策士なエリート弁護士に身分差婚で娶られそうです

伊東悠香

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1巻

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 この事務所は広告を一切出しておらず、口コミのみで顧客を増やし……今や業界内で彼の名前を知らない人はいないのだとか。

(相当に優秀な方なんだ)

 総合的に優れすぎている弁護士であるため、高額な弁護士費用に文句を言う人はいないという。

「すごい方なんですね」
「ええ。一度スイッチが入ればあの方は無敵です。ですが、先ほど申し上げた通り気まぐれな性格でして……そこが唯一の問題点といいますか……」
「それでモチベーション、ですか」
「ええ」

 そんなすごい先生のやる気を私が維持できるとは思えない。
 でも、柴崎さんは書類選考の段階で、私にある程度それは望めると思ってくれていたみたいだ。

「貴方は共感する力がとても高いようですね」

 履歴書を出す時に一緒に提出するように言われていた性格テストやEQテストの結果を見ながら、柴崎さんが目を光らせる。

(そういう部分を見てるんだ)
「ええ、まあ。弟には気にしすぎ、お節介すぎって怒られることもあります」 

 大勢の人と関わろうとすると、たくさんの思考が読めてしまって疲れてしまったりもする。
 とはいえ人と接するのは嫌いではないから、週末はボランティア活動に参加したりすることもある。

「なるほど……やはり貴方で正解のようです。私どもはそのような方を求めていました」
「と、いいますと」
「他人の気持ちを理解できて、どこまでも人の役に立ちたいと思っているような方。そのような方でないと、第二秘書の仕事は務まらないということです」
(私、そんなにすごい人間じゃないんだけどな)
「私がお役に立てるのならば、嬉しいですが」
「採用になった際には期待してますよ」
「は、はい。それはもちろんお任せください!」
(なんたって破格のお給料だし。採用してもらえるなら、それに見合った仕事をしないとね)

 結構なプレッシャーをかけられた気がするけれど、弟のために仕事を得たいという熱意は変わらなかった。

「では、次は所長面接となりますが……」

 柴崎さんは私をチラリと見てから、腕時計に視線を落とした。

「お疲れになったでしょうから、中庭で少し休憩されては? うちの庭はちょっとした自慢ですし、今の時間は誰もいないのでゆっくり休めるでしょう」
「はい。そうさせていただきます」
(このまま所長面接だとキツいって思ってたから、嬉しいな)
「では……」

 私はそそくさとバッグを肩にかけると、ソファから立ち上がった。

「では、少し失礼します」
「十五分したら戻ってくださいね」
「かしこまりました」

 柴崎さんに丁寧にお辞儀をしてドアに向かうと、足がカクカクした。

(緊張しすぎて、体がガチガチだ)

 自慢というだけあって、フロアの真ん中がくり抜かれたようになった庭園には都会の喧騒けんそうを忘れられるような静けさがあった。

「法律事務所っていう堅いイメージが和らぐなあ」

 お洒落しゃれな白い木製ベンチに腰を下ろし、辺りを見まわした。
 どうも今日の面接は私だけなんじゃないかという気がしてくる。
 そう思うくらい、私一人にかけている時間が長い。

(ライバルがたくさんいるだろうなって覚悟してたから、ちょっと意外)
「さっきのヒアリング、すでに最終面接みたいな感じだったし……」

 なにを尋ねられたかノートに記録し終えると、私はふうと息を吐いて空を見上げた。
 雲が流れていく様子をぼうっと見ていると──

「いい天気だね」

 今まで誰もいない庭園だったのに、不意に男性の声がして視線を戻す。

「あ……っ」

 そこに立っている男性を見て、驚きで思わず声が出る。

(この人、面接に来る前に私をレストランに拉致した人!)
「また会ったね」

 すると彼は少し微笑んで、芝生を踏みながらこちらへ近づいてきた。

(この前はしっかり容姿まで見てなかったけど、結構若いよね)

 年齢は二十七、八くらいだろうか。 
 高級そうな仕立てのスーツがビシッと決まっていて、ジャケットの襟にはドラマなどでも見たことのある弁護士バッジをつけている。

(やっぱり弁護士さんだったんだ) 
「この前はありがとう」

 私の目の前まで来ると、彼は親しみのある笑顔を浮かべて言った。

「いえ、私はなにもしてないですから」
「いや、君のおかげだ。面倒な人につきまとわれて参ってたところだったから……ていうか、君、秘書に応募してきた人?」
「あ、はい。そうです」

 戸惑いながら言葉を返すと、彼は隣にストンと腰を下ろして私の顔を覗きこんだ。

「君、なにか不思議な女性だよね。周囲四十五センチ以内にいて、なんともない人って珍しい」
「四十五センチ、ですか」
「パーソナルスペース。相性が悪い人の場合、至近距離では拒絶反応が出るんだよ」

 言われてみるとほとんど知らない人なのに肩が触れそうなほど近い距離に違和感はない。

(先日唐突に肩を抱かれた時も、驚いたけど嫌じゃなかった。それに相変わらず声がいいし……この人の側にいられるなら耳福だなあ)

 そんなことを考えていると、彼は面白そうに口元を緩めた。 

「面接、どう? 通りそう?」

 覗きこんでいた顔をさらに近づけ、私を見上げてくる。
 その視線があまりに強いから、まともに見返せなくてドキドキしてきた。

「ええと……」
(この人距離感おかしいのかな。拒絶反応はないまでも、近すぎる気がするんだけど)

 声が好みな上に整った顔立ちが近くにあると、推しのアイドルにでも会ったかのようなソワソワ感が出てしまう。
 返事をどうしようか迷っていると、彼は構わず私のほうへ肩を寄せてきた。

「あの……?」
「そのペン、お気に入りなの?」
「へ?」

 指差されたのは、私が手にしているボールペンだった。
 頭に漫画キャラクターがコミカルにデフォルメされたマスコット『ニャンペン』が付いているやつだ。

「はい。シリーズで十種類あるんですけど、特にこのマスコットが大好きで」 
「へえ」
(子どもっぽいって思われたかな)

 彼は興味深げに私のボールペンについているマスコットを指でつつくと、ふと顔を上げて私を見た。

「君、自覚してないかもしれないけど、結構なラッキー体質だ」 
「? どういうことですか?」
「まず、面接前に俺と面識がある時点で相当なラッキー。その上、今日面接にまで進めているのは君だけなんだ」
「ええっ⁉」
「だからどんなラッキーガールなのかなと思って見に来たら、あの時の子だったからますます驚いたってわけ」

 募集をかけた時は、何百件ものエントリーが殺到したらしい。
 それを柴崎さんが猛スピードでチェックし、合格を出したのが私だけだったと──そういうことらしい。

(まさかと思ったけど、本当に私だけだったとは……!)
「数名は残るかと思ったんだけど、そうはならなかった」
「柴崎さんて、履歴書だけでどんな人かわかっちゃう人なんですか?」
「まあね」

 柴崎さんは顧客と弁護士をマッチングさせるのにもすごい能力を発揮するのだとか。

「相性を嗅ぎ分けるプロって感じかな」
「……そうなんですか」
(そんなプロがいるなんて、知らなかった)
「でも、所長がだめって言ったら合格にはならないですよね」
「そうだね。そうなったらまた一から募集のかけ直しだから大変だな」

 他人事のように言い、彼は突然自分の胸ポケットから万年筆を取り出して言った。

「出会った記念にそのマスコットペン、俺のこれと交換しない?」
「え?」

 差し出されているのは、いかにもブランドものの高そうなやつだ。
 とても数百円で買ったボールペンと釣り合う感じがしない。

「いえ、そんな高価そうなものと交換するようなものじゃないです」
(普通に文具屋に行けば三百円くらいで買えるものだし)

 万年筆を受け取らずに断ると、彼はうーんと考えたあとパッと目を見開いた。

「じゃあ君を本物のラッキーガールにしてあげる」
「は?」
「ここに勤めたいんじゃないの?」
「それはそうですけど。まだ所長面接が……」
「大丈夫、俺がその所長だから。三国芽唯めいさん、君は合格だ」

 彼はそう言って、あっという間に私からボールペンを奪ってベンチを立った。

「あ、あのっ」
(なに言ってるのよ。所長がこんな若い人なわけ……あれ、そういえば所長の年齢聞いてないな)
「じゃあまた明日」

 驚く私を残し、その人はスタスタと建物の中に戻ってしまった。

「それは間違いなくうちの橘です。どうやら、面接をするまでもなかったようですね」
(ああ……やっぱりそうか)

 戻った応接室で、あの人が間違いなく所長である橘公輝さんだと確認が取れてしまった。

「すごくお若い方だったので、事務所の弁護士さんかと思ってしまって」
(絶対あの態度、馴れ馴れしかったよね)
「橘は今年二八歳ですので実際若いですよ」
「とはいえ、所長さんには違いないです」
(絶対あの態度、馴れ馴れしかったよね)

 柴崎さんは真顔でそう答えると、スマートフォンに目を落とす。

「所長からメッセージが来ました。どうやら所長は三国様を気に入ったようです」
「そ、うなんですか?」
「ええ。採用決定です。おめでとうございます」
「っ、ありがとうございます」
(えー……あんな雑談だけでOKになるものなの?)

 だって仕事の能力とかを買ってくれた雰囲気じゃなかった。
 ラッキーガールとか言って、気まぐれに“合格ね”って言ったような気もするし。
 あっけない合格判定に戸惑っていると、柴崎さんは神妙な顔で付け加えた。

「これは今思いついた提案なのですが。もし三国さんさえ了承してくださるなら、橘のストーカー対策にも協力してもらえませんか」
「ストーカー対策!」

 これまた面倒……いや、大変な内容の仕事に驚く。

「橘を慕ってくれるのは嬉しいのですが、クライアントの中にはこちらが対処しきれないほどの方もおりまして……」
「ああ……」
(初対面の時に遭遇したあれ……五島さんが日常って言ってたもんね。大変そうだな)

 しつこい女性に絡まれると機嫌が悪くなる橘さんの集中力低下を避けるため、それとなく諦めてもらうよう私にも協力してほしいという。

「私にできますかね」
「貴方ならできそうだと感じております。ただ……一つだけ注意点が」
「なんでしょうか」
「橘とは一定の距離をとっていただきたいのです。これはプライベートな話になりますが、橘は由緒ある家柄の長男でして」

 最近では聞きなれない“家柄”という響きに、ピクリとなる。
 私はあまりそういう古い体質の話は好きじゃなくて、もう時代が違うのだからどんなに由緒ある家の子どもだって自由にやりたいことをやったほうがいいと思っている。
 でも、橘さんはそうも言い切れない事情を抱えているみたいだ。

「ご結婚をされて、早々に後継を……と、期待されているお方なのです」
「そうなんですね」
(びっくり。まだそういう家柄ってあるんだな……自分には縁がない話だなあ)

 驚きを通り越して、うっかり親しげな口も利いちゃいけないんじゃないかと緊張してしまう。

(まさか私が橘さんと変な関係になるんじゃないかって心配されてる?)
「でもそういう方なら許嫁いいなずけがいらっしゃるんじゃないですか?」
「いえ。候補者は時々ご紹介しているのですが、今のところ公輝様にご結婚の意思がなく……旦那様は頭を悩ませているようです」
「なるほど……」

 この問題は柴崎さんにとっても頭を痛める問題なのか、深刻そうに眉根を寄せた。
 橘さんの呼び名も普段呼び慣れているのであろう“公輝様”になっていて、私はすっかり柴崎さんの相談相手になってしまった。

「ご事情はわかりましたけど、私は身分もなにもない人間なので。必要以上に親しくなるつもりはないですから」

 真剣に仕事を探している私としては、軽く見られている感じがしてちょっと嫌な気分だ。

「私はここで一生懸命仕事をすることしか考えていませんので」

 念押しで言うと、柴崎さんもハッとした顔をして慌てて頭を下げた。

「不愉快にさせたのでしたら申し訳ありません。ですが私情のもつれが一番厄介なので」
「いえ、大丈夫です。柴崎さんのお言葉、しっかり肝に命じておきますね」

 私の真剣な言葉に安心したようで、柴崎さんは表情を和らげた。

「もしかして……と思ったのは、私の考えすぎのようです」
「もしかして、とは?」
「所長が自分から女性に近づくことは稀なので……いえ、私が勘ぐりすぎました」

 そう言ってから、彼は今後の仕事について一通り説明してくれた。
 一般的な事務作業はそれほど問題ない。
 最も大変なのは橘さんのやる気を維持させるという任務……私にも予測不能の仕事だ。
「この事務所にはあと二名の弁護士と事務員が一人在籍しております。明日以降でタイミングが合
 いましたら紹介いたします」

「わかりました」
(大変なのは覚悟の上だし……とにかく頑張ろう)

 そんなことを思いつつ、私は怒涛の面接を終えたのだった。



   第二章


 翌朝、早速事務所に初出勤した私は、すでにミーティングを済ませていた他の所員に挨拶をした。橘さんとは別のクライアントを抱える弁護士さん二名と、事務全般を担っている方を合わせて三名だ。

「三国芽唯です。法律関係の仕事は初めてなので、いろいろとご迷惑をおかけするかもしれませんがどうぞよろしくお願いします」
「タチバナ法律事務所へようこそ、金城かねしろです。事務所内でわからないことがあったら聞いてください」

 頭を下げると同時に、柴崎さんよりは若干若そうだけれどかなりベテランな雰囲気の弁護士さんが手を差し出した。

「はい。よろしくお願いします」

 挨拶の握手を交わすと、金城さんの隣に立っていた女性の弁護士さんも握手を求めてきた。

どうです。橘さんの相手は大変だと思うけど、頑張ってね」

 この方もベテランな雰囲気があって、笑顔にも余裕が見えた。
 三人がいる部屋のムードも全体的に落ち着いている。

(よかった、このメンバーならうまくやっていけそう)
「精一杯頑張ります!」
「ふふ、マイペースでいいと思うわよ。柴崎さんが認めた方なら間違いないでしょうから」
「ありがとうございます」

 皆さん優秀な方ばかりで、自分がこの事務所のメンバーになるのが不思議な気分だ。

「三国さんには、所長室の横にある控え室で仕事をしてもらいますので」
「はい」
「昨日もお伝えした通り、主な仕事は身の回りのお世話と所長のモチベーション維持ですので。くれぐれも口答えなどはなさらないように」
「わ、わかりました」

 所長室へ向かいながら、柴崎さんからこんな忠告をされてしまい、緊張感が高まる。

(あの癖の強い所長と一対一でやりとりするのか……できるかな)

 とは思うものの、これが高給の理由だと思うと納得しないわけにいかない。
 純也は少しずつ元気が戻り、プログラミングのバイトも順調らしく、かなり前向きな気持ちになってくれている。
 ここで私の頑張りがなくなったら、また借金に追われる生活に戻ってしまうかもしれない。

(すべてを代わってあげられるわけじゃないけど、純也にはとにかく心配事を減らして次のステップを踏めるようになってほしい)

 その一心で、私は覚悟を決め、所長室のドアをノックした。

「どうぞ」

 中の声に従ってドアを開けると、あの男性が立派ないわゆる社長椅子に座っていた。

(当たり前だけど、やっぱりあの人が所長の橘さんだったんだ)

 面接より前に会うなんて、確かに妙な縁があるものだなと自分でも思う。
 おかげで無事仕事を得るに至ったのは感謝すべきなのか……

「──という日程になっております」

 私がぼうっとしている間にも柴崎さんはテキパキと今日の予定を伝えた。

「新規のクライアントは?」
「本日は三件、面談の希望がございます。すべて午後に集中させましたので、午前は書類に集中できるかと」
「わかった」
「詳細は三国さんにメールでお渡ししますので、時間のご確認は彼女から聞いてくださいませ」
「そうするよ」
「では私はこれで」

 柴崎さんは深くお辞儀をすると、私の方へ向き直り軽く会釈した。

「三国さん、あとのことはお願いします。わからない点がありましたら遠慮なく私に尋ねてください」
「はい。ありがとうございます」

 柴崎さんは厳しい目を一旦私に向けると、音もなく所長室を出ていった。
 所長を丁重に扱えという圧を感じ、背筋が伸びる。
 やや怯みそうになる気持ちを立て直し、私は改めて所長にも挨拶した。

「三国です。本日から橘さんの秘書としてお仕事させていただきます。よろしくお願いいたします」
「よろしく。俺のことは橘でも公輝でも、呼びやすいようにどうぞ」
「わかりました」

 想像していた神経質な弁護士という印象とは違って、橘さんはどこか捉えどころのない不思議な優雅さを感じる人だ。
 凛々しい表情もするけれど、たまに見せる笑顔には上品なものが感じられる。

(家柄がいい人っていうのも頷ける)
「君、給料がいいからここに応募したんだって?」

 素敵な人だと思っていた矢先、鋭い質問が飛んできた。

「え、あ……はい。まあ」
「へえ、そんな金に目が眩んだ人間には見えなかったけど」

 どこかがっかりしたような響きがあったけれど、私はそれを否定することができない。

(実際、今私はどんなものよりお金が必要だ。自分のためではないんだけど……でもそんな事情をここで言うのも変だし)
「お金が好きな人間ではいけませんか」

 私の質問に彼は笑って手を軽く振った。

「別にだめとは言ってない。ただ意外だっただけだよ」

 言いながらカップのコーヒーを口にし、ふっと眉根を寄せた。

「駅前ショップのブレンド、今日は美味しくないな」
(朝はコーヒーが必須の方なのかな)

 彼はカップを机の横に退けると、様子を窺っていた私を見た。

「ごめん、アネモネで淹れてもらってきて」
「アネモネって、あのレストランですか」
「そう。少し離れてるけど確実に美味しいから。お願いできる?」 

 オーナーである五島さんのことはとても信頼しているらしく、豆も常に最高のものなのだと説明してくれた。

「わかりました、淹れてもらってきます」
「うん。あ、豆はコロンビアでって伝えて」
「はい!」
(よし、初仕事だ)

 こうして初仕事はコーヒーのテイクアウトということになったのだけれど、そのあとは、スケジュールの確認やら移動のための車を手配するやら。それなりに秘書っぽい仕事もこなしていた。

(順調だ。これくらいならなんとか仕事をこなしていけるかも)

 そう思っていた矢先、新規案件を相談に来たお客様へのお茶出しを頼まれた。
 なにやら深刻そうな様子の二人の女性だったけれど、温かい飲み物で心が和むならと紅茶を準備する。

「ええと、お湯は沸いたから……ティーバッグを……」

 慣れない給湯室の使い方にまごまごしていると、うっかり手が掠って皿を落としてしまった。
 ガシャーン!
 静かな空間に陶器の割れる音が響いた。
 お客様がいる部屋が隣だったため、おそらく相当に響いたに違いない。

「し、失礼しました!」

 すぐにお詫びの言葉を口にしたものの、そのお客様は憤慨ふんがいした様子で部屋を出てくる。

「話を続ける気持ちが削がれました。もう結構です」
(えっ)
「ご不快にさせてしまい、申し訳ありませんでした」

 引き留めるでもなく、橘さんはそう言って軽く頭を下げた。
 帰っていくお客様をフォローするように、柴崎さんがエレベーターのボタンを押してあげたりしている。

(これって……もしかして、大失態してしまった?)
「申し訳ございません」 
「謝ってもクライアントは戻らない」
「…………」

 お客様が帰ってから、私は所長室で橘さんと向かい合っていた。
 彼は腕を組み、冷静な表情で私を見下ろしている。

(早くもしでかしてしまった……)
「あの……私、秘書を辞めたほうがいいですか?」
「どうして」
「だって大切なお客様を逃してしまって。私にはどうすることもできないので」
「……君は自己犠牲的すぎるね」


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