君の素顔に恋してる

伊東悠香

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1巻

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 私の心や表情を明るくしてくれる魔法。それはメイクだ。
 気分の乗らない日だって、お化粧をするだけで前向きになれる。
 私、須藤すどう優羽ゆわは高校生の頃、とある理由からメイクに目覚めた。それ以来、毎朝自分自身に魔法をかけている。
 今日も私は、魔法をかけるために鏡の前に座った。
 隙のないばっちりメイクも好きだけど、今日はわけあって、派手な印象は禁物。というわけで、清楚系せいそけいに仕上げる予定だ。
 昨日の夜は丹念にスキンケアをしておいたから、肌の弾力は合格。さらにメイク崩れを防ぐため、化粧水を肌にしっかりなじませる。

(緊張して汗をかくかもしれないから、汗止めのクリームも塗っておかなくちゃね)

 下地を塗ったら、日焼け止め効果もあるBBクリームの出番。その上から、透明感を出すためにパウダーを塗ると、自然な素肌感で仕上げることができる。

「次は……眉ね」

 ここはミスが絶対に許されないところ。眉の形で、印象がグッと変わるからだ。眉山の位置を意識して丁寧に眉を描いていく。
 ブラシでぼかして自然な眉に仕上げた後は、鼻を高く見せるためのノーズシャドウを入れ、アイメイクに移る。
 アイラインは、ナチュラル感を保つために目尻には引かずに、黒目に近いところだけ引いた。そして薄いブラウンのシャドウをまぶたにのせる。
 まつげを自然に盛るために、ビューラーで精一杯上げる。そこにマスカラ下地、マスカラの順で塗っていき、ボリュームを出した。
 ばっちりメイクの時は、『グラデーションシャドウ&がっつりアイライン&つけまつげ』も必須なのだけど、仕事モードではこのくらいがベストだろう。
 仕上げは唇だ。今日の化粧に合った色の口紅を丁寧に塗っていく。

(よし……こんなもんかな)

 メイクタイムが終了し、鏡の中の自分に笑いかける。すっぴんの時よりも目鼻立ちがはっきりした私は、自信がありそうに見えた。


 今日、私が清楚せいそを心がけながらメイクをしているのには、わけがある。
 さかのぼること、数週間前。四月のはじめ頃、私の勤めていた会社で上司が部署のメンバーを集めて、衝撃的な事実を告げた。

「えっ、倒産? ……冗談ですよね?」

 みんながどよめく中、私がこぼした言葉に、上司はうんざりした表情で首を横に振った。

「残念だが本当だ。一週間以内に私物を持ってこの会社を出て行くようにと、社長から通告があった」
「そんな……」
(この会社でずっと頑張っていくつもりだったのに)

 大学を卒業して入社し、早四年。新卒で採用してもらったこの会社には、恩義を感じていた。できるなら三十代になっても四十代になっても、ここで働き続けたいと思っていたのに――

(……いきなり人生設計が崩れた)

 そんなわけで、平凡OLの私は、突然求職活動をしなくてはならなくなった。
 けれど、思うように次の仕事が見つからない。とはいえ仕事をしなくても生活できるような余裕もない。
 困った私は、当面の生活のため、派遣会社に登録することにした。
 するとトントン拍子で派遣先を紹介してもらえて、今日はその派遣先と顔合わせをする大事な日なのだ。
 清楚系せいそけいメイクをほどこした私は、派遣先の企業の大きなビルの一室で、姿勢を正して座っていた。先方の担当の方は、もうすぐ来るらしい。

挨拶あいさつを兼ねたものだから面接じゃないって言われても、やっぱり緊張しちゃうよ)

 そわそわしていると、隣に座る派遣会社の担当者が、私に耳打ちした。

「須藤さん、あまり緊張なさらないでください。あなたの職務経歴ならきっと歓迎されると思いますよ」
「ありがとうございます」

 私は曖昧あいまいな笑みを浮かべて答え、再び前に向きなおる。

(契約期間が半年っていうのは短いけど……とりあえず、生活のため。それに、ここみたいな大企業で仕事をすれば次の仕事につながりやすいはずだし! きっとスキルアップもできるだろうし!)

 そんなことを考えていると、部屋のドアが開いた。

「お待たせしました」
「いえっ」

 椅子から立ち上がり、部屋に入ってきた男性を見た途端、驚きで目を見開いた。

(せ……先輩っ?)

 すらっとした長い足、しっかりとした肩幅、整った顔。高校時代にあこがれたその人が、目の前に立派な成人男性として立っていた。
 男性は一瞬いぶかしげに私を見るが、すぐに興味なさそうな顔になり、私の目の前まで足を進める。

「わざわざお越しくださり、ありがとうございます」
「こちらこそ、貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございます」

 頭を下げながら、彼の様子をうかがう。

(私のこと、覚えてないのかな。もしかして、先輩じゃないの? いや……私が彼を見間違うはずがない)

 仕立てのいいスーツをビシッと着こなし、できる男の空気をまとっている。それは高校時代とは異なる姿だけど、彼は間違いなく桐原きりはら先輩だ。

「初めまして。私、副社長の桐原と申します」

 丁寧に差し出してくれた名刺を、頭を下げながら受け取る。

(桐原れん……やっぱり、桐原先輩だ)
「桐原さん、今日はよろしくお願いいたします」

 派遣会社の担当さんが挨拶あいさつすると、先輩はうなずき、「座ってください」とうながした。 

「は、はい。失礼いたします」
「では……簡単にお話を聞かせていただきますね」

 先輩も席に着くと、私と担当さんを見比べながら淡々と話を進めていった。
 まずは簡単に業務内容を説明してくれる。それは、前の会社でやっていたこととあまり変わらないようなので、きっと問題なくできるだろう。
 そう答えた私を、先輩はまっすぐ見つめてくる。

「契約期間は短いのですが、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
「失礼ですが、アルバイト感覚でいらっしゃるということはありませんか?」

 するど射貫いぬくような視線を向けられ、私は緊張でこわばる。

(先輩……昔よりすごみが増した?)
「いえ、任せていただける仕事には、責任を持って取り組ませていただきます。期間が短いからといって、中途半端に仕事をしようという考えもありません」

 なんとかそう答えると、彼は納得したように軽くうなずいた。
 先輩は、まるで私に仕事を任せていいのか、見極めているかのようだ。
 単なる顔合わせで面接ではないはずだが、彼の目は厳しい。派遣会社の担当さんもひるんでいる。
 私たちの様子には構わず、先輩は続ける。

「仕事への真面目な姿勢はわかりました。では最後に……あなたには、仕事に対する信条がありますか?」
「信条……座右ざゆうめいみたいなものですか?」
「そうですね」
(まさかここでそんなことを聞かれると思わなかった)

 やや面食らいながらも、私はいつも心に留めている言葉を口にした。

「信条と言えるかどうかわかりませんが、大切にしている言葉は『無心』です」
「どういうことか、もう少し詳しく説明してもらえますか」
「は、はい」

 私は一呼吸おいて、ゆっくり説明した。

「目標に向かって、無心に取り組むことを心がけている……ということです」

 説明を聞いた先輩は、ずっと引き結んでいた口元をかすかに緩めた。

「……いい答えだ」

 その低い声に、心の奥がうずく。

(この言葉、あなたからもらったものなんですよ)

 複雑な気持ちで先輩の表情を見ていると、彼はパンフレットを差し出してきた。

「あなたには、営業部に所属していただく予定です。部署の配置や会社の細かいことは、このパンフレットに載ってるので、目を通しておいてください。あなたの方で気になることや質問はありませんか?」
「は、はい。大丈夫です」

 私の返事を聞くと、先輩はすぐに立ち上がった。

「今日は以上です。お疲れ様でした」 

 思いのほかあっさりと顔合わせの終了を告げられる。

「来週の五月一日からよろしく」
「あ……」

 手が差し出されたのを見て、私も慌てて立ち上がり、彼の大きな手を握る。

「こちらこそ、よろしくお願いします」
(先輩の手だ)

 なつかしい指先に触れ、こんな場面なのに頬が熱くなってしまった。
 こうして、短期とはいえ新しい仕事が決まった。


 顔合わせの緊張と思いがけない再会で疲れ果てた私は、アパートに帰るなりベッドに倒れこんだ。

「派遣先で、まさか桐原先輩に会うなんて……」
(そういえば先輩、大企業の御曹司だって噂だったな。あの若さでもう副社長なんだ……)

 握られた手をじっと見つめ、また頬が熱くなってくるのを感じる。

(私ってば未練がましいな……まだ引きずってるの? もうずいぶん前の話なのに)

 私は高校時代、女子バスケットボール部に所属していた。運動が得意というわけではなかったけれど、体を動かすのは好きだったから。
 それに、かっこいいなとあこがれていた桐原先輩が男子バスケットボール部に所属していると知り、少しでも接点を持ちたいという気持ちもあった。
 万年補欠で試合にはまったく出られなかったけれど、少しでも上手くなりたくて、練習は真面目にやっていた。桐原先輩がストイックに練習する姿を見て、影響されたというところもあったのだけど。
 そんな高校二年生のある朝、私はこっそり練習しようと、体育館を訪れた。

(よかった……誰もいない)

 軽い準備体操をした後、苦手なシュートの練習をはじめる。でも、フリースローラインからのシュートがまったく決まらず、バックボードに当たっては落ちる。

(試合でシュートを決めてみたいなぁ……。まぁ、万年補欠の私には、そんなチャンスすらないんだけどね)

 肩を落として転がったボールを見つめていると、体育館に私以外の足音が響いた。

「雑念だらけ。そんなんじゃ、シュートが決まるわけないよ」
「え……」

 振り向くと、そこには制服姿の桐原先輩がいた。彼はコートに入ってきて、ボールを拾い上げる。

(どうして先輩がここに?)
「ここに立つ時は、余計なことは考えないで、無心になるんだ」

 彼はそう言いながら私の横に立ち、ボールを頭上で構えると、ごく自然に手を離す。それは美しい弧を描きながら、導かれるようにゴールネットに収まった。

「すごい……」
(力んでる様子もないのに、計算されたように綺麗にゴールに入った)
「難しいことじゃないよ。やってみる?」
「あ……はい」

 私がうなずくと、先輩は自分のシュートしたボールを拾い、私に持たせる。その時、指先がわずかに触れた。

「きゃっ」

 私はドキッとして、思わずボールから手を離してしまう。ボールは大きな音を響かせ、はずみながら転がっていく。

「ご、ごめんなさいっ」
「いいよ。まあ、今のは俺の持論だから……君は君のやり方を見つけるといい」

 それだけ言い残し、先輩は体育館を去った。その後ろ姿はりんとしていて、目を離せない。

(先輩と話ができた……先輩の指に触れられた)

 ボールを拾い上げながら、私は今までのあこがれよりずっと大きな気持ちが、自分の胸に芽生えたのを感じた。 
 おそらく、これが先輩への恋のはじまり。
 それ以来、彼を見かけるだけで足が止まり、声を聞くだけで胸が苦しくなった。
 見ているだけの片思いがこんなにつらいのかと、眠れない夜をいくつも過ごした。
 そんな当時のことを思い出し、胸がぎゅっと締めつけられる。

(先輩は私にとって忘れられない存在。だけど、彼は私を覚えてもいない。……こんなふうに再会しちゃって……私、平気でいられるのかな)

 この日の夜は先輩のことを考えて複雑な気持ちになり、なかなか眠れなかった。


 そして迎えた出社初日。やはり清楚せいそを心がけ、派手にならないように気をつけながらも、しっかりとメイクをほどこして部屋を出る。緊張のあまり、食欲はなかった。

(先輩のことは気にしないで、今は仕事を覚えることに集中しよう)

 意を決して、私は気後きおくれするほど大きなビルに足を踏み入れる。受付の人に聞き、更衣室で先日もらった制服に着替えてから営業部に向かう。
 始業時間になると、営業部の部長が私を紹介してくれた。

「産休中の葉山はやまさんの代わりに半年働いてくれることになった、須藤さんだ」

 私は緊張しながら頭を下げた。

「須藤です。短い期間ですが、頑張りますのでよろしくお願いします」

 フロアの社員が拍手をしてくれ、無事私の仕事初日がスタートした。
 部長に指名された女子社員が、簡単に仕事の説明をしてくれる。それが終わり、今日の仕事を渡されて一人になると、私は改めてフロアを見渡した。
 以前勤めていた中小企業の会社と違い、ワンフロアだけでも相当広い。案内された席からはフロア全体が見渡せて、開放感があった。

(これだけ大きな会社で働くことはなかなかないだろうし、いい経験だから頑張ろう)

 さっそく渡された簡単なデータ入力をして、私は前向きに仕事を進めていった。


 お昼休憩の時間になり、みんなはぞろぞろ移動していく。お弁当を持ってきている人も数人いるようだけど、私は何も持ってきていない。パンフレットには社員食堂があると書いてあったから、それを利用しようと思っていたのだ。でも、場所は知らなかった。

(ついて行けばわかるかな)

 きょろきょろしていると、先ほど仕事の説明をしてくれた女子社員の飯田いいだみやびさんが声をかけてくれた。華やかな顔立ちの可愛い子だ。

「須藤さん、一緒に食堂行きませんか?」
「あ、そうしてくださると助かります」

 ぺこりと頭を下げたら、飯田さんはくすっと笑う。

「須藤さんって、丁寧ですね。年が近いんじゃないかと思ったんですけど、おいくつですか?」
「二十六歳です」
「えっ、同い年だ! じゃあ、敬語はやめない?」

 飯田さんは、ぱっと人懐ひとなつっこい笑みを浮かべる。その勢いに押され、私はうなずいた。

「え、はい……じゃなくて、うん」

 慌てて言い直す私を見て、飯田さんは明るい声で笑う。

(すごくいい人そう)

 気軽に話せそうな人がいてホッとしつつ、飯田さんと一緒に社員食堂へ向かう。
 食堂に着くと、それぞれ食べたいものを買って、いていた席に座った。食事をはじめてすぐ、飯田さんは唇を指差して言う。

「須藤さんのリップ、すごく綺麗な色だね。朝から思ってたんだ。雰囲気に合ってて素敵。お肌もすごくキレイだし!」
「本当? ありがとう」
(メイクを褒められた……こんな可愛い子に)

 心がちょっぴり浮き立つ。さらに飯田さんは嬉しいことを提案してくれた。

「私、メイク好きなんだ。いろいろ情報交換しようよ!」
「もちろんだよ」

 派遣先でこんなふうに話ができる人に会えるなんて、思っていなかった。思わぬ幸運に、自然と顔が緩む。

(よし、気分が上がってきたし、午後も仕事を頑張ろう!)

 私はカツ丼を口いっぱいに入れて、頬張る。今朝は朝食が食べられなかったし、午前中は仕事に集中していたから、すごくお腹がいていた。
 もりもり食べていると、すらりとした長身の男性が歩いてくる。

「んっ」
(桐原先輩……っ)

 思いきり頬にご飯を入れている状態で、彼と目が合う。
 恥ずかしいけれど、すぐに呑み込むこともできずに、私は黙って会釈えしゃくした。
 しかし先輩は無表情のまま素通りして、奥の席に座って一人で食事をはじめた。
 副社長という立場のせいか、誰かが気安く声をかけることもない。まるで孤高の獅子ししのようだ。

(……先週顔を合わせたばかりなのに、まったく知らんぷりだったな)

 残念に思っていると、飯田さんが興味津々しんしんといった様子で身を乗り出してくる。

「ねえ、副社長のこと、気になるの?」 
「えっ?」
「あ、今前を通った人、副社長なんだよ。あの人、仕事ができる上に、顔が整ってるからね。それに身長も高いし……。仕事に厳しいせいで、文句を言う女子は多いんだけど、本音では好きだっていう人も多いよ」
「そ、そっか」
(高校時代と変わらず、モテモテなんだな)

 高校の頃は、桐原先輩のファンクラブがあった。私はきゃあきゃあ騒ぎたいわけじゃなかったから、入らなかったけど。

「でも、残念なことに彼、まったく女性に興味なさそうなんだよねー」

 つまらなさそうに口をとがらせる飯田さんの言葉に、今度は私が身を乗り出す。

「それ、何か根拠があるの?」
「彼女がいるって噂もないし。過去に果敢かかんにアタックした人は、全員玉砕ぎょくさいしたらしいよ。……まあ、ああいう人ってフィアンセとかいるのかもしれないけど」
「そっか……」
(告白、全部断ってるんだ。でも先輩は女性に興味がないわけじゃないよね。だって昔、彼女がいたし……)

 つらい過去を思い出しそうになり、慌てて記憶にふたをする。
 そんな私をよそに、飯田さんはデザートのプリンを食べながらため息をついた。

「だいたいさあ……人間味がなさすぎない? あの人」
「そうかな。表情が硬いとは思うけど」
「それだよ。取引相手には笑顔を見せることもあるけど、普段は能面のうめんだし。感情をまったく出さないんだよ」
「そうなんだ」

 確かに彼は、まるでバリアを張っているみたいに誰も寄せつけない空気がある。

(愛想を振りまくタイプじゃないのも、昔から変わらないな)
「あんまり無表情だから、社員からは密かに〝鉄仮面てっかめん〟って呼ばれてるんだよ」
鉄仮面てっかめん……)

 ちらりと奥の席に目をやると、もう食べ終えたのか、先輩の姿はなかった。
 鉄仮面てっかめんというのは言いすぎじゃないかと思うけど、高校時代も似たようなあだ名をつけられていた。常に無表情だし、異性への塩対応から、『氷の王子』と呼ばれていたのだ。

(でも本当に冷たい人なら、あの時の私に、シュートのアドバイスなんてしないと思うんだよね。感情を表に出さないのには、理由があるんじゃないかな。これは、ただの勘だけど……)

 そんなことを考えて黙り込むと、飯田さんは楽しげに笑った。

「ふふっ、須藤さんは副社長が気に入っちゃったみたいだね」
「……っ、まあ……興味がないわけじゃないよ」
「やっぱり?」
(何年経っても忘れられない人だしね。それに……)

 口に出せないことを、心の中でつぶやく。

「でも、彼とどうなりたいとかは全然ない。それは本当だよ」
(どうもなれないよ。私は、もうとっくの昔に振られてるんだから)

 あと少しで食べ終える丼を見つめながら、私は封印しきれない胸の痛みを再確認した。


 私は高校時代、先輩にこっぴどく振られている。
 今よりも人と話すのが苦手だった私にとって、告白するというのは清水きよみずの舞台から飛び降りるような勇気が必要だった。
 それは、体育館でシュートの仕方を教えてもらった少し後。あの時の私は先輩への恋心がつのりすぎて、もう胸に秘めておくことができなかった。

「あのっ! 桐原先輩!」

 帰宅途中の彼を引き止め、周囲に人がいるのも構わず、手紙を差し出した。何日もの間、書いては消しを繰り返した、私の思いを精一杯つづったラブレター。
 両思いになれるとは思っていない。でも、せめて自分の存在を認識してほしくて書いたのだ。

「この手紙読んでいただけませんか」
「え……手紙?」

 先輩は少し驚いたように目を見開く。彼に手紙を差し出す私の手は震えていた。

「先輩が好きです。どうか……手紙だけでも受け取ってください」

 居合わせた生徒たちがざわめきだす。そこで、失敗したと思った。

(うう、見られてる……もう少し場所を考えるべきだったな)

 私は、湯気が出そうなほど頬を熱くさせながら、後悔する。

(でも今伝えないと、もう二度と勇気を出せないと思うから)

 先輩は私の顔を興味なさげに見つめ、そっけなく言った。

「……悪いけど、その手紙は受け取れない」
「え……」
「話したこともないのに、好きだなんて、よく言えるよね。そういう女性の感情って理解できないよ」

 恐ろしく冷たい声でそう言われ、私は深い谷底に落ちたような気持ちになった。胸が激しく痛み、声も出ない。

(話したこと、あるんだけど……覚えてないんだな。でも、それを言ったところで意味ないだろうし……つまり、振られたんだよね)

 彼は手紙を受け取ろうともせずにため息をついた。

「それに、今は誰かと付き合うとか、考えられない。……予定があるんだ。もう行っていい?」
「え、あ……はい」

 放心状態の私を置いて、先輩は何事もなかったかのように立ち去ってしまった。
 残された私はまるでさらし者だ。どういう顔をしていいかわからず、うつむいて手紙を握りしめた。

(同じ部活だったのに、顔も覚えてもらってなかったんだ……)

 これだけでも十分傷ついていたのに、次の日、私はさらなるショックに打ちのめされた。

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