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恋人にはかないません④※
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伊織の後、いつもより性急にシャワーを浴びた環が寝室に向かう。そっと扉を開いた瞬間、環の動きが固まった。部屋中に満ちた甘い香りに思考がめちゃくちゃにかき乱される心地がする。
そこに聴覚から煽るような水音と、微かな嬌声が混じり、腹の底から溢れるような衝動を僅かに残った理性で食い止めた。
目の前がぐらぐらする。耳の先まで熱くなり、喉が渇いて耐えられなくなりそうだった。獲物に忍び寄る獣のようにベッドに近付き、震える指で毛布を持ち上げた。
「ぁ……っ、さ、つき………」
雫が潤みきった目尻から落ちていくのを見た。吐き出す息は熱っぽく、明らかに劣情を滲ませている。とろとろに蕩けた視線が、緩やかに環のものと絡み合う。
「……抑制剤は」
「のんで、ない……っ」
「持ってくる」
「や、やだ……。もう、俺……昨日から、ずっとがまん、してる……っ!」
伊織が環のスウェットの裾を掴む。涙声で縋られて、流石の環ももう限界を超えてしまいそうだった。
環の声色がつい固くなってしまう。
「でも我慢できなくて、一人でしてたんだな」
「ご、めんなさい……」
「いいよ。……どっちでしてた?」
「……どっちも」
華奢な体が恥ずかしそうに丸まっていく。シャワーを浴びたというのに、既に汗ばんで桃色に染まった肌が、あまりにも艶めかしい。
その様子を環は食い入るように眺めていた。環の視線が焼けるように熱く粘っこいので、伊織の背中がぞくぞくと粟立つ。
「は、はしたなくてごめん……っなんか、早月の匂いがいっぱいで、もうどうしたらいいか分からなくなって……で、でも……っ、ちゃんとほぐしたから、もういれられ……っ、んんッ」
おろおろと言葉を並べ立てる唇に食らいついた。先程のキスがままごとに感じられるくらいの、濃厚で官能的な口付けをする。
唾液が溢れて顎まで伝うくらいに咥内を蹂躙してから、厚めの舌を引き抜いていく。
「……マジ、浅葱ってわかんねえよ」
どこか荒々しく、諦めたような、それでいて愛おしさが溢れた呟きに、伊織は酸素の足りない頭でぼんやりと首を傾げた。
それ以上のことは口にせず、環がベッドに乗り上げる。簡単に伊織の身体をくるりと返してしまうと、その小ぶりな尻を撫でた。自分で慰めていた秘部はいつもよりぐっしょりと濡れている。それは男性器から溢れた蜜のためか、いつもより愛液の分泌が多いのか、どちらかは分からない。
「……あっ! ……も、なんでぇ……」
「まだほぐし足りてねえよ」
伊織がこぼしたものを絡めた指先を、ゆっくりと後孔に埋めていく。初めにした時よりは容易く指を呑み込んでいくものの、これではまだ足りていない。
「さつき……っんとに、意地が悪い……っ!」
ぐちぐちと中を拓く感覚に身を震わせながら、伊織は堪らず悪態を吐いた。やはり苛立つくらいに前戯が長い。もっと早くひとつになりたいのに。
環は体に纏わりつく甘ったるい匂いに、必死に抗いながら、丁寧に柔らかな肉を拵えていく。
「だってさ、大事なんだよ。浅葱のこと」
「それ……っ」
「一ミリだって傷つけたくない。そりゃあ、慎重にもなんだろ」
環と体を重ねることが、痛みも苦しみも感じないくらい、気持ち良いばっかりの甘やかな行為であって欲しい。
「……おれ、男だし……、ちょっとくらい、無理しても、大丈夫なんだけど……」
「大丈夫じゃない」
確かに伊織の体は男性のものだけれども、アルファである自分と比べてしまえばずっと繊細なのだ。伊織の薄い腹や細い腰を見ると、壊してしまいそうで怖くなる。だから環は脳内の血管が引きちぎれそうになっても、伊織の体を労ることを止めない。
伊織は黙り込んでしまった。誰かは伊織が頑固だと言っていたが、環には敵わない気がする。
その時、環の指先がふっくらとしたしこりを掠める。自分で慰める時には、快感が怖くて触れなかったところ。
「ぁッ! ………っね、じゃあ……っん、……おれも、触っていい?」
せめて一緒によくなりたい。伊織が強請ると、環は案外すんなりと頷いた。獣のように環の喉が低く鳴る。
「全部、浅葱のだから。好きなだけ触って」
ベッドの上で抱き合うと、環の匂いがたっぷりと伊織の体の内側を満たした。柑橘系の後にくるほんのりと甘い香り。それを嗅ぐ度に、じゅわじゅわ腹の奥が湿っていく気がする。
伊織はそろりと手を伸ばしていくのを、環が口を噤んだまま、じっとりと微かに期待を込めた目でそれを見つめている。そそり立った陰茎に触れると、太い幹がびくっと跳ねた。
「……んっ」
艶のある声がこぼれた。伊織の胸に喜びがじんわりと滲む。
他人の性器なんて本来であればグロテスクに思うはずが、環のものは違う。
色は赤黒く、血管の浮き出た逞しい雄が、この美貌の男に備えられていると思うだけで全身が歓喜する。裏筋を中心に幹を幾度か擦り上げると、とろりと先端から先走りが溢れていた。
「ぁ、あっ、……だめ、そこッ……ぅ~~~っ……!」
もっと触れたいと思った瞬間、後ろに沈んだ指がぐりぐりと前立腺を押し潰す。電流のような刺激が走り、咥え込んだ指を締め付けてしまった。
「かわいー……、ッく、は……っ!」
伊織の目の前がチカチカと明滅する。襲い掛かる快感に負けじと、伊織も握り込んだ陰茎を扱いた。思わず綻んだ環の唇から恍惚としたため息が洩れる。悩ましげに顰められた眉根が美しく、伊織は堪らなくなつた。
もちろん、環がやられっぱなしになるわけもなく、ぐちゅぐちゅと後ろをかき混ぜられて、最終的には伊織は硬く熱いそれを握るだけになっていた。波のように押し寄せる快感でいっぱいいっぱいだった。
汗に濡れた華奢な肉体がシーツの上を泳ぎ、その唇からひっきりなしに嬌声をこぼす。
「ひっ、ぁ~~……ッ、ま、って……いく、イッちゃ………んん~~~ッ……! ………はぁっ、はぁ………ッあ!? や、いま、イッたばっかぁ~……っ!!」
ふるふる震える男性器から押し出すような精を吐いたにも関わらず、環の指の動きは止まらなかった。
勝手に溢れる愛液が、卑猥な水音を立てる。いつの間にか中に潜り込んだ指の本数は三本になっていて、狭い肉筒を広げてみせたり、指をバラバラに動かしたり、好き勝手に蠢いていた。
「ひぃっ、……ぁ、あッ、ン~~っ……! も、やだぁ……っ、はやく……さつき、ぃ……っ!」
艶やかに腰を揺らしながら、鼻水や涙でぐしゃぐしゃになった顔で環に懇願する。震える指先が握った熱を媚びるように擦り上げた。
環が熱がこもった重たい息を吐き出す。手のひらで桃の果肉を潰したかのような濃い香りが環の思考を鈍らせている。
指を引き抜いた拍子にまた弱々しく吐精した伊織に、労りの言葉をかける余裕もない。
伊織は体中を火照らせながらぐったりと仰向けになっていた。微かに震えるその内腿を持ち上げて、熱い舌を這わせていく。ぽつんと一つだけ浮かび上がるほくろ。抉るように舌先で擽ると、伊織が鼻にかかった声で鳴いた。
耳の奥で心臓の音が煩く響いている。そんな状態でも環は袋を噛み切って、薄いコンドームをはち切れそうな自身に取り付けた。これがなければ、伊織を間違いなく孕ませてしまう。
膝を左右に開かせて、とろとろに解れたそこに先端を宛てがう。
「……なあ、浅葱んなか、はいってもいい?」
切羽詰まって色っぽい囁き声が伊織に形ばかりの許可を乞う。伊織の体を揺さぶって、既にその熱の塊を少しずつ埋めているのに、環の言葉は忠犬のような振る舞いをしていた。
「あっ……ぁ、ふ………ん、いいよ……いいから、はやく、ちょうだ………~~~~っあ、ぁあ!!」
指よりもずっと質量のあるものが、伊織が言い切るのを待たずにゆっくりと体を拓いていく。中を満たしていく代わりに、伊織の喉から甘い高音が押し出された。
粘膜を擦り上げていく感覚にぞわぞわと肌が粟立つ。ぴん、と足の爪先を張って、挿入の独特の温い刺激を味わっていた。腹の奥を先端が突いて、環の動きが止まる。
膜を隔てても、そのぬかるみの熱さとひくつく柔い肉の締め付けが心地がいい。
環が汗ばんで濡れた前髪をかき上げる。その気だるそうな仕草を薄目で捉えてしまい、伊織の胸がきゅんと締まった。
「……痛くない?」
「んっ、……うん」
「ほらな。ちゃんとほぐさなきゃダメだろ」
それにしても環はねちっこ過ぎると思ったが、文句を言う余裕は伊織にはなかった。
ふうふうと小さく呼吸を繰り返す。
痛みも苦しさもない。ただ、じわじわと疼いている。このままじっとされていると、やわく胎内が食んでいるそれの熱さだけでなく、形まで明瞭に感じ取ってしまいそうで怖かった。伊織はさも同意しているかのように頷きながら、環へと両腕を伸ばす。つられて傾いた上半身ごと引き寄せて、甘えるように鼻先を擦りつけた。
「もう、全然大丈夫だから……、早月も、我慢しなくていいよ……っ」
とにかく、なんでも良い。この腹の奥の疼きをどうにかして欲しい。
腰をくねらせて、咥え込んだものをきゅうと締めた瞬間、環の双眸が鋭く輝いたように思えた。
「……その言葉、後悔すんなよ」
「ぁッ………~~ッひ、ぁああっ!!」
ギリギリまで抜かれた剛直が、勢いよく奥を叩く。背骨を真上から下まで走り抜けるような快感に、伊織は一瞬意識が飛んでいきそうになった。環の背中に引っ掻くような甘い痛みが走る。搾り取る胎内の蠢きに、環は低く唸った。
「あ~~………っ、ぃッ! やっ、うごいちゃ、ぁあッ!!」
「痛い?」
「違ッ! よすぎてぇ……待っ、え………ひんッ! あ、ぁあっ、んっ! ぁあ~~……ッ!」
痛みがないのであれば止める必要はない。
吸い付く襞をこそぐようにじっくりと引き抜いて、勢いよく奥を突き上げる。ぷっくりとした前立腺を張り出た傘で抉ると、伊織の腰が小さく跳ねた。
気持ち良くて、堪らなくて、伊織は目の前の環の体に縋り付く。伊織の中をいじめる動きを邪魔するように腰に足を絡め、背中に回した腕に力を込めた。湿った肌が吸い付く感覚が心地いい。環がいつもよりも近く感じられる。。
「あ、ぁっ、ひぁッ……! ンっ、ぁあッ!!」
環は息を詰めて伊織の体を揺さぶった。体中の血液がぐつぐつと煮えたぎっているようだ。果実から滴る蜜の香りが、環の脳みその働きを鈍くする。かぶりついて、その甘ったるさを全身の細胞で味わいたい。
そのいっそ暴力的な衝動を抑えている代わりなのか、ぱちゅ、ぱちゅ、と肌と肌がぶつかり合う音が徐々に速まっていく。
「あっ、ぁんッ……ひぁ……っ!? ……アっ、おくっ、おく……っだめぇ……ッ!!」
抽挿の度に愛液が混ざり、泡立つ水音が響いている。硬く膨れた剛直が滑りの良くなった肉筒を擦り上げる。
胎内をぐるりと掻き混ぜて、その腹の奥に先端を擦り付けた。更に奥へと割って入ろうとする動きに伊織が首を横に振る。
「だめ? ほんとに?」
「きゅ、ぅ………ッ、ぁあ~~……」
環の声は蠱惑的で、耳元に吹き込まれると脳みそがくらくらした。背骨がぞわぞわと疼き、至る所の筋肉が痙攣する。ぢゅぷ、と緩んだ最奥を優しく突く動きが、伊織を緩やかに沈めていく。
「なあ……お願い、あさぎ」
「~~ッう、……わかった、からぁっ……! いい……っ、さつきなら、いいから……ぅ、むッ!」
じくじくと疼いている。自分だって欲しくて堪らなかった。まだ暴かれたこともないところを環で満たして欲しい。
自分の欲しい言葉を紡いだ唇に、環が丸ごと食らいつく。性急にぬるりと潜り込んできた舌が伊織の口蓋を擽った。
「ん、……ンッ、んっ……っんぅ~~~~~~っ!」
奥からおそるおそる伸びてきた舌をすぐさま絡め取る。環が唾液ごとじゅうっと吸い上げると、甘い痺れが広がって、強ばった伊織の体が弛緩する。
その瞬間、引き抜かれた剛直によって、ぐぽりと人の体から鳴ってはならない鈍い音が響いた。
頭の中で、何かが弾けた気がした。環の体に押し潰された腰が勝手に跳ねる。指の先まで貫く快感に伊織の目が大きく見開かれた。助けを求める声は環の口の中へと消えていく。
「う、ぅ~~ッ……! ンっ、んんっ、んぅ~~……っ!」
つるりとして固い先っぽが、締め付けを味わうように出たり入ったりを繰り返す。激しく突き上げられることはないけれど、体の奥から熱いものが滲み出し、鋭い快感が次々押し寄せてくる、その未知の感覚が恐ろしい。
頭がぼんやりとしていた。酸素も段々足りなくなってきている。環の手ががっちりと伊織の後頭部を抑えていて、粘膜が痺れるような深い口付けを惜しみなく与えられていた。
伊織は目の前の男に縋り付き、華奢な体を震わせることしかできない。
「……ん、……っは。……やば」
環はその体を組み敷きながら、前戯よりもねちっこい動きで腰を回す。狭い胎内が自身を柔く包み込み、絡み付いて、腰が砕けるような官能を与えてくるのが堪らなかった。
存分に味わってから、そのぽってりとした唇を解放してやる。快楽に蕩けた瞳が環を映していた。桃色に染まった頬がいじらしく、その肌に優しく歯を立てる。
甘くて、かわいい。全部食ってやりたい。頭のてっぺんから指の先まで、環のものにしたい。
ぐるぐると渦巻く劣情に、環はため息を洩らす。下生えが尻にくっ付くほどに、腰を強く押し付けて、熱い飛沫を強請るように吸い付く入口を捏ねる。酸素を求めてはくはく動いていた唇から、子猫のような高い嬌声がこぼれ落ちた。
「きゅ、ぁっ……! ……あッ、んん……ッいっちゃ……ン~~~~ッ っ……!!」
ぎゅううっと背中と腰に絡み付いた四肢が張り詰める。薄い下腹部が波打って、環の腹筋との間に熱いものが噴き出した。達した拍子に胎内がうねって、咥え込んだ剛直を容赦なく搾り上げた。
「………はぁ……っ、でる……ッ」
掠れた声とともに伊織の腹の最奥で、欲望をぶちまける。
限界まで煮詰めたそれは薄い膜越しでも火傷してしまいそうなくらい熱い。絶頂を迎え、敏感になった伊織の体はそれだけで再び高みに昇った。白い内腿がびくんびくんと痙攣して、やがてぐったりと力尽きる。萎んだ男性器から何も吐き出すことはなかった。
その様をじっと眺めながら、環は心地のいいぬかるみからまだ重たそうな自身を引き抜く。視界の端で、たぷんと揺れる膨らみを見て、伊織は無意識に喉を鳴らした。
「……あさぎ」
「はっ……ぁ、はぁ………ッあ、待って、ぇ……っ!」
新しくコンドームが開封されたことの意味を悟る前に、再び胎内を環が満たしていく。一度の射精ではその硬さも熱さも衰えることはない。伊織の頬が引き攣った。
「まだ、足りないだろ」
「そんッ、ぁあ~~……っ!!」
環の口角が吊り上がった。うっとりと細められた双眸は闇夜でも爛々と輝く獣のようだ。視線がかち合った途端、ぞわぞわと背中を官能が這い上がり、伊織の視界が涙で歪む。
溺れてしまいそうだった。それでもじんじん疼く最奥が、環の言葉の通り、まだ足りないと訴えている。伊織は上手く力の入らない体を叱咤して、ぎこちなく足を腰に絡める。環を誘うように自分の唇を舐めた。
それを見た環が笑う。それは恐ろしいほど美しく、雄々しい笑みだった。
果汁に濡れたような唇を、再び伊織へと寄せていく。決して逃がさぬように、長い指を搦めながら伊織の手をシーツの上へと縫い付けた。
二人の情交は夜が明けるまで続いた。その途中で気を失うように眠ってしまった伊織が、次に目を覚ましたのは、翌日の夕方である。
「………おきれない」
体が鉛のように重かった。指先だけがぴくりと動く。呻くように呟いた声もガサガサだった。
伊織は唇を引き結ぶ。頭の中に、あられもない場面の数々が浮かび上がってくる。
全場面ピンク色。
悲鳴じみた声が洩れた。今すぐ穴に飛び込んでしまいたいくらい恥ずかしい。
しかしそれと同時に、伊織の胸の内側には幸福感が満ちていた。環の胸に抱かれることが嬉しかった。ひたむきに注がれる愛情を思い出すだけで蕩けてしまいそうになる。
その時、寝室の扉が開く。
「あ、起きた」
「さ、さつき……っ」
「うわ、声やばいな。大丈夫か?」
スリッパが床に擦れる音がする。環はサイドチェストに置いておいたミネラルウォーターのキャップを捻る。
「体、起こせるか?」
伊織が首を横に振った。全身がだるくて、動きたくない。
環がペットボトルの水を自分の口に流し入れる。そして伊織を覗き込むように、その美しいかんばせが近づいた。
「んっ」
ひんやりとした液体はどこかまろやかだった。口内に滑り込んできた水をゆっくりと嚥下する。
ちゅっ。リップ音が鳴って、環の唇が離れた。
傍らに腰掛けた環は、伊織とは反対に元気そうだった。ただでさえ毛穴の確認できない玉のような肌がつやつやとしている。思わず啜りたくなるくらいに唇の血色も良い。夜空を閉じ込めた瞳もいつもより輝いている気がした。
カサついた声で、伊織は不思議そうに尋ねる。
「………また、かっこよくなった?」
「ははっ、なんだそれ」
環はおかしそうに声を上げた。
「浅葱はなんか、満身創痍だな」
「誰のせいだと……」
「いや、浅葱だろ」
環の言う通りである。伊織は唇を曲げた。そのあどけない仕草に環は頬を緩める。
「抑制剤は飲ませたから」
「あっ、……ありがとう」
「俺も途中からあんま記憶ないんだけどさ……最後までゴムはしてたから」
生々しい単語に伊織の顔が染まった。環はこういう時、伊織が積極的なんだか、うぶなんだか、どちらか分からなくなる。
「そっか……」
少々残念そうに聞こえるのは自惚れだろうか。そんなことを思いつつ、環は我に返った時のことを思い返した。
本当に肝が冷えた。
もし、万が一、環が怠っていたらと思うと恐ろしい。
環は然るべき段階をしっかりと踏みたいと考えているのだ。伊織の家族にきちんと挨拶をしたいし、法的な契りも結びたい。あとは伊織の仕事も考慮しなければならない。
それに、今の伊織の体は少々心もとない。もっと食事を摂らせなければ、なんて考えてもいた。
それを無に返すところだったと反省する。まだまだ、環には足りないところだらけだ。
そうやって思いを巡らせていると、伊織が口を開いた。
「早月」
「どうした?」
「……ありがとう」
何を、とは問わなかった。伊織は目尻を綻ばせ、頬を赤らめて微笑んでいる。
環は一旦、脳内に浮かんでいたあらゆる思考を放り投げた。まあ、それらは置いておこう。今でなくたって、考える時間はあるのだから。
可愛らしい寝癖のついた髪を撫でながら、額に羽のようなキスをする。
結局のところ、環は伊織が幸せなら、なんだって良いのである。
そこに聴覚から煽るような水音と、微かな嬌声が混じり、腹の底から溢れるような衝動を僅かに残った理性で食い止めた。
目の前がぐらぐらする。耳の先まで熱くなり、喉が渇いて耐えられなくなりそうだった。獲物に忍び寄る獣のようにベッドに近付き、震える指で毛布を持ち上げた。
「ぁ……っ、さ、つき………」
雫が潤みきった目尻から落ちていくのを見た。吐き出す息は熱っぽく、明らかに劣情を滲ませている。とろとろに蕩けた視線が、緩やかに環のものと絡み合う。
「……抑制剤は」
「のんで、ない……っ」
「持ってくる」
「や、やだ……。もう、俺……昨日から、ずっとがまん、してる……っ!」
伊織が環のスウェットの裾を掴む。涙声で縋られて、流石の環ももう限界を超えてしまいそうだった。
環の声色がつい固くなってしまう。
「でも我慢できなくて、一人でしてたんだな」
「ご、めんなさい……」
「いいよ。……どっちでしてた?」
「……どっちも」
華奢な体が恥ずかしそうに丸まっていく。シャワーを浴びたというのに、既に汗ばんで桃色に染まった肌が、あまりにも艶めかしい。
その様子を環は食い入るように眺めていた。環の視線が焼けるように熱く粘っこいので、伊織の背中がぞくぞくと粟立つ。
「は、はしたなくてごめん……っなんか、早月の匂いがいっぱいで、もうどうしたらいいか分からなくなって……で、でも……っ、ちゃんとほぐしたから、もういれられ……っ、んんッ」
おろおろと言葉を並べ立てる唇に食らいついた。先程のキスがままごとに感じられるくらいの、濃厚で官能的な口付けをする。
唾液が溢れて顎まで伝うくらいに咥内を蹂躙してから、厚めの舌を引き抜いていく。
「……マジ、浅葱ってわかんねえよ」
どこか荒々しく、諦めたような、それでいて愛おしさが溢れた呟きに、伊織は酸素の足りない頭でぼんやりと首を傾げた。
それ以上のことは口にせず、環がベッドに乗り上げる。簡単に伊織の身体をくるりと返してしまうと、その小ぶりな尻を撫でた。自分で慰めていた秘部はいつもよりぐっしょりと濡れている。それは男性器から溢れた蜜のためか、いつもより愛液の分泌が多いのか、どちらかは分からない。
「……あっ! ……も、なんでぇ……」
「まだほぐし足りてねえよ」
伊織がこぼしたものを絡めた指先を、ゆっくりと後孔に埋めていく。初めにした時よりは容易く指を呑み込んでいくものの、これではまだ足りていない。
「さつき……っんとに、意地が悪い……っ!」
ぐちぐちと中を拓く感覚に身を震わせながら、伊織は堪らず悪態を吐いた。やはり苛立つくらいに前戯が長い。もっと早くひとつになりたいのに。
環は体に纏わりつく甘ったるい匂いに、必死に抗いながら、丁寧に柔らかな肉を拵えていく。
「だってさ、大事なんだよ。浅葱のこと」
「それ……っ」
「一ミリだって傷つけたくない。そりゃあ、慎重にもなんだろ」
環と体を重ねることが、痛みも苦しみも感じないくらい、気持ち良いばっかりの甘やかな行為であって欲しい。
「……おれ、男だし……、ちょっとくらい、無理しても、大丈夫なんだけど……」
「大丈夫じゃない」
確かに伊織の体は男性のものだけれども、アルファである自分と比べてしまえばずっと繊細なのだ。伊織の薄い腹や細い腰を見ると、壊してしまいそうで怖くなる。だから環は脳内の血管が引きちぎれそうになっても、伊織の体を労ることを止めない。
伊織は黙り込んでしまった。誰かは伊織が頑固だと言っていたが、環には敵わない気がする。
その時、環の指先がふっくらとしたしこりを掠める。自分で慰める時には、快感が怖くて触れなかったところ。
「ぁッ! ………っね、じゃあ……っん、……おれも、触っていい?」
せめて一緒によくなりたい。伊織が強請ると、環は案外すんなりと頷いた。獣のように環の喉が低く鳴る。
「全部、浅葱のだから。好きなだけ触って」
ベッドの上で抱き合うと、環の匂いがたっぷりと伊織の体の内側を満たした。柑橘系の後にくるほんのりと甘い香り。それを嗅ぐ度に、じゅわじゅわ腹の奥が湿っていく気がする。
伊織はそろりと手を伸ばしていくのを、環が口を噤んだまま、じっとりと微かに期待を込めた目でそれを見つめている。そそり立った陰茎に触れると、太い幹がびくっと跳ねた。
「……んっ」
艶のある声がこぼれた。伊織の胸に喜びがじんわりと滲む。
他人の性器なんて本来であればグロテスクに思うはずが、環のものは違う。
色は赤黒く、血管の浮き出た逞しい雄が、この美貌の男に備えられていると思うだけで全身が歓喜する。裏筋を中心に幹を幾度か擦り上げると、とろりと先端から先走りが溢れていた。
「ぁ、あっ、……だめ、そこッ……ぅ~~~っ……!」
もっと触れたいと思った瞬間、後ろに沈んだ指がぐりぐりと前立腺を押し潰す。電流のような刺激が走り、咥え込んだ指を締め付けてしまった。
「かわいー……、ッく、は……っ!」
伊織の目の前がチカチカと明滅する。襲い掛かる快感に負けじと、伊織も握り込んだ陰茎を扱いた。思わず綻んだ環の唇から恍惚としたため息が洩れる。悩ましげに顰められた眉根が美しく、伊織は堪らなくなつた。
もちろん、環がやられっぱなしになるわけもなく、ぐちゅぐちゅと後ろをかき混ぜられて、最終的には伊織は硬く熱いそれを握るだけになっていた。波のように押し寄せる快感でいっぱいいっぱいだった。
汗に濡れた華奢な肉体がシーツの上を泳ぎ、その唇からひっきりなしに嬌声をこぼす。
「ひっ、ぁ~~……ッ、ま、って……いく、イッちゃ………んん~~~ッ……! ………はぁっ、はぁ………ッあ!? や、いま、イッたばっかぁ~……っ!!」
ふるふる震える男性器から押し出すような精を吐いたにも関わらず、環の指の動きは止まらなかった。
勝手に溢れる愛液が、卑猥な水音を立てる。いつの間にか中に潜り込んだ指の本数は三本になっていて、狭い肉筒を広げてみせたり、指をバラバラに動かしたり、好き勝手に蠢いていた。
「ひぃっ、……ぁ、あッ、ン~~っ……! も、やだぁ……っ、はやく……さつき、ぃ……っ!」
艶やかに腰を揺らしながら、鼻水や涙でぐしゃぐしゃになった顔で環に懇願する。震える指先が握った熱を媚びるように擦り上げた。
環が熱がこもった重たい息を吐き出す。手のひらで桃の果肉を潰したかのような濃い香りが環の思考を鈍らせている。
指を引き抜いた拍子にまた弱々しく吐精した伊織に、労りの言葉をかける余裕もない。
伊織は体中を火照らせながらぐったりと仰向けになっていた。微かに震えるその内腿を持ち上げて、熱い舌を這わせていく。ぽつんと一つだけ浮かび上がるほくろ。抉るように舌先で擽ると、伊織が鼻にかかった声で鳴いた。
耳の奥で心臓の音が煩く響いている。そんな状態でも環は袋を噛み切って、薄いコンドームをはち切れそうな自身に取り付けた。これがなければ、伊織を間違いなく孕ませてしまう。
膝を左右に開かせて、とろとろに解れたそこに先端を宛てがう。
「……なあ、浅葱んなか、はいってもいい?」
切羽詰まって色っぽい囁き声が伊織に形ばかりの許可を乞う。伊織の体を揺さぶって、既にその熱の塊を少しずつ埋めているのに、環の言葉は忠犬のような振る舞いをしていた。
「あっ……ぁ、ふ………ん、いいよ……いいから、はやく、ちょうだ………~~~~っあ、ぁあ!!」
指よりもずっと質量のあるものが、伊織が言い切るのを待たずにゆっくりと体を拓いていく。中を満たしていく代わりに、伊織の喉から甘い高音が押し出された。
粘膜を擦り上げていく感覚にぞわぞわと肌が粟立つ。ぴん、と足の爪先を張って、挿入の独特の温い刺激を味わっていた。腹の奥を先端が突いて、環の動きが止まる。
膜を隔てても、そのぬかるみの熱さとひくつく柔い肉の締め付けが心地がいい。
環が汗ばんで濡れた前髪をかき上げる。その気だるそうな仕草を薄目で捉えてしまい、伊織の胸がきゅんと締まった。
「……痛くない?」
「んっ、……うん」
「ほらな。ちゃんとほぐさなきゃダメだろ」
それにしても環はねちっこ過ぎると思ったが、文句を言う余裕は伊織にはなかった。
ふうふうと小さく呼吸を繰り返す。
痛みも苦しさもない。ただ、じわじわと疼いている。このままじっとされていると、やわく胎内が食んでいるそれの熱さだけでなく、形まで明瞭に感じ取ってしまいそうで怖かった。伊織はさも同意しているかのように頷きながら、環へと両腕を伸ばす。つられて傾いた上半身ごと引き寄せて、甘えるように鼻先を擦りつけた。
「もう、全然大丈夫だから……、早月も、我慢しなくていいよ……っ」
とにかく、なんでも良い。この腹の奥の疼きをどうにかして欲しい。
腰をくねらせて、咥え込んだものをきゅうと締めた瞬間、環の双眸が鋭く輝いたように思えた。
「……その言葉、後悔すんなよ」
「ぁッ………~~ッひ、ぁああっ!!」
ギリギリまで抜かれた剛直が、勢いよく奥を叩く。背骨を真上から下まで走り抜けるような快感に、伊織は一瞬意識が飛んでいきそうになった。環の背中に引っ掻くような甘い痛みが走る。搾り取る胎内の蠢きに、環は低く唸った。
「あ~~………っ、ぃッ! やっ、うごいちゃ、ぁあッ!!」
「痛い?」
「違ッ! よすぎてぇ……待っ、え………ひんッ! あ、ぁあっ、んっ! ぁあ~~……ッ!」
痛みがないのであれば止める必要はない。
吸い付く襞をこそぐようにじっくりと引き抜いて、勢いよく奥を突き上げる。ぷっくりとした前立腺を張り出た傘で抉ると、伊織の腰が小さく跳ねた。
気持ち良くて、堪らなくて、伊織は目の前の環の体に縋り付く。伊織の中をいじめる動きを邪魔するように腰に足を絡め、背中に回した腕に力を込めた。湿った肌が吸い付く感覚が心地いい。環がいつもよりも近く感じられる。。
「あ、ぁっ、ひぁッ……! ンっ、ぁあッ!!」
環は息を詰めて伊織の体を揺さぶった。体中の血液がぐつぐつと煮えたぎっているようだ。果実から滴る蜜の香りが、環の脳みその働きを鈍くする。かぶりついて、その甘ったるさを全身の細胞で味わいたい。
そのいっそ暴力的な衝動を抑えている代わりなのか、ぱちゅ、ぱちゅ、と肌と肌がぶつかり合う音が徐々に速まっていく。
「あっ、ぁんッ……ひぁ……っ!? ……アっ、おくっ、おく……っだめぇ……ッ!!」
抽挿の度に愛液が混ざり、泡立つ水音が響いている。硬く膨れた剛直が滑りの良くなった肉筒を擦り上げる。
胎内をぐるりと掻き混ぜて、その腹の奥に先端を擦り付けた。更に奥へと割って入ろうとする動きに伊織が首を横に振る。
「だめ? ほんとに?」
「きゅ、ぅ………ッ、ぁあ~~……」
環の声は蠱惑的で、耳元に吹き込まれると脳みそがくらくらした。背骨がぞわぞわと疼き、至る所の筋肉が痙攣する。ぢゅぷ、と緩んだ最奥を優しく突く動きが、伊織を緩やかに沈めていく。
「なあ……お願い、あさぎ」
「~~ッう、……わかった、からぁっ……! いい……っ、さつきなら、いいから……ぅ、むッ!」
じくじくと疼いている。自分だって欲しくて堪らなかった。まだ暴かれたこともないところを環で満たして欲しい。
自分の欲しい言葉を紡いだ唇に、環が丸ごと食らいつく。性急にぬるりと潜り込んできた舌が伊織の口蓋を擽った。
「ん、……ンッ、んっ……っんぅ~~~~~~っ!」
奥からおそるおそる伸びてきた舌をすぐさま絡め取る。環が唾液ごとじゅうっと吸い上げると、甘い痺れが広がって、強ばった伊織の体が弛緩する。
その瞬間、引き抜かれた剛直によって、ぐぽりと人の体から鳴ってはならない鈍い音が響いた。
頭の中で、何かが弾けた気がした。環の体に押し潰された腰が勝手に跳ねる。指の先まで貫く快感に伊織の目が大きく見開かれた。助けを求める声は環の口の中へと消えていく。
「う、ぅ~~ッ……! ンっ、んんっ、んぅ~~……っ!」
つるりとして固い先っぽが、締め付けを味わうように出たり入ったりを繰り返す。激しく突き上げられることはないけれど、体の奥から熱いものが滲み出し、鋭い快感が次々押し寄せてくる、その未知の感覚が恐ろしい。
頭がぼんやりとしていた。酸素も段々足りなくなってきている。環の手ががっちりと伊織の後頭部を抑えていて、粘膜が痺れるような深い口付けを惜しみなく与えられていた。
伊織は目の前の男に縋り付き、華奢な体を震わせることしかできない。
「……ん、……っは。……やば」
環はその体を組み敷きながら、前戯よりもねちっこい動きで腰を回す。狭い胎内が自身を柔く包み込み、絡み付いて、腰が砕けるような官能を与えてくるのが堪らなかった。
存分に味わってから、そのぽってりとした唇を解放してやる。快楽に蕩けた瞳が環を映していた。桃色に染まった頬がいじらしく、その肌に優しく歯を立てる。
甘くて、かわいい。全部食ってやりたい。頭のてっぺんから指の先まで、環のものにしたい。
ぐるぐると渦巻く劣情に、環はため息を洩らす。下生えが尻にくっ付くほどに、腰を強く押し付けて、熱い飛沫を強請るように吸い付く入口を捏ねる。酸素を求めてはくはく動いていた唇から、子猫のような高い嬌声がこぼれ落ちた。
「きゅ、ぁっ……! ……あッ、んん……ッいっちゃ……ン~~~~ッ っ……!!」
ぎゅううっと背中と腰に絡み付いた四肢が張り詰める。薄い下腹部が波打って、環の腹筋との間に熱いものが噴き出した。達した拍子に胎内がうねって、咥え込んだ剛直を容赦なく搾り上げた。
「………はぁ……っ、でる……ッ」
掠れた声とともに伊織の腹の最奥で、欲望をぶちまける。
限界まで煮詰めたそれは薄い膜越しでも火傷してしまいそうなくらい熱い。絶頂を迎え、敏感になった伊織の体はそれだけで再び高みに昇った。白い内腿がびくんびくんと痙攣して、やがてぐったりと力尽きる。萎んだ男性器から何も吐き出すことはなかった。
その様をじっと眺めながら、環は心地のいいぬかるみからまだ重たそうな自身を引き抜く。視界の端で、たぷんと揺れる膨らみを見て、伊織は無意識に喉を鳴らした。
「……あさぎ」
「はっ……ぁ、はぁ………ッあ、待って、ぇ……っ!」
新しくコンドームが開封されたことの意味を悟る前に、再び胎内を環が満たしていく。一度の射精ではその硬さも熱さも衰えることはない。伊織の頬が引き攣った。
「まだ、足りないだろ」
「そんッ、ぁあ~~……っ!!」
環の口角が吊り上がった。うっとりと細められた双眸は闇夜でも爛々と輝く獣のようだ。視線がかち合った途端、ぞわぞわと背中を官能が這い上がり、伊織の視界が涙で歪む。
溺れてしまいそうだった。それでもじんじん疼く最奥が、環の言葉の通り、まだ足りないと訴えている。伊織は上手く力の入らない体を叱咤して、ぎこちなく足を腰に絡める。環を誘うように自分の唇を舐めた。
それを見た環が笑う。それは恐ろしいほど美しく、雄々しい笑みだった。
果汁に濡れたような唇を、再び伊織へと寄せていく。決して逃がさぬように、長い指を搦めながら伊織の手をシーツの上へと縫い付けた。
二人の情交は夜が明けるまで続いた。その途中で気を失うように眠ってしまった伊織が、次に目を覚ましたのは、翌日の夕方である。
「………おきれない」
体が鉛のように重かった。指先だけがぴくりと動く。呻くように呟いた声もガサガサだった。
伊織は唇を引き結ぶ。頭の中に、あられもない場面の数々が浮かび上がってくる。
全場面ピンク色。
悲鳴じみた声が洩れた。今すぐ穴に飛び込んでしまいたいくらい恥ずかしい。
しかしそれと同時に、伊織の胸の内側には幸福感が満ちていた。環の胸に抱かれることが嬉しかった。ひたむきに注がれる愛情を思い出すだけで蕩けてしまいそうになる。
その時、寝室の扉が開く。
「あ、起きた」
「さ、さつき……っ」
「うわ、声やばいな。大丈夫か?」
スリッパが床に擦れる音がする。環はサイドチェストに置いておいたミネラルウォーターのキャップを捻る。
「体、起こせるか?」
伊織が首を横に振った。全身がだるくて、動きたくない。
環がペットボトルの水を自分の口に流し入れる。そして伊織を覗き込むように、その美しいかんばせが近づいた。
「んっ」
ひんやりとした液体はどこかまろやかだった。口内に滑り込んできた水をゆっくりと嚥下する。
ちゅっ。リップ音が鳴って、環の唇が離れた。
傍らに腰掛けた環は、伊織とは反対に元気そうだった。ただでさえ毛穴の確認できない玉のような肌がつやつやとしている。思わず啜りたくなるくらいに唇の血色も良い。夜空を閉じ込めた瞳もいつもより輝いている気がした。
カサついた声で、伊織は不思議そうに尋ねる。
「………また、かっこよくなった?」
「ははっ、なんだそれ」
環はおかしそうに声を上げた。
「浅葱はなんか、満身創痍だな」
「誰のせいだと……」
「いや、浅葱だろ」
環の言う通りである。伊織は唇を曲げた。そのあどけない仕草に環は頬を緩める。
「抑制剤は飲ませたから」
「あっ、……ありがとう」
「俺も途中からあんま記憶ないんだけどさ……最後までゴムはしてたから」
生々しい単語に伊織の顔が染まった。環はこういう時、伊織が積極的なんだか、うぶなんだか、どちらか分からなくなる。
「そっか……」
少々残念そうに聞こえるのは自惚れだろうか。そんなことを思いつつ、環は我に返った時のことを思い返した。
本当に肝が冷えた。
もし、万が一、環が怠っていたらと思うと恐ろしい。
環は然るべき段階をしっかりと踏みたいと考えているのだ。伊織の家族にきちんと挨拶をしたいし、法的な契りも結びたい。あとは伊織の仕事も考慮しなければならない。
それに、今の伊織の体は少々心もとない。もっと食事を摂らせなければ、なんて考えてもいた。
それを無に返すところだったと反省する。まだまだ、環には足りないところだらけだ。
そうやって思いを巡らせていると、伊織が口を開いた。
「早月」
「どうした?」
「……ありがとう」
何を、とは問わなかった。伊織は目尻を綻ばせ、頬を赤らめて微笑んでいる。
環は一旦、脳内に浮かんでいたあらゆる思考を放り投げた。まあ、それらは置いておこう。今でなくたって、考える時間はあるのだから。
可愛らしい寝癖のついた髪を撫でながら、額に羽のようなキスをする。
結局のところ、環は伊織が幸せなら、なんだって良いのである。
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このお話大好きです。
なので続編本当に嬉しいです。
BLは確かにファンタジー(オメガバースは特にね)ではありますが、作者様のリアルで精緻で緻密な文章、大好きです。
もちろん、ふたりの“甘々”も堪能しておりますよ。
愉しみ!
感想ありがとうございます。
伊織たちの感情の機微を描くことが楽しかったので、そういっていただけて嬉しいです。
「AFTER」ものんびりとではありますが書いていきますので、お楽しみいただけたら幸いです。
後日談読みたかったです!ありがとうございます!!
ほんとに口に砂糖を詰め込まれたって表現がピッタリだしさらにメープル流し込まれるくらいの甘さでしたが本編の切なさの後にはちょうど良いです(*//艸//)♡
こちらこそ、お読みいただきありがとうございます。
溺愛糖度マシマシで胸焼けしそうだなあと思いながら書いておりました笑
こちらもお楽しみいただけたら幸いです。
afterめちゃくちゃ嬉しいです‼️
伊織くん今までつらいこと多かったので、その分幸せになって欲しいです‼️
溺愛イチャイチャよろしくお願いしまーす❤️❤️❤️
ありがとうございます。
ゆるゆる〜っと甘々を書きますので、こちらもお楽しみいただけたら嬉しいです。