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高校生編
初めてのアルファ①
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十二歳の時、学校で行われた第二性診断の結果を家に持ち帰った。その診断書を見た母親は、初めて笑顔ではなく泣き顔で 浅葱伊織 を抱き締めた。
耳元で繰り返される嗚咽混じりの謝罪の言葉と、華奢な体に縋る震えた腕に、伊織は自分の性が愛する母を苦しめるものであることを自覚した。
人々はまず男女に、そこから更に第二の性と称される三つに分けられる。生まれつき才能に恵まれた者が多いアルファ。人口の大半を占め、圧倒的なマジョリティのベータ。そして、男女問わず子どもを孕む体を持つオメガ。
伊織を女手一つで育てた母親も、そして伊織もオメガ性である。
伊織の母親は、愛する我が子がオメガであることを嘆いていた。昔よりその待遇が改善されてきたとはいえ、オメガへの差別はこの社会にいまだ根強く残っている。
それに何より、オメガはアルファの前で常に劣位に立つことになる。それによって我が子が、過去の自分のように苦しい思いをするようなことがあって欲しくなかったのだ。
しかし幸いにも、一般的に比べると伊織のオメガ性は随分と弱かった。
伊織は高校入学前の検診で医師から、極端にオメガフェロモンの分泌が少ない体質だと告げられた。それゆえ、副作用の少ない抑制剤で限りなくベータに近い生活が送ることができる。
それはオメガとしては劣っているということを意味していたが、母親は涙を流して喜んだ。伊織が母親の涙を見るのは記憶にある限り、二回目だった。
その後、地元の公立高校に入学した伊織は、自分の性と上手く付き合いながら穏やかに生活を送ってきた。医師が告げた通り、伊織はフェロモンが薄いのか、匂いで気付かれることがない。
去年の秋に初めての発情期を経験したが、抑制剤を服用すれば何の問題もなく、通常通り過ごすことができた。高校二年生に上がった今も、中学以来の親友以外、伊織がオメガであることを知らなかった。
いや、このような場合は知らなかったと言うのが正しいだろうか。
「なあ、浅葱ってオメガ?」
「……えっ?」
雨音に遮られることなく聞こえた言葉に、瞬きをする。
思いがけない問い掛けに、咄嗟に言葉が出てこない。伊織は目の前の友人をただ見つめることしかできなかった。
問うた本人は、初めはなんてことのない世間話を振ったような口ぶりであった。しかし、伊織の表情が固まっているのを見ると、やがて顔色を変えた。
「あー……待って、ごめん。ミスった」
絵に描いたような形の良い眉が、申し訳なさそうに下がる。
「マジで、デリカシーがないこと聞いた。ごめんな、浅葱」
「ううん、大丈夫だよ。別に隠してたわけじゃないし……」
強ばっていた体から、緩やかに力が抜けていく。無意識に上がっていた伊織の肩がゆっくりと落ちた。
ぐるりと視線を巡らせる。
梅雨の時期特有のじめっぽさと薄暗さに包まれた教室には、伊織と彼の二人しかいない。放課後だが、伊織たちは部活動のミーティングに行った友人たちの戻りを待っていたところだった。
伊織の言葉に相手は安堵したように小さく息を吐き出した。
「そう……そっか。……これ、あと誰が知ってんの?」
「龍成だけかな。でも気付かれたのは、早月が初めて。普通はアルファでも分かんないんだよ。俺ってフェロモンの分泌が少ないらしいから」
だからすごい、と伊織が言う。
彼──────早月環は苦笑いを浮かべた。
「まあ、俺も最初は浅葱のことベータだと思ってたよ」
それも無理はない。見た目では分からないだろう。
伊織の容姿はおおよそ世間一般的なオメガのイメージには当てはまってはいない。
身長は平均以上あるし、女性的な曲線美は持ち合わせていない。顔立ちも整っている方ではあるが、はっと目を惹くような可憐さはなく、薄らとした印象で控えめだ。
「だろうね。でもなんで分かったの?」
伊織は自身とは対極にいる友人の、美しいかんばせを見つめる。
環は少しばかり首を傾けて、伊織の問い掛けに答えた。
「うーん……匂い、だな」
「匂い?」
伊織は驚いて、環の言葉を繰り返した。
オメガフェロモンは馨しい香りを伴って、つがいのいないアルファを誘う。
つまりフェロモンの量と匂いの強さは比例するわけで、環の答えは伊織にとって予想外のものであった。
「ああ。時々だけど、浅葱って桃みたいな匂いすんの。ほんのり甘い匂い」
「桃かあ」
試しに腕に鼻先を埋めてみるが、やはり自分では分からない。ほのかに家の柔軟剤の香りがする。少なくとも生乾きの臭いでなくて良かった。
そんな伊織の行動に、環の口元が微かに緩む。しかしそれをすぐに引き締めて、環は真っ直ぐに伊織を見据えた。
「さっきはデリカシーないことしたけどさ……他の奴らには言わないから」
「うん、ありがとう。そうしてくれると助かるよ」
伊織は自分の第二性を隠してはいないが、言うつもりもなかった。
オメガはただでさえ珍しく、その特異な体質は周りから偏見を抱かれやすい。
伊織は礼を述べながらも、環が周りに言いふらすようなことはないという確信があった。
知り合ってから二ヶ月程度の月日しかともに過ごしてはいないが、伊織がその確信を得るには十分なものであった。
耳元で繰り返される嗚咽混じりの謝罪の言葉と、華奢な体に縋る震えた腕に、伊織は自分の性が愛する母を苦しめるものであることを自覚した。
人々はまず男女に、そこから更に第二の性と称される三つに分けられる。生まれつき才能に恵まれた者が多いアルファ。人口の大半を占め、圧倒的なマジョリティのベータ。そして、男女問わず子どもを孕む体を持つオメガ。
伊織を女手一つで育てた母親も、そして伊織もオメガ性である。
伊織の母親は、愛する我が子がオメガであることを嘆いていた。昔よりその待遇が改善されてきたとはいえ、オメガへの差別はこの社会にいまだ根強く残っている。
それに何より、オメガはアルファの前で常に劣位に立つことになる。それによって我が子が、過去の自分のように苦しい思いをするようなことがあって欲しくなかったのだ。
しかし幸いにも、一般的に比べると伊織のオメガ性は随分と弱かった。
伊織は高校入学前の検診で医師から、極端にオメガフェロモンの分泌が少ない体質だと告げられた。それゆえ、副作用の少ない抑制剤で限りなくベータに近い生活が送ることができる。
それはオメガとしては劣っているということを意味していたが、母親は涙を流して喜んだ。伊織が母親の涙を見るのは記憶にある限り、二回目だった。
その後、地元の公立高校に入学した伊織は、自分の性と上手く付き合いながら穏やかに生活を送ってきた。医師が告げた通り、伊織はフェロモンが薄いのか、匂いで気付かれることがない。
去年の秋に初めての発情期を経験したが、抑制剤を服用すれば何の問題もなく、通常通り過ごすことができた。高校二年生に上がった今も、中学以来の親友以外、伊織がオメガであることを知らなかった。
いや、このような場合は知らなかったと言うのが正しいだろうか。
「なあ、浅葱ってオメガ?」
「……えっ?」
雨音に遮られることなく聞こえた言葉に、瞬きをする。
思いがけない問い掛けに、咄嗟に言葉が出てこない。伊織は目の前の友人をただ見つめることしかできなかった。
問うた本人は、初めはなんてことのない世間話を振ったような口ぶりであった。しかし、伊織の表情が固まっているのを見ると、やがて顔色を変えた。
「あー……待って、ごめん。ミスった」
絵に描いたような形の良い眉が、申し訳なさそうに下がる。
「マジで、デリカシーがないこと聞いた。ごめんな、浅葱」
「ううん、大丈夫だよ。別に隠してたわけじゃないし……」
強ばっていた体から、緩やかに力が抜けていく。無意識に上がっていた伊織の肩がゆっくりと落ちた。
ぐるりと視線を巡らせる。
梅雨の時期特有のじめっぽさと薄暗さに包まれた教室には、伊織と彼の二人しかいない。放課後だが、伊織たちは部活動のミーティングに行った友人たちの戻りを待っていたところだった。
伊織の言葉に相手は安堵したように小さく息を吐き出した。
「そう……そっか。……これ、あと誰が知ってんの?」
「龍成だけかな。でも気付かれたのは、早月が初めて。普通はアルファでも分かんないんだよ。俺ってフェロモンの分泌が少ないらしいから」
だからすごい、と伊織が言う。
彼──────早月環は苦笑いを浮かべた。
「まあ、俺も最初は浅葱のことベータだと思ってたよ」
それも無理はない。見た目では分からないだろう。
伊織の容姿はおおよそ世間一般的なオメガのイメージには当てはまってはいない。
身長は平均以上あるし、女性的な曲線美は持ち合わせていない。顔立ちも整っている方ではあるが、はっと目を惹くような可憐さはなく、薄らとした印象で控えめだ。
「だろうね。でもなんで分かったの?」
伊織は自身とは対極にいる友人の、美しいかんばせを見つめる。
環は少しばかり首を傾けて、伊織の問い掛けに答えた。
「うーん……匂い、だな」
「匂い?」
伊織は驚いて、環の言葉を繰り返した。
オメガフェロモンは馨しい香りを伴って、つがいのいないアルファを誘う。
つまりフェロモンの量と匂いの強さは比例するわけで、環の答えは伊織にとって予想外のものであった。
「ああ。時々だけど、浅葱って桃みたいな匂いすんの。ほんのり甘い匂い」
「桃かあ」
試しに腕に鼻先を埋めてみるが、やはり自分では分からない。ほのかに家の柔軟剤の香りがする。少なくとも生乾きの臭いでなくて良かった。
そんな伊織の行動に、環の口元が微かに緩む。しかしそれをすぐに引き締めて、環は真っ直ぐに伊織を見据えた。
「さっきはデリカシーないことしたけどさ……他の奴らには言わないから」
「うん、ありがとう。そうしてくれると助かるよ」
伊織は自分の第二性を隠してはいないが、言うつもりもなかった。
オメガはただでさえ珍しく、その特異な体質は周りから偏見を抱かれやすい。
伊織は礼を述べながらも、環が周りに言いふらすようなことはないという確信があった。
知り合ってから二ヶ月程度の月日しかともに過ごしてはいないが、伊織がその確信を得るには十分なものであった。
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