さみだれの初恋が晴れるまで

める太

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大学生編

執着というもの②

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 後期の期末テストも終わり、春休みがやってきた。
 長期休みは稼ぎ時なので、伊織も張り切っている。今日は早速やって来た五連勤の最終日になるはずだった。

「えっ、臨時休業ですか?」
「そうなの、水道管が破裂しちゃって。業者さんが午後にしか来れないって言うから、泣く泣くね」
「そうでしたか……分かりました」
「ごめんなさいね」

 伊織は来たばかりのバイト先から、店長の困ったようなため息を後ろに引き返す。
 つい先程のことらしい。唯一幸運だったのは店を開けたばかりで、まだ客の出入りが少なかったことだろう。
 突然、一日の予定がぽっかりと空いてしまった。
 一人でこのまま映画館に行くというのはどうだろうか。丁度気になっていた映画の上映が始まっている。
 地元では上映されないようなマイナーな映画もこちらでは観ることができる場合が多いので、伊織の鑑賞済みの映画のメモは増えていくばかりだった。

「んー……やっぱり帰ろ」

 誰に話すでもなく独りごちる。それもいいが、あまり気分は乗らなかった。折角降ってきた丸一日何もない休みだから、たまにはゆっくり過ごすのも良いかもしれない。
 休みの日の学生寮は皆引きこもっているのか出払っているのか、いつもよりも静かだ。四階まで上がって、部屋の前に辿り着いた。
 鍵を取り出して、いつもの様に鍵穴に差し込もうとする。伊織の手が止まった。

「………あれ?」

 鍵が、開いている。

 閉め忘れだろうか。いや、伊織は出掛ける際にはドアノブを捻って、戸締りしたことを確認している。これはもう癖のようなもので、伊織が閉め忘れたということはあまり考えられなかった。
 しかしそれでは、この状況はなんだというのだ。説明がつかない。
 背中から首筋にかけて、ぞわりと冷たいものが這い上がる。
 音を立てないように、静かにドアノブを引いた。やはり開いている。しかし細まった隙間から見えている光景に、特に違和感はない。
 息を殺す。そろりと玄関に足を踏み入れて、後ろ手にそっと扉を閉めた。違和感はないが、なんだかいつもよりしんとしている気がする。

「……っ!」

 伊織のポケットの中でスマホが鳴った。伊織は大きく肩を跳ねさせて、スマホを取り出す。
 メッセージアプリの通知だった。相手は直樹。
 見知った名前に気が緩んだ。送られてきたメッセージを確認しようと画面に触れようとした時だった。

 ガタン、と物音がした。

 はっと伊織が顔を上げる。にゅうっと視界の端から人の腕が伸びてくる。
 驚きの声も恐怖の声すらも上げる隙を与えなかった。その手が伊織の口元を覆う。
 突然のことに頭が真っ白になる。それでも本能的に危機を察知している脳みそが、得体の知れないものから逃げ出そうと指令を出す。伊織は手足をばたつかせるが、しかしそれは凄まじい力でぴくとも動かなかった。
 段々と、あまりにも無機質な扉が暗く狭まっていく。駄目だと思った。頭が、体が言うことを聞かない。
 最後の力を振り絞って伸ばした伊織の手は宙を掻き、やがてぐったりと落ちていった。


「…………ん」

 伊織はゆっくりと瞼を持ち上げる。ぼんやりとした頭で幾度か瞬きを繰り返す。
 目がその薄暗さに慣れてみると、見慣れた部屋の天井を認識した。ベッドの上だった。
 意識を失う直前のことが一気に甦った。伊織は飛び起きようとして、自分の体が思うように動かないことに気が付く。

「んっ……!? ……んんーーっ……!」

 腕と足を何かで縛られている。それだけではなく、口元もガムテープのようなもので覆われていて、意味をなさない音だけが無情にも響いていた。
 背中に冷や汗が伝う。心臓が不安を訴え、そしてそれを更に煽るように何度も脈打っている。混乱のあまり真っ白に飛んでしまうのを耐えながら、伊織はどうにか脳みそを回転させた。
 どうしてこんなことになっているのか。どうやって逃げ出すか。どうしよう。

「……っ!」

 寝室の扉が音を立てた。伊織の体が石のように固まる。扉が開いていく光景がいやにスローモーションに見えた。

 誰だ。

「あ、浅葱くん……起きた…………?」

 前髪に唯一隠れていない口元がへらりと歪む。伊織は身の毛がよだつような心地がした。
 寝室に入ってくる、猫背の男。名前は知らないが、何度も何度もその姿を見たことがある。
 気にも留めていなかった。なぜなら、この男は同じ学部の学生だ。しかし考えてみれば、不自然なことはあった。それを見逃していたのは伊織だ。

「今日は……バイトじゃ…………ビックリした……でもそれで……」

 早口で何か言いながら男がベッドに近寄ってくる。伊織は男の顔を睨み付け、身を守るようにぎゅっと体を縮こませる。
 そんな伊織を気にすることなく、男がベッドの脇に腰を掛けた。

「は、はは…………浅葱くんだ……ゆ、夢みたいだ」

 うっとりとした口調で男が呟き、手を伸ばす。それを避けるように身を捩るが、男は伊織の肩をがしりと掴んだ。
 その力の強さとは裏腹に男の表情はまだ夢見心地であった。

「…………っ、俺、いまっ……浅葱くんに、触ってる…………?」
「んんっ!!」

 ベッドに乗り上げて男が更に伊織に体を寄せていく。男のもう片方の手が伊織の体の線を確かめるようになぞった。首筋から腰へ、そして腿にかけて、男の手が服の上を這う。
 男の手が蛆虫のように思えた。猛烈な不快感に吐き気すら催す。伊織は自由のきかない体で必死にもがいたが、所詮蜘蛛の巣にかかった蝶である。

「…………っう……」

 妙に生暖かい手のひらが服の裾からぬるりと潜り込んでくる。それが上へと滑って、素肌が冷んやりとした外気に触れた。
 伊織の生白い腹や細い腰をねっとりと撫で上げる。傍若無人に這い回る手のひらが、寒さに固くなった胸の飾りを覆うようにして揉み上げた。悔しさと恐怖で涙が滲む。
 伊織が嫌がって身を捩る度に、その滑らかな肌が薄ぼんやりと光って、男は食い入るようにその様を眺めた。

 男は息を荒らげて、何やら呟いていた。綺麗だの可愛いだの、伊織にとっては耳を塞ぎたくなるような言葉ばかりだった。
 男が伊織の首元に顔を寄せる。伊織の体が強ばった。

「はぁ…………いい匂い」
「っ!!」

 恍惚とした囁きに、伊織は視界が真っ赤に染まった。
 口に出すのもおぞましいような怒りが、腹の底をぐちゃぐちゃに掻き乱した。それと同時に、気が遠くなるような嫌悪感も湧き上がる。

「…………せ、石鹸? みたい……あ、あああ…………浅葱くんっ、夢じゃないんだね…………! 浅葱くんが、ここに、ここにいる……っ!」

 男の興奮まじりの吐息が肌をなぞる。伊織は堪らず顔を背けた。

「浅葱くん…………いつも、優しくて……控えめにに、笑うところも、かわいい…………っでも、疲れてるときの……顔は、え、えろいよねぇ…………お、俺……君の、君の好きなもの、全部知ってるんだよ……っ! 俺、そのくらい……好きで、好きで好きで好きでっ! ずっと見守ってたのに……毎日毎日毎日、ずーーーーっと……」

 男の声色が、段々と失望や落胆を帯びていく。

「それで、良かったのに…………なんで……あ、浅葱くんが、よりにもよって、……オメガだったなんて…………」

「……!?」

 伊織は目を見開いた。
 どうして。
 どうして、この男が、伊織がオメガであることを知っているのだ。
 伊織の脳裏に以前この男とぶつかった時のことが過った。あの時、驚きに固まっていた男が見ていたのは、伊織のポーチだ。抑制剤を持ち歩くためのもの。
 伊織は自分の不用心さを後悔した。しかしそれもこうなってからでは遅い。

「裏切られた…………オメガなんか……クソ、クソ…………この淫乱…………!」

 まるで呪詛のようだ。前髪の隙間から薄らと男の目が見える。どろりとドブのように濁った色に、伊織は身震いをした。

 男は不意に口を閉じた。盛大なため息を吐く。
 伊織の体が大袈裟なくらいに跳ね上がった。

「でも、それはもう、仕方ないよね…………でも、でも…………それならさ……」
「っぐ!」

 男が伊織の腹を強く押した。伊織は眉を顰め、重みに呻く。
 かと思えば、今度はまるで労わるようにそこを撫でた。

「…………浅葱くん、俺とっ…………俺との赤ちゃん、つくろう? …………はは、ははははっ………きっとかわいいよぉ…………!! 浅葱くんの赤ちゃん……!!」

 男が伊織の下腹部を擦る。猫撫で声といい、その粘り気のある手つきといい、伊織に無理矢理それらを想起させようとする仕草だった。
 女の子なら、名前には星を入れたものを。男の子なら空を入れたものを。男の声は優しげな父親を偽装している。
 それが気持ち悪くて堪らなかった。

「んーっ、んーーっ!!!」

 伊織は言葉にならない叫び声を上げながら首を横に振った。
 じたばたとのたうち回るせいで安物のベッドが軋む音がする。このまま暴れていれば、気が付いて誰か来てくれないだろうか。

「…………あ、浅葱くんも……嬉しい? 嬉しいよね…………! ……はは、俺との……赤ちゃん……! 三人は、欲しいなぁ……! だ、だから、頑張ろうね……子作り、……っ!」

 男の頬が赤く染る。
 何が見えているというのだ、この男には。なんだ、この化け物は。伊織はおぞましい何かを見るような目を向けた。しかし男には、その姿が映らない。

 おもむろに、男が体を離した。ベッドから降りて寝室を出ていく。
 伊織が逃げ出そうと視線を巡らせる合間に、今までにはなかったケースを手に戻ってきた。

「あっ……ああ、これ…………これはね…………痛くない……痛くないよぉ、………あ、浅葱くんが…………き、き、きもちよくなれる……お薬だからね……っ!」

 伊織の視線に答えるように、男は嬉しそうに言った。ケースの中から取り出した注射器を伊織に見せ付ける。
 伊織はガムテープの奥で悲鳴じみた声を洩らした。

「お、オメガに……使うと、強制的に……ヒートを起こせる、らしいんだ。……よっ、……よく知らないけど……合法だよ…………大丈夫、大丈夫だから、ね」
「んーーっ!」

 合法なわけがあるか。
 伊織は吐き捨ててやりたかったが、やはり言葉はただの呻き声に変わってしまう。

 ゆらりと男の体が揺れた。
 一歩一歩、踏みしめるようにベッドへと近付いてくる。
 伊織はベッドの片隅まで体を寄せた。壁に肩がぶつかる。鈍い音と痛みが走る。
 悪夢であって欲しかった。肩に走る痛みが、現実だと思い知らせてくる。

「っ、浅葱くん………愛してるよ…………し、幸せな家族になろうねっ…………!」

 恐怖に見開かれた伊織の目が、男の姿を映した。その時、その背後の、デスクの上のペンギンと目が合う。
 はにかみ顔のペンギン。環と、お揃いの。伊織の視界がぼんやりと歪んだ。

 環。誰よりも環に会いたい。

 現実は惨い。ギシ、と増えた体重分の軋む音が鳴る。男の荒く熱っぽい息遣いが近寄ってくる。
 伊織は固く目を閉じた。
 押し出された水滴が、頬を伝って落ちていった。
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