斜陽街

日生ななめ

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二章 われわれのいる意味

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「ほっ……本日は、どんなご用件で……?」視線をテーブルに落としたまま、震える声で小澤裕子が斎藤に問いかける。
 案内されたリビングは、生活に必要なものを無造作に詰め込んだ物置ののようで、お世辞にも上等な生活をしているとは思えなかった。
 金銭に余裕のある良家ほど、家はシンプルにまとめ上げられ、貧乏な家庭であればあるほど家の中にはモノがあふれるという。以前何かの本で読んだ、そんな法則を思い出す。
 目の前の女性の顔を、相手に意識されない程度にこっそりと観察する。やや窪んだ眼孔に垂れた頬、だらしなく半開きになった口を震わせ続けるその表情は、目の前の男と、それが属する組織への不信と不安に満ちていた。
 俺は財団職員だ。ヒールだ。嫌われ者だ。世界のための悪役だ。何度か心の中で言い聞かせ、本題を切り出す。
「最初に伝えた通り、弟さんの近況と、あなたへの人研財団の対処をお伝えするために参りました」可能な限り冷静に、事を荒立てないように穏便に。それだけを意識して斎藤は答える。
頼むぜ、まだ一件目なんだ。この後まだ暴力を振るわなければいけないし、書類処理も残ってる。ここで疲れてる場合じゃないんだ。
「噓を──!」祥子がテーブルを叩く。驚くな、俺は氷の男。冷静であれ。驚きと恐怖から震え始めた体を、無理矢理奮い立たせる。
「それだったら、もし本当にそれだけだったら、あなたが連れて来て、玄関で待たせているガラの悪い二人は必要ないんじゃないんですか!? あなた方は三人で私を連れていくために来たんじゃ──」

 軽く握った拳で、テーブルを小さくこんこんと叩く。
 それ自体には何の意味もない動作だったが、女性はひっ、と怯え切った吸気を漏らした。
「……連行が必要となるかは、あなたの対応次第になります。今回必要になるのは飽くまであなたのバイタルデータのみです。被験体の親族から異能の遺伝情報に関するデータを採取するために、財団の研究所に頂く必要はありますが……まあ、という形でも対応は可能ですので」割り込むようにそれだけ言い切り、斎藤は観葉植物に巣食った毒虫を眺めるような、嫌悪感にまみれた表情を作る。小澤裕子が、分かりやすく怯えた表情を浮かべた。
 斎藤はこの表情が効果的だと知っていた。自身の嫌悪感と意識。そして、武力行使もやむなしといった組織の行動方針。これらを一気に、端的に伝えるには、表情だけで悟らせるのが一番速いと、数か月間で掴んだのだ。
「ご心配なさらず。データ採集は健康診断とそう変わりません。我々はあくまでも研究機関。異能者だと分かった者にしか興味がありませんから……」
 祥子がようやく押し黙り、斎藤の顔に目を向ける。ようやく話を聞く気になったな。それと分からないようにほくそ笑む。到着からここまで十分。いいペースだ。



 一つ大きなくしゃみを飛ばして、頭の上に広がる鬱蒼とした新緑と、その上を覆う曇天を見上げる。歴史の長い森は、太陽が昇り切った昼間でもなお肌寒い。毎回毎回、もう少し厚着して来ればよかったなと思う。
「ねぇ、その中入れない? ここ、結構寒いんだぜ?」冗談めかして、ふざけた口調で中の子に笑いかける。初めて話しかけた日から、優に四ケタを超えるほど試してみたやり取りだ。今回もきっと無理だろう。
 無理だと分かっているけど、今回もわずかな可能性に縋る。
 このドームの中で、悠久の時を過ごして来たであろう女の子が、どんな顔で、どんな風にどうして僕を待っているのか、どうしても知りたいだけなんだ。
「わたしがあけられたら、すぐにでもいれてあげられるんだけどね。これ、ふつうのひとにはでられるようにもはいれるようにもつくられてないもの」
 ああ、やっぱりね。予想通りの返事も、もう特に気にする事は無いし、中の子も特に気にしていないみたいだった。
少しだけ沈黙が流れる。僕も、彼女も不快には思わない。冷たく、仄暗く、それでも心地いい。僕らだけの沈黙に浸った所で、今日の本題を切り出す。
「……今ね、李人に頼んでこの建物の成分解析もして貰ってるんだ」
 姿は見えないけれど、中の子は黙って聞いてくれている気がした。壁に耳をつけると、うんうんと小さく唸るような声が聞こえた。絶対に聞いてくれていると確信する。
「まだまだ調査は始まったばっかりだし、僕も李人も茜ちゃんも、他にやることいっぱいあるから、今すぐにとはいかないけれど──」
 もう一度だけ、ほんの少しだけ息を止める。僕の呼吸に続いて、微かに彼女が鼻を鳴らす、か細く愛おしい声が聞こえた。
「──僕が必ず、必ず君をここから連れ出してみせる。君がここに居る時間よりはずっと早く、この社を崩して見せる」
「いいの、そんなことしなくても。わたしはあなたとただはなせていれば、それでしあわせなんだから」厚く冷たい壁の向こう側で、少女が静かに泣いているのが分かった。
 それが幸福だなんて、余りにも寂しすぎる。世界に、満ちる色を、世界に溢れる色を、君にも見て欲しい。僕が人研財団で異能力者相手に暴力を振るう理由なんて、それだけなんだから。
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