蘭と蕾

伊東悠香

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2章

4話 噂(1)

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 お父さんには「マーくんのアパートに行きます」と、書き置きを残した。
 あとは学校に通うのに必要なものだけ持って、そのまま彼のアパートへと転がり込んだ。
 当然すぐに携帯に電話がかかってきて偉そうに怒ってたけど、私は黙ってそれを聞いただけ。
 すると、お父さんはヒートしてしまって…やっぱり自分の行動を棚に上げた事を言ってきた。

『蕾、聞いてるのか!?お前達…一緒に暮らすなんて、何考えてるんだ』
「……」
『正臣を出せ』
「嫌。お父さんはマーくんと話をする権利無いと思うし」
『何だと?蕾はまだ高校生なんだ、どうするんだ……変な噂でも立ったら』
 そこまで聞いて、私は可笑しくなった。
 私達をここまで追い詰めたのは誰なのよ。笑わせないでよ。
「自分は不倫してOKなのに、娘に変な噂がたつのは許せ無いんだ」
『なっ…』
「私の心配じゃなくて、自分の名誉の方がいつでも最優先なんだよね…もう誰もいない部屋でカップラーメン食べる生活に戻りたくないの。何言われたって戻らないから」
 お父さんに返事をさせないで、私はそのまま通話を切った。
 かなり冷静に話している私を、マーくんは黙って見ていた。あそこで電話を彼に変わってみても良かったけど、マーくんの心に波風をたてるのは極力避けたかった。
「父さん戻ってこいって?」
 冷静を装って、マーくんは途中で止めていた食器洗いを再開した。
「知らない女のいる家に戻れる訳ないじゃない。血の繋がりがあるからって、愛が枯れない訳でもないのに……お父さんは自惚れ過ぎてる。私がいつまでも言う事を聞く子供だと思ってるんだから」
 どんな言い訳をされても、私はお父さんを許す気持ちになれない。
 事故の時はマーくんを犠牲にしようとしたくせに、こういう展開になると突き離そうとする。 どこまで自己中心なのか。あの人は本当に年をとって性格が変わってしまった。私達が小さい頃は家族思いの、優しい人だったのに。
「蕾、俺はこれから起きるトラブルを耐える覚悟がある。ただ……それに蕾が耐えられるのか心配なんだ」
 トラブル……。
 確かにお父さんの事だけじゃなくて、私にダイレクトにかかってくるプレッシャーも色々ありそうな予感がする。でも、だからといって私が逃げられる場所なんかもうどこにも残っていない。
「泣きたい時があったら、マーくんの腕の中で泣かせてくれる?それを許してもらえるなら、私、これからどんなにつらい事があっても頑張るよ」
 何度か確認しあったお互いの心。
 それでも、まだまだ不安定さを抱えているのはしょうがない。二人で…乗り越えるしかない。
「いいよ、いつでも我慢しないで不安があれば吐き出して欲しいし。泣きたい時は遠慮なく泣けばいい。でも、俺といる事であまりにも蕾の苦痛が増えるようなら、別の道も考え無いと……」
 言いかけた言葉を私は遮った。
 今の私に、マーくんと離れる選択肢なんかどこにも無い。
「マーくんが私を嫌いにならない限り、一緒にいたい。お願い…一緒にいさせて」
「蕾……」
 私を腕の中に抱きいれて、マーくんは言葉を閉ざした。
 
 何もかも面倒な事だらけで、明日からの生活すら不安を予測させる。
 こんな不安の中で、たった一つだけ私を安らかにさせる場所。それがマーくんの腕の中だ。
 水上くんと一緒の時にも似たような安らぎを感じるけど、彼との交差点が一致しなかったから…私達は『恋人』という関係にはなりきれなかった。
 未来は見えない。
 でも、信じて進むしかない。

 ピピピッ ―――――。

 マーくんの携帯が鳴った。
 彼はその音を無視して、じっと私を抱きしめている。
 20秒ほど鳴った電話は、一度切れた。
「美咲さん?」
「多分」
 すると、もう一度携帯が鳴り、今度は玄関のチャイムも同時に鳴った。
「……駄目だ、窓の明かりでいるのがばれてる」 
マーくんは私をそっと腕から放して、携帯は無視したままインターフォンに出た。
「はい」
『正臣?中に…女入れたでしょ…誰なの』
 美咲さんの声は普通の若い女性のものだったけど、彼女はあえて冷静な声を演じているようだった。
「誰でもいいだろう?だいたい…婚約破棄ってほどの付き合いを、俺達はしてなかった。もう訴えるなり裁判するなり好きにすればいい」
 優しいマーくんの声が、いつもより低くなっている。
『顔だけ…顔を見るだけでいいの。ドアを開けて』
「駄目だ。こんなの繰り返しても意味が無いし、お互い幸せにはなれない」
 マーくんが何度か断りの言葉を続けているのに、美咲さんはそれに傷ついている様子は無い。
『意地悪ねー…いいわよ、ドアを開けてくれるまでここに座ってるから』
 そう言って、美咲さんの姿がカメラから消えた。
 恐らくそのまましゃがみ込んでしまったのだろう。

 インターフォンを切って、マーくんは少し考えている。ドアを開けて私の存在を知らせるべきなのか迷っているようだ。
「マーくん。どうせいつかバレるんだから、言ってしまった方がいいんじゃないかな」
 私がそう言っても、彼はすぐにウンとは言わなかった。
「正直に言って通じる人じゃない。次にどういう行動に出るか予想がつかないんだ」
「でも…こんな事毎日続けててもしょうがないよ」

 去っていく足音が一切聞こえないから、言葉通り美咲さんはドアの前にいるんだろう。
 10分ほど経過しても、その状態は変わらなかった。
 マーくんの携帯は2分間隔で着信音が鳴る。

 とうとう耐えられなくなり、マーくんはドアの鍵を開けた。

「正臣!やっぱり開けてくれると思ったわ」
 そう言って、嬉しそうに美咲さんは彼に抱きついた。
 あんなに迷惑がられているのに…全然理解していない。その光景を見て、私は背中がゾクッと寒くなるのを感じた。
「開けるように脅しかけてるからだろう?何で俺の言う事を聞いてくれないんだよ」
「だって…正臣は私の婚約者でしょ?ていうか……後ろの子供みたいなの…妹?」
 私が仁王立ちしているのに気付き、美咲さんは馬鹿にした目を向けてきた。
 子供…って。一応これでも立派に18歳になろうとしている女なんですけど!!
「美咲には関係無い」
「関係無くないよ。まさか、この義理の妹と暮らすとかいう展開じゃないでしょ?」
 私の事は義理の妹だと把握しているようで、彼が私に恋愛感情を持っているなんて微塵も思いつかないような顔をしている。
「だから美咲には関係ない。お願いだから、婚約に関しては本当に弁護士にでも相談して、手順を踏んで訴えてくれて構わないから…もう連絡をしないで欲しい」
 私の事はあえて説明せず、マーくんは必死で美咲さんを玄関で食い止めている。
 毎日こんなやりとりがあったのかと思うと、彼の心労も相当なものだっただろうと思った。

「……分かったわ。あなたに裏切られた私の傷の分…きっちり清算してもらうから」
「どういう意味だ?」
「さあ……。まあ、私とまた接触したい時は連絡ちょうだい。いつでも待ってるから」

 最後は意味のありそうな言葉を残し、美咲さんはようやく帰ってくれた。
 ドアの鍵とチェーンをかけて、マーくんはガクッとその場にうずくまった。

「マーくん、大丈夫?毎日あんな調子だったの?」
「ああ。警察沙汰にまではしたくないし、どうせなら本当に弁護士伝いに訴訟でもしてくれた方がいいと思ってるんだけど。美咲はまだ俺と婚約中だと言って聞かないんだよ」
 想像していた以上に怖い人のようだ。
 私もマーくんを世界一好きだから、諦めきれない気持ちは分かるけど…彼が苦痛を感じるほど拒絶しているのに認められないなんて、本気で彼を好きじゃ無い証拠だ。
 単に自分の思い通り相手が返答してくれないからヒステリーを起こしている状態に見える。

 無駄だと分かっていながら、私達はとりあえず引っ越しをする事にした。
 さらに、マーくんの携帯番号もイタチごっこにはなっても…とにかく変更しまくるしかない。

 こんな事になってしまい、最初に縁談をもちかけてしまったお母さんも事実を知ったらショックを受けるに違いない。それが分かっているから、マーくんはお母さんにはこの件は一切話して無いらしい。

「蕾にだって、出来れば話したくなかった」
 そう言うマーくんは、心なしか痩せてしまったように見える。こんな毎日では、大学での勉強も身が入らないだろう。
 私は自分は大丈夫だからと言って、なるべく彼が安心するように笑って見せた。

 その数日後からだ……学校で私の立場が微妙におかしくなりだした。
『ねえ…蕾って義理のお兄さんとデキてるらしいよ』
『蕾のお父さんって犯罪者なんでしょ?よく平気で高校に来られるよね』
『妊娠してるって本当なのかな』
 マーくんと暮らす事で、多少ひやかされるのは覚悟してたけど…ここまで悪質な噂になるとは予想もしてなかった。
「ざっけんな!お前ら証拠があって言ってんのかよ。人間歪んでると、そういう噂大好きになるらしいからな!!」
 コソコソ話をしている女子に向かって、水上くんが思いっきりデカい声でそんな事を言った。
「何よ……水上くんは、いつだって朝日奈さんばっかりひいきして。最近女子の間でも評判悪いよ」
 気の強そうな子が水上くんにそう言い返している。
 それを聞いて、彼は一瞬黙った後、ゲラゲラと笑った。
「くっだらねー…そういう狭い世界で生きてるから、陰湿な噂で盛り上がったりするんだよ。せっかくの青春なのになあ。もったいない過ごし方してるね」
「なによ!あんただって死んだ女の事くよくよ考えてんじゃないわよ!」
 どこで由美子さんの事を知ったのか…その子は、水上くんに言ってはいけない事を言った。
「もう一回言ってみろ。女に手はださねえけど、言葉でお前を殺すぐらい簡単なんだからな」
 恐ろしくドスのきいた声で、水上くんは別人のように鋭く目を光らせた。
 さすがにまずい事を言ったと思ったのか、その子達は「ごめん」と言ったきり走り去ってしまった。
「み…水上くん」
 私がおずおずと歩みより、彼に声をかけようとしたとたん、彼は私の方をキッと睨んだ。
「由美子の事……蕾が話したのか?」
「え、違うよ」
「だって、俺はあいつの事、蕾にしか言ってない。何であいつらが知ってるんだよ」
 誤解だ。私、誰にも由美子さんの事話したりしてない。
 でも、水上くんは完全に私が誰かに話をもらしたのだと思っている様子だ。
「見損なった……蕾、最低だよ」
 唯一の味方だった水上くんも去り、私は高校で一人きりになってしまった。
 友達って……何だろう。
 1年前に笑いあっていたクラスメイトや突然の転校生で親しくなった水上くん。皆、私の友達ではなかったのだろうか。

 私の心に、寒い隙間風が吹いた。
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