さみだれの初恋が晴れるまで

める太

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高校生編

友達③

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 伊織はそのまま、逃げるように帰ってしまった。
 環は手を伸ばせば触れることができるが、しかし体温は感じることはできない距離を保ったまま、伊織が落ち着くまで隣に座っていた。互いに無言だった。
 楽しみにしていた映画はラストシーンに差し掛かっていたが、二人とも内容は頭に入ってこなかった。

「伊織、仕事行ってくるからね」
「……うん」

 病院から帰って来てからずっと布団にくるまっている伊織の頭を撫でながら、母親が声をかける。
 伊織が布団の中で小さく頷いても暫くはその気配が傍らにあったが、やがて立ち上がった。控えめに玄関の扉を閉める音がした。
 アパートの階段を下る微かな足音を聞いてから、伊織はそっと顔を覗かせる。腫れた瞼を擦る。
 スマホの電源を落としていたのを思い出して、伊織は枕元のデジタル時計を確認した。十一時を少し過ぎたばかりだ。
 今日、伊織は初めて発情期ヒートを理由に学校を休んでいる。

 環の家から逃げ帰ってから、伊織はぐちゃぐちゃになった頭を整理したくて、部屋の片隅で蹲っていた。仕事から帰宅した母がその様子を見て忽ち顔を青ざめさせた。
 その頭の中に浮かんだであろう最悪の想像を否定すべく、伊織はただの発情期ヒートだと言った。安心させるように笑ったつもりが、母親は幼い頃と同じように伊織を強く抱き締めた。

「オメガに産んでごめんね」

 幾度となく聞いてきた母親の謝罪に、伊織こそ罪悪感で窒息してしまいそうだった。

 学校を休んだのは念の為である。
 突発性の発情期ヒートだったが、やはり伊織の体質なのか、今はもう風邪の引き始めのような倦怠感が残っているだけだった。医師には明日にはその怠さもなくなっているだろうと言われている。
 あの自分が自分でなくなるような感覚はもうない。
 どうして、あんなことになったのだろう。 冷静になった今でもよく分からなかった。
 しかしそんな伊織にとって幸運であったのは、何も起きなかったことである。オメガの発情期ヒートはアルファにとっても脅威になる。伊織のフェロモンが弱いから、環を傷付けずに済んだ。

 伊織の腹の虫が鳴いた。昨日の夜から何も口にしていない。空腹は感じるが、とてもじゃないが何かを食べる気にはならなかった。
 環の表情を、声を思い出すだけで、胸が苦しくて、大声を上げてしまいたくなる。
 伊織は再び頭から布団を被る。
 自分の温もりと呼吸する音だけの空間で、雨音が響く外の世界から、意識を引き剥がすように瞼を閉じた。

 いつの間にか眠ってしまっていたようで、目を覚まして確認したデジタル時計は、二十時を示している。伊織の母は今日は遅番のため、まだ帰ってきてはいない。
 ひたすら眠って、少しずつだが気分が落ち着いてきたようだった。伊織はのそりと起き上がり、キッチンに足を向ける。
 冷蔵庫の中でプリンが輝いている。一通り眺めてから、幾つかの具材を選び取った。プリンは後で食べよう。
 まとめて茹でただけのうどんを空っぽの胃に収めた後、伊織は冷たくなってしまったスマホを手に取り電源を入れた。真っ暗な箱の中で、息を潜めていたメッセージアプリの通知がポコンと浮かび上がる。
 真っ先に龍成に返信をして、次にクラスメイトが送ってくれたノートの写しを保存しつつ礼を入れた。そして最後に環のメッセージを見る。
 履歴では昨夜の環が、伊織の体調を案じてくれていた。
 画面の上で指を迷わせてから、簡潔に返信する。何か一つ大きなことをやり遂げた気分でいるうちに、すぐに既読がついた。

「わっ……」

 突然手の中の端末が震え始めて、思わず伊織は声を上げた。着信画面には環の名前がある。伊織の体に緊張が走った。
 出ないでいるというのも気まずいので、伊織は意を決して画面をタップした。

「……もしもし、早月?」

 伊織の声は微かに震えていたが、電話の向こうで環が安堵したように吐息を緩ませた。

「良かった……いま少し話せるか?」
「うん、いいよ」

 機械越しの環の声色は、普段とは少し違って聞こえる。
 伊織は布団の上に戻って、枕を抱きしめた。

「体調どう?」
「だいぶ良い感じ。まあ、一日休んじゃったし」
「知ってる、教室行ったらいなかったから。ていうか浅葱、返信くらいしろって。 なんかあったかと思っただろ」
「家着いたのは返したでしょ」
「それは、そうだけどさ」

 そうは言いながらも、環は少々不満そうだった。
 わざわざ教室に顔を出すくらいには心配されている。申し訳なく思いながらも、少し擽ったくなってしまった。

 外はまだ雨が降っていた。
 地面を打つ水音が軽やかに響いて、静かな夜の空気が部屋の中にも流れ込む。
 思っていたよりも自然に環と会話することができている。伊織はそのことに安心しつつ、穏やかな時間の流れに任せて口を開く。

「……昨日はごめん」
「気にすんなよ。生理的なもんだろ、ああいうの」
「だからって………あんなこと」

 記憶が蘇ってしまって、伊織の言葉が途切れた。
 環は口を挟むことなくその続きを待っている。
 伊織は迷っていた。今、伊織の中にあるのは二択だ。
 本音を吐き出してしまうか、隠してなかったことにするか。

「あんな風になるの初めてだから、ちょっとおかしくなってたみたい。怖いね、ヒートって」

 少し気が迷っただけ。熱に浮かされただけ。
 冗談めかした声で暗にそう伝えることで、伊織は後者を選ぶことにした。

「……浅葱、あのさ」

 環が何かを言いかける。 
 しかしそれを遮るように、その背後で勢い良く扉が開く音が響いた。

「めぐるー、この漫画の続き貸して~……って、ごめん。通話してんの?」

 聞き覚えのある声に、伊織の背中を冷たいものが撫で上げる。

「そう。浅葱と話してんの」
「えっ、マジ!? 浅葱くん、聞こえる?」
「……聞こえてるよ、櫻木くん」

 伊織は辛うじてその声に、平然と答えることができたように思う。臓物を押し潰すように、どす黒くて重々しい何かが蠢いている。
 しかし春生の温かな気遣いの手が、無自覚なまま、伊織のささくれ立った心に触れてきた。

「調子はどう? まだしんどい?」
「ううん、もう大丈夫。ありがとう」
「良かった~……! めぐるから聞いて、めっちゃ心配で……とにかくゆっくり休んで、無理しないでな。ほら、めぐるも! 浅葱くんが休むの邪魔したらダメだって」
「分かったから。早く漫画持って……あー、帰るのは待ってろ、送ってくから」

 家隣なのに、と春生が文句を言っているのが遠いところから聞こえてくる。
 再び扉が閉じる音がして、一気に静寂が戻ってきた。

「……早月、さっき何か言いかけてた?」
「いや……大したことじゃないから」
「ならいいんだけど……櫻木くん、優しいね」
「それもあるけど、ハルは浅葱のことが好きなんだよ。少し騒がしいのは許してやって」
「そんなこと思わないよ。……櫻木くんの声聞いたら、なんか元気出た」
「ハルがそれ聞いたら喜ぶだろうな」

 元気が出たというのは嘘だ。和らいでいた痛みが、塩を塗り込まれたかのようにぶり返していた。
 呆れるような口振りだが、環の言葉の節々には慈しみが滲み出ている。いつの日か環が、手のかかる子は可愛い、と言っていたことを思い出した。
 環は春生に何を話したのだろうか。
 今、環はどんな顔で春生のことを話しているのか。
 気になるけれど、知りたくない。知れば、抱え込んだ重たいものが爆発して、胸が張り裂けてしまいそうだった。

「でも確かに、ハルの言う通りだ。悪かったな、まだ本調子じゃないってのに相手させて」
「いいよ。俺こそ心配かけてごめんね」
「俺がしたくてしてるんだから、浅葱は気にしなくていいんだよ」

 通話を切り上げる流れになる。伊織としてもその方が都合が良い。
 このまま話していると取り繕えなくなってしまいそうで怖かった。おやすみ、と一言発してしまえばそれで良いはずだった。

「早月」
「ん?」
「俺と早月は友達だよね。……これからも」

 口から滑り落ちたそれは祈りにも似ている。
 伊織はこれまで築き上げてきた関係を壊さないように、念を押したかった。それか、あるいは。
 しかし、環は伊織の神様ではない。

「……ああ、そうだな」

 環は伊織の言葉を受け入れた。
 伊織の喉が引き攣る。知らぬ間に噛み締めていた唇から血が滲む。
 まつ毛に揺れて、やがて零れ落ちていく雫を払った。

「……ありがとう。おやすみ、早月」
「ああ、おやすみ」

 ホットミルクのように優しい言葉とともに今度こそ接続が切れた。
 途端に広がっていくしんとした静けさの中で、伊織はスマホを傍らに投げ捨てる。

 ──────友達。なんて便利で、そして軽薄な言葉だろうか。

 自分にぴったりだと自嘲する。焦がれる相手に本音を言えず、そのくせ心優しい友人には嫉妬している。
 伊織には友達という地位が釣り合っている。間違っても、環のオメガにはならない。

 必死に押し殺していた嗚咽が洩れた。伊織は抱いた枕に顔を埋める。
 もうこれで最後にすると決めて、静かな部屋で独り涙を枯らした。





【高校生編】完
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