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恋人にはかないません③*

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 冬の寒さに冷やされて薄暗い寝室は、まるで世界の片隅に二人きりになったような心地にさせてくれる。
 暫しのじゃれ合いを楽しんだ環が、半ば乗り上げるように覆い被さっていた体を引き離そうとした。それを阻むように伊織の腕が伸びて、環の首裏に回る。
 瞬きをする間に、伊織の唇が間近に迫った。
 存外強い力にそのまま倒れ込んだ環は、それでも伊織を押し潰してしまわないように咄嗟に肘をつく。

「っ、おい……!」
「あの……今日、する?」

 しっとりとした温度の声色が誘うように吹き込まれた。焦がれたカラメルのような瞳が、環の目の前で揺れている。
 その瞬間、環の心臓が大きく鳴って、一気に耳奥まで熱い血液が昇り詰めた。
 可愛らしいお強請りに、今すぐにでもかぶりついて、その蜜を味わいたい衝動に駆られる。

「……しない」
「なんで」

 伊織の眉尻が下がる。不満というより不安そうな表情に、宥めるようにその頬を擽った。

「明日、仕事だろ」

 本来ならば明日は休日である。しかし取引先の希望で午前に出勤することになってしまった。今朝、そうやって嘆いていたのは伊織だ。

「それに酒だって、結構飲んでたし」
「もう醒めたよ。それに……早月だってセーブしてた」
「まあ、いつもよりはな」
「じゃあ……大丈夫でしょ」

 何が大丈夫なのかは聞くまでもない。恥じらいに頬を染め、期待に蕩ける視線を注ぐ。それについつい惹き込まれそうになるが、環の理性は崖っぷちで耐えていた。

「しんどい体で仕事、行きたくないだろ?」
「……早月は俺としたくないの?」
「したいに決まってんだろ」

 食い気味に返すと、伊織の目が丸くなった。今の返事は少し子どもっぽかっただろうか。羞恥心が湧く。
 したいに決まっている。初めて体を重ねた後から、二回目はまだなかった。タイミングが合わなかったせいだ。環もずっとお預け状態だったのだ。
 しかし、本当に、この男のこういうところはいけない。環の理性を試すのが上手いというか、昔から妙なところで思い切りが良い。それに環はぐらぐらと揺り動かされて、剥き出しの欲望がこぼれ落ちるのだ。

「じゃあ……」
「だぁめ」

 期待するように伊織が口を開きかけるけれども、それを環は甘ったるく遮った。伊織の眉間に薄らと皺が刻まれる。

「ほら。シャワーは明日にすんならはやく……っ、ん」
「ほんとにだめ……? ちょっとだけならさ、……大丈夫だから……ね?」

 伊織はぐっと顔を寄せて、唇を環の頬や唇に押し当てていく。ちゅ、ちゅ、と可愛らしいリップ音が響いた。上目がちに窺いつつ、伊織はまろい声で強請る。
 ぐうと環の喉が低く唸る。ぐつぐつと胸の真ん中で血液が沸騰している。シーツを握り締めたせいで、後に残ってしまいそうなほど皺が寄っていた。
 今夜の伊織は危険だ。心のモヤが少しはすっきりしたのか、アルコールのせいか、全然諦めてくれない。頭からぱっくりと丸呑みにしてやりたい。環の針が理性的な判断とは真逆の方へ徐々に振れていく。

「……………浅葱」
「んー……?」
「抱き潰す気しかないから……今日はお互い我慢、な」

 環の胸の内で最大の葛藤を経て捻り出した判断が、当の本人は気に食わないらしい。伊織はむくれたように下唇を突き出した。
 普段ならば照れてやらないようなあどけない仕草に心臓が跳ね上がる。これ以上は心臓に悪い。環は伊織を遺しては逝けないというのに。
 環はうっかり目の前の可愛い生き物に食らいついてしまわないように、代わりに己の唇を噛み締めた。あまりの強さに血が滲みそうだが気にもならない。

「……な、浅葱。お願い」
「もー……そこまで言うなら、……仕方ないなあ」

 環が折れないと悟った伊織が、渋々といった様子で腕を離す。瞼はとろんと落ちかけていて、恐らく睡魔がすぐ傍に迫っているのだろう。
 伊織はぼやきながら、もぞもぞと毛布の中へと潜り込んでいく。
 今度は妨害されることなく上体を起こしながら、環はため息を吐いた。なんとか持ち堪えられたことへの安堵だった。間もなくして、穏やかな寝息が聞こえてくる。
 よくもまあ、狼の前で腹を出して眠れるものだと感心する。そんなところも可愛らしいのだけれども。

「おやすみ」

 明日の朝、伊織が穏やかな目覚めを迎えられるようにと祈りを込めて、その耳元にほんの少し触れるだけのキスをした。


 今から帰る。

 メッセージアプリで簡潔な一文が送られてきたのは丁度三十分ほど前だ。
 パソコンから目を離し、しなやかな猫のような伸びをした。長時間の同じ姿勢での作業で肩や腰に疲労感が溜まっている。冷めたブラックコーヒーは渋みが増していて、却って程よい刺激を脳みそに与えてくれた。
 環のスマホが再び震えた。すぐに確認したが、送り主は春生だった。
 伊織にあらぬ誤解を抱かせないよう、春生と会うことがあれば必ず伝えるようにしている。そもそも二人で会うのも嫌だろうと思ったが、それは伊織が強く否定した。
 伊織は環と春生の関係性に嫉妬心を抱きながらも、それを大切にしようとしてくれている。それは嬉しいけれども、環はいまいち適正な幼なじみの距離感が分からないから、また伊織を傷つけてしまいそうで恐ろしかった。そんなわけで、二人きりになるようなことがないように心がけてはいる。
 春生に一言、二言のメッセージを返信してスマホをテーブルに置いたところで、ドアチャイムが鳴った。伊織だ。
 環はさっさと立ち上がり、玄関へと出向く。待たせては寒かろうと少々急いで扉を開けてやった。

「おかえり」
「……ただいま」

 環が贈ったマフラーで首元をぐるぐる巻きにしているが、剥き出しになった鼻先はほんのりと赤い。
 自分の部屋に寄らず、真っ先に環の部屋に来たのだろう。嬉しい。
 仕事帰りの伊織を部屋に引き入れて、キッチンに立つ。今日は太陽も姿を見せているにも関わらず、日中も気温が低い。昼食は摂っただろうか。まずは何か温かいものでも、と市販のホットココアを作ろうとした環の背中に、軽やかな衝撃が走った。

「っと。……こら、粉が散らば、る……っ」

 耳朶に熱い吐息が触れた。前に回った腕がぎゅっと環を抱き締めている。鼻を掠めた匂いに、環の思考が停止する。
 耳元に寄せられた唇が、そうっと首筋へと下りてくる。ぞくりと背筋を柔い刺激が走るのを感じながら、環は後ろを振り返った。

「早月」

 熱を孕んだ声が強請るように環の名前を呼ぶ。肩越しに見えた伊織の顔はほんのりと染まっていて、瞳は焦がす直前の煮詰めた砂糖のように溶けていた。
 環はマグカップと大さじを置いてから、体ごと伊織の方へと向き直る。その細い肩を掴んで、首元に鼻先をくっつけた。伊織が小さく震える。

「……この前の発情期ヒートっていつ?」
「え……? 丁度、三ヶ月前くらい…………ああ、だから、体、あっついんだ」

 滴る蜜のように馨しい香りが環を誘っている。伊織は惚けた表情を浮かべながら、納得したように呟いた。
 伊織は防寒具を脱ぎ捨ててすぐにキッチンにやって来たようで、暑そうにネクタイを緩める仕草をする。
 環は思わず舌打ちしそうになった。それも直前で耐えた自分を褒めたい。
 いつから伊織はこの状態だったのだろうか。
 伊織はフェロモンの分泌が少ない体質であるというし、そもそも環のつがいになっている。肺を満たす甘ったるい果実の香りを味わっているのは環だけだろうが、それでも腹が立つ。
 伊織の頬は朱に染まり、目元はとろんと蕩けていて、小さな蕾が花開いたような色気が漂っている。食べごろになった伊織の姿をその目に映した人間がいるかと思った途端、腸が煮えくり返りそうになった。

「……早月?」

 伊織の声にその怒りも霧散していく。意識を戻すと同時にふっくらとした唇が、環のものに重なった。
 伊織の舌先がちろちろと環の下唇を舐める。その願い通り、隙間を開けて出迎えてやると、少しぎこちない動きで伊織の舌が環の口蓋を擽った。

「……っん、……ぅ、ふ………っ」

 伊織の手が環の後頭部に回る。
 やや背伸びした体勢では辛いだろう。キスがしやすいように身を屈めると、伊織は感謝するように舌の先っぽちゅうっと吸い上げた。
 敢えて、伊織の好きにさせていた。拙いながらも、環の官能を引き出すように咥内を這う舌の蠢きに、緩やかに痺れるような感覚が環の体の中に満ちていく。

「ン、っ………ぅん、………っは、ぁ……ッ」

 息が限界になった伊織が唇を離す。
 環の長い睫毛が震えて、ゆっくりと夜空の色彩が伊織の目の前に現れた。濡れた唇を舐め上げる艶やかな舌に、伊織の腹の奥が疼いている。
  胸に縋り付くように伊織は環にひっついた。すんすんと鼻を動かす。

「いい匂いする……」
「あんま、煽んないでくれる」
「……そんなつもりないのに」
「だからさ、自覚しろってば」

 目眩がする。桃に似た甘い匂いが息をする度に濃くなっていくような気がした。
 環が細い腰を抱き寄せると、伊織が分かりやすく視線を泳がせる。互いに熱を持ち始めたそこをありありと感じ取ってしまったのだ。
 伊織の理性は恥ずかしがっていたけれど、それよりもこの匂いに包まれる期待が勝っていて、腹奥が疼いて仕方ない。
 伊織の手が環の胸を押す。一瞬、腕の筋肉が強ばったが、渋々ながら環は伊織を囲う力を緩めた。その腕の中からするりと抜け出して、リビングの扉へと駆け寄る。

「浅葱?」
「……シャワー、浴びてくる」

 たっぷりと濡れた瞳が環を捉えて、そしてすぐに逸らされてしまう。ほとんど逃げるように扉の向こう側へと消えていった伊織に、暫くの間環は固まっていたが、やがて脱力したようにしゃがみ込んだ。

「……ほんと、マジ、なんなの」

 環が真っ赤になった顔を片手で覆いながら呻いていたことを、伊織は知らない。
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