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1巻
1-3
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呆れたようにそう口にすると、彼は腕を解いて少し表情を和らげた。
「先方は気が立っていただけだし、君が皿を割ったのは不愉快だったけれど、仕事上は大したことじゃない」
「そう、なんですか?」
「やり直しが効かないほどのミスなんてそうないよ」
(最初からそう言ってくれれば……っ)
もう取り返しがつかないに違いないと思っていた私は、脱力してその場に崩れそうになった。
「私、まだこちらでお仕事させていただいていいんですか?」
「一つお願いしたいことがあるとしたら、もう少し堂々としてほしいかな」
「わ、わかりました。気をつけます」
「うん」
(よかった……っ)
橘さんは安堵する私から目を離すと、ソファにかけていたスーツのジャケットを手に取った。
「午後はランチを取ったら買い物するから準備しておいて」
「買い物……橘さんの買い物ですか?」
「君のスーツだよ」
「スーツ……?」
「これから君は俺の秘書として外に出ることも多くなる。変な姿で品位を落とされても困るから」
「ひ、品位」
(今のスーツじゃあ品位が保てないと⁉)
多少ショックではあったけれど、確かにブランドスーツを身につけているわけじゃないからなにも言い返せない。
結局この日の午後、私たちは橘さんの希望する秘書としてのスタイルになるために高級ブランドショップへと向かった。
「いらっしゃいませ」
気後れするような煌びやか店内に、ひるんでしまいそうなほど美しい店員。
こんなに高級そうな店で買い物したことがないから、なにをどうしたらいいかわからない。
すると橘さんが私の頭から足先までをまじまじと見て、店員になにか伝えた。
「かしこまりました。ぴったりのものをご用意いたします」
なにをかしこまったのかわからないけれど、持ってこられたスーツはかなり細身のもので、スカートとパンツ両方が揃っている。
(どんなブラウスにも合いそうだし、着回ししやすそうだな)
そんな色気のない感想を抱いた私だけれど、試着してみてそのピッタリ具合に驚いた。
「こんなにピッタリなのに苦しくない!」
「うん、そのスーツでいいと思う。スタイルっていうのは服で決まるものなんだなと改めて思うよ」
(どういう意味?)
橘さんの言葉にはカチンとしたものの、スーツは文句なしに素晴らしい。
さらに宝石店へ足を運ぶと、控えめでありながら高級感のあるイヤリングを勧められた。
アクセサリー一式も相当に値の張るものだった。
(綺麗、だけど……高いなあ)
「試しにつけてみたら」
「あ、はい」
「ごゆっくりお試し下さい」
店員さんはフィッティングルームに私たちを残して一旦退出した。
並べられたイヤリングを一つずつ試してみると、どれも素敵で迷ってしまう。
「うーん……」
「なにを迷ってるの」
「一日つけて痛くならないのが一番いいんですよね」
「……なるほどね」
言いながら不意に耳の縁を指で触れられ、びっくりして飛び上がる。
「な、なんですか」
「耳の厚みを見ようと思っただけだけど?」
「なにも、触らなくても……」
「へえ、耳が弱点なんだ」
「っ⁉」
突然彼の瞳が意地悪く光ったのを見て、錯覚かと瞬きをしてしまう。
穏やかでフラットな印象だった橘さんが見せた、意外な顔だった。
(なんだろ、この……体の自由が効かなくなる感じ)
軽い金縛りにあったように動きを止めていたけれど、彼が視線を外すと同時に一気に緊張が緩んだ。
「このイヤリングが適当みたいだな」
それは雫のような小さなダイヤがぶら下がった綺麗なイヤリングだった。
心は惹かれるけれど、どうにも値段が気になる。
(指輪と違わないような値段だった気が……)
「秘書がこんな高いものを身につける必要、ありますか?」
「事務所に必要なものだから購入する。これは個人的なプレゼントではないし、代金は一切気にしなくていいよ」
「そう、ですか」
(橘さんにとって必要なことなのだったら仕方ない。この仕事を辞める時、お返ししよう)
「で、あとは──」
下ろしていた髪の毛先をぐっと掴まれて、耳の時よりもさらに驚く。
「っ、今度はなんですか」
「髪なんだけど、明日からは後ろで一つにまとめてきて」
「ええと……今もバラつかないようにサイドは留めてますけど。これじゃだめでしょうか」
「口答えしないで、言われた通りにして」
(なにその言い方!)
憤慨している私に構わず、彼は有無を言わさぬ調子で続ける。
「一般的な秘書の装いにしてもらいたいんだ。俺の言った通りにしてくれない?」
(しまった……機嫌を損ねた)
「わ、わかりました。明日からその理想図に近づけて出勤いたします」
「そうして」
肩をすくめると、私はそれ以上余計なことを言わないよう口をつぐんだ。
(俺様気質なのかな……柴崎さんが言っていた気まぐれってこういうこと?)
口答えしてもあまり意味がないと思い、私は明日からは素直に一つに束ねてこようと思った。
そんなことがあった翌日、別室で仕事をしている金城さんが困った顔で所長室を訪れた。
(珍しいな、金城さんがこんなに困った様子なのは)
「どうした」
橘さんが話を聞く体勢になると、金城さんは神妙な顔で事情を話した。
「離婚訴訟で母親を助けてほしいという中学生が来てまして」
「ほう」
「お金はないけれど、高校生になったらアルバイトして払うからって言うんです」
(健気だな……なにか力になってあげたいよね)
私がすっかり同情的になっている中、橘さんは即答した。
「それはここでは受けられない案件だな」
(えっ……検討もせずにそんな決断するんだ?)
やや引いた気持ちでいると、橘さんは髪をくしゃっと撫でて改めて金城さんを見る。
「まだいるの?」
「ええ」
「じゃあ今から彼をアネモネに連れていって」
(えっ、アネモネ?)
予想外の言葉に驚いていると、金城さんはホッとした顔で頷いた。
「ではそちらで話を聞くということでいいですか」
「ああ」
「わかりました。ではそうさせてもらいます」
お辞儀をして去った金城さんに書類の話があるため、私も一緒に部屋を出た。
「中学生なのに両親のことで心を痛めてるなんて」
「ええ。だからアネモネ案件として認められてよかったです」
「アネモネ案件?」
私がそう尋ねたら、金城さんは驚いて私を見る。
「ご存知なかったんですか」
「はい」
気まずそうにしながらも言い出したことは仕方ないと思ったのか、そっと声をひそめて話してくれた。
「実は、事務所で処理できない案件はアネモネで受けることにしてるんですよ」
「そうなんですか?」
もちろんすべての案件を受けるというわけではないけれど、橘さんが助けたいと思ったクライアントには格安で引き受けるということを時々しているのだという。
(アネモネが存在する理由ってそういうことなんだ)
内心、ものすごく闇深い話をするためにあのレストランがあるのかと思ったけど、そうじゃないみたいだ。
それどころか、どうしても弁護士費用が払いきれない人のための救済措置として設置されているのだと知って驚くやら感動するやら。
「素敵ですね」
素直にそう言うと、金城さんが困惑した顔で私に向かって手を合わせた。
「すみません。この話を私がしたって橘さんに言わないでもらえますか」
「秘密なんですか?」
「ええ。アネモネ案件は私と柴崎さんしか知らないことなんです。それに橘さん、このことを美談にされるのをものすごく嫌がっているので」
(えーなにそれ)
逆に自慢してもいいような活動なのに、そこは隠したいのだという心理がよくわからない。
「すごくいい話なのに……でもわかりました。橘さんには私がアネモネ案件を知ったことは内緒にします」
「そうしてください。すみません、三国さんには知らされているものだと思ってしまって」
私に書類を手渡すと、金城さんはもう一度お願いするように頭を下げた。
ここまで言われてしまったら、橘さんに“聞きましたよ~”なんて気軽には言えない。
(いい話なのにな……なんで秘密なんだろ)
なんとも不思議な気分で、私は所長室に戻った。
「戻りました」
「うん」
何事もなかったように淡々とした表情で橘さんは書類作成に勤しんでいる。
ちょっと冷たい人かなと思っていたけれど、実は情け深いところもあるのだと知ると、自分の中で彼への印象が変わった。
(事務所的にはクールでスピーディーを謳ってるから、温情のある部分は隠しておきたいってことかな。でも……優しいところもある人なんだ)
なんとなく橘さんの様子を見ていると、彼は気になったようで顔を上げた。
「なに? 視線がうるさいんだけど」
「っ、うるさかったですか」
「気が散るからちょっと外しててくれる?」
「……わかりました」
なんとも理不尽に部屋を追い出された私は、彼の二面性に戸惑った。
(優しい人なのか、冷たい人なのか、はたまた二重人格なのか……わからない人だ)
はぁとため息をついた私は、とりあえず橘さんの事務が終わりそうな時間まで中庭でぼうっとしたのだった。
第三章
橘さんの秘書になって一週間が経過した。
覚えるべきことはまだたくさんあるけれど、おおまかなルーチンはこなせるようになった。
ルーチンの中でも特にこだわりがあったのはコーヒーの味だ。
橘さんの好きなコーヒーはブレンドよりは豆単体で挽いたもの。で、深煎りのコロンビアかグアテマラが大好き。アイスコーヒーはオーソドックスなフレンチロースト。ミルクは絶対に入れない。ただ、体調によっては砂糖が少し欲しい時もあるので、ステイックシュガーは一応添える。
こんな感じでコーヒーの趣味はだいぶ理解した。
何百本も持っているネクタイの中でお気に入りがどれかも、その整え方もわかった。
予定は少し早めに行動して現地で心を整える時間が必要なことにも対応している。
(うん、やっと少し秘書らしくなってきたかな)
とはいえ激務の橘さんについていくには、普段の三倍は神経を払っていないと到底追いつかない。帰宅しても深夜まで秘書としての勉強をしているから、睡眠時間は平均三時間といったところだ。
それでもこなせない感じではなく、純也が返せないと悩んでいる金額までは頑張るつもりだ。今日は午後から裁判所へ行く予定になっており、私は準備を整えた上で橘さんに声をかけた。
「そろそろ時間です。お願いします」
「わかった」
ジャケットを羽織って身だしなみを整える彼の姿に、つい見惚れてしまう。
ただし、これはあくまでも目の保養。
どうやらやんごとなき家柄の人であるとのことだし、私なんかが相手されるわけもなく。
そういう意味では安心して仕事ができている。
(だいたいこの人、恋愛とかに興味なさそうな感じなんだよね)
常に淡々とした感じで、外で女性に二度見されていても知らん顔だ。
プライベートではお付き合いとかあるのかもしれないけれど、一緒にいて異性の気配を感じたことはない。
(ストーカーされたりして、異性が面倒とか思ってるのかもしれないな)
もちろん私に対してもドライさは一緒で、耳に触れられた一件以来なにも驚くようなこともない。
裁判所に到着したが、私は傍聴席には入らず控え室で待つことになっていた。
今回の裁判は難しいといわれているらしく、橘さんもさすがに少し険しい表情をしている。
(弁護士の顔……こういう表情もするんだな)
きゅっと口を結んで引き締まった横顔は、いつにも増して格好よく見える。
スーツ姿も凛々しくてこんな立派な人に困っているところを助けられたら、誰でもこの人をヒーローのように見てしまうんだろう。
(依存心が出て、追いかけたくなる女性の気持ちもわからないでもないな)
そんなことを思っていると、控え室の前で不意に誰かに呼び止められた。
振り返ると、眼鏡をかけた神経質そうな男性が橘さんを見て微笑んでいる。
(どなただろう)
「お久しぶりです、橘さん」
「どうも」
橘さんはあからさまに迷惑そうな顔をして、軽く会釈だけした。
ドアノブに手をかけ、中に入ろうとするもその人はさらに声をかけてくる。
「今日は珍しい判例になりそうなので見学に来ました。お手前、拝見しますよ」
「相変わらず暇なんですね、東原さん」
「まあ、橘さんよりは暇ですかね」
くすくすと笑ったと思ったら、東原と呼ばれたその人は目を光らせ声のトーンを下げた。
「ところで、その後お姉様はお元気でいらっしゃいますか」
「……今日の案件とはまるっきり関係のない話ですね」
「あれからどうされたかなと私も気になっているんですよ。さぞ幸せにおなりなんでしょうね?」
顔色を変えずに話を聞く橘さんから、背筋が凍るほどの怒気を感じて震え上がってしまう。
(怖……お姉さんがいらっしゃるんだ。過去になにかあったのかな)
(相手も悪いけど、橘さんも態度や言葉に棘がありすぎる)
ハラハラと様子を窺っていたけれど、橘さんは「集中したいので失礼」とだけ言ってさっさと控え室に入った。
「あの……」
追いかけながら声をかけようとすると、彼は言いたいことはわかっていると言わんばかりに強めに言葉を発した。
「あいつは俺とはなんの関係もない人間だ。今後もまともに取り合うつもりはないから覚えておいて」
「は、はい」
(事情はどうあれ、裁判前に心を乱すことを言ってくるなんて、なんか……嫌な感じの人だな)
そうは思ったけれど、これ以上そのことを考えていてもしょうがない。
私は気持ちを切り替えて、持参したコーヒーを紙コップに入れるとキャラメルも一つ添えて差し出した。
「少しだけ甘いものを入れると、短時間ですけど集中力が上がると思いまして」
「…………」
無言ではあったけれど、橘さんは素直にキャラメルを口に入れてコーヒーをすすった。
その表情にはさっきまでの怒りは感じられず、とりあえずホッとした。
その後、控え室にいた私はソワソワして落ち着かず、メモ帳にニャンペンの落書きをして気を紛らわせていた。好きなキャラクターを描くのは昔からの趣味で、緊張する場面では常にメモ帳を持ち歩いている。
「ふう……そろそろ終わる頃かな」
メモ帳を閉じて時計を見ると、終了予定時刻の十分前だった。
(いい結果でありますように)
そう祈りながら荷物をまとめて廊下に出ると、興奮気味の人たちが大勢ざわめいていた。
(裁判終わったみたい)
「さすがです、橘先生!」
そう言って橘さんに縋りついていたのは、今日裁判を依頼したクライアントさんだった。
「橘先生のおかげで、どうにか息子の名誉が保たれました。ありがとうございます!」
(勝訴したんだ)
その結果を知って私はホッと胸を撫で下ろす。
橘さんはこういう場面に慣れているのか、極めて冷静な態度だ。
「私は仕事を全うしたまでです」
「本当に先生に頼んでよかったです! 一生感謝いたします」
クライアントさんは涙ながらに橘さんに何度も頭を下げ、感謝をしている。
(素晴らしいお仕事をされたんだな)
なんだか私まで誇らしい気持ちになってくる。
裁判中の様子を私は見ていないけれど、戻ってきた彼がとても凛々しく輝いていたので、不覚にも少しときめいてしまった。
「お疲れ様です」
「うん」
私の淹れたお茶を一杯飲むと、橘さんは珍しくため息をついた。
「さすがに少し疲れたな」
「難しい裁判だったみたいですけど、流石ですね」
生意気にも褒め言葉を口にすると、彼は怪訝な顔をする。
「ストーリーは完成してたからね。今日勝つのは難しいことじゃなかったよ」
「ストーリー……ですか?」
首を傾げる私を見て、彼は面倒な顔をしつつも説明してくれた。
「俺は依頼人にとって他人だ。そんな相手の本心やことの真相は、俺にだってわからない」
「それは、そうですね」
「ただ、依頼人の訴えを正とするためのストーリーに説得力を与えることはできる。それがスムーズであるほど勝算は高くなるんだよ。そういう意味では今日の裁判は九十九%勝利の確信があった」
「……すごいですね」
(クライアントのことを信じてるから……とかもっと熱い心情なのかと思ったけど、案外ドライなんだな)
そうでないと難しい案件もあるだろうし、そこは納得だ。
「無駄口はこれくらいにして……」
襟を正して立ち上がると、彼は控え室のドアを開けた。
「事務所に戻るよ」
「はい。車はもう回してもらってます」
「うん」
裁判所前に横付けされた車のドアまであと数歩……といったところで、不意に女性が駆け寄ってきた。
「公輝さん、見つけた!」
彼に掴みかかりそうなところを私が割って入り、彼女に向かい合う。
「ど、どなたですか」
「あんたは関係ないわよ」
「あんたって……」
ムッとして顔を見ると──
(あれ、この人って)
その女性の顔を見直すと、橘さんに初めて会った日に彼に大声で呼びかけていた人だった。
(橘さんをストーカーしてる人……!)
あわあわとしていると、橘さんは落ち着いた様子で彼女を見下ろした。
「こんにちは。今日はどのような要件で?」
「要件……というか、お話を聞いてもらいたくて」
「あなたは今、私の顧客ではないですよね」
「冷たい言い方。去年まではあんなに熱心でいてくれたのに」
「……仕事に熱心になるのは当然です」
こめかみを軽く揉むと、彼は深く息を吐いて彼女を見下ろした。
「もう行っていいですか。次の仕事があるので」
「っ、なによ……お金を払わないと話も聞いてくれないっていうの」
(相手にしないほうがいいんだろうけど、橘さんの態度だと彼女を怒らせるばかりだよ)
私は真実を告げようと決意し、女性の前に立った。
「橘さんは今裁判を終えて疲れています。今日はお引き取り願えますか?」
「さっきから目障りね、あんた誰よ」
(ええと、ただの秘書なんだけど……私はストーカー対策としての役割もあるわけで……)
「橘さんの身の回りなどのお世話をさせていただいている者です」
「は?」
場に流れる緊張感を汲み取り、私は咄嗟に妙な言い回しをしてしまった。
私が言った言葉に、橘さんも驚いている。
(嘘は言ってないし、ここはいっそ勘違いしてもらったほうがいい)
予想通り女性は私を恋人と勘違いしたようで、目に怒りの火を灯らせた。
「いつから付き合ってるのよ?」
飛んでくる怒りのオーラに気持ちが怯みそうになるけれど、そこをグッと堪えて微笑みを崩さないように努める。
「橘のプライベートは公言しないことになっておりますので。お引き取りをお願いします」
「なんですって?」
(わあ、怒りが倍増してる!)
「失礼、もう時間がないので」
見かねた橘さんが、強引に私の手をとった。
「わ……」
よろける私の手をきつく握りしめ、女性を残したまま一緒に車に乗りこむ。
「事務所まで戻る」
「かしこまりました」
「先方は気が立っていただけだし、君が皿を割ったのは不愉快だったけれど、仕事上は大したことじゃない」
「そう、なんですか?」
「やり直しが効かないほどのミスなんてそうないよ」
(最初からそう言ってくれれば……っ)
もう取り返しがつかないに違いないと思っていた私は、脱力してその場に崩れそうになった。
「私、まだこちらでお仕事させていただいていいんですか?」
「一つお願いしたいことがあるとしたら、もう少し堂々としてほしいかな」
「わ、わかりました。気をつけます」
「うん」
(よかった……っ)
橘さんは安堵する私から目を離すと、ソファにかけていたスーツのジャケットを手に取った。
「午後はランチを取ったら買い物するから準備しておいて」
「買い物……橘さんの買い物ですか?」
「君のスーツだよ」
「スーツ……?」
「これから君は俺の秘書として外に出ることも多くなる。変な姿で品位を落とされても困るから」
「ひ、品位」
(今のスーツじゃあ品位が保てないと⁉)
多少ショックではあったけれど、確かにブランドスーツを身につけているわけじゃないからなにも言い返せない。
結局この日の午後、私たちは橘さんの希望する秘書としてのスタイルになるために高級ブランドショップへと向かった。
「いらっしゃいませ」
気後れするような煌びやか店内に、ひるんでしまいそうなほど美しい店員。
こんなに高級そうな店で買い物したことがないから、なにをどうしたらいいかわからない。
すると橘さんが私の頭から足先までをまじまじと見て、店員になにか伝えた。
「かしこまりました。ぴったりのものをご用意いたします」
なにをかしこまったのかわからないけれど、持ってこられたスーツはかなり細身のもので、スカートとパンツ両方が揃っている。
(どんなブラウスにも合いそうだし、着回ししやすそうだな)
そんな色気のない感想を抱いた私だけれど、試着してみてそのピッタリ具合に驚いた。
「こんなにピッタリなのに苦しくない!」
「うん、そのスーツでいいと思う。スタイルっていうのは服で決まるものなんだなと改めて思うよ」
(どういう意味?)
橘さんの言葉にはカチンとしたものの、スーツは文句なしに素晴らしい。
さらに宝石店へ足を運ぶと、控えめでありながら高級感のあるイヤリングを勧められた。
アクセサリー一式も相当に値の張るものだった。
(綺麗、だけど……高いなあ)
「試しにつけてみたら」
「あ、はい」
「ごゆっくりお試し下さい」
店員さんはフィッティングルームに私たちを残して一旦退出した。
並べられたイヤリングを一つずつ試してみると、どれも素敵で迷ってしまう。
「うーん……」
「なにを迷ってるの」
「一日つけて痛くならないのが一番いいんですよね」
「……なるほどね」
言いながら不意に耳の縁を指で触れられ、びっくりして飛び上がる。
「な、なんですか」
「耳の厚みを見ようと思っただけだけど?」
「なにも、触らなくても……」
「へえ、耳が弱点なんだ」
「っ⁉」
突然彼の瞳が意地悪く光ったのを見て、錯覚かと瞬きをしてしまう。
穏やかでフラットな印象だった橘さんが見せた、意外な顔だった。
(なんだろ、この……体の自由が効かなくなる感じ)
軽い金縛りにあったように動きを止めていたけれど、彼が視線を外すと同時に一気に緊張が緩んだ。
「このイヤリングが適当みたいだな」
それは雫のような小さなダイヤがぶら下がった綺麗なイヤリングだった。
心は惹かれるけれど、どうにも値段が気になる。
(指輪と違わないような値段だった気が……)
「秘書がこんな高いものを身につける必要、ありますか?」
「事務所に必要なものだから購入する。これは個人的なプレゼントではないし、代金は一切気にしなくていいよ」
「そう、ですか」
(橘さんにとって必要なことなのだったら仕方ない。この仕事を辞める時、お返ししよう)
「で、あとは──」
下ろしていた髪の毛先をぐっと掴まれて、耳の時よりもさらに驚く。
「っ、今度はなんですか」
「髪なんだけど、明日からは後ろで一つにまとめてきて」
「ええと……今もバラつかないようにサイドは留めてますけど。これじゃだめでしょうか」
「口答えしないで、言われた通りにして」
(なにその言い方!)
憤慨している私に構わず、彼は有無を言わさぬ調子で続ける。
「一般的な秘書の装いにしてもらいたいんだ。俺の言った通りにしてくれない?」
(しまった……機嫌を損ねた)
「わ、わかりました。明日からその理想図に近づけて出勤いたします」
「そうして」
肩をすくめると、私はそれ以上余計なことを言わないよう口をつぐんだ。
(俺様気質なのかな……柴崎さんが言っていた気まぐれってこういうこと?)
口答えしてもあまり意味がないと思い、私は明日からは素直に一つに束ねてこようと思った。
そんなことがあった翌日、別室で仕事をしている金城さんが困った顔で所長室を訪れた。
(珍しいな、金城さんがこんなに困った様子なのは)
「どうした」
橘さんが話を聞く体勢になると、金城さんは神妙な顔で事情を話した。
「離婚訴訟で母親を助けてほしいという中学生が来てまして」
「ほう」
「お金はないけれど、高校生になったらアルバイトして払うからって言うんです」
(健気だな……なにか力になってあげたいよね)
私がすっかり同情的になっている中、橘さんは即答した。
「それはここでは受けられない案件だな」
(えっ……検討もせずにそんな決断するんだ?)
やや引いた気持ちでいると、橘さんは髪をくしゃっと撫でて改めて金城さんを見る。
「まだいるの?」
「ええ」
「じゃあ今から彼をアネモネに連れていって」
(えっ、アネモネ?)
予想外の言葉に驚いていると、金城さんはホッとした顔で頷いた。
「ではそちらで話を聞くということでいいですか」
「ああ」
「わかりました。ではそうさせてもらいます」
お辞儀をして去った金城さんに書類の話があるため、私も一緒に部屋を出た。
「中学生なのに両親のことで心を痛めてるなんて」
「ええ。だからアネモネ案件として認められてよかったです」
「アネモネ案件?」
私がそう尋ねたら、金城さんは驚いて私を見る。
「ご存知なかったんですか」
「はい」
気まずそうにしながらも言い出したことは仕方ないと思ったのか、そっと声をひそめて話してくれた。
「実は、事務所で処理できない案件はアネモネで受けることにしてるんですよ」
「そうなんですか?」
もちろんすべての案件を受けるというわけではないけれど、橘さんが助けたいと思ったクライアントには格安で引き受けるということを時々しているのだという。
(アネモネが存在する理由ってそういうことなんだ)
内心、ものすごく闇深い話をするためにあのレストランがあるのかと思ったけど、そうじゃないみたいだ。
それどころか、どうしても弁護士費用が払いきれない人のための救済措置として設置されているのだと知って驚くやら感動するやら。
「素敵ですね」
素直にそう言うと、金城さんが困惑した顔で私に向かって手を合わせた。
「すみません。この話を私がしたって橘さんに言わないでもらえますか」
「秘密なんですか?」
「ええ。アネモネ案件は私と柴崎さんしか知らないことなんです。それに橘さん、このことを美談にされるのをものすごく嫌がっているので」
(えーなにそれ)
逆に自慢してもいいような活動なのに、そこは隠したいのだという心理がよくわからない。
「すごくいい話なのに……でもわかりました。橘さんには私がアネモネ案件を知ったことは内緒にします」
「そうしてください。すみません、三国さんには知らされているものだと思ってしまって」
私に書類を手渡すと、金城さんはもう一度お願いするように頭を下げた。
ここまで言われてしまったら、橘さんに“聞きましたよ~”なんて気軽には言えない。
(いい話なのにな……なんで秘密なんだろ)
なんとも不思議な気分で、私は所長室に戻った。
「戻りました」
「うん」
何事もなかったように淡々とした表情で橘さんは書類作成に勤しんでいる。
ちょっと冷たい人かなと思っていたけれど、実は情け深いところもあるのだと知ると、自分の中で彼への印象が変わった。
(事務所的にはクールでスピーディーを謳ってるから、温情のある部分は隠しておきたいってことかな。でも……優しいところもある人なんだ)
なんとなく橘さんの様子を見ていると、彼は気になったようで顔を上げた。
「なに? 視線がうるさいんだけど」
「っ、うるさかったですか」
「気が散るからちょっと外しててくれる?」
「……わかりました」
なんとも理不尽に部屋を追い出された私は、彼の二面性に戸惑った。
(優しい人なのか、冷たい人なのか、はたまた二重人格なのか……わからない人だ)
はぁとため息をついた私は、とりあえず橘さんの事務が終わりそうな時間まで中庭でぼうっとしたのだった。
第三章
橘さんの秘書になって一週間が経過した。
覚えるべきことはまだたくさんあるけれど、おおまかなルーチンはこなせるようになった。
ルーチンの中でも特にこだわりがあったのはコーヒーの味だ。
橘さんの好きなコーヒーはブレンドよりは豆単体で挽いたもの。で、深煎りのコロンビアかグアテマラが大好き。アイスコーヒーはオーソドックスなフレンチロースト。ミルクは絶対に入れない。ただ、体調によっては砂糖が少し欲しい時もあるので、ステイックシュガーは一応添える。
こんな感じでコーヒーの趣味はだいぶ理解した。
何百本も持っているネクタイの中でお気に入りがどれかも、その整え方もわかった。
予定は少し早めに行動して現地で心を整える時間が必要なことにも対応している。
(うん、やっと少し秘書らしくなってきたかな)
とはいえ激務の橘さんについていくには、普段の三倍は神経を払っていないと到底追いつかない。帰宅しても深夜まで秘書としての勉強をしているから、睡眠時間は平均三時間といったところだ。
それでもこなせない感じではなく、純也が返せないと悩んでいる金額までは頑張るつもりだ。今日は午後から裁判所へ行く予定になっており、私は準備を整えた上で橘さんに声をかけた。
「そろそろ時間です。お願いします」
「わかった」
ジャケットを羽織って身だしなみを整える彼の姿に、つい見惚れてしまう。
ただし、これはあくまでも目の保養。
どうやらやんごとなき家柄の人であるとのことだし、私なんかが相手されるわけもなく。
そういう意味では安心して仕事ができている。
(だいたいこの人、恋愛とかに興味なさそうな感じなんだよね)
常に淡々とした感じで、外で女性に二度見されていても知らん顔だ。
プライベートではお付き合いとかあるのかもしれないけれど、一緒にいて異性の気配を感じたことはない。
(ストーカーされたりして、異性が面倒とか思ってるのかもしれないな)
もちろん私に対してもドライさは一緒で、耳に触れられた一件以来なにも驚くようなこともない。
裁判所に到着したが、私は傍聴席には入らず控え室で待つことになっていた。
今回の裁判は難しいといわれているらしく、橘さんもさすがに少し険しい表情をしている。
(弁護士の顔……こういう表情もするんだな)
きゅっと口を結んで引き締まった横顔は、いつにも増して格好よく見える。
スーツ姿も凛々しくてこんな立派な人に困っているところを助けられたら、誰でもこの人をヒーローのように見てしまうんだろう。
(依存心が出て、追いかけたくなる女性の気持ちもわからないでもないな)
そんなことを思っていると、控え室の前で不意に誰かに呼び止められた。
振り返ると、眼鏡をかけた神経質そうな男性が橘さんを見て微笑んでいる。
(どなただろう)
「お久しぶりです、橘さん」
「どうも」
橘さんはあからさまに迷惑そうな顔をして、軽く会釈だけした。
ドアノブに手をかけ、中に入ろうとするもその人はさらに声をかけてくる。
「今日は珍しい判例になりそうなので見学に来ました。お手前、拝見しますよ」
「相変わらず暇なんですね、東原さん」
「まあ、橘さんよりは暇ですかね」
くすくすと笑ったと思ったら、東原と呼ばれたその人は目を光らせ声のトーンを下げた。
「ところで、その後お姉様はお元気でいらっしゃいますか」
「……今日の案件とはまるっきり関係のない話ですね」
「あれからどうされたかなと私も気になっているんですよ。さぞ幸せにおなりなんでしょうね?」
顔色を変えずに話を聞く橘さんから、背筋が凍るほどの怒気を感じて震え上がってしまう。
(怖……お姉さんがいらっしゃるんだ。過去になにかあったのかな)
(相手も悪いけど、橘さんも態度や言葉に棘がありすぎる)
ハラハラと様子を窺っていたけれど、橘さんは「集中したいので失礼」とだけ言ってさっさと控え室に入った。
「あの……」
追いかけながら声をかけようとすると、彼は言いたいことはわかっていると言わんばかりに強めに言葉を発した。
「あいつは俺とはなんの関係もない人間だ。今後もまともに取り合うつもりはないから覚えておいて」
「は、はい」
(事情はどうあれ、裁判前に心を乱すことを言ってくるなんて、なんか……嫌な感じの人だな)
そうは思ったけれど、これ以上そのことを考えていてもしょうがない。
私は気持ちを切り替えて、持参したコーヒーを紙コップに入れるとキャラメルも一つ添えて差し出した。
「少しだけ甘いものを入れると、短時間ですけど集中力が上がると思いまして」
「…………」
無言ではあったけれど、橘さんは素直にキャラメルを口に入れてコーヒーをすすった。
その表情にはさっきまでの怒りは感じられず、とりあえずホッとした。
その後、控え室にいた私はソワソワして落ち着かず、メモ帳にニャンペンの落書きをして気を紛らわせていた。好きなキャラクターを描くのは昔からの趣味で、緊張する場面では常にメモ帳を持ち歩いている。
「ふう……そろそろ終わる頃かな」
メモ帳を閉じて時計を見ると、終了予定時刻の十分前だった。
(いい結果でありますように)
そう祈りながら荷物をまとめて廊下に出ると、興奮気味の人たちが大勢ざわめいていた。
(裁判終わったみたい)
「さすがです、橘先生!」
そう言って橘さんに縋りついていたのは、今日裁判を依頼したクライアントさんだった。
「橘先生のおかげで、どうにか息子の名誉が保たれました。ありがとうございます!」
(勝訴したんだ)
その結果を知って私はホッと胸を撫で下ろす。
橘さんはこういう場面に慣れているのか、極めて冷静な態度だ。
「私は仕事を全うしたまでです」
「本当に先生に頼んでよかったです! 一生感謝いたします」
クライアントさんは涙ながらに橘さんに何度も頭を下げ、感謝をしている。
(素晴らしいお仕事をされたんだな)
なんだか私まで誇らしい気持ちになってくる。
裁判中の様子を私は見ていないけれど、戻ってきた彼がとても凛々しく輝いていたので、不覚にも少しときめいてしまった。
「お疲れ様です」
「うん」
私の淹れたお茶を一杯飲むと、橘さんは珍しくため息をついた。
「さすがに少し疲れたな」
「難しい裁判だったみたいですけど、流石ですね」
生意気にも褒め言葉を口にすると、彼は怪訝な顔をする。
「ストーリーは完成してたからね。今日勝つのは難しいことじゃなかったよ」
「ストーリー……ですか?」
首を傾げる私を見て、彼は面倒な顔をしつつも説明してくれた。
「俺は依頼人にとって他人だ。そんな相手の本心やことの真相は、俺にだってわからない」
「それは、そうですね」
「ただ、依頼人の訴えを正とするためのストーリーに説得力を与えることはできる。それがスムーズであるほど勝算は高くなるんだよ。そういう意味では今日の裁判は九十九%勝利の確信があった」
「……すごいですね」
(クライアントのことを信じてるから……とかもっと熱い心情なのかと思ったけど、案外ドライなんだな)
そうでないと難しい案件もあるだろうし、そこは納得だ。
「無駄口はこれくらいにして……」
襟を正して立ち上がると、彼は控え室のドアを開けた。
「事務所に戻るよ」
「はい。車はもう回してもらってます」
「うん」
裁判所前に横付けされた車のドアまであと数歩……といったところで、不意に女性が駆け寄ってきた。
「公輝さん、見つけた!」
彼に掴みかかりそうなところを私が割って入り、彼女に向かい合う。
「ど、どなたですか」
「あんたは関係ないわよ」
「あんたって……」
ムッとして顔を見ると──
(あれ、この人って)
その女性の顔を見直すと、橘さんに初めて会った日に彼に大声で呼びかけていた人だった。
(橘さんをストーカーしてる人……!)
あわあわとしていると、橘さんは落ち着いた様子で彼女を見下ろした。
「こんにちは。今日はどのような要件で?」
「要件……というか、お話を聞いてもらいたくて」
「あなたは今、私の顧客ではないですよね」
「冷たい言い方。去年まではあんなに熱心でいてくれたのに」
「……仕事に熱心になるのは当然です」
こめかみを軽く揉むと、彼は深く息を吐いて彼女を見下ろした。
「もう行っていいですか。次の仕事があるので」
「っ、なによ……お金を払わないと話も聞いてくれないっていうの」
(相手にしないほうがいいんだろうけど、橘さんの態度だと彼女を怒らせるばかりだよ)
私は真実を告げようと決意し、女性の前に立った。
「橘さんは今裁判を終えて疲れています。今日はお引き取り願えますか?」
「さっきから目障りね、あんた誰よ」
(ええと、ただの秘書なんだけど……私はストーカー対策としての役割もあるわけで……)
「橘さんの身の回りなどのお世話をさせていただいている者です」
「は?」
場に流れる緊張感を汲み取り、私は咄嗟に妙な言い回しをしてしまった。
私が言った言葉に、橘さんも驚いている。
(嘘は言ってないし、ここはいっそ勘違いしてもらったほうがいい)
予想通り女性は私を恋人と勘違いしたようで、目に怒りの火を灯らせた。
「いつから付き合ってるのよ?」
飛んでくる怒りのオーラに気持ちが怯みそうになるけれど、そこをグッと堪えて微笑みを崩さないように努める。
「橘のプライベートは公言しないことになっておりますので。お引き取りをお願いします」
「なんですって?」
(わあ、怒りが倍増してる!)
「失礼、もう時間がないので」
見かねた橘さんが、強引に私の手をとった。
「わ……」
よろける私の手をきつく握りしめ、女性を残したまま一緒に車に乗りこむ。
「事務所まで戻る」
「かしこまりました」
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