斜陽街

日生ななめ

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一章 学生、古物商、聖職者

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「本当に紅茶で良かったかな、要の後輩君」「ええ、もう今日結構コーヒー飲んでるんで……ありがとうございます。ええと……神父さん」
 鈍器のようなごつごつとした手が、小さなティーカップに丁寧にお茶を注いでゆく。鮮やかな紅の液体が、静かにカップを満たされていく。
「そうか、自己紹介がまだだったね。私は御坂悠太郎。十年ほど前からこの教会で神父をさせてもらっている」
 御坂、と名のった大男は、要に見せるそれ
 礼拝堂の最奥、ステンドグラスの下。説教台の代わりに用意された四角形のテーブルのそれぞれの辺をで囲う。
「んで、あたしが御坂さつき! 子供の頃からずーっと、ここで修道女シスター見習いやらせてもらってます!」
 正面に悠太郎、右隣に要を据え、空白のはずだった左隣に座った少女が、掛けていた椅子を後ろに倒しながら、勢いよく立ち上がる。
 陰気な大男の対極のような、若々しさと元気の化身のような。そんな小柄な少女がびしっと敬礼をかます。
くりくりとした瞳、肩にかかる長く柔らかい髪の毛、大げさな仕草。斎藤は悠太郎を正面に、二人の要に挟まれているような錯覚を覚える。

 とんでもない夫婦だ。ん? 神父とシスターが夫婦?

「ねえねえ、谷内さんが友達連れてくるのなんて、ホントに珍しいねぇ! 李人さん茜さん咲さん辺りと一緒に居るとこしか見たことなかったから新鮮だよぉ!」瞳を輝かせながら、蹴飛ばした椅子も、僅かに眉をひそめる悠太郎にきを留める事も無く、少女が斎藤に詰め寄る。
 さつきの身長は低い。立ち上がり、背筋を伸ばしても、椅子に腰かけた斎藤より少し上程度の背丈しかない。160かそこらかな、自身の座高をぼんやりと思い出しながら、斎藤は詮索する。
肌も声も髪も、悠太郎よりもずっと若々しい。二十一の自身と同じくらいか、年下にまで見える。動くたびに髪からふわりと甘い花の香りが漂い、いちいち少しどきりとさせる。何考えてんだ、 バカな事考えるな。この子は人妻だぞ。
「お名前、聞いてもいーい?」「えっと、斉藤です。斎藤功介」握手のため手を差し出した瞬間、正面に座る悠太郎がどかっと肘をついた。心臓が更に高鳴る。何だよ、握手するだけだってば。
「ふふ、よろしくね、斎藤君!」手を握られた瞬間、ひやりと背筋に冷たいものが走る。
 こっわ。握手程度で嫉妬とか神父怖い。背筋に冷たい汗がつたうのを感じながら、瞬きすらしない悠太郎から、必死に意識を逸らす。
 しかし、大丈夫なのか? 斎藤は再び想像を巡らせる。街の中の寂れた教会に住む、年の離れた修道女の少女と神父の夫婦。いや、絶対に大丈夫じゃない。カトリックの総本山、どこかにばれたら大変な事になるのが目に見える。
「この二人の関係、大丈夫か? って顔してるね、斎藤さん」
「大丈夫だよ。さつきさんはともかく、私は正式な聖職者ではないからね。神父の服を着て、説教台に立ったり、結婚式の訓辞を述べたり、日曜日にミサを執り行ったりするだけの、ただの一般人だ。神託も修行も、小規模な物しか受けていない」
 空いた口が塞がらない。そんな緩くて大丈夫なのか、カトリック。
「こんな古ぼけた町に神の教えを尊び、主への礼節と愛に生きるような聖人などいるわけがないし、来るわけもないさ。この町で暮らしている限り、私たちは存在しているが認識される事がない。精巧なだまし絵のようなものだ」

 悠太郎の暴論に、納得する自分が居た。
 存在しているが、認識はされない。空気のような影のような、あっても無くても変わらない。そんなA市をうまく表した言葉だと、斎藤は感心すら覚える。

「まあ、私の出自などはどうでもいい」自身と要の為に淹れられたコーヒーを一口すすり、慣れた様子で椅子に体を持たれかけると、悠太郎は要に向き直った。
「では、要。わざわざ持ってきたとか言う、重要な話とやらを聞かせてもらおうか」「……あ、そうだったね」カップの中で波打つ黒い液体を、静かにじっと眺めているだけだった要が、我に返ったように顔を上げた。
 珍しいな、ぼーっとしてるなんて。疑問に思いながら、自身も紅茶をすする。春先の花と生姜が混じったような、甘く爽やかな香りが口の中に広がった。
「……悠太郎、貴方を人類研究財団の実働部隊の隊員としてスカウトしたい。以前、もう一度だけA市の為に力を貸してほしい」
「……何が「A市の為に」だ、市民を使って人体実験を続けることが未来の為になると、本気で思っているのか」
 悠太郎が呆れた様子で答える。迷いも呆れもない、本心から放たれた言葉だと、怒りを孕んだ鋭い眼光が語っている。
「何よりも、もう一度貴様らの下で、馬鹿どもと戦えと? 冗談じゃない、 
もう一度? 財団が悠太郎にしたこと? 人研財団の所業からくる嫌な想像が、斎藤の頭を駆け巡る。
まさか、この神父もどきも、財団の人体実験や拉致監禁の被害者なのか?

 冷たい沈黙が流れた。夫妻がお茶を飲む音と、庭園から聞こえる微かな鳥の声が、聖堂の中に反響する。
 せめてなんか言ってくれないかな。左手に座る少女をちらちらと覗く。適当な婚姻関係とは言え、本当に彼の夫だというのなら、人さらいに勧誘されたことに対して何かしら言うことがあるだろうに。
 斎藤の祈りが通じたのか、さつきがティーカップから目を上げて、対面している要と目を合わせる。
「だってさ、谷内さん。ウチの人がクソ頑固なの知ってるでしょ? これ以上誘ったって無駄だよ。あとは楽しくティータイムといこうじゃん」
 要が少しだけ目を細める。満月のように丸い、優しい目が、三日月のように鋭く冷たく形を変えていく。
「さつきさんはどうなのさ? 悠太郎がA市に何しに来たか知ってるんでしょ? 恋人が抱いてきた理想と、恋人と共にいる自分。どっちが大切なの?」
「十年かけて築いてきたものすべてを失って、出会ったその日に死にたいって言ってた幽霊みたいな人が、十年一緒にいて唯一欲しがってくれたのがあたしなのよ? あたしは彼の一部、彼はあたしの一部。悠太郎さんの決断なら、何だってそれを尊重するわ」
 斎藤は、淡々と語るさつきの目に光るものを見た。李人のように煌々と輝くものでも、要のように怪しく魅了する光を放つものでもない、全てを包みこむような、優しく緩やかな光線。例えるならそんな光だった。決意というのはこうゆうものを言うのだろうな。勝手に想像して、勝手に納得する。

「……なあ、そんなことよりも、やはり君が挽いた豆は他と違うな。他よりも匂いが甘く香ばしい気がするよ」むくれ面で再び黙りかかった要に、悠太郎が優しい声をかける。
淀んで冷め切った空気に満ちたお茶会を、その一声だけで温めるような、不思議なカリスマ性があった。ガワだけとは言え、流石に神父だ。語り聞かせるのが仕事なだけある。
「へえ、要さんコーヒー挽けるんですか、意外ですね」安直だが、悠太郎が振った話題に乗る。これ以上、こんな冷たい沈黙に耐えられるか。逃げ出したい一心で、藁にも縋るつもりで、話題の転換に乗る。
「そーだよ? 谷内君、学生時代コーヒー屋さんでバイトしてたんだよね?」斎藤の心中を察してくれたのか、さつきが要に話を促す。
 不機嫌そうな要の顔が、悲しそうに微笑む。「……うん、挽くだけじゃなくって、豆の選別とか香り付けとか、ローストとかもやってるよ」
 友達のお店の設備借りてさ、今回のはナッツ系の香りとかつけてみたんだ。要は嬉しそうにぽつぽつと呟くと、カップの中の黒い液体に目を落とし、角度をつけて勢いよく喉に流し込む。
「けど、失敗だったね。味に主体性がないや。キャラメルナッツとかバニラナッツとか、色々欲張ったのは失敗だったかな」悠太郎と目を合わせ、残念そうに微笑み直す。悠太郎への未練も、スカウト失敗への恨みも見られない。
 いつも通りの、笑みの裏に何かを隠した、爽やかな表情だった。
「そうかい? 私はこれ嫌いじゃないぜ。軽い食事の後とか、おやつの代わりとか、ミルク入れて飲んだら美味いんじゃないかな」
「二人共いいなぁ、コーヒーざぶざぶ飲めてさ」さつきが紅茶に目を落とす。美しい赤茶色の液体は、注がれた時から殆ど減ってない。
「私飲み過ぎるとお腹緩くなっちゃうもん、斎藤君もそんな感じ?」
「あ、いえ、今日は朝から結構コーヒー飲んでるから、眠れなくなりそうで……」勿体ない事をしたな。甘く香ばしい要特製のコーヒーを見ながら、斎藤は消沈する。だけど、ようやくお茶会らしくなってきたな。消沈しながらも、ほっとする。

「さて、と」一呼吸置き、悠太郎は正面の青年をじろりと睨む。「では、こちらからも一つ気になった事を質問させて貰おうかな」静かに息をつき、空になったカップをテーブルに叩き付ける。
「斎藤君。君は、何故人研財団に身を置いている?」
名指しの質問に身が固まる。何でその質問に至った? 自分の心臓が爆発するような錯覚を感じ、一瞬だけ蜃気楼のように視界が揺らいだ。こいつは財団の何を知りたいんだ? 混乱と緊張の中で、そうも思った。
「……やはり給与ですよ。下っ端でも悪の組織は身振りがいいんでね」市民の手前で、上司の手前で。誰にでも通じる当たり障りのない言い訳を、斎藤の脳は一瞬ではじき出した。
 悠太郎が再びつまらなさそうに息を吐く。ダメだ、効いてねぇ。他の言い訳も思い浮かばない。ああ、終わった。
「……さつきさん、別館の台所にシフォンケーキが置いてあったはずだ。後でこっそり一人で食おうと、さつきさんの背丈では目の届かない、棚の一番高い所に隠してたんだ。要ならギリギリ手も届くだろうし、一緒に取りに行ってくれないか?」
 方便だ。コース料理じゃあるまいし、途中から茶菓子が追加で出て来るお茶会があるか。
「……だってさ、谷内さん。意地悪な神父さんと生真面目な後輩君はほっといてさ、二人でケーキ食べちゃおうよ」「え? みんなで食べたほうがいいじゃんか、僕そもそもそんなにシフォンケーキ好きじゃないし……」
 夫の考えを察したさつきが、要の手を引っ張って教会の出口へと引っ張ってゆく。しかめっ面を浮かべる悠太郎と、いたずらっぽく笑い、要を引っぱっていくさつき、ただただ困惑した様子の要。それらをぐるぐると眺めている内に、背後でドアの軋む音が響いた。

「本心は?」扉が閉まるなり、剣戟のような鋭さで悠太郎が再び問いかけた。要にフランクに接していた柔らかさも、夫婦でお茶会を楽しんでいた温かさも、そこには無かった。

 経験と信念からくる、底の見えない鋭さだけが、そこにはあった。

「……質問をかぶせるようですが、御坂さんは、この街が好きですか?」ふむ。顎に手を当て、背筋を伸ばす。冷たく鋭いが、慈愛に満ちた目で斎藤と目を合わせた。
「食事は美味く、空気は澄み、美術館も博物館も充実している。郊外にはショッピングモールもあり、市内にも歴史的な遺跡や史跡も多い」
 何が不満かね? 煩くない程度の身振り手振りを交え、法話を解くように語りかける。もうすっかり神父の顔だ。玄関で見た魔王のような雰囲気は、もうすっかり見られなかった。
 
「……言い方を変えましょう、十年以上A市の住民とかかわっても尚、その評価は健在ですか?」
 もはや躊躇も遠慮も、斎藤の心の中には無かった。悠太郎の放つ空気に乗せられ、つらつらと口を開く。
 乗せられている、この神父もどきの口車に。頭では理解していながらも、斎藤は喋るのを辞めない。気味の悪いほど居心地のいい「安心」が、この男の周囲に漂っていた。
「どこに行っても老人ばかり。ごくたまに若いのが居ても、そいつらには活気も熱意も無くて、老若男女問わずみんなが未来に諦めきっている。これから朽ち行くだけの、死を待つだけのこの街と、この街の住民が──心の底から嫌いなんです」自分でも驚くほど美しい形で、隠されていた心は言葉になった。そうか、異能者だ財団だ抜きにしても、こんなにも俺はA市が嫌いだったんだな。自身の口から出たその言葉で、ようやく本心に気づいたほどだった。
「故に人を攫い、実験を繰り返し、街の品位を貶める。市民の活力を削ぎ落とすような悪事に手を染めているという訳か。少しでも早くA市を殺すために」肯定も否定も無く、ただ理解を示し、悠太郎は薄い笑みを湛える。

「功介君、と言ったな」慈愛、安心、理解。美点に満ちた喋り方をするこの男を、信用できない理由はなんだろう。
「その思想、大事にしたまえよ。君の想像通り、A市はもう長くない」無機質な笑みを湛えたまま、悠太郎は語る。
「故郷殺しが立派とは思えませんが」
「元より活力の無い地方都市に、異能者という猛毒と、人研財団という異物まで抱えこんだのだ。こんな街を大事にしたい方がおかしいだろう」
「確かに人研財団は異物ですが、有害ではないでしょう。A市を殺そうとするならば、少なくとも今はまだ、俺はここに居るべきだと考えています」
 これ位なら喋っても大丈夫だろう。要さんだって雑談感覚で機密情報話し出すんだし。それに比べたら愚痴なんてかわいいもんだ。
「では水面下で活動中の異能犯罪者側に鞍替えするかね? 財団程ではないが、あれらも地方の警察の手に負える代物ではあるまい。やり方は醜いが、君の理想の手助けになるだろう」
「馬鹿な、アレの力を借りるほど困窮もしてませんよ」鼻で笑い飛ばす。
 街のあちこちで物体転移で万引きだの、発火能力で放火だの、しょうもない事ばかりとはいえ、こそこそと財団の目を盗みながら、我欲の為に異能を行使する彼らが、羨望の目で見られているのは知っていた。
 何の希望のない暗黒の街でも、異能に目覚められたら輝ける。
 何の取り柄もない自分でも、物語の主人公になれる。
 藁にもすがるような思いで、街の若者はそんな幻想を抱く。ありきたりな幻想と好奇心の暴走の果てが、実験室とも知らずに。
「なんにせよ、A市はもう終わりだよ。三年、いや二年だな」
 財団、異能者。どちらかはわからないが、彼らが君の悲願を叶えるだろう。
「自分の立ち位置を見極めたまえよ。悲願を果たすには、君は今のままではいられない」
親身になって──否。まるで自分の事のように、悠太郎は斎藤に語る。
未来でも見えているのか。いや、違う。この男は過去に生きているんだ。自分がこれから歩むであろう未来を、過去に歩んできた男が忠告してるんだ。


 さて。今日何度目かの相槌を打ち、悠太郎はゆっくりと立ち上がる。それだけの所作だというのに、肩は力強く空を切り、指はささやかながらも風を生んだ。
「そろそろさつきさんが戻ってくる頃だね」傾きかけた陽の光と、蘇った聖人による、終末の救済の場面が描かれたステンドグラスに照らされながら、悠太郎は入口へと歩む。
「あ、そうだ。最後に一つ。あの、本当にご夫婦でいらっしゃるんですか……」
大男は静かに振り返り、顔に湛えた微笑を、静かに投げかける。それが答えのつもりらしい。
「ああ、そうだ。私も最後に一つ。君の理想悲願は関係なしに、を知る一人として、忠告をしておこう」
 悠太郎の顔から笑みが消える。偽物の神父でも、得体の知れない大男でも無い、数々の修羅場と取り返しのつかない喪失を乗り越え、成熟した一人の「人間」が、そこにはいた。

「要に気を許すな、あいつは──」

「ねぇー! なかったよ、シフォンケーキぃ! 食べちゃったの忘れたんじゃないの!!」
 まんまと無駄足を踏まされた男の喚き声が、聖堂の中に反響する。気を許しちゃダメ? こいつに? 許しても許さなくても変わらない気がするぞ?
「んん? そうだったかな? だとしたらすまないね、無駄足を運ばせた」
 大男がとぼけて笑った時には、神父の面影は消え失せ、友と伴侶の無駄足を労わる、どこにでもいるような普通の好青年の顔つきに戻っていた。
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