さみだれの初恋が晴れるまでーAFTERー

める太

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恋人にはかないません②

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 伊織の頭が眠たげにぐらぐらと揺れている。そんな伊織をほとんど背負うようにしてマンションに帰った。
 龍成と優斗はこれから飲み直すらしい。二人の酒肴が何かは、容易く想像がついた。

 環は迷うことなく自分の部屋の扉を開ける。

 足先から凍えるような寒さに身震いをした。手際よく伊織の靴やら防寒具やらを脱がせてしまう。完全に寝落ちているわけではないらしい伊織が、環の動作にやや遅れて腕や足を上げるのが可愛らしい。
 伊織の体を抱き上げた。毎度、その軽さに驚かされる。無理をしたら壊してしまいそうで、彼に触れる時は自然と環も慎重になる。
 夜の闇にとっぷりと浸かり、朝方の温もりの残り香もない寝室のベッドの上に、そっと伊織を寝かせた。
 毛布を掛けた途端、それを抱き込むようにしていく様に胸がときめく。環が立ち上がると、丸い毛布の塊がごそりと蠢いた。毛布から見えた指先がぴくりと動く。

「……浅葱」

 囁くように名前を呼んだ。これは起きている。それに、酔いも醒めてきている。
 もう一度名前を呼ぶと、伏せっていた睫毛が震えた。
 その瞳を覗き込んで、環は小さく息を呑む。薄らと張った水の膜が今にも溢れ出しそうだった。

「どこか痛むか? 気持ち悪い?」

 問いかける声は情けないくらい慌てている。その額に掛かった髪を指先でのけて、伊織の顔をもっとよく見ようとした。
 伊織は微かに首を横に振る。

「……俺の、初恋はさつきなんだよ」

 その言葉が暗に示すものがまだ分からない。相槌を打つことで続きを促す。睫毛が雫でしなる。伊織から絞り出すような声がこぼれ落ちた。

「俺は早月なのに。早月は違うんだ」
「……それはどういう意味?」
「……櫻木くんなんでしょ」

 環は突然登場した幼なじみの名前に瞬きを繰り返す。伊織の眉尻がじわじわと下がって、堪えるように唇を噛んだ。

「櫻木くん……いいな」

 ついこぼした呟きは、梅雨のようにじめっとこもっていた。何かが胸の奥から溢れ出しそうになって、伊織の喉が締まる。
 ごめん。
 伊織の声が震えている。そのまま毛布の中へと潜り込んでしまった。

「あさぎ」

 毛布を隔てた頭上から、やわく伊織を呼ぶ声が聞こえた。
 二人きりの時、少し甘えるように環の声がふやける。きゅうきゅうと伊織の胸が苦しくなった。
 重心が移動して、ベッドが音を立てる。環の指が毛布の端から滑り込んだ。大した力も入れる必要なく、すぐに伊織の頭が露わになる。

「ごめんな、そんな顔させて。……浅葱がしんどくなってること、教えて?」

 伊織の中にあるわだかまりは、きっと春生のことなのだろう。
 もちろん環はあの雨の夜に伊織の気持ちを漏らすことなく聞いていたし、春生との付き合い方にも今まで以上に気を配っている。しかし、伊織の中にはまだ何かしこりがあるのだ。
 自分の察しの悪さに呆れ果てる。環は誰よりも彼の前でスマートに振る舞うことを望んでいるにも関わらず、一番思い通りにいかないのだ。環の人生の中で、これほど上手くいかないことはないだろう。
 伊織は口を噤んだ。ゆらゆら、熱で潤んだ瞳が揺れている。急かすことなく、環はその髪を撫でながら待つ。

「……早月の初恋って、櫻木くんなんだよね」

 以前も思ったことだが、一体それをどこで知ったのだろうか。環にはまるで覚えがないが、確かに事実である。
 環は伊織に嘘はつかない。

「ああ。そうだよ」
「やっぱり」

 改めて伊織に突きつけられた事実。語尾にほのかに滲む落胆に、ようやく環は気付くことができた。

「そう。早月少年、齢四つの初恋」
「よ……?」
「ちなみに、ハルは保育士のあいり先生が初恋」

 伊織の瞳が丸くなる。環は溢れるように笑った。

「保育園の先生が初恋ってあるあるだよな。藤もそうだったし」
「そうなの?」
「聞いてなかった?」
「ぼーっとしてた……」

 伊織の顎を子猫にするように擽った。強ばっていた頬が微かに緩む。
 環の肩にも知らずうちに力が入っていたようで、余計な力が抜けていくのが分かった。

「……ハルとは、ずっと一緒に育ってきたからさ」

 環と春生は産まれた病院も一緒で、親同士が仲が良く、隣を見れば互いの存在が当たり前にあった。

「可愛くて、放っておけなくて……まあ、子どもなんて単純だから、これが初恋なんだなって思ったよ」

 環のその双眸に懐かしさと慈しみが混じるのを見ると、伊織にとっては面白くない。
 むくむくと湧き出てくる嫉妬心に伊織は顔を逸らしてしまう。そんな伊織の膨れた頬を、環の指先がつついた。

「……やめてよ」
「まだ続きがあんの」

 じろりと環を横目で見た。伊織への愛情を隠しもしなくなった瞳の中で、小さな星が瞬いている。
 そんな顔で見つめられると、伊織も切り捨てることなんてできなくなってしまうから、ずるい。

「ハルもこのことは知ってる。なんなら俺の黒歴史みたく、両家でことあるごとに擦られてるし」
「りょ、両家……」
「マジでなんでも筒抜けなんだよな」

 環が苦笑いを浮かべる。環が話したことは全て春生が知っているし、その逆も然り。環たちの親は環たちのように今でも仲が良い。
 春生の両親が彼の高校卒業を機に、箱入り息子を渋々ながら実家から出すことを許したのは、環が近くにいたからだった。
 それを聞いた伊織の中に、むず痒くて居てもたってもいられなくなるような疑問が生まれる。

「……櫻木くんはさ。早月の気持ちを聞いて、どうしたの?」
「絶対ない! って潔く、バッサリ」
「……辛かった?」

 そろりと伊織の指が環の目元に伸びる。涼やかでつるりとした陶器のような肌を滑っていく。その手がこぼれ落ちないように、環はしっかりと握り締めた。

「全然」
「えっ」
「その頃にはもう恋愛感情はなかったから。失恋ですらなかった」

 元々親同士が揶揄うように口にしていたことだが、春生に自分の口から話したのは、確か中学二年の夏だったと記憶している。春生に初めて恋人ができた時、ふと幼い自分の恋心を思い出したのだ。
 環の初恋は成長するとともに、穏やかに形を変えていった。確かにそれは特別で、他の誰のものでもなく春生だけのものだが、春の太陽の陽射しや風のない日の水面のようなものだ。
 驚愕のあまり半開きになった唇の隙間から、ちらりと小粒の歯が見える。伊織は口が小さい。食事の際には、初めは環に合わせようと必死に口を動かして頑張っているが、途中で諦めるのだ。好きだ。

「初恋だし、大事な思い出ではあるかな。今だってハルのことは家族みたいに大切だし」

 でも、と続ける。その隙間の更に向こう側、熱くて甘い舌に誘われるように、顔を近づけていく。
 微かにベッドが軋む音が鳴った。

「初恋もそれ以外も、比にならないくらい……浅葱が特別」

 実際口にすると少々照れくさいが、浅葱には言葉にしておかなければ伝わらない。首筋が熱くなるのを感じながら、視線を逸らすことなく伊織を見つめている。
 本心だった。告白されて付き合うことはあったけれど、大抵長続きはしない。環は友人を優先するから、相手が耐えられなくなる。最後は向こうから別れを告げてくるが、環は引き止めることもなくそれを受け入れる。
 環はあまりラブロマンスは観ない。共感できないからだ。フィルム上の俳優たちが、去っていく愛する人の後ろ姿に涙している理由が分からなかった。
 その痛いほどの切ない感情を理解したのは伊織を失ってからだ。失ってから初めて気付くものがあるということを、環は身をもって知った。

「浅葱がさ、これが恋なんだってことを俺に教えたんだよ」

 この手でめちゃくちゃにしてやりたいし、逆に何もかもから守ってやりたい。相反する感情に、抗う理性とそれを丸呑みにしようとする本能。愛するが故に憎らしく、しかしやはり愛おしい。
 狂おしく焦がれるような恋の味を、環に教えこんだのは伊織だ。
 伊織はどこか惚けたような、無防備な表情で環を見上げている。もう少し危機感を持ってくれないかと思ってしまった。

「俺のこと……そんなに好き?」
「好き。浅葱が思ってるよりもずっとな」

 伊織が上目がちに環を窺いながら問う。環の指先が伊織の前髪の隙間に滑り込み、現れた額に口付けを落とす。
 伊織は環の言葉をゆっくりと嚥下しているようだった。やがて薄暗い部屋でも分かるくらい、その顔がじわじわと赤みを帯びていく。ただでさえアルコールで血の巡りが良くなっているのに、そこから更に熱を上げてしまってはとうとう湯気が噴き出しそうだ。
 伊織の唇が微かに動いたので、それを聞き取ろうと耳を近付けていく。伊織がひっそりと囁いた。

「……俺も好き」
  
 知っている。それでも何度だって聞きたくて、言いたいのだ。環は頬を擦り寄せると、擽ったそうに伊織が笑みをこぼす。
 こうやって、伊織の中のしこりを少しずつでもほぐしていくことができたら良い。環はそんなことを思いながら、頬に押し当てられたそれの柔らかさにうっとりと目を細めた。
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