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片思い

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 周りが憧れるような、ロマンチックな恋愛とは無縁の人生だった。穂高にとって、それらは所詮は他人事で、蚊帳の外の出来事である。

「えっ、結婚するの?おめでとう」
「ありがとー! いやぁ、自分でもびっくりしてるよ」

 照れくさそうに頬を赤らめる友人の、華奢な肩を見下ろす。
 自然と目に入るのは首元を飾る青いチョーカー。しかし、きっとそれももうすぐ見なくなるだろう。

「結構スピード婚じゃない? 付き合い始めたって報告を、ついこの間受けた気がするんだけど」
「あー、確かに。付き合ってまだ半年も経ってないや」
「葵にしては珍しいね」

 高校から付き合いのある友人だが、恋愛にはいっとう慎重な男だと思っていた。
 葵は店員が持ってきたばかりの酎ハイを手元に引き寄せて、頬を掻いた。

「まあねー……でもあいつ、めっちゃ俺のこと大事にしてくれんの」

 惚気ける葵の口元は春の桜のように綻んでいる。照れ臭さを誤魔化すようにグラスを呷り、「何より!」と大きめの声を出した、

「もう目が合った瞬間のビビッて感じが忘れられなくて」
「ビビッ?」
「こう~、雷が落ちた、みたいな? なんか恥ずかしいけど。なんとなくなら分かるでしょ?」
「うん、伝わるよ」

 頷いて、穂高も烏龍茶の残りを飲み干した。明日は朝から会議があるため、酒に強くない穂高はノンアルコールを徹底している。
 一目惚れ、という感覚なら分かる。振り返ってみればそうだったのかもしれない、と時折思うことがある。

「……こういうの、運命っていうのかもって思ったんだよね」

 酔いが回ってきたらしい葵の、いつもより緩んで素直になった口からぽろりと言葉が溢れ落ちる。とろんと半分蕩けた瞳は、今は目の前にいない想い人に向けるものだろう。

「運命、か……」

 そんな幸せ真っ只中の友人を見ながら、穂高はため息混じりに呟いた。自分とは縁のないそれは声に出すと存外重く心にのしかかる。
 穂高は耐えきれずに目を伏せた。





「布木。会議までに追加の資料も用意しておいてくれ」
「はい。分かりました」

 自分の席に戻った穂高は上司から言われた通り、昨日ギリギリで完成した資料のファイルを開いた。念の為一度目を通した後、共有のクラウドにアップロードをする。
 アップロード中の文字を眺めながら、穂高は堪えきれなかった欠伸を噛み殺した。

「おっ、珍し。夜更かし?」
「わっ」

 背後から声が掛かる。油断していた穂高の肩が小さく跳ねた。
 振り返ると、営業部の同期の男が可笑しそうに笑っている。

「んなビックリすること無いじゃん」
「ちょっと油断してただけ。うちに何か用事?」
「次の会議、企画開発から出るの布木なんだろ? だから予め視察しておこうと思って」
「何様だよ」

 穂高は男の腹を小突いた。痛いと言いながらカラリとした笑顔を浮かべるこの男は大黒といい、穂高と同じ年に入社した社員の一人である。

「……にしても、まじで眠そうじゃん」
「あー、昨日飲みに行ってて」
「お、彼女できたか?」
「違う違う。高校の同級生」

 あの後、グズグズに酔ってしまった葵のスマホで迎えを呼んで、ようやく帰宅した頃には日付を超えていた。そのため若干寝不足気味なのである。
 ちなみに葵からは先程謝罪のメッセージが入っていた。恋人にしこたま叱られたらしい。
 酔いつぶれた葵を迎えに来たのは、その夜の話題となっていた葵の恋人だった。歳下と聞いていたが、しっかりしていて誠実そうな好青年で安心した。

「なぁんだ。そ、ん、な布木くんに、良いお知らせがあるんだけど~」
「合コンだろう?」

 呆れたように穂高は目を細める。
 正解だと言わんばかりに大黒は指を鳴らした。

「半年前に別れてからフリーじゃん? そろそろ人肌が恋しくなってきたんじゃないかなーって」
「今はいいんだよ、仕事だって忙しいし。……それにどうせ数合わせだろう。別の人を誘いなよ」
「んなこと言ってると、ずっと独り身だぞ」
「うるさいなあ。もう、さっさと職場に戻れって」

 余計な心配をしてくる大黒の腹をもう一度小突く。大黒は大袈裟なため息を吐いて、やれやれと首を横に振った。

「人足りないし、北條でも誘うかー……じゃあな」
「はいはい、お疲れ様」

 大黒の背中をぼんやりと見送って、再び自分のパソコンに目を移す。
 ファイルは上手くアップロードできず、エラーと書かれた小さな文字が、ディスプレイ上に冷ややかに浮かび上がっていた。

「うわ」

 穂高は慌てて再度アップロードを試みる。今度は上手くいったようで、ものの数秒で完了した。
 ほっと息を吐く。こんなことで焦る必要はない。寝不足のせいか、または考え事のせいか。なんとなく感情が脆くなっている気がする。
 よりいっそう慎重に仕事をしなければならないと気を引き締めた。

 しかしそういう時は、自分がどれほど気を張っていても事が上手く運ばないことが多い。
 営業部との会議では企画書の粗を突かれ、至急手直しが必要となってしまった。時計の針はとうの昔に定時を回って、部署内で残っているのも穂高だけだ。

 穂高の頭上だけ電灯が煌々と輝いている。しんとした室内を照らすその光は無機質で、憂鬱な気分を誘った。

「はぁ……」

 保存のボタンをクリックしたのを確認して、背もたれに体重を掛ける。
 週明けに上司の確認を取れば、何とかなりそうだ。
 思わず深いため息が洩れた。ブルーライトに曝され、重くなった目頭を揉む。

「残業?」
「うわっ!」

 唐突に上から声が降ってくる。驚いた穂高の椅子が音を立てた。
 今日はどうにも背後の気配に弱い。顔を声の方へ向けると同時に、頬に暖かいものが押し当てられた。

「み、巳影……」
「なんだ、幽霊でも出たかと思った?」

 薄く形の良い唇が弧を描く。目を見張るような美しい男が、穂高を見下ろしていた。
 通った鼻筋に、涼やかな目元と、豊かで長い睫毛。穂高はこのかんばせを見る度に、神様の贈り物だと感心する。
 悪戯っぽく笑う男──────北條巳影は、穂高の頬から缶コーヒーを滑らせて、デスクの上へと置いた。

「お、驚かさないでよ」
「悪い悪い。お前がこんな時間まで残ってんの珍しいな。トラブルか?」
「そんなところ。巳影こそ、いつもはもう少し早いだろう?」
「ああ。ちょっと立て込んでて」

 巳影は肩を竦めた。その仕草もわざとらしくは見えず、様になっている。
 人事部に属する巳影は厄介事に当たる回数も多いのだろう。人が絡む仕事はそういうものだ。
 しかし疲れを感じさせない様相は流石である。一日の終わりだと言うのに、肌の皮脂一つ見当たらない。

「まだ残るのか?」
「いや、丁度帰ろうと思ってたところ」
「じゃあ一緒に出よう」

 いつもの倍以上のスピードで片付けを終えた穂高は、巳影とともに警備員に会釈をして会社を出た。

 会社の最寄りから穂高の自宅までは電車で十五分ほど。巳影は穂高より数駅先で降りるので、その十五分が巳影と過ごせる貴重な時間である。
 電車内は当然人もまばらで座席は空いている。しかしなんとなく座る気にはなれずに、扉近くに二人で立っていた。

「そういえば、水谷葵って覚えてる? 高校で同じクラスだったんだけど」
「あー……オメガの?」
「そう。今度結婚するんだってさ」
「へえ。めでたいな」

 穂高と巳影は同じ会社の同期というだけではなく、高校時代からの友人であった。

「周りが結婚していくの見ると、歳とったなって思うよ」
「オッサンみたいなこと言ってんな」

 巳影はそう言うが、二人とも今年で二十六である。
 学生時代の友人が次々とライフステージを次に進めているのを見ると、やはり歳を重ねた実感が湧いてくる。

「そういうお前は今どうなんだよ。大黒がまだフリーって言ってたけど」
「あいつ、何でもかんでも話すんだから。……今はそういう相手、いないよ」
「そうか」

 穂高は次に口を開くのを躊躇った。長年の付き合いだが、二人が恋愛の話題に触れることは、実を言うと多くない。ほんの僅かな間逡巡して、おそるおそる口に出した。

「……巳影はまだする気ないの? 結婚」
「ないな。相手もいないし、元々つがいを作る気もない」

 巳影は飄々と言ってのけた。見目麗しく聡明な男だが、特定の相手は作らない主義だと聞く。それが何故かは知らないし、訊ねたことも無い。
 その時、大きく電車が揺れて、穂高の体がよろめいた。巳影の腕が穂高を抱き留める。近付いた巳影の首元から、ほのかに甘い石鹸のような香りがして、心臓が小さく跳ねた。
 しかし、これは巳影が使っている柔軟剤の匂いだろう。
 穂高には巳影のフェロモンを感じることはできない。

「っ、ごめん」
「気にするな」

 自然な動きで穂高は巳影から離れた。巳影もなんでもないように笑う。
 石鹸の香りはすぐに消えてしまった。
 そのことにちくりと穂高の胸が痛む。既に心のやわいところに深く突き刺さっている棘と、同じものがまた増えた。

「じゃあ、お疲れ」
「うん、お疲れ様」

 あっという間に穂高が降りる駅に着いた。駅のホームで、動き出した電車を振り返る。

 この世界には男女とは別の第二の性というものがある。
 ベータが大多数で、アルファが次に多く、オメガが一番少ない。オメガは男女問わず子どもを産むことができる体を持ち、アルファを惹き付けるフェロモンを放出する。
 そしてアルファもまた、アルファやオメガにしか分からないフェロモンを持つのだという。
 それらは本能では無視できない特有の匂いだと、オメガ性に生まれた葵が言っていた。
 穂高はベータだ。だからアルファである巳影のフェロモンも分からない。巳影が穂高の匂いに惹かれることも無い。
 鞄から缶コーヒーを取り出す。すっかりぬるくなっているそれは、微糖のミルクコーヒーだ。
 穂高の胸がぎゅうと締め付けられた。
 穂高がブラックは飲めないことを、巳影だけが知っていて、ずっとそれを覚えている。

「きついなあ……」

 うっかり口にした独り言は、泣きそうなくらい震えていた。
 穂高は永遠に叶うはずの無い恋を、未だに捨てきれずにいる。
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