亡国の系譜と神の婚約者

仁藤欣太郎

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第六章 父祖の土地へ

第二百八十二話 人を殺すということ

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 ソフィは俯いたままこくりと頷いた。目の周りを赤くして年甲斐もなく鼻をすすり、もう何年も流していない涙を流しながら。それは二十年来の付き合いであるアンディの前だから見せられる姿だった。

 ソフィは無思慮な人ではない。アンディが単に党の面子や国家の行く末を案じて彼女を諭しに来たわけでないのはわかっていた。アンディの方もまた、ソフィの複雑な胸の内に薄々気付いていた。

 最初から説得できるなどとは思っていなかったのかもしれない。彼は自分がいったい何の不安に駆られて彼女に声をかけたのか判然としなかった。ただ漠然とした危うさを感じてのことだった、といっても間違いではない。

 アンディはソフィの気分が落ち着くのを待った。そして呼吸の乱れも収まったころ、彼女はかすれるような弱々しい声で話しはじめた。

「お父様……」
「うん?」
「お父様はわたしが国のために戦いたいと言ったとき、本気で怒ってくれた。自分が戦場に立てばこの戦争を終わらせられる。そう思い上がっていたわたしを、心から気遣って止めてくれた」
「……ああ、そうだな」

 ソフィは折に触れこのことを口にしていた。父のその行動がよほど強く心に残っていたのだろう。

「きっとお父様は、人を殺すということがどういうことか、よくわかっていてわたしに……」

 彼女はまた声を詰まらせ、こみ上げてくる自責と後悔の念に耐えた。人を殺すということ。意に反してとはいえ、一人で多くの人を殺めてしまったソフィは、それがどういうことか痛いほどよくわかっていた。

「それから国が滅んで、大切な人たちの助命のため仕方なくあなたたちに従って……」

 いまでも恨んでいる……などということはなかった。ただ親類縁者の命と引き換えにクーラン帝国に従ったことは、彼女の四十年の人生の中でも特に辛い記憶として残っていた。

「その節は、我が国がお前をマフィア掃討に加担させたことでド・ラ=ギャルデ卿の親心を踏みにじる結果になり、本当に申し訳なかった」

 アンディはテーブルに両手をつき深く頭を下げた。旧アナヴァン帝国の要人の処遇に、当時まだ軍部の一将校に過ぎなかった彼は関与していない。しかし彼も妻子ある身。ソフィの父の気持ちを慮れば、謝罪せずに済ませるわけにはいかなかった。ソフィは顔を上げ、弱々しい表情で彼を見た。そしてまたうつむき、小さくため息をついた。

「仕方ないわ。戦争に負けたんだから。それにわたしが犠牲になったことでみんな処刑されずに済んだんだもの。それだけでもおんの字と思わないと……」

 アンディはゆっくりと顔を上げたが、なんと言葉をかけたらよいのかわからず、ただ黙っているしかなかった。

 それからしばらく気まずい沈黙が続いた。そして時計の針の音が百を数えたあたりで、ソフィが続きを話しはじめた。

「任務の初日……初めて人を殺めたあの日のことはいまでもはっきり覚えているわ。あの夜は昼間の光景が頭にこびりついて、恐ろしくて一睡もできなかった。すぐにでも宿舎を飛び出してお父様のところへ行きたい。そんな気持ちで、震えと涙が止まらなかった……」

 そう言いながら、彼女は僅かに肩を震わせた。いま思い出してもおぞましい記憶なのだろう。しかしそれはまだ序の口だった。

「それからわたしはできるだけ人を殺さないよう、相手の戦意を喪失させるように最大限気を遣って戦った。でも負傷を負っても彼らは立ち上がって向かって来る……」
「……シノギの連中とはそういうものだ。動けるうちはどんな傷を負っても戦闘を止めない。我々も戦中から手をこまねいていた。拠点を制圧したら次は阿片あへんの取り締まり。だが戦いになれば奴らは死に物狂いでかかってくる」

 実際のところ、ソフィが地下組織の掃討に駆り出された理由もそれだった。旧アナヴァン帝国との戦争の真っ最中に貴重な戦力を減らしたくないクーランは、阿片の取り締まりは一旦保留し、戦争終結までこの問題を先送りにした。そして終戦後、圧倒的な力でマフィアを制圧するためにソフィの力を利用することに決めたのだ。

「……わたしは相手の足を負傷させて動きを止めようとした。でも片足を少し負傷したぐらいでは変わらなかった。仕方なくもう片方の足も攻撃して戦闘不能にして。それでも彼らは、這ってでも戦いを続けようとした」
「我々軍人から見ればただの討ち損じだった。捕虜にするにも両脚を負傷している者ばかりでは都合が悪い」
「そのわたしが討ち損じた敵にあなたたちがとどめを刺していくのを見て、わたしは恐ろしくてまた逃げ出したくなった」
「軍人だからな。私も死に行く敵になにも思わないわけではないが、それでは仕事にならない。割り切るほかない」

 アンディはその当時すでに歴戦の猛者であり、敵の死は日常だった。むしろその日常を仕事と割り切り、正気を保ち続けたからこそ軍部で出世できたとも言える。その彼からしたら、敵に逐一情けをかけるソフィは足手まといにすら感じられた。

「あのとき私はお前のことを完全に見くびっていた。魔力が極めて高いとはいえ所詮は戦闘経験のない小娘。実戦では使い物にならない、、とな」
「……そうならよかったのにね……」

 ソフィの顔はいっそう深い悲しみに染まった。

「あの状態が続くだけなら、きっとわたしはあのまま使い物にならない小娘でいられた・・・・。余計なことを知らなければ……」
「……おまえの元婚約者を奪った双子の姉か……」

 ソフィはこくりと頷いた。彼女はまた震えだしたが、それは先ほどの震えとは異なる性質のものだった。震えが収まると、彼女は改めて当時を思い返し語りだした。
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