さみだれの初恋が晴れるまで

める太

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大学生編

恋敵①

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 六枚切りの食パン一枚で軽く朝食を済ませた後、水で抑制剤を流し込む。
 昨日の朝からなんだか熱っぽく、体が怠かった。前の発情期ヒートが来てから丁度三ヶ月になる。

「……よし」

 バッグに抑制剤が入った透明なポーチが入っていることを確認して、伊織は部屋を出た。
 今日も朝からバイトのシフトが入っている。
 土日は寮の食堂がやっていないので、一階の共用スペースも幾分か静かである。
 廊下の壁に貼り出されたポスターを眺めながら伊織は歩いていた。
 カラスのゴミ漁りが酷いらしい。ゴミ捨て場のボックスをきちんと閉じるようにという注意書きが目についた。

 薄手の長袖が過ごしやすい気温になってきた。長い夏休みも終わり、二週間前から後期の講義が始まっている。
 伊織は変わらず、大学の駅前のコーヒーチェーン店でアルバイトをしている。
 そこそこ混み合う時間帯を上手く乗り越えて、丁度一息ついたところだった。
 伊織がレジのレシートの交換をしていると、男性の鼻につく声が聞こえてきた。

「なあ~、お姉さんめっちゃ可愛いね」
「……お支払いの方法はどうされますか?」
「現金現金。ていうか、ねえ、連絡先交換しない?」
「そういうのは困ります」
「ええ、いいじゃん。じゃあSNSは? そっちならいいでしょ」
「SNSはやっておりませんので」

 伊織は思わず隣へ視線を向けた。久しぶりにシフトが被った玲子が、サラリーマンらしき男に絡まれている。
 凛とした口調でぴしゃりと跳ね除けても、男性はしつこく食い下がっていた。
 中々諦めが悪いらしく、何度か同じようなやり取りを繰り返す。段々と玲子の声色が、接客業には不釣り合いなくらいに冷ややかなものになっていく。
 見兼ねた伊織が割って入ろうと口を開いた瞬間、玲子が耐えきれないと盛大なため息を吐いた。

「はあ……迷惑だと申し上げているのが分かりませんか? これ以上何か仰るなら、警察を呼びますよ」
「なっ…………!」
「お支払いは現金でよろしいですよね」

 歯に衣着せぬ物言いに、伊織の顔も引き攣る。
 男の顔が茹で蛸のように真っ赤になった。玲子は虫けらでも見るような目をしている。
 湧き上がる怒りからか男の体がぷるぷると震えて、拳を握り締めている。伊織の体に緊張が走るが、男は舌打ちをするだけに留まった。
 投げ付けるように差し出された紙幣を受け取って、玲子がお釣りの小銭を渡す。
 男はまた舌打ちをして、地面に響くような乱暴な足音を立てながら玲子の視界から外れた。
 伊織はほっと胸を撫で下ろす。一瞬、暴力沙汰になるかと思って身構えてしまった。
 一方、当の本人は何事もなかったかのような澄ました顔をしている。見目の良い彼女にとっては、よくあることなのかもしれない。
 それにしても、あの対応の仕方は心臓に悪い。見ているこっちが冷や冷やするのだ。何事もなくて良かったけれど。

「浅葱さんー、すみません。ちょっとこっちいいですか?」
「あ、はーい」

 キッチンの向こうから年下の同僚が伊織のことを呼んでいる。伊織は既に別の客とのやり取りをしている玲子に背を向けて、その場を後にした。

 伊織がキッチンから戻ってくると、先程の男性客が玲子に何やら話し掛けている。
 懲りずに口説いているのかと思ったが、様子がおかしい。

「だからさあ、さっき俺は五千円を渡したんだってば」
「いえ、確かに千円札をお預かりしました」

 なんでも先の会計で玲子がお釣りを渡し間違えたと主張しているらしい。
 しかし玲子は余程自信があるのか、毅然とした態度を崩さない。

「はあー? 何? 俺が嘘ついてるって言ってんのか、よっ!!」
「っ!」

 男性客がカウンターを叩き、大きな衝撃音が響く。玲子の華奢な肩がびくりと揺れた。

「俺は、お前に五千円札を渡したんだよ! 四百三十二円の会計で、お釣りが小銭だけなわけがないだろうが!!」

 男性客はカウンターに身を乗り出して声を荒らげる。その大声に、近くの客が好奇の目を注いでいる。

「ですから、私は確かに千円を……」
「確かに確かにってさあ、お前、証拠はあんのかよ!」
「……ではレジ金を確認します。今責任者を呼んできますので」
「俺はこれから大事な商談があるんだよっ! 待ってる時間なんかないんだけど!?」

 狡猾な目付きで、男性客がその指先で小刻みにカウンターを叩いている。まるで相手を精神的に押し潰そうとしているかのようだった。
 こういったトラブルの際には店長を呼ぶことになっているが、生憎問い合わせの電話に出ている姿を見かけたばかりだ。すぐには対応できないだろう。
  
「さっさと正しい金額渡して謝れよこのっ……!」
「申し訳ございません。お話を伺ってもよろしいですか?」

 伊織が男性客の言葉に割って入る。
 男性は突然横から現れた伊織に、少々面食らったようだった。
 しかしすぐに顔を歪めて、玲子を指差した。

「この女が間違って釣りを渡した癖に認めないんだよ。ちょっと見た目がいいからって、計算もできない奴を雇ってるとか、この店はどうなってるわけ?」
「左様でございますか。ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」

 謝罪の言葉を述べながら伊織は前に出て、さりげなく玲子を後ろへと押しやる。玲子が何か言いたげに口を開いたが、結局唇を一文字に引き結んだ。
 男性客はその様子に気付くことなく、ようやく自分にへりくだってくれる相手が来たことにやや機嫌を良くしたようだった。

「いやさ、俺もすぐに確認しなかったのは悪いよ? でもさ、客が言ってんのに私は悪くないです、の一点張りって良くないと思わない?」
「ええ、仰る通りです。本当に申し訳ございません」

 伊織は頭を下げる。
 そして心苦しいと言わんばかりの表情を崩さぬまま、小さく首を傾けた。

「ここには防犯カメラがついておりまして、今すぐ確認して参りますね」
「へえっ?」

 男が間抜けな声を上げる。
 目を丸く見開いた顔がカエルのようだと思いながら、それをおくびにも出さず、伊織は穏やかに続ける。

「つい先程の出来事ですから、確認するのにそう時間はかかりません」
「おっ……客を疑うのか!?」
「滅相もございません。もしこのままお釣りをお返しして、また正しくないということがあってはお客様のお手を煩わせてしまいますから」
「な、なっ………」
「あちらの席でお待ちください。ものの五分で確認を」
「もっ、もういい!!」

 男は吐き捨てるように伊織の言葉を遮ったかと思えば、逃げるように駆け足で店を出て行ってしまった。
 本当にどうでも良くなってしまったのか、防犯カメラで確認されるとマズいと思ったのか。定かではないが、伊織の目的は達成できたのでどちらでも良かった。
 勢い良く開け放たれた店の扉が、ゆっくりと閉じたのを見届けてから、伊織は深呼吸をした。体から一気に力が抜けていく。

「…………防犯カメラって、店長がいないと確認できないでしょう」
「まあね。でもあの人は知らないから」

 ぽつりと洩れた小さな呟きにそう返すと、玲子はそのまま口を噤んでしまった。その眉間には深い皺が刻まれている。
 すっかり落ち着きを取り戻した店内に、新しい客が入ってくる。

「ええっと、キャッシャーは俺がやるから、樺地さんは店長に報告してきてくれる? 店長の電話が終わってからで大丈夫だから」
「……分かったわ」

 玲子はすんなりと頷く。
 やってきた男女の二人組を迎え入れようとした伊織に向かって口を開いた。

「ありがとう、浅葱くん」
 玲子の声は伊織にしっかりと届いている。
 伊織はキッチンに入っていく玲子の姿を横目で見ると、ほっとしたように表情を和らげて、すぐに接客へと意識を戻した。
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