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大学生編
二年目③
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「商品をお出ししますので、あちらでお待ちください」
休日もスーツ姿といういかにも意識の高いサラリーマンを案内して、次の客と入れ替わるまでの合間に伊織はふうと息を吐いた。
今日は朝からのシフトで、アクセスの良い駅前の店舗であるためか休日も客足が途絶えない。ランチの時間帯なので尚更だ。
疲れに少しばかり重たい口角をなんとか釣り上げて、客を出迎える。
「いらっしゃいませ。ご注文は」
「まッ、……抹茶ラテ。あと……その、豆乳に変更で……」
若干裏返って食い気味の注文に伊織は目を丸くしてしまった。目の前の青年は小刻みに震えながらまだ何かを呟いている。内容はよく聞き取れなかった。
伊織は接客中であることを思い出し、すぐに立て直す。
「かしこまりました。一緒にお食事はいかがですか?」
「…………い、いらないです」
支払いを終えると伊織の言葉を待たずして、彼は猫背を更に丸くしながら行ってしまう。
大袈裟なくらい動揺しているようだったが、そんな人もいるかと深く考えることはしなかった。伊織も豆乳変更の抹茶ラテをよく頼むので、少しばかり共感したくらいだ。
伊織が次に待っている高校生に目を向けた時、隣から凛とした声が響いた。
「お次の方、どうぞ」
女子高生の二人組が隣のカウンターへと進む。あの樺地玲子が彼女たちの注文を受けている。
学部が違うため、あまり伊織と玲子はシフトが被らない。しかし休日は一緒になることが多かった。
一緒になったところで、大して会話はしないのが現実である。伊織はまだ先に続く列を見遣りながら、列の先頭で待っていた客を出迎えた。
ようやく列が途切れて、客入りが落ち着いてくる。
伊織がその隙に店内の見回りと清掃を済ませて戻ると、よく見知った男の姿を視界に捉えた。環だ。
驚いた伊織が腕時計で時間を確認した。まだ一時間と少しある。
再び視線を元に戻す。
知り合いが相手のためか、それとも別の理由か、接客している玲子の表情も心なしか柔らかく見える。環は玲子と何やら楽しげに一言二言交わした後、何気なく周囲へと視線を巡らせた。
伊織と目が合った途端、環の表情がふっと綻んだ。
「浅葱、お疲れ」
「ありがとう。俺、もしかして時間伝え間違えてる?」
「え? ……ああ、違う違う。俺が早く着いてるだけ。大学の図書館行ってたんだけど思ったより早く終わったから、時間までここで暇潰そうと思ってさ」
「なるほどね」
注文したアイスコーヒーを片手に環が伊織の方へとやって来る。伊織は環の言葉を聞いてようやく納得した。
今日はこの後二人で映画を観に行く予定だった。二人とも、吹替版もつかないようなマイナーな洋画を好むのは高校から今も変わっていない。
DVDの貸し借りもしているが、どちらかの自宅で一緒に、ということは一度もなかった。あのことがあったから。
伊織の上がりまであと一時間ほどある。その一時間を過ごすためのアイスコーヒーだったようだ。
「じゃあ、またあとでな」
「うん。ごゆっくり」
環は軽く笑って、予め確保していたらしいテーブル席へと足を向ける。伊織は緩みそうになる頬を堪えた。残りの一時間も頑張れそうだ。
伊織がカウンターの中へ戻ろうとすると、ふと玲子がこちらをじっと見つめていることに気が付いた。
「あっ、ごめんね。話し込んじゃって」
「別にいいわよ。今混んでないから」
玲子は素っ気なく言って、キッチンへと入って行ってしまった。伊織はその姿を困ったように見送る。
「いやあ、樺地さん怖いっすね」
入れ替わりでキッチンから出てきた二歳年下の同僚が伊織に声を掛けた。伊織はやんわりと首を横に振る。
「うーん、サボってると思われちゃったのは俺が悪いからね」
「そうなんですか? でもなー、あの人いつもクール過ぎるからな……」
最後の方は伊織に話しかけるのではなく、独り言のように呟きながら、同僚がドリンクの補充をしている。
伊織の知る限り、玲子はいつもキリリとした顔をして曖昧な言い方はしない。直樹はそのクールビューティーさが良いのだと言うが、この同僚のように冷たい印象を受ける人間も少なくないだろう。
しかし伊織が玲子に苦手意識を持つのはそれだけが理由ではなかった。玲子の伊織への態度は、環はもちろん、他の同僚と接する時よりも厳しい。
ストレートな物言いにはほのかに棘が含まれているし、カフェテリアで遭遇した時のように敵意を含んだ視線を投げかけられることもある。
その理由はぼんやりとだが分かっている。だから今、気まずい気持ちを味わっているのだ。
とはいえ、いつまでも考えていても仕方がないことなので、伊織は早々に切り替えることにした。
この後に楽しみが待っているということもあって、七時間のうちの一時間は瞬きをする間に過ぎていく。手早く帰る準備を済ませた伊織は、他の同僚たちに挨拶をしてから環の席へと向かった。
環は熱心に英会話の参考書を読んでいて、伊織が近寄っても気付く様子がない。
「早月」
試しに声を掛けてみたが反応がない。よく見るとイヤホンをしている。
環の席は二人席なので、伊織はそろりと向かい側の椅子に腰掛けた。それでもまるで気が付かない。
高校の時から、環にはこういうところがあった。物事に集中してしまうと、中々現実に戻ってこない。
周りの気配に鈍感になるようだが、一度、優斗が背後から驚かそうとした時は凄まじい瞬発力で躱していた。野生の勘というやつだろうか。
そんな懐かしいことを思い出しながら、伊織は環の姿を見つめていた。
環は何事もよくできる男である。しかしそれをアルファだからと片付けてしまうのは間違いだ。普段は飄々としているが、環は努力家である。生まれ持った才能を無駄にすることなく、それを淡々と磨き上げている。
少し手を抜いていると感じることはあるけれど、それも彼が穏やかに過ごすためだと知っているので、嫌味でもなんでもない。
伊織は静かに息を吐き出した。
好きだな、と思う。
それを決して言葉にはしない。伊織はそっと手を伸ばした。ワイヤレスのイヤホンの片方を、丁寧に耳から外す。
「早月」
もう一度名前を呼ぶ。
今度は届いたらしい。環がゆっくりと顔を上げた。その凪いだ水面のような双眸に伊織が映り込むと、環は瞬きをした。
「お待たせ」
「あー………お疲れ。いつからいた?」
「さっき」
「マジか。声かけてよ」
「かけたってば」
環が伊織からイヤホンを受け取って片付け始める。少々照れたように目元を染める環に、伊織も穏やかな笑みを浮かべた。
休日もスーツ姿といういかにも意識の高いサラリーマンを案内して、次の客と入れ替わるまでの合間に伊織はふうと息を吐いた。
今日は朝からのシフトで、アクセスの良い駅前の店舗であるためか休日も客足が途絶えない。ランチの時間帯なので尚更だ。
疲れに少しばかり重たい口角をなんとか釣り上げて、客を出迎える。
「いらっしゃいませ。ご注文は」
「まッ、……抹茶ラテ。あと……その、豆乳に変更で……」
若干裏返って食い気味の注文に伊織は目を丸くしてしまった。目の前の青年は小刻みに震えながらまだ何かを呟いている。内容はよく聞き取れなかった。
伊織は接客中であることを思い出し、すぐに立て直す。
「かしこまりました。一緒にお食事はいかがですか?」
「…………い、いらないです」
支払いを終えると伊織の言葉を待たずして、彼は猫背を更に丸くしながら行ってしまう。
大袈裟なくらい動揺しているようだったが、そんな人もいるかと深く考えることはしなかった。伊織も豆乳変更の抹茶ラテをよく頼むので、少しばかり共感したくらいだ。
伊織が次に待っている高校生に目を向けた時、隣から凛とした声が響いた。
「お次の方、どうぞ」
女子高生の二人組が隣のカウンターへと進む。あの樺地玲子が彼女たちの注文を受けている。
学部が違うため、あまり伊織と玲子はシフトが被らない。しかし休日は一緒になることが多かった。
一緒になったところで、大して会話はしないのが現実である。伊織はまだ先に続く列を見遣りながら、列の先頭で待っていた客を出迎えた。
ようやく列が途切れて、客入りが落ち着いてくる。
伊織がその隙に店内の見回りと清掃を済ませて戻ると、よく見知った男の姿を視界に捉えた。環だ。
驚いた伊織が腕時計で時間を確認した。まだ一時間と少しある。
再び視線を元に戻す。
知り合いが相手のためか、それとも別の理由か、接客している玲子の表情も心なしか柔らかく見える。環は玲子と何やら楽しげに一言二言交わした後、何気なく周囲へと視線を巡らせた。
伊織と目が合った途端、環の表情がふっと綻んだ。
「浅葱、お疲れ」
「ありがとう。俺、もしかして時間伝え間違えてる?」
「え? ……ああ、違う違う。俺が早く着いてるだけ。大学の図書館行ってたんだけど思ったより早く終わったから、時間までここで暇潰そうと思ってさ」
「なるほどね」
注文したアイスコーヒーを片手に環が伊織の方へとやって来る。伊織は環の言葉を聞いてようやく納得した。
今日はこの後二人で映画を観に行く予定だった。二人とも、吹替版もつかないようなマイナーな洋画を好むのは高校から今も変わっていない。
DVDの貸し借りもしているが、どちらかの自宅で一緒に、ということは一度もなかった。あのことがあったから。
伊織の上がりまであと一時間ほどある。その一時間を過ごすためのアイスコーヒーだったようだ。
「じゃあ、またあとでな」
「うん。ごゆっくり」
環は軽く笑って、予め確保していたらしいテーブル席へと足を向ける。伊織は緩みそうになる頬を堪えた。残りの一時間も頑張れそうだ。
伊織がカウンターの中へ戻ろうとすると、ふと玲子がこちらをじっと見つめていることに気が付いた。
「あっ、ごめんね。話し込んじゃって」
「別にいいわよ。今混んでないから」
玲子は素っ気なく言って、キッチンへと入って行ってしまった。伊織はその姿を困ったように見送る。
「いやあ、樺地さん怖いっすね」
入れ替わりでキッチンから出てきた二歳年下の同僚が伊織に声を掛けた。伊織はやんわりと首を横に振る。
「うーん、サボってると思われちゃったのは俺が悪いからね」
「そうなんですか? でもなー、あの人いつもクール過ぎるからな……」
最後の方は伊織に話しかけるのではなく、独り言のように呟きながら、同僚がドリンクの補充をしている。
伊織の知る限り、玲子はいつもキリリとした顔をして曖昧な言い方はしない。直樹はそのクールビューティーさが良いのだと言うが、この同僚のように冷たい印象を受ける人間も少なくないだろう。
しかし伊織が玲子に苦手意識を持つのはそれだけが理由ではなかった。玲子の伊織への態度は、環はもちろん、他の同僚と接する時よりも厳しい。
ストレートな物言いにはほのかに棘が含まれているし、カフェテリアで遭遇した時のように敵意を含んだ視線を投げかけられることもある。
その理由はぼんやりとだが分かっている。だから今、気まずい気持ちを味わっているのだ。
とはいえ、いつまでも考えていても仕方がないことなので、伊織は早々に切り替えることにした。
この後に楽しみが待っているということもあって、七時間のうちの一時間は瞬きをする間に過ぎていく。手早く帰る準備を済ませた伊織は、他の同僚たちに挨拶をしてから環の席へと向かった。
環は熱心に英会話の参考書を読んでいて、伊織が近寄っても気付く様子がない。
「早月」
試しに声を掛けてみたが反応がない。よく見るとイヤホンをしている。
環の席は二人席なので、伊織はそろりと向かい側の椅子に腰掛けた。それでもまるで気が付かない。
高校の時から、環にはこういうところがあった。物事に集中してしまうと、中々現実に戻ってこない。
周りの気配に鈍感になるようだが、一度、優斗が背後から驚かそうとした時は凄まじい瞬発力で躱していた。野生の勘というやつだろうか。
そんな懐かしいことを思い出しながら、伊織は環の姿を見つめていた。
環は何事もよくできる男である。しかしそれをアルファだからと片付けてしまうのは間違いだ。普段は飄々としているが、環は努力家である。生まれ持った才能を無駄にすることなく、それを淡々と磨き上げている。
少し手を抜いていると感じることはあるけれど、それも彼が穏やかに過ごすためだと知っているので、嫌味でもなんでもない。
伊織は静かに息を吐き出した。
好きだな、と思う。
それを決して言葉にはしない。伊織はそっと手を伸ばした。ワイヤレスのイヤホンの片方を、丁寧に耳から外す。
「早月」
もう一度名前を呼ぶ。
今度は届いたらしい。環がゆっくりと顔を上げた。その凪いだ水面のような双眸に伊織が映り込むと、環は瞬きをした。
「お待たせ」
「あー………お疲れ。いつからいた?」
「さっき」
「マジか。声かけてよ」
「かけたってば」
環が伊織からイヤホンを受け取って片付け始める。少々照れたように目元を染める環に、伊織も穏やかな笑みを浮かべた。
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