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二章 われわれのいる意味
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朝の冷たく湿った空気を、体全体で切り裂きながら、住宅街の屋根を踏みつける。
耳にはびゅうびゅうと風を切る音が、突き刺さるような厳しい寒さと締め上げるような鋭い痛みを伴って入ってくる。
目に映る光景は、僕の走り抜ける速度に合わせて、目まぐるしく変わっていく。ジャンプと同時に高くなったり、失速に合わせて低くなったり、加速と同時に僕の目に残像を映し出したり、停止と同時に写真のようにくっきりと光景を目に映し出したりを繰り返しながら、水に流されるように後ろへと流れ去ってゆく。
中古買取専門店の大きな看板。真新しい平らな屋根の集合住宅。朝露に濡れたつるつるの瓦。土の香りのする古いトタン。中心市街地から遠ざかるにつれ、大型商店、二世帯住宅、農家さんのあばら家と、屋根のランクは下がってゆく。軒数の割に屋根の種類はバラエティに富んでいる。おかげで()落下の目標設定には困らない。
着地したら、次の目標を決めて、息を整える。異能の発動と同時に、脚に力を込め、跳ぶ。
目標との距離が遠すぎてはいけない。調子に乗ってどこまで落ちれるか試した時、複雑骨折を代償に学んだ貴重な経験だ。
小麦とバターのいい匂いが漂う、郊外の小さなパン屋さんの屋根に着地した所で、ふと、依然この近くで耳に挟んだ噂を思い出して、一度足を停める。
──知ってる? 朝早くと夜遅くに現れる、飛行男の噂──
─ああ、知ってる! スーパーマンみたいに空飛んで回ってる、ちっちゃな男の子の事でしょ──
何度思い出しても失礼な噂だ。不快感から小さく鼻を鳴らす。
僕は自由自在に空を飛んでいる訳じゃない。踏みつけた目標から着地する目標へ、決めたルートをロープウェイのように、ジグザグに落下しているだけだ。
「それに僕、そんなにちっちゃくないもん……」
失意と怒りの呟きは灰色の街に溶けていく。誰も聞くものは居ない。低身長を馬鹿にする人も、お前のようなスーパーマンが居るかと否定する人も、いない。
「でも、誰が広めた噂なんだろう?」
スーパーマンっていうのは、部外者の例えにしたって呑気な比喩だ。知らない人から見たら、きっと異能は魔法かなにかに見えてるんだろうな。
実際のところは、重力を操れる異能者だって、高すぎる所から落ちれば骨折くらいするし、物を燃やせる異能者だって炎に近づきすぎれば火傷する。
植物を操る異能者がウルシでかぶれるのも観測したし、光源を操る異能者の一人が、自分が放った光線で失明するのも観測した。
どれだけ常識から乖離出来ても、僕たちは結局、人という器のルールに縛られる。人を超えた技を持っていても、人である事から逃れられない
そんなことを考えながら、意識を集中させて、能力を開放する。ぱちりと周りに稲妻が舞ったのを確認して、再び空に身を投げ出す。
踏みつける屋根はもうどれも、背の低い民家の物ばかりになっていた。家の隙間から薄金色の田んぼが覗き、農家特有の広い敷地と綺麗な庭が目につき始める。
もうすぐだ。もうすぐ会える。期待に胸が高鳴った。
「あっ、ヤベぇっ!」垂直に落下しながら彼女の事を考えていたせいか、そっちに意識を取られ、普段なら絶対間違えないはずの着地をしくじる。朝露で濡れた瓦で足を滑らせ、屋根の淵から真っ逆さまに落ちそうになる。
「ヤバいッ!」着地の時に解いた異能を、急いで再び発動させる。足の先と頭のてっぺん、体全体でぐるりと正円を描くようなイメージで、頭と足を落とす。
逆さまだった視界が凄まじい速度で元に戻る。一瞬での急激な加速で、目に血が溜まり、視界がうっすらと赤くなる。
勢いそのままに、屋根の軒からごろごろと棟まで転がり込む。朝露の爽やかな香りと、農家特有の泥土のむわっとした匂いが、体を包み込む。
膝を着いて息を整え、体の様子を確認する。視界の歪みも手足のしびれも無くなっていた。
よかった、許容範囲内だったみたいだ。ほっと息をつく。
末端の急速な落下加速は危険を伴う。手足を落とせば指先は痺れ、頭を落とせば毛細血管に深刻な損傷を及ぼす。
人を超えた技を持っていても、人である事から逃れられない。
こんな事を繰り返していたらいずれどうにかなってしまう。緊急回避くらいにしか使えない、我流パルクールの大ワザの一つだ。
「うるせぇぞ! 屋根になんかいんのか⁉」壁ドンならぬ、屋根ドンに身体が飛び跳ねる。流石に屋根の上での受け身はうるさかったか。
ご立腹らしい家主の声が、かがんでいる所の真下から聞こえた、
「わわっ、ごめんなさいっ!」軽く悲鳴を上げながら、民家の屋根から飛び出し、真っ直ぐ目的地へと向かう。
屋根から飛び降り、すぐ隣の金網の内側に転がり込む。それを境目にしたかのように、ぽつぽつと点在していた民家がぱたりと消えた。
目の前にはぼろぼろの小さな貨物駅。その向こうには周りを住宅街に囲まれた、孤島みたいな小さな山。錆びと雑草に蝕まれてもなお、現役で働き続ける線路を踏み越え、山へと向かう。
踏みつけるものが屋根から大樹の枝に変わり、開けた場所を吹き抜ける冷たく乾いた風が、まとわりつくような湿った重たい空気に変わり始める。
市街地から障害物を無視して、文字通りの直線で三十分。いつからここにあるのかもしれない分からない、小さな山に足を踏み入れる。
遠い遠い昔、日本がまだ一つじゃなかったころ。今でいう関東の北部に住んでいた民族が迫害から逃れ、東北地方の鬱蒼とした山を抜けた先に、たまたまあった平地を拠点に周りの森を切り拓き、山を均して、そうやって作った小さな集落が、A市の始まりらしい。
もしかしたらこの山も、その頃からあるのかもしれない。何かの理由で均すのを免れて、今日まで在り続けたのかもしれない。
枝にぶつからないよう着地地点に気を付けながら、僕はそんなことを考える。枝と枝の隙間を縫うように、滑るように落ちながら森を進んでいく。
そして突然、視界が開け、枝が無くなる。僕の意思に関係なく、異能が切れる。ぐん、と体が引っ張られ、横でも、上でもなく、真下に向かって体が落ちる。
「そーれ、っと」今度は集中だ。着地に合わせて体を捻る。膝腿、二の腕。体全体に走る衝撃を、地面にこすりつけるように体を転がす。
移動術の基礎中の基礎の動きだ。パルクールを我流で修得すると決めてから、三年間は筋トレとこの動きの反復練習だけだったくらいだ。
実際、今回の着地も傷も痛みもない。お気に入りのパーカーは汚れ、朝露と若草と濡れた土の香りが全身に広がったけれど、その程度の被害だ。
(今日は妙に広いな……)頭の中でそう思っても、絶対に口には出さない。異能が使えないってことは、もう聞こえている。ぶつぶつ独り言呟いてるの聞かれたら、カッコ悪いもんね。
倒木で開けた空間に、森の中には似つかわしくない、海外の田舎にあるような、真っ白でつるつるとした半球状の建物が、中心に一つ。
十年前、ここを見つけた時から一つも変わっていない。静かで奥ゆかしい、小さな世界が広がっていた。
出入口の無い巨大なかまくらのような、大きな建造物に近づき、そっと手の平を壁面に押し付ける。建造物が、まるで地面に落ちた月のように朧げに光り始めた。
「来たよ」
──しってる、まってた。きょうもおはなし、きかせて──
完全に密封された純白のドームの中から、消え入りそうな程の小さな小さな声で、たどたどしい女の子の声が聞こえた。
──げんき、だっ、た?──
「もちろん、きみはどう?」
知らない人たちから見たら奇跡の御業。調べてる李人たちから見たら悪意のような謎の塊。
そして、当事者の彼女から見たら、ただの自然現象。
この力は、一体何なんだ。頭にぼんやりと浮かんだそんな考えも、壁の向こう側から低く響くその子の声に流されていく。
耳にはびゅうびゅうと風を切る音が、突き刺さるような厳しい寒さと締め上げるような鋭い痛みを伴って入ってくる。
目に映る光景は、僕の走り抜ける速度に合わせて、目まぐるしく変わっていく。ジャンプと同時に高くなったり、失速に合わせて低くなったり、加速と同時に僕の目に残像を映し出したり、停止と同時に写真のようにくっきりと光景を目に映し出したりを繰り返しながら、水に流されるように後ろへと流れ去ってゆく。
中古買取専門店の大きな看板。真新しい平らな屋根の集合住宅。朝露に濡れたつるつるの瓦。土の香りのする古いトタン。中心市街地から遠ざかるにつれ、大型商店、二世帯住宅、農家さんのあばら家と、屋根のランクは下がってゆく。軒数の割に屋根の種類はバラエティに富んでいる。おかげで()落下の目標設定には困らない。
着地したら、次の目標を決めて、息を整える。異能の発動と同時に、脚に力を込め、跳ぶ。
目標との距離が遠すぎてはいけない。調子に乗ってどこまで落ちれるか試した時、複雑骨折を代償に学んだ貴重な経験だ。
小麦とバターのいい匂いが漂う、郊外の小さなパン屋さんの屋根に着地した所で、ふと、依然この近くで耳に挟んだ噂を思い出して、一度足を停める。
──知ってる? 朝早くと夜遅くに現れる、飛行男の噂──
─ああ、知ってる! スーパーマンみたいに空飛んで回ってる、ちっちゃな男の子の事でしょ──
何度思い出しても失礼な噂だ。不快感から小さく鼻を鳴らす。
僕は自由自在に空を飛んでいる訳じゃない。踏みつけた目標から着地する目標へ、決めたルートをロープウェイのように、ジグザグに落下しているだけだ。
「それに僕、そんなにちっちゃくないもん……」
失意と怒りの呟きは灰色の街に溶けていく。誰も聞くものは居ない。低身長を馬鹿にする人も、お前のようなスーパーマンが居るかと否定する人も、いない。
「でも、誰が広めた噂なんだろう?」
スーパーマンっていうのは、部外者の例えにしたって呑気な比喩だ。知らない人から見たら、きっと異能は魔法かなにかに見えてるんだろうな。
実際のところは、重力を操れる異能者だって、高すぎる所から落ちれば骨折くらいするし、物を燃やせる異能者だって炎に近づきすぎれば火傷する。
植物を操る異能者がウルシでかぶれるのも観測したし、光源を操る異能者の一人が、自分が放った光線で失明するのも観測した。
どれだけ常識から乖離出来ても、僕たちは結局、人という器のルールに縛られる。人を超えた技を持っていても、人である事から逃れられない
そんなことを考えながら、意識を集中させて、能力を開放する。ぱちりと周りに稲妻が舞ったのを確認して、再び空に身を投げ出す。
踏みつける屋根はもうどれも、背の低い民家の物ばかりになっていた。家の隙間から薄金色の田んぼが覗き、農家特有の広い敷地と綺麗な庭が目につき始める。
もうすぐだ。もうすぐ会える。期待に胸が高鳴った。
「あっ、ヤベぇっ!」垂直に落下しながら彼女の事を考えていたせいか、そっちに意識を取られ、普段なら絶対間違えないはずの着地をしくじる。朝露で濡れた瓦で足を滑らせ、屋根の淵から真っ逆さまに落ちそうになる。
「ヤバいッ!」着地の時に解いた異能を、急いで再び発動させる。足の先と頭のてっぺん、体全体でぐるりと正円を描くようなイメージで、頭と足を落とす。
逆さまだった視界が凄まじい速度で元に戻る。一瞬での急激な加速で、目に血が溜まり、視界がうっすらと赤くなる。
勢いそのままに、屋根の軒からごろごろと棟まで転がり込む。朝露の爽やかな香りと、農家特有の泥土のむわっとした匂いが、体を包み込む。
膝を着いて息を整え、体の様子を確認する。視界の歪みも手足のしびれも無くなっていた。
よかった、許容範囲内だったみたいだ。ほっと息をつく。
末端の急速な落下加速は危険を伴う。手足を落とせば指先は痺れ、頭を落とせば毛細血管に深刻な損傷を及ぼす。
人を超えた技を持っていても、人である事から逃れられない。
こんな事を繰り返していたらいずれどうにかなってしまう。緊急回避くらいにしか使えない、我流パルクールの大ワザの一つだ。
「うるせぇぞ! 屋根になんかいんのか⁉」壁ドンならぬ、屋根ドンに身体が飛び跳ねる。流石に屋根の上での受け身はうるさかったか。
ご立腹らしい家主の声が、かがんでいる所の真下から聞こえた、
「わわっ、ごめんなさいっ!」軽く悲鳴を上げながら、民家の屋根から飛び出し、真っ直ぐ目的地へと向かう。
屋根から飛び降り、すぐ隣の金網の内側に転がり込む。それを境目にしたかのように、ぽつぽつと点在していた民家がぱたりと消えた。
目の前にはぼろぼろの小さな貨物駅。その向こうには周りを住宅街に囲まれた、孤島みたいな小さな山。錆びと雑草に蝕まれてもなお、現役で働き続ける線路を踏み越え、山へと向かう。
踏みつけるものが屋根から大樹の枝に変わり、開けた場所を吹き抜ける冷たく乾いた風が、まとわりつくような湿った重たい空気に変わり始める。
市街地から障害物を無視して、文字通りの直線で三十分。いつからここにあるのかもしれない分からない、小さな山に足を踏み入れる。
遠い遠い昔、日本がまだ一つじゃなかったころ。今でいう関東の北部に住んでいた民族が迫害から逃れ、東北地方の鬱蒼とした山を抜けた先に、たまたまあった平地を拠点に周りの森を切り拓き、山を均して、そうやって作った小さな集落が、A市の始まりらしい。
もしかしたらこの山も、その頃からあるのかもしれない。何かの理由で均すのを免れて、今日まで在り続けたのかもしれない。
枝にぶつからないよう着地地点に気を付けながら、僕はそんなことを考える。枝と枝の隙間を縫うように、滑るように落ちながら森を進んでいく。
そして突然、視界が開け、枝が無くなる。僕の意思に関係なく、異能が切れる。ぐん、と体が引っ張られ、横でも、上でもなく、真下に向かって体が落ちる。
「そーれ、っと」今度は集中だ。着地に合わせて体を捻る。膝腿、二の腕。体全体に走る衝撃を、地面にこすりつけるように体を転がす。
移動術の基礎中の基礎の動きだ。パルクールを我流で修得すると決めてから、三年間は筋トレとこの動きの反復練習だけだったくらいだ。
実際、今回の着地も傷も痛みもない。お気に入りのパーカーは汚れ、朝露と若草と濡れた土の香りが全身に広がったけれど、その程度の被害だ。
(今日は妙に広いな……)頭の中でそう思っても、絶対に口には出さない。異能が使えないってことは、もう聞こえている。ぶつぶつ独り言呟いてるの聞かれたら、カッコ悪いもんね。
倒木で開けた空間に、森の中には似つかわしくない、海外の田舎にあるような、真っ白でつるつるとした半球状の建物が、中心に一つ。
十年前、ここを見つけた時から一つも変わっていない。静かで奥ゆかしい、小さな世界が広がっていた。
出入口の無い巨大なかまくらのような、大きな建造物に近づき、そっと手の平を壁面に押し付ける。建造物が、まるで地面に落ちた月のように朧げに光り始めた。
「来たよ」
──しってる、まってた。きょうもおはなし、きかせて──
完全に密封された純白のドームの中から、消え入りそうな程の小さな小さな声で、たどたどしい女の子の声が聞こえた。
──げんき、だっ、た?──
「もちろん、きみはどう?」
知らない人たちから見たら奇跡の御業。調べてる李人たちから見たら悪意のような謎の塊。
そして、当事者の彼女から見たら、ただの自然現象。
この力は、一体何なんだ。頭にぼんやりと浮かんだそんな考えも、壁の向こう側から低く響くその子の声に流されていく。
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