エスプレッソとバニラ

伊東悠香

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1巻

1-2

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「でも、私を生んでくれた両親と、かわいがってくれたおばあちゃんは、この性格が長所だって言ってくれました。仕事はがんばります。でも、性格を劇的に変えるっていうのは……難しいかもしれません」

 ここまで言ったところで、彼は我慢できないといった様子で口をはさんだ。

「性格は関係ない。桐原さんはよくやってくれてる……わかってるよ」

 急に優しくなった久保さんを前にして、涙腺るいせんが思わず緩む。まだ開けていない幕の内弁当のプラスチックのふたの上に、雫がこぼれる。

「ごめん、ちょっと困らせてやれっていう軽い気持ちで言ったんだ。好きな子を困らせたいなんて、子供みたいだよな」

 優しいトーンで久保さんはそう言って、私の頭にフッと手をのせた。びっくりして、私は彼を見上げる。
 冷徹なはずの久保さんの目に、ほんのり温かいものが宿っていた。

「職場恋愛なんて、面倒くさいと思ってたけど、君のこと……好きかもしれない」

 信じられない言葉を、彼は口にした。
 彼が、私を……好き?
 信じられない。
 でも彼の目は本気だ。なにか答えないと!

「私も……好きです。久保さんに恋人がいても関係ないって思うくらい、好きです。私のことなんか、眼中がんちゅうにないと思ってました」

 懸命にそれだけ口にした。すると、彼は頭に置いていた手を離し、すっと頬に触れる。

「俺が仕事に関しては男も女も関係なく厳しいのも、桐原さんなら受け入れてくれる気がしてさ」

 仕事のときの、鋭い光が目の奥に見えた。

「はい。そんな厳しい姿勢で仕事をしている久保さんだから、好きになったんです。怒られるのはつらいけど、それも……仕事と真剣に向き合っているからだとわかっています。久保さんを少しでもサポートできるよう、がんばっているつもりです」

 久保さんは、黙って私の話を聞いてくれていた。きっと、彼は自分のことだけじゃなくて、この先、何十年……何百年先の未来を思って、仕事にとり組んでいる。そんな彼を、私は好きになった。

「ありがとう……わかってくれてて。随分きつく当たって、ごめんな」

 久保さんが私を抱きしめる。
 パリッとノリのきいたシャツの感触。清潔な洗濯物の香りがした。
 職場恋愛はしたくない、なんて思っていた人が……こんな場所で、私を抱きしめていていいんだろうか。
 そんな余計な心配をしながらも、私は彼の背中に手をまわした。

「今日、久保さんの誕生日ですよね。……おめでとうございます」

 一度は無視しようと決めていた彼の誕生日を、私は忘れることができなかった。

「そうだっけ。自分の誕生日すら忘れてたよ」
「そうですよね……久保さんは職場では仕事のこと以外考えていないから。自分の誕生日なんか覚えてないですよね」

 クスッと笑って、真近にある彼の顔を見上げた。

「でも……私は覚えてますよ。あなたが仕事しか見えなくて、見落としそうなものがあったら、私が気づいて教えてあげますよ」
「……」

 久保さんは黙ったまま、私を抱きしめる腕にさらに力を込めた。

「ごめんな。俺、本当に……」

 言葉に詰まって、声にならないみたいだった。

「今、すごく幸せです……だって私、あなたのことが本当に好きだから……」

 そう言い終わらないうちに、彼の唇が私の口をふさいだ。冷たいと思っていた彼の唇は……バラの花弁みたいに柔らかくて……温かかった。
 仕事しか見えてないはずの彼が、ちゃんと私を見てくれていた。いったい、いつからそんな風に思ってくれていたのか、これから聞きたいことがたくさんある。
 仮面を外した彼は、優しい顔をしている。もしかすると……プライベートになると超優しい人だったりして……?
 甘い期待を抱きながら、繰り返される彼のキスを目をつむって受け入れた。



   2 真太郎しんたろうのオンとオフ


「久保、ちょっと加減したら?」

 私が彼に怒られていると、見かねた飛田課長が珍しくとめに入ってくれた。百部作らないといけない会議用の資料を逆さに印刷してしまって、急いで刷り直していた。
 久保さんには見つからないようにコソコソ作業していたのに、思いっきりばれていて怒られた。

「さっき見たら、バインダーに閉じてって言った資料のインデックスもめちゃくちゃだった。あいうえお順にしてって言ったよね。なにあれ……」

 最初に声をかけられたのは、別件での注意だった。

「あ、日にち順にしたほうが、会議の順番に見られるからいいかと思ったんですけど」

 私だったら、そのほうが見やすいと思ってそうした。

「また余計なこと……。言った通りにやって。自分で判断する前に了解とってくれない?」

 氷みたいな言葉がどんどん頭にふってくる。背中を丸くして縮こまっていると、今度はコピー機のほうを目ざとく見つけられた。

「ちょっと、それさっきもコピーしてなかった?」

 彼の語気が強くなる。

「あ、えっと……それが、コピーの順番逆さまにしちゃって」
「え、何枚?」
「……あっという間に百枚無駄になりました」

 ウソついても仕方ないから、本当のことを言った。

「なにやってんの!? まじで、どういうつもり? あれほどコピーする前には確認してって言ったよね!?」
「はい……」

 ここで課長の援護が入った、というわけ。いつもは無関心をよそおってる課長だけど、私に対する久保さんの厳しさに、今日はたまりかねたみたい。
 昨日あんなに優しかったのに、一晩明けて……また鬼に戻った。仕事のスタイルを変える気はないって言ったけど、本当に勤務中の私は彼の奴隷のようだ。昨日、この人と抱き合ってキスしたのは現実だったのかな?
 ふと不安になった。あれって……妄想じゃないよね? 仕事に疲れて自分に都合のいい妄想をしていたって可能性も否定できない。

「課長、桐原さんは一応僕のヘルプってことでつけてもらってるんで、好きにさせてください。それに、理不尽なことでは注意してませんよ」

 課長に対しても、まったくひるまない。

「あ、そう。まあ……とにかく、彼女は女の子なんだしさ……」
「仕事に男も女もないですよ。僕は別の会議に出ないといけないんで、失礼します」

 そう言って、久保さんは課長に一応軽く頭を下げてフロアを出て行った。私と課長は彼が出ていくのを、息をとめて見ていた。
 彼の姿が見えなくなったのを確認して、ふたりとも同時にため息を漏らす。

「君も大変だね。大丈夫? あの……辞められると、困るんだけど」

 課長が心配そうに私を見た。

「あ、大丈夫です。私が悪いんですし」

 なるべく笑顔を作って、課長に心配をかけないよう答えた。髪は薄いけど、まだ四十歳前後の若い課長。
 久保さんと違って、気遣いのできる優しい人だ。少し気の弱いところもあって、ストレスで軽い胃潰瘍いかいようになったこともある。
 それに比べたら、久保さんはやりで心臓を突いてもびくともしないんじゃないかと思うくらい強い。心臓に毛でも生えてる? でも、昨日告白してくれたときの彼は、なんだか参っているようだった。本当は色々と悩みを抱えているのかもしれない。
 明日は彼とデートをしようって約束している。
 クリスマスイブは仕事で遅いから、二十五日に会おうって言われた。でも、今の態度を見ていると、それすら妄想だった気がして不安になる。
 手帳をこっそり開く。ちゃんと花丸が書いてあって「久保さんとデート!」ってなっている。
 多分、夢じゃない。
 なんとか自信をとり戻して仕事を再開する。大量の失敗したコピー用紙は、私が全部責任を持って裏紙として活用することで許してもらった。

「お先に失礼します」

 仕事がひと段落して、定時の五時に帰宅する。〝仕事場の鬼〟モードの彼の隣にいるのは、やっぱり疲れるなあ。

「おつかれさーん」

 課長ほか、ふたりの社員が答えてくれる。久保さんは、うしろを向いてパソコンを見たまま軽く左手を上げた。彼なりの「おつかれさま」の合図らしい。
 明日、本当に待ち合わせ時間に来てくれるのかな。真剣に不安になった。……ふたりきりのときも、あんな感じだったらどうしよう。
「ご飯こぼさないで食べられないの?」とか冷やかに言われたりして。
 疲れるよ。やだよ。休日くらい、昨日の夜みたいに優しくしてほしい。


 私は明日のためにと、新しい洋服を一式買いに出かけた。
 いつもはファッション性よりも機能性を重視して洋服を購入していたから、かわいいスカートなんて持っていない。

「お客様は、ワンピースがお似合いになりそうですね。これにカーディガンを合わせたらどうでしょう」

 お店の人に言われるまま、キレイなオレンジ色でマーブル柄のワンピースと、オフホワイトのカーディガンを試着した。これだと、茶色のブーツが合いそうだ。そう思って、奮発してブーツも買ってしまった。
 デート一回のために、四万も使ってしまった。私にしたら、あり得ない贅沢だ。百四十円のポッキーを買うのが毎日の楽しみの私は、このお金でポッキーが何箱買えたか……と、バカなことを考えてしまう。
 でも一生無理だと思っていた久保さんとのデートがかなうんだから、四万円くらいどうってことない。


 その日の夜、しつこいぐらい顔をパックしたりして長風呂していたら、順番待ちをしていた弟に怒られた。今さら、なにをやってもさほど変化はないんだけど、後悔しないように準備したかったのだ。
 ベッドに入ると、今度は妄想が広がって大変だった。昨日感じた唇の感触を思い出して、体が熱くなる。
 明日も、キスをしてくれるのかな。本当に、私のことを好きでいてくれてるのかな。
 こんなに興奮した夜だったけれど、なんとか五時間ほど眠って、私は十時の待ち合わせよりも一時間も早く待ち合わせ場所に到着した。
 出がけに、お洒落しゃれをしている私を見て、母がなんだかにやにやしていたのを思い出す。

「どうしたの? 彼でもできたの?」
「違うよ。たまにはこういう格好もしたいと思っただけ!」

 照れを隠すように、慌てて家を出た。
 マフラーなしで外に出たら、木枯らしが予想以上に冷たかった。でも、このコーディネイトに合うマフラーなんて持ってないから仕方ない。
 早く着きすぎたから、駅前の喫茶店でお茶を飲むことにした。何回も時計を確認したけれど、五分くらいずつしか進まない。
 長い……。そう思って、待ち合わせの改札を眺めていたら、黒のジャケットを着た久保さんが改札を通るのが見えた。
 本当に来てくれた。しかも、三十分前に。
 久保さんが予定より早めに駅に着いたのを見て、それだけで私はドキドキした。
 私が喫茶店でお茶を飲んでるなんて知らないから、彼はそのまま改札の柱にもたれかかって文庫本を読み始めた。あそこで、三十分待つ気だ。私は慌てて外に出た。

「久保さん」

 私が声をかけると、彼はふいっと顔をあげた。

「あれ、早いね。どうしたの」

 私が改札の外から現れたから、ちょっと驚いている。

「いや、ちょっと早く着いてしまって……先にひとりでお茶していました」

 少し声が震えた。寒いのもあったけど、プライベートの久保さんを見て、心臓が破裂寸前だった。スーツ姿じゃない姿を見ただけで、興奮する。

「俺も早く着いちゃったよ。まだ美術館開いてないよね……公園でも散歩する?」

 今日は美術館を見ようって約束していたんだけど、まだ開館まで時間がある。

「はい!」

 私は彼と一緒ならどこでもいいと思っていたから、嬉々として隣に立った。


 しばらく無言で公園を歩いた。

(やっぱり、プライベートでも無口なんだな)

 そう思ったけど、会社でのトゲトゲしさはなかったから、安心して隣を歩いていた。

「寒そうだね」

 いきなりそう声をかけられ、ふわっと首にマフラーを巻かれる。彼の巻いていたグレーのマフラーだ。

「え……いいですよ」
「胸元開いてて寒そうだから。いいよ、それ使って」

 そう言った久保さんの目は、告白された夜に見たときと同じ優しいものだった。
 彼が私に好きだと言ってくれたのは、ウソじゃなかった。改めてそのことを思い返して、熱いものが込み上げる。

「どうしたの?」

 突然涙目になった私を見て、明らかに彼は驚いていた。

「嬉しくて……久保さんが、本当に私とデートしてくれるなんて、信じられなくて」

 初デート開始十五分で、私はなぜか泣き出していた。

「仕事場で素っ気ないから、不安になった?」
「はい。もしかして、私の妄想だったのかな……なんて思ってました」

 そう言った私の頭を、久保さんは優しくでてくれた。

「悪いけど、仕事場ではあの態度で徹底するから。ただ、オフのときは違う。派遣の桐原さん、じゃなくて俺の大切な彼女って思ってる」

 私が予想していた以上に、オフの久保さんは別人みたいに優しかった。

「彼女……」

 その言葉を自分で口にしてから、猛烈に恥ずかしくなった。あこがれて、あこがれてやまなかった彼が、本当に私を彼女だと言ってくれている。

「桐原さんの名前は、芽衣だよね。そっちで呼んだほうがいいかな、それとも苗字のままのほうがいい? 俺のことは真太郎って呼んでほしい」

 彼の下の名前が真太郎だということを初めて知った。私の中では、いつでも彼は「久保さん」だったから。
「真太郎」なんて、恥ずかしくて言えそうにない。

「私のことは芽衣でいいんですけど、久保さんをいきなり名前で呼ぶなんて無理ですよ!」

 慌てふためいて、持っていたカバンを落としてしまった。久保さんは丁寧にそれを拾って微笑む。

「芽衣は面白いね。顔が真っ赤だよ?」
「……」

 倒れそうだ。美術館なんか見てられない。即行で倒れそう。夕方まで彼の隣にいたら、息が苦しくて死にそうだ。
 私がマフラーをぎっちり握って下を向いたから、久保さんは私の顔を覗き込んできた。

「どうした? 気分悪いの?」
(ある意味……具合悪いです。久保さんのせいで、心臓がとまりそうなんですよ)

 心の中でそう思っていたけど、口には出せない。

「美術館、やめる?」
「え、どうするんですか?」
「んー、空気のいいところを少し歩こうか。どう?」

 私は久保さんさえいればいいんだから、どこでもいいです。そう思って、コクコクとうなずく。

「じゃ、行こうか」

 そう言って、彼はさり気なく私の手を握った。

「!」

 待って! 待って下さい!! 心臓がとまりそうな私に、その行動は……強烈すぎます! 職場でキスされたときは、パニックになっていたから受け入れられたけど、今日の私はまるっきり余裕がないんです!
 緊張で手が冷たくなっていて、久保さんは手を握って驚いたようだ。

「やっぱり寒いみたいだね。手がすごく冷たい」
「いや、大丈夫です」

 顔はゆでだこみたいに赤くなってるくせに、手足が冷たい。体中の血液が、全部顔に集まっちゃったみたい。

「……俺、そんなに怖い?」

 私が緊張して固まっているのを見て、彼は私が自分を怖がってると思ったらしい。

「ちが……違います。緊張しているんですよ。今までちゃんと会話らしいこともしたことない久保さんと一緒にいるのが信じられなくて」

 いつまで経ってもこんなことばっかり言う私に、彼も困り顔だ。

「〝鬼の久保〟を忘れてもらうまで、ちょっと時間かかるかな……」

 そんなことをつぶやいて、彼は握った手に力を込めた。


 ぶらぶら散歩している間に、お昼近くになっていた。
 なんだか頭がボーッとする。

「ランチ、なにがいい?」

 相変わらず手をつないだまま、そう聞かれた。

「すみません。なにも食べられそうにありません」

 ほんの数時間一緒に過ごしただけで、緊張のしすぎで胃が痛くなっていた。軽い頭痛と、なんだか寒気までしてきた。

「大丈夫? 寒いところ歩きすぎたかな」

 私の調子が悪そうなのを心配して、近くのコーヒーショップに入ってくれた。

「ホットミルクもあったから」

 私にはホットミルクを差し出してくれて、自分は相変わらずエスプレッソを頼んだようだ。

「ありがとうございます」

 情けない。初デートでいきなり泣いて、おまけに具合が悪くなって心配をかけている。
 もっと笑顔で、楽しくデートできると思っていたのに。
 毎日怒られている相手から、こんなに優しくされたのが嬉しすぎて体がついていかない。頭がぼーっとする。

「寒いせいかと思ったけど、本当に顔がずっと赤いよ。もしかして、熱あるんじゃない?」

 ふっと彼の手が私のおでこに当てられた。体がビクッと反応してしまう。

「ちょっと熱い。具合悪いのに無理して来たの?」
「いえ、朝は平気でした」

 昨日、長風呂してたのが悪かったのかな? どうやら、彼と一緒にいる緊張とは別に、本当に風邪をひいてしまったみたい。

「無理はしないほうがいいね。今日はこれで帰ったら?」

 あっけないほど簡単に、デートを切り上げて私に帰れと言う。

(そんな……そんなの嫌だ!)
「嫌……」

 小声でぽそっと言ったのが聞こえなかったのか、久保さんは聞き返してきた。

「え? なに?」
「帰るなんて嫌です! せっかく……せっかくのデートなんですから。熱なんて、気にしないでください」

 ムキになって帰るのを拒んだ。このまま別れて、月曜日にはまた素っ気ない彼にしか会えなくなるのは嫌だ。

「ダメだよ。体調悪いのに、無理したら来週の仕事にひびくよ。デートなんてまた来週すればいいんだから……」

 久保さんは私の腕をつかんで駅に戻った。彼らしい、冷静な対応だ。無茶してデートを続けないのは、本当に心配してくれてるからだってわかる。
 でも……寂しいよ。
 改札をくぐったところで、ついに涙をこらえきれなくなった。

(こんな大事な日に、なんで風邪ひくのよ、私! 別に裸見せるわけじゃないんだから、あんなに長風呂する必要なかったじゃない。バカ! バカ芽衣!!)

 自分で自分を責めながら、めそめそと泣く私。

「来週、もう一回ちゃんと会おう? 電話もするから、ね?」

 久保さんが耳元でささやいた。熱でボーッとしていたけど、頬にキスされたみたい。

「ひとりで帰れる?」
「はい、すみません。今日はこんなんで……」
「気にしないで。今日で終わりなわけじゃないんだから。まだ始まったばっかりでしょ。じゃあ、家についたら電話くれる? ちゃんと着いたかどうか気になるから」

 彼は私が乗り込んだ電車に向けて手を振った。
 電車に揺られながら、今日、久保さんに聞きたいと思っていたことをひとつも聞けなかったのを思い出して、激しく落ち込んだ。
 私のどこが好きなのかとか、いつぐらいから思っていてくれてたのかとか。聞きたいことはたくさんあったのに。初デートはうんと素敵なものにするんだって意気込んでいたのに。
 それに、今日は暗くなるまで一緒にいたいと思っていた。
 キスだって、たくさんしたいと思っていた。
 告白してくれたときに受けた、久保さんの〝バラのキス〟……今日は軽く頬にしかしてもらえなかった。あの喜びを得るには、また一週間〝鬼の久保〟に耐えないといけない。
 ほんの数時間の散歩で、前よりもっと彼を好きになっている自分を自覚した。
 優しかった。彼は仕事を離れると、とても優しい人だった。
 寒そうだねってマフラーをかけてくれた。具合の悪い私を心配して、全然デートらしいこともできなかったのに、私の体調を優先して考えてくれた。
 職場で、今までみたいに他人のふりをされて、平然としていられる自信がない。公私混同を彼は嫌うだろうけれど、この気持ちを抑えるのは……大変だ。


 家に帰って熱を測ったら、三十八度近くあった。
 久保さんの判断は正解だった。あのまま無理にデートしても、途中で倒れていたかもしれない。無事に帰宅したことを電話で報告する。

「大丈夫だった?」
「はい。すみませんでした。あのとき強引に帰してもらわなかったら、大変なことになるところでした」
「明日も休みだから、十分寝て。月曜日はちゃんと来いよ?」
「……はい」

 がっくりとうなだれながら、私は携帯を切った。
 薬を飲んで、軽く食事をとり、たっぷりの紅茶を飲んでからベッドにもぐる。今日一日の自分のダメっぷりに、涙がとまらない。
 がっかりされなかったかな。来週、本当にまたデートしてくれるのかな。
 つくづく恋愛に慣れていない自分を痛感する。初デートで気合を入れすぎた私の気持ちが、今日のデートでは空まわりした。

「真太郎……」

 彼の名前を口にしてみる。熱がまた上がった気がした。
 好き……好きすぎて、おかしくなりそう。もっとあなたに触れていたかった。手をつないでいたかった。
 彼に握られていた左手にキスをした。
 どうか、これっきりじゃありませんように。また、彼と手をつなげますように。
 そんな後悔と反省と希望を抱きながら、土日をかけて風邪を治した。

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