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二章 われわれのいる意味
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住宅街は人通りも車の往来も少ないが、何故かどこからともなく人の囁き声だけが耳には届く。民家の曲がり角から、カーテンを閉めた家の中から、資格になった家の二階から。突然現れた怪しい三人組を訝しんで、見張っているのだろう。
そして、男の一人が背負ったエンブレムを見て、思わず口に出す。「人権財団のエージェントだ」と。
「要さん、制服で目立ちます。どうかご注意を……」要に忠告を告げた後で、斎藤は二階からスパイ映画がそうするように、おっかなびっくり覗き込んでいた男に気が付く。そちらの方向を睨みつけると、男はぎょっとした表情を浮かべてカーテンを引いた。情けない奴だ。
「分かってるって、僕がこれまでバレた事あった?」二ケタでは済まないほど見つかってますよ、メタルギアなら一瞬で囲まれてゲームオーバーです。そう突っ込みかけたが、ここまで直接的に言うと、流石に要でも突っかかって来るだろうと思い、諦める。これ以上時間無駄にしてたまるか。
突然、体をほぐしていた要が、コートの裾を翻し、その場でしゃがみ込んでクラウチングスタートの姿勢を取る。
「いってらっしゃい、要さん」「行ってきます!」
猫を思わせるしなやかな動きで、タイル張りの民家の壁に向かって走り出す。
チョロQかよ。その速さで激突すれば無事では済まないぞ。そう心配するほどに凄まじい速度で突進する要を横目に斎藤は切に願う。どうかそのままゴツンと行ってくれ。そんで壁に人型の穴開けろ。トムとジェリーみたいに。
斎藤の呪詛と祈りなど知った事かと言わんばかりに、要は階段を登るような所作で足を掛け、それと同時に周りに赤雷を舞わせる。大股で階段を上るような自然さで、要は垂直に壁を駆け上がる。
「おお、忍者みたい」鰰が吞気に呟く。こんな派手でうるさい忍者が居てたまるか。斎藤はげんなりと要を見上げる。
──勢いそのまま、高所から落ちるような仕草で、要は空中へとその身を投げ出す。
──壁から足が離れる瞬間、要の体が閃光の如く瞬く。赤い稲妻が要から放たれた。
空に投げ出された要の体は、不思議な石の力で空から落ちて来る少女のアニメーションを、そのままの速度で逆再生したかのように、上へと落下していく。
相応の勢いで、打ち上げ花火のように空に放たれた要が再び雷を放つ。あぁ、落ちる向きを変えたな。何度も見た挙動に反応する。
斎藤の予想通り、落ちる機動がぐにゃりと変わる。空中の見えない板を滑るかのように、空を水平に移動する要は、何度見てもシュールだ。
ある程度横に落ちたところで、再度稲妻が放たれる。上に落ち、左に落ち、かと思えば通常通り地面に向かって落下する機動を繰り返す。
空中でジグザグな軌道を描き、その都度要は赤い稲妻を周囲に振りまく。まるで、花火大会のクライマックスのように、そこかしこで雷光が舞う。
「すげぇ、ホントに空飛んでんのな」200メートル程離れた、適当な民家の屋根に着地し、猫のように背を丸めて駆けていく要を見上げながら、鰰は気の抜けた声を上げる。「え、初見?」遥が目を丸くする。
「何、そんな一般的なもんなの、アレ」遠ざかっていく要から目を離すことなく、鰰が肩をすくめる。
「マジもんの初見かよ!? お前あのあばら屋から一歩も外出たことないんか!?」今度は信じられないといった面持ちで、遥が鰰に顔を向ける。
「珍獣みたいなもんだろ、飛行男。金曜夜の駅前とか、真っ昼間の川端とか、休日の御所野のショッピングモールとか。天気いい日に市内をぶらぶらしてると一日一回はどっかで見られる」
斎藤のつぶやきになにか言いたげだった鰰は、諦めたように鼻を鳴らし、再び空を見上げる。空を駆ける青年の姿は、何処かで地へと降りたのか、遠くに行ってしまったのか、もう既に何処にも見えなかった。
「『空には規則すら存在しない』ってか? いいねぇ、重力の無い生活。憧れるぜ」「本気で言ってんのか……」
「お前、この大空に翼はためかせ飛んでいきたくねぇのか? 富と名誉は無いが、悲しみも争いもねぇんだぞ?」
懐かしいな。中学の合唱コンクールを思い出しながら、斎藤はため息をつく。
「……俺は……鳥にも天使にもなりたくないし、ましてや谷内要になんてもっとなりたくない」
ぽつりとつぶやいた後で、思っていた以上に深刻な声色であった事に気が付き、恥ずかしさがこみ上げてくる。うぅわ、後輩相手に何グチってんだ俺。
「あ、今あいつって言った」「呼び捨てだ、いけないんだ。チクっちゃお」
斎藤の心中などいざ知らず、二人は斎藤の失言にツッコミを入れる。ああよかった。この二人、意外とアホだ。
「……一回、一回だけ冷静になって考えてみな? あの異能、落ちる方向……っつーか、アレ重力操るだけだぞ? 欲しいか?」「う……そう言われると微妙。透明になれるヤツがいい」
俺なら何がいいかな。そう想像を巡らせかけ、慌てて思考をかき消した。そんなものを手に入れたところで、この街では過ぎた宝だ。
「だが、炎起こす奴は沢山いるだろ。落下自在人間が何人もいたっておかしくない」
「いいや。二年間探し回ったがあの異能は見つかんなかった。今まで財団が捕まえた異能力者の名鑑にも載ってなかったしな」目を輝かせる鰰に対し、斎藤はきっぱりと否定する。
何か月か前、何処かで異能力者の詳細な資料を目にした事を思い出す。
部屋の中は夕暮れ時で、オレンジ色の陽光に包まれていたような気もするし、朝早くで窓の外は霧に満ちていた気もする。そもそも見た場所も覚えていない。屋上近くの会議室だった気がするし、光すら射さない地下の収容所の待機室だったような気もする。
誰かを待っていたのか、理由も無くサボっていたのか、手持ち無沙汰な中ぺらぺらと資料をめくり、異能者の顔写真と説明を覗く。
そんなおぼろな記憶の中でも、犠牲者達の悲痛な面持ちの証明写真と、簡で素な箇条書きの文章で記載された異能力の詳細、そして要は近くに居なかった事だけは、はっきりと覚えていた。
極度の焦燥と恐怖に駆られ、小さな瞳を更に縮小させている発火能力者、収容後の事を想像し、吐き気に苛まれたのか青い顔を震わせている植物の成長促進能力者、撮影者を睨み殺さんばかりの気迫を纏う、強化された消化器官をもつ男、体重の倍化、肉体の剛性の上昇、性質の異なる物品同士の接着、不明な成分による繊維質の精製……
収容した日付順に並べられた異能の一覧はバラエティ豊か、悪く言えば統一性も関連性も見受けられない、研究資料としては意見に困る状態だった。一旦ファイルをひっくり返し、表紙に刻まれた編集者の名前を見る。
異能力閲覧資料。編集者、黒澤茜。斎藤はぎょっとする。総長、寝不足だったんだな。
再び、顔写真と異能の箇条書きだけをぼんやりと眺めながら、半分程度まで資料をめくった辺りで気がついた。
──一番身近な奴、『重力操作』が一人も居ねぇな。──
ぼんやりと意識しながら、異能者達の歴史をさらに過去へと遡る。気圧の操作による風の発生、火炎の操作、特定物質の複製……
最後のページをめくり、写真の欄に見慣れた顔が、氷のような無表情を浮かべているのを確認する。
要さん、こんな表情できるんだな。貼り付けられた顔写真から伺える情報は本当に少ない。眉も目線も口角も水平を描き、瞳には輝きが見られない。髪が今よりも短く、輪郭だけならばより快活な印象を受けるが、その程度の変化しか見られない。
普段ののほほんとした雰囲気も、少女のような柔らかな空気も感じられず、かといって生真面目さも情熱も感じられない。今の彼を知る者からすれば、ひた不気味な写真だった。
その後、何度か資料をめくり直したはずだが、皺と汚れが目立ち始めた始まりの一枚目の他に、要のものと同じ異能を確認することは出来なかった。
「いいね、その資料どこに置いてある? 普通に読みたい」今度は真剣な表情で、鰰がぽつりと呟く。
「多分事務所の資料室だったか、地下の収容所の待機室だったかに行けば普通に見れると思うぞ。終わったら寄ってみな」
腕時計に目を向ける。十五時二十分。索敵から帰ってくるまで十分くらいか。休憩には丁度いいかもな。
斎藤も空をぼんやりと見上げる。いつもと同じ曇り空、どこか遠くから聞こえる車のエンジン音。日常が空を覆っていた。
斎藤が小さく息を吐いた瞬間、静かな住宅街に破裂音が響き渡り、九〇メートルほど離れた民家の陰から、黄色の煙が立ち昇った。
「作戦変更の合図だッ! 二人は目標がここに来るまで待機! 赤い煙か炎が見えたらすぐ来いッ!」「ほぇ?」
呆けた声で聞き返す遥を無視して、銃口から放たれた弾丸のように、その場から一息に駆け出す。
分かりやすい簡素な路地であった事に感謝する。じめじめとした民家の隙間を通り抜け、無人となった家屋の庭を突っ切り、散歩する老人すらいない通りに出た所で左に曲がる。そうやって民家を横切り、発煙の麓に近づくたびに、その家のカーテンが次々と閉じられていく。くそ。人の事猛獣みたいな扱いしやがって。
少しだけ他より広い民家の角を曲がった先、左手に広がる無人の大通りでは、もう既に二人の人影が格闘を繰り広げていた。
剣豪の如く両手に二対の警棒を携え、丈長の外套を羽ばたかせる小柄な人影と、パーカーにトレーナーズボンのラフスタイルで赤茶色の短髪を揺らしながら、手のひらからもくもくと煙を出し続ける少年。
「なんだって言うんだよ!」「だから、言ったでしょ! 人研財団だ! 手から火炎放射する人間なんてほったらかしに出来るか!」
声が聞こえる範囲まで駆け寄ると、二人は格闘だけでなく、口論も交わしていた。片や、飛び跳ねながら赤雷と共に体をねじり、着地と共に素早く棒を振り貫き牽制を入れる要と、片や、歪な体勢から放たれた半端な牽制にもひるまず、着地した瞬間を狙い、しゃがみ込むチビに広げた両手を向ける少年。
カートゥーンみたいなやりとりだ。手を向けられては飛び跳ね、棒で空を切り裂き、狙われては飛び跳ねを繰り返し続ける。
「あっ……! 斎藤君気ぃつけて! いつもの指パッチンで火の粉の騒ぎじゃない! 強いぞ!」「タイプは!?」「かめはめ波!」
駆け寄る部下に気が付き、要が悲鳴にも近い注意喚起を促す。ああもうなんて素直な先輩なんだ。不意打ち極めるチャンスだったのに。
「財団のカス共がァ! 寄ってたかって!」芋づる式に少年も斎藤に気が付く。がらがらの涙声で悲鳴を上げて、両手の照準を要からこちらに移す。掌の前の空間から、陽光のようなか細い光が漏れ始めた。
目くらましか? 閃光に備え、利目とは反対側、左目を堅く瞑りながら、隻眼の状態で少年を観察する。目測で六メートル、光に集中し過ぎで、俺の動きにはそこまで気を張ってない。方向感覚さえ損なわなければ一撃食らわせられる距離だな。
深く息を吸込み、大地を踏みしめ、一気に少年との距離を詰める。大股で二歩近づいた所で、目前の少年から緩い熱を感じ、瞼を開く。
あ、これ全然目くらましじゃねぇな、普通に攻撃だわ。死ぬかも。慌てて踵を返し、突進に急ブレーキをかける。急発進、急停止、また急発進とブレーキ。煽り運転かよ。
開いた左目にも、徐々に大きくなっていく光球が映った。発射タイプだな。これまでに見てきた発火能力者のやり口が、幾つか脳裏をよぎる。
触れた物体を燃やせるもの、指パッチンなどの小さな動作が発火用のスイッチとして作用するもの、そして今回のように、火種も燃料も無く炎を出現し、限定的に操ることもできる火炎系の最上位。
「大層な火起こしだな、マッチの方がよくないか」敵が相応の手練れと確認した上で、聞こえるような声で皮肉を漏らす。
「──欲しくもねぇんだよ! こんな能力なんかよォォ!」少年は斎藤の皮肉を受け止めきれなかったのか、一瞬だけ呆けた顔を浮かべ、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴り散らかす。
久しぶりのまともなレスポンスに口が綻ぶ。そうそう、こういうツッコミが欲しいんだよ。
「死ね、クソ野郎共がァ!」小さな太陽が少年の手元を離れる。波動拳みてぇだな。迫る火炎弾から目を晒さず、素早く冷静に分析に徹する。
日向のような柔らかく暖かいものだった火炎球の熱は、数コンマごとに近づくにつれ温もりとは言えない、苦痛を伴うような苛烈な熱さを伴ったものになっていく。
全然波動拳じゃねぇわ、めっちゃ遅いな。向かってくるボールの大きさと速度に、斎藤は球技大会の様相を思い浮かべていた。この軌道なら顔面セーフになりそうなもんだがね。
目前に迫った火球をしっかりと見据えたまま、斎藤上半身から力を抜き、横にゆっくりと捻る。真っ直ぐに胸部に向かってきたボールは、斎藤の胸を大幅に掠め、ちりちりと上着を炙ったうえで、後方へと消えていった。
避けた傍から汗が吹き出て来る。大幅に余裕を持って避けたつもりだったが、火球の熱は顔を焦がすかの如きものだった速さはともかく温度はやばいな。防がなくて正解だ。
三日前、寝る前に見た戦争映画のワンシーンが脳裏に浮ぶ。塹壕に逃げた敵兵を一網打尽にする火炎放射器。軍服に着いた炎を消そうと金切り声を上げながら転げまわるドイツ兵。仲間の仇だと嘲笑いながら敵兵が焼け死ぬのを見る味方の兵士たち。焼死は嫌だ。異能の炎で死ぬのはもっと嫌だ。
上体を捻った勢いのまま、舞を踊るような動きでくるりと体を回す。少年の正面に来るであろう右手も緩く握ったまま、腰から下の動きもゆるりとした回転に合わせる。
「ッ噴!」半回転を迎えた辺りで、素早く足を大股に開き、拳を緩く握ったまま、肘に万力のような力を込め、再度相まみえた少年の腹部目掛けて打ち込む。
並べた指の腹に柔らかな腹の肉の感触を感じた瞬間、下半身の踏ん張りに意識を集中させる。足から腰、腰から背、背中から肩。鞭がしなる様子をイメージしながら、水月に入った拳を加速させる要領で押し込む。
ぐぅ、苦痛から少年が低く唸り、痛みに身悶えしながらも、斎藤を鋭く睨みつける。ゆっくりとみぞおちに入った腕を掴む。
マジかよ。腕を捕らえられた斎藤が再び冷や汗を掻く。今の一撃なら金属バットもぼっきりイケたぞ? そんなに頑丈な異能者いる訳ねぇだろ?
「焼け死ね……!」少年の掌を通して右腕にじわりと、電気ストーブを押し当てられたような強い熱を感じた。温い。思ったのも束の間、一コンマごとに熱は強く高くなっていく。
マズい、本当に燃える。そう思った瞬間にはすでに、袖から焦げ臭い煙が漂ってきた。
「要さぁぁぁん!」掴まれて二秒と経たず、煙の勢いが一気に増す。火がつく直前の挙動だった。
「こら、若人が簡単に死ねとか言うな」ひゅん、と風を切る音が耳を鳴らす。横から要が振り貫いた警棒は斎藤の肩を擦るように飛び、少年の顎を勢いよく捉えた。すぱぁん、と甲高い音が鳴り響く。
みるみるうちに少年の顎が赤く腫れ始め、ぐるりと目があらぬ方向を向く。脳震盪だな。糸が切れた操り人形のように膝から崩れ落ち、道路と頬ずりを交わす。
「華麗に、入りましたね。技名でも付けたらどうですか?」
少し上ずった息で、腰を抜かしたまま、苦し紛れに要に冗談を投げる。何してんだ俺。お礼言えよ、超カッコ悪いぞ。
「技名はともかく、腕大丈夫? 護送車と一緒に医療班も呼ぼうか?」「あ、ええと……」掌を握ったり開いたりを繰り返して、痛みと動きを確認する。
「少し痛みますが、問題は無いです……いい生地の上着で助かりました」「『幸運のお守り』だねぇ、それ着てスカイダイビングしてみなよ」
マイナーな冗談にくすりと笑う。「要さん好きですよね『3』。最新作観ました?」「『ジュラシックワールド』? まだ観てなーい。斎藤君は?」
俺もまだですよ。そう答える寸前に、足元の少年が派手に咳きこんだ。
要がステップを踏む要領で数歩分引き下がり、斎藤が少年の襟首を掴んで、力ずくで引きずり上げる。
力なく立ち上がった少年の後ろに組み付き、腕を肩甲骨と合わせるように捻じ曲げる。痛覚は生きているのか、少年はぐうと唸り声をあげた。
「放せ、放せよクズが!」火球の熱量と肉体の頑強性は高かったが、それ以外は他と大差ないな。暴れ回る少年の腕を捻りながら、斎藤は思考を巡らせる。
両手を揃えなければ着火出来ず、十分な火力を保持した火球として発射出来るようになるには、炎を集める溜め時間が必要。
これも格ゲーと一緒だな。コマンド入力さえさせなければ必殺技も飛んでこない。密着状態なら波動拳より投げの方が早い。我ながら、アレックスみたいな打撃キャラでよかった。
「手放したら君また燃やすでしょ……」要が再び顎を撃つべく、警棒を構えながら近づき、射程範囲に入った所で立ち止まる。
「あっと……うーん……どうしょっかな……」「どうしました?」
「斎藤君、変わってもらってもいい?」警棒を下げて、斎藤に向けて首を傾げる。仕草は似合ってるが、凶器手に持ったままのそれは相当不気味だぞ。
「了解。首でいいですよね?」
「うんにゃ、肩外しちゃって。ここまで敵対的だと、気絶してもらっても、輸送中に起きたら僕ら全員一気に車の中で火だるまだ。物理的に動けなくしてボヤ騒ぎだけは避ける方向で行こう」
微笑しながらとんでもないこと言うなこの人。両肩脱臼したまま「城」まで運べって? 後頭部から少年の表情をうかがうことはできなかったが、びくりと震えたのが伝わった。
「了解。ただ、体制変えた時に燃やされるのも怖いし、意識あるまま外すのも流石にアレなんで、もう一度揺さぶりお願いします」
要が無言で頷く。畳んだ警棒をもう一度引き伸ばし、構えると同時に、憑き物が落ちるように微笑みがすとんと消えた。
迫力と薄気味悪さから身が竦んだ。少年の肩越しに、ほんの一瞬目が合っただけでも背筋がぞくりと震える。
異能図鑑の顔と一緒だった。不気味さに耐えられず、目を横に流した瞬間、再び突風が頬を掠め、軽い衝撃が体を伝わる。少年がびくんと一際大きく体を震わせたかと思うと、再び力なくがくりとうなだれる。
「いいよ。やっちゃって」「っし、戻す時のが痛いだろうがそれは我慢しろよ……」
抑揚の無い要の声を合図に、失神した少年を投げ捨てるように乱暴に転がし、肩甲骨を動かないように踏み付け、少し捻った状態で右手を掴む。ドライバーで螺子を緩めるイメージを浮かべ、一気に右腕を捻り抜く。
形容するならぎゅきり、とでもいうような、音とも振動とも取れない気色の悪い感覚が斎藤の腕を伝わった。掴んでいた右腕をぱっと離す。支えを失ったおもちゃの人形が崩れ落ちるように、関節をぐにゃりと歪めながら地面に落ちた。
少年は身じろぎもしない。もう片方の腕も拾いながら脈を測る。生きてるよな?
「ってかさ、よく分かったね『幸運のお守り』。映画好きなの分かるけど」「はぇ? ああ、さっきのアレですね」
突然、元の調子に戻った要の一言にはっとする。何の話かと、体制もそのままに一瞬だけ思い悩み、すぐに思い出す。さっきの話の続きだ。
「……何度も見たシリーズですから」少年の手を捻ったまま、苦笑いでそう答える。そう、本当に思い出深いシリーズ。
映画、という文化を初めて知った日の事だ。まだ若く気力に満ちていた母親と、まだ実家で学生をやっていた姉に両手を引かれて、ショッピングモールに併設された映画館のゲートを潜った日の事だ。
「思い出の映画なの? いい機会じゃん。せっかくだから映画館に見に行けば?」要が首を傾げる。
「映画の全てがいい思い出という訳でもありません、産まれて初めて見た映画が『Ⅱ』だったんですよ?」
初めて観たスクリーンの向こうの情景は鮮烈だった。大画面の向こう側で本能のままに大暴れする恐竜たち。金儲けのためだけに、その生活を踏みにじっていくレンジャー隊、ロサンゼルスの港町をめちゃくちゃにして、そして眠りにつくティラノサウルス。
母親による映画のチョイスが、自身の娯楽性と世間の流行を優先したせいで、今でもパニック映画は苦手だ。
一度始まってしまえばなんてことはないのだが、目の無い酸性の血を持った異邦人も、人喰いホオジロザメも、東京を蹂躙する怪獣王のシリーズも、未だにレンタルには躊躇している。
「ああなるへそ。怖いもんね、トレーラー落ちるあたりとか」
おう、例によってそこかよ。トラウマ直撃。腹立ち交じりに少年の左手も捻る。見た目よりも細い腕が、力なく震える感覚が伝わった。
足元で蜘蛛の巣のように走った窓ガラスのひび割れと、上から迫る牙だらけの顎。冷たい手でゆっくりと背筋を撫でられたような、引きつったヒロインの悲鳴。もしも恐竜が自分の家に来たら。その夜はそんなくだらない想像をして、でも怖くて、姉と一緒に寝たことも思い出す。
ああクソ、今でも嫌だ。あの頃の姉さんみたいに、せめて隣に誰か居りゃ普通に見れんのに。当然そんな醜態を見せられる人間はいない。ワンナイトラブも行き刷りの恋愛もいくらでもあるのに、隣で手を握って映画を見る相手は居ない。何だこの人生は。
でも、最新作、最新作か。トラウマと好奇心の間で、斎藤はぐらぐらと揺れる。
「じゃあさ、今度のお休みの日、一緒に観に行こうよ」
「ああ、いいですね」渡りに船のような要の提案に、深く考えもせず、反射のような速度で答える。次の休み。二日後、木曜日。平日で空いてるし、たまにはスクリーンの映画もいいな。呑気で陽気な要さんと一緒なら、牙だらけの大きな顎も怖くない。
──ん? 要さんと一緒?──
「えへへ、斎藤君とデートだ。超楽しみ! スピノサウルスとか、また出るのかなぁ」花が咲くように、少女のように無邪気に要が微笑む。こいつ、ホントに二十代か?
コミックの中から抜け出てきたようなスタイリッシュなロングコートと、ころころと笑う丸い顔とふわりとした茶髪、そしてその足元で死んだように仰向けに横たわる少年という状況とのギャップに、引きつった笑いが漏れる。
「……要さん、人喰われるシーンで叫んだりしませんよね?」どこからツッこむか悩んだ挙句、映画の雑談へと着地する。少年、悪いがもうちょっと苦しんでくれ。このジャケット相応に高かったんでね。
「あ、バカにされてる? 残念だけど、実は僕は僕パニックもホラーも大好きなのさ。グレムリンとかバタリアンとか」「それはどっちもコメディでしょう……」「嘘だぁ! グレムリン怖いじゃん!」
要の抗議の声を聞き流しながら、普段なら心の中で思うだけだった皮肉が口を突いて出てきた事と、それに要が乗っかって来た事に、斎藤は少し驚いていた。
そして、男の一人が背負ったエンブレムを見て、思わず口に出す。「人権財団のエージェントだ」と。
「要さん、制服で目立ちます。どうかご注意を……」要に忠告を告げた後で、斎藤は二階からスパイ映画がそうするように、おっかなびっくり覗き込んでいた男に気が付く。そちらの方向を睨みつけると、男はぎょっとした表情を浮かべてカーテンを引いた。情けない奴だ。
「分かってるって、僕がこれまでバレた事あった?」二ケタでは済まないほど見つかってますよ、メタルギアなら一瞬で囲まれてゲームオーバーです。そう突っ込みかけたが、ここまで直接的に言うと、流石に要でも突っかかって来るだろうと思い、諦める。これ以上時間無駄にしてたまるか。
突然、体をほぐしていた要が、コートの裾を翻し、その場でしゃがみ込んでクラウチングスタートの姿勢を取る。
「いってらっしゃい、要さん」「行ってきます!」
猫を思わせるしなやかな動きで、タイル張りの民家の壁に向かって走り出す。
チョロQかよ。その速さで激突すれば無事では済まないぞ。そう心配するほどに凄まじい速度で突進する要を横目に斎藤は切に願う。どうかそのままゴツンと行ってくれ。そんで壁に人型の穴開けろ。トムとジェリーみたいに。
斎藤の呪詛と祈りなど知った事かと言わんばかりに、要は階段を登るような所作で足を掛け、それと同時に周りに赤雷を舞わせる。大股で階段を上るような自然さで、要は垂直に壁を駆け上がる。
「おお、忍者みたい」鰰が吞気に呟く。こんな派手でうるさい忍者が居てたまるか。斎藤はげんなりと要を見上げる。
──勢いそのまま、高所から落ちるような仕草で、要は空中へとその身を投げ出す。
──壁から足が離れる瞬間、要の体が閃光の如く瞬く。赤い稲妻が要から放たれた。
空に投げ出された要の体は、不思議な石の力で空から落ちて来る少女のアニメーションを、そのままの速度で逆再生したかのように、上へと落下していく。
相応の勢いで、打ち上げ花火のように空に放たれた要が再び雷を放つ。あぁ、落ちる向きを変えたな。何度も見た挙動に反応する。
斎藤の予想通り、落ちる機動がぐにゃりと変わる。空中の見えない板を滑るかのように、空を水平に移動する要は、何度見てもシュールだ。
ある程度横に落ちたところで、再度稲妻が放たれる。上に落ち、左に落ち、かと思えば通常通り地面に向かって落下する機動を繰り返す。
空中でジグザグな軌道を描き、その都度要は赤い稲妻を周囲に振りまく。まるで、花火大会のクライマックスのように、そこかしこで雷光が舞う。
「すげぇ、ホントに空飛んでんのな」200メートル程離れた、適当な民家の屋根に着地し、猫のように背を丸めて駆けていく要を見上げながら、鰰は気の抜けた声を上げる。「え、初見?」遥が目を丸くする。
「何、そんな一般的なもんなの、アレ」遠ざかっていく要から目を離すことなく、鰰が肩をすくめる。
「マジもんの初見かよ!? お前あのあばら屋から一歩も外出たことないんか!?」今度は信じられないといった面持ちで、遥が鰰に顔を向ける。
「珍獣みたいなもんだろ、飛行男。金曜夜の駅前とか、真っ昼間の川端とか、休日の御所野のショッピングモールとか。天気いい日に市内をぶらぶらしてると一日一回はどっかで見られる」
斎藤のつぶやきになにか言いたげだった鰰は、諦めたように鼻を鳴らし、再び空を見上げる。空を駆ける青年の姿は、何処かで地へと降りたのか、遠くに行ってしまったのか、もう既に何処にも見えなかった。
「『空には規則すら存在しない』ってか? いいねぇ、重力の無い生活。憧れるぜ」「本気で言ってんのか……」
「お前、この大空に翼はためかせ飛んでいきたくねぇのか? 富と名誉は無いが、悲しみも争いもねぇんだぞ?」
懐かしいな。中学の合唱コンクールを思い出しながら、斎藤はため息をつく。
「……俺は……鳥にも天使にもなりたくないし、ましてや谷内要になんてもっとなりたくない」
ぽつりとつぶやいた後で、思っていた以上に深刻な声色であった事に気が付き、恥ずかしさがこみ上げてくる。うぅわ、後輩相手に何グチってんだ俺。
「あ、今あいつって言った」「呼び捨てだ、いけないんだ。チクっちゃお」
斎藤の心中などいざ知らず、二人は斎藤の失言にツッコミを入れる。ああよかった。この二人、意外とアホだ。
「……一回、一回だけ冷静になって考えてみな? あの異能、落ちる方向……っつーか、アレ重力操るだけだぞ? 欲しいか?」「う……そう言われると微妙。透明になれるヤツがいい」
俺なら何がいいかな。そう想像を巡らせかけ、慌てて思考をかき消した。そんなものを手に入れたところで、この街では過ぎた宝だ。
「だが、炎起こす奴は沢山いるだろ。落下自在人間が何人もいたっておかしくない」
「いいや。二年間探し回ったがあの異能は見つかんなかった。今まで財団が捕まえた異能力者の名鑑にも載ってなかったしな」目を輝かせる鰰に対し、斎藤はきっぱりと否定する。
何か月か前、何処かで異能力者の詳細な資料を目にした事を思い出す。
部屋の中は夕暮れ時で、オレンジ色の陽光に包まれていたような気もするし、朝早くで窓の外は霧に満ちていた気もする。そもそも見た場所も覚えていない。屋上近くの会議室だった気がするし、光すら射さない地下の収容所の待機室だったような気もする。
誰かを待っていたのか、理由も無くサボっていたのか、手持ち無沙汰な中ぺらぺらと資料をめくり、異能者の顔写真と説明を覗く。
そんなおぼろな記憶の中でも、犠牲者達の悲痛な面持ちの証明写真と、簡で素な箇条書きの文章で記載された異能力の詳細、そして要は近くに居なかった事だけは、はっきりと覚えていた。
極度の焦燥と恐怖に駆られ、小さな瞳を更に縮小させている発火能力者、収容後の事を想像し、吐き気に苛まれたのか青い顔を震わせている植物の成長促進能力者、撮影者を睨み殺さんばかりの気迫を纏う、強化された消化器官をもつ男、体重の倍化、肉体の剛性の上昇、性質の異なる物品同士の接着、不明な成分による繊維質の精製……
収容した日付順に並べられた異能の一覧はバラエティ豊か、悪く言えば統一性も関連性も見受けられない、研究資料としては意見に困る状態だった。一旦ファイルをひっくり返し、表紙に刻まれた編集者の名前を見る。
異能力閲覧資料。編集者、黒澤茜。斎藤はぎょっとする。総長、寝不足だったんだな。
再び、顔写真と異能の箇条書きだけをぼんやりと眺めながら、半分程度まで資料をめくった辺りで気がついた。
──一番身近な奴、『重力操作』が一人も居ねぇな。──
ぼんやりと意識しながら、異能者達の歴史をさらに過去へと遡る。気圧の操作による風の発生、火炎の操作、特定物質の複製……
最後のページをめくり、写真の欄に見慣れた顔が、氷のような無表情を浮かべているのを確認する。
要さん、こんな表情できるんだな。貼り付けられた顔写真から伺える情報は本当に少ない。眉も目線も口角も水平を描き、瞳には輝きが見られない。髪が今よりも短く、輪郭だけならばより快活な印象を受けるが、その程度の変化しか見られない。
普段ののほほんとした雰囲気も、少女のような柔らかな空気も感じられず、かといって生真面目さも情熱も感じられない。今の彼を知る者からすれば、ひた不気味な写真だった。
その後、何度か資料をめくり直したはずだが、皺と汚れが目立ち始めた始まりの一枚目の他に、要のものと同じ異能を確認することは出来なかった。
「いいね、その資料どこに置いてある? 普通に読みたい」今度は真剣な表情で、鰰がぽつりと呟く。
「多分事務所の資料室だったか、地下の収容所の待機室だったかに行けば普通に見れると思うぞ。終わったら寄ってみな」
腕時計に目を向ける。十五時二十分。索敵から帰ってくるまで十分くらいか。休憩には丁度いいかもな。
斎藤も空をぼんやりと見上げる。いつもと同じ曇り空、どこか遠くから聞こえる車のエンジン音。日常が空を覆っていた。
斎藤が小さく息を吐いた瞬間、静かな住宅街に破裂音が響き渡り、九〇メートルほど離れた民家の陰から、黄色の煙が立ち昇った。
「作戦変更の合図だッ! 二人は目標がここに来るまで待機! 赤い煙か炎が見えたらすぐ来いッ!」「ほぇ?」
呆けた声で聞き返す遥を無視して、銃口から放たれた弾丸のように、その場から一息に駆け出す。
分かりやすい簡素な路地であった事に感謝する。じめじめとした民家の隙間を通り抜け、無人となった家屋の庭を突っ切り、散歩する老人すらいない通りに出た所で左に曲がる。そうやって民家を横切り、発煙の麓に近づくたびに、その家のカーテンが次々と閉じられていく。くそ。人の事猛獣みたいな扱いしやがって。
少しだけ他より広い民家の角を曲がった先、左手に広がる無人の大通りでは、もう既に二人の人影が格闘を繰り広げていた。
剣豪の如く両手に二対の警棒を携え、丈長の外套を羽ばたかせる小柄な人影と、パーカーにトレーナーズボンのラフスタイルで赤茶色の短髪を揺らしながら、手のひらからもくもくと煙を出し続ける少年。
「なんだって言うんだよ!」「だから、言ったでしょ! 人研財団だ! 手から火炎放射する人間なんてほったらかしに出来るか!」
声が聞こえる範囲まで駆け寄ると、二人は格闘だけでなく、口論も交わしていた。片や、飛び跳ねながら赤雷と共に体をねじり、着地と共に素早く棒を振り貫き牽制を入れる要と、片や、歪な体勢から放たれた半端な牽制にもひるまず、着地した瞬間を狙い、しゃがみ込むチビに広げた両手を向ける少年。
カートゥーンみたいなやりとりだ。手を向けられては飛び跳ね、棒で空を切り裂き、狙われては飛び跳ねを繰り返し続ける。
「あっ……! 斎藤君気ぃつけて! いつもの指パッチンで火の粉の騒ぎじゃない! 強いぞ!」「タイプは!?」「かめはめ波!」
駆け寄る部下に気が付き、要が悲鳴にも近い注意喚起を促す。ああもうなんて素直な先輩なんだ。不意打ち極めるチャンスだったのに。
「財団のカス共がァ! 寄ってたかって!」芋づる式に少年も斎藤に気が付く。がらがらの涙声で悲鳴を上げて、両手の照準を要からこちらに移す。掌の前の空間から、陽光のようなか細い光が漏れ始めた。
目くらましか? 閃光に備え、利目とは反対側、左目を堅く瞑りながら、隻眼の状態で少年を観察する。目測で六メートル、光に集中し過ぎで、俺の動きにはそこまで気を張ってない。方向感覚さえ損なわなければ一撃食らわせられる距離だな。
深く息を吸込み、大地を踏みしめ、一気に少年との距離を詰める。大股で二歩近づいた所で、目前の少年から緩い熱を感じ、瞼を開く。
あ、これ全然目くらましじゃねぇな、普通に攻撃だわ。死ぬかも。慌てて踵を返し、突進に急ブレーキをかける。急発進、急停止、また急発進とブレーキ。煽り運転かよ。
開いた左目にも、徐々に大きくなっていく光球が映った。発射タイプだな。これまでに見てきた発火能力者のやり口が、幾つか脳裏をよぎる。
触れた物体を燃やせるもの、指パッチンなどの小さな動作が発火用のスイッチとして作用するもの、そして今回のように、火種も燃料も無く炎を出現し、限定的に操ることもできる火炎系の最上位。
「大層な火起こしだな、マッチの方がよくないか」敵が相応の手練れと確認した上で、聞こえるような声で皮肉を漏らす。
「──欲しくもねぇんだよ! こんな能力なんかよォォ!」少年は斎藤の皮肉を受け止めきれなかったのか、一瞬だけ呆けた顔を浮かべ、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴り散らかす。
久しぶりのまともなレスポンスに口が綻ぶ。そうそう、こういうツッコミが欲しいんだよ。
「死ね、クソ野郎共がァ!」小さな太陽が少年の手元を離れる。波動拳みてぇだな。迫る火炎弾から目を晒さず、素早く冷静に分析に徹する。
日向のような柔らかく暖かいものだった火炎球の熱は、数コンマごとに近づくにつれ温もりとは言えない、苦痛を伴うような苛烈な熱さを伴ったものになっていく。
全然波動拳じゃねぇわ、めっちゃ遅いな。向かってくるボールの大きさと速度に、斎藤は球技大会の様相を思い浮かべていた。この軌道なら顔面セーフになりそうなもんだがね。
目前に迫った火球をしっかりと見据えたまま、斎藤上半身から力を抜き、横にゆっくりと捻る。真っ直ぐに胸部に向かってきたボールは、斎藤の胸を大幅に掠め、ちりちりと上着を炙ったうえで、後方へと消えていった。
避けた傍から汗が吹き出て来る。大幅に余裕を持って避けたつもりだったが、火球の熱は顔を焦がすかの如きものだった速さはともかく温度はやばいな。防がなくて正解だ。
三日前、寝る前に見た戦争映画のワンシーンが脳裏に浮ぶ。塹壕に逃げた敵兵を一網打尽にする火炎放射器。軍服に着いた炎を消そうと金切り声を上げながら転げまわるドイツ兵。仲間の仇だと嘲笑いながら敵兵が焼け死ぬのを見る味方の兵士たち。焼死は嫌だ。異能の炎で死ぬのはもっと嫌だ。
上体を捻った勢いのまま、舞を踊るような動きでくるりと体を回す。少年の正面に来るであろう右手も緩く握ったまま、腰から下の動きもゆるりとした回転に合わせる。
「ッ噴!」半回転を迎えた辺りで、素早く足を大股に開き、拳を緩く握ったまま、肘に万力のような力を込め、再度相まみえた少年の腹部目掛けて打ち込む。
並べた指の腹に柔らかな腹の肉の感触を感じた瞬間、下半身の踏ん張りに意識を集中させる。足から腰、腰から背、背中から肩。鞭がしなる様子をイメージしながら、水月に入った拳を加速させる要領で押し込む。
ぐぅ、苦痛から少年が低く唸り、痛みに身悶えしながらも、斎藤を鋭く睨みつける。ゆっくりとみぞおちに入った腕を掴む。
マジかよ。腕を捕らえられた斎藤が再び冷や汗を掻く。今の一撃なら金属バットもぼっきりイケたぞ? そんなに頑丈な異能者いる訳ねぇだろ?
「焼け死ね……!」少年の掌を通して右腕にじわりと、電気ストーブを押し当てられたような強い熱を感じた。温い。思ったのも束の間、一コンマごとに熱は強く高くなっていく。
マズい、本当に燃える。そう思った瞬間にはすでに、袖から焦げ臭い煙が漂ってきた。
「要さぁぁぁん!」掴まれて二秒と経たず、煙の勢いが一気に増す。火がつく直前の挙動だった。
「こら、若人が簡単に死ねとか言うな」ひゅん、と風を切る音が耳を鳴らす。横から要が振り貫いた警棒は斎藤の肩を擦るように飛び、少年の顎を勢いよく捉えた。すぱぁん、と甲高い音が鳴り響く。
みるみるうちに少年の顎が赤く腫れ始め、ぐるりと目があらぬ方向を向く。脳震盪だな。糸が切れた操り人形のように膝から崩れ落ち、道路と頬ずりを交わす。
「華麗に、入りましたね。技名でも付けたらどうですか?」
少し上ずった息で、腰を抜かしたまま、苦し紛れに要に冗談を投げる。何してんだ俺。お礼言えよ、超カッコ悪いぞ。
「技名はともかく、腕大丈夫? 護送車と一緒に医療班も呼ぼうか?」「あ、ええと……」掌を握ったり開いたりを繰り返して、痛みと動きを確認する。
「少し痛みますが、問題は無いです……いい生地の上着で助かりました」「『幸運のお守り』だねぇ、それ着てスカイダイビングしてみなよ」
マイナーな冗談にくすりと笑う。「要さん好きですよね『3』。最新作観ました?」「『ジュラシックワールド』? まだ観てなーい。斎藤君は?」
俺もまだですよ。そう答える寸前に、足元の少年が派手に咳きこんだ。
要がステップを踏む要領で数歩分引き下がり、斎藤が少年の襟首を掴んで、力ずくで引きずり上げる。
力なく立ち上がった少年の後ろに組み付き、腕を肩甲骨と合わせるように捻じ曲げる。痛覚は生きているのか、少年はぐうと唸り声をあげた。
「放せ、放せよクズが!」火球の熱量と肉体の頑強性は高かったが、それ以外は他と大差ないな。暴れ回る少年の腕を捻りながら、斎藤は思考を巡らせる。
両手を揃えなければ着火出来ず、十分な火力を保持した火球として発射出来るようになるには、炎を集める溜め時間が必要。
これも格ゲーと一緒だな。コマンド入力さえさせなければ必殺技も飛んでこない。密着状態なら波動拳より投げの方が早い。我ながら、アレックスみたいな打撃キャラでよかった。
「手放したら君また燃やすでしょ……」要が再び顎を撃つべく、警棒を構えながら近づき、射程範囲に入った所で立ち止まる。
「あっと……うーん……どうしょっかな……」「どうしました?」
「斎藤君、変わってもらってもいい?」警棒を下げて、斎藤に向けて首を傾げる。仕草は似合ってるが、凶器手に持ったままのそれは相当不気味だぞ。
「了解。首でいいですよね?」
「うんにゃ、肩外しちゃって。ここまで敵対的だと、気絶してもらっても、輸送中に起きたら僕ら全員一気に車の中で火だるまだ。物理的に動けなくしてボヤ騒ぎだけは避ける方向で行こう」
微笑しながらとんでもないこと言うなこの人。両肩脱臼したまま「城」まで運べって? 後頭部から少年の表情をうかがうことはできなかったが、びくりと震えたのが伝わった。
「了解。ただ、体制変えた時に燃やされるのも怖いし、意識あるまま外すのも流石にアレなんで、もう一度揺さぶりお願いします」
要が無言で頷く。畳んだ警棒をもう一度引き伸ばし、構えると同時に、憑き物が落ちるように微笑みがすとんと消えた。
迫力と薄気味悪さから身が竦んだ。少年の肩越しに、ほんの一瞬目が合っただけでも背筋がぞくりと震える。
異能図鑑の顔と一緒だった。不気味さに耐えられず、目を横に流した瞬間、再び突風が頬を掠め、軽い衝撃が体を伝わる。少年がびくんと一際大きく体を震わせたかと思うと、再び力なくがくりとうなだれる。
「いいよ。やっちゃって」「っし、戻す時のが痛いだろうがそれは我慢しろよ……」
抑揚の無い要の声を合図に、失神した少年を投げ捨てるように乱暴に転がし、肩甲骨を動かないように踏み付け、少し捻った状態で右手を掴む。ドライバーで螺子を緩めるイメージを浮かべ、一気に右腕を捻り抜く。
形容するならぎゅきり、とでもいうような、音とも振動とも取れない気色の悪い感覚が斎藤の腕を伝わった。掴んでいた右腕をぱっと離す。支えを失ったおもちゃの人形が崩れ落ちるように、関節をぐにゃりと歪めながら地面に落ちた。
少年は身じろぎもしない。もう片方の腕も拾いながら脈を測る。生きてるよな?
「ってかさ、よく分かったね『幸運のお守り』。映画好きなの分かるけど」「はぇ? ああ、さっきのアレですね」
突然、元の調子に戻った要の一言にはっとする。何の話かと、体制もそのままに一瞬だけ思い悩み、すぐに思い出す。さっきの話の続きだ。
「……何度も見たシリーズですから」少年の手を捻ったまま、苦笑いでそう答える。そう、本当に思い出深いシリーズ。
映画、という文化を初めて知った日の事だ。まだ若く気力に満ちていた母親と、まだ実家で学生をやっていた姉に両手を引かれて、ショッピングモールに併設された映画館のゲートを潜った日の事だ。
「思い出の映画なの? いい機会じゃん。せっかくだから映画館に見に行けば?」要が首を傾げる。
「映画の全てがいい思い出という訳でもありません、産まれて初めて見た映画が『Ⅱ』だったんですよ?」
初めて観たスクリーンの向こうの情景は鮮烈だった。大画面の向こう側で本能のままに大暴れする恐竜たち。金儲けのためだけに、その生活を踏みにじっていくレンジャー隊、ロサンゼルスの港町をめちゃくちゃにして、そして眠りにつくティラノサウルス。
母親による映画のチョイスが、自身の娯楽性と世間の流行を優先したせいで、今でもパニック映画は苦手だ。
一度始まってしまえばなんてことはないのだが、目の無い酸性の血を持った異邦人も、人喰いホオジロザメも、東京を蹂躙する怪獣王のシリーズも、未だにレンタルには躊躇している。
「ああなるへそ。怖いもんね、トレーラー落ちるあたりとか」
おう、例によってそこかよ。トラウマ直撃。腹立ち交じりに少年の左手も捻る。見た目よりも細い腕が、力なく震える感覚が伝わった。
足元で蜘蛛の巣のように走った窓ガラスのひび割れと、上から迫る牙だらけの顎。冷たい手でゆっくりと背筋を撫でられたような、引きつったヒロインの悲鳴。もしも恐竜が自分の家に来たら。その夜はそんなくだらない想像をして、でも怖くて、姉と一緒に寝たことも思い出す。
ああクソ、今でも嫌だ。あの頃の姉さんみたいに、せめて隣に誰か居りゃ普通に見れんのに。当然そんな醜態を見せられる人間はいない。ワンナイトラブも行き刷りの恋愛もいくらでもあるのに、隣で手を握って映画を見る相手は居ない。何だこの人生は。
でも、最新作、最新作か。トラウマと好奇心の間で、斎藤はぐらぐらと揺れる。
「じゃあさ、今度のお休みの日、一緒に観に行こうよ」
「ああ、いいですね」渡りに船のような要の提案に、深く考えもせず、反射のような速度で答える。次の休み。二日後、木曜日。平日で空いてるし、たまにはスクリーンの映画もいいな。呑気で陽気な要さんと一緒なら、牙だらけの大きな顎も怖くない。
──ん? 要さんと一緒?──
「えへへ、斎藤君とデートだ。超楽しみ! スピノサウルスとか、また出るのかなぁ」花が咲くように、少女のように無邪気に要が微笑む。こいつ、ホントに二十代か?
コミックの中から抜け出てきたようなスタイリッシュなロングコートと、ころころと笑う丸い顔とふわりとした茶髪、そしてその足元で死んだように仰向けに横たわる少年という状況とのギャップに、引きつった笑いが漏れる。
「……要さん、人喰われるシーンで叫んだりしませんよね?」どこからツッこむか悩んだ挙句、映画の雑談へと着地する。少年、悪いがもうちょっと苦しんでくれ。このジャケット相応に高かったんでね。
「あ、バカにされてる? 残念だけど、実は僕は僕パニックもホラーも大好きなのさ。グレムリンとかバタリアンとか」「それはどっちもコメディでしょう……」「嘘だぁ! グレムリン怖いじゃん!」
要の抗議の声を聞き流しながら、普段なら心の中で思うだけだった皮肉が口を突いて出てきた事と、それに要が乗っかって来た事に、斎藤は少し驚いていた。
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