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1巻
1-3
しおりを挟む「女性にこんな無茶ぶりしたの誰?」
段ボール箱を軽々と抱えた桐原さんは、呆れたように言う。
「あ……桐原さん」
今日も廊下で会うなんて、すごい偶然だ。
「また君か」
「あ、はい」
「こういう力仕事は男性に頼むべきだろ」
「いえ、大丈夫ですよ。フロアまでそんなに距離はないですし」
(副社長にこんな重いものを持たせるわけにはいかない)
私は慌てて段ボール箱を取り返そうと手を伸ばす。けれど、桐原さんはお構いなしにずんずんと歩いて行ってしまう。
「あの、私、持てます!」
声を上げながら駆け寄る私を振り返り、彼は口元を緩めた。
(笑った……!)
その笑顔はびっくりするほど優しくて、鼓動がドクンと鳴る。
(作り笑いじゃなくて、自然な笑顔だ……初めて見たかも)
「須藤さんの意欲は認める。でも、前が見えない状態で歩くような無理をするなら、ちゃんと周りを頼った方がいい」
「は、はい……」
思いがけない優しい言葉に、目を丸くする。
「これ、営業部の前に置いておけばいい?」
「はい」
私の返事を聞くと、桐原さんはすたすたと廊下を進み、営業部の前に段ボール箱を下ろした。そして、何も言わずにその場を去る。
(自分が運んだって思わせないように、気を遣ってくれたのかな)
「……あ。私、お礼も言ってない」
我に返り、慌てて桐原さんを追いかけた。けど、彼はもうエレベーターに乗り込み、追いつく前に扉が閉まってしまう。
「ああ……まさか二日連続で桐原さんと接触できるとは……」
お礼を言い損ねたことは失敗だったが、鉄仮面とまで言われている彼の笑顔が見られたのは、私にとって大きな収穫だった。
(さりげなく優しくしてくれたり、微笑んでくれたり……。無意識だろうけど、罪な人だな)
封じたはずの思いが再燃するにつれ、胸の痛みも増している。わかっていても、惹かれずにはいられない。私は、そんな自分を持て余すのだった。
それからしばらく、桐原さんと会えない日が続いた。雅の情報によると、彼は普段ほとんど取引先に出かけていて、社内にいることは結構珍しいらしい。
(じゃあ社内で何度か会えたのは相当ラッキーだったんだな)
桐原さんの姿を見られないのは残念だけど、私の仕事も忙しくなってきて、彼のことを気にしている暇はなくなっている。私は仕事に追われ、化粧直しもろくにできない日々を過ごしていた。
その日、終業後に帰り支度をしていると、雅が小さな紙袋をくれた。
「優羽、これあげる」
開けてみると、新作の口紅が入っている。仕事用で使っている口紅よりも華やかな色で、素敵だと思っていたものだ。
「あ、これ欲しかったやつだ! いいの?」
「この色が優羽に合うと思って。よければ使って! 私も色違いで買ったの」
「ありがとう、雅!」
「優羽、超頑張ってるし、これでリフレッシュして」
「うん、本当にありがとう」
仕事でくたびれた心に、この気遣いはとてもうれしい。
私は更衣室で着替えをし、帰りがけに寄った化粧室で、さっそく口紅を試してみた。雅が言った通り、その色は私に合っている気がする。
ついでにぱぱっと化粧直しをすると、疲れが吹き飛んだような気がした。
(最近、ほとんど化粧直しできてなかったもんね。またちゃんとしよう)
そう思いながら化粧室を出る。するとエレベーターホールで、ちょうど外から戻ったらしい桐原さんとばったり出くわした。
(わあ……なんだか久しぶりだな)
「お疲れ様です」
少し緊張しながらぺこりと頭を下げる。桐原さんは立ち止まって、何か言いたげな顔をした。
「あの……?」
不思議に思って尋ねても、彼は私の顔をじっと見つめるばかりだ。私は及び腰になる。
「私の顔に何かついてますか?」
「いや。なんだかいつもと印象が違うなと思って」
「えっ?」
「よくわからないが、ちょっと華やかな雰囲気だな」
その言葉で、口紅の色が違うことを言っているのだと気がついた。
(桐原さんって、メイクの違いとかわかるんだ……)
意外すぎて言葉が出ない。けれど、褒められたのはすごく嬉しい。
「あ、ありがとうございます」
「いや」
そこで桐原さんはゴホゴホッと咳き込む。そういえば、彼の顔が少し赤いような気がする。
「桐原さん、お風邪ですか?」
「いや……そんなことはないんだが……。じゃあ、お疲れ様」
彼は覇気がない様子で、エレベーターに乗り込む。その背中に、慌てて声をかけた。
「あ、お疲れ様です! あの、お大事にしてください!」
(大丈夫かな……)
桐原さんはそんなことはないと言っていたが、明らかに具合が悪そうだ。
ふと視線を落とすと、二つ折りの財布が開いた状態で落ちていた。拾おうとしゃがみ込んだら、財布のカード収納に入っている免許証の名前が見える。
(これ、桐原さんのお財布だ! どうしよう、届けないと)
私は慌ててエレベーターに乗り込み、副社長室に向かう。副社長室の前に着くと、ドアをノックした。しかしいくら待っても返事がない。
もう一度ノックするが、やはり返事はない。
(もしかして、いないのかな?)
不在なら、鍵がかかっているだろう。私はそれを確かめるため、ドアノブに手をかける。すると、ドアノブはスムーズに回った。
(鍵が開いているなら、いるってことだよね。それなのに返事がないのは変じゃない? あ、桐原さんはさっき、体調が悪そうだった……まさか、倒れてたりしないよね?)
いよいよ心配になり、そっとドアを開けた。
「桐原さん、すみません。須藤ですが……」
そう声をかけながら部屋の中を覗き込むと、桐原さんは靴を脱いでソファに横になっていた。私は驚いて思わず駆け寄る。
彼は目を閉じていて、どうやら眠っているらしい。ネクタイを緩めており、ボタンの外れたシャツの隙間から綺麗な鎖骨が見えて、ドキッとする。
(す、すごい色気なんですけど……いやいや、それどころじゃない)
「桐原さん? 大丈夫ですか?」
小声で尋ねると、彼は目を閉じたまま、小さく口を開けた。
「ん……大丈夫だ……少し眠ればすっきりする……」
「でも、結構つらそうに見えますよ。こんなところで寝たら体調が悪化しそうですし、今日は帰ったらいかがですか? お一人で帰れますか?」
「あぁ……楽になったら……」
彼はそう呟き、すうっと眠り込んでしまう。
そっと彼の額に手を置くと、熱はそこまで高くない。彼が言うように、一人で帰れないことはないだろう。けれどこのまま何もかけずにソファで寝ていたら、熱が上がってしまうかもしれない。
(困ったな……。あ、そうだ!)
私は急いで営業部の自分のデスクに戻り、冷え対策で使っている私物のブランケットを持ち出した。背が高い桐原さんの全身を包むほどの大きさはないが、少しは体を温められるだろう。
副社長室に戻ると、彼にそっとブランケットをかける。そして、目を覚ました時に不審に思われないよう、メモを残した。
「派遣の須藤です。お財布が落ちていたので訪ねましたが、ノックをしても返事がなかったので入室させてもらいました。勝手をして申し訳ありません。お大事にしてください。ブランケットは折を見て取りに来ます……と」
メモはお財布と一緒に、ローテーブルに置いた。
(桐原さんが、早く元気になりますように……)
『副社長室に勝手に入るなんて』『余計なことをするな』と怒られる覚悟をしつつ、彼の回復を祈り、副社長室を後にしたのだった。
次の日の朝、出勤すると私の机の上に綺麗に畳まれたブランケットが置かれていた。
(桐原さん、体はもう大丈夫なのかな? ……わざわざ返しにきてくれたんだ)
ブランケットを手に取ると、間にメモが挟まれている。それを見て、一気に頬が熱くなった。
『昨日はありがとう。お礼をしたいから、空いている日を教えて』
そんなコメントの下に、メールアドレスが記されている。
(お礼って……そんなのいいのに。それよりも、体が心配だよ)
私は慌てて、そのメールアドレスに連絡する。
『桐原さん、須藤です。ブランケット、わざわざありがとうございました。体調は大丈夫ですか? 桐原さんが元気になってくだされば、お礼は結構です。お忙しいと思いますが、あまり無理はなさらないでください』
するとすぐに返事が来た。『君のおかげで、もうすっかり元気だ。ぜひお礼をさせてほしい』という。
お礼と言われても、大したことはしていない。大袈裟なことを言われて少々怯んでしまう。
返事に困っていると、またも桐原さんからメールが届いた。
『今朝は大事な会議があったから、あのまま風邪が悪化していたら一大事だった。どんな形であっても、お礼をさせてもらう。なんなら営業部に直接行ってもいいが……』
私はひぇぇと縮み上がる。これは半分脅しではないだろうか。
そう思う反面、心が少し弾む。桐原さんに認識してもらい、話ができ、あまつさえ感謝まで……。そんなの、高校生の頃には考えられなかった。
(なんだかかえって申し訳ないけど……お言葉に甘えても、いいかな?)
はしゃぎそうな心を抑えつつ、桐原さんにメールを返す。
『お気遣いありがとうございます。私は当面予定がないので、いつでも大丈夫です』
すると桐原さんから、『じゃあ、今日でもいいかな。終業後に地下の駐車場に来て』とメールが届いた。
まるで夢みたいだ。そう思って何度か頬をつねってみるが、痛い。
(夢じゃない……)
今日の夜は、仕事の用件以外で桐原さんに会える。……緊張で目眩がしそうだ。
(でも、嬉しい……!)
私は驚くほど仕事を勢いよく仕上げ、終業時間になるとすぐに着替え、化粧室へ飛び込んだ。
メイクを直して、急いで駐車場に向かう。すると、桐原さんは高級そうな外国車の前に立っていた。
「遅れてすみません!」
「別に待ってないよ。昨日はありがとう」
「いえいえ、とんでもありません! あの、お体は本当に大丈夫ですか?」
「あぁ。須藤さんのおかげですっかり。それで、今日は突然悪かったね。俺の行きつけのレストランに行こうと思っているんだけど、食べられないものはある?」
確かに桐原さんは、再会してから社内で会ったどの時よりも、元気そうだ。というか、心なしか厳しさが薄れ、明るい感じがする。
(元気なのはよかったけど……食事するの? 大したことしてないのに)
「いえ、特にありませんが、あの」
「それはよかった。じゃあ乗って」
私の言葉を遮り、桐原さんは助手席のドアを開けてくれる。
(せっかくだし、今日はお言葉に甘えちゃおうかな……)
「じゃあ……失礼します」
私は恐縮しつつ、助手席にそっと乗り込んだ。座席はふわっと包み込むような座り心地で、まるでマッサージチェアだ。
(うわ、さすが副社長の乗る車は違うなあ)
桐原さんもすぐに運転席に乗り込み、静かにエンジンをかける。そしてふっと笑った。
「そんなに緊張しなくても……。今日は、俺が副社長だってことは忘れて」
「それって……どういうことですか」
「肩書きにとらわれない方が話しやすいでしょ」
(お礼をしたいのは、副社長としてじゃないから……ってことかな?)
いまいちよくわからない。首を傾げる私を乗せ、車はゆっくりと進み出した。
連れてきてもらったレストランは、かなり高級なところだった。気軽に食事をするという感じではない。私は自分の服を慌てて確認する。通勤用の落ち着いた服だから、ギリギリセーフだろうか。
(こんな高級レストランに連れてこられるとは思わなかった……)
内心あわあわしながら、エスコートされて席につく。落ち着いた内装で、店内には静かにクラッシック曲が流れている。
「素敵なお店ですね。ここはよく来られるんですか?」
店内に飾られた絵画や花を見ながら聞くと、桐原さんは小さく頷いた。
「帰宅して食事を作るのが面倒な時は、ここに寄ることもあるよ」
「え、桐原さんって、自炊されるんですか!?」
このレストランの常連さんということは驚かないが、自分で料理をするというのは意外だ。お手伝いさんでも雇っていそうな感じなのに。
そんな私の反応に、桐原さんは不思議そうな顔をする。
「俺が自炊していたら、おかしい?」
「いえ、そうじゃないんですけど。……家事はあまりなさらないイメージだったので」
言葉を選びつつ、正直な感想を言った。すると彼はふっと笑う。
「周りはそう思ってるのかもしれないけど、案外地味な生活だよ。父親が厳しい人でね、楽をして生きるとろくな奴にならないって言われて、高校時代から弁当は自分で作ってた」
「高校時代から! そうなんですか」
(知らなかった……あの桐原先輩が……)
桐原さんの意外な一面を知ることができて、ちょっと嬉しい。
それから、彼のおすすめだという魚のコース料理をお願いすると、ウェイターがグラスに白ワインを注いでくれた。
そこで、桐原さんが少し身を乗り出す。
「改めて……昨日はありがとう」
「いえ、すみません。勝手なことをして。部屋にも無断で入りましたし……」
「いや、財布を届けに来てくれたんだろう。それに体調も気遣ってくれて、嬉しかったよ」
予想外の素直な言葉に、胸がドキンと鳴る。今日は表情も柔らかいし、目の前の人は本当に桐原さんなのだろうか……とちょっぴり思ってしまう。
私は頬が熱くなるのを誤魔化すように口を開く。
「わ、私こそ、先日のお礼をずっと言いそびれていて」
「お礼?」
「重い段ボール箱を持っていただいたじゃないですか」
少し考えて思い出したようで、桐原さんは「ああ」と頷いた。
「お礼を言われるほどのことじゃない。あんなの覚えてるなんて、律儀だな」
「そんなことないですよ……本当に助かりましたから」
「ならよかった」
彼はふっと小さく笑い、ワイングラスを持ち上げた。
「じゃあ、料理をゆっくり楽しんで」
「は、はい」
私も彼にならってワイングラスを掲げる。ワインを一口飲んでグラスを置くと、彼は口を開く。
「今日は本当に遠慮なく楽しんで。俺も車はここに預けて、タクシーで帰るつもりだから」
「じゃあ、お言葉に甘えて……。ありがとうございます」
「あまりかたくならなくていいよ。気楽にして」
普段はあまり聞かない柔らかな口調だ。風格と落ち着きのある振る舞いに、ドキドキする。
(桐原さんは、やっぱり御曹司なんだな……)
会社での厳しさが嘘のように、棘が取れている桐原さん。そんな彼に、私も緊張が緩む。
(いつもこんな感じなら、みんなも接しやすいんだろうけど。あ、でもそれだと女性の人気が上がりまくるだろうから困るな……)
そんなことを思いながら、私はもう一口ワインを飲んだ。
その後、ワインと一緒に料理もいただき、私の緊張はほぐれた。
メイン料理の白身魚のムニエルを口にした瞬間、目を見開く。そしてつい声が大きくなってしまった。
「おいしい! さっきのテリーヌもおいしかったですけど、このムニエルも最高ですね!」
すると桐原さんは手を止めて、じっと私を見た。
「あ……すみません。つい興奮してしまって」
(私ってば、お酒で気持ちが大きくなりすぎ)
自分が恥ずかしくて、頬が熱くなる。桐原さんは呆れたかもしれない。
しかし彼は、優しく目を細めた。
「会社でもその表情でいればいいのに」
「え……」
思わぬ言葉に、私は手を止めて桐原さんを見る。
「えっと、その表情……とは?」
「今、すごくいい顔をしてるよ。生き生きしてるっていうのかな。羨ましいくらいだよ」
彼の目に、私はそんな風に映っているのか。そもそも、私の表情を意識してくれたというだけで、嬉しい。心臓がバクバクしている。
そういえば、昨日はメイクの違いにも気づいてくれたし……少しは彼の視界に入っているのかな。
期待しちゃダメ、と自分に言い聞かせながら、私は答えた。
「そ、そうですか? ちなみに、会社での私って、どんな顔をしているんでしょう?」
「そうだな……少なくとも俺の顔を見ると、こわばるのは間違いない。まあ、俺も相手をリラックスさせるような人間じゃないから、仕方ないんだけど」
桐原さんは、困ったように眉を寄せ、口元を緩める。
その言葉に私は焦った。確かに桐原さんを意識するあまり、彼の前では緊張してただろう。
「いえ、緊張してしまうのは確かなんですけど! それは桐原さんがどうだから、というわけではなく……」
(あなたにドキドキしているから、必要以上に体に力が入っちゃうんです)
こんな本心は言えるはずもない。でも、桐原さんが少しは私に関心を持ってくれているのがわかって嬉しい。それに彼は、再会してから私のことを『須藤さん』と名前で呼んでくれている。高校時代にはかなわなかったことだ。
(思いがけない展開だったけど……昨日おせっかいを焼いてよかったな)
「えっと、上手く言えないんですけど……私は桐原さんと少しでもお近づきになれて、すごく嬉しいですよ」
(同じ会社にいられるのは半年間でも、きっと一生の思い出になる)
彼への気持ちは、心の中にしまっておくつもりだ。でも、悪い感情を持っていないことだけは伝えておきたい。
そう思って一生懸命言ったら、桐原さんは黙り込んだ。
(え、私、変なことを言ったかな……?)
心配になって彼を見ると、ほんの少し頬が赤らんでいるように見える。
(もしかして、照れてる? いやまさか……あの桐原さんが?)
「顔合わせの時から思ってたけど、須藤さんって言葉がとてもまっすぐでいいね。心に響くよ」
「そう……ですか?」
「うん。回りくどく察しなきゃいけないような言葉じゃない。君みたいな人との付き合いは少ないから、とても貴重だ」
桐原さんの真意はわからないけれど、マイナスの感情ではないだろう。
「仕事熱心なのも買ってるし。君がうちの会社に来てくれてよかったよ」
「あ、ありがとうございます。これからも頑張りますので」
「……結局、仕事の話になっちゃったな」
くすりと笑った桐原さんにつられて、私も笑う。
こうして、おいしい料理と桐原さんとの楽しいおしゃべりで、私はお腹と心を満たしたのだった。
食事を終え、私たちは並んでレストランから出た。
「ごちそうさまでした。料理もおいしかったし、桐原さんとお話しできて、楽しかったです」
「いや、俺も一人で食事するよりずっといい時間だった」
桐原さんの言葉に驚き、彼を見上げる。
(私との時間を……いい時間だったって言ってくれた)
スマートで凜々しくて、高校の頃よりずっと大人っぽくなった彼を見つめ、このまま別れるのが急に寂しくなった。
「そんな風に言ってもらえて、嬉しいです。名残惜しいくらいで……、帰りたくないな……」
私の口からこぼれた呟きに、桐原さんは驚いて目を見開く。
その顔を見て、自分が何を言ったのか理解した。もう少し一緒にいたいと誘ったみたいじゃないの。私は慌てて、手を横に振った。
「あ! なんかすみません! えっと、そのくらい楽しかったってことで、他意はなくて……っ!」
「楽しかったから、まだ……帰りたくない?」
まっすぐに見つめられ、私は言葉に詰まる。けれど彼は目を逸らしてくれない。私は少しためらった後、小さく頷いた。
桐原さんは「そうか」と言い、考えるような素振りをする。
困らせてしまっただろうか。どう言ったら流してくれるかな。ぐるぐると考えていると、彼が口を開いた。
「じゃあ、バーでもう少し飲もうか」
思わぬ提案に、私は目を見開く。そんなつもりはなかったけれど、せっかくのお誘いだ。断る理由はない。
「はい! ありがとうございます!」
心なしか声がうわずってしまう。彼はふっと小さく笑って、私の方へ腕を差し出した。
「ワインで少し酔ったでしょ。危ないから掴まって」
「あ……はい」
(なんだか……恋人っぽい)
どきどきしながら桐原さんの腕に手を置くと、彼はそのままゆっくりと歩き出す。
なんだか、体がふわふわしている気がする。それはワインのせいなのか、彼に近づいているせいなのかわからない。
でも、すごく幸せな気分なのは確かで、私は胸のときめきを抑えきれなかった。
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