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第X章

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 三月の取引日当日の夜。
 賀野はなぜかある実業家との会食を楽しんでいた。
 今日が取引日だと言っていたのは間違いないし、賀野も同席する手筈だった。
 なのに約束の時間が迫っても、彼はのんびりと食後酒を傾けていた。何か変更したのだろうかと怪訝に思っていると、仕事を終えた彼から意外な提案をされた。
 「老朽化に伴い、プリマヴェーラ号の売却が決まった。最後に一緒に見に行かないか?君にとっても思い出深い場所だろう」
 「かしこまりました」
 断るわけにもいかないので、十才は彼の申し出に乗ることにした。
 いつもの港に停泊するそれは、相変わらずきらきらと眩しい存在であったが、老朽化しているらしい。十才はまだまだ使えそうなのにもったいないと思いつつ、何も疑うことなく乗船した。
 外に十才以外の組長付きを待たせると、賀野と二人だけで船内を横切ってカジノへと向かう。当たり前だが中には誰もいなかった。
 その時、窓の外を見てふと気づく。
 船が動いている…!
 ただ記念に見て回るだけなら、航海する必要はないはず。十才は嫌な予感がした。
 「今からクルージングですか?」
 「君もこの船を貸し切ったと思って楽しむといい。…の航海となるだろうからな」
 最後という言葉に引っかかりながらも、十才は彼に従ってカジノに入る。
 舞台に立つと、賀野は当てもなく周辺を歩き始めた。彼は反対側からそれを眺める。
 「…私が大友会に襲撃されたことは覚えているか?」
 懐かしむような口調で賀野が問う。
 「もちろんです、親父に何もなくて本当によかった。…それにしても大友会の奴ら、いったいどこからうちの情報を…」
 「君からだろ、待鳥」
 彼が足を止めた。十才に緊張が走る。
 「オレを…疑ってるんですか?」
 「疑うも何も、おれは事実しか言ってないよ」
 賀野が冷たい眼差しを向ける。
 「先ほど連絡が入った。港には沢山の警察が来たとな。私はおまえにしかその場所は伝えていない」
 賀野が自分の耳を指す。
 十才はそれで全てを察した。
 盗み聞きがばれていた!
 潜入は失敗した。
 もはやいつから気づいていたのかとか、どうやって見抜いたのかなど考える余裕はなかった。
 「待鳥、騙していたつもりが騙されて残念だったな」
 彼は嘲笑った。
 「あの場所には大量の爆弾を設置した。いったい何人がおまえのせいで命を落とすんだろうな…?そして国はこう思うだろう、金に目が眩んで待鳥が裏切った、とな」
 「賀野、貴様…!」
 十才は髪の毛が逆立つ勢いで、怒りを露わにした。
 騙すだけならまだいい、わざわざ死人が出るように仕向けたのだけは許せなかった。船が遠く出港した今、助けに行きたくとも行けないのだ。
 この際なんとしてでも捕らえてやると、唸りながら敵目がけて隠し持っていた刃物を飛ばした。
 いつも掴みどころのない彼が初めて見せた獣のような恐ろしい形相に、賀野は釣られるようにして口角を上げた。
 「念動力か」
 賀野はとっさに氷壁を出現させた。
 だが、それで防げるほど十才の攻撃は甘くない。
 いくつものナイフが氷壁を突き破り、彼の目前にまで迫った。
 否、それだけではなかった。
 己の味方であるはずの氷までもが、自分に歯向かってくるではないか。
 念動力で氷を利用されたことを察した賀野は、奪った熱を全て放出し、氷を溶かしてしまう。しかし、次の瞬間に彼は再び面食らうことになる。
 溶かしたはずの氷がまだ残っていたのである。
 「……!」
 氷だと思ったそれはガラス片だった。避けることも叶わず、彼はガラスの雨を被った。全身が刻まれるかのような激しい痛みが賀野を襲う。
 貴賓室の窓が割られていたのだ。氷を突き破る音と窓を叩き割る音が重なって、賀野が勝手に勘違いしていた。割られたのは氷壁だけだったと。
 「うっ…」
 これが施設育ちの超能力者か。侮っていた。
 「動くな、傷口を広げたくなければな」
 十才が冷たい声で命じた。突き刺さったものがさらに押し込まれる。
 賀野はせせら笑った。
 ここまで傷つけられたのは初めてだ、こんな相手にはなかなか出会えない。彼は不利な場面にもかかわらず、興奮していた。
 いくら氷を作り出したとしても全て逆手に取られるので、賀野は氷を使えなくなった上に、ナイフには何か薬が塗布されているであろう、残されている時間はそう長くはない。
 さて、どうしたものか。
 「答えろ、今日の取引は最初からオレたちを嵌めるためのものだったのか?それとも別の所で本当の取引を?」
 「取引自体は本当だ。…場所は違うがな」
 「どこだ?」
 「もう終わっている頃だからむだだと思うぞ」
 自分の立場を弁えているのかいないのか、彼は鼻で笑った。さすがはヤクザの組長とでも言うべき余裕たっぷりの様子に、十才は眉を顰めた。
 「じゃあ質問を変える、いつもどうやって密輸をしている?」
 「答えたくないと言ったら?拷問でもするつもりか?」
 裏社会の人間でもなんでもないおまえに、そんなことができるのかとばかにされ、十才はいら立った。
 彼の言うとおり、必要以上に傷つけるのは人道に叛くだろう。たとえ相手が極悪犯罪者だったとしても、刑を下すのは十才ではない、司法だ。
 「答えたくなければ答えなくてもいい。オレの仕事は上に引き渡すまでだ」
 とにかく拘束して身柄を引き渡さなければならない。こうしている間にも、十才のせいで犠牲者が出ているのだから…。
 「…それでいいんだな」
 「何をするつもりだ…!」
 俯き加減だった賀野が顔を上げる。
 「動くなと言ったはずだ…!」
 戦況は十才に完全有利かと思われたその矢先。
 念動力でガラス片と刃物で傷口を抉ろうとしたのに、それは微動だにしなかった。十才は一瞬思考が停止した。それが命取りになった。
 賀野が銃を構え、連続で引き金を引いた。
 丸い弾を念動力で止めることはできない十才は避けようとしたが、太腿に命中してしまった。燃えるように熱くなるはずなのに、何故か氷が傷口から広がり始めた。
 それは銃弾などではなく、賀野の氷弾だったのだ。
 太ももを撃たれたのと、その事実に気づいたのはほぼ同時だった。一度ならず二度までも騙された。
 「ああっ…!」
 なぜだ、なぜ念動力が使えなかった。
 脚はもうすでに凍り始めて、動くことができなかった。地面に這い蹲ったまま、何度も何度も念動力を発動させようと試みたが、賀野が痛がる素振りを見せることはなかった。
 「どうしてって顔をしているな」
 彼は実に愉快そうに十才を見下ろしていた。近くで見て、ようやくその謎が解けた。
 賀野は患部を凍らせていたのだ。刺さっているものを固定するかのように患部ごとがっちりと凍らせ、十才が抉れないようにした。あのお喋りはただの挑発などではなく、時間稼ぎだったのだ。
 「熱操作って案外便利なんだぜ、止血くらいなら自分でできるから」
 「賀野…!」
 「怖い顔をするなよ。おれは忠告してやったはずだ、その甘さが首を絞めることもあると。あの時、おまえにはいつでもおれを殺すことができたのに、その甘さからそうしなかった。そして今ではめでたく…形勢逆転だ」
 拳銃を取り出そうとした十才の手を、硬い革靴で踏み潰した。
 「ぐっ…」
 「おまえは念動力が使えるが万能ではないな?ナイフ、ガラス、氷…ここには他にも使えそうなものがあったのに、おまえは一切使わなかった。尖ったものしか扱えないんだろう、違うか?」
 十才は現に手動で発砲しようとしていたので、否定もできず、
 「だったらなんだ、オレをどうするつもりだ…っ」
 射殺さんばかりに彼を睨みつけた。
 「せっかくの駒が欠陥品というのは気に食わないが、おまえの戦闘能力があれば補完できるだろう」
 「何が、言いたい…」
 彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
 「おまえは超能力者だ、死なすには惜しいから選ばせてやる。この薬を飲んで私の子分になるか、今この場で死ぬか、どちらか選べ」
 賀野はそう言って怪しい瓶を十才に投げて寄越すのだった。
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