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第三章 亡国の系譜
第百四十三話 『決定論と自由意志と世界の成り立ちについての仮説』その3
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講義が始まる前は寝てしまうかもしれないと思っていたジャンも、予想だにしない話の連続にすっかり引き込まれていた。
「では、次に力学の観点から見た決定論についてお話しましょう」
普段なら「力学」などという厳めしい学問の名前を聞いただけで睡魔に襲われる彼も、今回ばかりはそうではなかった。わからないなりに少しでも理解できることはないかとソフィの言葉に耳を傾けた。
「まずはリセの物理の授業で習う力学のおさらいです。苦手な方は少し難しいかもしれませんが、できるだけ簡単にお話します」
それからソフィは物体の運動について一から噛み砕いて説明した。彼女の説明は非常にわかりやすく、リセで赤点を何度もとったジャンも、物理を選択しなかったシェリーも、その内容を十分に理解できた。
ソフィは力学の基礎についてひと通りの予備知識をおさらいすると、再び本題に戻った。
「ここまでが現在リセで教えている力学の基礎ですね。では、これが決定論にどう影響するのでしょう?」
受講者の反応はまちまちだったが、答をすでに知っているかのような素振りをする者もいくらかいた。
「ご存じの方もいくらかいるようですが、これにも創造主ノエルが関係しています。科学の発展が加速しだすより以前、わたしたち人間の大半が創造主ノエルに対する素朴な信仰を抱いていた時代、この世界はすべて、神による超自然的な力によって動いているものとされてきました。そのような信仰は、いま解説した物体の運動に関する諸法則が発見されたあとも続きました。その中で生まれた仮説に次のようなものがあります。『仮にある瞬間におけるすべての物体の運動を把握できる超越的な存在がいるとすれば、その存在にとってはすべてが決定されているに等しい』。これをわかりやすく言い換えるなら、『すべての物体が運動の諸法則に従って動くのであれば、ある瞬間におけるすべての物体の運動からその後の動きを完全に把握することができる』といったところでしょう。この仮説における超越的な存在が神である、という主張は、いまでもいくらかの支持を得ています」
ここで少し話が難解になったため、受講者の半数ほどは難しい顔をした。ソフィはそれを見てとり、少し補足を加える。
「すべてが法則通りに動くのなら、その法則に当てはめればその後なにが起こるかわかる、ということですね」
ジャンとシェリーはこれを聞いてやっと意味を理解した。
「あー、そういうことか。法則がわかってればあとはその通りに動くだけだもんな」
「ジャン、あんたにしては理解が早いわね」
「『にしては』は余計だろ? まあ、おばさんの説明がうまいからだけど」
彼の中にも知的好奇心のようなものが生まれたのだろうか。その表情はいつもよりジェラールに似ているようにも見えた。
ソフィはさらに話を進めた。
「すべての物理的な現象を運動法則に正しく当てはめれば、未来をすべて把握することができる。だから世界の推移はあらかじめ決定されているも同然。これが少し前の物理学における決定論の解釈です。先ほどの偽装された過去の話よりしっくりくる感じがしませんか?」
受講者のいくらかは納得した様子で頷いた。たしかに物体の運動という身近なことの延長なら違和感は小さい。だからといって人間に自由意志がないとする決定論に、好感を持てるわけではないが。
「では本当に世界は運動の諸法則に従って推移しているだけなのでしょうか?」
しかしソフィは、同意を示した受講者に対してさらなる疑問を投げかけた。力学的な観点から見た決定論は、一見して付け入る隙のない完全な説のように思われた。これにどのような疑問を差しはさめるというのだろうか?
「いまから六十年ほど前に原子というものが発見されたことは、ご存じの方もいるでしょう。自然界のあらゆるものはおそらく無数のミクロな原子によってできている、というのが現在の科学における統一的な見解です。しかしそれらの原子の性質を決めるのがなにかまではつかめていません。なぜそれらは異なる性質を持つのか? これにはいくつかの説がありますが、最近ある発見によって、あるひとつの有力な説が浮かび上がってきたのです。その発見とは、原子が微量の電荷を帯びているということです。原子は状況によって正の電荷を帯びることもあれば負の電荷を帯びることもあります。安定した状態ではプラスマイナスはゼロになるのですが、これらをふまえて推測すると、おそらく原子は正の電荷を帯びたなにかと、負の電荷を帯びたなにかで構成されていると考えられます。問題は、その『なにか』がこれまですべての物体の運動に適用できると思われていた法則通りに動くかという点です。ミクロな世界に関して、当研究所はすでにいくつかの不可解な事象を確認しています。そしてそれらの事象は従来の運動法則による予測が適用できず、運動の結果は確率論的に決定されるという説が濃厚になってきています」
最先端の研究に話が及ぶと、インテリのニコラもそれを知らないのか、せわしなくノートをとりはじめた。ジャンとシェリーは話の筋をなんとなく追いかけるのがやっとだった。
「この世界のすべてを動かしていると思われていた運動の諸法則が、ミクロな世界では適用できないかもしれない。そして物体の動きが確率論的に推移するのであれば、この世界で起こる事象は決定論的にではなく確率論的に決まっている可能性が高い。これが当研究所が出した予測です」
ソフィの澄みきった声が大教室に響き渡る。二百人からの受講者は先ほどのざわめきから一転、水を打ったように静まり返っていた。
{作者補足:今回の力学的観点から見た決定論は「ラプラスの悪魔」が元ネタです}
「では、次に力学の観点から見た決定論についてお話しましょう」
普段なら「力学」などという厳めしい学問の名前を聞いただけで睡魔に襲われる彼も、今回ばかりはそうではなかった。わからないなりに少しでも理解できることはないかとソフィの言葉に耳を傾けた。
「まずはリセの物理の授業で習う力学のおさらいです。苦手な方は少し難しいかもしれませんが、できるだけ簡単にお話します」
それからソフィは物体の運動について一から噛み砕いて説明した。彼女の説明は非常にわかりやすく、リセで赤点を何度もとったジャンも、物理を選択しなかったシェリーも、その内容を十分に理解できた。
ソフィは力学の基礎についてひと通りの予備知識をおさらいすると、再び本題に戻った。
「ここまでが現在リセで教えている力学の基礎ですね。では、これが決定論にどう影響するのでしょう?」
受講者の反応はまちまちだったが、答をすでに知っているかのような素振りをする者もいくらかいた。
「ご存じの方もいくらかいるようですが、これにも創造主ノエルが関係しています。科学の発展が加速しだすより以前、わたしたち人間の大半が創造主ノエルに対する素朴な信仰を抱いていた時代、この世界はすべて、神による超自然的な力によって動いているものとされてきました。そのような信仰は、いま解説した物体の運動に関する諸法則が発見されたあとも続きました。その中で生まれた仮説に次のようなものがあります。『仮にある瞬間におけるすべての物体の運動を把握できる超越的な存在がいるとすれば、その存在にとってはすべてが決定されているに等しい』。これをわかりやすく言い換えるなら、『すべての物体が運動の諸法則に従って動くのであれば、ある瞬間におけるすべての物体の運動からその後の動きを完全に把握することができる』といったところでしょう。この仮説における超越的な存在が神である、という主張は、いまでもいくらかの支持を得ています」
ここで少し話が難解になったため、受講者の半数ほどは難しい顔をした。ソフィはそれを見てとり、少し補足を加える。
「すべてが法則通りに動くのなら、その法則に当てはめればその後なにが起こるかわかる、ということですね」
ジャンとシェリーはこれを聞いてやっと意味を理解した。
「あー、そういうことか。法則がわかってればあとはその通りに動くだけだもんな」
「ジャン、あんたにしては理解が早いわね」
「『にしては』は余計だろ? まあ、おばさんの説明がうまいからだけど」
彼の中にも知的好奇心のようなものが生まれたのだろうか。その表情はいつもよりジェラールに似ているようにも見えた。
ソフィはさらに話を進めた。
「すべての物理的な現象を運動法則に正しく当てはめれば、未来をすべて把握することができる。だから世界の推移はあらかじめ決定されているも同然。これが少し前の物理学における決定論の解釈です。先ほどの偽装された過去の話よりしっくりくる感じがしませんか?」
受講者のいくらかは納得した様子で頷いた。たしかに物体の運動という身近なことの延長なら違和感は小さい。だからといって人間に自由意志がないとする決定論に、好感を持てるわけではないが。
「では本当に世界は運動の諸法則に従って推移しているだけなのでしょうか?」
しかしソフィは、同意を示した受講者に対してさらなる疑問を投げかけた。力学的な観点から見た決定論は、一見して付け入る隙のない完全な説のように思われた。これにどのような疑問を差しはさめるというのだろうか?
「いまから六十年ほど前に原子というものが発見されたことは、ご存じの方もいるでしょう。自然界のあらゆるものはおそらく無数のミクロな原子によってできている、というのが現在の科学における統一的な見解です。しかしそれらの原子の性質を決めるのがなにかまではつかめていません。なぜそれらは異なる性質を持つのか? これにはいくつかの説がありますが、最近ある発見によって、あるひとつの有力な説が浮かび上がってきたのです。その発見とは、原子が微量の電荷を帯びているということです。原子は状況によって正の電荷を帯びることもあれば負の電荷を帯びることもあります。安定した状態ではプラスマイナスはゼロになるのですが、これらをふまえて推測すると、おそらく原子は正の電荷を帯びたなにかと、負の電荷を帯びたなにかで構成されていると考えられます。問題は、その『なにか』がこれまですべての物体の運動に適用できると思われていた法則通りに動くかという点です。ミクロな世界に関して、当研究所はすでにいくつかの不可解な事象を確認しています。そしてそれらの事象は従来の運動法則による予測が適用できず、運動の結果は確率論的に決定されるという説が濃厚になってきています」
最先端の研究に話が及ぶと、インテリのニコラもそれを知らないのか、せわしなくノートをとりはじめた。ジャンとシェリーは話の筋をなんとなく追いかけるのがやっとだった。
「この世界のすべてを動かしていると思われていた運動の諸法則が、ミクロな世界では適用できないかもしれない。そして物体の動きが確率論的に推移するのであれば、この世界で起こる事象は決定論的にではなく確率論的に決まっている可能性が高い。これが当研究所が出した予測です」
ソフィの澄みきった声が大教室に響き渡る。二百人からの受講者は先ほどのざわめきから一転、水を打ったように静まり返っていた。
{作者補足:今回の力学的観点から見た決定論は「ラプラスの悪魔」が元ネタです}
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