斜陽街

日生ななめ

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序章

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自動ドアをくぐると、すぐに古い紙のかび臭い匂いが鼻を突いた。緩い冷房と夕陽の橙色に包まれたロビーが、薄く汗ばんだ肌に心地いい。二十畳程度の広さのロビーに、小学生向けの図鑑や絵本の本棚が並んでいた。
 受付の女性が斎藤に気が付く。閉館の準備中だったのか、文庫本を何冊も抱えて、カウンターの向こう側をせわしなく動き回っていた所だった。
 エプロン姿に位置の低いポニーテールが目に付く女性は一瞬だけ、怪訝な表情を浮かべると、きょろきょろと人目を気にする様子を見せる。文庫本をゆっくりとカウンターに下ろすと「こっちにこい」と言わんばかりに手を振った。
 怪訝な表情で手招きに応じる。閉館まで後三十分はあるけど、遅すぎたかな?
 カウンターに近寄ると、女性は斎藤の肩に手を置き、自身の方にぐいっと引き寄せた。突然の事にバランスを崩しかける。慌ててカウンターに手をつくと、振動で山積みに重ねられていた文庫本が、頂上からばさばさと崩れた。
「標的は二階に上がって左手側。民俗学のスペースにいます。派手な柄のスカジャンに黒いズボンのチンピラみたいな男です」
 耳にかかる吐息と、艶っぽい声にぞくぞくと鳥肌を立てながら、斎藤は女性の正体を察する。切れ長の瞳や口元のほくろも、すぐ近くで観察すると記憶の片隅に見覚えがあった。
「財団の協力者なら、最初にそうだと言ってくれないかな、佐奈さん。いきなり掴みかかられると、大概の人は何事かと思って注目するし」
「閉館まで三十分もないんですよ? お客さんは殆ど帰っちゃいました。ここで数えてた限りだと、現在の在館者は私とあなたと合わせて五人しか居ないのに、気にすることなんて何も無いですよ」呆れたような、笑い飛ばすような緊張感の足りない口調で、受付嬢に扮した財団の調査班員、江頭佐奈が囁きかける。
「それに、こうやっていい女ぶって、カッコつけて情報提供するの、一回やってみたかったんです。何だか、ボンドガールみたいでいいじゃないですか」
 何だ、その理由。あほくさ。
 どこにいるのかわからない五人の在館者の目を気にしつつ、佐奈の顔を耳元から引き剝がす。甘いものを目前にした要のような、きらきらとした軽薄な瞳が少しだけ癪に障った。
「今のままでも十分いい女だから、これ以上カッコつけないで下さい。それから俺007嫌いなんで、次に会う時は普通にお願いします」
 ショックを受けたような顔を浮かべると、佐奈はカウンターに顎を乗せ、不満げに口を尖らせる。「面白いのに、007。秘密兵器とか、カッコいい車とか、クールビューティーとか」
 少女のようなリアクションに眉をひそめる。この財団、平均精神年齢低すぎないか?
「目標に接触してきます。外で待ち伏せしてる隊員との挟み撃ちになるので、逃げる標的への足止めとかは大丈夫です。一般人への注意喚起や終わった後の回収依頼、お願いしてもいいですか?」
「お任せください。そうゆう裏方仕事が私達の本業ですから。終わったら、斎藤さんの好きな映画も教えてくださいね」突っ伏したままサムズアップする佐奈に、同じく親指を立てて応じる。

 二階の蔵書室は、階段を中心に左右に分けられ、フロア全体に仕切りのように本棚が配置された、鬱蒼としたジャングルのような様相を示していた。面積はそう広くは無かったが、本の量は目を見張る物がある。今回の目標がネット検索でなく、紙面の情報を求めて来た心理も、何となく分かる気がした。
 佐奈から教えられた左手側のスペースを、本棚を物色するふりをしながら、棚同士の間を覗き込むように目標を探す。民俗学、宗教学、文化学、伝承。財団員が指定したスペースと、隣接した、似たようなジャンルの本棚は無人だった。野郎、勘づきやがったか?
 焦りから、体の芯がじりじりと炙られるように熱くなっていく。逃げられて今日一日の活動がパアだ。でも手掛かりはない。どうしよう、どうすればいい?
 小さなパニックを起こしながらも、冷静を装って適当な本に手を伸ばす。閉館間際の図書館でただうろうろしているだけというのは、流石に怪しい。この本を探しに来たのだ。表情と態度でそんな雰囲気を醸し出す。宗教とかこれっぽっちも興味ないけど。
 手に取ったのは、聞いた事もない著者の「宗教と科学との関わり」と題された比較的新しい新書サイズの文庫本だった。
宗教と、科学。ここに来る途中交わした、要との会話が頭をよぎった。

─それの原理すら分かっていない。異能保持者がオカルト由来の超能力なのか、科学的に進化した人類なのか──

 まさかな、心の底で自分の発想を笑いながら『宗教と科学との関わり』を元の位置に戻す。通路に出た所で、A市出身のシンガーソングライターのポップソングをアレンジしたチャイムが、館内に鳴り響いた。
──閉館二十分前になりました、貸出、返却のお客様はお早めにカウンターにお越しください──
 急がないと。スピーカーから響く、佐奈の声に急かされるように、反対側のスペースへと足を進める。
 階段を通り過ぎる途中。アナウンスの佐奈と交代したのか、先ほどとは違うエプロン姿の女性ががちらりと見えた。
 物理学、植物学、生物学。フロアの奥に向かって、ドミノを倒すように、素早く棚同士の隙間を覗いていく。人影は見えない。五人どころか、一人もいないんじゃないのか? 先程の言葉を疑いながら、フロアの最奥。人類科学の棚を覗く。
 人相と服装を確認する間もなく、本を小脇に抱えた灰色の人影と鉢合わせになった。
 心臓が一気に高鳴る。声を上げなかったのは、自分でも大したものだと思った。
 紫色の竜と緑色の鯉が刺繡された、趣味の悪いスカジャンと、どこにでも置いてありそうなありふれた黒いジーンズ。窪んだ小さく丸い目とくちばしのように尖った厚い唇。色の濃い金髪を逆立てた髪形が、気の毒なほど似合っていない。
「突然で申し訳ないが、こちらは人研財団異能研究課、実働部隊所属の斎藤功介だ! あんた、佐竹則康だよな!? あんたに異能保持疑惑と発現申告の不備とで、国からサンプルとして回収しろとの要請が来てる! 来てもらうぞ!」
 何だてめえ、さっさとどけよ。そんな事を言いかけた男の顔が、斎藤の話を聞くうちにみるみる青ざめていく。ビンゴか、こいつ、異能について自分で調べに来たな。自分より幾らか背の低い男の肩に手をかけ、ジャケットの内ポケットの手錠に左手を伸ばす。
「触んじゃねえ!」不意に、本が視界に飛び込んできた。左手を懐から戻し、顔の前で本を払う。開けた視界に飛び込んできたのは、悲鳴をあげながら斎藤に背を向ける目標の姿だった。
「逃がすか! 今日一日探し回ったんだ! こちとら生活が懸かってんだぞ!」喚きながら、通路に飛び出していった目標の男を追う。全力で走れば容易に追いつける、運動不足が目に見えるフォームで走る目標が見えた。追いつける。待ち伏せの必要なかったな。クラウチングスタートの要領で、かかとに一気に力を込め、蹴り出す。
「ヒィッ、来るなぁ!!」目標が絶叫と共に振り向き、肘を曲げ、脚を軽く振り上げて、何かを投げる素振りを見せた。慌てて足を止め、本棚の影に隠れようとするものの、それより何倍も早く目標は腕を振り下ろした。
 目標の開いた手のひらから、小石のような粒が散弾のように広がる。
 異能か? これは防いだ方が良さそうだ。今日二度目、顔と胴体を守るように腕を突き出し、防御の姿勢を取りながら、頭の中で思考を巡らせる。
 探し回った目標の捕獲まであと一歩という興奮と、弾丸のような速度で近づいてくる粒への恐怖で、スローモーションになっていく視界の中、ちらりと映った目標の手のひらを見て、答えはすぐに導き出された。
 赤い。広げた手のひら全体に、葉脈のように赤い文様が走っている。どこかの古い部族が、成人の儀式に身体に入れる刺青を思わせる、毒々しくも美しい文様だった。
 突き出した腕、胴体、太股。着弾と同時に、全身を同時に鞭で打たれたかのような強い衝撃と、びちゃびちゃ、ばちゃばちゃと粘ついた水っぽい音が響いた。
 体の前面を襲う鈍い痛みと、弾丸が放つ生暖かい湿気に斎藤が怯んだ隙に、目標は片腕を抑えながら、駆け足に出口へと逃げて行く。
 あの野郎、必死に走れば結構早いじゃないか。痛みに耐え兼ねて膝を着き、荒い息を吐きながら、斎藤はそんな事を考える。
着弾した部分を指でなぞる。多少の痛みはあるものの、目立つ怪我は見当たらない。ただ痛いだけかよ、脅かしやがって。
 ふと、指を見る。生暖かい深紅の粘液が糸を引いていた。こりゃ血か。濡れた指の匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。錆臭い。
 血の散弾か。飛び道具にしても、もっとマシなものあるだろうに。
 息を整え、立ち上がりながら、血にまみれたジャケットを脱ぎ捨てる。階段を下りきると、相手は怯える受付嬢を尻目に、自動ドアを通り抜ける所だった。
 ガラス張りの風除室に、フードを被った小男が見えた。何をするでもなくぼんやりと立ち尽くす男に、軽くため息が出る。何もそんな所で待機しなくてもいいのに。
 目標はこちらを睨み付けるように一瞥すると、荒野に住まう草食動物が、凶暴な捕食者から一目散に逃げるように駆け出した。恐怖に揺れ動く虹彩と目が合い、胸の奥底に刺されるような痛みを感じる。
 そんな目で見ないでくれよ。言った通り、生活が懸かってるんだ。
「要さんそいつだ! 血を弾丸みたいに飛ばしてくる! 実際に食らって確認した! 異能者で確定だ!」風除室の小男がこちらに気づく。男はパーカーのポケットに両手を突っ込み、細身の懐中電灯のような、黒い筒を二本引っ張り出した。筒をしっかりと握り締め、万歳の姿勢に構え直すと、名刀の試し斬りのように垂直に振り下ろした。空を切る音と共に、筒が遠心力で伸びる。
 殆ど同時に、目標が風除室に突っ込んできた。片隅で宮本武蔵の肖像のように、両手に警棒を携えたフードの男に驚き、腰を抜かしそうになるのが斎藤にも分かった。
 男がゆらりと体を揺らし、両手で袈裟斬りの要領で勢い良く警棒を振りかぶる。
 深く被ったフードの奥から、周囲に満ちる夕陽の色とも、目標の放った血の赤色とも違う、火の玉のようにゆらゆらと揺れる、鮮やかなピンク色の瞳が覗いた。全力だ。異能を使うと光彩の色が変化するのは、異能調査の最初期から判明している特徴の一つだった。
 空を切る音を鳴らし、交差させた警棒が目標の首の付け根を叩く。ぱん、と肉が破裂するような音が響いた。打たれた勢いそのままに虚ろな目で目標が崩れ落ちる。鎖骨付近、棒で撃たれた部分が、赤黒く染まっているのが見えた。
 冗談だろ、あのチンピラ死んだんじゃないか? すっと体の奥が冷めるのを感じる。死んでたらどうしよう。この警棒持ったアホを代わりに回収班に突き出そうかな。
「生きてますか、そいつ」恐る恐る風除室に入る。フードの男に話しかけながら、ポケットの中に忍ばせていた手錠を目標の腕に掛ける。電気を流したようにびくりと大きく痙攣した目標に、ひえっ、と情けない声が漏れた。
「しばらく首と両腕動かせないと思うけど、生きてるよ」小柄な男がフードを脱いだ。大型犬の次は狼かよ。露わになった要の表情を見て、内心で悪態を吐く。
 動き回ったり、攻撃を加えるには邪魔になる長い髪を、うなじの上で乱暴にまとめ上げた雑な髪形と、爛々と輝く瞳で横たわる獲物を睨み付ける姿からは、先程の大型犬のような人懐こく、穏やかな雰囲気は微塵も感じられない。
「回収班の要請、済んでます。あと十分程度で到着かと」「ん、ありがと斎藤君」簡潔に礼を言うと、要は警棒をたたみ、ガラス張りの壁に背を持たれた。天井を見上げながら深く息を吐き、空虚な表情で「疲れたね」とぽつりと呟いた。
 ああ、終わったな。緩やかな疲労感、仕事への達成感と、足元で痙攣を続ける目標への罪悪感で胸が一杯になっていく。少しでも視線を落とすと、否が応でも犠牲者が目に入るので、横の要に習って天井を見上げる。なるべくこの状況と関係ない物事を思い浮かべ、罪悪感を頭の隅に追いやる。今日の夕飯、どうしよっかな?
「うーわ、死んでません? この人」突然、佐奈がひょっこりと顔を覗かせる。デニム生地のエプロンを手に持ち、解けたポニーテールをふわりと揺らしながら風除室に立ち入ってきた。
「うーわ、血みどろじゃん斎藤さん。大丈夫?」目標の血液で所々赤色に染まった斎藤を見て、「打撲程度だから大丈夫。あと、さん付けやめてくれない? ハゲ頭の芸人になっちゃう」「あたしだって江頭なんだから、お互い様でしょ」何だその理屈。あほくさ。
「あ、佐奈ちゃんだ、おひさー、お疲れー」要が手を振る。「今度は図書館員さん? いいなぁ、リッヒーの所に居るといろんなことできて。僕も転属したいなぁ」背中を柱にもたげ、足を振り子のようにゆらゆらと揺らしながら、ぼやく。
「無理だと思うよ。要さんどうせ演技クソ下手でしょ?」「あんたも言うほど上手じゃないだろ、何がボンドガールだよ」たまらず突っ込む。佐奈からは睨み返されたが、無視した。
「と、いうか、油売ってていいのか? 図書館員。閉館後も仕事あるだろ」「受付の先輩から様子見て来てって言われただけだもん」「でも知り合いっぽく話しちゃってるよね」
「……」「……」
佐奈は要と一瞬だけ、相談するように顔を見合わせると、わざとらしく口と目を見開き、気の抜けた悲鳴を上げた。
「きゃあー、こんなところに怖い格好の人が泡吹いて倒れてるー、怖いから逃げなくちゃー」軽く握った拳で口元を押さえ、猫なで声でくねくねと体を揺らす。
 どこかで見たような、わざとらしいリアクションに、斎藤は顔をしかめる。こうゆう女が出るから嫌いなんだよ、007シリーズ。
「大丈夫ですかー、怯えた様子のお姉さーん、不安そうなので人研財団が保護しまーす」要が天井を見上げたまま、表情も変えずに淡々と台詞を呟く。
「口裏合わせって訳ですか。本ッ当に悪い組織だ……」
 脱力と疲労からその場に座り込む。タイルの冷たさとざらりとした感触が、ズボン越しにも伝わった。
 目を閉じて、瞳の裏の薄く赤らんだ暗闇に身を委ねる。遠くで微かに、聞きなれた音程の高いサイレンの音が耳に届いた。
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