト、そこに就職活動も加わって睡眠時間が足りていない。堂々と居眠りをするわけにもいかないが、睡魔がすぐそこに迫っていては集中できそうになく、講義とは関係のないことを考えてしまう。

「たとえば、この歌は……どうでしょう。百人一首で見たことがある人が多いんじゃないかしら」

 伊織はやや右肩上がりの教授の文字が、ホワイトボード上で踊るのを眺めている。
 毎回、ただこうやって話を聞いている。この手の講義は学生たちからの人気は高い。伊織は事前にシラバスを見て興味を持った講義を選んでいるが、つい周りの空気に呑まれてしまっている。

 春休みは本当に大変だった。
 例のストーカー男の実家はそこそこ裕福で、揉み消されはしなかったものの、大事にしないで欲しいと頼み込まれてしまった。伊織は二度と関わりたくなかったので了承したが、謝罪は受け入れなかった。男が写真など収集していたものを全て処分させることで決着はついた。
 ただ、伊織は母親と口喧嘩をしてしまった。事件が終結した後、学生寮ではなく、オメガ専用のセキュリティがより頑丈なアパートに引っ越せと言われたのである。当然そうすれば、掛かる費用は寮生活の何倍にも膨れ上がる。母親はその分の仕送りをすると言ってくれたが、伊織はそれを良しとしなかった。
 顔も知らない父親から支払われた金が、伊織のためにと貯えられていることは知っている。その貯金のおかげで、これまで伊織は周りと同じように学生生活を送ることができてきたのだが、なるべくそれに頼りたくはないのが本音だった。
 半月に渡る口論の末、母親の方が渋々引き下がってくれた。寮も今回を機に内部の点でのセキュリティも見直すことにしたという。伊織は引き続き学生寮での生活を続けている。
 ただし、部屋は変えてもらった。あの部屋に足を踏み入れる気が起きなかった。

「もうすぐ死んでしまうから、あの世に持っていく思い出として恋しい人に会いたい──────現代の言葉で言うと、こんな感じですねえ」

 ホワイトボードに書かれた和歌は、確かに小学校の百人一首大会で見たような記憶がある。
 そういえば、あのストーカーは今期から休学しているらしかった。なんでも精神を病んで療養しているという。詳しくは知らない。

「死の間際でさえも恋しい人を想うこの歌は、彼女の恋多き人生そのものが滲み出ているとは思いませんか?」

 疑問形で話してはいるが、初めから学生たちの同意を得ようと思っていないのだろう。教授は満足気な顔をして、話を続けていた。

「なあ、今日って何時から?」

 環の問い掛けに、伊織は視線を手元から外した。ノートパソコンの傍らに伏せていたスマホを軽く操作して、時間を確認した。

「六時だよ」
「あー、そっか……」

 何やらスマホに文字を打ち込んでいる。伊織はそんな環の姿をちらりと盗み見た。
 環は夏になるといつもより少し髪が短い。爽やかな好青年だ。
 冬は襟足を伸ばしていることもあるが、夏はばっさりと切っていて、その白い首筋が剥き出しになる。環は元から色白で、夏でもほとんど日焼けしない。
 今夜はゼミの三年と四年の合同の飲み会がある。伊織はそれまでになんとかこのレポート課題を終わらせてしまいたいのだが、中々難しそうだった。これを片付けたうえで、あと二週間先に迫ったテストを迎え撃ちたい。残ってしまったら明日やろう。

「なになに、今日飲み会?」

 伊織の隣でキーボードを叩いていた河内が、図書館という場所を考えてか、少々声を抑え気味に首を傾げた。その髪色は黒に近く、すっかり落ち着いてしまっている。

「そうだよ。ゼミのやつね」
「えー、いいな。浅葱たちんとこ仲良くて」
「河内のところはそもそも人数少ないもんね」
「そうなんだよー……あ、今度俺も参加していい~?」
「仮に良いって言ったとして、逆に河内はいいの? あの人いるけど……」
「……げ、そうじゃん」

 直樹は顔を顰めた。あの人、というのは直樹の元恋人。三年に上がってすぐの頃に、売り言葉に買い言葉で喧嘩別れをしたという。もう二度と縒りを戻さないと豪語していた。
 いつも通り環と伊織は復縁までの期間に、高級アイスを賭けている。

「あーあ、俺もそっちにすれば良かったなあ」
「そういうので決めてもいいことないよ」
「それはそうだけどさ~……」

 直樹は唇を尖らせた。伊織と環は同じだが、直樹だけは違うゼミなのだ。
 しかしゼミが違うからといって疎遠になるわけではない。現にこうして、講義のない時間には集まって各々課題に取り組んだり、カフェテリアで雑談をしたりする。

「ほら、機嫌直して。今度行こうね」
「行く~! そういえば浅葱と飲みに行ったことないよね? 早月とはあるけど」
「そうだね。なんなら早月と飲んだこともないし……」
「えっ、あんなに二人で遊んでんのに?」
「俺が普段飲まないから」

 実は伊織は環と飲みに行ったことがなかった。環が早生まれということもあるし、そもそも伊織も酒飲みではない。基本的に土日は朝からバイトであることが多いし、大して強くもないので、外で飲んだ経験は両手に収まるくらいだった。
 直樹の眉間に薄らと皺が寄った。

「そっちのゼミ飲みって結構激しめじゃなかった? 浅葱気を付けなよ~?」
「大丈夫だよ。今どきアルハラとかないでしょ」
「んー……そうだけどさあ、浅葱はちょーっと鈍いからな~。……早月ぃ」
「当然だろ」

 何故か二人が拳を合わせている。伊織は思わず呆れてしまった。春休みの一件があってから、この友人たちは時々伊織に過保護になる。
 心配させてしまっている罪悪感はあるが、伊織も別に酒くらい普通に断ることはできるのだ。楽しくて少しばかり羽目を外すことはあるかもしれないが。

「心配しなくても大丈夫だってば」
「はいはい」
「本当なんだけど」
「分かった分かった」

 伊織が言っても二人は生返事しか返してこない。伊織はむっとした顔をしたが、やがてため息を吐いた。ムキになってしまったらそれこそ子どものようである。
 伊織は再びパソコンに視線を戻して、少しでも課題を進めるべく集中し始めた。
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